茨城県笠間市片庭 太田家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が茨城県笠間市片庭(旧西茨城郡北山内村片庭)の太田家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は3期に分けて行った。
 1期目は昭和42年(1967)7月と昭和44年(1969)2月、資料収集にともなってお話をうかがった。担当したのは小坂広志(当時当園学芸員)、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  太田守彦さん  現当主父   大正5年(1916)生まれ 昭和55年(1980)没
 なお、小坂はその後個人的にも太田家を訪れ、お話をうかがっている。
 2期目は昭和51年(1976)2月、運搬用具調査の一環として背負子についてアンケート調査を行った。担当したのは小坂広志、回答を寄せてくださったのは太田守彦氏である。
 3期目は平成24年(2012)1月から4月、本書の編集に合わせて行った。
 1月22日には、笠間市の太田家を訪れ、お話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  太田孝政さん  現当主    昭和22年(1947)生まれ
  太田正江さん  現当主夫人  昭和23年(1948)生まれ
 3月13日と4月5日には、茨城県つくばみらい市の中山家を訪れ、お話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  中山てる子さん 現当主姉   昭和18年(1943)生まれ
 このほか、直接お話をうかがうことはできなかったが、本文中にお名前の出てくる方を記しておく。
  太田多兵衛さん 現当主曾祖父 嘉永 2年(1849)生まれ 大正 4年(1915)没 
栃木県茂木町より養子に入る。
  太田あささん  現当主曾祖母 安政 2年(1855)生まれ 昭和20年(1945)没
  太田多市郎さん 現当主祖父  明治 8年(1875)生まれ 昭和28年(1953)没
  太田ちよさん  現当主祖母  明治13年(1880)生まれ 昭和41年(1966)没
  太田タイさん  現当主母   大正 6年(1917)生まれ 平成21年(2009)没 栃木県茂木町出身
  太田サキ子さん 現当主姉   昭和16年(1941)生まれ
3 図版の出処等はつぎのとおりである。
 1                遠山作成。
 2、3、6、7、36            平成24年(2012)1月22日、渋谷撮影。
 4                フリー素材を使用。
 5、12、15、16、33、34、35        昭和42年(1967)7月、小坂撮影。
 8、21          小澤作成。
 9、10、11、19、26、27、28、29、30    昭和42年(1967)12月、移築前の調査で撮影。
 13、17、18、22、23、24、25        昭和43年(1968)、解体時に撮影。
 14                撮影年・撮影者不明。
 20                『重要文化財旧太田家移築修理工事報告書』より転載。
 31、32          昭和43年(1968)12月、新井清撮影。
4 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
5 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれている。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 太田家のある笠間市片庭(かたにわ)は、県境にほど近い場所である。県道(宇都宮街道)を上り、仏ノ山峠(ほとけのやまとうげ)を越えるとすぐに栃木県であり、笠間市街に出るよりも近かった。栃木側に抜けたあたりは交通の便も悪いため、この周辺の子どもは県境を越えて笠間の学校に通ったという話も残っている。片庭の標高は96m、太田家はこの地で農業を営み、代々名主を務めてきた。
 今回お話をうかがった太田孝政(たかまさ)さんと中山てる子さんは、移築時の当主、太田守彦さんの子供世代である。この稿ではこのお二人からの聞き取りを中心に、それ以前の調査記録も合わせ、太田家の暮らしについて記述していくことにする。したがって時代的には昭和20年代から解体のはじまった昭和43年(1968)までの話が中心である。

.1 太田家
... 屋号・家紋
 太田家は屋号を「ミナミ(南城)」という。このほか、「ナンジョウウチ(南城内)」という呼び方もあった。
 家紋は「丸に梅鉢」である。

... 家柄
 太田家の仏壇に万治2年(1659)の年号のある位牌が残されている。太田家に関する史料としては、現在のところ、これがもっとも古いものである。これ以前に同家の先祖が何をしていたか、どこから移ってきたか、記録だけでなく伝承も残されていない。
 家柄としては、代々名主を務めてきたと言い伝えられている。明治以降も地域の区長や戸長を務め、片庭村の村長を務めたこともある。
 移築時の当主である守彦(もりひこ)さんも統計調査員を長年務めていた。作物などの統計のほか、国勢調査にも携わった。太田家には地域の家族が1軒1軒すべて記された帳面があり、誰々さんのうちは子どもが生まれたから書かなきゃとか、誰々が死んだから確かめなきゃとか、よく口にしていたという。
 家業は農業である。稲作畑作を中心に、炭焼き・薪の出荷等で暮らしを立てていた。

... 分家・家族
 分家のことを片庭では「シンタク」という。太田家のある通りでは、道の山側に古い家が並び、道のむこうにはシンタクが並んでいる。
 太田家のシンタクは3軒ある。現当主で4代目というシンタクが一番新しく、その前のシンタクは墓石に「慶応」の銘が残っている。親戚はこの3軒からさらに分かれているため、つきあいは大変だった。
 親戚は笠間周辺が多かった。笠間には太田という名字が多く、たどっていくとつながりのある家が少なくない。また、片庭は県境が近いため古くから栃木県側と交流があり、太田家にも芳賀郡茂木町小貫(当時は逆川村といった)から養子や嫁に来た人がいる。孝政さんの母、タイさんも小貫の出身だった。実家は財産家で城のような大きな家だが、太田家が名主・村長を務めたのに対し、組頭だった。そのためタイさんの兄は、「オラヂよりクライは上んなったんだよなあ」と言っていたという。
 孝政さんの祖父に当たる多市郎(たいちろう)さんは、昔の話が好きで、まめに書き物をする人だった。話がとても上手で、孫たちにも昔話をはじめ、いろいろな話を聞かせたという。50歳ぐらいで引退し、そのあとはうちわに絵を描いたり、俳句を作ったりしていた。父親の守彦さんはこうしたことは苦手だった。多市郎さんが亡くなったあと、守彦さんに話をしてくれといったら、お寺の坊さんの話をしてくれた。てる子さんはあとで、それがお経にある話だと気付いたという。

.2 衣食住
..(1)住
... 敷地
 主屋は南向きに建っていた。西側には山が迫っているため午後は日が陰り、そのため太田家では戸を閉める時間が早かった。
 主屋のほか、付属屋として南西にクラ、南にアマヤ、道を隔ててそのさらに南にヒリョウシャ(肥料舎)、西にトリゴヤがあった。かつてクラは主屋の正面にあり、その当時はアマヤとのあいだが通路のようになっていた。そしてこの通路の入口両側には丸太の柱が立っており、これが太田家の門となっていた。正月、門松を付けたのもこの場所である。
 主屋の正面、南側は現在は庭となっているが、かつては畑だった。ここでキュウリ・ナス・ネギ・葉物野菜など、すぐ家で使えるものを作っていた。
 背面、北側はすぐ隣家との境になっていた。
 東側にはホリ(用水堀)が流れていた。ホリを渡って通りに出るところを「カドグチ」といった。
 西側には現在もカシのイキグネ(垣根)がある。カシはいつも青いため火を除けると言われ、火事が多かったためか、この木でクネを造る家が少なくなかった。このクネの内側はなだらかな傾斜があり、ツボニワになっていた。植木としては、サツキ・ツツジ・ユズ・梅干しを作った梅などがあり、藤棚もあった。また、南西の角には古い赤松があった。直径25㎝ほどとそれほど太い木ではなかったが、曲がっていて風格があった。しかし、タイさんが平成21年(2009)に亡くなると、そのすぐあとに枯れてしまった。太田家では、「つれて行ったのかなあ」などと言い合ったという。

... 水利
 太田家で井戸を掘ったのは昭和30年代である。現在は埋め戻してあるが、場所は主屋の裏手、隣家との境界近くだった。この井戸は「地獄井戸」と呼ばれる上が塞いであるもので、主屋のナガシ脇にあったポンプを手でもむと水が出る仕組みになっていた。
 この井戸を掘るまでは、主屋の東、建物から1間ほどの位置にあるホリ(用水堀)の水を使っていた。ホリの両岸は石で固めてあり、この石が一段低くなっているところが洗い場だった。太田家では洗い場のことを「ツカイッバタ」(訛ると「ツカイッパタ」とも)といった。
 この水は川の堰から来ている農業用水で、そのため田植えのころは使わなかった。この時期は近隣の井戸のある家から水をもらっていた。

... 屋根
 太田家は主屋と土間、それぞれに屋根をかける分棟型民家である。近隣にこうした家は他になく、太田家でもなぜ2つあるかという言い伝えは残されていなかった。2つの屋根のあいだにはトタン製のトイがあった。屋根は茅葺きだったため、葺いたばかりのときはよいが、古くなるとカヤが「コケ」てゴミがトイに詰まってしまう。そのため、雷雨のときなどは夜でもハシゴをかけて屋根に上り、守彦さんが中心になって掃除をした。そうしないとトイから「ザアザア」雨が漏れたという。なお、煙出しは土間棟の棟にのみあった。
 屋根の部分修理のことを「さす」という。屋根の補修には「さす」方法とすべて葺き替える方法があった。葺き替えが何年おきだったか不明だが、孝政さんもてる子さんも作業の様子を記憶している。まだ子どものころのことで、大人がたくさん集まり、板で屋根を叩いたりするのを見ていたという。こうした作業にはヤネヤサンを頼んだ。ヤネヤサンのことを「カヤデサン」「葺き師」ともいった。仏ノ山峠の方にいた親方は上手な人で、この人を中心に他の職人、それから地区の人が集まってカヤ束を作りながら作業した。主屋の裏には作業の足場などに使う丸太やナガラ(長い丸太)・ミチイタ(長い板、厚1寸・長約3m)などが掛けてあった。丸太は家の山から伐り出したものだった。
 屋根材として使われたのは主にカヤである。このほか屋根の下の方にはイナワラも使用した。
 カヤは刈って蓄えておくことはせず、葺き替えるときカヤバまで皆で刈りに行った。カヤバは広さが3町歩ほどで、現在採石場になっている集落共有の山にあった。良いカヤを育てるためには、毎年1回、春先にカヤを焼く。これを「カヤバ焼き」といい、他に燃え移らないよう、まわりを数m刈り込んで行った。刈る時期も今年どの家が葺くかも決まっており、順番に葺いていた。

