富山県南砺市上平細島 江向家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が富山県南砺市上平細島(なんとしかみたいらほそじま)の江向(えむかい)家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は平成25(2013)年5月8日に行った。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話を聞かせていただいた方は次の通りである。
  江向耕一郎さん 江向家現当主 昭和22(1947)年生
  江向節子さん  現当主妻   昭和22(1947)年生
 お二人は現在京都市西京区にお住まいであり、聞き取りも同所で行った。なお、節子さんは耕一郎さんの幼なじみである。近所で生まれ育ち、幼いころから江向家に出入りしていたことから、一緒にお話を聞かせていただいた。
 この他、本文中にくりかえしお名前の出てくる方を記しておく。
  江向幸次郎さん 現当主父   大正10(1921)年生 平成13(2001)年没
  江向すな子さん 現当主母   大正15(1926)年生 平成24(2012)年没
  江向重一さん  現当主伯父  明治20(1887)年生 昭和14(1939)年没
  江向勇三さん  現当主祖父            昭和 8(1933)年没
  江向せつさん  現当主祖母            昭和30(1955)年没
  江向まちさん  現当主曽祖母           昭和30(1955)年没
 なお聞き取りの他、移築前に撮影された記録写真も補助資料として活用した。
3 現地の言葉・言い回しについては、片仮名表記またはかっこ書きにするなど、できる限り記録することに努めた。
 片仮名表記としたのは、次のうち聞き取り調査で聞くことのできた語句である。
  建築に関する用語(部屋・付属屋・工法・部材・材料等の名称)
  民俗に関する用語(民具・行事習慣・屋号等の名称)
4 図版の出所等は次の通りである。
 1、14     小澤作成。
 2             平成25(2013)年5月8日、渋谷撮影。
 3             フリー素材を使用。
 4、5         平成24(2012)年11月10日、畑山撮影。
 6、7、19  昭和40(1965)年10月12日、大岡實氏撮影。
 8、9、17、22、23、29、32    昭和40(1965)年10月12日、古江亮仁氏撮影。
 10、11、12、15、16、18、20、21、24、25、26、27、28、30
               昭和42(1967)年10-11月頃、当園撮影。
 13            『重要文化財 旧江向家住宅移築修理工事報告書』より転載。
 31            豊田作成。
 33            江向耕一郎氏の図を元に渋谷作成。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれていることがある。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 五箇山とは、富山県南西端にある南砺市の旧平村・上平村・利賀村を合わせた地域を指す言葉である。国の重要文化財に指定された合掌造り・旧江向家住宅は、このうち上平村の細島地区にあった。庄川に沿って伸びる集落で元は21軒あったが、過疎化が進行し、現在は戸数も減っている。
 江向家現当主耕一郎さんは昭和22(1947)年生まれである。村外の高校に通ったため家を離れたが、中学卒業まで合掌造りの住宅で暮らしてこられた。ここではこの耕一郎さんからの聞き取りを元に、同じ村で生まれ育ち、幼いころから江向家に出入りなさった奥様の話も参考にして江向家の暮らしについて記述していくことにする。したがって時代的には、昭和20年代から30年代の事柄が中心である。なお、土地の言葉では集落のことを「ムラ」という。この稿では以下、細島地区のことを「ムラ」と記すことにする。

.1 江向家
... 家紋・屋号
 家紋は「丸に蔦」である(図版3)。葬式のときなどに着るかみしもには家紋が付けられていた。
 屋号はなかった。「江向」という家は周辺には他になく、耕一郎さんの知る範囲では、楮(こうず、旧上平村楮)に1軒あるだけだという(親戚ではない)(注1)。

... 家族
 移築時の当主幸次郎さんは耕一郎さんの父である。幸次郎さんには重一さんという兄がいたが、戦死したため家を継ぐことになった。
 上平村では当主と長男は特別扱いであり、大切にされる。長男のことは「ボン」といい、耕一郎さんは「江向のボン」と呼ばれていた。
 耕一郎さんが子どものころ、家族は8人だった。トウチャン・カアチャンと呼んでいた両親(幸次郎さんとすな子さん)、カーカと呼んでいた父方の祖母(せつさん)、ババまたはオオババと呼んでいた曽祖母(まちさん)、父親の妹である叔母(たみさん)、それから下に妹が2人いた。たみさんは耕一郎さんが物心ついたころには嫁に行っていたが、よく女の子2人を連れ表の池で洗濯をしていた。
 耕一郎さんは中学卒業とともに「ヤマを下り」、下宿してサトの高校に通った。「ヤマ」とは五箇山のこと、「サト」とは麓の町のことである。土日や夏休みには帰ったが、バスで1時間半ほどかかった。高校卒業後は京都に出た。五箇山では東京より関西に出る人の方が多く、出稼ぎ先も関西が中心である。大阪には幸次郎さんの妻の兄弟の他、知り合いもいたため、耕一郎さんが結婚するころには幸次郎さん夫妻も大阪に出てきていた。したがって現在、五箇山に江向家はない。耕一郎さんは今もお盆や法事には里帰りしているが、その際は妻の節子さんの実家に泊まっている。

.2 衣食住
..(1)住
... 概況
 昭和20年代半ばごろから主屋を建て替える家が増えていった。大きな家から始まり、次第に瓦屋根になっていった。
 細島にはいなかったが、旧上平村にも大工はいた。家を建てることに決め大工を頼むと、山の木を切り出すことから始める。切ったものを乾燥させ、それから削る仕事に入るため、頼んでから実際に建て始めるまで2年か3年はかかった。節子さんの実家で建て替えたときは、大工が3人来て延々やっていたという。

... 敷地
 江向家の南には国道156号線が通り、北には100mほど離れて庄川(しょうがわ)が流れていた。
 敷地は垣や植え込みなどで囲われてはおらず、道路から入る場所にも門などはなかった。付属屋は少なく、主屋の北東にクラが建っていたのみである(注2)。植木も多くなかったが、東側に杉、北東側便所の前に渋柿があった。この杉は何かの行事の折、耕一郎さんが記念に植えたものである。
 この他人工物としては、電柱が主屋の東に、テレビのアンテナが北東に立っていた。江向家の敷地に接して南東側には四角い石積みがあり、戦没者の慰霊碑が立っていた(図版6)。
 耕地としては、主屋の北に畑、東に田と畑が広がっていた。
 現在、主屋のあった場所には上平郵便局が建っている(図版5)。

... 水利
....[用水]
 主屋の南、敷地と道の境に細い用水路があった。この水は山の清水で、古くは家ごとにここから直接竹筒で水を引いていた。水は一日中流しっぱなしである。竹筒のころはメージャ(水屋)の水舟に直接流れ込むようになっていたが、その後金属管になり、少し高い位置から水を落とし入れるようにした。あふれた水は水路に入り、主屋の外側をまわって東側の池に流れ込む。入口のそばには、この水路に木の板が渡してあった。
 その後ムラで、清水を貯めるコンクリート製の貯水槽を作った。場所は主屋の南西方向である。ここから道に沿って太い鉄パイプを敷設し、ここから各家で水を引くようになった。

....[池]
 主屋東の軒先に池があった(図版10)。『重要文化財旧江向家住宅移築修理工事報告書』にはこうした池が地域で「こうぞ池」と呼ばれ、和紙の原料であるコウゾをさらしたりするのに使用されたと記されている(注3)。しかし現在、名称についても使用法についても江向家でこのような伝承は残されていない。
 昭和20年代にはこの池は洗濯場になっていた。近所の人々も利用し、子どもや孫ができるとオムツを持ってきて、池から水路に流れ落ちる一番川下のところで洗っていた。
 池の手前、ニワ入口前の水路は野菜を洗う場所でもあった。水路をせき止めて水を貯め、「コイデ(引き抜いて)」きたダイコンを並べてたわしで土を落とすのである。手袋などない時代であり、冬はつらい作業だった。
 この他、子どもたちは捕ってきた魚を放して遊んだりした。

... 屋根
....[葺き替え]
 屋根の葺き替えは秋、刈り入れが終わり、雪の降り出す前に行う。この時期を過ぎると出稼ぎに出てしまうため、ムラでは人手がなくなるからである。春は雪が残っている上、田植えなど農作業が忙しくなるため、葺き替えることはなかった。
 葺き替えは1回で終えるのではなく、「今年はここ、3、4年したら次はここ」というように短冊状に替えていった。1回に葺き替えるのは片側の半分程度である。4回ほどで一巡させたが、ひとまわりするころには最初の部分が傷みはじめ、少しずり落ちたりしていた。
 作業はムラ総出で行い、屋根葺き職人を呼ぶことはしなかった。こうした折、ムラには必ず取り仕切る人がいた。実際に葺く作業は手慣れた人たちがやったが、子どもたちもカヤを運んだり、嫁たちもそれを上に差し出したり、皆作業を手伝った。縄を差し込む木製の針など、道具類はムラで共有のものを保管していた。
 江向家でも昭和20年代にはまだ葺き替えをしていた。しかし、高校へ行った耕一郎さんが村に帰らないことになり、それなら葺き替えても仕方ないということで、傷んでもそのまま放っておいた。そのため、移築前の昭和40(1965)年ころには屋根はほとんど駄目になっていた。

....[修理]
 屋根は傷むと垂れてくる。垂れてくるということは、縄が腐るなど葺き替え時期が来ているということである。そのためあえて修理することは少なかったが、部分的に傷むと手を入れることもあった。
 葺き替えは何度かに分けて行うため、新しく葺き替えた場所と以前葺き替えた場所との境には日が経つとどうしても隙間ができる。放っておくとこのような場所には雨水が入ってしまうため、瓦のように板を差し込んでいった(図版11)。使用したのは木の板で、鉄板を使うことなかった。

....[カヤ]
 屋根材に使用したのはススキで、これを「カヤ」「オオカヤ」といった。屋根の下地部分には「スノコ」と呼ばれるよしずのようなものを敷き込むが、この材料もオオカヤである。
 江向家では持ち山の一角にカヤバがあった。山のある家ではこのようにカヤバを確保していたが、分家の家は山がなかったためそれができなかった。
 カヤの刈り取りや運搬は大人の仕事であり、子どもが手伝いに行くことはなかった。刈り取ったカヤを下ろすときは「ニノゴモ」と呼ばれる背当てを使う。ここにカヤを横にしてくくりつけるのだが、長さが1m80cmほどもあるため、細い山道を下ろすのは大変な仕事だった。
 刈り取ったカヤは蓄えておいたが、それでも屋根を1回で葺き替えるには足りなかった。

....[その他]
 屋根の部材同士の結束にはネタを使い、縄は使用しなかった(注4)。「ネタ(根太)」とは木の枝を柔らかくしたもので、使用するのはクリかナラである。切り落とした枝の片方を足で踏み、もう片方を手に持ってぐるぐるねじっていく。こうすると皮だけが残り、非常に柔らかくなる。これを使って部材と部材とを縛っていくのである。ネタを作るのは大人の仕事だった。
 屋根の両側に突き出している部材を「ミズハリ」という。この部材に「クツワフジ(轡藤)」を掛け、棟を締めた。

