神奈川県秦野市堀山下 北村家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が神奈川県秦野市堀山下の北村家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成21年(2009)1月21日、2月6日、3月11日の3回に分けて行った。聞き取りに当たったのは渋谷卓男と野口文子、お話を聞かせていただいた方々はつぎのとおりである。
  北村喜久枝さん 昭和3年(1928)生まれ
          昭和27年(1952)に移築時の当主:故一平さん(昭和2年生まれ)に嫁ぐ
  北村教子さん  昭和31年(1956)生まれ
          一平さんの弟:賢一氏のもとに生まれ、一平さん・喜久枝さんの養女となる
  福田里子さん  昭和11年(1936)生まれ 一平さんの妹 足柄上郡大井町在住
  吉田八重子さん 昭和16年(1941)生まれ 一平さんの妹 秦野市在住
3 このほか、当園ではつぎのとおり北村家に関する調査を行っている。この報告では、これらの調査記録もデータとして活かした。
 昭和51年(1976)3月には、運搬用具調査の一環として北村家に対しアンケート調査を行った。調査を担当したのは小坂広志、回答を寄せてくださったのは北村一平さんである。
 平成15年(2003)7月9日には、資料収集にともなって同家を訪問し、一平さんと喜久枝さんにお話をうかがった。担当したのは渋谷と中川文明(当時:当園主査、現:川崎市教育委員会文化財課課長補佐)である。
 平成16年(2004)11月16日には、来園した吉田八重子さんご夫妻にお話をうかがった。担当したのは渋谷である。
 平成21年(2009)5月22日には、秦野市寺山の山口成富氏(昭和30年〈1955〉生まれ)に電話でお話をうかがった。担当したのは渋谷である。
4 図版の出処等はつぎのとおりである。
 1、2、4、22、24、25    平成21年(2009)、渋谷撮影。
 3、16、17     野口作成。
 5〜14、21     昭和35年(1960)10月、故大岡實博士(元横浜国立大学名誉教授)撮影。
                なお、博士の写真は現在、大岡實博士文庫として当園で所蔵。
 15             『重要文化財旧北村家住宅移築修理工事報告書』より転載。
 18、20、23    平成15年(2003)、渋谷撮影。
 19              福田里子さん提供。
 26              昭和42年(1967)、解体時の調査で撮影。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれている。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 北村家は神奈川県秦野市堀山下にある。小田急線渋沢駅より車で20分ほど入った丹沢山塊の麓に位置し、この地形の恵みの中で暮らしを立ててきた。山の陰になっているため、台風の被害はあまりなかった。雪は、昔は30cmぐらい降ることもあったが、それでも丹沢のむこう側(北側)に比べると少なかったという。
 北村家のある集落は堀山下の中で鍛冶ヶ谷戸と呼ばれ、鍛治屋があったところと伝えられている。この鍛冶ヶ谷戸はもと13軒だったが、その後分かれて15軒になった。北村家はここで名主も務めたという家柄である。家紋は「丸に釘抜」、屋号は伝えられていない(注1)。
 この稿では、主屋移築時の当主:故北村一平さんのご家族とご兄妹からの聞き取りを元に、この土地で営まれた北村家の暮らしについて記述することにする。

.1 北村家
... 先祖
 移築時の当主:故一平さんは21代目である。北村家はもと油屋を営んでいたといい、詳しい記録はないものの、解体時の発掘調査では油締めの跡が発見されている(注2)。かつて北村家の神棚やヘヤの戸棚にはたくさんの書付が残されていた。しかし終戦を迎え、こうしたものをしまって置くとアメリカ人に何をされるかわからないということで、半日かけてすべて燃やしたという。そのなかで1つだけ皮表紙のついた書類があった。立派なので残しておいたところ、鉄砲の使用を1年間許可する鑑札だったことがのちにわかった。北村家周辺では猟をするため鉄砲はよく使用した。しかし、半年の鑑札は近隣でもよく見かけたが、1年というものはなかなか無いという。
 北村家は代々器量筋だったという。ちなみに俳優の吉田栄作氏は、一平さんの実妹:八重子氏のご子息である。土地の領主米倉丹後守に乞われ、北村家から嫁に行った人もいた。米倉家はもと武田家の家臣で、のち徳川家に仕え、堀山下200石を賜った家柄である。嫁に行ったこの人は、打ち掛けを着て長ギセルを吸って座っていたという話が残されている。ただし子がなかったため米倉家の墓に入ることができず、北村家の墓地に埋葬された。米倉家の家紋を付けたこの人の墓が現在も残っている。

... 本家・分家
 本家は北村家の東南側にある。この家の墓はとても立派だという。冠婚葬祭のときは一応来てもらっているが、現在ほかに交流はない。一方、西側にある家は北村家の分家である。
 鍛治ヶ谷戸から下の地域は北村姓が多い。とくに堀山下の中はほとんど北村である。これらの家々は北村家と同じ本家から出たという言い伝えがある。

... 家族
 一平さんの父:照藏さんは、早くに母親を亡くして苦労したが、学校の成績は良く、字も上手だった。村の品評会で出す優等の札などはすべて照藏さんが書いていた。また、妻子にもやさしかった。末っ子の八重子さんが男の子にいじめられたりすると、丸太ん棒を持って出て行ったという。
 一平さんの母:トミさんの実家は北秦野である。紋付を着て御料葉を納めに行ったという大百姓で、男衆や女中がいたという。やさしい人だったが、地震が起きればイロリの火を消すのにナベをぶちまけてしまうというように、家を守ることに関してはとても厳しい人だった。
 一平さんは男4人、女3人の7人兄弟だった。照藏さんは子どもが百姓になって苦労するのを嫌い、戦時中の食糧難時代に嫁いだ一番上の娘以外は農家にならなかった。
 一平さんは昭和17年(1942)から小田急に勤めた。新しいものが好きな人で、古い道具類はニワで燃やしたという。
 喜久枝さんは昭和27年(1952)に一平さんのもとに嫁いできた。このとき家族は夫婦のほか、一平さんの両親と妹2人の計6人だった。8〜10人家族が普通だった当時としては、少ない方だった。
 北村家では照藏さんとトミさんが采配をとり、仕事を平等に分けていた。洗濯や掃除も皆が手伝い、休むときは皆で休んだ。また、どんなつまらない物でも等分に分け、嫁の喜久枝さんにもくれた。妹は「姉さんが一番クゲン(苦労)しているから一番でかいのでないとだめだ」とまで言ってくれたという。嫁にとってはすごしやすい家だった。

.2 衣食住
..(1)住
... 概況
 照藏さんの代よりさらに前の大昔、鍛冶ヶ谷戸すべてが火事で焼け、北村家だけが残ったという話が伝えられている。北村家はたまたま裏に川が流れており、近所の人たちが北村の家は守らなければいけないといって川の水をかけてくれたため、焼けないで済んだというのである。周辺の家が新しいのはそのためだという。

... 移築の経緯
 喜久枝さんがひとり裁縫をしていると、横浜の学生だという人が来て、この家がこの辺でいちばん古いと聞いたので見せてくれと言った。家に上げると、この柱がどうのこうのと言ってヘヤの方まで行ってしまった。あとで義弟に、わけのわからない人に家の中まで見せてと叱られおっかなくなったが、それが関口欣也氏(横浜国立大学名誉教授・当時学生)だった。
 移築の話が出たとき、北村家ではすでに建て直すつもりでいた。関口氏が来たのはちょうどそのころで、壊すときは連絡くださいと言うので一平さんが連絡を入れると、今年は予算が足りないから1年待ってくれと言われた。そこで待っていると、その1年のあいだに材料費が高騰してしまった。
 解体当時、北村家前の道は狭く、運搬車が通らなかった。そこで部材をすべてコモで包み、担いで運んだ。梁などはケヤキだったため重く、4人がかりだったという。解体するとき、梁の1本ぐらい持っていってあとは置いていけばいいのにと言ったが、まるごとでなければいけないと言われ、木材から竹にいたるまですべて持っていってしまった。置いていったのはフロの上の木材1本だけだったという。
 解体されたときは仕方ないという思いだったが、古い家にいつまでも住んでいたら寒くて若い者が居られなくなってしまっただろうと喜久枝さんは言う。今は、「新しく建てた家よりむこう(民家園)へ持っていった家の方がもつよ」などと言い合っているという。

... 屋根
 屋根の葺き替えは傷んだところを直していくというやり方が主で、すべてを葺き直す「マルブキ」はあまり見かけなかった。
 葺き替えに使われたのは茅と小麦である。小さい箇所は小麦、大きい箇所は茅など、ヤネフキさんが使い分けた。茅だけで葺けば一代もつくらいだったが、茅を採るカヤバが近辺になかったため、北村家周辺ではそうした家はなかった。喜久枝さんは嫁に来てから、茅を使っているのはほとんど見たことが無いという。屋根に使われたのは小麦だけで、ほかの麦は使用しなかった。小麦ガラも天気が良いときはピンピンしているが、天気が悪いと積んでいても蒸れて柔らかくなり、傷みやすくなってしまった。
 ヤネフキさんはあちこちにいた。すぐ下の集落に親方がいて、その人に声をかければ職人が集まった。人数は屋根の葺き方によって異なり、上まで葺きたいなど要望を出せば、ヤネフキさんが人数を整えてくれた。上まで葺けば人数も必要だったが、4、5人で来ることが多かった。
 屋根葺きの前日はヤネフキさんとともに丸太を組み、足場作りをした。北村家では人手が足りなかったため、近所の人に頼んでいた。
 葺き替え当日は上に1人上がり、下から麦ワラの束を渡してどんどん積んでいった。作業は手伝いも含めほとんど男だった。しかし、一平さんは勤め人だったためいちいち休めず、近所で葺き替えがあるときも喜久枝さんが手伝いに行った。喜久枝さんは高いところが嫌いだったので、家でやるときも手伝いに行くときも、ワラを1把ずつ上にいるヤネフキさんに下から渡す役だった。ゴミがかかるため下の方が嫌われたが、高いところが苦手だったため仕方なかった。
 屋根を葺く際は、ヤネフキさん4、5人分のほか、近所の下働きの人の分まですべて食事を出した。イモの煮もの・お煮〆・キンピラ・味噌汁などで、夜はうどんやソバを打って出した。女は屋根葺きの前日から準備で大変だった。
 ヤネフキさんは初日4、5人で葺き上げ、翌日は2人ほどに減らしてハサミで形を整えた。足場を組む日程を入れても通常は3日で終わった。

... 壁
 移築前は建て替える気でいたため、壁も修理せず、穴が開いていた。土壁は家の者だけで補修することはなかった。昭和26年(1951)に物置を建てたときも、壁は翌年、近所の人が皆で塗ってくれた。ドロカキをして壁を塗り、壁が落ちないようこのときは外には竹を、中には板を張った。

... ゲンカン
 通常オオド(大戸)は閉め、クグリドから出入りしていた。ここをゲンカンといった。畑へ行くときなどにカギをかけることはなかった。

... ドマ
 オオドを閉めていたため、ドマは暗かった。ドマは作業場であり、食料や農具の置き場所でもあった。
 穀物・調味料など、食料はすべてドマに貯蔵してあった。昭和27年(1952)ごろは、ドマの中ほどの壁沿いに、地息(湿気)が上がってこないようムシロなどを敷き、その上に食料を積むための台が設置されていた。この台には米・小麦など1年分のコクが、古くは俵で、その後は袋で積んであった。この穀物置場の上には棚が吊ってあり、ここにも物を置いていた。なお、ドマからザシキに上がる上がり框にも食料を置く台があったが、煙草の乾燥等に使用しているあいだは使われていなかった。
 ドマの壁に竹の桟が設けてあり、クワやザル・カゴなど農器具を掛ける場所になっていた。ドマの掃除には竹の箒が使われた。
 ドマには大小2つのカマド(ヘッツイ)があった。小さい方のカマドは昭和27年(1952)以降に造られたものである。大きい方のカマドは、その後一平さんがコンクリートで補修して現在の家の裏に置いてあり、年に一度の餅搗きにはいまだに使われている。大きいカマドは口元が広いため、菜種ガラや煙草のカラなどのボサを燃やしていた。ボサとは、草などを刈り取ったものを指す言葉である。一方、小さいカマドは口元が狭いため、割った良いマキしか使うことができなかった。しかしその分火力が強く、火持ちが良いのでマキはいくらもいらなかった。なお、カマドの灰は溜めておき、茶碗を洗うのに使ったり、畑に撒いたりしていた。

... オカッテ
 ドマとオカッテの境に戸はなく、風が入ってきた。この部屋は板敷きで、上がってすぐの場所以外はウワシキ(畳表)が敷いてあった。
 上がって右手にナガシがあった。このナガシはしゃがんで作業するようになっており、腰に負担がかかって使いづらかったという。ナガシの左には洗い物を置く台があった。右にはミズガメがあり、汲んだ水でコチョコチョと洗い物をしていた。このカメに水を汲み入れるのが重労働だった。ミズガメの手前にはオケが置いてあり、ウシのエサにするため野菜のクズなどを入れていた。このほかナガシの周囲には、ザルなどを置く吊棚や竹製のヘラ立てなどが設けられ、ソバ作りの道具なども置いてあった。
 ナガシの正面には障子の入った小さい窓があり、ツヤのある格子戸が付いていた。
 窓のとなりには障子戸があり、ここから出入りすることもできた。障子戸の両脇には小さな茶だんすが置いてあり、茶器のほか茶菓子など食料品・酒瓶などを入れていた。
 この左側、一番ヘヤ寄りには食器棚と食料庫を兼ねた戸棚があった。半分は食器、半分は粉など食料が入れてあり、梅干し・味噌・砂糖などもここにしまっていた。米びつもこの戸棚のそばに置いてあった。なお、この戸棚の上には神棚があった。
 北村家の家族はナガシの横で食事をしていた。座る場所は決まっており、主人がザシキ側、妻がドマ側、子どもたちは流し側に座った。オヒツは妻の席の右側に置いていた。

... ザシキ
 ザシキは18畳あり、イロリがあった。現在でいう居間であり、客が来るとまず通すのもこの部屋だった。泊り客があるときもこの場所に布団を並べて寝かせた。
 ザシキはまた作業場でもあり、物を置く場所でもあった。上がり框のオオド側は1畳の板敷きになっていた。この場所はいつもピカピカに磨かれており、米ができると俵をここに積んだ。これは神棚に見せるためだったという。この板敷きの場所の一番オオド寄りを特に「アガリハナ」といい、客があるとここに荷物を置いていた。なお、寒い時期はこの上がり框の柱と柱とのあいだに、障子のようなものを入れていた。
 ドマから入って右、オカッテとのあいだには黒光りした格子戸があった。この戸を磨くのは子どもたちの役目だった。
 入って正面には神棚が一列に並んでいた(65頁参照)。その下は一部がトコノマになっており(押し板)、ピカピカに磨いてあった。ただし、花を生けることはあったが、掛軸をかけることはなかった。掛けてあったのはカレンダーで、右隅には小さな神棚、そしてすぐ左の柱には柱時計があった。手前には机が置かれていたほか、テレビやラジオが置かれていたのもこの場所だった。
 この部屋の床は、移築時の調査により民家園では竹簀子床として復原している。しかし、一平さん兄妹が育った時代には畳敷きになっていた。喜久枝さんは近隣でも竹簀の床は見たことがないという。(注3)
 5月ごろ、もうすぐ煙草が忙しくなるという時期になると、畳をすべて上げ、オクとの境に積み上げた。そして、板の上にゴザ(古い畳表やウスベリ)を敷いた。こうすると天井から吊るして部屋の中で乾燥させたり、雨が降ったとき外に干していた葉(秦野葉)を取り込んだりすることができた。煙草のヤニで大切な畳が汚れないだけでなく、夏はこの方が涼しかったという。
 お盆が来ると来客用にゴザを花ゴザに替えた。花の模様の付いたきれいなものだったが、客のないときはこの上で作業もした。
 正月前、大掃除になると畳屋を呼んで畳を入れた。畳が敷かれるとすごく広く感じたという。一平さんの仕事の関係で客を呼ぶことがあったため、毎年ではないが、何かの節目ごとに畳は取り替えていた。こうしたとき畳屋はニワ(外庭)に畳を出し、2日くらいかけて直した。
 イロリに座る場所は決まっていた。主人の席は神棚を背にした場所である。この場所をヨコザといい、客にも座らせなかった。照藏さんはここでよく、イロリの灰に火箸で文字を書いていたという。主人の向かい、カマドに近い場所には主人の妻が座った。子どもたちはオカッテ側に座り、嫁や近所の人などは「シタ」と呼ばれるオオド側に座った。
 イロリでは普段、マツヤマから採って来たマキを燃やしていた。夜は危なくないよう火に灰をかぶせ、片付けてから眠った。イロリの灰も食器を洗うのに利用されたほか、肥料や灰汁抜きにも使われた。
 イロリをあまり使わなくなると、冬はイロリの上にやぐらを置き、大きな布団をかけてコタツにしていた。燃料にはフロを焚いたときに出る消し炭を使った。コタツが出ると、朝ごはんは上にお膳を置いて食べた。コタツは3月はじめぐらいまで出し、しまったあとは危なくないよう、炉の上にスノコのようなものを置いてフタをしていた。
 オカッテとドマに接する場所、ちょうどカマドの背面側にある柱に小さな神棚があった。ここにはコウジンサン(火の神様)を祀っていた。