... 壁
 太田家の壁は、カッテの戸棚背面部分が土壁だったのを除き、あとは板壁である。土壁の修理に職人を呼んだりすることはなく、修理自体することがなかった。
 東側の軒下には束ねたソダが積んであったほか、作物を掛けるための竹竿が吊してあった。西側も同様に竹竿が吊してあった。

... 出入口
 太田家の正面には出入口が2つあった。昭和30年代は向かって左には板戸のほかガラス戸が入っており、板戸の方を特に「オオド」と呼んだ。向かって右には格子戸とガラス戸が入っていた。
 家族が普段使っていたのは向かって左である。ここから入ってイタバやオカッテに上がった。向かって右は、入ってすぐの位置にウマヤがあったため、エサや草の搬入、馬の出入りに使われた。いずれも朝起きたら開け、昼間は開け放しだった。
 オオドの上には慶応4年太政官名で出された五傍の掲示のうち3枚が掲げられていた。この高札は現在、1点が民家園に寄贈され、残りは太田家と同家の親戚宅に1点ずつ保管されている。オオドの周囲にはカゴやシャベル・バケツなどが置いてあった。
 出入口はもう1つ東側にあり、これを「ウラド」と呼んだ。正面と同じく板戸とガラス戸が入っていた。

... ドマ
 オオドを入るとドマになっていた。ドマは「カチカチ」に硬くなっており、表面が傷んで「ザクザク」してくるとイシバイ(石灰)を撒いて固めた。中は暗く、中央に丸い笠の付いた電球が1つ下がっているだけだった。
 入って左手には6段の下駄箱が北向きに置いてあり、向かって右手の壁には傘が、左手の柱には竿秤や帽子が掛けてあった。
 ドマの奥は物の置き場所になっていた。北東隅には味噌の仕込に使うミソダルやヘラ、ウラド近くにはスルス(土臼)などが置いてあった。北側の壁には五徳・フルイ・フライパン・やかんなどが掛けられ、手前には甕やザル、一斗缶や日本酒のケース、10㎏入の食塩の袋などが置いてあった。なお東側、フロの隣の壁にガラス窓があった。
 北側の壁には、幅1間ほどの大きなトダナがあった。上下2段で、上段は板戸、下段は戸がなかった。上段には砂糖など、下段には米びつが置いてあったほか、甕や羽釜、醤油や油のビンなどが置いてあった。

... ウマヤ
 民家園で建築当初の姿に戻された太田家住宅のウマヤは、北西の角に張り出している。また太田家には、もともとウマヤは外にあったという伝承も残されている。しかし、移築前のウマヤはドマの中に張り出すように設けられていた。
 入口は南のオオドを向いていた。3段のマセンボウがあり、片側の柱には取り外せるよう細工がしてあった。また、左の柱には口輪など馬具が掛けてあったほか、御幣が祀ってあった。この入口右手には窓口のようなものがあり、馬が顔を出してエサを食べるようになっていた。エサはカイバオケに入れ、この窓口の下に置いた。草は中に入れてやった。
 ウマヤの中は板壁で、下にはムギワラやイナワラが敷いてあった。床面は掘り下げてあり、なおかつ傾斜がついていた。馬の「オシッコ」が1箇所に溜まるようになっており、肥料として使っていたのである。
 東側の壁には窓があった。板戸があり、開けるときは引き上げて紐で止めるようになっていた。馬がいるときは開けていた。なお、この窓の下にもマセンボウがはまっていた。
 ウマヤの周囲は物置き場所になっていた。西側には戸棚が置いてあり、手前にはニワトリの飼料の袋や自転車が置いてあった。また、壁にはクワやフルイ・植木ばさみ・麦わら帽子などが、梁にはキネが掛けてあった。

... カマド
 ドマの奥にはカマドが3つあった。向かって左は2升釜に使うカマド。中央は4升釜や、四角いセイロをのせて蒸かしに使うカマド。いずれも「コガマ」と呼ばれ、炊飯や調理に使われた。右は湯沸かし用の8升釜に使う「オオガマ」だった。焚口はいずれも南側だったが、右のオオガマだけは四角く一段掘り下げたところに焚口が作られ、両脇は大谷石、手前は丸太で固めてあった。なお、古くはオオガマの右手に、大豆を煮る1斗2升釜用の「ヒラガマ」があった。カマドの右手には、焚き付けにするソダが置いてあった。
 カマドのそばには四角い七輪や木製の台に載せたガスコンロもあり、そばの柱のところにプロパンガスのボンベが置いてあった。近くにはフライパンや魚を焼く網、やかんやすり鉢などが置いてあった。

... ナガシ
 ドマの北西隅にナガシがあった。井戸ができてからは右脇にポンプを備え付けたが、それ以前はこの位置にミズガメを2つ置き、テオケとカツギボウを使って水を汲み入れていた。汲み入れるのは主に母親のタイさんの仕事だったが、他の家族も行った。排水は竹製のトイで外に流していた。トイの先には小さな穴が掘ってあるだけだったが、昔はあまり水を使わなかったため問題なかった。
 ナガシはカッテの床面より低く、しゃがんで作業するようになっていた。まな板やザルのほか、洗い物用のオケやカゴが置いてあった。ナガシの前にはガラス窓があった。手前には台、上には棚を設けて物が置けるようになっており、鍋のふたや洗剤、空き缶などが置いてあった。左手の壁にはふきん掛けや竹製の杓文字掛けがあった。竹のシャモジのほか、まわりにはおろし金やスリコギ、缶切りや栓抜きなどが掛けてあった。

... イタバ
 オオドを入ってすぐ左手、上がり口の板の間を「イタバ」といった。上がり框の敷居には戸を入れるための溝が彫ってあった。また、框の下は板で塞いであった。西側の間仕切りはガラス付の障子、北側の間仕切りは格子戸で、この格子戸の上は棚になっていた。
 この部屋にはイロリがあり、そのため天井が張られていなかった。イロリの北側と西側にはウスベリが、南側には古いカーペットが敷いてあった。明かりは傘のない裸電球が1つあるだけだった。
 イロリには自在鉤があり、テツビンが掛けられていた。自在鉤のことを、片庭では「カギヅルシ」という。太田家のカギヅルシはカネ(金属)で、テコ部分は魚ではなかった。イロリには冬場はもちろん、夏場もお湯を沸かすのに火を入れていた。その後、冬場はマキを焚く代わりに炭を燃やし、コタツを作るようになった。イロリやコタツの火は夜は消していた。

... チャノマ(マエノザシキ)
 主屋表側、イタバに続く部屋を「チャノマ」(または「マエノザシキ」)(注1)といった。縁のない畳の入った8畳敷きの座敷で、南側には縁側のような板敷の場所が付いていた。天井は板の間部分も含め棹縁天井、中央には四角い笠のある電灯が入っていた。笠にはアヤメかショウブの模様があった。西側の間仕切りは板戸だった。中央に横桟の入っている板戸のことを、特に「オピド(帯戸)」といった。北側の間仕切りは、カッテ部分は格子戸、ヘヤ部分は中央部分だけ格子になった透かし帯戸だった。南側にはガラス付の障子が入っていた。
 西側鴨居の中央に大神宮の神棚、その左には棚を別に吊って御幣が祀られていた。また、北側の鴨居には御札を貼った額が掛けてあり、その右手、格子戸の上は棚になっていた。
 この部屋にはコタツ(コタツイロリ)があり、冬は炭を入れてホリゴタツにし、まわりで食事をとった。太田家では主屋を建て替えてからも、昭和50年(1975)過ぎまで炭のコタツだったという。なお、夏は3尺の畳でふたをしていた。
 家具としては、南西隅に机と椅子が置いてあった。机脇の柱には柱時計、その右手の板戸にはカレンダー、時計の下には竹筒で作った小銭入れが掛けられていた。北西隅には脚付のテレビが置いてあり、上にカレンダーが掛けられていた。また北側、札の額脇の柱には状差しが取り付けてあった。このほか、丸いチャブダイなども置いてあった。
 この部屋は家族の居間であり、子どもたちが大きくなってからは守彦さんタイさん夫婦の寝間としても使われていた。なお、板の間部分も座敷の延長として使われた。

... カッテ(イタノマ)
 主屋裏側、ドマから上がった部屋を「カッテ」(または「イタノマ」)(注1)といった。天井のない板の間で、敷物も敷かれていなかった。西側の間仕切りは板戸、北側には出入口があり、ガラス付の障子と木製の雨戸が入っていた。障子の右手にはホウキが立てかけてあった。
 家具としては北西隅に幅1間ほどの大きなトダナがあった。上下2段でいずれも板戸が入っており、食料のほか茶碗やお膳・蠅帳などが収納されていた。また、南西隅には東向きにホトケサマ(仏壇)が置かれていた。古くはヘヤに置かれていたものである。手前には花瓶に入れた花や遺影が置かれ、戸のところには提灯が掛けてあった。右手には丈の低い茶だんすがあり、上には新聞などが置かれていた。
 この部屋は家族が食事をする場所であり、寝起きする人はいなかった。