... 壁
 壁は板壁である。しかし、西側一階部分および北側ネドコ部分の外壁にはコワが張ってあった。「コワ」とは杉の皮のことである。山から採り集めるもので、一度張るとかなり長持ちした。
 西側の壁にははしごや丸太、角材、束ねたカヤやソダなどが立てかけてあった。

... 雪対策
....[雪囲い]
 雪の来る前に雪囲いをした。まず、軒周りに丸太の柱を2mほどの間隔で立てていく。柱の上端はカヤと部材とのあいだに差し込むようにする。この柱に横桟を上下2列に取り付ける。横桟に使うのも竹ではなく丸太である。この上によしず状のものをころころと広げていき、ぐるっと家を囲う。このよしず状のものを「スノコ」という。屋根の下地に使用するものと同じで、材料はオオカヤ(ススキ)である。これを止めるときは内側に1人が入り、外からもう1人が差し込んだ縄を受け取り、横桟にからげて外側に回すという作業をくりかえす。幸次郎さんは毎年、この雪囲いを終えてから出稼ぎに行った。
 雪囲いが外れるのは4月である。柱は取り外し、オマエなどの床下に入れた。スノコも使い捨てではなく、収納して翌年も使った。

....[出入口]
 入口の前に雪が積もると、雪を掘って段を付ける。雪が降るたびにこれをくりかえすと階段ができる。外に出るときは雪の階段を上がっていくわけである。軒まで積もると距離的には2階の窓の方が近かったが、そこから出入りすることはなかった。

....[雪下ろし]
 昔はよく雪が降り、一晩に1m積もることも少なくなかった。屋根の雪を「ヤネユキ」という。2週間に一度は雪下ろしをしなければならなかったので、ひと冬に何度もやることになった。
 雪は少ないときはずり落ちて消えていくが、真冬になると軒下まで積もる。雪下ろしをするときはまず、周囲の積もったところから屋根に上がる。はしごなどは不要である。そして、カンジキを履いて道を付けながら屋根を斜めに登り、オオヤネまで上る。「オオヤネ」とは棟のことである。そして「コーシキ」と呼ばれる羽子板型の木製スコップを使い、雪を割っては落としていった。しかし、こうした作業をしても斜面には雪が残る。この部分はオオヤネから下りながら「ゴソゴソ」とこそぎ落としていった。
 雪下ろしは一日では終わらない。翌日、今度は下ろした雪を始末しなければならなかった。そのままでは家が埋まった状態なので、軒の周囲を開けるため、下ろした雪を今度は上に放り投げていくのである。この作業にもコーシキを使うが、非常に大変だった。
 こうした作業は女性や子どもの仕事だった。男たちは出稼ぎに行って留守だからである。江向家では、下ろした雪の始末は耕一郎さんもやったが、屋根の上の作業はすな子さんがやっていた。

....[融雪池]
 冬になると、主屋の南側、道にはさまれた三角の土地いっぱいに融雪池を作った。少しの雪ならここに入れて始末することができた。

... 入口
 入口は東側に2カ所あった(図版12)。いずれも鍵はなく、いつでも開いた。
 向かって右、北側が主な入口で「オード(「オ」にアクセント)」といった。オードは一日中開け放しで、閉めるのは寝るときだけである。「オードを閉めてこい」と言われることがあったが、子どもには重い戸だった。家族はこのオードから入り、踏み石を踏んでオエに上がった。一方、向かって左、南側はニワの入口である。この入口は普段閉めてあった。
 なお、南側には縁側があったが、通常ここから出入りすることはなかった。

... 通路
 オードを入ると土間である。土間は東西方向に設けられた板壁で2つに仕切られており、南側はニワと呼んだが、北側は通路であり特に呼び方はなかった。
 この通路を入ってすぐ右手はわら置き場になっていた。その隣はウマヤで、馬が顔を出したりすると恐ろしく、子どもは壁にへばりついて歩いたという。

... ウマヤ
 馬小屋のことを「ウマヤ」といった。どこの家にもあり、馬や牛を飼っていたため家に入ると皆臭かった。
 入口には柵として丸太が2本取り付けてあった。足元手前は四角く掘り込んで縁を石で固め、掘り込みをまたぐように斜めに板が渡してあった(図版15)。これはエサ置き場であり、大きなおけをここに置いてエサを与えていた。ウマヤの中は深く掘り下げてあり、馬に踏ませて肥料にするためカヤが敷いてあった。北側には窓があった。
 なお、ウマヤの上は物置になっており、わらや細い板などが置いてあった。手前にはハシゴが掛けてあった。

... ミソベヤ
 ウマヤとオエのあいだに小部屋があり、「ミソベヤ」と呼んでいた。民家園では現在土間側から入る形で復原しているが、移築前は土間側は板壁になっており、オエから出入りするようになっていた。北側に窓があり、移築前は引き違いの障子が入っていた。
 この部屋には大きなみそだるが2つくらいと漬物おけが置いてあった。米を置くことはなかった。

... ニワ
 オードを入って左手、南側の土間を「ニワ」といった。
 ニワはさまざまな作業に使われた。北側の壁近くにはわら打ち石が埋めてあり(図版16)、縄を編むため冬になるとここでわら打ちをした。紙すきの作業は出入口近くにすき舟を置いて行った。出入口のすぐ右手、壁の手前には養蚕用のカマドがあり、ここで糸取りの作業を行った。正月の餅もこのニワの中央でついた。
 またフロやメージャもこの場所にあった。南西寄りには古くは炊飯用のカマドもあり、できあがったものをオエに運んでいた。南東側の隅にはみそおけも置いてあった。
 なお、昭和40(1965)年の記録写真には、北側の壁の手前に材木が山のように積まれているのが写っている。これは、建物を造ろうとして一時集めていたものである。

... メージャ(水屋)
 ニワの一角に水場があり、ここを「メージャ(水屋)」といった(36頁参照)。
 水舟は縦63cm×横91cmの石製である(9頁参照)。どの家にあるのも同じような大きなものだった。
 この水舟の前にはガラス窓があった(図版18)。江向家唯一のガラス窓で、隙間は障子紙でふさいであった。
 以下、昭和40(1965)年の記録写真を元に周囲の様子を記しておく(図版17)。水舟の上には裸電球が下がり、正面ガラス窓の手前には3段の棚が設けられている。最上段にはせいろが立てて置いてあり、棚板には金属製のおたまやフライパンが掛けてある。中央には洗剤と思われる円筒形のものが置いてある。最下段にはアルミ製と思われる鍋2つと、鉄製の黒い鍋が1つ、それから長方形の平たい容器が2つ伏せて置いてある。水舟の手前には板が置いてあった。左脇には石が置いてあり、その上にまな板が立てて置かれてある。メージャの左脇には板壁があった。中央は格子になっており、この明かり採りのところに手ぬぐいとせいろの簀が掛けてある。壁の下には漬物石のようなものがいくつか置いてある。この他、東の窓際には鍋のふたやせいろの台、ビンなどが置いてあった。
 なお、耕一郎さんの時代は水舟には水が流れ込んでいただけで、ガラス窓手前の棚もなかったという。

... オエ
 北側中央、上がり口の部屋を「オエ」といった。中央には囲炉裏があり、居間・食事場所として家族が一番長い時間を過ごす場所だった。電灯も早くに入っていた。
 昭和40(1965)年の記録写真では畳敷きになっているが、昭和30年代までは板敷きで、敷物は囲炉裏の周囲に「ロ」の字型に敷いてあるだけだった。敷いてあったのはコモとムシロである。「コモ」とはわらを縄で簡単に編んだものである。当時は座布団がなくムシロ1枚では寒いため、これを下に敷いていた。
 以下、昭和40(1965)年の記録写真を元にこの部屋の様子を記しておく(図版19)。北側には障子窓がある。中央と西側は引き違い、東側は格子打ちである。窓の近くにはビン類が置いてある。東側一番左手は戸棚になっており、目隠しに布が掛けてある。戸棚の脇の柱には、買い物かごや「アブリコ」と呼ばれるもち焼きの網などが掛けてある。西側にはネドコ境の板戸が並ぶ。その一番右手は造り付けの戸棚になっており、目隠しにのれんが2枚掛けてある。最下段は元は引き出しになっていたようだが、写真では引き出しはなく、そのまま物が入れてあった。のれん左側の柱には縦長2段の状差しが掛けてあり、手紙類が入れてある。右側の柱には新聞受けが掛けてあり、新聞が入れてある。西側中央、柱と梁の交差位置に六角時計が掛けてある。時計の下と右手にはカレンダー、その手前にはバドミントンのラケットが2本掛けてあった。
 時計を掛けていた西側中央の柱が「ダイコクバシラ」である。他には名前の付いた部材はなかった。時計はゼンマイ式で、止まりかけたら巻くだけで、巻く係も特に決まっていなかった。北西の戸棚には酒やどぶろくが保管してあった。バドミントンのラケットが入ってきたのは、昭和30年代末以降のことである。
 なお、この部屋の南東隅に室(むろ)があった。床板を上げるとモミ(もみがら)を入れた穴があり、サツマイモなどが入れてあった。大きさは幅1間ほど、深さは子どもが入ったら上がれないくらいの大きなものだった。

... イレ(囲炉裏)
 オエの中央に囲炉裏があり、これを「イレ」といった(図版21)。中の灰は「ハエ」、餅を焼く湾曲した脚付網を「アブリコ」、自在かぎを「カギヅリ」という。この地域の自在かぎは、天井から下がる木製のかぎと、それに提げる鎖の付いた金属製のかぎに分かれるが、両者を合わせてカギヅリと呼ぶ。なお、火棚はなかった(注5)。
 イレやカマドにくべる木を「タキギ」という。主にブナや杉の小枝を使った。タキギを集めるのは秋の仕事で、集めたものは主屋南側、デとニワのあいだの軒下に積む。家の中ではニワ北側の壁際に置いてあったが、床上には一時に焚くぐらいしか置いていなかった。
 夏は火を入れるときと入れないときがあったが、イレは通常、朝火を入れるとお湯を沸かしたりして夜まで焚き続けた。秋になると通常のタキギの他、イレの南西角から長さ60cmほどの大きな木を1本灰の中に差し込むように置き、火種のように焚き続けた。この木のことを「トネ」という(注6)。夜寝るときは、このトネも含めて灰をかぶせておいた。中はほんのり温かかったという。冬になると、イレの上にやぐらをのせて布団を掛け、コタツにした。このときはトネは置かなかった。
 イレの席は決まっていた。西側が「ヨコザ」と呼ばれる当主の席、北側が「カカザ」と呼ばれる主婦(当主の妻)の席、南側が「オトコザ」と呼ばれる長男や来客の席、東側が「シモザ」と呼ばれる老婆たちの席である。その他の兄弟はそのあいだの空いているところに座った。
 なお、デにも中央にイレがあったが、昭和20年代には板でふたがしてあり、使うことはなかった。真上の梁には自在を掛ける木かぎだけが残っていた。

... カマド
 オエを上がってすぐ右手、壁際にカマドがあった。床に鉄板を置き、その上に築いた置きカマドである。釜口は1つ、煙突を設け、煙を2階に逃すようになっていた。
 昭和20年代ぐらいまではニワにもカマドがあった。場所はフロとデのあいだで、釜口は2つである(注7)。しかしニワは寒く、炊きあがったご飯を運ぶにも遠くて大変だったため、オエのカマドが主になった。
 この他、糸取り専用のカマドがニワに入ってすぐ右手、板壁の手前にあった。

