千葉県九十九里町作田 作田家民俗調査報告



.凡例
1 調査報告は、日本民家園が作田家住宅の旧所在地である千葉県山武郡九十九里町で行なった民俗調査と、その後3回にわたって行なわれた追加調査の記録である。
2 当初の調査は移築に合わせて行なわれたもので、昭和43年7月に実施された。主な話者は当時の当主作田紋平氏で、聞き取りにあたったのは小坂広志(当園学芸員 当時)である。本文の記述は原則としてこの調査に基づいた。後述の記号がない部分は、すべてこの調査によるものである。ただし、この調査による記述が他の部分に挿入される場合は、昭和の調査の意味で冒頭に(S)の記号を入れた。
3 1回目の追加調査は、小坂が行なったもので、平成6年12月に実施された。この調査は個人的に行われたもので記録はないが、訪問時の質問に対する回答という形で作田光代氏(紋平氏の孫である倉治氏の奥様)の手紙が残されている。今回は、この手紙と、手紙に同封されていた右馬之助氏(倉治氏の父)による見取図を使用させていただいた。記述がこの手紙による部分については、光代氏の意味で冒頭に(M)の記号を入れた。
4 2回目の追加調査は、三輪修三(元当園園長)と、当園ボランティアグループ炉端の会第1グループ木曜班が行なったもので、平成8年3月に実施された。話者は作田倉治氏と光代氏である。この調査はテープより起こされ、すでに『国重要文化財旧作田家住宅の里を訪ねて 現地聞き取り調査報告』(平成9年10月・私家版)としてまとめられているが、今回この成果を含めてまとめさせていただいた。記述がこれによる部分については、炉端の会の意味で冒頭に(R)の記号を入れた。
5 3回目の追加調査は、本書の作成に合わせて行なわれたもので、平成16年3月に実施された。話者は作田倉治氏と光代氏で、聞き取りにあたったのは澁谷卓男である。記述がこの調査よる部分については、平成の調査の意味で冒頭に(H)の記号を入れた。なお、この調査に際しては、永田征子氏(九十九里いわし博物館、元九十九里町誌編集委員)より多くのご指導をいただいた。
6 (M)(R)(H)の記号は、それぞれの記述が1段落にわたる場合は段落の冒頭に、複数の段落にわたる場合は各段落の冒頭に入れた。
7 文中で「現在」「今」という言葉を使用している場合、( )で年度の記載がない限り、平成16年現在の意味である。
8 記録の原稿起こしは宇野田綾子が行なった。
9 写真は、平成16年の調査時に渋谷が撮影したものである。

.はじめに
 作田家は屋号をモトナヤ(本納屋)という。江戸時代には名字・帯刀を許され、代々名主をつとめた家柄である。網主としてイワシの大地曳網漁を営んだほか、明治36年には醤油、味噌の販売も始めている(注1)。昭和20年には、当時の当主紋平氏が鳴浜村の村長もつとめた。菩提寺は法興山東光寺(真言宗智山派)、家紋は「隅切角にだきみょうが」である。家業の地曳網漁については永田氏の論文に譲り、ここでは作田家と地域の関係を中心に、講、年中行事、墓制等について記述することにする。

.1 作田家について
..(1)作田家発祥の地
 (H)作田面足神社のところが作田家発祥の地である。現在地に移ったのは元禄時代であるといわれている。面足神社の近くに住んでいた100歳の老人に、むかしは隣同士だったと言われたことがある。面足神社の社殿の手前に作田家の印として小さな祠がある。この祠は以前は木造だったが、痛みがはげしいので石祠に変えた。この祠の前の池の跡は、作田家の主屋の前に池があるのを模したものである。