... ヘヤ(六畳)
 裏側、カッテに続く2間をいずれも「ヘヤ」といった。床は縁なしの畳敷きで、天井が張られていた。西側と南側には間仕切りの襖、北側には格子の入った窓と出入口があった。出入口には障子と木製の雨戸が入っていた。
 家具としては北東隅にタンスがあったほか、古くは南西隅にホトケサマ(仏壇)が南向きに置いてあった。ホトケサマ前の襖は開けてあり、ナカノマから拝むようになっていたが、その後カッテに移された。
 守彦さんタイさん夫婦は、子どもが小さいうちはこの部屋で寝起きしていた。子どもが大きくなると守彦さん夫婦はチャノマに移り、孝政さん兄弟がそのままこの部屋を使った。

... ヘヤ(三畳)
 裏側、六畳に続く三畳間を同じく「ヘヤ」といった。床には縁のない畳が敷かれ、天井もあった。西側と南側には間仕切りの襖、北側には外側に格子の入ったガラス窓があった。
 家具としては、窓の下に長持があった。壁いっぱいになるほど大きなものだったという。このほか東側、襖の左手に棚が作ってあった。
 この部屋には、孝政さんてる子さんの姉、サキ子さんが寝起きしていたことがあった。

... ナンド
 裏側一番奥の部屋を「ナンド」といった。あとから増築された部分である。板敷きで天井はなく、電灯もなかった。北側には板戸の入った出入口とガラス窓があった。この窓には内側に格子が入っていた。
 家具としては、窓の下に長持、南側の壁に棚があった。長持には民家園に寄贈された大量の書付(古文書)が入っていたが、普段開けることはなく、子どもが乗って遊ぶ場所になっていた。棚も同じく書付の置き場所だった。こうした書付は襖の下張りなどに使っていた。
 この部屋は物置であり、寝起きする人はいなかった。

... ナカノマ(ナカノザシキ)
 表側中央の座敷を「ナカノマ」(または「ナカノザシキ」)(注1)といった。床は縁なしの畳、天井は棹縁天井である。この部屋の電灯はコードが長くしてあった。普段は北東の角近くに下げてあったが、他の場所で作業するときは移動し、天井から紐で吊すのである。こうした使い方は他の部屋ではあまりしなかった。西側間仕切りは襖、南側はガラス付の障子だった。鴨居にはおばあさんと兵士姿の遺影が掛かっていた。
 てる子さん孝政さんの祖父母、多市郎さんとちよさんはこの部屋で寝起きしていた。このお二人が健在のときは、てる子さんとサキ子さんもここで一緒に寝起きしていた。

... オクノマ(オクノザシキ)
 表側一番奥の座敷を「オクノマ」(または「オクノザシキ」)(注1)といった。ナンドとともに増築した部分で、太田家で一番良い座敷である。北側の床の間には掛軸が掛かり、となりには布団のしまってある押入があった。太田家で押入があったのはこの部屋だけである。床は縁なしの畳、天井は棹縁天井で、笠のない裸電球が下がっていた。部屋の西側と南側にはガラス付の障子が入っていた。
 家具としては西側に、引き出しが5段、一番上が引き戸になったタンスが置いてあった。そばにはカレンダーが掛かり、鴨居の上には賞状額が飾ってあった。
 この部屋は主に客間だったが、サキ子さんが大きくなってから使っていた時期もあった。その後、てる子さんが寝起きしていたこともあった。

... トオリ
 オクノマ・ナカノマ前の縁側を「トオリ」といった。また、雨戸のことを「トボ」といった。

... 天井裏
 天井裏に物を置くことはなく、上がる機会もなかった。

... 床下
 床下は開いており、ナガラ(長い丸太)や、田んぼのオダガケに使う竹や丸太などが入れてあった。

... フロ
 昭和20年代には、フロはオオドを入ってすぐ左手にあった(注2)。フロの北側は柱と壁とのあいだに衝立があり、目隠しとなっていたが、東側は何もなく、オオドから人が入ってくれば丸見えだった。カマは東側にあった。煙突はなかった。
 その後、ウラドを入った場所に移動した。目隠しとしてL字型に衝立を設け、中央に丸い木の浴槽、南側にカマ、西側に洗い場を配置する。壁には連子窓があった。冬は寒かったという。
 フロの燃料はマキ、水は井戸を掘る前はホリから汲み入れていた。焚付は子どももやったが、水を汲むのはタイさんの仕事だった。
 水を替えるのは1日おきぐらいだったが、フロには毎日入っていた。入る順番は男の年長者が先、女性はあとだったが、あまり構わないところもあったという。入るのが夕食のあとか前かも決まっていなかった。
 身体を洗うのに通常は石鹸と手ぬぐいを使った。ヘチマも使った。昭和30年代ごろまではまだシャンプーはなく、頭を洗うのも石鹸だった。そのほか、うどんやそばのゆで汁、卵、灰、米糠なども使った。卵を使うときは、白身だけを洗面器に入れ、髪に付けてすすぐ。灰を使うときは、まず灰を容器に入れて熱湯をかけ、しばらくすると灰が沈むのでその上澄みで洗う。米糠は髪だけでなく、手の油を落とすときなどにも使った。

... ベンジョ
 ベンジョは移築まで外便所で、アマヤの手前に設けられていた。主屋のすぐそばだったため雨の日も傘をささずに行けたが、冬は寒く、また子どもにとっては怖くて夜行くのは嫌な場所だった。
 てる子さんが育った時代は、新聞紙を切ったものが中に置いてあり、用を済ませたあとはこれで拭いた。
 人糞は汲み取りに来るようになるまでは肥料にしていた。人糞はヒリョウシャではなく、ヒリョウシャ近くのコイタメ(肥溜め)に入れる。汲み取ったものを直接撒くことはなく、コイタメに一度入れ、寝かせてから使用した。

... アマヤ
 主屋の南東に瓦葺きのアマヤがあった。稲の保管場所であり、イネコキなど農作業の場だった。

... キゴヤ
 主屋南西方向の山際に波板葺きのキゴヤがあった。マキやソダ、ワラの保管場所である。このほか、杉の葉や松葉も焚き付け用に入れてあった。

... ヒリョウシャ
 主屋の南側、道を隔てた位置にヒリョウシャ(肥料舎)があった。山から掻いてきた木の葉を積み上げ、糞尿をかけて発酵させ、堆肥を作るための小屋である。太田家周辺ではどの家にもあり、板壁では腐ってしまうため、いずれも下部は石壁になっていた。
 太田家のヒリョウシャは、間口4間×奥行2間で、2階は収納場所である。現在の建物は昭和31年(1956)にそれまでのものが隣家の火災で類焼したあと、32年(1957)に建て替えたものである。焼けたヒリョウシャは建て替えたばかりだったため、短期間に2回建て直したことになる。現在は瓦葺きだが、最初に建て直す前はワラ屋根だった。
 てる子さんはヒリョウシャの建て替え工事を記憶している。墨壺を使う墨付け。粘土を採ってきて、刻んだワラをこね合わせる壁土作り。それを竹で組んだ木舞の上に塗っていく荒壁塗り。川で採ってきた砂をフルイにかけ、細かい砂にする作業(中塗りに使う砂と思われる)。こうした作業を職人たちが庭でやっているのを見ていたという。

... クラ
 主屋南西にクラがあった。瓦葺きで壁は白漆喰仕上げである。中には中2階があり、入口には大きく軒が張り出していた。この軒下のことを「サガリ」「サゲ」といった。
 このクラは元は主屋の正面にあった。その後、昭和20年代ごろ曳き家をして現在地に移した。

... トリゴヤ
 主屋北西にトリゴヤがあった。波板葺きの切妻屋根である。飼っていたのはニワトリで、主に卵をとっていた。

..(2)食
... 炊事
 朝起きると一番にカマドでご飯を炊き、イタバのイロリで味噌汁を作った。その後プロパンガスが入り、調理にはガスを使ったが、ご飯はカマドで炊いていた。

... 食事
 食事はカッテでとった。昭和20年代初めごろまでは箱膳で、茶碗などが一人一人中に入れてあった。
 食事をするときは南北方向に2列、互いに向き合って座る。席は決まっており、西側一番南が孝政さんてる子さんの祖父多市郎さんの席、そこから男性が年齢の順に並ぶ。子どもたちは東側の席である。その後、ちゃぶ台で食べるようになった。また、冬のあいだはチャノマのホリゴタツで食事した。

... 主食
 朝は、麦の入ったご飯に味噌汁、あとは漬物ぐらいだった。米も麦も自家製である。米の精白には、クルマヤという屋号の家にあった水車を使った。しかしその後、ベルトを掛けて発動機で動かす精米機を買い、家でやるようになった。石臼もあったが、小麦やそばもクラの先にあった機械で挽いていた。なお、ヌカは馬のエサにしたほか、ヒリョウシャの堆肥のあいだに入れたりした。
 麦は、昭和20年代初めごろまでは先に煮ておいて米に混ぜ、一緒に炊き込んだ。押し麦になったのはそのあとである。味噌汁の具は家にあるもの、すなわち自家製の野菜である。冬はネギ・ニンジン・ゴボウなど、夏はナスなどを入れた。
 昼は、朝とあまり変わらなかった。
 夜は、煮たイモや酢味噌が付いた。
 太田家では小麦を栽培していたが、小麦粉は天ぷらなどに使い、うどんはあまり作らなかった。一方、そばはよく作り、のし板やのし棒があった。守彦さんはそば打ちが上手だったという。