... デ
 南側、ニワ寄りの部屋を「デ」といった。
 ニワ境は板戸で、手前には靴脱ぎ用の板が置いてあった。オエから入るときは、一番西寄りの板戸から出入りした。
 床は板敷きである。敷物は敷いておらず、電灯も入っていなかった。中央には囲炉裏があったが、使われていなかった。部屋の東寄りにはアマ(2階)に上るはしご段があった。踏み段にはわら縄が巻いてあり、竹の手すりも取り付けてあった。
 この部屋は作業場である。秋になると刈り入れた稲を積み、脱穀をした。そのためトミ(唐箕)やフルイが置いてあったほか、わらやムシロなども積んであった(図版22)。普段はあまり使わなかったが、ホンコサマ(報恩講)のときは人を泊めることもあった。

... オマエ
 南側、奥の座敷を「オマエ」といった(図版23)。仏間部分と座敷部分のあいだには鴨居があり、本来は2つの部屋に分かれていたが、昭和20年代には建具も取り払われ、両者を合わせてオマエと呼んでいた。
 オマエに入るときは、オエからデを通って行く。デとオマエとの境の戸は一番北寄りを使う。ネドコやヒカエノマからも出入りできたが、通常使うことはなかった。
 床は板敷きで、元はその上にわらのコモ、さらにその上にゴザが敷いてあった。その後、昭和40(1965)年前後には畳敷きに変わり、その上にゴザを敷くようになった。天井は竿縁天井である。
 西側には3枚の板戸があり、これを開けると一番北寄りにホトケサマ(仏壇)があった(69頁参照)。
昭和40(1965)年の記録写真では、仏壇の前には布製のカーテンが1枚掛けてある。昭和30年代半ばまでは、板戸そのものがなかった。
 この仏壇の収納部分は下屋として西側に張り出しており、鉄板で葺き下ろしてあった。江向家ではこのような形式になっていたが、どの家も張り出しになっていたわけではないという。
 また、ホトケサマの左脇にはオミヤサン(神棚)も祭ってあった(69頁参照)。
 オマエは南向きで良い部屋だったが、使うのはホンコサマ(報恩講)などのマイリゴトや祭りのときだけで、普段は全く使わなかった。子どもが暴れたりしていると、「ザシキは入ったらあかん」と叱られたという。周囲の家も同じだった。

... ネドコ(大)
 民家園では現在、北側奥は1間の寝部屋として復原されている。しかし、移築前は2間に分かれ、いずれも「ネドコ」と呼ばれていた。ここではまず、北側、広い方のネドコについて記す。
床は板敷きである。ムシロが敷いてあったが南西の角は畳が2畳だけ敷いてあり、ここに布団を敷いていた。この一角には電灯も入っていた。
 昭和40(1965)年の記録写真を見ると、
オエ境にはのれんが掛けてある。入るとすぐ右手にはすな子さんの使っていたタンスがあり、上に薬箱などが積んであった。また、すぐ左手には中二階に続くハシゴがあり(図版24)、その足元右手に鉄板でできた米びつが置いてあった。
 この部屋には幸次郎さんすな子さん夫妻が寝起きしていた。中二階の上がり口は開け放しで、ふたや戸などはなかったが、上が密閉されていたので寒い風が降りてくるようなことはなかった(49頁参照)。

... ネドコ(小)
 南側、狭い方の寝部屋も「ネドコ」と呼び、言葉の使い分けはなかった。
 床は板敷きである。その上にわらのコモ、さらにその上にわらのムシロを敷き、そこに布団を敷いていた。
 家具としては北側に造り付けの戸棚があるだけだった(図版25)。電灯はなく、ランプもなかった。オエ境の板戸にはガラスが入っていたため多少光は入ってきたが、基本的には布団にもぐって寝るだけの部屋だった。
 この部屋には子どもたちの他、せつさんとまちさんが寝起きしていた。布団を敷くと部屋いっぱいで、雑魚寝のようだったという。

... ヒカエノマ
 狭い方のネドコの奥に畳1畳ほどの小部屋があり、「ヒカエノマ」と呼んでいた。
 西側には引き違いの障子戸があった。出入りできるようになっていたが、ほとんど使うことはなかった(図版26)。
 この部屋は本来、マイリゴトに招いた僧侶の控え場所である。西側の出入口から直接入り、僧衣に着替えてお茶などを飲み、時間が来たらオマエに出てお経を上げる。終わったらまたこの部屋に戻り、お茶やお菓子の接待を受けるとともに、お盆に載せて持ってきたお布施を受け取り、また西側の出入口から帰るのである。節子さんの実家ではまだそうした使い方をしていたが、江向家では昭和20年代にはこの出入口は使わなくなっており、僧侶も正面から出入りしていた。またそのころには僧衣に着替えてくるのが普通になったため、ヒカエノマを使うこと自体なくなっていた。そのためこの部屋は何も使わず、いつもほこりだらけだった。

... センチャ(雪隠)
 便所のことを「センチャ(雪隠)」といった。
 センチャはオードの右手、北側に張り出すように設けられていた。壁は板壁で、屋根は鉄板葺きである(図版27)。鉄板にはさび止めに黒いコールタールが塗ってあったが、昭和20年代にはさびて傷んでいた。入口としては東側に開き戸が付いていた。センチャは隣接していたが、入るにはいったん外に出なければならなかったのである。
 中は板壁で2つに仕切られていた。南東角がセンチャ、他は物置である。中に入ると部屋いっぱいの大きな便つぼに板が2枚渡してあるだけで、いわゆる便器はなかった。お尻は通常はわらで、それがないときはフキなどの葉で拭く。わらといっても、使っていたのは木でたたき、わらすぐりをしたときに出る柔らかいところである。センチャの奥には大きな板が置いてあり、ここにこのわらや草が置いてあった。
 中に明かりはなかった。扉の左脇に明かり採りの四角いのぞき窓があるだけである。小さいころ、耕一郎さんは扉を開けたまましゃがんでいた。道がすぐ近くにあり、通りかかるおばさんたちがよく「ボン、ボン」と声を掛けてくれたという。夜は真っ暗だった。センチャに行くときは「カーカ、カーカ」とせつさんを呼び、アンドンを持って付いてきてもらった。便つぼに落ちることはなかったが、夜は寒くて怖かったという。
 センチャの奥の物置は、北側の板戸から出入りするようになっていた。ここにはカヤやわらなどが置いてあったほか、くみ取り口があった。センチャの下は肥だめになっており、何かを植え付けたときはここからくみ出して裏の畑にまいていた。
 この外のセンチャは夜でも雪のときでも使ったが、主屋の中にもう1カ所、小用便所が設けられていた。場所はウマヤの前である。土間の通路に張り出すように床板を張り、扉はなかったが東側と南側だけ1m20cmほどの目隠しが設けてあった。便つぼは床下にあり、くみ出すときはふたを開けて出していた。このセンチャは、昭和20年代には男性が使うだけだったが、古くは女性も皆使っていた。

... フロ
 風呂のことを「フロ」といった。
 浴槽は木製のおけ型である。場所はメージャの西側で、洗い場として北側に木製のすのこが置いてあった。目隠しはなく、丸見えだった。燃料はタキギである。焚き口はメージャ側にあり、熱いときや湯が少なくなったときは水舟から水を運んだ。

... ソラアマ
 3階のことを「ソラアマ」といった。
 昭和40(1965)年の記録写真では床にはすのこのようなものが敷いてあるだけだが(図版28)、30年代にはわらで編んだコモが敷いてあった。オエやネドコでムシロの下に敷いたのと同じものである。ソラアマには東西に窓があったが、どちらも障子が破れたままになっていた。
 ソラアマは普段全く使われず、囲炉裏のすすで真っ黒だった。養蚕も実際にはほとんど2階のアマで行われ、ソラアマはほとんど使わなかった。家族もアマまではよく上がったが、ソラアマまで上がることはまずなかった。写真には鍋や釜が写っており、チュウニカイと同じく物置程度の使い方だったようである。

... アマ
 2階のことを「アマ」といった。
 上がるときはデからハシゴを使う。上がり口は開け放しで、ふたや戸などはなかった。西側の外壁にもハシゴが立てかけてあったが、窓から直接出入りすることはなかった。床には板が張ってあった。そのうちオエとデ、つまり囲炉裏のある部屋の上だけはすのこになっており、煙や熱が上がるようになっていた。アマには東西の他、南側にも窓があった。いずれも障子が貼ってあったが、南側の窓はほとんど開けなかった。
 アマは主に「蚕を養う」のに使われ、養蚕の棚や作業に使われる折りたたみ式の台が置いてあった。この他、鍋などの道具類やわらも置いてあった(図版29)。

... チュウニカイ
 ネドコ(大)の上に「チュウニカイ(中二階)」があった。天井は低く、広さも畳1畳程度である。アマ(2階)とは別であり、つながってはいなかった。
 この場所はクモの巣だらけで、家の中で一番ほこりっぽい場所だった。中には軽い農機具や糸紡ぎの道具、その他木製の生活用具などが置いてあったが、子どもはもちろん、大人もほとんど上がることはなかった。

... 建具
 江向家で使われていた建具は、通常の板戸と、中央にガラスの入った板戸、それからふすまと障子である。
 ネドコとオエの境、ネドコとオマエの境にはガラスの入った板戸が使われていた。漆塗りでガラスには模様が入っており、非常に立派なものだった。大小のネドコの境はふすま、小さい方のネドコとヒカエノマの境は障子だった。この他の間仕切りは通常の板戸だった。
 窓は、メージャの前に唯一ガラスが入っていたのを除き、あとは全て障子だった。雨戸はなかったが、ひさしが深かったため雨で破れることはあまりなかった。また1階は子どもが破ったりしたが、2階はあまり破れなかった。障子紙は古くなると黄色くなる。そのころになると破れてきているので貼り替えた。貼り替えはよくまちさんがやっていた。1階部分は正月前に貼り替えたが、その他は定期的に貼り替えるものではなかった。

... エン(縁側)
 デからオマエにかけて濡れ縁があり、これを「エン」と呼んだ。
 デの中央部分は一段低くなっており(図版30)、その手前には出入りするための踏み石があった。通常使うことはなかったが、葬式のときはここからお棺を出し、ムラの人たちもここから出入りした。また、祭りのときなども開放してエンから出入りした。
 この場所は山菜や豆類を干すのにも使われた。

... 床下
 家の土台はどこも石だった。
 デの床下には丸太などが、オマエの床下には雪囲いの道具などが置いてあった。耕一郎さんをはじめ男の子たちはよくもぐりこんで遊んだが、縁の下には独特のにおいがあったという。