..(2)家風
 (H)作田家は言葉遣いが丁寧で、親子のあいだでも丁寧な言葉を使っていた。買い物をするときは、日本橋の白木屋から買っていた。
 (H)ジョウサマ(主人の妻)は夏でも丸帯をしめていた。(R)漁をしていたころは、主人が一番に起きて自分でお茶を沸かして飲み、それから海へ行った。女が起きるのはそのあとだった。
 (H)作田家は合理的なところがあり、家を建てるときの方位も、名前の画数もあまり気にしない。倉治氏に娘ができたときも名前は好きなように付けてよいと言われた。また、初節句のときも雛壇はいらないと言われた。倉治氏は上に姉がいるが、この姉のときも何もせず、倉治氏の初節句のときもおもちゃのような小さな鯉幟だけだったという。紋平氏は「やるとなればちゃんとやらなければならない、だからやらないんだ」と言っていた。(R)行事関係は派手にやってはならないと言われていた。

..(3)住居
 (R)倉治氏が生まれた当時は、曽祖父、祖父母、両親と2人の姉のほか、お手伝いさんと醸造業の従業員2人がいた。
 (R)家の中の様子は、倉治氏の育ったころはつぎのようであった。土間には穀類や当面使う米が積んであったほか、醤油のもろみを絞るフネが置いてあった。食事はチャノマでした。チャノマには囲炉裏ではなく掘り炬燵が切ってあり、春になるとそこに板をわたした。祖父(紋平氏)はここで、お茶を手で練って作った。ナンドは祖父が使っていた。両親はオクノマを使い、倉治氏たち子供はそのほかの場所を好みに応じてそのときどきで使った。お産、葬式にはオクノマを使った。ゲンカンから人を上げることはなく、家族のものもみな土間から上がっていた。オクノマにつづく風呂は物置になっていた。祖父も「お風呂だったというんだけどほんとうかなあ」という程度しか知らなかった。庭では米のほか、燃料に使うおがくずを干した。また、米を蒸かす装置があったので、正月の餅つきの際など、近所の人が来て餅を搗いた。これはお金をとってやっていた。
 (M)下部屋(図1で「にわ」の右につきだしている小部屋)は使用人が寝泊りするところで、物入れ(図1の「にわ」の右下)の中には臼・杵・蓑などが入っていた。(S)屋敷裏にはウチガミが祀られていた。
 (H)紋平氏のころまでは、作田家の女性は駕籠で外出した。作田家(民家園に移築された旧住居)の大戸口は、この駕籠の棹の長さが収まるだけの間口をとってあった。(R)この家は柱の間が長く、カミを修理したとき買ってきた材木が全部何寸か足らず、切ってからもう1回やり直したことがあった。
 (R)屋根の葺き替えは大変で、稼いでも稼いでも屋根に持っていかれた。最後のころには、茅を刈る人もいなくなった。隣が火事になったときは、5、6人が屋根に上がって走りまわり、飛んでくる火の粉を叩いた。
 (R)長屋門があったが、不漁のときに成東町の網元に売った。不漁で燃やすものに困ったときは、縁側の板をはがして使った。そのためこの縁側は、半分が欅で半分は杉になっていた。

..(4)作田家と地域
 地域の人は作田家の主人をダンナサマ、その妻をジョウサマと呼んだ。(R)現在(平成8年)でも70過ぎの人は倉治氏のお母さんをジョウサマと呼び、奥さんのことはワカジョウサマと呼ぶ。(S)人々は作田家の長屋門に入るときはホッカブリをぬいだ。また、話す場合にも縁側に座らなかった。(H)家の敷居から中へは入らず、(R)今(平成8年)でも70過ぎの人は誘っても絶対に上がらない。
 (H)作田の中谷(なかや)地区は北と南に分かれている。葬式があるとその人が北なら北の人だけ手伝いに出るが、作田家の葬式には北と南全戸が手伝う。逆に、倉治氏のお父さんの代までは、地区に葬式があっても手伝いに出ることはなかった。(R)結婚式にも地区の家は作田家を呼ばず、作田家も呼ばなかった。作田家で呼ぶのは、インキョという分家ともう1軒だけである。(H)倉治氏の代になるまでは講にも出ていなかった。
 (R)農地として貸していたところは農地改革で取られてしまったが、海岸のカミナヤ(上納屋)周辺で住いとして船方に貸していた分は残り、それが現在(平成8年)も56軒ほどある。むかしは地代がただだったため、相場のような金額は取れず、1年分がよその1か月分と同じくらいになっている。払いは年に1回である。大晦日は両親につれられて集金に行ったため、紅白歌合戦はまず見られなかった。
 (R)寄付を募るときは、最初に作田家を訪れ、あとの家はその何割というかたちで大体の相場が決まった。