... 副食
 冬、納豆を作った。1年分作るわけではなく、食べられたのは冬場だけである。
 作業は大豆を蒸すことからはじまる。同時にワラをきれいにし、しばってワラヅトを作る。この中に蒸した大豆を入れていく。これが何本か出来上がると、重ねた上にワラをかけ、さらにムシロをかぶせ、クラの中で寝かせておく。納豆はご飯のおかずで、醤油ではなく塩で食べた。また、少し古くなるとダイコンを細かく刻んで混ぜ、そぼろ納豆にした。
 豆腐も食べた。売りにも来たが、何軒か先に農家だったが店をやっている家があり、夏場などはよく買いに行った。冷や奴などにすると、今の豆腐と違っておいしかったという。
 ご飯のおかずとしてはこのほか、石臼できなこを作ったり、なめ味噌(金山寺味噌)を作ったりした。なめ味噌とは、麦を煮て、ナスなどとともにカメに入れて作るもので、これを「ヒシオ(醤醢)」といった。守彦さんがいたころはときどき作ったという。

... 調味料
 味噌は毎年家で仕込んだ。仕込むのは冬、大豆が採れてからである。原料は大豆のほかは塩と麹だけだった。
 作業はゆでた大豆を潰すことからはじまる。これを「ミソツキ」という。てる子さんは守彦さんが家を空けているとき、サキ子さんと2人でやったことがあるという。そのうち機械が出てきたが、当時の道具はキネとウスである。餅搗きと同じだが、ミソツキの方が大変だった。餅の場合はドスンとキネを下ろせるが、大豆の場合はそうすると飛び散るため、途中でキネを止めなければならない。その加減が難しかった。潰した大豆はニトダルやシトダルに入れ、ドマの北東隅に置いていた。かき混ぜるときは大きなヘラを使った。
 油も自家製だった。菜種を作り、これを乾燥させておく。搾るのは業者にやってもらった。この業者は友部(笠間市)の方の人で、機械をヒリョウシャの軒下あたりに据えて作業していた。
 醤油は臼井商店から買ってきた。樽で買い、口を栓で止めていた。

... 蛋白源
 山が近く、現在もイノシシなどは多いが、獣を捕らえて食べることはなかった。ニワトリを飼っていたので、卵を食べたり、ときにはつぶして鶏肉を食べたりした。孝政さんは卵焼きが好きだったという。
 魚が出てくるのはご馳走だった。行商から夏はカツオを1本買い、半分は刺身、半分は切り身にして醤油に漬け、焼いて食べた。冬は目刺しをよく買った。そのほか捕って食べることもあった。採石場ができて水が汚れたためいなくなったが、かつてはウナギが多く、主屋脇のホリでも捕れた。また、カジカもいた。この魚は唐揚げにするとおいしかったという。
 ホリでカニも捕れた。これも食卓にのぼった。ハチノコは食べたことがある、という程度だった。

... きのこ
 太田家周辺はきのこの宝庫だった。マツタケからナベタケ・ホウキタケ・シメジ・チタケ(うどんなどの出汁に入れる)など、何でもあった。守彦さんはキノコトリが大好きで秋はよく出かけたが、今は山が荒れて採れなくなったという。

... おやつ
 子どものおやつは、サツマイモやタクアン・オニギリ・ムギコガシなどだった。オニギリは自分で作った。ムギコガシも自家製で、麦を煎ったあと粉にした。栃木県茂木町にあるタイさんの実家に行くと、おやつに梅干しと砂糖が出た。てのひらに砂糖をのせ、そこに梅干しをのせるのである。
 田植えなど、農作業のおやつには大きなオニギリを持って行った。太田家のオニギリは三角ではなく、丸くて少し平たいものだった。塩むすびで梅干しなどは入れなかった。また遠足のときは海苔を付けたが、こうしたおやつには海苔は付けなかった。

... 茶
 屋敷のまわりにはお茶の生け垣があり、これを摘んでオチャッパを作った。
 まずカマドで湯を沸かし、摘んできた葉をセイロで蒸す。つぎに、イタバのイロリ脇のムシロにきれいなゴザを敷き、蒸した葉を広げ、手で縒っていく。これをイロリで乾燥させる。このとき使用するのは、ブリキ製の枠に和紙を貼った道具である。これをイロリに置いた台の上にのせ、手で揉んでいく。イロリにはマキではなく炭を入れ、熱が均等にまわるよう、炉の中央だけでなく周囲にも置くようにする。出来上がったら蓋付のブリキ缶に入れて保管する。一年分をこうして作った。お茶摘みは正江さんが嫁に来た昭和48年(1973)以降もやっていた。
 お茶は朝昼晩よく飲んだ。近所の人たちが来ると縁側で飲んだ。お茶請けは漬物などで、持ち寄ったりもした。冬場は特にお茶を飲む機会が多かった。てる子さんが冬場、サキ子さんに電話してこれから何をするかと聞いたところ、お茶飲みに決まってると言ったという。農家は春から秋は忙しかったが、冬は比較的のんびりしていた。

... 酒
 どぶろくも作る家は作っていた。太田家でも甘酒は毎年米から仕込んでいた。祭りには欠かせないものだったが、祭りのとき以外も造った。

..(3)衣
... 服装
 大人の普段着は、男性は布を合わせたモモヒキ、女性は脇の開いたモンペだった。女性の場合、モンペの上は昭和20年代初めごろまでは着物、その後は次第にブラウスに変わった。孝政さんてる子さんの祖母ちよさんは、昭和41年(1966)に亡くなるまで着物が普段着だった。
 孝政さんは子どものころ、普段は洋服で、冬は上にハンテンを着て学校に通った。
 大人も子どもも夜はネマキ(着物)だった。冬は綿入れのネマキを着た。

... 履物
 てる子さんは大人がどこかへ行くとき、脚に布製の脚絆を巻き、ワラジを履いていたのを覚えているという。
 孝政さんが子どものころ、履物はすでに靴だった。一方、てる子さんは小学校あたりまでは下駄だったという。また、ゴムの黒い長靴を買ってもらったのを覚えているという。

... 機織り
 機織り機がナカノマ前のトオリ(縁側)に置いてあった。太田家では養蚕をやっていたため、出荷できなかったマユから糸を取ったほか、綿花からも糸を取り、機を織っていた。5人兄弟のうちサキ子さんとてる子さんぐらいまでは、小さいころこうして織った木綿の着物も着ていたという。
 機織りはタイさんもやっていたが、曾祖母に当たるあささんは特に上手だった。

... 洗濯
 洗濯機が入る前はタライで洗っていた。場所はホリのツカイッパタで、濯ぐのは直接ホリでやっていた。冬は水が冷たかったという。なお、タライはウラドを出た軒下に置いていた。
 洗濯機が入ったのは昭和30年代の後半以降である。絞り機の付いたもので、フロの目隠し西側に置いてあった。近くにあるウマヤ北側の壁には竹竿が吊ってあり、ゴム手袋や手ぬぐいが掛けてあったほか、足もとには洗濯板が立てかけてあった。
 物干し場は主屋の正面、畑とのあいだにあり、丸太を立てて竹竿を渡していた。布団もこの場所に干していた。

... 寝具
 昭和20年代に使っていたのは木綿のワタの布団だった。太田家にはオクノマ以外押入がなかったため、たたんだ布団は脇の方に置いてあった。
 孝政さんは冬もさほど寒いと思わなかったという。

..(4)暮らし
... 一日の流れ
 朝、イチバンドリは3時から4時ごろ、ニバンドリは5時ごろに鳴く。太田家ではニバンドリが鳴くとトボ(雨戸)を開けた。夏場早いときはそれよりも早く、4時ごろ起きた。
 顔はホリで洗った。歯も同じく、朝、ホリで磨いた。歯磨きに使ったのは塩である。歯磨粉を使うようになったのは昭和30年代半ばごろだった。
 起きるとすぐ、タイさんはご飯を炊いたり味噌汁を作ったり朝の支度をする。守彦さんは馬のエサにする草刈りに出かけ、帰ってくるとつぎは馬に飲ませるためのお湯を沸かす。このお湯は拭き掃除などにも使う。なお、冬場はまずお湯を沸かしてから草を刈りに行った。

... 掃除
 掃除はタイさんと子どもたちでやっていた。ドマはホウキグサで作った少し柔らかいホウキで毎日掃き掃除をした。竹のホウキは庭掃きなど、外の掃除に使用した。

... 燃料
 家で使っていた炭やマキはすべて自家製だった。「マキ」とは太い木を割ったもの、「ソダ」は落とした枝や細かい木を束ねたもののことである。

... 電気
 昭和20年代には、ナンド以外はどの部屋にも電灯が入っていた。正面、畑のところに電柱が立っており、そこから主屋に電気を引いていた。

... 電報・電話
 電話は入っていなかった。近隣で引いていたのは、通り沿いにあった奥谷商店ぐらいである。かけることはあまりなかったが、かかってくると電話の内容をわざわざ家まで伝えに来てくれた。
 電話が入っていなかったため、急ぎの連絡は電報だった。
 有線は入っていなかった。

... ラジオ・テレビ
 ラジオはチャノマ北西の角、少し高いところに置いてあった。てる子さんが物心ついたときにはすでに入っており、ニュースなどを聴いていた。「那覇、風力いくつ、快晴、尾鷲、風力いくつ」という天気予報の声が、昼間なんでもないとき流れていたのを覚えているという。同居していた従姉妹はよく『君の名は』を聴いていた。
 テレビは同じくチャノマ北西の角、ラジオの下に置いてあった。入ったのは昭和40年(1965)ごろで、当時は家の裏手にアンテナが立っていた。テレビの上には布が掛けられ、物を置く場所になっていた。