... クラ
 主屋の北東、少し離れたところに倉庫があり、これを「クラ」といった。板壁の2階建てで、屋根はトタン葺きである。建築年代は不明だが、それほど古いものではなかった。
 入口には錠前があり、さらに戸の中央の穴にL字型のカギを差し込み、敷居の穴に差し込んだ猿(木片)を持ち上げる仕組みになっていた。開けるのはなかなか難しかった。
 中に入ると、1階には米や農機具などが、2階にはタンスや長持などがしまってあった。耕一郎さんは幼いころ、せつさんについて夜、米を取りに行った。こうしたとき、耕一郎さんはアンドンにロウソクを灯して持っていった。
 なお、クラは雪下ろしはしたが、雪囲いはしなかった。しなくてもいいように板壁になっていたという。

..(2)食
... 炊事
 朝起きると一番にオエのカマドに火を入れ、その火をイレ(囲炉裏)に移した。イレには炭(消し炭)があるので、これを「イコラシテ(おこして)」一日中燃やした。人がいないときも灰をかぶせておき、夕方まで持たせた。
 ご飯はこのオエのカマドで炊き、煮物を煮たりお茶を沸かしたりするのにはイレを使った。その他おかず類の調理はメージャ(水屋)やニワのカマドでやっていた。

... 食事
 食事はイレの周りではなく、イレと北側の窓のあいだで食べた。使っていたのは四角いちゃぶ台である。すな子さんが配膳し、皆で食べていた。
 普段使う食器は瀬戸物で、漆器を使うのは行事のときだけだった。江向家の朱塗膳はクラにしまってあった。クラはそうしたものを保管するためのものだったのである。江向家の漆器がどこの塗りか不明だが、良い家のものは輪島塗だったのではないかと耕一郎さんはいう。こうした漆器類は基本的に家でまかない、貸し借りをすることはなかった。

... 主食
 当主と長男は特別扱いだった。主食は米だったが、米のみだったのは幸次郎さんと耕一郎さんだけで、他の家族は米とカボチャである。「思い出すと悪いこと言ったなと思う」と言いながら話してくださったが、耕一郎さんは当時、カボチャのご飯を指して「そんなもんワシいらんっ」と、よく言っていたという。こうした食事が昭和20年代の終わりごろまで続いた。
 カボチャのご飯とは、カボチャを煮てつぶし、団子にしたもののことである。この団子の呼び名は特になかったが、これが米のご飯代わりだった。この他、団子にせずそのまま食べる場合もあった。
 米は白米だった。古くはもみにしたものを農協に持っていき、そこで精米した。その後、昭和30(1955)年前後に町から精米機を持ってきてムラの倉庫に備えた。ワイヤーを引いて発動機を回すタイプのもので、以後精米はここでするようになった。
 すな子さんはよく「ソバ粉はありがたかったがヒエはすぐお腹がすく」と言っていた。ソバ粉を茶わんに入れてかき混ぜることを「ソバをかく」といい、出来上がったものを「ソバカイ」という。砂糖はないので、江向家ではよくしょうゆなどを入れて食べた。一方、ヒエはあまり食べなかった。おいしいものではなかったという。
 なお、ソバ粉は食べたがそばやうどんを打つことはなかった。

... 副食
 おかずは一汁一菜に近いものだった。野菜や山菜が中心である。
 サツマイモやジャガイモはおつゆの中に入れたり、イレで焼いたり、鍋で蒸かしたりして食べた。
 山菜は豊富だった。江向家で食べたのは、ウド・ゼンマイ・アサツキ・ワラビなどである。ウドはよく食べた。ゼンマイは集めて保存し、報恩講などにも使った。アサツキは春に採りに行き、小さな芽のうちに球根を掘り出す。根を切って酢みそあえにして食べると小さいものはおいしかった。現在は大きくなったものを食べるが、葉が青々してしまうと硬くなるため、当時はそうなったものは食べなかった。この他、家によってはフキノトウや自生していた三つ葉のワサビも食べたが、江向家では食べなかった。タラの芽やツクシもたくさんあったが、昔は食べるものではなかった。
 木の実で食べたのは、梨・柿・アケビ・桑の実・栗などである。江向家の梨は小さいものばかりだったが、柿やアケビは本当によく食べた。桑の実もおいしかった。栗が落ちるので、子どものころは台風が来ると喜んでいたという。
 魚はあまり食べなかった。釣りをする家では魚を捕って天ぷらにするようなこともあったが、冷蔵庫がなかったため、たまに行商から買い求める魚も塩辛いものばかりだった。ドジョウなどもいたが食べるものではなかった。
 戦後に育った耕一郎さんの世代は栄養失調気味で、当時は本当に痩せていたという。学校でもらう肝油が貴重な栄養源だった。

... 保存食
 ダイコンは冬の保存食として大切なものだった。秋口に収穫すると、タクアンにするものはさおに掛け、しなびるまで干し上げる。これをおけに漬けてみそ部屋に置き、春まで食べた。ハクサイなども同様である。一方、ダイコンのうち漬物にしないものについては屋外で保存する。畑などの空いたところにムシロを敷き、上にダイコンを置いてまたムシロをかぶせておく。食べるときは雪の下から掘り出さなければならないが、こうしておくと春まで持った。
 この他、ジャガイモやサツマイモも保存食にした。イモ類は温めておいた方が良いため、オエにあった室で保存した。

... 調味料
 みそは自家製の大豆で造った。仕込むのは毎年ではなく、何年かに一度である。大きなタルで秋に仕込んでミソベヤで寝かせ、町から子どもたちが来ると皆持たせてやった。
 城端醤油という醸造会社(創業大正8年、現・南砺市是安)があり、しょうゆはここのものを購入していた。この他、油や砂糖も購入していた。

... 飲み物
 お茶は作っておらず、ほうじ茶のようなものを買っていた。飲むときはこれを茶袋に入れ、イレのテツビンで沸かした。
 ドブロクも造ったが、酒は酒屋から買っていた。

... その他食材
 ハチの子は日常的に食べるものではなく、遊びで採りに行くものだった。耕一郎さんも男同士で食べたことがあるという。
 アオダイショウがよくいたので、たまに食べることがあった。
 サワガニはたくさんいたが、食べるものではなかった。

..(3)衣
... 普段着
 せつさんは年中綿入れを着ていた。
 すな子さんは仕事着として、いつも真っ白なエプロンをしていた。

... 下着
 冬は寒かったが、学校へ行くときも長袖のネルの下着1枚に学生服を着るだけだった。スキーのときは、この下着1枚で滑っていた。

... 洗濯
 洗濯はオード前の池でやり、洗ったものは冬でも外に干した。「バシバシに」凍るが、そのうちに乾いた。
 干し場は東側の軒下、南側流し場前の軒下(図版32)、大便所のそばなど何カ所かあった。流し場の軒下には竹竿が吊ってあり、洗濯ばさみがいくつも付けてあった。便所の角には丸太が立ててあり、電柱とのあいだに竹を渡して干し場にしていた。

... 機織り
 耕一郎さんは家で機織りをしていたのを見た記憶はないという。

... 履物
 農作業のとき、耕一郎さんは長靴だったが、幸次郎さんはワラジを履いていた。
 学校へはタングツで通った。「タングツ」とは黒いゴム製の靴で、「三つ馬印」というメーカーだった。昭和30年代ごろは皆このタングツで、布製のズック靴が出てきたのはかなり後だった。
 冬は雪のため、長靴で学校に行った。雪が入らないよう、履いたあと上の部分をひもで縛った。
 冬場、家の中では足袋や靴下を履いた上、わら草履を履いていた。当時はスリッパはなかった。

... 寝具・寝間着
 布団はわらぶとんではなく、敷き布団も掛け布団も木綿のワタの入った重いものだった。これを2枚も3枚も重ね、皆で集まって眠るのである。枕はそば殻だった。冬のあいだ、布団は干すこともたたむこともせず、干すのは春になり雪が解けてからだった。
 大人は寝間着として綿入れの着物を着たが、子どもたちには寝間着などなく、そのまま寝ていた。耕一郎さんも学生服を脱いで下着1枚になるだけだった。それでも風邪は引かなかった。

..(4)暮らし
... 雪
 雪の来る前は忙しかった。刈り入れもしなければならない。脱穀もしなければならない。モミを取って精米もしなければならない。こうしたときは子どもの手も借りた。
 主屋の東側に電柱があり、夜になると街路灯がついた。この明かりの中を、冬の夜は雪が流れていくのが見えた。雪の降りはじめ、耕一郎さんは興奮して寝れず、夜中起きてはこの雪を見ていた。うれしくてうれしくて仕方なかったという。
 雪は屋根まで積もった。一晩でものすごく積もるようなときは、音を立てて降る。吹雪になると、オエやネドコにいても部屋の北西角から雪が舞い込んできた。こうしたときはひどく寒かった。
 雪が積もると毎晩のように大雪崩があった。「雪崩ばっかし」だったと耕一郎さんはいう。細島から学校へ行くには、険しい山裾を切り開いた道を、ダムを見下ろしながら2kmほども歩かなければならない。この道も冬になると毎晩のように大雪崩があったが、朝になるとその跡がもう固くなっている。そこでムラの人たちが順番に行き、スコップで道を切るのである。雪のあと最初に道を作る人は、カンジキを履き、雪を漕いでいく。大人であれば作業も早いので、行って帰ってくるころには道は固まっていた。この作業は子どもたちのためであると同時に、ムラ全体のためでもあった。雪が降れば車は全く使えないため、歩けなければ陸の孤島になってしまうからである。
 こうした作業を終えた道を、子どもたちは40分くらいかけて学校に行った。しかし耕一郎さんの妹はあるとき雪崩に巻き込まれ、押し流されてダムに落ちた。そこで雪につかまって浮いていたところ、釣りに来た人にようやく助けられたという。(雪囲い、雪下ろしについては38頁参照。)

... 災害
 火事は恐ろしいものだった。消防署はないものの、各ムラには若い人たちの活動する消防団がある。しかし通常、発見されたときにはすでに遅かった。
 耕一郎さんの育った時代、細島ではなかったが、隣ムラの念仏道場が焼けたことがあった。祭りの際、子どもたちの遊んでいた花火が原因である。夕方、これから飲み食いしようとしていたとき連絡があったが、駆けつけたときにはもうひどいものだった。細島には消防ポンプがあった。現在は消防車も持っており、江向家の土地の一角に倉庫が建っている。なお、川のところに道路が付けてあるのは、消火用の水を川から吸い上げるためである。
 台風も時折来た。主屋に雨戸はなく、障子は濡らしっぱなしである。板戸に換えるようなことはなかった。こうした嵐のときはギシギシと家がきしみ、子どもながらに怖かったという。ただし、川が近かったもののすぐ上流にダムがあったため、洪水や鉄砲水はなかった。
 地震もあった。あるとき夕方大きな地震があり、幸次郎さんは「地震や」といって雪の中を外に飛び出した。ヤギを飼っている家では、それらを連れて丈夫な家に避難した。地震で家が壊れたことはなかったが、地震が来たらどうするという知識もなく、地震が来たらこうしようという意識もなかった。