.2 講
 (H) 講は作田の中谷地区(「新田」ともいう)18戸で行なわれていた。この18軒は北と南に分かれており、(S)北新田が8軒、南新田が10軒である。(H)その後2軒減ったが、最近引っ越してきた家があり、その家も入れたため現在は17軒となっている。
 (H)作田家ではいずれの講にも出ていなかった。ただし、宿がまわってきた時には場所を提供し、もてなしはした。講に出るようになったのは倉治氏の代になってからである。
 (H)葬式後3ヶ月は不浄と言い、講にも出られなかった。宿に当たっていた場合もつぎの家にとばした。

..(1)大山講
 (H)正五九月の27日に持明院(注2)の集会所で行なっていたが、現在は5月のみとなっている。集会所を使うようになる前は、宿は持ち回りだった。講に出るのは男のみである。集まると、掛軸をかけてお経を読む。掛軸は北と南それぞれのものがあるが、集まるのはいっしょで、2本の軸をかけて拝んでいる。唱えるお経はつぎのとおりである。

  あい 南無 帰命頂礼
   慙愧 懺悔 六根清浄
  御注連に 大日 金剛童子
   大山大聖 不動明王
  石尊 大天狗 小天狗
   哀愍納受の 一時 礼

  のうまく さんまんだば ざらだん
   せんだ ま かろ しゃあだ
  そわたや うんたら かんまん

 (H)また、毎年5月27日ごろに、北と南からそれぞれ1名ずつ大山へ代参に行った。誰が行くかは順番で決めた。大山では先導師の小笠原氏のところに泊まり、行かなかった家の分も含め、シャモジとお札を買って帰った。その後、内房の工場に働きに行く人が増えて集まれなくなり、昭和40年代半ば以降は数年に1度、言い出す者がいれば行くという程度になった(注3)。
 (H)小笠原氏は旧正月に作田家に数日泊まり、周辺(作田地区以外も)をまわった。小笠原氏が泊まっているあいだは、毎日拝んでもらった。

..(2)子安講
 (H)正五九月の24日に、各戸から1人女性(嫁)が出る。この月並みの集まりのほか、年に1回1月に講を行なう。この年に1回の集まりと正五九の正の集まりがぶつかるため、正五九の方は2月にずらしている。したがって1月2月5月9月と、年に4回集まりがある。
 (H)宿のことをトウバン(頭番)という。1年交代で、その年のトウバンをホントウ(本頭)、前年のトウバンをマエトウ(前頭)という。トウバンの引渡しのことをトウワタシといい、盃を交わす。宿は各家で持ち回りだったが、現在は持明院の集会所で行なっている。
 (H)宿に集まると、観音様の掛軸をかけてお菓子や料理を食べる。掛軸は北と南で違うものを持っているが、別々にやるわけではなく、拝むときには2本を並べて掛ける。
 講ではつぎのような和讃を唱える。

  きみょうちょうらい 子安尊
  世界の女人の誓願に なむ
  十三十四を妻として
  五十にたらはぬ そのうちは なむ
  己の我れみごもりて
  月日に重なる時きらず なむ
  お産の日も徳として
  我も信ずる事なれば なむ
  千所難所をのがれべし 何事もなかれ
  南無や子安の観世音
  あみだぶつ なむあみだぶつ なむあみだ

 (H)この中にある「日も徳」という言葉は、「紐解く」とかけたものである。
 (H)1月の講の前夜、23日の晩はカガリといい、お汁粉や雑煮を食べる。翌日は一日中行なった。
 (H)妊娠した人が出たときには、臨時に集まりを持つ。これをイリコヤスコウ(入子安講)という。このときは妊娠した人の家に呼ばれていき、その家でご馳走になる。作田家はこれにも出ず、お祝いを出していた。

