登戸の太子講 越川次郎


.凡例
1 「登戸の太子講」は調査に基づいて越川次郎が執筆したものである。
2 図版等の出処は次のとおりである。
    写真1〜5,7〜9 調査時に撮影したもの。
    写真6     清宮家から借用したもの。
    図      『稲田の民俗』(1985)より転載。
 

  ※越川次郎氏は現在中部大学人文学部教授

.1.太子信仰と太子講
  登戸は職人の町である。明治30年から明治40年頃の町並み図を見ると、壁を塗る左官を中心として大工や建具師などが多いことがうかがえる(図)。登戸八幡神社本殿には、登戸の左官たちの手による、江戸時代の見事な漆喰(しっくい)細工が現在ものこされている(写真1)1。このような職人たちは一般に、聖徳太子を信仰し「太子講」を組織して活動していることが知られている。聖徳太子は、仏教を篤く信仰し、現存する世界最古の木造建築物である法隆寺の建立を発願している。建築にかかわる職人たちは、聖徳太子を日本の木造建築をはじめた人物であるとして、信仰するようになったと言われている。
 太子講の多くは、正月から春にかけて集まり、聖徳太子の掛軸の前で祭りをした。また、この祭りの時には、賃金の協定やさまざまな申し合わせなどもおこなっていた(『日本民俗大辞典』吉川弘文館2000年)。
 もちろん、職人の町である登戸にも太子講があり、現在も活動している。大工の家である清宮家もこの講に加わっている。

.2. 登戸の太子講の歴史
 登戸の職人は、特に土蔵造りや家の壁造りで、近世の江戸でも評判であったらしい。彼らは、江戸時代の中期に太子講を結成したという。大正10年(1921)の太子千三百年紀念には、太子講で神代神楽を奉納している(川崎市民俗文化財緊急調査団編 1985 『稲田の民俗—菅・中野島・登戸・宿河原・堰—』川崎市教育委員会、P.100)。第二次世界大戦前の講員は30名位であったが、在来の大工・左官・屋根屋・鳶・畳屋・ブリキ屋・表具師・石屋の他に、塗装・板金・水道・電気・鉄骨等の業者が加わり、講員が120を越している時期もあった(前出『稲田の民俗』、P.100)。日当については、屋根職は危険手当をつける、鳶は大工の何%にする等と、太子講の役員が提案し、協定して決めていた(前出『稲田の民俗』、P.100)。最近は、仕事は請負で、その金額の中で職方を頼んでいるから、賃金の協定には太子講はタッチしていない。太子講の主な仕事は、情報交換や講員の慶弔などになっている。

.3.登戸太子講組合の組織
 登戸の太子講は、現在は登戸太子講組合という名称で活動している。登戸太子講組合は、登戸・中野島・宿河原・堰・長尾に居住する建築業者によって組織されている(表1)。具体的には、建設業・大工・建築業・建具職・鳶・塗装業・建築板金・サッシ・材木小売・畳職・タイル工事・左官・電気工事業・造園業・表具、内装業・屋根工事全般・鉄鋼業・鉄工業・防水工事業・石材・住設・管工事・土建業・土木、外柵工事などで、現在は建築関係職全般にわたっている。
 組織は、組合員のほか役員として講長1名、副講長若干名、庶務2名、理事若干名、監事2名、会計2名が配置される。必要に応じて、顧問や相談役が置かれることもある。
 講長については、太子講の記録によると、大正13年(1924)の吉沢光信氏を初代講長としている。現在の古谷吉郎氏で17代目になる(表2)。
 また、講は地域別に14組に分かれており、それぞれの組に幹事(役員)がいる。正月や慰霊祭に出席した組の幹事は、出席しなかった組の人の分のお札やお饅頭を持っていって配る。
 以前は太子講婦人部もあり、行事の時に太子堂を清掃して、祭事に供えたという。