... 電気
 庄川に関西電力が入っていたため、電気の普及は比較的早かった。第二次世界大戦のときはすでに電気が来ており、空襲警報が鳴ると灯火管制のため電球に黒い布をかけた。
 江向家では主屋東側に立つ木製の電柱から電気を引いていた。昭和20年代、オエの天井には電線が這わせてあり、笠の付いた電球が下がっていた。100Wは高すぎるといって、60Wくらいだったという。通常は部屋の中央に下げてあったが、食事をするときは北側に寄せてちゃぶ台の上に電球を移した。オエの他には、ネドコ(大)の畳敷きのところに薄暗い5燭(注8)の電灯が入っていた。
 昭和40(1965)年の記録写真を見ると、ニワの板壁北側に電気メーター、南側にブレーカーがあり、オエの他ニワとオマエにも電灯が入っている。オエの電灯は白熱球から直管型の蛍光灯に変わり、中央の囲炉裏の上に下がっていた。オマエの電灯は裸電球で、点灯させるためのひもと長いコードが付いていた。コードが長いのは位置を調整するためで、写真では仏間境の鴨居にひもで引っ掛けている。ニワの電灯も裸電球で、オマエと同じくコードを長く伸ばしていた。写真では梁から吊ったひもにコードを掛け、ちょうどメージャ(水屋)を照らす位置に電球を下げている。

... 暖房
 オエには囲炉裏があったが、冬のあいだはヤグラをのせて布団を掛け、コタツを作った。中で炭を焚くと一日中温かかった。昭和40(1965)年の記録写真には電気こたつが写っているが、昭和30年代までは、起きているあいだはコタツ、寝るときはバントコだけだった。「バントコ」とは、かまくらに似た土製のこたつである。中に灰の入った丸い火入れがあり、ここに炭を埋めて布団の中に入れた。

... 飼育
 家を移築するころまで猫を飼っていた。養蚕とは無関係だった。
 牛やヤギは飼っていなかった(注9)。鶏は1回飼ったことがあるが、1羽だけだったので卵は1日か2日に1個しか産まない。それを誰が食べるか問題になり、飼うのをやめてしまった。

... 害虫
 夏、害虫としてはハエ・蚊・ノミ・オロロ(注10)・ウンカ・カメムシなどがいた。ハエにはハエ取り紙を、蚊にはフマキラーなどの噴霧薬を使ったが、その他については何もしなかった。

... 娯楽
 耕一郎さんは昭和34(1959)年ごろ、ムラの人たちとバスで和倉温泉(石川県七尾市)に行ったことがあった。ムラの娯楽はこの他、同じくバスで万法寺(福井県鯖江市)に参拝に行くぐらいだった(70頁参照)。
 家にカメラはなく、写真を撮ることはまずなかった。

... 女性の暮らし
 女性は大変だった。家の仕事はもちろん女性の役目である。一番早く起きるのはすな子さんであり、子どもの耕一郎さんにはいつ起きたかも、いつ寝たのかもわからなかった。目を覚ますと必ずご飯ができており、いつ寝ているのかと思っていたという。昼休みは昼寝をするものだったが、すな子さんはこの時間も洗濯に当てていた。
 冬の農閑期も大変である。男たちが出稼ぎに行くため、雪下ろしも女性がやらなければならない。糸取りや紙すきも冬の女性の仕事である。春になれば田植えもしなければならない。それに加え、春祭りなどの行事もある。行事の準備も女性の仕事で、男は何もしなかった。
 女性の遊びや楽しみは特に何もなかった。しかし雪が降って時間ができると、子どももつれて親しい家にしゃべりに行くことがあった。こうしたときはお茶請けに漬物や餅を食べた。漬物は砂糖を付けて食べ、餅は焼いてお茶の中に入れたり、黄粉を付けたりして食べた。
 昭和から平成に変わったが、土地の女性たちは今でも大変だという。

... 子どもの暮らし
 子どもたちは親の苦労を知っていたため、家の仕事をよく手伝った。
 遊びとしては、暖かい季節はよくチャンバラごっこをした。刀に使っていたのはウルシの木である。真っ直ぐな上、皮をめくるとツルツルの棒になるため使っていたが、翌日は手だけでなくオチンチンまでボロボロにかぶれた。
 冬はよくスキーをした。リフトはないので自分で上がり、自分で滑る。他には遊びがなかった。特に夜は全くすることがなく、雪は入ってくる上寂しいので9時には寝ていた。

.3 生業
... 概況
 細島では「月給取り」は数えるほどしかいなかった。役場・郵便局・関西電力・農協、その程度である。親の職業欄はほとんど農業だったが、農業を主にしても食べてはいけない。そのため収穫を終えると雪の降る前に出稼ぎに行く家が多かった。冬はほとんど女性だけだった。

... 稲作畑作
 稲作も畑作も基本的に自家用だった。米を出荷するようになったのは、供出制度が始まった昭和17(1942)年以降のことである。耕一郎さんは子どもころ、周囲の大人がよく「供出、供出」と言っていたのを覚えているという。なお、江向家では焼畑はやっていなかった。
 田は主屋の東と山の上の方にあった。昭和20年代から30年代に栽培していたのは「藤坂」や「銀河」という品種である(注11)。刈り取った稲を山の田から担いで下ろすのは一苦労で、子どもたちも手伝った。運んだ稲は家の近くの「ハサ」に干した。丸太で組んだ枠に稲を2段3段と掛けて干し上げるもので、この枠を「ワサ」という。ワサに使う丸太は通常主屋西側の外壁に立て掛けてあり、組むときは木の枝から作るネタ(37頁参照)で縛る。干し上げた稲は主屋のデに積み、「トミ(唐箕)」で脱穀した。
 畑は主屋の北と東の他、一部山の方にもあった。栽培していたのはキャベツ・ハクサイ・ジャガイモ・サトイモ(報恩講で使う)・カボチャ・スイカ・キュウリ・ダイコン・ニンジン・ゴボウ・ナスビ・マメ(大豆)・ナツマメ(大豆の早生種)などである。普通の野菜はほとんど作っていた。
 肥料として使っていたのは下肥や、ウマヤに敷いたカヤである。この他、落ち葉や草なども使用した。
 労働力として使っていたのは牛ではなく馬である。ただし、昭和20年代には常時飼ってはいなかった。馬の貸し出しを副業にする農家がサトにあり、春、田を耕すときだけ代金を払って借りるのである。借りた馬は主屋のウマヤに入れた。エサはわらに米ぬかを混ぜたもので、外に連れていくと青い葉も食べさせた。

... 養蚕
 養蚕のことを「ヨウザン」、蚕のことは「カイコサマ」「コガイサマ」といった。養蚕には人手が必要であり、細島21軒のうち、やっていたのは4、5軒だけだった。
 江向家で養蚕をやっていたのは昭和20年代後半ぐらいまでである。作業は主にせつさんが当たっていた。飼育は年1回、時期は夏少し前である。卵から育てるのではなく、1cmほどの稚蚕を農協から買っていた。飼育場所は主にアマ(2階)である。3段ぐらいの棚を組み、稚蚕の時期からここで育てたが、囲炉裏の煙が上がっても影響はなかった。
 エサの桑は一日に何回も与えた。稚蚕のうちは若い葉を小さく切ってパラパラと与える。大きくなってきたら葉をそのまま与える。桑の葉は桑畑や持ち山に採りに行った。耕一郎さんも夏、せつさんに従い、フゴ(ワラ製の手提げ)を持って採りに行った。フゴいっぱいに入った桑の葉のにおいや、葉を摘んだあとのせつさんのにおいを、耕一郎さんは今でも覚えているという。
 繭はそのまま出荷するのではなく、糸に紡いで出荷した。糸取りは秋口から冬にかけての作業である。ニワに入ってすぐ右手、板壁の手前に糸取り用のカマドがあった(注12)。これは糸取り専用であり、ご飯を炊くことはなかった。糸車はこのカマドの西側に置いていた。足踏み式で、作業はイスに腰掛けて行う。まずカマドで湯を沸かし、繭を入れて糸を取る。「ガッチャガッチャ」と糸車を回し、「ワク」(「ワ」にアクセント)に巻き取っていくのである。この作業をやっていたのもせつさんで、すな子さんはやっていなかった。紡いだ糸をどのような形で出荷していたか、はっきりしたことは不明だが、耕一郎さんの記憶によれば仲買人がまわってきたようである。
 糸を取ったあとのサナギを「ヒョーロ」という。魚釣りの好きな人はエサにしていたが、それ以外使い道はなく、肥料にすることもなかった。
 蚕はさわると柔らかかった。耕一郎さんは蚕が好きだったが、誤ってよく踏んづけたという。なお、江向家では養蚕の神は祭っていなかった。

... 紙すき
 紙すきのことを「カミスキ」といった。冬の農閑期、出稼ぎの留守宅を預かる女性たちの仕事である。人手がないとできない作業であり、やる家はムラの中でも限られていた。
 江向家ではせつさんが紙すきをしていた。作業に使っていたのはニワで、ちょうど出入口の前あたりに漉き舟を据えていた。原料は地元で「コウズ」と呼ぶコウゾである。ミツマタは使っていなかった。コウズは山に行くと必ず生えており、これを刈ってきて大きなオケで下から蒸した。この作業をどこでどのようにやっていたか、耕一郎さんは記憶にないとのことだが、近くの羽馬家では家の外で蒸していた。

... わら仕事
 冬、出稼ぎの留守宅を預かる女性たちは、ニナワ(荷縄)をない、ニノゴモなどを編んだ。作り方を教わりに、せつさんが家のおじいさんのところに来ていたのを、節子さんは覚えているという。なお、ワラジは編まなかった。

... 出稼ぎ・日雇い
 幸次郎さんは、夏は農業をしながら建設作業など日雇い仕事に行き、冬は大阪の親戚に出稼ぎに行った。江向家の現金収入として最も大きかったのがこの出稼ぎによるものである。仕送りはすな子さんではなく、せつさんが受け取っていた。受け取ると「ありがたい、ありがたい」といってまずホトケサマ(仏壇)に供え、それから郵便局に行ってすぐ貯金した。
 耕一郎さんが高校へ行くことになってから、授業料と下宿代を稼ぐため、すな子さんも建設作業の日雇いに行くようになった。

... 地域の生業
....[塩硝作り]
 節子さんの実家の生田家(屋号長次郎)など、細島でも塩硝作りをやっていた家がある。しかし、江向家にはこうした伝承は残されていない。

....[炭焼き]
 江向家ではやらなかったが、親戚やムラの人たちは炭焼きを盛んにやり、出荷していた。
 炭を焼くときはまず、適した木のある山の持ち主と交渉する。そして今年はこれだけ買うと決まると、代金を払い、木を切り倒して炭を焼いた。炭も貴重な収入源の1つだった。

....[狩猟]
 熊を撃つのは専門の猟師だった。江向家で狩猟に出ることはなく、ウサギのわなを掛ける程度だった。このわなは針金製で「ワサ」と呼ばれ、首つりの輪のように締まる仕組みになっている。これを冬、山と山のあいだのウサギの通り道に仕掛けたが、耕一郎さんは捕れたことがなかったという。
 なお、庄川が近かったが魚釣りも楽しみとしてやるだけだった。

....[林業]
 周囲は山だったが、江向家で林業をやったことはなかった。木は自分の家を作るためのものであり、売るという発想はなかった。
 漆の木もあったが、漆掻きはやらなかった。