..(3)三夜講
 (H)1月の23日に行なっていたが、15日に変更になり、成人式が毎年変わるようになってから成人式前の日曜になった。かつては宿は持ち回りだったが、現在は持明院の集会所で行なっている。出るのは男性のみである。
 月の出るのを待って行事を行なった。このときイリゴメ、サトゴメを作った。イリゴメとはゴマメの炒ったもののこと、サトゴメとはゴマメの砂糖まぶしのことである。
 (H)月読神社の三夜様の御神体は作田家で寄進した。60年に1度開帳していたが、盗まれてしまった。

.3 両墓制
 墓制については、作田紋平氏、作田正氏、手塚仁照氏より聞き取りを行なった。作田正家は、作田紋平家の先祖三太夫が隠居した家と伝えられている。三太夫は元禄10年の「惣舟持連判の覚」(作田家文書)にその名が見え、そのころの人物と知れる。「作田三太夫、シュロボウキイラヌ オソメオシャラク スソデハク」という言葉も伝わっている。手塚仁照氏は、作田家の菩提寺東光寺の住職である。以下の記述は、特にことわりがない限り作田紋平氏からの聞き取りである。なお、埋墓・詣墓ともに特別な呼び名がないため、ここでは便宜上この言葉を使うことにする。

..(1)概略
 東光寺は真言宗智山派の寺であり、作田地区全域がその檀家である。手塚氏によると、これら檀家の中で両墓制の認められる家は、本郷に5軒、新田に2軒(紋平氏・正氏両家)ある。また、東光寺から下寺へ移転したものの中にも8軒ある。これらの家はいずれも旧家で、集落の上層の家に限られている。本須賀の大正寺の檀家となっている旧家の中にも、両墓制の認められる家がある。

..(2)位置と形態
...ア 埋墓
 手塚氏によると、作田地区の埋墓は、エンマドウ・ノオマンゲ・カグラダイ墓地・シンデン墓地の4ヶ所である。埋墓・詣墓ともに特別な呼び名はなく、以上の名称は地名に由来するものである。紋平氏、正氏も、ともに埋墓を「オハカ」などと呼び、特定の名称は用いていない。なお、紋平氏は「ヂミョウ(地明)のオハカ」とも呼んでいるが、「ヂミョウ」とはその付近の小名で持明院があったことに由来する。以下、作田家の墓地であるシンデン墓地について記述する。
 シンデン墓地は作田家の前方、畑の中にあり、木が植えられている。野道に面した中央に石碑があり、それより右が紋平家、左が正家の墓地である。もとはすべて紋平家のものであったが、墓地を1軒で使用してはいけないというので(法的に)、左半分を正家のものとした。墓地に行く途中にイシボトケがある。新仏が出来たとき、このイシボトケにフダ(札)を貼る。埋葬・年忌参りなどのときには特に関係はない。
 墓地の入口に三太夫の墓があるが、これは近年、正氏によって建てられたものである。
 墓地中央に蓮台とその台座がある。石像は現存しない。紋平氏もそこに石像のあったことは知らないという。正面と右側面に銘文がある。正面右には「真性院智光宗全居士」、正面左には「□光院永林宗寿比丘尼」、右側面には「寛延元□十二月」とある。この石碑に特に呼び名はない。
 昭和43年現在、紋平家墓地には4基の墓碑が建てられている。紋平氏の祖父、両親、先妻のものである。いずれも紋平氏が造立したもので、それ以前は1基も存在しなかった。(H)現在使用しているのは、この埋墓の方である。
 
...イ 詣墓
 東光寺の本堂にむかって左、一番手前に建てられている。基壇の一辺195cm、総高428.5cmの宝篋印塔である。周囲に柵などは設けられていない。正家もこの宝篋印塔を詣墓としている。作田家ではこの詣墓を「オハカ」などと呼んでおり、特別な呼び名は用いていない。
 (H)この宝篋印塔に使用されているのは真鶴の小松石である。みかんの肥料に干鰯を使うため伊豆と交流があり、その帰りに運んだといわれている。