... オク
 オクには畳が一年中敷いてあった。今でいう客間であり、正月など、客が来たときにはここでもてなした。姪や孫など子どもががたくさん来てパタパタしていたという。仏壇はこの部屋から拝むようになっていた(66頁参照)。
 天井が張ってあったのはこの部屋のみである。他は天井がなく、代わりに簀のように竹がたくさん渡してあった。イロリやカマドで火を焚くためススがたくさん溜まり、台風などが来た日にはこれが落ちて足の裏が「ナベの尻のように」真っ黒になった。また夜寝ていると、青大将やムカデが落ちてくることもあったという。
 オクはまた寝部屋でもあった。若夫婦は普通ヘヤで寝るが、一平さんが結婚したとき、母親のトミさんは「おれたちもここで寝たからおめらでもこっちへ寝ろ」と言って、自分たちが寝ていたオクを譲ってくれたという。夏はカヤを吊っていた。
 移築前はこの部屋にも押入れがあり、布団がしまってあった。押入れのとなりはトコノマだった。天照皇大神宮の掛軸がかけてあり、手前に鏡台や戸棚が置いてあった。照藏さんが花好きだったため、正月に限らずニワに咲いている花を生けたりした。トコノマの上には照藏さんの遺影とトミさんの肖像画が掛かっていた。この肖像画は絵描きさんに頼んで描いてもらったものである。

... ヘヤ
 ヘヤにも一年中畳が敷いてあった。ここは夜寝るときのみ使用するネベヤで、一平さん夫婦がオクを使っていた時代は、照藏さん夫婦と一平さんの妹2人が寝ていた。ザシキは広くて寒いため寝ていられなかったという。
 なお、祭りや行事でオクを使うときは、オクの荷物をすべてこの部屋に運んだ。

... ロウカ(エンガワ)
 ロウカ(エンガワ)は正面側のほか、ヘヤの脇にもついていた。床板はベンジョを増築したときにいずれも張り替え、ツルツルだった。ただし、ヘヤ側のロウカは後からの付け足しのため、雨戸の戸袋の位置が本来と異なり(注4)、正面側のようにロウカの内側ではなく、外側についていた。台風などの翌日は吹き込んだ雨で、ロウカが真っ白に汚れたという。ロウカの下はトブクロ(ふた)が取り付けられ、煙草を干すときの竹や材木などがしまってあった。昔の家は床下の風の通りが良かった。

... ニノコヤ(天井裏)
 ニノコヤ(天井裏)は竹を渡してスノコになっており、コヤに入りきらない麦ワラを積んでいた。ドマからハシゴをかけて上がり、オクの上からザシキまで、空いているところにはすべて詰め込んでいた。そのため、ネズミがたくさん巣を作ってしまった。

... ベンジョ
 オオドの脇に男性用の小ベンジョがあったほか、古くは裏手のフロのそばに男女兼用のベンジョがあった。その後、ロウカの突き当たりを改造し、その奥に大用と小用のあるベンジョを作った。このベンジョは主屋を解体したときタイヒゴヤ(元のウシゴヤ)のそばに移しソトベンジョとしたが、あまり使っていなかった。

... フロ
 フロは裏の水槽(「水利」の項参照)の脇にあり、ここから水を汲むのは子どもの役目だった。風呂桶は木製で、下に焚き口が付いていた。燃料にはコビラ(軒下)に積んであるマキを使った。湯が熱くなりすぎると水槽から水を汲み入れ、使った湯は水路に流した。
 浴槽の脇には照藏さんの作ったスノコの洗い場があった。しかし脱衣所はなく、脱いだ服はそばにあった丸太の衣服掛けに掛けていた。屋根はあったので雨の日も濡れる心配はなかったが、壁がないためとても寒く、冬場はオカッテの戸から出入りした。
 フロは毎日入った。入る順番は決まっておらず、空いている者から順に入る。すぐぬるくなるので続けてどんどん入るが、それでもぬるいと「燃してー」と叫んでマキを燃やしてもらった。その後、一平さんが夜遅く帰ってきてぬるいとか熱いとかいうため、マメタ(豆炭)を買って火に入れるようになった。マメタは長く燃える上、火を大きくするのもたやすいため便利だったという。冬の寒い時期は4時ごろ沸かした。そうすると近所の人がフロをもらいに来た。なお、髪は毎日は洗わなかった。

... コヤ(付属屋)
 北村家の敷地にはいくつかのコヤ(付属屋)があった。コヤはいずれもトタン葺きだった。
 コヤ(モノオキ)は主屋の北東側にあった。農機具が置いてあったほか、小麦やビール麦など、天気のとき干したものをここに取り込み、その後脱穀機で扱きながら片付けたりしていた。現在の物置は昭和26年(1951)に建て直したものである。
 主屋の北側にはマキ小屋があり、マキやタキギが1年分しまわれていた。クヌギなどの木をナタで割ったものがマキ、小枝を拾い集めたものがタキギである。
 南側にはウシゴヤ(タイヒゴヤ)、南東にはブタゴヤ、オオドの右手にはトリゴヤがあった。

... ニワ
 北村家周辺はどの家もニワが広く、さまざまな農作業ができるようになっていた。
 北村家のニワには野菜畑があり、そのまわりにはケヤキ・ツバキ・サカキ・クリなどの木があった。

... 水利
 北村家の裏には北から南へ川が流れていた。主屋に差し掛かるあたりで勾配がゆるくなるため、その境目がちょっとした滝になっていた。水車小屋があったのもこのあたりである。
 飲料水はこの川の水を利用していた。上流でしかも清水だったため他の家では汲んだまま使用したが、北村家は流れのそばに貯水槽を作り、濾過して使っていた。
 貯水槽はウラドのそばにあった。丸い形のものが3層設けられており、一番上は砂利、二番目はシュロの皮など、そして一番下はコンクリートできれいに固めてあった。喜久枝さんはこの貯水槽から毎朝水を汲んで、オカッテのミズガメに溜めた。トヨ(樋)で引いたものを2度濾過するため、水は非常にきれいだったという。このトヨは雨が降ると外した。川の水が濁るためである。しかし、嫁にきてすぐは何もわからず、夕立のとき外さないでおいたら、水槽の中が真っ黒になってしまったという。
 この川はそのほか、トマトやスイカを冷やすのにも使われた。子どもたちは夏、学校から帰るとこの場所で泳いだ。水がきれいだったためホタルもたくさん出たという。
 このように水には恵まれていたため、井戸はなかった。北村家周辺には「井戸を掘ると目の見えない子が出来る」という言い伝えもあったという。
 堀山下で簡易水道を引くことになったとき、1軒ずつ役が割り当てられ、堰の方まで掘りに行った。しかし、貯水池に泥水が入って断水したりしたため秦野市がすべてやり直し、それ以来降っても照っても水には困らなくなった。

..(2)食
... 概況
 食べ物は何でも自家製だった。北村家ではうるち米・もち米・小麦・ソバなどひと通りのものは作っていたため、家には食料がそろっていた。
 食事は朝・10時・昼・3時・夜にとった。夕方、畑から帰ってくると夕飯のしたくをする。大抵はトミさんか喜久枝さんがやったが、北村家では男でも女でも手の空いている者がやっていた。忙しいので手間がかからず、かつ栄養のあるものを用意する工夫が必要だった。
 調理にはイロリのほか、ドマの大小のカマドを使った。ご飯やおかずには基本的に小さいカマドを使ったが、煮物などは火に当たりながらイロリで調理した。大きい方のカマドは調理にはあまり使用しなかったが、ソバをウデるときはこちらを使った。大きいカマドの方がウデ上がるのが早かった。
 カマドにはサンジョウナベ(三升鍋)が置いてあった。サツマイモの煮物など、昔は何を作るにもこのナベを使った。
 食事にはオカッテを使ったが、冬は寒いのでザシキのイロリを囲み、お膳で食べた。イロリには大きなナベがかけてあり、朝は餅の入った雑煮などを食べた。
 昔は「几帳面な」良いお皿などはなかった。洗うときは油物を盛らなかった器から水で洗う。つぎに灰を付けて油物やナベをヘチマで洗う。灰はカマドやイロリのもので、いらない皿に入れて流しに置いていた。

... 普段の食事
 昔の食事は麦のご飯におかず1品、それに汁が付くくらいのものだった。忙しいときは、金山寺味噌の味噌漬やタクアンなどの漬物、キンピラなどでご飯を2、3杯かきこんで終わりだった。何でも腹いっぱい食べるだけだったが、麦などザッパもので栄養価が低い上、よく動くのですぐにおなかが減った。麦を押し麦にするときは、商売の人に押してもらっていた。
 作物を育てていたので、何か採れるとそればかり食卓にのぼった。ジャガイモが採れれば毎日ジャガイモ、イモ(サトイモ)が採れればイモばかり、キュウリが採れればキュウリばかり食べた。そうでなければ生活できなかった。
 落花生も調理して食べた。家で食べたのは出荷できないカスや、保存分のタネのなかで悪いもので、炒ったり、鉄火味噌(油味噌)にしたり、それからゆで落花生にもした。ゆで落花生は普通のナベでは時間がかかるため、今は圧力鍋を使う。これは採れたてでないとできないものだった。
 落花生を炒るための大きなナベを使い、小麦粉でパンを焼いた。これを「ナベヤキ」といい、砂糖や味噌などで味をつけるととてもおいしかったという。

... イモ
 北村家周辺では米はあまり作っていなかった。盛んだったのは麦作で、そのため主食にも米はあまり使わず、麦とイモ(サトイモとサツマイモ)が中心だった。
 毎日というわけではなかったが、ご飯がなくなるとイモだった。サトイモを塩でゆでた「シオウデイモ」というもので、喜久枝さんが嫁に来た食糧難のころは、朝はこれが主食のようなものだった。イモが続いたある日、姑のトミさんが「飽きたら米があるから食べな」と言ってくれた。しかし他の家族がイモなのに自分だけ米を食べるわけにもいかなかった。イモは胸が焼けて仕方なかったという。
 また、同じころ嫁に来た近所の人から、喜久枝さんはこんな話を聞いたという。その人は新潟から嫁に来た。実家は米所で逆に麦が高価だったため、日ごろから米のご飯を食べていた。ところがこちらへ嫁いで来たら、この辺では米をあまり作らない上、兄弟が多くて麦やイモを食べることが多かった。嫁に来てすぐのころ、姑がタネのような小さいイモをメカイゴ(目籠)でたくさん洗い、ナベで煮ていた。不思議に思い、おかあさんこのイモはブタが食べるんですかと聞いたところ、人間が食べるんだと言われたという。その人は今でもそのことが忘れられないという。

... 餅
 餅を搗くときには小さいカマドで蒸かし、ドマで搗いた。焼くときには網を使い、煙草ガラなども燃やした。

... ソバ
 北村家周辺は田んぼが少なかったため、客があるとソバブチ(そば打ち)をしてもてなした。ソバ粉はかつて水車で挽いていた。その後製粉機を買ったがあまり使わず、現在は農協から取っている。ソバ粉を3升使うと、セイロ3つくらいになった。冬は傷まないので客用に箱3つ分ほども作り、フロの横の棚にしまっていた。
 ソバは太く切ると、細いものに比べ、ゆでたとき量が半分になってしまう。喜久枝さんはソバブチをしたことがなかったため、嫁に来たころは上手くいかなかった。あるとき、夕食にタンメンのような太いソバを出したところ、舅の照藏さんが「作ったのは誰か」と言った。すると、義妹の里子さんが「私が作ったんだよ」と言ってくれた。喜久枝さんはその言葉にほんとうに救われたという。

... 魚
 魚はそれほど頻繁に食べるものではなかった。よく食べたのはアジ・サバ・イワシ・イカなどである。魚といっても刺身などはめったに食べられるものではなく、煮付けだった。
 魚は自転車で売りに来ていた。堀山下の関に「しんちゃん魚屋さん」があり、普段食べるものはここから買っていた。日ごろの食材のうち、買うのは魚ぐらいだった。
 照藏さんが早川(小田原市)の方に行って、大きなブリなどを手に入れてくることがあった。家でさばき、刺身や味噌漬けなどにした上、骨まで煮て食べた。1本まるごとはなかなか食べきれなかったという。
 生活が良くなってからは、イカやタイの粕漬けなどを箱で取ることもあった。

... 肉
 肉はたまに食べる程度だった。ニワトリを食べるときは羽根を抜き、火でまわりを焼いた。鉄砲撃ちの人が山で獲ったものをもらって、ウサギならウサギノゴハンにしたり、ハトならソバのつゆに入れたりした。
 喜久枝さんが嫁に来る以前は、ブタの臓物を買ってきて食べることもあったという。

... キノコ
 ブタゴヤのまわりにケヤキなどの立つ場所があり、これを「カゼイ(風除けの屋敷林)」といった。マキ割りのとき、「これはいいな」と思う木をその藪の中に入れておく。これにシイタケ菌を入れると、秋の雨が降るころゾッコリ採れた。シイタケはフロの火を焚くときあぶって夕飯のおかずにしたり、糸で結んでロウカの軒先に吊るし、保存用に乾燥させたりした。現在でも秋になると、近所の人が山へキノコを採りに行き、アシナガなどをくれることがある。そうすると砂や石ヅキを取り除き、水を切って袋に小分けし、空気を抜いて冷凍しておく。

... 山菜
 ワラビは山へ採りに行くと、たくさん生えていた。これをオケに入れ、煮え立ったお湯と灰を入れてフタをすると、灰汁抜きができる。食べるときはこれを水で洗い、さっとゆでて砂糖と醤油で煮たりした。現在はマヨネーズやカツオブシなどをつけて食べることもある。
 フキは家のまわりでたくさん栽培しており、フキノトウが出ると酢味噌で食べたり、てんぷらにしたりした。しかし、採れたてをさっとゆでて三杯酢で食べるのが一番おいしく、タコやキュウリなどを入れるとさらにおいしかった。
 ウドも3月ごろになると採ってきた。また照藏さんはお盆のころになると、近くの山から立派なウドやナガイモを担いで帰ってきたという。
 こうした山菜は塩漬けにして保存する家もあったが、北村家では食べる分だけを採っていた。

... その他の食材
 ヘビやカエルなどはゲテモノといって、周囲の人はあまり食べなかった。しかし北村家では「栄養があるのだから」といってよく食べていた。そのためか北村家の兄妹は、まわりの子どもと比べて背が高かったという。
 夏、畑に行くと3mもある大きなアオダイショウがいた。照藏さんは捕まえると頭をピンと取り、皮を剥いでハラワタを除いた。そして、フロを焚いたあとできる良い炭を使って醤油をつけて焼き、カバヤキにして食べた。
 かつて北村家の敷地の隅には池(防火用水)があり、ここで食用ガエルを飼っていた。食べる時期は決まっていたが、どんどん増えたという。捕ってくると家の裏で皮を剥き、やはりフロの炭で焼く。すると、皮を剥かれているのに、手足をワーっと伸ばして動くという。これはとてもおいしく、大きさも焼き鳥以上だった。
 裏の川にはカワニナ(田螺)やサワガニがたくさんいた。サワガニは煙草をノしている時期に出た。このころになると川の水が少なくなるので、里子さんたちが川の中に入り石をどける。するとワンワン出てくるのでザルいっぱい捕り、カマドにかけたナベに入れる。フタをしてゆでると真っ赤になるので、これを砂糖と醤油でイビッテ(煮て)ご飯のおかずにした。まるごと食べられ、味も干しエビに似ておいしかったという。
 家の裏のカゼの中にデンデンムシがたくさんいた。フロを焚きながら炭の上で焼き、塩をふって食べると、サザエに似た味がしておいしかったという。

... 調味料
 昔の料理の味付けは醤油か砂糖か塩だった。
 醤油や味噌の仕込みは正月から2月の農閑期で、この時期に1年分を作った。まず、大豆を前の晩から水に浸けておく。翌朝、ニワ(外庭)の地面を堀り、そこに大釜を据えて豆を煮る。その後木桶に移し、足を洗って2、3名で踏む。麹を寝かせたあと、醤油を搾るのだけは醤油屋さんに来てもらった。
 味噌と醤油は家の中のいちばん寒い場所、ドマのウラド寄りの壁際に置いてあった。大きな樽(のち小さい樽に替えた)で保存し、味噌は使う分だけイットガメ(一斗甕)に移していた。
 砂糖は戦後は買えるようになったが、里子さんの小さいころは畑でサトウキビを育て、機械で搾り、煮詰めて作った。子どもも手伝わされたという。当時、白い砂糖は高級品であり、岩のような黒砂糖をイットガメに入れて使っていた。
 油は自家製の菜種油を使った。甕のような容器に入れてあり、てんぷらなどに使った。
 酢と塩は自家製造はできなかったため買っていた。

... ご馳走
 祭りや正月は3日くらい前から準備しなければならかった。オスシ・キントン・ヨウカンなど、やっと料理を出し終わると、今度は土産として重箱に詰めなければならない。子どもに持たせたり人にあげたりと、その場で食べるより土産にする方がずっと多かったので、これがまた大変だったという。オスシは5升分くらい作っていた。
 チラシやオスシなどはしょっちゅう作った。雨の日など、ちょっと暇ができたときに作っては近所に持っていった。近所でオスシを作るというときは、喜久枝さんもよく手伝いに行った。オスシは折へ9つ入れるのだが、手伝いに行くといくつも作るので、手が「ひなくれて(ふやけて)」しまったという。
 ヨウカンはお祭り・春秋の彼岸・お盆と、年に4回作った。小豆を煮てザルで濾し、大きなナベに入れて1時間半ほど練る。このときピンピン飛んで熱いので、コウカケをして作業したという。黒いヨウカンだけでなく、白あんを買ってきて色を付け、青いヨウカンなども作った。お盆のヨウカンは寒天の寄せ物だった。
 卵は貴重品だった。ニワトリを飼っていたが、おなかに子どもがいても卵を飲む機会などなかった。牛乳も同じように貴重品だった。