.4.太子堂
 光明院の境内の一角に2、太子堂という聖徳太子を祀るお堂がある(写真2)。これは、文化年間(1804〜1817)に、太子講によって建立されたものである。明治になってから草屋根をトタン葺に替え、昭和56年(1981)に境内の東側から西側の現在の場所に移転新築された(前出『稲田の民俗』、P.100)。
 太子堂には聖徳太子の木像が安置され(写真3)、聖徳太子の掛軸が保管されている(写真4)。また、壁面には歴代の講長の写真が掲げられ、「聖徳太子」という文字のある大きな赤提灯がさがっている。外側、向かって右の軒下には、「昭和四十五年十月吉日」とある「太子堂納額」がかかっている(写真5)。

.5.太子祭
 主な行事は、1月22日の太子祭と旅行会、9月22日の慰霊祭である。22日に開かれるのは、この日が聖徳太子の命日とされているからである3。
 1月22日に光明院の太子堂に集まり、聖徳太子の像にお供物や生花を供える(9月の慰霊祭の時はしない)。果物・お神酒・聖徳太子のお札が準備されて積み上がって置かれる。その下に、お盛り物(ウチガシのようなもの)が、三方にいかないぐらい載る。線香をあげて光明院の住職が読経をする。交通安全をはじめ、すべての1年間の無事を祈願する。その後お札が配られ、聖徳太子の掛軸の入った箱を持って柏屋4へ行く。聖徳太子の掛軸は、金屏風の前にかけた。太子祭に参加した人は、そのまま柏屋へ行って直会(なおらい)5をする。以前は、表具士のある人が(専門の人なので)掛軸の出し入れをし、持ち運びした。今は、庶務の人がそれをおこなっている。聖徳太子の前にホウガ(奉賀)帳(人々がお金を出しているのを記録している一覧表)を広げて、(ホウガ帳は3.5〜4メートルくらい)その前にお膳をかけて、それに盛り物を入れて、生花をつける。
 太子祭の直会のときは、お供え餅を供える。三条玉(下が8寸、上が6寸)で、一番上にみかん、下はシデの葉っぱをさげる。
 10年くらい前からは、掛軸ではなく、新しい木彫りの像を出している6。木彫りの像の前には、掛軸のときと同様にホウガ帳を並べて、お膳をつけて、食事をする。光明院の住職も直会には出席し、講長の隣に座る。この時は別に読経はしない。

.6.旅行会
 昭和38年(1963)から、1月22日の太子祭に合わせて、旅行会をおこなっている(写真6)。熱海、熱川、伊東、網代などの伊豆方面と、箱根、湯河原方面の温泉に行く。昭和38年がはじめてで、このときは網代(静岡県熱海市)に行った。旅行会のときも最初に光明院でお経をあげる。その後、多摩区役所のあたりに集合して、チャーターしたバスに乗って行った。参加者は講員のみであるが、講員だけでも約80名と大勢いた。ある年の旅行会では、大雪が降ったので長靴で行ったこともある。
 旅行会にも、聖徳太子の掛軸を持っていった。掛軸を床の間にかけて、お膳をひいて、お膳一人分を供える(人と同じもの)。このときは、お経をあげたりはしない。
 総会では、年間の年次(事後)報告、会計報告をおこない、来年度はどうするのか(予算など)を決める。かつては、総会の席上で、賃金を決めた。そのようなことをしていたのは、明治の初め頃である。現講長の古谷吉郎さんの記憶では、自分が出席した総会で手間賃を決めたことはないという。
 総会を1時間おこない、その後に、約1時間、「空間」(休憩)を取る。このときに温泉に入る。そして、その後懇親会をおこなう(たとえば、4時から5時まで総会。6時から懇親会という形になる)。
 三条玉のお供えは、旅行会のときも持っていく。お供えの餅は餅屋さんにお願いしておいて、現場へ直行する。お膳をつけた聖徳太子の掛軸の前に、お供え物を据える。そこで講長をはじめ、挨拶があって、挨拶の後に乾杯し、飲み食いする。最後にお供えを下げてもらって、下げてもらったお餅を調理場でさいの目に切ってもらって、それをお雑煮として、全員のお椀につけてもらって、全員の口に入れてもらう。これは今でも同じようにおこなっている。
 昭和41年(1966)は熱川温泉(静岡県賀茂郡東伊豆町)へ行った。昭和48年(1973)だけ奈良の法隆寺や長谷寺へ行った。これは、太子講であるので聖徳太子ゆかりの法隆寺に本山参りしようということで行ったという。
 ちなみに、2,3年前か3,4年前くらいから、講員が「丸山さん」の仕事をさせてもらった関係で、丸山教の人も太子祭に出席している。丸山教の記念のお祭りの時に講員がお手伝いをした。旗を立てる仕事や、遊園の駅前から区役所ぐらいまでの電線張りなど、祭りの飾り付けをした。