..(3)埋葬
 家から出た棺は、埋墓入口の石碑を3回まわってから埋葬する。土まんじゅうの上には、1尺四方ぐらいの「芝くれ」を3枚積み重ねる。その中央に青竹(太さ親指ぐらい、長4尺ばかり)を立て、そこに近親者がチカラガミ(力紙)を結びつける。そのあと竹の上より水をかける。このとき唱え言などは特にない。
 土まんじゅうの前に六角塔婆・七本塔婆・白木の位牌を立て、その前に白木の台(1尺×2尺)を置く。ここに生前使用していた茶碗・お椀・箸などを置き、米の粉で作ったダンゴ・果物などを供える。このダンゴは、盗んで食べると漁があると信じられていた。
 墓ならしはしない。土まんじゅうは崩れると盛り直す。彼岸にはこの土まんじゅうの上にツツジを植える。なぜ植えるのか、そのいわれはわからない。現在(昭和43年)あるツツジの古株は、これが残ったものである。

..(4)墓参
...ア 埋墓
 埋葬の後、一度墓域から出て、再び引返して墓参りをする。その後、初七日より四十九日まで7日ごとに墓参りをする。百ヶ日のあとは、一周忌、三回忌、七回忌に墓参りをする。なお、正氏によると、埋葬後7日間は毎日墓参りをするという。四十九日・百ヶ日・年忌には墓前に花、線香のほかダンゴを供える。このダンゴは湯灌人が作る。
 湯灌人は葬儀のとき喪主が決める。葬儀の後も年忌などには必ず参列する。ごく内輪の法要の場合でも、湯灌人だけは必ず出席してもらう。このほか葬儀の係としては、穴堀り、挟箱に入った法衣を運ぶ寺への使い、棺を担ぐ者、などがいる。
 
...イ 詣墓
 百ヶ日までは埋墓のみで、詣墓にお参りに行くのは一周忌からである。したがって、一周忌からは両墓へお参りする。

.4 年中行事
..(1)正月行事
...ア 三が日
 正月にはノリ付(ハバ(注4)をつけたもの)の雑煮を食べる。
 正月2日にノリゾメを行なう。(80頁参照)
 (R)正月には船霊様の掛軸をかける。
 
...イ オビシャマツリ
 1月10日に前夜祭が行なわれ、11日にはオビシャマツリ(ホンビシヤ)が行なわれる。
 
...ウ オカシラオクリ
 (H)カシラとは仏事や祭の準備を取り仕切る者のことで、1年ごとの持ち回りだった。これをつぎの家に送る行事をオカシラオクリと言い、毎年1月11日に行なわれた。
 (H)この席ではまず、2尾の魚を腹合わせに置く。これは前のカシラとつぎのカシラを表している。そして両者盃を交わし、宴会となった。かつては祭の道具もこのとき引き継いだ、現在は持明院の集会所に保管しているため、道具の受け渡しは行なっていない。
 (H)作田家も倉治氏の代よりオカシラオクリに参加しているが、(R)かつてはこの持ちまわりに加わっておらず、作田家を飛ばして裏のうちへ行った。
 
...エ アサギネン
 (R)正五九月、作田家とインキョの家に朝、寺から拝みに来た。これをアサギネン(朝祈念)と言う。このとき赤飯を炊いていたが、のちにはお金にかわった。

..(2)春から夏
...ア 彼岸
 初彼岸(彼岸の第1日目)の午前中、埋墓へだけお参りに行く。そのときには線香と花のほか、ダンゴを供える。
 彼岸の中日(3月21日)に大師参りが行なわれた。
 
...イ 田植え
 5月1日に田植えを行なった。作業には主に朝鮮牛を使った。
 
...ウ 五月節句
 男の子の初節句にはノボリを立てる。昔はタコを上げた。
 
...エ 七夕
 7月7日の早朝、カヤカヤ車を引いて近くの川へ行き、一番草・二番草のマコモを刈った。それを家へ持ち帰り、カヤカヤウマを作った。これを七夕飾りのもとへ置き、その前に菰を広げてダンゴを供えた。このとき、カヤカヤウマの口にアンコの餅をくわえさせた。(図3参照)(注5)このウマは翌日川へ流した。