.4 交通交易
... 交通
 江向家南側に道が通っていた。現在の国道156号線(飛越峡合掌ライン)である。旧上平村の表通りだが、昭和30年代ごろまでは砂利道だった。
 この道も冬場は当然雪に閉ざされる。しかし細島は旧上平村の中心であり、村役場や郵便局があったため、訪れる人々のために道を付けた。村にはそういう役目の人がいた。
 バスは通っていたが、城端(旧東礪波郡城端町、現南砺市)に出るには峠を越して2時間かかった。
 昭和40(1965)年の記録写真に、主屋の裏手に置かれた自転車が写っている。これは近所の家のもので、不要になったのを借りていたという。自動車はなかった。

... 買い物
 日用品や食品などの買い物は農協でしていた。町まで買い物に出ることはなかった。
 まとまったものを購入するときは、村の世話役的な家に相談に行った。たとえば朱塗膳などを購入したいときは、世話役の1軒、生田家(屋号長次郎)の当主に意向を伝え、どこか良いところがないか相談する。すると、「城端のこの店に言っておくよ」というようにその当主が世話をしてくれた。

... 行商
 さまざまな行商が来ていた。
 魚屋は隣のムラから来ていた。正月前はブリも持ってきたが、通常は塩辛い干物類が中心で、生ものはあまりなかった。
 下着や靴下など、衣類を風呂敷で担いでくる人がいた。「ダイドウ」という屋号の人だった。
 この他、薬屋もよく来た。来るとそのたびに紙風船やコマなどを子どもたちにくれた。江向家に来ていたのは1軒だけだったが、生田家には薬屋だけで6軒ぐらい入っていた。なお、昭和40(1965)年の記録写真には、ネドコのタンスの上に薬箱が写っている。引き出し式の手箱で、前面には「コルチン」と書かれている(注13)。
 こうした行商のうち、遠方から来る人はいつも節子さんの実家の生田家に泊まっていた。節子さんの父親はこうした人々を皆泊める人だった。

... 情報
 昭和30年代まで新聞を取る家は少なく、取っている家も皆地元の『北日本新聞』だった。その中で江向家では『読売新聞』を取り、中学生だった耕一郎さんは社説を切り抜いたり、読んで幸次郎さんに教えたりしていた。冬、新聞は一日遅れだった。雪のため峠を脚で越え、担いで運ばなければならなかったからである。
 ラジオは昭和30(1955)年ごろ入ってきた。置いてあったのは、オエの北西角にあった戸棚の上である。
 その後、昭和30年代末以降にテレビが入ってきた。置いてあったのは同じくオエの北西角で、戸棚の前に3本脚の台を置き、その上にテレビを載せていた。テレビの上には布を掛け、写真や人形、花瓶に生けた花などが飾ってあった。電源コードやアンテナ線は天井から下ろしていた。

.5 社会生活
... 概況
 江向家のある細島は、合併前は東礪波郡上平村に属していた。しかしこの地で「ムラ」といえば各集落のことであり、細島であれば細島地区のことを指した。
 細島地区は21軒だった。これがさらに7軒ずつ3つの「クミ」に分かれ、それぞれ「カミ」「ナカ」「シモ」といった。江向家はこのうちカミに属していた。
 細島には2つの大きな家があった。生田家(屋号「長次郎」、節子さんの実家)と中谷家である。こうした家は「オヤッサマ」と呼ばれ、村の総代や世話役として何かあると人々の相談に乗った。
 寄り合いはこうした総代の家、主に長次郎の家で行っていたが、後に各家回り持ちになった。

... 共同作業
 ムラの共同作業に草刈りがあった。年に数回、祭りや盆など行事の前に用水路の周りや村道の「ドハ」(のり面)の草を刈るのである。各家何人と決まっていて、必ず出なければならなかった。近年は若い人たちが出るようになったが、昔はムラ総出でやったので本当に大変だった。

... 火の番
 夜中の11時過ぎ、夜回りに出た。回るのは同じクミの7軒である。当番の札があり、一晩務めると翌日次の家に回す仕組みになっていた。
 当番になると、家によっては子どもを連れて行くこともあったが、通常は1人で回った。入口の戸を開け、土間の奥まで入り、もう1枚オエの戸を開けて「ヒノバンサッサリー(火の番をしてください)」と声をかける。囲炉裏に火が残っていないか確認するのである。この時間になるとどの家も皆寝ているが、声が聞こえるとネドコから「アイアイ」と返事をした。拍子木はたたかなかった。
 回るのは一年中、毎日である。真冬は雪の中を回らなければならなかったので特に大変だった。
 そのこととは無関係だが、その後次第にやり方がゆるくなり、土間に入らず、入口の戸を開けて大声を出すだけになった。近年は車が多くなり、危険だということでやめになった。

... 医療
 曽祖母に当たるまちさんは、冬の1月、囲炉裏の席に座ったまま亡くなった。ほとんど動けなくなってはいたが、ひとつも寝込まないままだった。祖母のせつさんも同じ年の12月に亡くなった。いずれの場合も医者は呼ばなかった。
 ムラに医者はいなかった。そのため、診療所はあってもムラの人は使わなかった。雪の積もる冬は陸の孤島であり、呼んでも医者は来てくれなかった。
 夏休みの宿題でドクダミやゲンノショウコを採り、学校に持っていくと小銭を少しずつくれた。そのため、この2つが薬草だということを小さいころから知っていた。当時は皆貧しかったので、こうした植物を乾燥させて薬にした。火傷したときも何かの葉を貼るだけだった。

... 教育
 細島には分教場があった。冬、ここに通うのは3年生までだったが、雪が降ると4年生以上もここで勉強する。先生が1人しかいない分教場は遊んでいるようなものだったため、耕一郎さんは分教場に行きたくて仕方なかったという。分教場の先生は隣のムラから来ていた。道がふさがると来られなくなるため、雪が積もると誰かが朝早く道を付けた。
 旧上平村に隣接する旧平村(現・南砺市)には県立福野高校の平分校(現・県立南砺平高校)があった。この高校なら細島から通学することもできたが、山を下りて寮や下宿で生活する子どももいた。耕一郎さんも城端(旧東礪波郡城端町、現南砺市)に下宿し、福光町(旧西礪波郡福光町、現南砺市)の高校に通学した。

.6 年中行事
... 概況
 細島は浄土真宗の盛んな地域である。年中行事は比較的少なく、小正月行事や節分・花祭り・七夕・月見の他、かつては三月五月の節句も見られなかった。ひな人形などを売る店もなかった。
 現在は人口が減っている影響で、かつてはムラごとにやっていた行事を統合し、旧上平村共同で行う方向に変わってきたという。

... 正月準備
 餅つきは12月30日である。
 作業は全てニワで行った。フロの隣にコンロを置き、鉄板で囲った上、カマを置く。これに1段1升のセイロを3段重ね、米を蒸した。ウスはニワの中央に据え、セイロ下段から順にキネでついていく。つくのは白餅の他、栃餅・豆餅・ゴンダ餅である。栃餅には塩を少し入れる。ゴンダ餅は餅米の他うるち米を入れたもので、塩も少し加える。うるち米を加えるのは餅米だけではもったいないからだが、食べると米のつぶつぶした感触があった。
 こうした餅を、江向家では計1斗ほどついた。気温が低いためたくさんついても傷むことはなく、正月が過ぎてもしばらく食べることができた。餅は暮れの他、食べたいときがあれば年に一度くらいついた。

... 大晦日
 大晦日には煮物を食べ、雪の中、夜中の0時ごろ熊野神社へ初詣に行った。
 この夜、子どもたちは大きな家に集まり、夜中の1時ごろまで百人一首をした。百人一首といっても読み上げて取るというものではなく、簡単なゲームのようなやり方である。また、子どもたちで念仏道場に除夜の鐘もつきにいった。鐘は半鐘で、大きな釣鐘ではなかった。

... 正月
 元日は学校に行った。1年生も含め、歌をうたいながら雪の中を40分くらいかけて歩いていくのである。皆普通の格好で、特に正装することはなかった。学校では体育館に集められた。そこで校長から村長まで、村の名士たちの訓辞を聞き、「君が代」と小学唱歌「一月一日」を歌った。体育館は暖房も何もなかったため、ひどく寒かったという。
 学校から帰ると家族でごちそうである。食事場所は普段と同じオエ、食事は餅の他、ゼンマイの煮染め、豆腐、ニシンの昆布巻きなどが必ず出た。ゼンマイは山で採り貯めたものである。豆腐は五箇山豆腐と呼ばれる、縄で縛って持ち上げられるような硬いものである。これは自家製ではなく豆腐屋から買っていた。いずれも煮物ばかりで、揚げ物はほとんどなかった。正月の魚としてはブリが最高だったが、あるときとないときがあった。カズノコは食べなかった。
 正月、子どもたちはスキーをした。大人たちは「六百間しようか」と言って、よく花札をやっていた。
 なお正月に親戚回りをすることはなかった。

... ウマノヒ(初午)
 初午を「ウマノヒ」といった。行うのは1月で、日程はボンサマ(念仏道場の僧、70頁参照)の都合に合わせて決めた。
 この日は米の粉で団子を作る。形は繭型である。できあがったものは囲炉裏のアブリコにのせて焦げ目を付け、黄粉を付けて食べた。団子を作るのはすな子さんやせつさんであり、子どもの行事ではなかった。団子の他には特に決まった料理はなかった。

... 彼岸
 彼岸の中日に念仏道場にお参りに行った。ただし、若い人はあまり行かなかった。
 春の彼岸にも秋の彼岸にも墓参りには行かなかった。

... 春祭り
 春祭りは神社の行事ではなく、ムラの行事である。時期は4月20日ごろ、ちょうど雪が消えてやっと春が来たという季節であり、皆「へべれけ」になって酒を飲んだ。ムラの行事としては一年で最も賑やかなものだった。
 この祭りは各ムラが1日ずつ日をずらして行った。祭りはどのムラも2日間あり、1日目を「オモテ」、2日目を「ウラ」という。したがって、あるムラのウラが次のムラのオモテと重なっていくのである。そのため、この時期は毎日のように祭りが続き、人々はいろいろなムラの祭りに出かけていった。出かけていくのは子どもよりも大人たちだった。
 祭りには獅子が出た。舞うのは村の若い衆で、耕一郎さんもやったことがあるという。毎年4月になると、念仏道場に集まって必ず練習をした。この地域の獅子は1頭に8人が入る大きなもので、獅子頭役は力がないとできなかった。実際に演ずるときはその他に獅子取りが2人、笛吹き・鉦鳴らしが各1人、太鼓は2人が担いで1人が打つので計3人、これらを交代しながら行う。これに男の年寄りたちが10人から20人、その他どこかの嫁など、自分のところが済んで用事のない者たちがぞろぞろついて歩いた。
 獅子はムラ中の家を一軒一軒回った。家の前には必ず広い場所があるので、そこで舞うのである。江向家では主屋の南側、国道にはさまれた三角の土地で舞っていた。
 舞いが終わると、その家で酒と料理がたくさん振る舞われた。獅子舞の若い衆だけでなく、一緒に回る年寄りたちも全員である。初日は4、5軒しか回らないが、それだけで酔いつぶれるほどだった。
 こうした折の準備は全て女性の仕事である。現在は仕出しがあるが、昔は煮物を作り、お菓子やジュースもお盆に載せて振る舞った。男たちは酒を飲むだけだったが女性たちは本当に大変で、獅子が出て行くとものすごい安堵感があったという。
 オモテ、すなわち1日目の夜は夕飯が終わったころからが本祭りである。夜、念仏道場前の広場に人々が集まり、ここで獅子が舞われた。人々はこのとき御祝儀を包んで持っていく。これを「花を打つ」という。花を受け取ると、獅子はその人の名前を読み上げて舞うのである。こうして花を打ちに他のムラからもやってきた。逆に、他のムラの祭りに行くときは花を打ってきた。よその祭りに行けば何度も花を打つことになるため、お金もかかった。
 春祭りには物売りも来て、出店が出た。物売りが来るのはこのときくらいだった。