.7.太子講慰霊祭
 慰霊祭は、毎年9月22日に光明院の太子堂で営まれる。一年間の物故者を慰霊する行事である。今年(2005年)も同様で、22名の講員が参加した。次にその時の様子を簡単に記しておきたい。
  太子堂横の慰霊碑前に祭壇が置かれ、周囲に水色の横断幕が張られる(写真7)。横断幕は、その年に物故者がいない場合は張らないとのこと。10時前に、講長が講員の前で挨拶をするとともに、本日の予定を話す。10時になると光明院の住職・副住職が来て、慰霊祭が始まる。講員は慰霊碑前に参列し、光明院住職の読経が始まる。住職の読経の間、参列者は一人ずつ焼香をあげる(写真8)。読経終了後、その場で11時に柏屋で直会の旨が伝えられ、解散となる。お供物で必ず供えるものとしては青白まんじゅうがある。中野島にある「ほし乃」という和菓子店に青白まんじゅうを注文してお供えする。同じものを、講員にも配る。
 なお、太子堂横の慰霊碑については、元木吉次さんが講長をやっている頃(昭和41年~45年)、講員で亡くなられた方の慰霊碑を作って、慰霊したらどうかという提案があった。そこでみんなでお金を出し合い、地元で講員でもある吉沢石材に依頼して作ったという。慰霊碑には、物故者の氏名が刻まれている。この慰霊碑を作ってから慰霊祭が盛大になったという。物故者の供養のため、光明院の住職には日ごろから拝んでもらっているとのことである。

.8.お札について
 1月22日の太子講祭の時に、光明院から出されるお札について述べておきたい。
 住職のお経があがった後にお札が出る。講員全員分だけお札を作ってくれるので、講員には全部行きわたるようになっている。なお、太子祭にお祝いを持ってきたくれた人にもお札を渡している。(写真9)
 太子講のときのお札は紙のお札で、一年間、各家の神棚の脇のお札を貼る台に入れて飾っておいて、手を合わせる。翌年、古いお札はサイノカミ7のときにおたぎ上げしてもいい。川崎大師におこなって(川崎大師が川崎の太子講の元締めなので)、そこに納めてもいいし、他の神社でも構わない。
 川崎大師と同じように、お札を煙にかざして拝むのであるが、以前はお札が大きくて、煙にかざしたときにまくれてしまう。そこで、光明院の提案で現在の大きさになった。それは、10年以上前くらいのことである。ちなみにお札に書かれている文字などは、以前と同じ。
 お札は、光明院での前段が終わった時点で、帰りに各役員さんに渡してしまう。みんな一旦引き上げて、直会のためにふたたび集まってくる。旅行会のときは、外(旅行先)で配布する。お札をもらった人各役員は、後で自分の班の人に「お札だよ」という感じで配っている。
 清宮家では、床の間に小さな机が置いてあり、その上にタイシサマの札入(木製の小さな神棚)があった。その中に、太子講で毎年もらう聖徳太子のお札が入っていた。それは、仲次郎氏が大工をはじめてからのことであるという。