... 娯楽
 娯楽は笠間の町に出なければなかったが、太田家は家族で出かける機会はあまりなく、温泉に行くようなこともなかった。
 若い衆はよく義孝神社に集まり、太鼓の練習などをしていた。これを「カミゴト(神事)」といった。遊び場所も少なかったため楽しみの1つとして行われていたが、酒を飲んだりはしなかった。
 太田家で映画を上映することがあった。家の外でやったときは、主屋前の畑あたりにスクリーンを立て、縁側の方から見た。中でやったときは、ドマを客席にし、チャノマとナカノマ境の板戸の前にスクリーンを立てた。フィルムを持ってきたのは笠間の映画館である。昔は娯楽が少なかったため、こうした出張上映がたびたびあり、太田家でも家の外で1回、中で2回くらいやった。
 田舎芝居の一座が何年か続けて来たことがあった。太田家ではやらなかったが、これも神社の境内などではなく、個人の家でやった。役者たちはどこかの家に2週間ぐらい泊まり込んでいた。
 巡業相撲が稲田神社(笠間市稲田)に来たことがあった。神社脇の少し広いところに土俵が設けてあり、鏡里という力士が来たが、子どもだったてる子さんは全然見えなかったという。
 現在ゴルフ練習場になっているところで草競馬をやったこともあった。てる子さんは大人につれて行ってもらったが、子どもには馬の脚しか見えなかったという。

... ペット
 孝政さんは子どものころ犬を飼っていた。「ポチ」という名前だった。
 守彦さんは野鳥の飼育が趣味だった。同じ鳥好きの弟が季節になると泊まり込みで訪れ、早朝2人で山に入り、トリモチを使って捕っていた。捕ったのは、メジロやウソ・ウグイスなどである。家には鳥かごがたくさんあり、何羽も飼っていた。ウグイスは正月に合わせて鳴かせた。暮れから2週間ぐらい、かごに白い布をかけてチャノマに置いておくと、春と勘違いして正月に鳴くのである。守彦さんは毎年これをやり、亡くなったあとは孝政さんが引き継いでいた。孝政さん自身も中学生のころからメジロを捕って飼っていたという。

... 子どもの暮らし
 太田家は子どもに手伝いをさせない方だったが、それでも家の中の仕事のほか、農作業の手伝いはすべてやらされた。
 子どもの仕事としては、まず部屋の掃除、ドマの掃き掃除、フロの水汲み焚き付け、草刈りなどがあった。朝はまず掃き出してそれから床を拭く。これをやらないと朝御飯にならず、学校にも行かせてもらえなかった。このころはどの家でも、子どもたちそれぞれに役目があった。
 孝政さんの子どものころの遊びとしては、缶蹴りや川遊び、おもちゃの鉄砲作りなどがあった。川ではムギワラを積み重ねてダムを作り、水を堰き止めて魚捕りをしたり飛び込んだりした。鉄砲はシノ(篠竹)で作るもので、ネコジャ(リュウノヒゲ)や杉の実を入れて飛ばした。てる子さんはムギワラで、よくホタルカゴを作って遊んだという。
 戦後は学校でいろいろな行事があった。学芸会が盛んだった。運動会は村を挙げての行事で、このときは留守番に1人残し、あとは家族総出で出かけた。駅伝や球技大会などもあった。また、良い映画が笠間に来るとつれていってくれたり、県内で原子力の展示があったときはバスでつれていってくれたりした。このほか地域の子ども会にも学校の先生が顧問役で指導に来ていた。

... 災害
 太田家周辺は火事の多いところだった。大正のころには後ろの家が全焼した。当時は主屋西側にインキョがあったが類焼し、これを機にインキョはシンタクとして道のむこう側に移った。昭和31年(1956)にはすぐ前の家が火事になり、建て替えたばかりのヒリョウシャが類焼した。このときは位牌を風呂敷に包み、おばあさんと小さい子ども、それから馬を近所の家に避難させた。こうしたとき馬は鳴くという。

.3 生業
..(1)概況
 太田家の耕地は田んぼと畑で2町歩ぐらいだった。中心になる作物は米であり、そのほか麦(小麦・大麦・ビール麦)・落花生・陸稲(りくとう)・ソバ・サツマイモ・ナス・キュウリなどを作っていた。3日に1度というように手伝いの人も入れていたが、周辺は山が多く田畑それぞれが離れていたため作業は大変で、経済的にも農業だけで暮らすのは難しかったという。そのため、農業のほか、冬場は炭焼きや薪の出荷など山仕事をしていた。
 なお現在の当主孝政さんは、農業も続けながら土建関係の仕事をしている。

..(2)稲作
... 米の品種
 太田家で作っていた米の品種としては、古くはニホンバレ、ワカバ、農林64号などがあった。キヌヒカリが出てきたのはかなり後で、現在作っているコシヒカリが出たのはさらに後のことである。

... 田植え
 田植えは家族皆でやったほか、ヨイ(結い)があり、2、30人揃えて1日か2日で終わらせることもあった。栃木県茂木町周辺から若い娘が2、3人、1晩か2晩泊まりで手伝いに来ていたこともあった。
 田植えのときは、下は男女とも脚にぴったりしたタモモヒキ、上は絣の着物を着て帯を締める。若い女性は絣ではなく赤いものを着たりする。田植えは嫁のカオダシ(顔見せ)でもあり、比較的良い格好で作業した。したがって嫁は、顔を出せば作業そのものはそれほどやらなくてもよかった。なお、頭にかぶったのは笠ではなく、麦わら帽子だった。
 こうしたときはお昼を持って行ったほか、休憩時のおやつとしてオニギリ・鰊煮・漬物などを持って行った。鰊煮とは、身欠きニシンを水で戻して煮たものである。次第にカジキマグロなども出すようになったが、昔はニシンが多かった。

... 脱穀・籾摺り
 脱穀は庭先や田畑でやった。使っていたのは足踏脱穀機で、太田家ではこれを「ガーコン」と呼んでいた。扱いたあとのワラは、そのあと田んぼに積んでおいた。ゴミを飛ばすのにトウミも使っていた。
 脱穀した米は庭先で干した。昼間はムシロの上に広げ、夕方これをカマスのようにたたんで取り込む。夜は軒先に積み重ねておくのである。しかし、雨が降ると吹き込んで濡れてしまうため、夜中でも子どもたちまで起こし、総出で縁側に上げた。
 籾摺りは、古くはウラド近くに置いてあったスルス(土臼)で行った。その後、籾摺機を買い、アマヤで作業するようになった。

... 品質検査
 片庭地区の米の品質検査は太田家で行った。雨が降ってもいいよう、タワラはアマヤやヒリョウシャに搬入し、検査自体もアマヤの中で行った。
 それぞれの家からトラックでタワラが届くと、農協から出張してきた係員が検査をする。合格するとタワラに「合格」の青い判子を押していく。夏には小麦やビール麦・大麦の検査も行った。昭和40年(1965)ごろまでやっていたという。

... 籾殻
 籾殻は田んぼで焼き、肥料にした。焼くときは黒いうちに火を消す。最後まで燃やしてしまうと白い灰になり、肥料にならないからである。出来上がったものは雨に濡れると使えなくなるため、カマスに入れて小屋などに納める。しかし、火種が残ることがあり、これが原因で火事になることもあった。籾殻は現在も焼いているが、今は肥料にしないため最後まで燃やしている。

... 馬
 ウマヤで馬を1頭飼っていた。鋤を付けて田起こしなど農作業をさせたり、山の木の搬出作業をさせたりした。草を刈るときにもつれていき、帰りにはニグラを使って左右に草を背負わせた。糞尿も肥料として利用した。馬は大事にされたが、名前は付けなかった。
 起きるとまずエサにする草を刈りに行く。馬に飲ませる湯もカマドで沸かす。世話をしていたのは主に守彦さんだが、湯を沸かす作業はタイさんもやった。
 エサは、草やイナワラに米のとぎ汁やヌカを混ぜたものである。ワラはオシキリで刻む。この作業を「キリワラ」といい、子どもたちも手伝った。水も冷たいままでなく、食器を洗った湯や、米のとぎ汁を沸かしたものを飲ませる。こうしたエサや湯は、木製のカイバオケに入れて与えた。
 ウマヤの中の掃除もした。敷いてあったワラは掻き集め、ヒリョウシャに運んでコヤシと一緒に積んでおいた。
 馬を洗うときは川につれていった。正覚院大日堂の脇の道を進んで降りていくと大川(清水川または片庭川)に出る。その河原に砂を採った場所があり、そのあたりでブラシを使って洗った。少し離れた畑の方の川で洗うこともあった。
 馬は具合が悪くなると立っていることができず、うずくまってしまう。そうなると死んでしまうため、こうしたときは腹の下に棒を差し込み、「起きろ起きろ」と声をかけながら立ち上がらせた。病気のときは普段より多くお湯を飲ます。獣医を呼ぶこともあった。

... 牛
 昭和30年(1955)ごろ、馬の飼育をやめ、牛に切り替えた。牛にも名前は付けなかった。牛はウマヤに入れず、ヒリョウシャの前に囲いをして飼育した。
 牛も農作業用だった。乳牛ではなく普通の和牛だったため、牛乳をとることはなかった。なお、馬は仔馬から育てるのではなく、大きいものを買ってきたが、牛の方は仔牛が生まれることがあった。