... 田植え祭り
 田植えが終わると、田植え祭りとして飲み食いした。

... お盆
 お盆は8月だった。
 お盆前には大掃除をした。暮れは雪があるため、掃除することはできないからである。ただし掃除したのは1階部分のみで、アマやソラアマはやらなかった。
 15日、ムラの念仏道場にボンサマ(70頁参照)が入り、11時ごろからオマイリが始まる。お盆のときはボンサマだけで、万法寺から僧侶が来ることはなかった。これに合わせて皆道場に行き、その後それぞれの墓にお参りに行った。墓参りに行くのは毎年この日だけである。なお、このとき子どもたちも一緒に行き、墓掃除をした。これがお盆の仕事だったが、大変だったという。
 お盆には赤飯を炊き、酒やビールを飲んだ。その他は煮物ぐらいで、特にお盆の料理があるわけではなかった。
 迎え火はせず、仏壇にも特別な飾りや供え物をすることはなかった。何か土産物をもらうとまず仏壇に供えたが、あとは自分たちが食べるものを供えるだけだった。
 新盆のときも通常と同じで、特に何もしなかった。

... 秋祭り・豆祭り
 熊野神社の秋祭りがあった。日は決まっていなかったが、毎年11月である。ただし、春ほど盛んではなかった。このとき豆祭りも同時に行った。
 祭りの際、刈り入れの終わった稲を熊野神社に奉納した。

... ホンコサマ(報恩講)
 報恩講のことを「ホンコサマ」という。家の行事としては一年のうち一番大きなものである。日は決まっていなかったが、毎年10月後半の土曜日あたりに行った。
 席はオマエに「コ」の字型に設ける。コの字の口はデ側に開くよう配置し、中央仏壇を背負った席を上座とする。真ん中に座るのはボンサマ、左右には親戚筋のうち一番偉い人を座らせた。女性たちは下座側である。
 始まるのは夕方6時ごろである。食事は毎年決まっており、オゼンにまず5品を並べる(図版33)。食器はオゼンもお椀も朱漆塗りである。手前左には白いご飯を盛った飯椀、右にはオツユを入れた汁椀を置く。このオツユは「イトコ煮」ともいい、ダイコン・サトイモ・ニンジン・ゴボウ・アズキをみそで味付けたものである。奥の左には煮染めを入れたヒラ(平椀)、右には甘く煮たウズラ豆を入れたツボ(壺椀)を置く。煮染めはサトイモ3個とゴボウ3本を使ったもので、一番上に三角の大きな豆腐をのせる。右側、壺椀と汁椀のあいだにはもう1品、コジリを入れた椀を置く。「コジリ(小汁)」とは、豆腐・ニンジン・マイタケ・こんにゃく・昆布を煮染めたものである。
 しばらくして、ナカモリ(中盛)というお椀に入れたナンパコロガシをオゼンの中央に出す。「ナンパコロガシ」とはサトイモ1個とゴボウ1本、そしてゼンマイを使った料理である。すりごまと大量の赤トウガラシをみそに混ぜ、ここにサトイモとゴボウをころがして味を付ける。子どもでは食べられないほどの辛さだという。この他、漬物はそれぞれ家のものを出し、食事が終わるころにチャノコを出す。「チャノコ」とはこうした折のお茶請けのことで、いった大豆や栗、あめ、カバヤのキャラメル、ミカンなどを和紙の上にのせ、こぼれないように四隅を「きゅっと」絞ってそれぞれの席に置いた。ミカンは家によっては和紙の中に入れず、別に配ることもあった。
 こうした料理は全て家で準備する。ゼンマイもサトイモも大鍋いっぱいに煮るため、ゼンマイなどは春から採り貯め、乾燥させて保存しておいた。ゼンマイは特に欠かせないものであり、足腰が弱くて採りに行けない人はもらうか買うかしなければならなかった。料理は女性の役目である。嫁に行った娘や親戚を呼んで手伝ってもらったが、大所帯の家は本当に大変だった。
 食事が終わるとオマイリゴトである。このときは村の人々も皆、輪袈裟を掛けて数珠を持ち、お経の本を携えて集まってくる。そしてボンサマを中心に一緒にお経を上げた。
 オマイリゴトが終わると村の人は帰っていく。そのあと初めて酒が出され、また夜食のお膳が出た。夜食はぜんざいである。子どもたちはこれが楽しみだった。この他、漬物や家にあった残り物を食べる。子どもなどは食べきれないので、皆あらかじめジュウ(重箱)を持参し、余ったものはご飯も含めて皆詰めて持ち帰り、家でまた食べた。
 終わったあとは帰る人もいたが、泊まっていく人もいた。子どもを連れて里帰りした娘たちは、ごく近くに嫁いだ人も泊まっていった。翌朝また食べさせてもらえることもあり、これが一つの息抜きになっていたのである。
 なお、親戚の家でホンコサマがあると、母親は子どもたちも皆連れて行った。ホンコサマの席では子どもたちにも一人一人お膳が付き、同じ料理が出た。子どもたちは特に、チャノコをもらうのが楽しみだったという。

... ガッキサマ(月忌)
 12月の末、雪の深いときに「ガッキサマ(「ガッキ」とも)」があった。故人の命日に合わせて行う行事である。招くのは近所の親戚だけで、食事をしたあとボンサマにお経を上げてもらった。こぢんまりした集まりだった。

.7 人の一生
..(1)婚礼
 結婚式には念仏道場のボンサマ(70頁参照)も呼んだ。大きな家ではボンサマだけでなく、万法寺(鯖江市鳥羽、浄土真宗本願寺派)の僧侶も呼ぶ。ただし万法寺は寺格が高く、僧侶の衣装から違うため、包むお布施の額も大きかった。

..(2)産育
... 出産
 お産にはネドコ(大)の畳部分を使った。耕一郎さんは妹2人が生まれたとき、この場所を使っていたのを覚えているという。

... 名付け
 子どもの名前は必ずしも両親が付けるわけではなかった。名付けの上手な人がムラにいたため、耕一郎さん兄妹はその人に付けてもらった。

... 産後の行事
 お宮参りや七五三はなかった。

..(3)厄年
 厄年には熊野神社に行き、「オカガミ(鏡餅)」を供えた。

..(4)葬儀
... ヨトギ(通夜)
 誰かが亡くなると、夜、同じクミの人がその家に集まり、ハナキリをした。「ハナキリ」とは葬式で使う紙花を切り出すことで、「ハスバナ」「シカバナ」と呼ばれるハスの花を金紙などで作った。昔の人たちは皆作ることができたという。花は祭壇に飾ったあと、火葬するとき一緒に燃やした。
 通夜のことを「ヨトギ」という。祭壇はオマエの仏壇前に作り、ここに亡くなった人を寝かせた。ヨトギにはボンサマが来たが、支度も袈裟を掛けた程度で、お経を上げて終わりだった。

... 葬式
 葬式のとき、家族や親類は必ず黒の紋付やかみしもを着た。ボンサマもこの日はそれなりの支度で来た。集まるムラの人たちは正面オードの他、縁側からも出入りした。
 葬式に出す料理は、現在は業者に頼むが、かつてはクミの人が集まって準備した。家族が何も構わなくても全てやってくれた。

... 出棺
 棺桶は家で作るものではなく、買うものだった。形は丸い桶型で、収めるときはひざを立てて座らせるようにした。
 出棺するときはオマエからデを通り、縁側から運び出した。担ぐのは、親戚も含めムラの中で体力のある人である。順番が決まっているわけではなく、葬式が出るたびにお願いした。

... 火葬
 土葬ではなく火葬だった。火葬場のことを「ヤキバ」という。ムラの共有施設としてかつてはムラはずれの国道沿いにあったが、建物はなく、石組みの穴があるだけだった。風向きによっては煙が道にかかり、臭いなどもしたため、この場所を通るのは昼間でも怖かった。
 火葬するときは石組みの穴にお棺を入れ、周囲にタキギや炭を詰めた上、フタをして火をつける。このとき必ずボンサマを呼ぶ他、大きな家では万法寺の僧侶にも来てもらう。子どもたちは怖がって穴のそばまでは見に行かなかった。火をつけるのは昼間である。そして1晩燃やし、翌朝お骨を拾いに行く。喪主は火の勢いを確認するため、1晩のうち必ず何回か様子を見に行った。
 墓に入れる骨壷は小さかった。入るだけ入れ、あとは埋めたのではないかと耕一郎さんはいう。なお、コツアゲのときはボンサマは呼ばなかった。

... 墓地
 主屋南西の小高い場所にムラの共同墓地があり、江向家の墓も元はこの場所にあった。墓石は幸次郎さんか勇三さんが建てたもので、個人墓ではなく、先祖代々の墓だった。
 墓掃除など、墓参りも大変だった。ただし、墓参りするのはお盆だけである。春の彼岸は雪でできないこともあるが、秋の彼岸にもお参りすることはなかった。
 その後、耕一郎さんは京都に移ったため、墓も西本願寺に移した。埋葬してあったお骨については、灰状になっているものはそのまま残し、形あるものだけ西本願寺に納骨した。元の墓は依頼して壊してもらった。

... 法事
 法事は五十回忌までである。乳児のうちに亡くなった人まで全て行うため、3年に1度くらい法事を上げることになる。誰の何回忌かは万法寺から連絡が来るのでわかるが、そうでなければとても覚えられないという。
 葬式後、法事は初七日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と続く。七回忌くらいまでは子どもたちまで呼んで行う。十七回忌くらいになるとホンコサマ(報恩講)と一緒に済ませる。ホンコサマには毎年万法寺の僧侶も呼ぶため、別にお布施を包んで法事用のお経も上げてもらうのである。ただし、三十三回忌や五十回忌のような節目のときは、また子どもたちまで呼んで別に行った。卒塔婆など、法事の際墓に供えるものは特になかった。
 五十回忌は本当に大変だった。呼ぶ人数が多いだけでなく、持たせる引き物の量もものすごかった。砂糖の詰め合わせ、果物の詰め合わせ、干しシイタケや昆布など乾物類の詰め合わせなど、こうしたものを入れた非常に重いカゴを1人2カゴ、集まった人全員に持たせるのである。五十回忌は一大事業であり、出費も大きかった。年々少しずつ縮小してはいるが、長男は大変だという。
 なお、この五十回忌で法事は終わり、以後故人に対する行事はない。