.9.その他の太子講
 この地域には、登戸以外にも宿河原・中野島・菅・生田などに太子講がある。中野島や菅には太子講の石の祠がある。また、中野島稲荷神社には太子堂もある。
 また、川崎市建設業協会でも太子講祭が開かれる。毎年9月22日に行われるが、役所の人や議員なども来るため、22日にならないこともある。ちなみに今年(平成17年)は9月27日に行われている。清宮家では、光明院の太子祭には昭二氏が出席するが、こちらの太子講祭には息子の勝明氏が出ている。当日、太子講祭の会場に聖徳太子が祀られる。そこにお金を持っておこなって御神酒をあげ、各自がお参りをする。自由参加の形にはなっているが、出席した人はほとんどやっている。これを「太子開講」という。引き続き懇親会があるが、料理などはなく、乾き物のおつまみがでる。

<謝辞>
 本稿を完成させるにあたり、清宮家の方々および、講長の古谷吉郎さんをはじめ登戸太子講組合の方々には、お忙しい中貴重なお話を多く頂きました。ここにあらためまして、深く御礼申し上げます。

.注
1 ちなみに、かつて昭和32年頃まで登戸を流れる多摩川には渡船場があったという。登戸側の船頭は、登戸の左官が交代でつとめていた。
2 光明院(川崎市多摩区登戸1253)は、真言宗豊山派の寺院で、大日如来を本尊とする。『新編武蔵國風土記稿』には、「眞言宗新義都筑郡王襌寺の末、稲荷山と號す、開山源空永祿九年正月十二日寂せり、開基河野三左衞門通良、元祿二年九月十八日死すといへば、通良は中興開基なるべし、この外のことは往古二度まで丙丁の災にかかりて古記を失ひしかば、詳なることを傳へず」とある。
3 以前に講員の間で「1月22日は聖徳太子の何なの」という話が持ち上がった。たまたま五木寛之が、聖徳太子のことをテレビでやっていたのを見た。その中で、旧暦2月22日が聖徳太子の命日といっており、命日だから供養するということがわかったという。2月は旧暦なので今は1月でする。
4 柏屋(川崎市多摩区登戸2466)は、江戸時代創業の旅館で、現在は料理店として営業している。明治の終わりから、なまず料理で有名になった(川崎市編 1991 『川崎市史』別編民俗、267〜268)。
5 祭りに参加した人たちが供物をさげて食べる宴(前出『日本民俗大辞典』)。
6 木彫りの聖徳太子像の入れ物は、像が出来たのでそれを格納するのに作った。「講長が責任もってやることにすんべや」と言われて、「じゃあ、そうすべや」ということになり、講長ほか3人で出し入れなどすべてにおいて管理することになった。そのときに、汚い手で触るな、手袋をしろということで、出し入れは必ず手袋をすることにしているという。
7 サイノカミ(セイノカミ)については、14~15頁を参照のこと。

.図版キャプション
<写真キャプション>
写真1 登戸稲荷神社 本殿漆喰細工
写真2 太子堂(光明院)
写真3 聖徳太子木像
写真4 聖徳太子掛軸
写真5 太子堂納額
写真6 太子講旅行会(昭和41年)
写真7 太子講慰霊碑(光明院境内)
写真8 太子講慰霊祭
写真9 太子祭お札

<図キャプション>
図 明治30〜40年頃の登戸(津久井街道沿い)
川崎市民俗文化財緊急調査団編 1985 『稲田の民俗—菅・中野島・登戸・宿河原・堰—』川崎市教育委員会より転載

<表キャプション>
表1 登戸太子講組合員の所属地域
表2 登戸太子講組合歴代講長

 

(『日本民家園収蔵品目録5 旧清宮家住宅』2006 所収)