... 弁当
 北村家では男も畑に持っていくおかずなどはヒョッと作った。持って行ったのは、うどん粉に重曹を入れて練り、ナベで焼いたり蒸かしたりしたものである。ふっくらせず板のようになってしまうが、10時のお茶に持っていったり、昼休みに作って3時に食べたりした。
 里子さんが国民学校に通っていたころは、弁当を持ってこられない同級生がたくさんいた。農家の子どもはご飯もおかずも入った弁当を持ってくるが、そうでない家の子は食べるものがなかった。そうした子は農家の子が弁当を開けると、食べ物の匂いがするので急いで教室を抜け、水道の水を飲んで皆が食べ終わるころ戻ってきたという。里子さんは弁当のほかにいつも食料を持っていった。煮たオサツやサトイモを1つずつ新聞紙にくるみ、ウワッパリで作った手提げに入れて、母親のトミさんが持たせてくれたのである。里子さんは昼になると、弁当を持ってない子どもを見つけてこれを分けてあげた。里子さんは後年、イモなどをあげていた人に命の恩人と言われたという。
 里子さんの弁当は麦ご飯だったが、5歳ちがいの八重子さんのときはお米のご飯だった。タケノコが出はじめると、弁当のおかずに油揚げとカツオブシを入れた「油味噌」を入れてもらった。

... 保存食
 冬場、サトイモを洗ってコヤの前に干しておいた。また、豆腐を作って白糸で結び、ロウカの軒先に吊るした。こうしておくと凍り豆腐ができた。凍り豆腐は少し温かくなると黴てしまうので、そのころにはビンなどに入れ、戸棚の中にしまった。
 お客がきたときのため、米の餅をミズモチにして保存していた。餅はそのまま置いておくとコワくなり黴てしまう。そこで、搗いてしばらく置いて硬くなった餅を水に浸けておくのである。水は頻繁に取り替える。あまり浸けておくとダラけておいしくなくなってしまうため、餅は余計に搗きすぎないようにする。餅を漬けるオケは入口から入ってドマの右奥にあった。食べるときは子どもが台にのってザルですくい、布巾で拭いて火で焼いた。
 漬物はさまざまなものを作っていた。
 冬はタクアンを作った。大根を干しておき、大きな樽にこの大根と、米ヌカに塩を混ぜたものとを交互に入れて作った。キュウリやナスなどは、中くらいの大きさの樽でヌカ漬けにした。
 梅干しはイットガメで漬けた。現在とは違う塩辛いもので、トグチのそばで干していた。オカッテの戸棚の中には、このイットガメに入った梅干しがしまってあった。
 ラッキョウは焼酎の甕で漬けた。6、7月に収穫すると根と上の部分を切って甕に入れ、塩を入れて栓をする。これを2甕ほど作り、横に寝かせておいて暇があると転がしてやる。そうすると1か月ほどで食べられるようになった。市販の甘酸っぱいものとはまったく異なり、びっくりするほどおいしかったという。甕の口が小さいので、出すときは箸を突っ込んで取り出していた。
 夏は金山寺味噌を作った。炊いた麦に麹を混ぜ、栄養のある食べ物を何でも漬け込んだ。

... オヤツ
 夏場はトマト・キュウリ・ナスなどがたくさん採れた。学校から帰るとニワの畑からトマトなどをもぎ、裏の川で洗って塩を片手に食べた。
 菓子などは買ったことがなく、すべて自家製だった。北村家を含め、このあたりでは小麦を作っていたため、正月・お盆・祭りなど何かあるとカリントウを作り、子どもにも持たせてやった。これは練った小麦粉をよじくって自家製の油で揚げたもので、とてもおいしかったという。このほか、落花生を炒ったものや、ショウガを薄く切って砂糖をまぶしたものもよく出した。このようにお茶菓子は黒砂糖をまぶしたようなものが多く、店で買うようなお茶菓子をくれる家など近所にはなかった。

... 酒
 日本酒は高かったため、北村家周辺では焼酎がよく飲まれた。焼酎は甕で買った。北村家では照藏さんもトミさんも飲んだので、この甕がいくつもあったという。
 かつてはドブロクを作っていた。トミさんは味噌や醤油も作っていたので、ドブロクの仕込みなどお手の物であり、たいへん上手だった。仕込むのは冬場である。麹を買ってきて醸造するので、冬場は酒の匂いがプンプンしていた。そのため役人が来るとオケで密閉し、裏の縁の下に隠した。熟成しはじめは甘くておいしく、子どもたちも大喜びで飲んだ。そしてこの甘い時期が過ぎると濁りが次第にオケの下に降り、澄んだ酒が出来上がってくるのである。自家製だったので男衆はよく飲んだ。イロリのコバに唐辛子を立て、酒の肴にしたという。

... 茶
 家の敷地や畑の周囲には茶の木が植えてあった。この木から家で使う1年分のお茶ができた。また、オテラサン(蔵林寺)にもお茶がたくさんあり、近所の家が回り持ちで摘んでいた。
 お茶摘みは近所中で行った。このとき、ナベでスイトンを作って持ってきてくれるのがとてもおいしかったという。
 お茶を揉むときはドマのホイロを使った。ホイロの下で燃やすのは炭である。隙間から煙が出るため濡らした布を置いたりしたが、それでも吸ってしまい、喜久枝さんは毎年、お茶を揉むと夕方吐いてしまったという。また、荒いヨリだけ終えて、トミさんが「こんだおめ一人でできるな」と言って再び摘みに出てしまうことがあった。しかし、1人でお茶を揉むのは大変で、居眠りなどしてホイロで火傷してしまうこともあった。それでも当時のお茶はおいしかったという。

... 煙草
 戦前は巻き煙草ではなく、刻み煙草をキセルで吸っていた。他の作物とは異なり、煙草は自分の畑で作ったものでも勝手に吸うと「ブタ箱」に入ることになった。それでも、戦争中は煙草の葉を手でキューっと巻いて吸った、というような話が残っている。

..(3)衣
... 普段の服装
 喜久枝さんは嫁に来たころ、朝起きると鏡も見ずに帯をお太鼓にし、その上から割烹着を着た。作業するときは絣で、下はモンペだった。腰には赤い伊達巻を締め、腰紐で丈の短い前掛けをする。頭には手拭をかぶり、オカタビの古いものなどを履き、指にはコウカケをかける。このコウカケも嫁入り前に作ったもので、幾年も着られるよう、こうした仕事着を柳行李に何組も入れて持ってきた。使い切れなかったものが今もしまってあるという。
 夏はムギガラ帽子を被った。今のものとは異なり、おしゃれなところのない帽子だった。
 冬はワタイレのハンテン・丹前・ねんねこが必需品だった。中身は真綿で、いずれも手作りだった。ハンテンも嫁に来るとき持ってきて一度も着てないものが今もツヅラに入っているという。

... 子どもの服装
 子どもたちが新しい服を買ってもらえるのは、夏のお盆のときと、暮れに現金が入ったときだけだった。戦時中は物も無く、トミさんは自分の着物をほどいて子どもたちのモンペや上着・手提げなどを作った。
 冬、学校に行くときは、上はハンテン、下はモモシキの上にモンペ、足は足袋に下駄だった。セーターが出まわるようになったのは終戦後だった。
 夏、子どもはみな裸で遊んだ。泳ぐとき、他の子どもはパンツ1枚だったが、八重子さんは水着を着た。東京で働いていた2番目の兄が帰省するとき買ってきてくれたもので、まわりの子から羨ましがられたという。
 昔は親戚の家に行く、マチへ出かけるなどというときは普段着ではなく、よそ行きを着た。

... 履物
 畑に行くときは1年を通して素足にゾウリだった。ワラは濡れると傷みやすいので、濡れたゾウリはトグチに吊るして干しておいた。
 夏は竹の皮でゾウリを作った。これは履いていて気持ちが良かった。
 子どもたちは学校に行くときは下駄、雨が降ると高下駄だった。下駄は下駄屋さんで買っていた。冬場は霜解けした土が歯に挟まり、重くなった。そのため、途中でトントンぶつけて土を落とすのだが、そうすると歯が欠けてしまうことがあった。
 学校の上履きはゾウリだった。こちらは家で作っていた。照藏さんは手先が器用で、ゾウリ作りなども上手だった。細い縄をきれいに綯い、形良くしっかり編み、ケバもきれいに除いて完成させると、まるで糸で作ったようだった。しかも、目が詰まっていたため丈夫で長持ちした。学校が終わって上履きを履き替えるとき、みんなが里子さんのゾウリを見て、いいゾウリだねどこで買ってくるの、と言った。里子さんはこのゾウリが自慢だったという。
 足袋はすべて家で縫った。コハゼは店で買い、左右3つずつ付けた。里子さんは子どものころから縫えたという。

... 洗濯
 洗濯は毎日行った。洗濯機が入ったのは周辺では一番早かったが、それまではすべて手洗いである。裏の川岸に1か所、5段ほどの階段があり、それを降りたところにコンクリートの台があった。これは上にタライを置くためのもので、洗濯するとき腰が痛くならない高さになっていた。
 洗濯物はニワで干した。竹の物干しが何段もあり、女性の下着類もすべてこの場所に干していた。雨のときは軒先に干すため、ロウカの上には竹竿が1本下がっていた。なお、布団はこのロウカに干したり、ウシゴヤのところに竹竿を渡して干したりしていた。
 冬の仕事の1つにアライハリがあった。着物の縫い目を解いて洗い、糊を付けて板に張り、乾かすという作業である。そして乾くと今までと裏返しにしてまた縫い直した。

... 機織り・縫いもの
 機織りをしていたのはトミさんの若いころまでである。「地織り」といって木綿を織っていた。嫁入りのときは自分で織った布で着物を作り、持ってきたという。その後機織りはしなくなったが、トミさんは夏になると近所の子どもがお盆に着る着物をみな仕立ていた。夏は蚊が多いので、縫いものをするときには蚊取り線香を焚いていた。
 喜久枝さんの時代は夜にツギモノをやることはなかった。
 里子さんは洋裁を習っていた。そのため家には足踏みミシンがあり、ザシキのエンガワ寄りに置いてあった。

... 髪型
 男性は丸坊主が多く、どの家にもバリカンがあった。ただし、勤めの人は床屋へ行き、ハイカラな髪型をしていた。
 女性はハサミを使って自分で切ったが、通常は長く伸ばして後ろで丸く縛っていた。夏などは汗をかくので、昼休みなどは髪をほどいて竹製のスケ櫛(梳き櫛)で梳き、また結びなおしていたという。髪を短く切ったのはパーマが流行し始めてからである。当時パーマをかけるときは渋沢のマチまで行った。

... 寝具
 敷布団は1枚、掛布団は2枚だった。昔の布団は木綿の綿だったため重かった。
 押入れには家族用のほか、客用の布団がしまってあった。お祭りなどで泊り客があると、家中ザシキの方まで布団でいっぱいになった。

..(4)暮らし
... 寒さ
 里子さんの子どものころは、11月には大きな霜が下り、雪が降ったという。
 家の中は寒かった。中は広い上、隙間風がたくさん入った。壁の土はもろく、落ちると穴が開いて向こうが見えてしまう。するとそこから風が入り、とても寒かった。風をさえぎる障子も少なかった。北村家の障子はいつでもきれいに貼ってあったが、周囲には破れている家も少なくなかった。
 特に寒かったのはザシキである。オオドを開けると寒い風がスースー入るため、冬は締め切っていた。寒い時期は上がり框の柱と柱とのあいだに障子のようなものを入れていたが、通常はふすまや障子など風をさえぎるものは無かった。そのため、4月くらいまでイロリに火が入っていた。このザシキに比べ、オクの方はそれでも戸が入っていたので多少温かかった。
 喜久枝さんは足が冷たくて困ったという。コタツの中やイロリは温かくても、嫁に来たてのころは足など出せるものではなかった。シモヤケがひどく、上がり框の下の台の角にこすり付け、いつも足を掻いていた。前の晩のフロの水に足を入れ、少しでも温めようとしたこともあった。しかし冷たくて感覚が無くなり、イロリで暖める際、足袋を焦がして駄目にしてしまうことが何度となくあったという。

... 燃料
 冬になるとマキを作った。通常、山へ伐りに行くのは男だが、北村家は男手が足りなかったため、トミさんと喜久枝さんがやっていた。軒下のことを「コビラ」という。集めたマキは主屋の裏やコヤのコビラに積んでいた。また、昭和27年(1952)ころはマキ小屋があり、中にタキギの枝などがいっぱい詰まっていた。
 フロやカマドなど、火の焚口のそばには消壷が置いてあった。マキを焚くと炭が出るので、良いものをこの消壷に入れて火を消し、消し炭にしていた。消し炭はさまざまなことに使用した。
 菜種・煙草・落花生、いずれも茎や殻などもすべて焚き付けにしたため、収穫後はコヤに入れて乾燥させた。こうしたものはドマにあった大きい方のカマドで燃やしたが、家中ケムだらけになり、イブくて(煙くて)仕方なかった。特に煙草ガラは煙草を吸うのと同じで、ケムがたくさん出るうえ臭かったが、当時は体に悪いなどとは考えなかった。落花生のサヤを粉々にしたものは、冬、餅を焼くのに使った。イロリの灰の上に五徳を置き10ほど焼くのだが、これを焚き付けにすると火の持ちが良かった。
 家の近くに水無川がある。普段はあまり水がなかったが、大雨が降って大水が出ると、照藏さんや一平さんは「タキギを引っかきに」河原に出たという。

... 照明
 家の中は暗かった。ちょっと曇っている日は真っ暗で、1人で家にいるのは怖いくらいだったという。
 各部屋には裸電球が下がっていた。

... 電化製品
 北村家は一平さんが勤めに出ていたため、比較的生活に余裕があった。そのためラジオ、テレビ、電話と、電化製品などの導入が早く、特にテレビと洗濯機は周辺では一番最初だった。これらのおかげで、昭和27年(1952)ころから暮らしは次第に楽になっていったという(注5)。
 ラジオは里子さんが子どものころにはすでに入っていた。仕事をしているときはかけっぱなしだった。里子さんは夕方5時ごろ放送される童謡や物語などの番組に合わせ、大声で歌いながら仕事をするのが楽しみだったという。喜久枝さんは夜になると『君の名は』の放送を夢中で聴いていた。
 テレビを買ったのは美智子様の結婚式前だった。トミさんが楽しみにしており、見せてやりたいということで一平さんが買ったものである。置き場所はザシキのトコノマ(押し板)の前だった。他にはどこにもなかったので、向こうの集落からも人が集まり、ドマまで立ち見が出たという。特に人が集まったのは皇太子のご成婚と力道山である。力道山の試合があると良い席で見るため早くから席取りに集まり、オカッテでご飯を食べることもできず、もうひと仕事したいと思っても仕事にもならなかった。
 電話ははじめ、大倉では北村家ともう1軒にしかなく、つぎに入れたのがオテラサン(蔵林寺)だった。電話が入る前は、何かあると喜久枝さんがコンバン提灯(竹の棒の先につけた白い丸提灯)をともし、電話を借りに寂しい夜道を出かけたという。

... 掃除
 トミさんは真冬でもよく空気を入れ替えた。一平さんはテマメで何でも作り、家のこともこまごまとやっていた。掃除機も無かったが、ホウキとハタキをバタバタかけ、柱・格子・ロウカなどどこもピカピカだった。このように北村家は掃除や整頓をきちんとしていたため、「百姓家」でありながらそうでないようだった。泥棒が来て足跡を残そうものならすぐに分かったという。

... 女性の暮らし
 嫁は忙しかった。畑仕事を全部終えたあと、家に帰れば真っ黒になった服を脱ぎ、またすぐご飯の支度にかからなければならない。座ってお茶を飲むなどということはなかった。外の地域に行くようなこともなかった。畑の行き帰りに近所の人と会っても、おはようございます、こんにちは、それだけだった。親同士行き来はあっても、喜久枝さんが近所の嫁同士で話をしたのは、嫁いで3年目だったという。
 嫁に来た喜久枝さんの唯一の楽しみは、実家(秦野市柳川)に帰ることだった。お祭り・お盆のほかは、家に帰れるのは雨が降ったときである。当時は天気予報などなかったので、麦をカッポシながら(干しながら)、今日はお天気か、明日はお天気か、などと考える。そこで雨がポツンポツン降ってくると、ああよかった、雨降ってけれ、うちへ行かしてもらうだから、と考える。だから止んでしまうとがっかりした。実際に雨が降ると、今日はうちへ行かしてくださいと言うきっかけを作るため、とりあえずトミさんに、今日は何をやんですかと聞く。そのとき、今日はツギモノやれや、などと言われるとがっかりしたという。帰るときは足袋を2足持ち、道を行くと時間がかかるので畑を通って行った。半日ほどしかいられなかったからである。日ごろ寝不足で、トイレでぶったくってドスンと前に倒れるほど眠く、うちへ行ってさんざん寝てみたいと常々思っているのに、いざ実家へ帰ると目が冴えてしまった。しかも、実家でもいろいろ手伝わなければならなかったが、それでもうちへ行きたくて行きたくて仕方なかったという。なお、実家に行くときはお土産を作ってもらうため、婚家へ戻るときはお土産を持たなければならなかった。
 昭和18年(1943)ごろは現在のような生理用ナプキンは無かった。ちり紙にカット綿を包んだものを生理用の下着に当てていたが、使い心地は悪く、服に染みてしまうことも少なくなかった。畑仕事をしていると半日は家に戻れないため、こまめに取り替えることができなかったからである。さらに前、トミさんの時代には、綿布を適当な大きさに裁ち、数枚重ねて縫い合わせたものを当てていた。当時はパンツでなく腰巻だったため、その綿布を固定するのにフンドシを締めていたという。生理のとき、女性は一番最後にフロに入った。