... テーラー
 昭和35、6年(1960、1961)ごろテーラー(耕耘機)を購入した。1、2年は牛と平行して使用したが、その後テーラーだけにした。守彦さんは機械類が大好きだった。

..(3)畑作
... 麦
 11月3日はムギマキだった。昔は寒く、北風が吹く中、家族総出で麦を蒔いた。足には地下足袋を履いた。

... サツマイモ
 芋掘りのことを「イモオコシ」という。このときはお昼を持参し、家族総出で朝から夕方まで作業した。
 まず、イモをすべて掘り出す。つぎに、畑に大きな穴を掘る。そして、掘り出したサツマイモをこの穴にしまう。太田家ではサツマイモも出荷したが、こうしておかないと腐ってしまった。

... 落花生
 落花生の脱穀には足踏脱穀機を使った。その後、出荷する分はムシロにひろげて乾燥させ、品質の落ちるものは家で食べた。
 収穫したての落花生はゆでて食べることができる。殻ごとゆでて中身を食べるのだが、穫り入れて1日2日ならおいしく食べることができた。そのほかピーナッツ味噌なども作った。

... その他の作物
 太田家では綿花も栽培した。出荷したかどうか不明だが、片庭ではどこの家もやっていたという。
 他の家では煙草も栽培していたが、太田家ではやらなかった。

... シロ
 ナスやサツマイモなどを発芽させるために、冬、家の前にシロを作った。まず四隅に当たる場所に杭を打ち、竹で柵を作る。これをワラで編み上げ、上端は縁の竹に巻き込むようにする。この中に木の葉などを入れ、糞尿などを混ぜ、繰り返し踏み込む。こうすると堆肥が発酵し、発熱する。ここに種を撒いたりサツマイモを入れたりして、春の早い時期に熱で発芽させるのである。このシロにはムシロやコモなどをかけておく。発芽を終えたあとは、堆肥はヒリョウシャに運び入れ、田んぼや畑の肥料にした。シロは1年中あるわけではなく、毎年作り直すものである。周辺の農家ではどこの家もやっていた。

..(4)養鶏・養蚕
... 養鶏
 主屋北西にトリゴヤがあり、ニワトリを飼って卵を採っていた。てる子さんはよく、祖母のちよさんにトリゴヤの掃除を手伝わされたという。
 太田家ではどこかに出荷していたわけではなく、買い取りに来た店に売るという形だった。取り引きのあったのは、清水屋と荷鞍屋の2店である。当時は流通システムなど無く、小売店は農家を自転車でまわり、「今日はなんかねえかい」といって買い付けていった。太田家では卵のほか、野菜などもホリで洗って売っていた。

... 養蚕
 太田家でも短期間養蚕をやっていた。
 カイコのことを「オカイコサン」という。作業に使っていたのはイタバとチャノマで、天井まである背の高い棚を組み、竹で編んだ四角いカゴを何段ものせていた。桑の木も植えて、その葉を採ってエサにした。出来上がったマユは地区でまとめて出荷した。
 養蚕を2年ほどでやめたあと、太田家では養蚕用具を利用して乾燥芋作りをした。薄く切ったサツマイモを、カイコ用の四角いカゴに並べて乾燥させるのである。この仕事も2年ぐらいやっていた。

..(5)山仕事
... 炭焼き
 太田家では昭和40年(1965)ごろまで炭焼きをしていた。
 炭窯は家から近かったため泊まり込むことはなく、通いでやっていた。場所は主屋西側の山の裏手で、ここは太田家だけでやっていた。その後、片倉という集落のそばに窯を移した。こちらは共同でやっていた。
 原料の木材には、窯近くの木を利用した。炭に適しているのは堅い木で、ナラよりもカシやクヌギがよかった。
 炭は火を入れて3日ぐらいで焼き上がった。はじめは入口を大きくし、次第に小さくしていく。そして最後に粘土のようなもので口を閉じる。このタイミングは煙の色で判断する。閉じるのが早すぎると、「ネモエ」という煙が出てよく燃えない炭ができてしまう。
 炭俵も米俵と同様、家で編んだ。幅は異なるが、編み方は同じである。ただし、米俵の材料はイナワラ、炭俵はカヤである。形も米俵は丸かったが、炭俵は四角。両脇も、米俵はタワラボッチで蓋をするが、炭俵はヒノキの葉を重ね、縄を縦横にかけて炭が落ちないようする。こうした作業は守彦さんがアマヤでやっていた。
 出荷先は笠間の食堂などで、運搬には軽トラックを使っていた。

... 薪出荷
 太田家では昭和40年(1965)ごろまで薪の出荷をしていた。冬はこの薪の伐り出しや炭焼きなど、山の仕事が主だった。
 薪にしたのはナラやクヌギである。山で割り、ソリを使って下ろし、束にして売っていた。孝政さんは高校生のころ手伝っていたという。出荷先は笠間市内で、軽トラックが入る前は、荷台を付けたテーラーを使っていた。

... コノハサライ
 近年、山は荒れているが、昔はきれいになっていた。
 コノハサライ(落ち葉掻き)には年中行った。現在のように化学肥料がなかったため、堆肥を作るのである。クマデで木の葉をさらい、カゴに入れて運ぶ作業で、てる子さんはよくタイさんと行ったという。
 冬、下刈りをするときには家族皆で山に入った。大きなカマやハサミで林の雑草を刈る作業である。こうしたときはオニギリを作るか、時間がないときはオハチのまま持って出かける。ナベも持参し、沢の水でオツユを作り、漬物などでお昼を食べた。

..(6)紙漉
 太田家の近く、由良沢という地区に「カミサラシバ」という地名が残っている。川がカーブしている場所で、近くには田んぼがある。紙漉をして紙をさらした場所といわれている。
 太田家文書の江戸時代の史料に、和紙を上納した記録が残っている。ただし実態については不明で、伝承も残されていない。

..(7)ワラシゴト
 冬はヨワリをした。「ヨワリ」とは夜なべ仕事のことである。主にドマでワラを打ち、ナワを綯ったりするワラシゴトで、昭和20年代前半までは農作業に使う履物なども作っていた。
なおその後、縄綯機が入った。ワラを入れ、ミシンのように踏むと縄が出てくる仕組みである。てる子さんの祖母、ちよさんが、昼間クラのサガリ(軒下)でよくやっていた。出来上がったものは売りに出した。

..(8)地域の生業
 共有地だったカヤバが現在は採石場になっている。掘り出しているのはコンクリートに使う石で、成田や羽田の空港に使われている。
 また、稲田地区(笠間市稲田)は「稲田石」という石の産地で、そのため石屋が多かった。

.4 交通交易
... 運搬
 太田家では背負梯子のことを「ショイバシゴ」と呼んだ。ショイバシゴは1丁(ちょう)2丁と数える。太田家には4丁あり、稲や麦、薪や炭、雑木などを運ぶのに使った。使い方でこうしてはいけない、という話はなかったが、仕事以外に使うことはなく、婚礼用具などを運ぶこともなかった。使わないときはアマヤの隅に立てかけておいた。
 民家園に寄贈されたショイバシゴは、多市郎さんが大正元年(1912)ごろ家族用に作ったものである。作り方はまず、縦棒2本のあいだに横棒を3本、上から順にはめていく。この枠部分はすべて杉材である。つぎにわら縄で背当てを作り、同じくわらで編んだ背負い縄と、麻の荷締め縄を取り付ける。背負い縄は、中央の横棒と縦棒の一番下の位置に取り付ける。荷締め縄は、下の横棒に取り付け、上の横棒に結ぶ。
 担ぐときにはショイバシゴを体の後方に立て、中腰になって両腕を背負い縄に差し込み、担ぎ上げる。杖や背中当ては使わない。服装としては、上は紺色のハンテン、下はモモヒキである。手には手差しを着け、地下足袋を履き、頭には麦わら帽子をかぶる。1回に40㎏ぐらい背負い、1㎞を、2、3回休みながら運んだ。坂道の上り下りはたいへんだった。
 太田家では昭和30年代にテーラーを買い、その後ショイバシゴは使わなくなった。

... 荷物
 荷物は駅で送り、駅に取りに行った。ヤマトという運送会社があり、そこで送ることもあった。
 てる子さんは友人と住んでいた時期があったが、農家だったので米を定期的に送ってもらったという。

... 買い物
 道の反対側に今もある菊田食品店は、昔からやっていた。日常の買い物はここで済ました。
 何か特別な買い物のあるときは笠間の町に出た。

... 行商
 内埜屋という大洗から来る魚売りの老人がいた。守彦さんの時代から来ていたが、息子さんも高齢のため、今は来ていない。
 服屋も来た。ただし、洋服も生地もちょっとしたものだけで、良い服を買うときは笠間の町まで出た。
 富山の薬売りは現在も来ている。

... 芸人
 正月、新潟の方から獅子舞が来ていた。また、田舎芝居が来たり、祭りのときは浪曲が来たりした。

.5 年中行事
... 正月準備
 暮れに正月飾りを付ける。日は決まっていないが、一夜飾りはいけないとされ、そのため元日に飾ったこともあった。
 クラが正面にあった時代は、アマヤとのあいだが通路になっており、この入口両側に柱が立っていた。太田家ではこの柱に門松を付けていた。
 このほか、神棚・仏壇・床の間・カマドの柱・ダイドコロ・クラの前・井戸・ウジガミサマ(83頁参照)に、御幣とオソナエモチを供えた。オソナエモチは丸いもので、2つ重ね、上にはダイダイでなくミカンをのせる。ミカンは自家製ではなく、買ってきた。