.8 信仰
... 概況
 五箇山の人々は皆勉強家でまじめだった。そうした行動様式の根には宗教的な感覚があるのではないかと耕一郎さんはいう。小さいときから両親と一緒に仏壇にお参りするため、自分たちの行いは仏様が必ず見ているという感覚が身についているというのである。
 節子さんは仏間の隣の座敷で寝起きしていたが、朝、母親のお経の声で目を覚ましたという。地元の人は大人も子どももお経を唱えることができた。今でもホンコサマ(報恩講)に行くと、人々が輪袈裟を掛けてお参りに集まり、皆でお経を上げている。耕一郎さんがびっくりするほど若い子でも信心深いという。

... ホトケサマ(仏壇)
 江向家の宗派は浄土真宗本願寺派、いわゆる西本願寺である。細島地区の家は全て西本願寺だった。
 仏壇のことを「ホトケサマ」という(図版34)。オマエの西側にあり、毎朝必ず一番にご飯を供えた。子どもたちは毎日お参りするわけではなかったが、すな子さんやまちさんは毎日お参りしていた。
 ホトケサマの前には座布団が置いてあり、中には花が供えてあった。また、左の板戸のところには西本願寺御影堂内陣の写真と親鸞の御影が、鴨居の上には戦死した重一さん(幸次郎さんの兄)の遺影が掛けてあった。
 なお、このホトケサマは主屋とともに日本民家園に寄贈され、現在旧住宅の仏間に展示されている。

... オミヤサン(神棚)
 神棚のことを「オミヤサン」「ミヤ」という。オミヤサンがあったのはオマエの南西角で、仏壇とともに毎朝必ず一番にご飯を供えた。
 祭られていたのは伊勢皇大神宮である。この他、恵比須・大黒・布袋の小さな像も祭られていた。この3体は業者が売りに来たものだが、せつさんは大事にしていた。
 なお昭和40(1965)年の記録写真によると、神棚の下は床の間風になっており、掛軸が掛かっていた。掛けてあったのは、中央に「天照皇大神 八幡大神 春日大神」の御影、左に「天照皇大神 豊受大神」の御影で、右には「出雲大神 家内安全 祈祷守護」の護符と文字不明の護符が貼られいた。耕一郎さんが育った昭和30年代ぐらいまでは、こうしたものはなかったという。

... 護符
 主屋には護符の貼ってある場所が数カ所あった。
 ニワには、デイ境の板戸に「火の用心」の札が貼ってあった。カマドのあった場所の右手である。
 オエには、東側の板壁に「□□除祭神符」と記された護符、北側の柱には「出雲大神 家内安全 祈祷守護」の護符が貼ってあった。
 オマエには、西側オミヤサンの下に同じく「出雲大神 家内安全 祈祷守護」の護符が貼ってあった。
 こうした護符類の入手方法は不明である。

... 氏神
 氏神は江向家の北東にあった熊野神社である。正月の他、春祭りや秋祭り(豆祭り)のときなどに参拝に行った。神主は常駐していなかったが、春祭りの折には来ていた。

... 念仏道場
 各ムラに念仏道場があり、毎朝お勤めの時間には年寄りたちが三々五々お参りに行った。
 念仏道場には「ボンサマ」と呼ばれる僧侶がいた。世襲だが専業ではなく兼業である。細島のボンサマは、先代は郵便局に勤め、現在の人もまた別に仕事を持っている。
 耕一郎さんの同級生にボンサマの長男がいた。早くから家の仕事を手伝い、学校がある日でもお盆や祭りのときは早引きしてよいことになっていた。こうした人は仏教系の大学などで修行したのち、ムラに戻ってきた。
 ムラでは仏事だけでなく、何かにつけてボンサマを呼ぶ。結婚式にも招かれた。
 なお、氏神や念仏道場の雪下ろしは、ムラの中でやれる人がやっていた。

... 参拝
 報恩講や寺の遠忌などに合わせ、福井の万法寺(鯖江市鳥羽、浄土真宗本願寺派)に参拝に行くことがあった。ボンサマを中心に、ムラの老若男女がバスで出かけるのである。娯楽のない時代はこれが一つの楽しみになっていた。
 万法寺はムラごとにある念仏道場の本山的な寺である。報恩講などの折、大きな家にはこの寺の住職がお参りに来ていたため、ムラの人は皆顔を知っていた。

.注
1 江向家 『旧江向家住宅移築修理工事報告書』には次のような話が記されている。「江向家は細島部落のなかでも旧家で、当主幸次郎氏の話によると、何代くらい経ったかは不明であるが、言い伝えでは下流の皆葎部落のしようずから移住してきたもので、当時六軒の部落であったという。このときの他の家はもう絶えてしまって江向家の他にはないといわれる。」(1頁)
2 付属屋 『旧江向家住宅移築修理工事報告書』には次のようにある。「敷地内には現状では今回移築した主屋のみが建っており、付属屋はない。以前は別棟の大便所があったといわれるが(後略)」(6頁)しかし解体前の写真にもクラが写っており、付属屋がなかったとするのは誤りである。なお、別棟の大便所については、今回聞き取ることができなかった。
3 こうぞ池 『旧江向家住宅移築修理工事報告書』6頁。
4 ネタ 『旧江向家住宅移築修理工事報告書』には次のようにある。「丸太材相互を結ぶには藁縄を用いており、この地方でよく用いる「ねそ」と呼ぶ木枝をねじったものを用いてはいなかった。」(9頁)解体前の写真を見ると、確かに使用されているのは縄のようである。江向家でも元はネタを使用したが、ある時期を境に縄に切り替えていったものと思われる。
5 火棚 民家園では現在、江向家住宅の囲炉裏に火棚を吊っている。しかし、オエ・デ、いずれの部屋のものも江向家で使われていたものではない。
6 トネ 『広辞苑』の「とね」の項には「(飛騨地方で)炉の火種を翌朝まで消えないよう保存すること」とある。また、『綜合日本民俗語彙』の「とね」の項には次のようにある。「飛騨の丹生川村などでは、ヒドネというのが爐の火をとめることである。桑の古木の株などを爐に突込み、一家が寝につくに先だつてこれに籾糠を蔽いかける。(中略)或はこの火をトメまたはトネともいう。(中略)岐阜縣揖斐郡徳山村でも火種を絶さぬように爐にいける太い薪をトネもしくはヒイケと呼んでいる。」(1054頁)
7 カマド 『旧江向家住宅移築修理工事報告書』には「以前はこの板壁の前に大きなかまどがあったといわれるが現存しない。」(7頁)とあり、カマドがあったのはニワと通路を区切る板壁の前としている。どちらかの聞き取りに誤りがあるのか、それともある時期にカマドを移動したのか、詳細は不明である。
8 5燭 現在の8W程度。常夜灯として用いられた。
9 家畜 家畜や鶏を飼う家もあった。節子さんの実家生田家(合掌造り)は、家の中に鶏小屋と羊小屋があった。鶏は5羽飼っていた。卵を狙って、毎年アオダイショウが家の中に入ってきたという。羊小屋は入口の脇にあり、綿羊を2頭飼っていた。毎年毛を刈りに回ってくる人がいて、その人が色見本も持ってくる。このとき色と、中太とか太とか糸の太さを注文すると、その通りに仕上げて納めてくれた。この他、ヤギも飼っていたことがあった。乳搾りは節子さんの役目だったという。
10 オロロ 正式にはイヨシロオビアブというアブ科の虫である。日本のアブの中では1、2を争うほど人の血を吸い、特に8月に被害が多発するという。
11 藤坂・銀河 独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構作物研究所の「イネ品種データベース検索システム」(http://ineweb.narcc.affrc.go.jp/index.html)によれば、「藤坂」は青森県の試験場で育成されたもので1号から5号まであり、1号は昭和12(1937)年に、5号は昭和22(1947)年に配布が開始されている。一方、「銀河」は愛知県の試験場で育成されたもので、昭和29(1954)年に配布が開始されている。
12 糸取り用のカマド 『五箇山の四季とくらし』には次のようにある。「繭の乾燥が終わると、糸引きが始まった。七月十五日のぎおんの頃、糸を引くために必要な繭を煮る糸引きガマを作った。カマは石を組んで壁のようにし、隙間に粘土を詰め塗り固めて作った。」(100頁)
13 コルチン 正式には「コルチンMK」といい、富山県滑川市の水野救命大黒堂が販売した風邪薬である。

.参考文献
 川崎市       『重要文化財 旧江向家住宅移築修理工事報告書』 川崎市 1970年
 川崎市立日本民家園 『重要文化財 旧江向家住宅のしおり』 日本民家園 1969年
 五箇山自然文化研究会『五箇山の四季とくらし』 上平村教育委員会 2001年
 富山県教育委員会  「越中五箇山村の民俗」(『日本民俗調査報告書集成』22 三一書房 1996年)
 古江亮仁      『日本民家園物語』 多摩川新聞社 1996年

.図版キャプション
1    江向家旧所在地
2    江向耕一郎さん・節子さん夫妻
3    江向家家紋
4    現在の細島地区 平成24年。
5    主屋の跡地に建つ上平郵便局 平成24年。
6    移築前の江向家(南東側) 昭和40年。左端は戦没者慰霊碑の石垣。
7    移築前の江向家(南西側) 昭和40年。軒下に立つ丸太は雪囲いの柱。
8    移築前の江向家(西側) 昭和40年。右は国道156号線。
9    移築前の江向家(北東側) 昭和40年。主屋手前の張り出しは大便所。
10    洗濯に使われた池 昭和42年。左に見える入口がオード。
11    ウマヤとミソベヤの窓 昭和42年。屋根の隙間に板が差し込んである。
12    入口 昭和42年。右奥はクラ。手前の水路で野菜を洗った。
13    民家園に復原された建築当初の間取り
14    移築前の間取り(昭和20~30年代ごろ)
15    通路 昭和42年。左はウマヤ。奥にオードが見える。
16    わら打ち石 昭和42年。ニワに埋めてあった。
17    メージャ 昭和40年。棚の下に水舟があった。
18    メージャの窓 昭和42年。窓の下に水舟と水路が見える。
19    オエ 昭和40年。床が畳敷きになっている。
20    オエの窓 昭和42年。
21    オエのイレ 昭和42年。火棚はなかった。
22    デ 昭和40年。左は稲。右は脱穀用のトミ。
23    オマエ 昭和40年。右は仏壇。左、掛軸の上に神棚が見える。
24    ネドコ(大) 昭和42年。右はチュウニカイに続くはしご。
25    ネドコ(小) 昭和42年。障子の向こうはヒカエノマ。右手に戸棚が見える。
26    ヒカエノマ出入口 昭和42年。西と北の壁は一部杉皮張り。
27    センチャ 昭和42年。右は渋柿の木。左は洗濯池。
28    ソラアマ(3階) 昭和42年。
29    アマ(2階) 昭和40年。床は板敷き。
30    エン 昭和42年。一段低い場所は祭りや葬式の出入りに使われた。
31    主屋と付属屋の配置
32    軒下の洗濯物 昭和40年。奥にタキギが積まれている。
33    ホンコサマの料理の配置
34    ホトケサマ 現在は民家園に展示されている。


(『日本民家園収蔵品目録19 旧江向家住宅』2014 所収)