... 子どもの暮らし
 里子さんと八重子さんは子どものころ、5時半に起きると雨戸を開け、朝ごはんの前に2人で掃除をした。まず掃き出し、オカッテとザシキの境にあった格子戸やエンガワを拭く。柱や床などは前日のフロの湯で磨く。温かく、ある程度油分があるので掃除に向いているという。エンガワなどは「お月様が出ると映るくらい」ピカピカにしていた。また、トイレが汚い家は栄えないとトミさんは言い、便所の掃除もした。それから親が用意しておいてくれたご飯を食べ、7時過ぎに学校に行った。女はお掃除からということで、これが毎日の仕事だった。親の方は毎朝仕事に出ていたので、小さい兄弟のいた時代はご飯のあと子どもを背負って畑の両親に預け、それから学校に行ったものだという。小学校も中学校も歩いて1時間ほどかかった。学校から帰ってくると家が埃っぽくなっているので拭き掃除をし、それからご飯の仕度をした。宿題をやるのは夕飯のあとだった。トミさんは物差しでバシンと叩くような厳しいところもあったが、何でもできるように仕込んでくれて、中学生になるころには、お煮〆・オスシ・てんぷらなど上手にできたという。
 里子さんと八重子さんは農作業の方はそれほど手伝わされなかったが、兄や姉は学校を休んで手伝った。子どもであっても仕事が優先で、学校に行くのは1日おきということもあった。里子さんのすぐ上の兄はいたずらっ子だった。手伝っている最中もクワを振り回したりしていたずらをする。それを親が叱ると、そんなに怒るなら学校へ行くと言って、裸足のまま畑から走って行ったりしたという。
 小さい子は「お前はアブラムシだから向こうへ行って遊んでろ」などと邪魔にされたが、子どもたちは6年生くらいまで近所で集まってみんなで遊んだ。縄があると縄跳びをした。まりなどは1つくらいしかなかったが、唄いながら順番についた。
 夏は学校から帰ると泳いで遊んだ。北村家の裏の川のほか、水無川でもよく泳いだ。北村家の少し下の堰堤では飛び込んだりして遊んだが、急に深くなっている場所があり、足をとられる事故が絶えなかった。
 冬場は、男の子はコマまわし、女の子は羽根つき・お手玉・カルタ・まりつき・ゴム跳びなどをして遊んだ。新しい着物や物を買ってもらえるので、どの子も正月を心待ちにした。「もういくつ寝るとお正月」という唄は暮れになると歌い通しだったが、新しい物を買ってもらえる家ばかりではなかった。

... 娯楽
 昔は娯楽が少なかったので、一番上の姉の嫁ぎ先でお祭りがあると、子どもたちは父親につれられて見に行った。若者たちもあっちの祭り、こっちの祭りといってウロウロしていたという。
 煙草ノシの時期になると、夜、若者たちは娘のいる家に出かけて行き、作業を手伝った。これを「ヨアソビ」といい、ムラの若い者は皆やっていた。ムラの中では、どこそこに誰それの娘がいるという情報がみな頭に入っていたという。
 トミさんの娘の時分は、若い者同士が集まって義太夫などをやっていたという。照藏さんは芝居がうんと好きで、自分でも上手に義太夫などをやった。
 秦野に秦野新生座と初音館という2軒の映画館があった。照藏さんは子どもをつれてよく見に行った。松島トモ子の映画などが好きで、お酒を飲みながら、悲しい場面があると涙を流して見ていたという。里子さんと八重子さんは流行していた『君の名は』を姉妹で見に行ったり、買い物や花火などにも出かけたという。

... 災害
 関東大震災のとき、照藏さんは松田町の川内の方へ仕事に行っていた。トミさんは長男をおんぶし、煙草の葉をノしていた。そばには近所の子がいた。揺れに驚いて子どもを抱えて家から飛び出すと、ニワの地面がパッと割れ、ドマあたりも大きく口が開いたという。他の家はみな潰れたが、北村家は傾いただけで済み、仕事師さんに直してもらった。
 この大震災のとき周囲の家が燃えたため、トミさんは地震には非常に敏感で、小さな揺れでもイロリの火を消した。正月、お雑煮を作るのにテッキ(餅焼き網)に火を入れてお餅を焼いているとき、小さな地震が起こった。すると、トミさんはナベをばさっと下に落とし、火を消してしまった。これをやるとイロリが台無しになり、またふきかえすのは大変だった。また、オテラサンの下の家が火事になったことがあった。このとき八重子さんはひとりで留守番をしていたが、何もせずにいたらトミさんが畑から息せき切って帰ってきて、何をやっているんだと叫んだ。そして、川の水をいっぱいオケに汲んでこい、そのためのオケじゃないかと言った。何でと聞いたら、何でじゃないと言われたが、あとで、オケに水を汲んでおけば助けに来てくれた人が水をかけて家を守ることができる、火事のときにはそんなポソポソしているんじゃないと言われたという。
 火事は多かった。その原因の多くは、堆肥舎に吊り下げたまま忘れていった提灯の火だった。火事が起こると昔は大変で、燃え上がった火の粉が屋根に飛び火してしまうため、まわりの家は屋根に水をかけなくてはならなかった。火事のあとは、近所の人がワイワイやってきて、炊き出しなどをやっていた。
 道路が川になることはあったが、水無川には堰堤があったため、雨が降っても氾濫することはあまりなかった。しかし、昭和21年(1946)ごろ台風で氾濫し、堰堤のところにあった畑がすべて流されてしまった。このとき石がたくさん流入したため、この場所はその後も畑に戻すことができなかった。

.3 生業
..(1)概況
 かつては朝4時に起きた。起きると雪が降っていても川へ顔を洗いに行く。そして家族総出で朝から晩まで農作業をした。仕事から帰るとトグチでゾウリを脱ぎ、それを日なたに干して裏の川にまわり、足を洗った。クワなどの農具は洗ってドマの壁に掛け、それからご飯を食べた。生活は厳しく、照藏さんは子どもが多かったため大変苦労したという。
 その後一平さんが勤めに出て北村家は半勤半農になった。そのため、周囲の家より比較的家計に余裕があり、服もあまりみすぼらしいものは着ていなかった。
 かつてオテラサン(蔵林寺)までのあいだはすべて北村家の土地だったという。畑は主屋の南側、八幡神社の下の方と、現在の秦野戸川公園あたりに計3反(30a)あった。お宮の下の畑近くには竹薮があり、苗場を作るフチなどはそこから伐ってきたという。一方、田の方は1反(10a)あった。作っていたのは自家分のうるち米だが、実際には家では食べ切れなかった。その後も田は1反のままだったが、畑は増やし、一平さんが定年になるころは8反(80a)作っていた。
 作物としては米のほか、煙草・落花生・菜種・大麦・小麦・ビール麦などを作っていた。季節に合わせ少しずつずらして植えるため畑が空くことはなく、最後の麦がツケ終わるのは暮れだった。肥料には人糞や堆肥を使った。人糞は柄杓で汲み、肩にかけて畑へ持って行った。また土を酸性にしないため、石灰の代わりにカマドの灰を撒いた。
 現金収入の筆頭は煙草だった。大変だったが一番お金になった。そのほかもすべて自家分を残して農協に出荷したが、煙草に比べると売り上げは微々たるものだった。なお、かつて西秦野村(注6)で農作物の品評会があり、北村家でも煙草や米などを出品していた。
 農業は仕事のやりくりを工夫しなければならない。決まった時期に決まった仕事をしなければならず、天気にも左右される。雨だからといって全く休むこともできない。照藏さんは常々、馬鹿では百姓はできない、と言っていたという。照藏さんはまた常々、子どもに百姓は継がせられない、とも言っていた。当時はどんなに工夫し頑張って生産しても、政府が値段を決めて買い取ったからである。
 トミさんが婦人会の役員をやっていた時代に農休日が導入された。1日休まなければならないという日である。近所には休まず働く家もあったが、北村家は役員をやっていたので守らなければならなかった。そこで里子さんと喜久枝さんは秦野へ映画を見に行ったりしたという。
 農作業に機械が導入されたのは昭和30年代半ばごろからである。昭和38年(1963)には周辺でもっとも早く耕耘機を導入した。それまではすべて手作業だったため時間の短縮にはなったが、それでも機械を動かすのは人なので太ってる暇などなかったという。
 現在北村家では、野菜と落花生を少しだけ作っている。田畑は人に貸したり、公園を作るということで売ったりした。冬のあいだは楽だが、春になると草が出てボウボウになってしまう。休耕田でもそれがいやで、今でも草むしりはしているという。

..(2)煙草
... 概況
 秦野は近世期より煙草の栽培が盛んで、北村家周辺もやらない家はほとんどなかった。秦野で栽培された煙草は秦野葉と米葉の2種類である。この2つは味も色も異なり、乾燥方法も秦野葉が天日で行うのに対し、米葉の場合は乾燥小屋を使用した。秦野ではかつては秦野葉だけだったが、昭和20〜25年ごろ米葉に移行した。
 北村家は煙草で食べており、あっちの畑こっちの畑と何反も作っていた。栽培をはじめた時期について言い伝えは残されていないが、昭和4、5年に秦野葉を栽培していたのは確かである。喜久枝さんの実家はすでに米葉に切り替えていたが、北村家では秦野葉しかやっておらず、嫁に来たときには秦野葉のネセズリなどの作業が大変だったという。その後、米葉も少量栽培した。
 煙草は非常に大変で、収穫して仕上がるまでにも1か月ほど作業が続く。喜久枝さんは嫁に来て3年間は手伝った。しかし煙草は手が必要で、しかも女だけでできる仕事ではない。そこで、北村家では一平さんの収入があったこともあり、思い切ってやめてしまった。昭和31年(1956)のことである。北村家がやめると間もなく、周囲の家も順にやめた。最後まで残ったのは純農だった家で、その家の人が倒れてから喜久枝さんは朝2時に起きて手伝いに行ったという。高齢化が進み、一方で若者はどんどん勤めに出てしまうため煙草農家は一気になくなり、代わりに山仕事や土建仕事に出て行くようになった。秦野では現在も「煙草まつり」を行っているが、秦野市に煙草農家は1軒もなく(注7)、専売所もない。煙草をやめた後はボーサン(草畑)になっているという。

... 堆肥作り
 ナエバの堆肥にするため、クヌギのまわりなどでクズを掻いた(落ち葉を集めた)。
 堆肥づくりは雨が降ると行った。喜久枝さんとトミさんと2人で、掻いてきた落葉や、牛が踏んでぐしゃぐしゃになったワラを積み、幾度も積み返す。そしてこれをタイヒトオシを使って細かくふるい分けるのである。タイヒトオシ(7頁参照)には前部に金属の輪が付いており、作業するときは上から吊り下げた。この作業にはその後、機械が使われるようになった。

... ナエバ(苗床)
 煙草はサクナリではなく、ニワに細長いナエバを作り、その上に種を播いた。
 ナエバには堆肥と土とを順に積んでいく。そしてここに専売公社から買った種を播く。このとき、2m70㎝ほどの角材に円錐状の突起が等間隔に付いた穴あけ用具(6頁参照)を使って穴を開けた。
 3月、出てきた芽がある程度の高さまで伸びてくると、苗床の端から順にハシゴを置いてゆき、家族2、3人が一列になってピンセットでオロノク(間引きする)。密生しているところはオロノイて、逆に薄い箇所にはオロノイた芽を移植する。こうしてホンパが2つか3つくらいになるように間隔を空ける。この作業は隣近所でやった。

... 苗植え
 4月、桜が咲くころ苗はだいぶ大きくなり、中旬ごろ畑に植え替える。煙草は「地所を嫌う」ので、小麦や大麦・ビール麦の穂が出る少し前に、それらの畝の根もとに植える。こうすることで、麦がカザヨケ(風よけ)・霜よけになった。
 照藏さんが亡くなったのは4月26日だった。この植え替え作業の途中で、そのため親戚の人が手分けして苗を植えてくれた。
 昭和23年(1948)ごろ、秦野葉の苗を畑に植え替えたあと霜の降りたことがあった。母親のトミさんと八重子さんが畑まで様子を見に行くと、昨日まで青々としていた葉がすべて真っ黒になっていた。植え替えるまでにも虫を取ったりと何百回も手数をかけた苗である。トミさんはものすごい声を上げて泣いた。そのときの声を八重子さんは今も覚えているという。父親の照藏さんは「そんなに泣くなよ。おれんちの畑だけじゃないべ。みんなが真っ黒だよ」とトミさんをなだめていた。

... メドカキ(メカキ)
 6月は煙草の作業が一番忙しい時期である。
 煙草は放っておくと横にどんどんメド(脇芽)が出てくる。これをそのままにするとそちらに養分が行き、葉が小さくなるため、メドカキ(メカキ)をしなければならない。また、花を咲かせてしまうとやはり良い葉ができないため、花が育たないようこれもメドカキしなければならない。
 この作業をすると煙草のヤニで顔や腕がベタベタになった。男手がないとできない作業で、良い葉ができなければ赤字になるため大変な思いをしてやった。照藏さんとトミさんは雨が降ってもメドカキに行った。そうしたときは寒いので、焼酎を飲んでから出かけたという。

... 取り入れ
 煙草の葉の取り入れは7月のお盆前から夏休みのころである。丈はトウモロコシほどになり、葉は50〜60cm(米葉)になった。
 朝は3時に起き、すぐ畑に行く。摘むのは「ミがいった葉」と呼ぶ、やや黄色味がかった葉である。カく(摘む)ときは煙草のサクとサクのあいだに立ち、1人でその両側を担当する。黄色くなった葉のみを下の方からカいて歩き、置いたカゴの中に入れていった。下の葉が終わると、つぎはもっとも高級な真ん中のホンバ、それからタッパ(一番上)のテンパを順にカいていく。この作業は素手で行うので、煙草のヤニがついて手は真っ黄色になった。
 こうして5時間後、8時までに葉を持ち帰り、コヤに入れる。そして朝ごはんを食べた後、収穫した葉を縄のあいだにはさんでいった。縄のネジリ(縒り)をほどき、葉のグギ(付け根の茎)をねじ込むのである。このとき縄の両端にコブを作り、そこからひじまでの長さを測って、両端40〜50cmほどは葉を差し込まずに残す。これは乾燥させるとき、柱に結わえるためである。この縄は毎年新しく綯った。
 葉をカく作業は毎日行った。色づいたものから順にカくので、同じ畑を何度も行わなければならなかった。この時期は猫の手も借りたいほど忙しく、カく作業や縄にはさむ作業は人を雇って行っていた。

... 乾燥
 煙草の乾燥がはじまる前、北村家ではザシキの畳を上げてオクとの境に積み、代わりにゴザ(古い畳表やウスベリ)を敷いた。
 縄にはさみ込んだ煙草の葉は、青いうちは「寝かしておく」といい、家の中で干す。柱と柱のあいだにかけて部屋の中に吊るし、夜はその下で寝た。
 これが終わるとつぎは天日で干す。ニワの、春にナエバを作った場所に今度は牛柱を立て、暖簾のように幾サクも縄を渡した。天日のため雨に濡れると台無しで、吊るしていても上から落ちてきてしまう。そのため、雨が降り出すと縄の両端を2人で持って急いでコヤに運び込み、中で干した。また、夜もこのコヤの中に入れたが、「夜露をかける」と言って夜干すこともあった。こうしたときは葉を寄せてムシロをかけ、その下で眠った。
 葉の乾燥には毎日干して10日ほどかかった。カく作業を行いながらも、先にカいたものからアガル(干し上がる)ので、それを順にコヤの上に上げていく。すべての葉が干し上がることを「カイチャ」といった。
 干した葉は金色にならなければならない。しかし半日違うだけで色が黒っぽくなり、等級が落ちて安くなってしまった。
 なお、北村家にはなかったが、米葉の乾燥には乾燥小屋を使った。これは蔵のような建物で中はトタンで囲われており、2階には温度調整のための窓があった。乾燥時期になると近所で順番に葉を吊るし、下から炭をどんどん燃やして乾燥させた。この間は夜中も交代で見ていた。

... 地干し
 秋、葉が十分に干し上がると縄から抜き、夜露が降りるころ、今度はヒトッパヒトッパをニボシのように地干しする。畑からクタクタになりながら帰ってきても、ムシロ100枚分の葉が地干ししてある。夜はこれを寄せ、朝になるとまた広げなければならない。雨にあうと穴が開いて駄目になるため、降り出したときも取り入れなければならない。こうした作業をしょっちゅう行っていたため、ご飯を噛んでいる暇もなかったという。

... ノシ(ネセズリ)
 煙草の葉の乾燥具合がちょうどよいときムシロを掛けておく。そしてオカボを取り入れた10〜11月ごろ、今度はヒトッパヒトッパ手でノシていく。親子が向かい合って座り、2人で葉を引っ張りながら手でノシていく。ノシた葉は見栄えを良くするために葉の縁を切り、グギ(葉の付け根の茎)をそろえて崩れないように重ねていく。このあとしばらく積んでおくが、黴ることがあるため風が通るようしょっちゅう積み替えなければならなかった。
 なお、米葉はノスことはせず、干したあとはそのままだった。

... ハセン(葉選)
 ノシた葉の選別を「ハセン(葉選、葉分け)」という。ハセンは親が行い、上中下の3種類に分けていく。分け終えるとつぎは束ねていく作業である。家で編んだコモを下に敷き、分けた葉ごとに重ねて15cmほどの束にしていく。葉の重ね方は秦野葉と米葉とでは異なる。秦野葉の場合は四辺にグギ(葉の付け根の茎)が並ぶよう、四方から並べていく。米葉の場合には左右にグギが並ぶよう、両側から並べていく。重ね終わると最後にまたコモをかぶせ、家の裏から採って来たスゲのような草で縛る。米葉の場合はこのとき、タバコツミという木の枠(7頁参照)を使用した。