... 餅搗き
 暮れに餅を搗いた。クモチ(29日)やイチヤモチ(31日)はいけないとされ、28日か30日に搗くが、太田家では30日にやることが多かった。搗くときはカマドで米を蒸かし、ドマの中央あたりにウスを据えて行った。

... ススハライ他
 日は決まっていなかったが、暮れにススハライをやった。畳を上げて庭に干し、山から伐って来たササで梁などの煤を落としていく。なお、畳替えは数年に一度だった。
 障子は暮れに張り替えた。ただし、毎年やったわけではなく、2、3年に一度、汚ければ貼り替える程度だった。

... 大晦日
 除夜の鐘を撞きに行くことはなかった。

... 元朝詣り
 初詣のことを「元朝詣り」という。元日、0時過ぎたら行く場合もあり、三が日のあいだに行く場合もあった。孝政さんは、子どもが小さいときは毎年朝早く笠間稲荷に行っていたという。

... 若水
 正月が明けると水を汲んだ。井戸がなかった時代はホリから汲み、これをミズガメに入れた。

... 正月料理
 三が日は当主が支度した。料理としては、ダイコンとニンジンの酢和え、ダイコンやニンジンの煮染め、シオジャケ、中にシャケの頭やニンジン・ゴボウを入れ、カンピョウでしばった昆布巻などがあった。こうした料理は暮れのうちに女性が用意しておいたが、オツユは当主が作った。
 餅はきなこ餅にして食べた。イタバのイロリで守彦さんが餅を焼き、そのあとタイさんが砂糖の入ったきなこをかける。きなこも自家製で、石臼で挽き、フルイにかけて作った。
 このほか、自家製の豆餅や海苔餅を焼いて食べたり、デンチュウを食べたりした。「デンチュウ」とは、米粉を蒸かして直径8〜10㎝、長さ20〜30㎝ほどにした餅のことで、水戸の銘菓、吉原殿中に似ているためこう呼んでいた。食べるときには輪切りにし、焼いて醤油や砂糖醤油をつけた。

... 川ぴたり餅
 正月2日、ホリの水に餅を漬ける。暮れに搗いた餅を四角く切ったものである。これを食べると風邪を引かないとか病気にならないとかいわれた。

... カラスヨバワリ・イチクワ
 正月早い時期に、カラスヨバワリという行事があった。畑に行き、持って行った米か麦、あるいは小豆を撒く。このとき「カーラス、カラス」という。子どもの行事ではなく、やるのは当主だった。
 同じときイチクワという行事もあった(注3)。

... 初参詣
 旧の正月1日か2日、地域の男性が義孝神社に集まる。これを「初参詣」といった。初詣とは違うものである。このとき、お供えの餅を持ち寄り、皆で切って食べた。これを食べると風邪を引かないといわれた。

... 年始まわり
 正月2日から20日ぐらいまでのあいだに親戚をまわる。これを「年始まわり」という。これは太田家から行くだけでなく、太田家にもやって来る。
 今も正月とお盆には兄弟が太田家に集まる。

... 七草
 7日は七草粥を食べた。塩味だった。

... 小正月
 正月14日には餅を搗き、家の山から伐って来た木の枝に付けた。これを「ナラセモチ」「メイダマ(繭玉)」という。使うのは「ノデッポウ」という木で、伐るのは当主の役目である。餅の形は丸、色は着色しないで白いままの場合と、食紅で色を着けピンクと白の2色にする場合がある。このナラセモチを付けた枝をウマヤの角の柱に縛り付け、20日ごろまで飾った。餅は取り外したあと焼いて食べた。
 15日は小正月である。「女正月」ともいう。この日は小豆粥を作って食べた。塩味だったが小豆の風味があり、てる子さんは甘くて好きだったという。なお、小豆粥は女性が作った。
 この日の朝は「ワーホイ」を行う。いわゆるどんど焼きである。ただし地域の行事ではなく、家ごとにカドグチでやるだけである。太田家のカドグチはホリを渡って通りに出るところで、ここで「ワーホイワーホイ」と言いながら正月飾りや、字が上手になるように書き初めなどを燃やした。大人もやるが主に子どもの行事である。このとき煙に当たると風邪を引かない、頭が痛くならないといわれていたが、ダンゴを焼くことはなかった。なお、現在は正月飾りはあまり家で燃やさず、笠間稲荷に持って行くようになっている。

... 二十日正月
 20日は二十日正月である。特に行事はなかった。

... 節分
 豆は家の内外だけでなく、アタゴサマの祠で撒き、それから歩いて義孝神社へ行き、そこでまた撒いた。子どもだけで撒くのではなく、当主に付いていった。
 入口にはヒイラギの葉と目刺しの頭を付けた。ヒイラギの葉も庭から取った。

... 初午
 笠間稲荷で笹と小判の付いた飾りを買った。笹といってもビニールのようなもので、買って帰ると神棚に飾った。孝政さんは守彦さんと自転車で1、2回行ったことがあるという。
 この日はスミツカレ(ツムジカユ)(注4)を作った。

... ひな祭り
 ひな祭りは3月である。
 2月に入るとオクノマの床の間前に雛人形を飾る。節句の日には買ってきた白酒を飲んだり、ひなあられを食べたりした。また、この日は子どもの好きなものを作った。孝政さんの子どもは娘3人だったので賑やかだったが、親戚や近所の子を招くようなことはなかった。
 雛人形は節句翌日にしまった。

... 彼岸
 お彼岸には墓参りに行き、掃除をして、この日作ったダンゴを供える。片庭では埋め墓と詣り墓が分かれていたが、行くのは両方である。またオハギも作った。
 近くに住む兄弟はそのままお墓に行ってしまうが、少し遠い人は太田家に寄っていく。

... 六道参り
 4月8日は六道参りの日である。これは新しい仏様ができた家が決められた6か寺を参拝してまわるもので、現在も行われている。

... 五月節句
 五月節句には柏餅を作った。作ったのは守彦さんである。まず、羽子板のような板を2枚合わせた道具に丸い餅を入れてはさむ。すると円盤形の餅ができる。ここに竹のヘラでアンコを入れ、カシワの葉ではさんだ。カシワの木は太田家にはなかったため、近所からもらっていた。出来上がった柏餅は親戚に配った。

... 夏祭り
 義孝神社は夏と秋に祭りがあり、神主を呼んで行った。このうち夏祭りを「ギオン(祗園)」という。昔は旧6月20日だった。
 片庭は3つの地区に分かれるが、義孝神社はこのうち、太田家も属する入組の神社である。祭りにあたっては、この入組35、6軒の中で2軒のトウヤ(当家)を決める。現在は順番だが、かつてはクジを引いて決めていた。クジは竹串で、1本だけ先が赤く塗ってある。これを引いた家がトウヤ、トウヤと組んでいる前後どちらかの家がウラトウヤになる。今は簡素化されたが、トウヤに当たると大変だった。まず神社の掃除がある。これも汚れているため大変だった。それから神輿関係の準備がある。祭りのあいだ神輿を出すので、竹を4本伐ってきて周囲に立て、ワラ縄を張る。さらに、その前にお供えをする場所を作る。現在は神社の庭に出しているが、かつてはトウヤの家にオワタリし、一晩泊まった。このときは庭に仮小屋を造った。太田家では裏の家がテント屋をやっていたため、テントで作ったこともあった。
 神輿が出るのは夏だけである。昭和30年代までは若い人が夜担いで歩いたが、採石場ができてダンプカーが通るようになり、様子が変わってしまった。
 トウヤに当たった年はやらないが、それ以外の年はこの日、赤飯を重箱に入れて近い親戚に配った。ご馳走を食べ、酒を飲み、神輿も酔って担ぐ人もいた。昔から屋台などは出なかった。

... 盆
 お盆は元は旧盆だったが、そのうち月遅れの8月になった。
 まず6日は、墓掃除に行く。埋めたところ、石碑のあるところ、両方である。これを「ハカナギ」といった。
 12日は、餅を搗く。この餅はお盆のあいだ、あんこ餅やきなこ餅にして供えた。
 13日は、まずボンダナを作る。場所はオクノマの床の間前である。昔の棚は戸板を利用し、上にゴザを敷いたものだった。大きなものだったが、仏壇の位牌を全部出すといっぱいになった。周囲は板で「コ」の字型に囲うようになっており、ここにホトケサマの絵のあるオカケジ(掛軸)をたくさん掛けた。太田家には古い小さなオカケジがたくさんあったという。その後、守彦さんが亡くなったとき大工に頼んで棚を作ってもらった。これは幅6尺の棚が3段あるもので、大きくて重かった。現在は葬儀屋が棚を持ってきてくれる。
 ボンダナに供えたのは花のほか、ナス・キュウリ・トマト・スイカなど家でできた野菜、果物などである。ナスやキュウリの牛馬は作らなかった。
 この日の午前中、当主は菩提寺の楞厳寺(りょうごんじ)に行く。代々寺の世話人を務めているため、檀家から塔婆の注文を事前に取って寺に連絡し、この日まとめて受け取ってくるのである。寺ではお経を読んでもらい、塔婆をもらう。それを檀家の人に配る。この塔婆はお盆のあいだボンダナに供えておく。
 午後は迎え火である。昼過ぎ、家族皆で墓までお迎えに行く。元は、埋葬する埋め墓と石碑のある詣り墓が分かれていたが、迎えに行くのは埋め墓の方である。このとき提灯を持って行き、帰りにはつけてくる。お経を称えたりはしない。提灯は、昔のボンダナには吊すところがあったが、今は吊すところがないため、棚の脇、座敷の角に掛けておく。なお、墓に行くのは迎えるときと送るときだけで、そのあいだに行くことはなかった。
 この日の夜からご飯を供える。ご飯は仏飯器で供えた。
 14日は、朝はあんこ餅、昼はうどん、夜はご飯を供える。
 15日は、朝はきなこ餅、昼はうどん、夜はご飯を供える。
 16日は送り火である。時間は昼過ぎから午後3時ごろで、今は次第に早くなり、早い家は朝送ってしまう。送るときは迎えるときとは逆に、家で火を入れて提灯を持って行く。太田家では家族で埋め墓まで行くが、昔は角まででいいということもいわれていた。このとき、ボンダナに供えていた塔婆も持って行く。このほか、ダンゴッパにダンゴを包み糸で縛ったものと、ナス・カボチャ・キュウリ・トマト等を刻んでサトイモの葉に包んだものを持って行く。なお、カラスの被害を避けるため、この供えものは平成21年(2009)ごろから持って行かなくなった。