..(3)盆行事
 現在(昭和43年)は月遅れ(8月)でやっているが、昭和38年ぐらいまでは旧暦でやっていた。
 
...ア 盆棚
 仏壇の前に、板戸1枚を使って棚を作る。柱として棚の四隅に青竹(枝葉はつけない)を立て、正面に縄を2段に張る。この縄に稲穂、ホオズキ、ソウメン(古くはアワ・キビなども使った)をつるす。稲穂、ホオズキは縄の縒り目へはさみ、ソウメンは巻くようにしてつける。竹の柱にはススキを5、6本と、ボンバナ(造花)をワラでしばりつける。これらの準備が終ると、本尊位牌をきれいにして棚の上へ出す。
 
...イ 迎え火
 8月13日の夕方、盆提灯(岐阜提灯)を持って埋墓へ迎えに行く。往きは提灯に火をつけずに行き、墓で線香をあげ、帰りは提灯に火をつけてもどる。
 家の上り口に水を入れたカナダライを置く。そのそばへナオシを置く。これは、青竹の片方に割目を入れ、半紙1枚を折ってはさんだものである。もどってくると盆棚へ線香を上げる。
 その後、無縁仏を迎えに行く。迎えに行く場所は正家の裏の角である。やり方はすべて同じである。
 
...ウ トウロウ
 盆の期間中、13日から24日のウラボンまで埋墓にトウロウを立てる。火を入れるのは13日から15日までと、最後の24日である。25日にトウロウをはずす。
 
...エ お供え
 仏様のいる期間(13日夕方から15日夜半)は食事を供える。箸はオガラを折ったものを使う。無縁仏の分として棚の下へも供える。
 14日の夕方、埋墓へ供え物をする。青竹を折り曲げたものを2本並べ、その上へヨシを切ったものを並べて編みつけ、縦、横、高さそれぞれ1尺程度の台を作る。その上へハスの葉を敷き、ナスをサイの目に切ってのせる。そのあと詣墓へ行き、同様のものを供える。
 
...オ アサセガキ
 14日の朝、寺に行き、紋平家と正家先祖代々の供養のためセガキを行なう。新盆のときは、このとき近親者がフジ(諷誦)をあげる(注6)。フジをあげることを「フジを読む」といい、これが多いほど良いとされている。またこのとき、ホカイ(外居)に入れて赤飯を持って行く。セガキの時だけでなく、葬式の時にも親戚や親しい間柄の人がこれにコワメシ(強飯)を入れて持っていった。このコワメシは葬儀の出る前に、家族や年寄り、子供に分けた。
 (R)作田家は必ず最初に拝んでもらい、他の家はそのあとだった。念仏講の女性が行なうジャンガラネンブツも、毎年最初に作田家の墓を拝み、そのあと新盆の家をまわった。
 
...カ 送り火
 15日の夜、12時をすぎてから盆提灯に火を入れて埋墓まで送って行き、線香をあげる。そして提灯の火を消して帰る。
 
...キ ウラボン
 8月24日に、ムエンボトケにダンゴをあげる。

..(4)秋から冬の行事
...ア 甘酒祭り
 (H)旧暦9月17日(現在は10月17日)に、作田面足神社で甘酒祭りが行なわれる。この神社はオボシナサマと呼ばれ、子安様・天王様を祀っている。甘酒は作田家から麹を渡して各家で作り、(S)ヨイマツリである16日の夜(祭の前夜)に徳利に入れて神棚に上げた。徳利には杉の葉をさした。(R)麹にはその年の新米を使った。
 18日には、アクマッパレの獅子舞が行なわれた。1匹に2人が入る二人立の獅子舞である。(H)当日、普段は持明院の集会所にしまってあるグウ(宮)をリヤカー(のちにはトラック)に乗せ、面足神社まで行った。グウを出し準備を整えることをサイタテ(祭立て)と言い、グウに榊を立てた。榊がない場合は杉で代用した。このグウも獅子も地区で持っていたが、いずれも作田家で奉納したものである。グウとともに獅子舞、笛、太鼓が持明院を出発し、神明殿、東光寺に寄ったあと、作田家に来た。作田家では座敷で獅子舞を舞い、昼となった。昼は作田家でもてなした。その時の料理は、赤飯、刺身、煮物、野菜などだった。なお、もとは神明殿でも舞っていたが、その後立ち寄るだけとなった。獅子舞もお囃子も昭和55年ごろになくなってしまった。
 (H)19日には、昭和30年代前半まで作田家の敷地にやぐらを組み、舞が舞われた。獅子舞の種類はいろいろあり、両手に小さな鏡台を持つ和藤内の舞、「オトジローサマよりカネジローサマよりこの子がかわいいんだよ」という舞(注7)などがあった。そのほかヒョットコ・天狗・狐の面をつける舞や、オスギサマという踊りもあった。
 (R)祭りの飲食は、すべて作田家で持っていた。
 