... 納付
 煙草の葉を専売局に納めることを「納付」という。当時、専売局は渋沢の駅の方にあった。
 納期は12月ごろである。底にワラを敷いた箱の中に等級ごとに分けた葉の束を4つ入れ、縄でぎゅっと縛る。これを古くは大八車、その後はウシグルマに4つ5つと積んで運んでいった。
 照藏さんが亡くなった年は、喜久枝さんがウシグルマを引いて納付に行った。近所の人につれて行ってもらったが、そんな車を引くのは初めてだったので手から血を出し、割烹着まで血だらけにして帰ってきたという。
 納付すると、専売公社ではまた独自に一等から三等まで等級を付ける。さらにそれぞれ重さを測り、それによって支払いが行われた。なお、ある時期から納期の前夜に公社に持ち込み、翌朝体ひとつで代金を受け取りに行くようになった。このころには公社ではベルトコンベヤーに乗せて処理するようになっていた。
 代金は現金で渡される。お金を受け取るとき、照藏さんは「ウチの葉はよその家よりもずっと良いのだ」と言っていたという。この代金は農協に貯金したほか、帰りには正月用品や家族全員のものをいっぱい買ってウシグルマに積んで帰った。親は普段から子どもの持ち物を見ていて、オーバーや長靴・足袋など、買い換えた方が良いものをこのとき買ってくるのである。家族は皆これを首を長くして待っていて、帰ってくるととても喜んだ。里子さんが7歳か8歳くらいのある年、納付から帰ってきた両親が「今日は100幾らになったよ。これが100円札だよ」と言って家族中で眺めたことがあった。里子さんはこのとき初めて100円札を見て、大きくて良い色だと思ったことを今でも覚えているという。

..(3)その他の作物
... 米
 一平さんが勤めていたため、田は喜久枝さんが守っていた。現在は田植え機があるが、昔は手で植えていたから大変だった。喜久枝さんが田植え機を買おうかどうしようか迷っていたところ、一平さんは、そんなに長くやるものでもないから田んぼをよしてしまってはどうか、と言った。それで、一平さんが定年になるのに合わせて平成7年(1995)ごろやめ、田は譲ってしまった。家族の人数が少なくなり食べる米の量も減ったので、農協から取り寄せる方が割に合った。「家で米が作れるのに田を空けておいて買って食べている」と、喜久枝さんはそんな言い方をする。
 畑はクワでウナった(耕した)が、田んぼの方はウシの力を借りて鋤いた。周辺はアラシロだったため、中にドボドボ入って体中真っ黒になりながら耕した。
 田のクロを付けるときには、縁をすべて踏み固めていく。地下足袋ではしっかり踏めないということで、必ず裸足で行った。
 北村家には田畑両方あったが、周辺には田を持たない家が多かった。こうした家では水稲ではなく、畑でオカボ(陸稲)を作っていた。北村家でももち米だけはオカボで作った。オカボは9〜10月、ノゲのある時期に刈り取った。

... 麦
 麦は昭和46年か47年ごろまで作っていた。昭和30年代から次第に麦から米へ比重が移り、麦をやめてからは米が中心になった。
 畑が広いと麦は早めに播かなければならない。そのため、男手のある家では堆肥作りなどは夜中までやり、あらかじめ麦と混ぜておいて、朝早くから畑に持っていった。しかし北村家は人手が足りなかったためそんなことはできず、雨の日に積み返したり細かくしたりして堆肥をたくさん作っておき、畑に出るときシャベルで合わせて持っていった。その後、古い足踏みの機械にベルトをかけ、堆肥を細かくする機械を作ってもらった。
 1〜2月、霜の降りるころムギフミを行った。踏むのは麦が大きくなり、穂が出る直前の時期である。クツタビ(地下足袋)が出る前は、オカタビの上にワラゾウリを履いて踏んでいた。ちょうどタッペ(霜柱)の立つ時期で、足にしみて冷たくて仕方なかった。麦の作業の中でいちばん辛かったのがこのムギフミだったという。
 大麦の収穫が4月過ぎ、小麦が6月の梅雨時、ビール麦はそのあいだである。この時期は菜種の取り入れも重なるので忙しかった。麦を刈るときはあいだに植えてある煙草を踏まぬよう、気をつけなければならなかった。小麦は刈ったあと天気の良い日にカッポス(干す)が、雨がちょっとでも降るとすぐに芽が出てしまった。
 麦も米も収穫した後はコヤに入れておき、天気の良い日に足踏み機で扱いた。その後ニワにムシロを広げて干した。
 小麦は脱穀機で扱けばノゲも下りて出荷することができる。ノゲとは粒の先に1本出ているトゲのようなものである。しかしビール麦はノゲが濃くてそれだけでは下りず、さらに足で踏まなければならなかった。畑が終わり煙草を乾かすと、この作業を行う。袋から大きな樽の中に空けて足で踏むのである。この作業をすると足がチクチクかゆくなり、大変だった。最後はトワオリ(唐箕)で煽って下りたノゲを除き、ようやく出荷できる状態になった。
 里子さんが小さいころは、麦打ちはクルリで行った。打つときはニワにムシロを敷き、穂を真ん中に寄せて置く。大勢でないと終わらないので近所に声をかけ、5、6人でムシロのまわりに立ち、互いに当たらないようにクルリを打った。このときムギウチウタを唄ったという。
 麦の出荷は俵から30kg入りの麻袋に変わったが、俵の時代は大変だった。重さを量るときは棹秤を使う。トミさんと喜久枝さんが2人で量ってもどうしても地面に着いてしまい、実際より軽くなってしまう。そのため、農協で正確に量り直すと余分に入っていることになる。そこでもう一度俵を開けて麦を出し、俵がブカブカになった分、蹴ったり乗ったりして力ずくで締め直した。これは本来、男の仕事だった。
 小麦のカラはエンガワの前に広げたり、竹竿に掛けたりして乾燥させた。屋根葺きの材料として使うためである。主に6月ごろに行った。
 戦争中、小麦畑のケンミ(検見)があった。1反あたりどれくらい収穫があるか、役員が見て歩くのである。小麦は供出しなければならなかった。しかし、子どものたくさんいるうちは家で食べる分を多めに貯め込み、供出分を少なくすることがあった。すると、その家の供出分のうち減った分について役員が背負わなければならなかったのである。この貯め込みがばれると「ブタ箱」に入れられたりしたという。

... 菜種
 北村家では煙草をやめた後、菜種に力を入れていた。秦野はもともと菜種の栽培が盛んで、北村家の先祖は油搾りもやっていたという。
 菜種の枝は太い。種が実ると枝ごとコいて、短期間畑に干す。しなってきたら家に運ぶ。菜種は軽いがかさばるため、運ぶときにはハシゴ(背負い梯子)を使い、そっと背負ってくる。
 運んできた枝はニワにひろげたムシロの上に置く。これを打つとゴマ粒のような小さい実が採れるのである。打つときには木槌のような丸い棒を使い、そっと叩く。そっとやらないと実が小さいのでどこかへピンと飛んでしまう。最初のうちは飛びやすいのでムシロを寄せてそっとやるが、実が落ちてきたら、枝を拾い上げて残りをふるい落とす。そのあと実がまだ付いていれば戻し、もう一度打つ。
 脱穀した菜種をトオシ(ナタネドオシ)に通し、ゴミを払って麻のような袋に入れた。このトオシは油で黒くなっていた。
 袋詰めにした菜種は油屋に出荷した。北村家で出していたのは、堀山下の北というところにあった「油屋」という屋号の店である。なお、菜種はすぐ芽を出してしまうが、芽が出てしまうと駄目だった。

... 落花生
 秦野は落花生の栽培が盛んで、北村家でも喜久枝さんとトミさんの2人で3反ほど作っていた。まったく雑草を出さずに作っていたという。
 落花生は菜種や小麦の畝のあいだに播く。播いたあとはツチヨセという道具(6頁参照)を使って土を寄せていく。このサクを作るとき、女がやると縄を張っても曲がり、広いところと狭いところができてしまう。この広いところを「メザク」、狭いところを「オザク」といった。生えてくると、「マルチ」といってビニールに這わせた。
 落花生は10月にコギトリ(収穫)をする。コギトったものはしばらく置き、作物をツケ終わったあとコヤの中にマルって(束ねて)積み、乾燥させた。昔は今のようにカラスやシカの被害などはなかった。
 落花生ブチ(脱穀)は11月すぎに始める。落花生はサヤから取り出して出荷するため、ブチ終わると加工である。良いものと悪いものを分け、農協へ出荷したり、買い付けに来た商人に売ったりした。

... その他
 ソバは自家分だけ栽培していた。
 サトイモは夏収穫するため、麦のあいだに植えていた。
 水無川の堰堤のそばにあった畑にはサツマイモを植えていた。

..(4)畜産
... ウシ
 昭和27年(1952)ごろはウシを4頭育てていた。子ウシを買って来て、大きくなると子種を付け、おなかに子どものいる状態で出荷した。
 休みのときに天気が良いと、照藏さんはウシグルマを引いて大倉の方まで草刈りに行った。刈ってきた草はニワに広げて乾燥させ、機械で切って混ぜ、ウシのエサにした。このほか稲や麦のワラ、落花生やサツマイモのカラもエサにした。

... ヒツジ
 八重子さんは編み物をしていたため、両親に頼んでヒツジを飼ってもらった。毛がフサフサしてくると刈り取ってもらい、店に出して毛糸にした。この毛糸で家族のセーターなどを編んだ。

... ヤギ
 自家分の乳を搾るためヤギを飼っていた。ただし、ヤギのチチは臭かったという。

... ニワトリ
 トグチの外、ゾウリを干すあたりにトリゴヤがあり、ニワトリを常に10羽ほど飼っていた。
 エサには小麦やシイナの粉(カス)を使い、卵を産ませた。この卵は家で食べるわけではなく、沼津から来る魚や海産物の行商と物々交換するためにとっておくのである。また、家で肉として食べることもあった。

... その他
 北村家は動物好きで、このほかブタやウサギなどを飼っていた。イヌやネコなどがいたこともあった。ネズミが多かったため、ネコはどの家でも2、3匹飼っていた。

..(5)農閑期の仕事
... 縄綯い
 農閑期といえども暇ではなかった。
 冬場は縄の綯い通しだった。この縄は煙草の乾燥に使用したほか、これを使ってさらにゾウリを編んだ。ゾウリは畑仕事に使うもので、大量に編んでオオドのそばに吊るしておいた。こうした仕事をすると手がとても荒れたという。

... クズカキほか
 山に入ってさまざまな作業をするのも農閑期だった。クズカキとは落葉を大量に集める作業で、大きなカゴにいっぱい詰めてウシグルマで運んだ。これは堆肥にするためのもので、煙草のナエバの準備だった。このほか木を伐ってマキを作ったり、モシキにする枝を払って束ねてしょい出したり、クヌギを伐り出してきてシイタケを栽培したりした。

... 炭焼き
 炭も自家製だった。照藏さんはかなり遠くの山まで行き、炭焼きをしていた。炭俵は主屋に積んであった。
 照藏さんの父親の時代には、炭を出荷していたこともあったという。朝2時に起きてうんと奥の山まで行き、生木を伐ってその場で炭焼きをした。炭焼き場というものは特に無かった。そして炭ができると担いで山を下り、これを売って帰って来たという。

..(6)地域の生業
 北村家で養蚕を行っていたという話はないが、近所にはやっている家があった。ザシキでもオクでも飼い、人は小さくなって部屋の隅で寝ていた。
 北村家周辺の山は個人持ちで、昔は林業をしている人もいた。

.4 地域社会
... 隣近所
 昔は近所の人がしょっちゅう来ていた。北村家は照藏さんが早くに亡くなり、一平さんは勤めに出て女だけだったため、雨が降ったり仕事が片付いたりすると近所中の女性が集まってしまった。
 近所同士はいつも、仕事の手伝いで行ったり来たりしていた。手伝いを頼むのは、麦や米・煙草の、特に植付けと収穫のときである。たとえば植付けは育った穂に段差ができてはいけないので、何日もかけず短時間で行わなければならない。こうしたときは人手がたくさん必要だった。
 北村家で手伝いを頼むときは、日ごろ米を貸したりしている家に声をかけた。こうした家では声をかけると「ハイ行くよ」と言って、夫婦で喜んで手伝いに来てくれた。
 こうしたやりとりが互いにあるため、近所同士はどこに何が置いてあるかなど、大体わかっていた。話もすぐに伝わり、あそこの家ではどこの学校へ行ったとか、息子がこんなことをやったとか、すべて筒抜けだった。
 いろいろあっても近所付き合いはうまくやっていたが、現在こうした交流はなくなってしまった。昔は自分の畑の麦刈りが1時間でも早く終われば、ハシゴをしょって手伝いにいった。しかし今は自分の畑が終わると、そのまま扱く作業に入ってしまうようになった。

... ヨリアイ
 鍛冶ヶ谷戸では、昔はナンジャカンジャと人が集まってヨリアイをした。会場は各家回り持ちだったが、元は組長の家で行っていた。組長は旧家で力のある家がやっていた。元は「組長」でなく別の呼び方があったという。
 会場となった家では食事などいろいろ準備しなければならない。食事は家にあるものをつくろって出したが、家ごとに味が異なるのでみんなよく食べた。この席ではお酒も少し出した。お酒の好きな人はヨリアイが終わっても動かないので、あのおじさんまだいるよなどと言って家族は迷惑がった。

... 女性の集まり
 農協に婦人部があった。前身は国防婦人会で、戦後は盆踊りの開催など乏しかった娯楽を作ることに力を尽くした。

... 共同作業
 堀山下に簡易水道を引く際、1軒ずつ役に駆り出され、堰の方まで掘りに行くことになった。北村家は男手がなかったが、女が行くと馬鹿にされるということで、はじめのうちは近所のおじいさんに頭を下げて行ってもらった。しかし1日や2日で終わる仕事ではなく、いつまでも頼むわけにもいかないので、喜久枝さんが出て行った。すると先方では、女はどうだとあれこれ言う。そこでトミさんが行き、「男はシャベルを汚さなくても男、女は夢中でやっても女、その段階をつけてもらうべ」と言ったという。トミさんはしっかりした人だった。

... 水車
 北村家のウラドから出たところに水車があった。里子さんが小さいころ(昭和10年代)、北村家がお金を出して作ったものである。作ったのは橋場の村上工務店の「きんちゃん」という宮大工だった。水車の丸い車輪や羽を作るための計算は、普通の大工ではできないという。修理のときもここの大工に頼んでいた。ちなみに、移築後建てられた現在の主屋を手がけたのも同じ人である。
 小屋は四角い建物で、中には搗き臼が3つ、その横に粉挽きの摺り臼が1つあった。管理していたのは同じ組の家5軒ほどで、故障して職人が入るときは回り番でお茶を入れたりした。
 鍛冶ヶ谷戸の人は皆この水車を借りに来た。主屋とマキ小屋のあいだの通路を通って、家でとれた米や小麦を持ち込み、それらが搗き上がったころまた取りに来た。だらしない人が片付けないでいると、「あとちゃんときれいにしておけー」とトミさんが言っていた。北村家ではドマの台に米や小麦などをたくさん保存しており、団子の粉(うるち米)や小麦粉にするとき水車を使っていた。
 この水車は機械が普及しはじめたことと、道路ができて流れが変わってしまったことで使わなくなり、昭和27年(1952)ごろ壊してしまった。

... 貧富
 かつては同じ集落の中でも貧富の差が大きく、貧しい家がかなりあった。
 喜久江さんが嫁に来たばかりのころ、ある家に手伝いに行ったところ、出された食事はオジヤだった。とても驚いて「オジヤを出されたよ」と家に帰って言ったところ、トミさんは「あっこのウチはオジヤ食べられればいいほうだよ。「ジクドウ(働かない人のこと)」でロクな仕事もしない。朝もロクに早起きしないで、作物は同じ畑の半分しかとれない」と言った。
 里子さんが子どものころ、朝、ドンブリやナベを持って「米を貸してよー、お味噌貸してよー」と言って、よく来る人がいた。トミさんは「オメよく朝借りに来れるなあ、明日食べもんがなくてよく夜寝てられるな」とたまに叱ることもあったが、「これでいいかー」と言って食料を分けていた。貸した食料は返ってくることはなかったが、こうした家は人手が欲しいときに声をかけるといつでも喜んで来てくれた。
 フロをもらいに来た帰り、コビラに積んであるマキを抱えて持ち帰ってしまう人がいた。その際、暗いので道々マキを落としてしまい、それをたどって行くと誰が持っていったかすぐにわかった。そもそもフロをもらいに来た人は分かっているので、誰が持って行ったかまるわかりだった。
 オカッテにコメビツがあり、米や麦の粉が入れてあった。トミさんは出かけるとき、それらの表面を平らにならして「の」の字を書いた。誰かが掬うとわかるようにしてあったのだが、帰ってくると実際に全部掬われていることがあった。
 こうしたことをするのは、あまり作物を作っておらず、食べる物が無い家だった。トミさんは盗られると「よく人のもん盗って食えるな」とあきれながら、「無いから持って行くだべ。ほっときゃいいわ。たかが食べ物、持ってぐ言っても全部持ってきゃしねえわ」と言っていた。
 このような家も時代が下るにつれ、それほど貧乏ではなくなった。

... ジエン・カネオヤ
 かつてはジエン(地縁)・カネオヤなど、血縁以外の関係がきっちりとあった。
 ジエンの付き合いは周辺の家では薄く、北村家ぐらいのものだった。現在はそれもまったくなくなってしまい、葬式でもジエンの人は顔を出すだけで、代わりに組長が取り仕切るようになっている。
 すぐ下の家は北村家のカネオヤである。カネオヤとは、一大事のときはその人がいないとどうにもならない、というような関係である。何かにつけてまず連絡をとり、結婚式のときや大変なときには真っ先に駆けつけた。現在も法事などというとカネオヤが来る。世代が変わって若い当主であっても、こうしたときには一番上座に座った。

.5 交通交易
..(1)交通・運搬
... 道路
 北村家から渋沢駅までは歩いて1時間ほどかかった。バスが通っておらず他に手段が無いため苦と思わなかったが、雪駄などは行き帰りですぐ駄目になった。当時の道は、ウシグルマがやっと通れるくらいの細い砂利道で、両脇は藪に囲まれて寂しかった。

... ショイバシゴ
 背負い梯子のことを「ショイバシゴ」「ハシゴ」という。数え方は「ひとつ、ふたつ」である。働き手の人数に合わせて1軒で3つくらい持っており、納屋の雨のかからないところに立て掛けていた。稲・麦・落花生・煙草など農作物の運搬に使われたほか、堆肥・薪・薪枝・落ち葉・刈り取った草・石垣石などを運ぶのにも用いられた。運ぶ量は人によって違うが、重いものなら15〜20貫(56.25〜75kg)ぐらい、軽いものは付けられるだけ付けた。運ぶ距離は、仕事によっては4kmほども運んだが、重量が重いときは数回に分けた。
 荷はショイバシゴを寝かせた状態で付ける。それから立て、倒れないよう手で支えながらひざをくずし、背負い縄に片方ずつ腕を入れる。それから両ひざを地に付け、片足を立てて踏ん張り、重心を取りながらもう片方の足を上げて立ち上がる。
 ショイバシゴを使うときの服装としては、男は半ジバンにモモヒキ、女はモンペだった。履物は縄ゾウリか地下足袋、手にはコウカケを付け、頭に手ぬぐいをかぶった。
 「カサがはった」ときは、細い山道を運ぶのは苦労した。途中、木に触れたりすると重心を崩し、足元が悪いと背負ったまま15〜20mくらい下の沢に転落することもあった。冷や汗をかくことなどしばしばだったという。
 北村家での運搬作業は、荷車からウシグルマ、その後耕耘機、自動車と変わった。しかし昭和51年(1976)の時点ではまだ、車の入れない細い道ではショイバシゴが使われていた。

... 耕耘機
 喜久枝さんは照藏さんの代わりに煙草の納付に行くまで、ウシグルマなど引いたことがなかった。ウシグルマの牛が飛び跳ねてせっかくもらった娘が怪我しては親に申し訳ないということで、昭和38年(1963)、大秦野から耕耘機を仕入れた。その際、大倉までの道を乗って帰ってきたが、このときはおっかなかったという。北村家ではお宮(八幡神社)の下にも畑があったので耕耘機で行った。しかし、そこは道が広くなっていてバスも通る。下からバスが来ると「バックしろ」と言われるが、怖くてできない。仕方ないので「そっちが戻ってくれ」と言ったら、「免許証よこせ」と怒られたという。

..(2)交易
... 買い物
 里子さんが子どものころ、普段見るお金は1円だった。床屋は1円50銭、飴なら1円持って行けば10個もらえた。100円札を見たときには嘘のようだったという。
 秦野では暮れにトオカマチという市が出た(注8)。照藏さんはダルマのほか、家族の新しい着物・足袋・下駄などをこの市で買っていた。
 照藏さんは昭和2年(1927)に開通した小田急に乗り、海辺の早川(小田原市)あたりの友だちのところに物々交換に行った。背負っていったのは家で採れた煙草や麦・米などで、ブリなどと交換した。

... 行商
 里子さんが子どものころ、沼津あたりから海産物の行商が来ていた。持ってきたのはカツオブシ・ニボシなど軽いもので、北村家では麦や米と交換していた。
 昭和27年(1952)ごろも、やはり沼津から魚を売りに来ていた。来ていたのはおばあさんで、背中にカゴを負い、その上に箱を載せていた。お得意さんができると売りに来るのが楽しみで来ている、そう言っていたという。北村家では飼っていたニワトリの卵を取っておき、交換していた。
 「マルサの薬」という富山の薬売りが来ていた。北村家ではトミさんの代から薬をたくさんとっていた。具合が悪くなったら病院で薬をもらえばよいと喜久枝さんが言っても、昔から取っているので仕方なかった。ほとんど使うことはなく、たまにちょっと熱が出たときに使用するぐらいのものだった。
 このほか、ミを売りに来る人、オヤザルを売りに来る人、年末にはホウキヤサンがいずれも秦野からよく来ていた。オヤザルは餅搗きのとき使うものである。トミさんはお茶を飲んでいるうちに友だちみたいになり、ミやオヤザルをたくさん買ってしまった。近所の人が来ると、おたくはミがタンタンだ(たくさんだ)、と言われた。

... 芸人
 昭和27年(1952)ごろ、正月になると芸人が来ていた。この人はきれいに編んだ小さい俵を持ってひとりでやってきた。そして「ヒトッコロガシはセンタワラ」などと言いながら、取り付けてある紐をあやつって俵を転がして見せた。喜久枝さんが見たのは2、3度で、来るとご祝儀を上げたが、その後芸人は来なくなった。

.6 年中行事
... 概況
 戦後は生活がたいへんで、人を集めて行事を行うことなどはなかった。現在は逆に生活は豊かになったが、勤めに出る人が多くなり、それに合わせて行事の数は少なくなった。

... ススハキ
 12月半ばにススハキをした。暦を見て、大安や一粒万倍日など日の良いときを選んで行っていた。
 ススハキは大変だった。まず、タンスなどの家具や荷物のほか、畳もすべて外に出す。そして男がニノコヤに上がり、顔を真っ黒にしながらササのホウキでススを落とす。下からも長いササを使ってススを落とす。このササはそこらに生えているものを切ってきて使う。このとき子どもたちは、オカッテとザシキの境にあった格子戸や柱・床などをピカピカになるまで磨いた。カマも磨いた。このあと外に出した家具を拭いたり、畳をはたいたりして中に入れたので、夜の8時ごろまでかかっていた。
 ザシキはこの日、ゴザから畳に切り替えた。

... 餅搗き
 暮れの26日から28日のあいだに餅搗きをした。北村家周辺では一番遅い家でも30日だった。
 昭和27年(1952)ごろは1俵搗いていた。そのころは他に食べるものも無く、毎食のほか3時のお茶にも餅を食べたので、1俵などすぐになくなってしまった。しかし、次第に食べる量が減り、現在搗いているのは近所に配る分も入れて1斗1升である。
 北村家には田があったが、近隣には無い家もあり、そうした家では米はオカボだった。そのため餅もオカボで搗いたが、量が少ないため粟などを混ぜてアワモチにしていた。アワモチはもち米と一緒にひやかして(水に漬けて)から搗いた。このような家では、三が日に食べる分だけは米のみの餅も用意した。
 オソナエの餅は神棚に3つ、コウジンサン(火の神様)、トコノマ(オク)、ホトケサン(仏壇)、オイナリサンのナナカザリだった。昭和27年(1952)ごろはオテラサン(蔵林寺)やベンテンサンにも上げたのでココノツカザリだったが、次第に少なくして現在は3つのみである。近隣の家も皆、オソナエの数は少なくなっているという。大きさも昔はとても大きかったが、今は小さいものである。

... 正月飾り
 オカザリは30日までに飾る。31日の一夜飾りはやるもんじゃないと言い、夜遅くなってもなんでも30日までに飾れと言われていた。
 マツカザリは入口の両側につけた。杭を打ち、担いで持ってきた大きなマツやササをここに飾った。
 神棚にはオシンメを張った。細い縄に間隔をあけてシメ(半紙で作った幣束)をはさみ込んだものである。照藏さんが健在だったころは喜久枝さんと2人で縄を綯ったが、1人ではできないため現在はトシガミサン以外は買ってきたものを使っている。神棚にはダイダイも飾った。
 ダイロクテン(第六天)とベンテンサンにもかつてはマツカザリを飾り、シメを張った。しかし、ダイロクテンの方は遠い森の中にあるため足が遠のき、現在は飾りに行っていない。

... 書初め
 暮れにお習字をする。書くのは神棚にダイダイが供えられ、畳が真っ青に敷かれ、コタツができたころである。
 書くときは近所と競うように書く。大人になると半紙が長くなる。それらを何十枚も神棚の下に飾った。近所の人が「うちの息子のがこれ」と言って持ってくるのでこれも飾り、北村家の子どももよそへ持っていって飾ってもらった。あんたのとこの子どもは字がうまいねだの言って、みんなで見た。子どもたちはその習字をくぐって部屋を行き来するのが楽しかったという。

... 大晦日
 大晦日に神棚にダルマを飾る。このとき、新しく買ったものには「よく働いてくれるように」と目玉を片方入れ、前の年に買った片目のダルマには、もう片方の目を入れ両目にしてやった。(66頁参照)
 正月料理の準備は大晦日に行った。北村家は家計が苦しい時代もあったが、働き者としっかり者の夫婦だったためこうした準備はきちんとやっていた。そのころよく買っていたのはニシンと、細かく割れたものを俵に詰めたカズノコだったという。
 昭和27年(1952)ごろは、正月の魚は切り身の煮付けだった。数年後からはブリを1本買うようになった。これをドマに縄で吊るしておくと、魚屋が順にまわってきてさばき、刺身や煮付けなどに造ってくれるのである。正月だけでなく、お祭りのときなどにも買ったという。
 準備した料理はこのほかキンピラ・コンブ・煮豆・ヨウカン・おソバなどである。現在のようにハスの煮物やゴマメは作らなかった。おソバは今でも大晦日に作り、餅や野菜と一緒に何軒かの家に配っている。
 大晦日はイロリの火を一晩中燃やす。このとき「フクネ」「フクネッコ」(福根)という大きな木の根を火にかけ、火箸で刺しながら燃やしていく。正月のマキを用意するとき、河原などから採って来て特別に分けておいたものである。照藏さんの父はお酒好きだったので、大晦日は女がキンピラや煮物などを作るかたわら、フクネの面倒を見ながら飲んでいたという。
 年を越すときは皆、買ってもらった新しい着物を着た。蔵林寺では除夜の鐘などはつかなかった。

... 元日
 トシオトコといい、三が日は男が早起きして食事の仕度をする。女を休ませるのだという。
 元旦の朝、若水を汲んで土瓶にも新しい水を入れ、神仏にオトウミョウを上げる。そして、男と子ども全員が並び、手を叩いて拝む。これが終わると女を起こし、食事となる。お雑煮は前の晩から煮てあるので、それを用意して食べる。
 初詣は家の主人が八幡様(八幡神社)に行っていた。

... 仕事始め
 正月は三が日までで、4日が仕事始めだった。
 この日はクズカキをしたり、ムギフミをしたりした。

... ナナクサ
 6日の晩、トシガミサンの前に木鉢とまな板とスリンコリン棒を持っていき、「ナナクサナズナ」などと言いながらナナクサの葉を叩いた。そして翌7日の朝、再び叩いてこれをお粥に入れた。このときオソナイも欠いて(割って)入れた。この日はナナクサで休みだった。かつては几帳面にやっていたが、現在は行っていない。
 
... カガミビラキ(クラビラキ)
 11日はカガミビラキ、またはクラビラキという。この日はダンゴのオシルコを作って神棚に供え、皆で食べた。

... ダンゴヤキ(道祖神の行事)
 正月14日の前になると、神棚の下にダイシのダンゴを飾った。まず、ザシキとオクのあいだの柱の前にマキを置く。つぎに、マキの両脇に1本ずつ竹を立てる。そして、大きな木を伐ってきて2本の竹の真ん中に立てる。この木に白のほか赤・黄色・青・緑など色とりどりのダンゴを付けるのである。形は、おイモ(サトイモ)・サツマイモ・ニンジン・落花生・煙草など家で作る作物のほか、ねずみ年ならネズミを作る。このうち煙草は、栽培をやめてから作るのをやめた。また、ダンゴと同じ材料でタワラを10俵作り、前に飾る。こうしたことを「モノヅクリ」といった。このほか、ダンゴヤキに持っていく分と、神仏に供える分を作った。神仏の分は木の枝に3つずつダンゴを挿した。
 この行事はかつては几帳面にやっていたが、今は木は立てず、皿にダンゴをのせて供えるのみになっている。今年は忘れたなどといっている家もある。
 門松や神棚のオシンメ(縄)、神棚の下に飾ったお習字などは、セエノカミサンで焼いた。このときダンゴを持っていって焼いて食べた。これをダンゴヤキといった。風が吹くとぱっと燃え上がるので、喜久枝さんは火事になるのじゃないかと心配だったという。

... ナカショウガツ
 15日はナカショウガツといって休みだった。
 北村家のある集落より下の地区では、この日アクマッパライという行事をやっている。

... 節分
 節分の豆は、家のほか、道祖神とダイロクテンに撒いた。

... ヒナマツリ
 三月の節句にひな人形を飾ったりすることはなかった。照藏さんは幼少のころから苦労し、その後もいろいろ大変だったため、そうした余裕はなかった。

... 彼岸
 春と秋の彼岸には、子どもや仲人などがみな来る。
 「入りボタモチに明けダンゴ、なかの中日アズキメシ」といい、ボタモチもダンゴも作る。ただし、アズキメシは代わりにお赤飯にしてしまう。ボタモチ(アンコロモチ)の中は飯ではなく餅だった。
 彼岸には墓参りに行った。

... 花祭
 現在は行われていないが、かつて4月8日は甘茶などといって、お寺(蔵林寺)で花を飾り、お茶をくれた。しかし、喜久枝さんは忙しくて行ったことがなかったという。

... 祭り
 八幡神社の祭りはかつて4月18日だったが、現在はその周辺の日曜日に行っている。
 3、4年に1回の本祭礼の年には大人の神輿が出た。昭和27年(1952)ごろは、こうした年には芝居も呼び、神楽殿で夜、白塗りの男たちが演じたという。
 祭りはちょうど桜が満開の時期だった。青年団が太鼓を叩いて、田端義男の唄などを歌いながら踊りをおどった。一平さんの弟も、手製のバチが何本もだめになるほど太鼓を叩いていたという。
 こうした芝居や芸を見るために、昔は祭りというと嫁に行った人もその仲人も子どもたちもみな遊びに来た。それが楽しみだったが、家の者はもてなすのが大変で見に行くこともできなかったという。里子さんが生まれる年、祭りのころはすでに臨月だったが、トミさんは朝から大きな卵焼きを作り、それを使って大きな太巻きを作ったり、さらに煮物を作り揚げ物をしたりと大変だったという。現在はそれほどお客がないので、祭りを見に行けるようになった。

... 七夕
 7月になると照藏さんが大きなササを切ってきて、いろいろな飾りを作って付けた。願いごとを書くときは、イモ(サトイモ)の葉にたまった露を硯に入れて磨ると天に通ずるといわれた。八重子さんは短冊に、大きくなったらだれだれのお嫁さんになる、などと書いたという。
 七夕が終わると竹は家の境にある野菜場に立てておいた。田んぼのふちに立てたりする家もあった。その後竹は腐り、倒れたものは燃やしたりした。

... お盆
 お盆は7月である。7月は草むしりなどで忙しいため8月の方がいいねえと皆で言い合っていたが、そのうち農業を少しずつやめ、7月でも平気になってしまった。お盆の行事もだんだん簡素化した。
 13日は早くから、家のジョウグチのコバ(敷地の出入口)に砂盛りを作った。まず4本の柱を砂盛りの四隅にあたる場所に立てる。つぎにこの内側に、同じ長さに切った竹を丸太小屋のように四角く積んでいく。そしてこの中に砂を盛る。これを3段重ね、はしごのような階段をつけた。現在は木でできた1段のものを買ってしまっている。
 お盆の棚を作るのもこの日である。この棚に特に名前は無かった。まずオクの仏壇の前に机を出し、ここに中のものをすべて出して仏壇を閉める。供えるものは新しく買ってきた花と、カボチャなどこの時期畑でできたものなどである。また、サトイモの葉っぱの小さいものをとってきて、これにソバやうどん、ご飯を朝昼晩と食事ごとに供え、線香を上げた。ナスとキュウリの牛馬も盆棚に飾る。いずれも素性の良いものを探し、誰かがもがないよう縄で印をつけておく。脚はオガラである。オテラサンは「馬と牛はガンコだから大きい方がいい」と言っていた。お盆の棚の下には、無縁仏だといって別にお供えをした。
 迎え火は13日の本来は夕方焚くが、北村家では早く迎えてやるため昼ごろに焚く。場所は砂盛りの横である。今は丸めた紙やワラを使う家もあるが、北村家ではムイカラ(麦殻)を燃やす。そして線香を立て、ソバを上げる。この13日の晩からがお盆である。
 提灯は、亡くなって1年目は斎場でもらう白無地のものを吊る。翌年からは絹張りでも紙張りでも柄のついたものを吊るす。これは子どもが買うものである。明かりは今は電気だが、昔はロウソクだったので燃えあがるのが恐ろしく、しょっちゅう見張りしなければならなかったという。提灯は7年くらい、傷んでだめになるくらいまで吊るしてやめる。吊るし終えたものはオテラサンで燃やしてもらう。
 お盆の15日には赤飯の握り飯を作って牛馬に供えた。赤飯で買い物に行くのだと言っていた。また、うどんもゆでて供えた。これが縄になるのだと言っていた。しかし、「今は自動車の世の中だからそんなのいらない」ということでやめてしまった。この日はまた餅を搗き、ゴマの餅やアンコロモチなどを供えた。ジエン(52頁参照)にも必ず配った。餅を搗く家は今でも残っている。
 お盆には兄弟や親戚がお中元を持ってぞろぞろ来た。トミさんはオスシなどを作ってあれこれ忙しくもてなした。またこうしたときは魚屋さんを呼び、ドマにゴザを敷いて大きなブリをさばいてもらい、お刺身にしてもらったという。
 お盆には墓参りもした。お盆はうちへ帰ってくるからお墓参りはいいと昔はいったが、今はみんなやっている。
 16日は送り火である。あまり早く送るとかわいそうということで、焚くのは午後2時前ぐらいである。このとき、花だけはしおれてなければ供えたままにするが、牛馬など、他に供えたものはすべて持って行く。火を焚くとき、米の粉で作ったオクリダンゴを棒に挿して供える。終わったらこれも他のものと同じくボサのところに穴を掘って捨てた。なお、現在は美化運動にともなって供え物も白い袋に入れ、燃えるゴミの日に出している。
 砂盛りも16日に壊す。竹は燃やすが、砂は翌年も使うので取っておく。砂は河原の「ボカ(セメントに混ぜるさらさらした粉のような砂)」を使っており、手に入りにくいからである。