...イ ススバライ
 12月13日に、シノダケ3本ぐらいを束ねたものを作り、ススバライをした。そのあと土蔵の前で食事をした。
 
...ウ 餅つき
 12月24日前に作田家の主屋の前で餅をついた。バタヅキといって、5人ぐらいで餅をついた。24日には寺の餅つきを行なった。
 
...エ コメヨセ
 (H)暮れに各家から米を1升ずつ持ち寄り、ご飯を炊き、残りを金にかえて飲み食いした。ただし、持ち寄るというのはたてまえで、実際には米や調味料などは作田家ですべて出していた。作田家は倉治氏の代まで出ていなかった。今でも行なっているが、現在は会費制になっている。
 
...オ 正月飾り
 カミの部屋の前の庭に4尺から6尺くらいの竹を4尺程度の間隔で立て、根本に松を付ける。そして、2本の竹に横木を渡すように、もう1本の竹を結びつける。この竹は、先端が南を向くようにする。ここに、ワラを編んだ上にユズリハ2枚とダイダイ1個を付けたお飾りをつるした。(図4参照)(注5)

.5 その他
 (R)作田家では、お産は母親の実家でする習慣になっていた。
 総領の七つの祝いに祝儀をもらうと、そのお返しとして籠に餅を入れて行った。
 (R)のちに成東町の町長になった網元と揉めたことがある。そのとき飯岡の助五郎に仲裁を頼んだ。

.注
1 (H)昭和9年に漁業をやめ、現在は醸造業を営んでいる。(R)販路は山武郡内が中心である。なお、味噌も醤油も、もともとは作田家の船方のために作っていたものだという。
2 昭和20年代まであった祠堂で(九十九里町誌編集委員会編 1992『九十九里町誌 下巻』p.174)、(H)堂守がいた。この場所にはその後、農協や町からも寄付を得て出荷場が作られ、地区の集会所としても使われている。
3 (H)永田征子氏によると、作田川をはさんで風俗が異なり、大山講も川より南にはない。石造物も南には少ない。それは、上総の七里法華という宗教政策の影響だという。『九十九里町誌』によると、七里法華とは「酒井定隆が、自己の領内、中野・土気を中心に、北は成東、東は九十九里浜、西は生実に及ぶ約七里四方にまたがる領内に他宗の寺院建立を許さず、ことごとく法華宗をもってした宗教政策」のことである。(九十九里町誌編集委員会編 1992『九十九里町誌』下巻 p.133)
4 磯につく海草の一種「はばのり」のこと。(九十九里町誌編集委員会編 1992『九十九里町誌』下巻 p.506)
5 作田右馬之助氏の描いたもの。
6 諷誦は現金で、金額とあげてくれた人の名を添えて寺に納める。当日寺では施主の名を読み上げ、諷誦文(経文など)を読誦する。(九十九里町誌編集委員会編 1992『九十九里町誌』下巻 p.468)
7 「お染久松」を表現した「お染獅子」のこと。(九十九里町誌編集委員会編 1992『九十九里町誌』下巻 p.643)

(図版キャプション)
写真1 作田面足神社
図1 移築前の作田家
図2 民家園に復原された作田家
写真2 東光寺の宝篋印塔
図3 七夕飾り
図4 正月飾り


(『日本民家園収蔵品目録2 旧作田家住宅』2004 所収)