... ロクヤ(二十六夜講)
 ロクヤ(二十六夜講)という行事があったという。喜久枝さんの実家ではやっていなかった。23日に太鼓をたたいて廻る地区が今でもあるという。

... オセガキ
 7月26日はオテラサン(蔵林寺)のオセガキである。トミさんが嫁に来たころはにぎやかで、境内で相撲や神楽が行われた。親戚がみんなで来たりしたという。

... 馬鍬洗い
 1年中働いたクワやサクヒキなどを洗ってムシロの上に飾り、アンコロモチを作って供えた。昭和27年(1952)ごろは残っていたが、現在は行っていない。

... 月見
 ロウカにオゼンを出し、供え物をした。十五夜にはダンゴ15個とススキ5本、十三夜はダンゴ13個とススキ3本である。このほか、サツマイモ・サトイモ・ナシ・ブドウ・豆腐・ソバを供えた。
 この夜は子どもが来て、ダンゴを遠くから突いて持っていった。トミさんは家の中から「お皿だけおいてけー」と言っていたという。なおこのダンゴは、実際には中にアンコの入ったまんじゅうである。現在は蒸しパン粉を買ってくるが、かつては小麦粉に重曹を入れて作った。そのため、今のようにフックリとはできなかった。

... メヒトツ
 12月8日はメヒトツといって、長い竹の先にメカイゴを伏せて掛け、主屋の屋根に立てかけた。「今日はメヒトツコゾウだからメカイゴやらなきゃだめだ」、という言い方をしたという。この夜、履き物などを外に出しておくとメヒトツコゾウに判子を押されて病気すると言われた。だから洗濯物や履き物は絶対出してはだめだと言われ、片付けさせられた。昭和27年(1952)ごろはやっていたが、その後、近所からまだそんなのやってるのかと言われ、トミさんが元気なうちからやめてしまった。

.7 人生儀礼
..(1)婚礼
... 花嫁修業
 一平さんの妹の里子さんと八重子さんは、2人とも花嫁修業として習い事をした。
 里子さんは洋裁・和裁・お花・お茶といずれも学校へ行って習った。洋裁は秦野のドレメ式に通っていた。
 八重子さんも洋裁・和裁・編み物などを習った。同級生は学校を卒業後勤めに出ていたが、父親の照藏さんが、女の子はお嫁に行く方が幸せだからと言ってそうした習いものをさせてくれた。勝手に入学手続きをした上、オスシなどを買って教室まで挨拶に行ってくれたという。

... 縁談
 縁談は親同士で決まった。あの人とあの人は真面目だから結婚させようなどという具合だった。
 相手を決めるときは親を見た。親がしっかりしていれば、子どももしっかりしていると思われていた。昔は財産と結婚するようなところがあり、この家は財産があるからとか、あんな家へ行ってはだめだとか、そんな言い方をした。家のまわりのタキギを見れば間違いないといわれ、タキギがろくに積んでないような家へ嫁がせたら娘がかわいそうだ、などと言った。
 一平さんの両親、照藏さんとトミさんは恋愛結婚だった。恋愛すると「あの娘は不良だ」などと言われた時代で、当時としてはたいへん珍しかった。駆け落ちということになったのでトミさんは実家から勘当された。しかも、最初の3か月は縫い物などの修行のため大倉にある仲人の家に置かれ、家に照藏さんがいるのに一緒に住めなかった。勘当が解け、実家に行けるようになったのは、結婚して3年目だったという。
 喜久枝さんと一平さんは仲人の紹介で知り合った。あるとき仲人さんが、あの家にこういう人がいるからどうよと言って、喜久枝さんの家に一平さんをつれて来た。そこでちょっと話して、あれならいいからということになった。その後、喜久枝さんも一度、北村家がどんな家か1人で見にいったという。

... モライウケ
 縁談が成立すると「モライウケ」を行う。婿側は本人と仲人など計7人ほどが行き、嫁の家では結婚式と同じようにオザシキ(宴席)を設ける。ただし結婚式とは異なり、ご馳走は各々の膳ではなくテーブルいっぱいに出す。終わると婿側に土産を持たせて帰した。
 喜久枝さんの仲人は、一平さんとの結婚を世話した喜久枝さんの親戚の人だった。八重子さんが結婚するとき仲人をしたのは、一番上の姉夫婦だった。仲人には結婚後ずっと付け届けをしたが、別に何かの世話になるようなことはなかった。

... 結納
 結納は嫁の家で行う。
 八重子さんが結婚するとき、結納はオクで行った。本人と両親・互いの仲人・親戚などが集まった。鰹節や昆布などに熨斗をつけたものを互いに交換したりしたという。
 喜久枝さんと一平さんのときは、本人と両親、互いの仲人2人ずつが喜久枝さんの実家に集まった。婿側は結納品を持ってきた。シラガ(麻)・スルメ・昆布・松の飾りなどを箱に入れたもので、シラガは白髪になるまで、昆布は喜ぶ、などの意味がある。またこのほか「オビダイ(帯代)」と言われる結納金も持参した。昭和27年(1952)当時、相場は1万円だったが、一平さんが勤めに出ていた北村家は比較的余裕があり、2万円だった。
 喜久枝さんは結納後、北村家を訪れたことがあった。このとき土産として、義母と2人の義妹に反物を持って行ったという。

... 嫁入道具
 嫁入道具として喜久枝さんが持ってきたものは、タンス・布団2組の入った長持・座布団10枚の入った座布団入れ・下駄箱・絣のモンペなど野良着のたくさん入った柳行李・ハンテンなどの入った木のツヅラ・鏡台・小さな姫鏡台・重箱などである。里子さんが昭和33年(1958)に嫁に行くときは、他の道具類とともに蚊帳と張り板2枚を持っていった。こうした荷物は、近所にいたウシグルマをつける(運搬する)人に運んでもらった。
 嫁入道具は結婚式の前日からザシキに飾る。ドマの方からオクにかけて、客から見えるよう宴席と平行するように並べた。これらは式のあともしばらくのあいだ飾られ、そのうちヘヤに入れたり、下駄は下ろしたり、それぞれの場所へ片付けられていった。中には座布団やハンテンなど、その後一度も使わぬまま仕舞い込んでいるものもあるという。

... 嫁入り
 結婚式は大安など良い日を選んで行った。
 朝10時ごろ、婿側が本人と仲人とで嫁の家に迎えに行く。嫁の家では結婚式と同じようにオザシキ(宴席)がある。婿側の親戚がこの場で飲んでいるあいだ、花嫁花婿は嫁側のジエン(地縁)につれられ、近所の家に挨拶に行く。このとき花嫁は半紙を付け、婿は名刺などを持参する。
 午後3時から4時ごろ、嫁の実家を出発する。婿の家に着くと、花嫁はオオドから入った。
 写真はニワで撮る。他の家でも庭で撮っていたという。
 このあと、花嫁は婿側のジエンにつれられて近所を挨拶まわりする。このとき、お茶の小さい包みと半紙を持参して配る。この間、嫁側の親戚は婿の家で飲んでいる。
 喜久枝さんや八重子さんは嫁入りに車を使ったが、一平さんの姉の時代は歩きだった。嫁に行く日は大雪だった。30cmほど積もったが、それでも歩かなければならないので、家から嫁ぎ先の横野(秦野市)まで、一平さんと弟がスコップですべて雪掻きしたという。

... 結婚式
 結婚式は夕方から夜にかけて行われた。普通は1日で終わるが、大倉にはうんとお大尽の家があり、そこでは3日もかけて行った。家の人は大変で、「膝が抜けちゃったよ」などと言っていたという。
 北村家で結婚式を行うときは、オクとザシキの境の戸を外し、長い席を作った。新郎新婦はオクのショウザ(正座)に座る。トコノマに向かって右が新婦、左が新郎である。現在は反対に座ることが多いという。この2人の両側に双方の仲人が並んで座る。
 式には親戚のほか、前日、嫁入道具を運んだ人も招かれた。その人にはこの席で、新郎の家からご祝儀を出した。また、カネオヤ(52頁参照)は一番上座に座った。
 三々九度はこのオクの席で行った。喜久枝さんと一平さんのときは、盃にそそぐ役は当時小学生だった八重子さんと下の家の男の子がつとめた。
 このあと披露宴のようなものとなり、唄ったり踊ったりした。結婚式は夜だったので「あっこのうち今日結婚式だってよ」と言って近所の人がみな見に来た。寒くても何でも窓を開けてのぞき込み、「やれ、あそこの嫁さんはいい仕度で来らいた」などと口々に言いあったという。

... 料理
 料理は嫁の家と婿の家と、同じようなものを作ってはいけない。もらう側の方が値段も格式も高くなるようにしなければいけない。そこで「こっちはいくらぐらいで作るから、そっちはいくらぐらいにするか」と互いの家で打ち合わせ、それから料理を作った。
 料理は両家とも前日から準備をした。近所の人が集まってみんなで作り、クチトリという8寸の大きな折に1人前ずつヨセておいた。用意したものは、鯛の焼いたもの・末広になるよう扇型に作った大きなヨウカン・紅白のかまぼこ・昆布・キントンなどである。鯛は大きさのそろったものにするため、かなり早くから魚屋さんに頼んでおいた。
 刺し身は魚屋さんを呼んで造ってもらった。北村家から下ってすぐのところに魚屋があり、こうしたときにはドマで魚をさばいてもらい、それぞれのお膳に入れた。
 このほかソバやオハギも作って出した。オハギは「ブッツァルブタモチ」(「ブッツァル」とは尻をつけて座ること)と言って、お椀に入れて出した。このオハギは落ち着くように少しでも食べなくてはいけないと、仲人に言われたという。
 式に出た人は、両家から出されたクチトリを鯛の柄の白い風呂敷に包んでもらい、持ち帰った。昔は結婚式というとクチトリが楽しみで、大きなヨウカンなどは家族の人数分に分け、みんなで食べたという。

... 衣装
 八重子さんが北村家から嫁に行くときは、美容師を呼んで化粧や着付けをすべて支度して家を出た。着物でタクシーに乗るのは苦労したという。
 喜久枝さんは江戸褄を来て実家から車で来た。北村家に着いてから、蔵林寺のお嫁さんに角隠しの付け方などを指導してもらった。この人は日ごろからよく北村家に遊びに来て、家で採れたものなどを持ってきてくれていた人である。
 喜久枝さんは式の途中で3回お色直しした。着替えにはヘヤを使い、付け下げや総柄の着物などを着た。婿の方はお色直しはしなかった。

... 式のあと
 結婚式の翌日は、組のオンナシさん(女衆)が全員来る。式の準備を手伝ってくれたお礼の席であり、テーブルを出して人数分の皿を用意し、料理を出す。このときオスシは必ず作る。
 この席で持ってきた嫁入仕度を見せる。タンスの中や抽斗も開けて見せる。それを見て中身が少なかったりすると、あっこの嫁さんは何にも仕度が無かった、タンスがカラだったなどと、昔はいろいろ言われた。
 翌々日は新郎の友人関係が来るのでまたもてなす。したがって、式当日も含め3日くらいは人をもてなすことになった。
 なお、八重子さんは結婚後しばらくしてから、名残り惜しくならないようにと、実家に置いてあった自分の茶碗などを割ったという。

... ヒザナオシ
 結婚して7日目は「ヒザナオシ」といい、婿の両親に送られて実家に帰る。行くときは手土産を持っていくが、婚家に戻るときは何も持ち帰らなかった。

... 新婚旅行
 ヒザナオシを終えてしばらくしてから、一平さん夫妻は新婚旅行に行った。昭和27年(1952)当時、新婚旅行など行く人はなかったが、一平さんが勤めに出ていて経済的に余裕があり、寛一お宮の熱海へ1泊で行った。

..(2)産育
... 出産
 お産のときは実家に帰る。一平さんの姉は北村家に帰って出産した。
 お産のとき使われたのはヘヤである。産湯の水は川から汲んできて、カマドで温め、ヘヤの外のロウカにタライを置いて使った。産婆は堀山下の北というところから呼んだ。堀山下の人は皆、この「サカモトサンバさん」に取り上げられた。

... 初節句
 長男長女が生まれると本来であればコイノボリだ人形だということになるが、一平さん兄妹が育ったころの北村家にはそんな余裕はなかった。

... ミノイワイ(七五三)
 里子さんは七つのお祝いに、赤い生地に白の絞りの着物と羽織を買ってもらった。とても嬉しくて、今でもそのことをよく覚えているという。里子さんや八重子さんの世代はこのように綺麗な着物を着たが、さらに昔は七五三でもそうしたことはなかったという。なお、現在のように木履を履いてお宮参りすることは八重子さんの時代もなかった。

... 成人
 八重子さんは20歳のとき、成人式のお祝いをしてもらった。

..(3)葬儀
... 葬儀
 照藏さんが亡くなったとき(昭和30年)、ザシキやドマには小麦など荷物がたくさん置いてあった。喜久枝さんは必死になってそれらをコヤへ片付けたという。
 このころのお棺はネガンではなくタテガンで、中に座らせるようになっていた。これをオコシ(オミコシ)の中に入れたまま、オクに祭って葬儀をした。オコシとは棺を運ぶ輦台(れんだい)のことで、普段は寺に置いてあった。祭壇に花を飾ったりすることはなかった。
 葬儀の夜、蔵林寺からオツさん(和尚さん)が来てお経を上げる。家に上がるときはオクから出入りする。他にここから出入りする人はいなかった。
 ヒキモンはまんじゅうで、花の模様の付いた箱に入っていた。
 葬式には黒の着物に黒の帯を締めた。喜久枝さんが実家から持ってきたのは白と黒のカサネだったが、重ねて着るとお葬式が重なるから白は着ちゃだめだと言われたという。

... 埋葬
 オコシを担ぎ出すときはオオドを全部開け、そこから出た。オテラサンに着くと、ゲンカン(山門)から入って境内を3回まわる。今は地蔵などがたくさん建っているので、まわることはできないという。かつては北村家と北村家の本家、そして分家の計3軒だけは寺の本堂の中にオコシを上げた。そして、そこでお経をあげてもらってから埋めたという。
 照藏さんは土葬だった。アナホリは親戚の人で順番にやった。「ヨッタリイッショ(ウ)」といって、この4人にはお酒1升と豆腐を出し、浄めをしてから掘りに行ってもらう。棺が入るほどの深さを掘るのはおおごとで、木の根などが入り込んでいると大変だった。なお、アナホリとオコシを担ぐ人は別である。
 棺を埋めたあとは土を少し盛り上げ、その上に石を積み上げる。建っていた墓石は寝かした。

... ヒトナノカ(初七日)
 現在は葬式のときヒトナノカの供養もやってしまうが、昔は別だった。当時はこの日、アナホリの人4人を呼んでご馳走した。ヒトナノカには他にジシンルイが来た。

... 四十九日
 四十九日までの位牌は白木にキレをかぶせたものである。この切れをヒトナノカごとに折っていくと、四十九日にはすべて出ることになる。そしてこの日、塗りの位牌に替える。
 仏壇にはヒトナノカヒトナノカ、四十九日までオダンゴを供えた。墓参りにも行った。
 埋葬のとき寝かせた墓石は四十九日に直した。

... 墓参
 墓が近いので、行きたいときにはいつでも墓に行く。月命日には必ずお参りに行く。このとき花と線香を持って行く。

... 法事
 鍛冶ヶ谷戸は2つに分かれ、下半分をシモ、上半分をカミと呼んでいる。北村家はシモである。カミの人は四十九日でも呼ばないのに対し、シモの人は四十九日のほか一周忌まで呼んだ。ただし現在は四十九日までになっている。
 三回忌・七回忌・十七回忌は内々でやる。親戚を呼ぶのは三回忌くらいまでで、あとは兄弟だけである。五十回忌まであり、やることができればそれまでやる。

.8 信仰
..(1)神棚
 北村家のザシキには長い神棚があった。真ん中はダイジングウサン、左はトシガミサン、右はオヨベッサン(恵比寿)とダイコク(大黒)である。縄で作ったオシンメが一年中張ってあり、決まった日に榊(本榊)とオトウミョウを上げていた。榊を絶やしたことはなかったという。神棚の前には陶製の鯉が数か所、口を上にむけて取り付けてあった。榊入れである。正月には門松として松を切って挿していたが、そのうち松をやたらに切ってはいけないと言われ、榊のみを挿すようになった。現在は松の木自体が近所からなくなってしまったという。
 トシガミサンの棚には一年中お札があがっていた。ススハキのときに下ろし、12月26日に八幡神社から新しいお札が来ると、その日か27、28日のいずれか縁起のよい日に棚に納めた。
 そのほかのお札も八幡神社からもらった。年末、お宮のヤクの人が氏子の家を順にまわってきて、お宅はどういうのを頼むかときいてくるので、うちは毎年おんなしのでいいよと言う。するとそのお札をお宮が用意してくれるので、元日に取りに行った。オヨベッサンの棚の前には、こうしたお札が垂れ下がっていた。なお、現在は大きなクマデも神社に頼んでいる。
 神棚には八幡神社からもらうお札のほか、どこかへお詣りに行った際もらったものなども入れていた。お札を売り歩く人がまわってきて、そこから買うということはなかったという。
 かつて、古いお札はどの家でも取っておき、いっぱいになると納めに行った。北村家では一平さんが亡くなったときに古い札を納めに行った。今度納めるのは次の代になるだろうという。なお、現在は14日のセエノカミサンで昨年の分を燃やしている。
 神棚に「センリョウバコ」と呼ばれるものがあった。ススけて真っ黒になったフタ付の木箱である。大掃除のときなどどかして掃除したくても、女性の手では持ち上がらなかった。何が入っているか誰も知らないのであるとき喜久枝さんが開けてみると、中には書付がたくさん入っており、一番上に「紫式部」と書いた冊子があった。しかし、たくさんありすぎて中を見ている時間もなく、当時は価値があるとも思わなかったので、古そうな外箱のみを残し、中身はすべて捨ててしまった。捨てるときは神様のものだから古い袋では罰が当たると思い、新しい袋に入れて道祖神に納めた。すると、その日のうちに誰かが持っていってしまった。
 神棚の左側にはダルマが並んでいた。かつては12月31日に開かれた秦野の晦日市(注9)で買っていたが、一平さんが亡くなってからは、渋沢駅南口で開かれる市で26日に買ってしまうようになった。買い求めるダルマは、今年は1寸、翌年は2寸、その次は3寸と、毎年大きくしていく。そして、「七転び八起き」で8つになると、一番大きいものを残して他の7つをすべて納めてしまう。すなわち道祖神に出し、セエノカミサンで燃やしてもらうのである。なお、このダルマは現在は3つにしている。

..(2)仏壇
 仏壇は、置いてあったのはヘヤだが、オクから拝むようになっていた。オクとヘヤの境には開口部があり、もとはこの間口いっぱいに仏壇がはめ込まれていた。しかしその後、小型のものに替え、両脇にタンスを置くようになった。古い仏壇はドマの隅に置いてあったが、物入れとして使うことはなかった(注10)。

..(3)屋敷神
 オイナリサンはあるが祭りは行わない。イチモン飾り(1本の縄を縒ってシメを付けたもの)をしていたのを取っておいて初午の日に燃やし、その灰を供えるだけである。燃やすのは本来オイナリサンの前でなければならないが、そばにガスボンベなどがあって危険なため、少し離れたところで行っている。なお、この初午の日には小豆のご飯かお赤飯をワラのツトに入れて供えた。

..(4)氏神ほか
 北村家の氏神は八幡神社(秦野市堀山下)である。
 ダイロクテン(第六天)とベンテンサンは北村家ともう1軒の家で守っていた。この家も親戚ではないが北村姓である。ダイロクテンのホンゾウさん(地主)は現在東京に住んでいるという。日にちは決まっていなかったが、毎年7月、ダイロクテンとベンテンサンのお祝いを1年交代で行った。2軒が当番も交代に行い、当たった年はカリントウなどを作って持っていった。この行事のときには同じ組の者も参加した。昭和27年(1952)以前は神主さんも呼んでいたが、数十年前から行われなくなった。
 古い人形はどの家も道祖神に納めていた。

..(5)菩提寺
 北村家の菩提寺は曹洞宗大育山蔵林寺(秦野市堀山下)である。
 墓地は丘の上の一番良い場所にある。オテラサンの話によると、北村家の墓地はかつてとても広かったが、周辺の北村姓の家に土地を分け、現在の区画になったという。
 なお、北村家の墓地のとなりに米倉丹後守(20頁参照)の墓がある。かつては命日の前に前夜祭を行ったが、現在は行っていない。

..(6)講
 鍛冶ヶ谷戸15、6軒でオネンブツを行っていた。集まるのは年寄りの女性たちで、年に数回、夜、当番の家に集まった。集まると鉦をチンチン叩いてナンマイダと念仏をやり、そのあとお茶を飲んだ。当番は回り持ちで、その家でご馳走も作った。
 北村家で行うときは、ザシキを使った。

..(7)参拝
 大山(伊勢原市)が近いが、北村家周辺で参拝に行くことはなかった。
 成田山へは初参りによく行った。トミさんはその他、小田原・伊勢・九州などバス旅行でよくお詣りに行った。そうしたときはきちんと着物を着て行った。

.9 口承文芸ほか
... 嫁ぎ先で病む
 「お母さん(トミさん)は、すごく強いお母さんでね。いちばん上の、横野(秦野市)にいるお姉さんがね、十何人家族のところへ嫁いだものですから、苦労して、ちょっと肺を患っちゃったんですよね。それでお母さんがそのウチへタッタッと行っちゃってね、『ウチで当分預かるから』って。
 それでね、その病気を治すには、マムシのキモとかトリの活き血とか、それがいいって先生が言えばね、クツタビ(地下足袋)にコールタールみたいなのを塗ったりしてね、『これで一日帰ってこなかったらマムシにコレされた(やられた)と思ってくれよ』って言ってね、山へ行くの。一升瓶抱えて。ねえ、普通だったらマムシ見たら逃げるわね。(母は)マムシ見たらヒュッと取ってビンの中へ入れてね。ちょっとできないですよ。それはね、母の親心ですね。そのキモをね、実家に帰ってきてるお姉さんに『ほらっ、飲むの』って。もうね、嫌がるお姉さんに強引に飲ませたりね。ニワトリはニワで飼ってたもんですから、その首をパーンって刎ねてね、血をチャッチャッチャッてきって茶碗に入れてね、『ほら固まらないうちにすぐ飲むの』とかね。そういうお母さんの強い思い出があります。」(八重子さん)

... 柿で命をとりとめる
 「このことは私の兄妹でも語り草。(煙草の)納付の日に、私が数えで3つだったって。今で言えば2歳だね。そのときに何か熱がちっとも下がらないんだって、40度ぐらいから。何か百日咳とか、今でいう肺炎みたいなものだか何だか知らないけど、寝ていて。渋沢の駅のそばに高橋さんというお医者さんがいてね、その人が朝に晩に来てくれられたって。それでもね、『もうこの子はだめだよ』。それが納付の日だったんだって。
 それで(煙草を)持って行かなきゃいけないのに、近所の人に頼んでね、お医者様も朝から来てくれられたんですって。そしてね、『この子はもうだめだから、何か(この子が)食べたいモンがあったら、くれちゃいな』って、先生が言われたんだって。じゃあ『何が食べたいのよ』って言ったら、私が『柿よ、柿』って言ったんだって。そしてね、もう12月は今みたいじゃないよ。もう11月でこんなに霜があって、雪降ったんだから、私なんて子どものころは。もうね、こんなにあったかくないだから。『今は柿なんてないだろう』って渋沢の駅の方までね、私の父が八百屋っていう八百屋を自転車で。『もう今なんか柿あんもんじゃない』ってね。仕方なく、沼代からショウブってね、今で言う「ニヨンロク」(国道246号線)だね。沼代ってところがあるの。昔は西秦野じゃない、こっちは上秦野上郡だったの。そこの沼代のおうちの農家のとこに、柿が1本成ってたんですって。そいで『ああ、あれは柿だ、甘柿だ』って思ってね、そこのウチへ行ってね、こういうわけだからと言ったら、枝ごと取ってくれたんだって。『うちじゃ食べないからよう、鳥のエサだ』なんて言ってね。枝ごと取ってね、自転車へ積んで来られたらしいよ。
 それで持ってきたらね、こんな冬柿を、『もっともっと』って言って、3つ食べるんだって、私が。それでまだ、お医者さん居られたんだってよ、見て。それでいただいてもらってきた柿を夢中で3つ食べて、もっともっとって言うんだって。そいでこんなに小さくって、くれていいのかね、って言ったら、『いいよ、もっとって言うからくれてみな』つったらね、4つ食べたんだって、こんな(大きな)のを。そうしたら、みるみる熱が下がったって。そうしたら、その高橋先生ていう人が、『俺はまァ医者になってまァ初めてだ、こんなことは。医者の薬で治ったんじゃない、この子は。柿で治ったんだ』。
 そうしたらね、納付の日で頼んでたから、『どうよ、里ちゃんは、どうよ』ってその人が来らいて聞いたらね、ウチのなか飛び跳ねてたって。熱が下がったから、もう起き上がってたって。そーんときはね、ウチのモンは恥ずかしいようだったって。この子はもうだめだって医者がついてて言ってるのにね、子どもだから熱が下がったら起き上がっちゃったって。柿はね、熱をうーんと取るから、内面からね、熱を取っちゃったみたい。だから私、いまでも柿好き。うちの兄妹も親も語り草。そう、そんなことがあったの。」
(里子さん)

... 戦争
 「あと一番の思い出はね、わたし16年の生まれなんですけれども、太平洋戦争の真っ只中に生まれたものですからね、昭和20年の4歳のときにね、お兄さんが戻ってきたんですよ、遺骨でね。その時は知らないですよ、4歳ですから。で、空を見るとね、それこそトンボが飛んでいるみたいにね、そのころは飛行機がブンブンブンブン飛んでいたのは覚えていますね。で、そこからね、チャカチャカチャカチャカホイルみたいな光るのが出てね、『お母さん、あれきれいだから取りに行ぎたい』なんて言ってね、お母さんにうーんと怒られたのを覚えています。
 近所の娘さんたちはそのころ、『外国人がジープで上の方へ来たから、防空壕隠れよう』とか、どこどこ隠れようなんて言った時代ですからね。
 それでね、私が4歳の時だから、お姉ちゃんが小学校の3年生くらいだったでしょ。8月の、すごい暑いさなかなんですよね。それこそ子どもだから裸でパンツ一丁でそこいらへ遊びに行ってたんですよ。で、大きな声で私の名前を姉ちゃんが呼んでね、『お兄さんが帰ってきたから、帰ってきなー、早く帰ってきなー』って大声で呼んだんで、私が手も足もドロドロだから、裏の川で洗って、そして拭いて、『さあさ』って言って家の中に入りましたらね、もう50人か大勢の人がいるんですよ。そしてトコノマに、ブドウだのバナナだのリンゴだの、いっぱい飾ってあってね。私、生まれて初めてあんなに果物がたくさんあるのを見たものだから、『あらおいしそう、においもいい』って取って食べようとしたら、お母さんに手をペンッとやられたんですよ。何がなんだか、その時は4歳で分からなかったんですよ。それで、『お姉ちゃん、なによ、お兄さん帰ってきたって、どーこにいるのー、どこどこ』って大きな声で何度も言ったらしいんです。まァ子どもだもんで大きな声張り上げるわねえ。そうしたらね、まわりのみんなが大粒の涙をこぼしてワンワン泣くんですよ。お骨で帰ってきたのを私だけ知らないから。その4歳のときの記憶は、いまでもなんかザワザワ夢に出てくる感じです。」(八重子さん)

... 買出し部隊
 「まずね、私たちが育つころはね、戦後でゆとりが無いよ。自分が生活してゆくのがやっとなのよ、ねえ。そういうふうに人を集めて行事をやりましょうなんて、なかったねえ。毎日毎日が、自分が生きているっていうのが精一杯っていう時代だもの。
 私なんて子どものころ、『きょ〜うも〜 くるく〜る〜 買い出し部隊〜』なんて歌ったんだよ。買い出しがこっちへ来るのよ。だから悪いけど、そんな唄を平気で歌ってた、子どもだから。非農家の人で渋沢の辺へ引っ越した人が、戦後で何にも無いじゃん。着物を売り売り、お金も無い、引っ越してきて何にも無い人が、ウチの方へ買い出しに来るのよ。すんとウチの方ではサトイモ洗って干したり、サツマイモ洗って干したり、ねえ、何でもあるでしょ。落花生があったり、もう、コヤへ行けば何でも食べ物あるもの。んっとね、(物を差し出して)『これで分けていただけませんか』って来るの。んっとね、『向こうの方からまた買い出しが来たよ』なんて言うとね、私なんて無邪気だから、『きょ〜うも〜 くるく〜る〜 買い出し部隊〜』なんて歌ったのよ、こんなちっちゃいうち。その人はもう、みすぼらしくって、おなかぺこぺこで、子ども連れて買い出しに来るのよ、ねえ。だいいち昔はねえ、サツマイモのツルがあんでしょ、ツルに葉っぱがあんでしょ、この茎を食べたの。それも欲しい、ダイコンがあればダイコンも欲しい。サトイモが洗ってウチの物置の前に干しとくのよ、冬は。ほら、干しとかないとツルツルしてんから、皮が剥けないでしょ。そんなの置いたりなんかすんと、『オレも食べたいーっ』って連れてきた子どもが泣くのよね。それから私なんて『ナベヤキ』つって、こんな大きな落花生炒るナベで、粉がウチにあるからパンを焼いて、お砂糖だ味噌だなんて入れて焼くの。んっとそのパンがおいしいの。そんと私はその子に分けてくれたり、サツマイモだのサトイモだの煮たのが大きいナベ、昔は何だってサンジョウナベ(三升鍋)なんだから、それで煮たのがヘッツイに置いてあれば、その子にくれたりしたよ。なにッしろ栄養失調の子が多かったから。
 そういう時代で、昔は今みたいにいろんな行事が派手には無かったよ、無い無い。スキがあったら人の物盗ってらっしゃいだよ。そういう時代だもの。
 (買出しの人は)みんな東京横浜。都会で焼け出された人がね、引っ越して来るの。知人や親戚を頼って。物置に住んでたり、小屋へ住んでたりしてる人が多いのよ。ほんっとうに戦中から戦後にかけて、すごい時代だったのよ。」(里子さん)

... 物乞い
 「あるある、うーんとある。髪の毛なんてこーんな長くしてね、それをこんど寝るときは枕にするんだって。それおぼえてる。あったよ、今そんな人いないよね。まわってる。来たねー。もうそういう人にはね、10円だとかオニギリがあれば、オニギリくれたり。そうすんとね、その人は、そのうちうちをよく知ってるんだって。そうすんとね、私の姉がね、横野へお嫁に行ったでしょ。で、『鍛冶ヶ谷戸のこういううち行くとな、こういうふうによくしてくれる』つって、ほら自分の実家だとはむこうは知らないでしょ。行った人が方々言ってるんだって、『どこぞこの部落行くとこういううちがある、どこぞこの部落行くとこういううちがある』つってね。その人が方々行って言うんだって。そうすんとね、うちの姉が横野に嫁に行ったのね。『鍛冶ヶ谷戸でねこういううちがあんだよって、名前はわかんないけどな、こういううちがあってこういうふうにしてくれんだよって、あそこのおばさんはうーんといい人だ』って言うんだって。すんと姉がね、『それは私の実家ですよ』って。『そうーかねー、そう言われればおばさんの顔があのおばさんに似てる』って言うんだって。昔はなんでも歩いて、こう、ね。それこそひっきりなしに歩くから、ああいう人は。」(里子さん)

.注
 1 一平氏の祖父母の代が早世したため、言い伝えがないという。
 2 『重要文化財旧北村家住宅移築修理工事報告書』18〜19頁
3 秦野市寺山で育った山口成富氏によれば、同地区には昭和35、6年(1961、62)ごろにはまだ竹簀子の家が少なからず残っていたという。昭和40年(1965)ごろ取り壊された3間取りの家は、納戸だけが竹簀子だった。この地区も煙草の栽培が盛んだった。当時中心だった秦野葉の乾燥は天日干しで、にわか雨が降ると急いで取り込まなければならない。濡らすと駄目になるため、靴のままぱっと簀子に上がり、取り込んだものを干していた。このように家の中で煙草を乾燥させるため、空気の循環を良くするのに簀子にしたのだと、地元ではそんなふうにいわれていたという。冬、竹簀子は寒かった。そのため煙草の乾燥が終わると簀子を外し、厚さ2㎝ほどの板を入れて上にムシロを敷いていた。簀子を入れている季節には、この板は土間に置いてあったという。
4 建築史的に見ると、縁側は外縁(濡縁)から内縁に移行した。これを話してくださった喜久枝さんには、縁側とは本来、濡縁だという意識が残っていらっしゃるようである。
5 冷蔵庫が入ったのは昭和40年代前半、主屋を建て替えた後だったという。
6 北村家のある堀山下は、明治22年(1889)に数村と合併して西秦野村となり、昭和30年(1955)に町制施行、昭和38年(1963)秦野市に編入された。
 7 昭和30年代後半から減少し、昭和59年(1984)に皆無となった。
 8 喜久枝さんによれば、秦野の町の方のことを昔は「トオカマチ」と言ったという。『秦野市史』(別巻民俗編477頁)には、本町の十日市が近世期より有名で、秦野の町場へ行くことを「十日市へ行く」というように、市が無くなった後も言葉だけが残ったとある。この場合は31日に開かれた本町の市のことと思われる。
 9 『秦野市史』(別巻民俗編 477頁)には「本町の市」として掲載されている
10 現在、当園の北村家住宅に置いてある仏壇は、この古い方のものである

.参考文献
落合政一            1925『秦野誌並震災復興誌』 私家版
川崎市            1968『重要文化財旧北村家住宅移築修理工事報告書』 川崎市
神奈川県教育委員会    1963『秦野の民家』 神奈川県教育委員会
秦野市            1985『秦野 ふるさと探訪』 秦野市
秦野市管理部市史編さん室    1983『秦野地方のことば』 秦野市
秦野市管理部市史編さん室    1984『秦野市史』別巻たばこ編 秦野市
秦野市管理部市史編さん室    1987『秦野市史』別巻民俗編 秦野市
秦野市農業協同組合    1993『秦野地方の農と住の記録集』 秦野市農業協同組合

.図版キャプション
1 喜久枝さん(右)と教子さん
2 北村家家紋(墓石より)
3 北村家所在地
4 八重子さん
5 移築前の北村家住宅(障子の前に干されているのは小麦のカラ)
6 オオド周辺(左手に積んであるのは収穫した穀物)
7 カマドと農具置き場
8 大小のカマドとオカッテ
9 ナガシ
10 ザシキとオカッテ境の格子戸
11 神棚と積み上げられた畳
12 仏壇とタンス
13 オクのトコノマ
14 ヘヤのタンス
15 復原された建築当初の間取り
16 移築前の間取り
17 水車小屋があった当時の屋敷内の配置
18 水車小屋のあった場所
19 里子さん
20 洗い場
21 煙草の乾燥(北村家近隣の様子)
22 現在祀られているダルマ
23 オイナリサン
24 蔵林寺
25 北村家墓所
26 最古の墓石(寛文9年)


(『日本民家園収蔵品目録12 旧北村家住宅』2009 所収)