... 盆踊り
 中組で祀る天神様にヤグラを組み、夜、盆踊りをやった。曲目は八木節などだった。ワカイシュウ(青年団)が盛んなころ一時流行したが、毎年必ずやったわけではなかった。こうしたときは太田家でも家族で出かけた。

... 秋祭り
 義孝神社の秋の祭りは旧10月20日(現在は11月20日)だった。このときは社前に幟旗が立った。
 この祭りのときは、ムシロを敷いて映画をやったり、浪曲をやったりした。地元も金を出すが、他の地域からも一金いくらで寄付金が入るため、これを紙に書いて貼り出した。
 浪曲などがかかって人が集まるときは屋台も出た。

... エビスコウ
 旧の10月20日はエビスコウである。この日はチャノマにオカケジ(掛軸)を掛け、財布を供えた。古くはご飯と味噌汁、オカシラ(尾頭付きの魚)を供えたが、その後、財布だけになった。

... 新嘗祭
 11月に新嘗祭があった。この日はマメやハクサイなど、収穫した野菜のうち出来の良いものを自転車で笠間稲荷に運んだ。ここで品評会があり、審査の上、金紙や銀紙、赤い紙や緑の紙を作物に貼ってくれるのである。このうち金紙は1等、銀紙は2等で、太田家でもこれらをもらったことがあった。 

... ヤマノカミサマ
 11月15日にヤマノカミサマの祭りがあった。
 ヤマノカミサマは集落に2か所あり、太田家のところは6軒で祀っている。トウヤは順番である。当たった年は1年間、草を刈ったりして祠の場所をきれいにしておいた。
 祭りの日はまず午前中に集まり、高さ50㎝ほどの祠を作った。場所は決まっており、高台にある畑の中である。ここに細い木の枝を柱として立て、ワラで小さな屋根を葺き、3方を板で囲って祠を作った。かつては毎年造り替えたが、現在は石の祠である。供えるものは赤飯と尾頭付きの魚で、これをタワラボッチにのせた。
 午後は飲み食いする。料理は赤飯と煮染め・漬物で、トウヤのご馳走に呼ばれる形である。子どもも行ったが、これはトウヤの引き継ぎの場であり、本来は男性の行事だった。場所は、元はヤマノカミサマのところだったが、その後トウヤの家に集まるようになった。なお、現在は飲食はせず、供えものを上げてくるだけである。

... ウジガミマサマ
 12月13日に家のウジガミサマ(83頁参照)の祭りがあった。
 この日はシンタクも太田家に集まり、ウジガミサマにお詣りする。集まるのは女性で、子どももつれてくる。そして、持ち寄った赤飯・煮染め・漬物などを、祠の前の石段や、天気が悪ければ縁側で世間話をしながら食べた。神主を呼ぶことはなかった。
 このウジガミマツリは今も続いているが、近年は赤飯を供えるだけになった。

... 肥やしに感謝祭
 旧12月16日か20日に肥やしに感謝する行事があった。この日はまず家の山、キゴヤのそばからクマザサのようなササッパを取ってくる。これを5、6本一緒にしばると、ササの台のようなものができる。この上にゆでたうどんをを折り返すようにのせ、ヒリョウシャの堆肥の上に挿した。当主が毎年やったが、うどんは主婦がゆでた。

.6 人生儀礼
..(1)婚礼
... 結納
 結納はまず嫁側で行う。立会人として3、4人、近所の人や親戚を頼み、婿側からは本人と仲人が出席する。孝政さんのときは伯父に当たる人や守彦さんも出たが、親は行かないこともある。このとき結納品一式と結納金・指輪を持って行く。そして席を設け、終わると嫁と仲人だけをつれ、今度は婿側で結納の席を設ける。この席にはシンタクなど近所の親戚を3、4軒招く。時間はいずれも昼間である。
 結納から式まで特に行事はない。

... 嫁入道具
 嫁入道具は良い日を選び、式の数日前に運ぶ。運ぶのは家具屋で、兄弟が付き添うが、花嫁は立ち会わない。
 タンスには中身をすべて入れて持っていく。この中身を近所の人が見に来る地域もあるが、片庭ではそうしたことはなかった。

... 嫁側での式
 三三九度も披露宴も嫁側婿側双方の家で行う。それぞれの式に特に名前はない。両方に出るのは花嫁花婿のほかは仲人と付き添いだけで、嫁側の親戚は嫁側の式にのみ、婿側の親戚は婿側の式にのみ招かれる。
 花嫁は支度が済むと、10時ごろ家のウジガミサマにお詣りして挨拶する。このあと嫁側での式となり、魚屋からお膳をとって披露宴を行う。
 なおこのほか、生きたコイを大きい皿に2尾載せ、「腹合わせ」をやった。

... 嫁入り
 孝政さん正江さん夫妻のときは、嫁側から婿側への移動は車だった。途中で笠間市街の写真館に寄り、記念写真を撮った。
 かつて花嫁は、婚家に入るときオオド前の軒下あたりで提灯を交換した。孝政さん夫妻はやらなかったが、昭和20年代ぐらいまではやっていた。
 花嫁はゲンカンからではなく、オクノマから直接上がった。

... 婿側での式
 孝政さん夫妻は昭和48年(1973)に自宅で結婚式を挙げた。自宅での式はこれが最後である。当時はすでに式場でやる人も多く、正江さんもまさか家でやるとは思わなかったという。式場に全部の人は呼べないため、そのころは家で簡単にやり、その後式場でという形が多かった。しかし、守彦さんは1度で済ましたいと考え、そこで自宅だけでやることになったという。
 婿側での式は午後始まるため、終わるのは夕方になった。婿側でやるときは花嫁の両親は付いてこない。正江さんのときは、付き添ったのは仲人とおばさんのほか、美容師と介添えの人だけだった。

... 三三九度
 式はチャノマ・ナカノマ・オクノマをつなげて行った。ミマ(3間)続きでないとできなかった。
 花嫁花婿はオクノマ西側の壁を背にして座った。向かって右が花婿、左が花嫁である。仲人はそれぞれ1人ずつで、隣に並んで座る。他の人々は南を背にして1列、北を背にして1列、計2列に並んだ。3間でもいっぱいになったという。
 三三九度も花嫁花婿双方の家で行う。お酌を務める役には、いずれも近所の若い娘さんを頼んだ。

... 披露宴
 三三九度が終わるとそのまま披露宴である。親戚の中で年配の人が進行役を務め、何人かの人が挨拶をする。
 席は一人一人のお膳で、これを「二の膳」といった。料理としては、タイの入った折のほか、ようかんや料理の入った折、砂糖で作った上菓子などである。こうしたものは、薪や炭を卸していた笠間市街の魚屋に頼み、お膳を届けてもらった。なお守彦さんは料理が上手で、結婚式用に頼まれ、ようかんなどを作ることがあったという。
 引き出物は招待客一人一人に出した。注文して買ったものである。

... 新婚旅行
 披露宴が夕方終わると、そのまま新婚旅行に出た。
 孝政さん夫妻は特急で東京に出、桜木町(神奈川県横浜市)周辺に1泊したあと、翌日飛行機で九州に行った。宮崎から入り、熊本や鹿児島をまわったあと長崎空港から帰ってきた。

... 挨拶まわり
 お祝いをもらった家にはお返しをした。
 孝政さん夫妻は新婚旅行先で土産を買い、自宅に送って、それから配ってまわった。土産を買うのは大変だったという。

..(2)産育
... 出産
 片庭周辺では、お産は嫁ぎ先ですることが多い。
 太田家では、お産にはナカノマを使ったようである。こうしたときはサンバサンを呼んだ。

... ミツメノボタモチ
 子どもが生まれて3日目に、ミツメノボタモチを作り、母方の実家や近い親戚に持って行く。生まれましたという挨拶である。

... 名付け
 孝政さんには3人の娘さんがいる。長女のときには、孝政さんの母親の兄が字画を見て名前を付けた。二女と三女のときは、笠間稲荷で付けてもらった。

... 宮参り
 子どもが生まれると、自宅のウジガミサマ(83頁参照)にお詣りした。義孝神社にも行った。つれて行くのは子どもの祖父母で、産婦自身は行かなかった。

... オビヤアキ
 子どもが生まれると3回お祝いをもらう。出産祝い・初正月・初節句である。
 男の子なら生まれて20日目、女の子なら21日目を「オビヤアキ」という。この前、すなわちオビヤが開く前に親戚や近所の人たちが出産祝いを持ってくる。米を入れた重箱1重にお祝い金を載せたものである。このあと赤飯にするため、米は本来餅米である。こうしてお祝いしてくれた人を、オビヤアキのとき家に招き、振る舞いをする。太田家では表側の座敷3間をつなげて行い、お膳をとって一人一人に付けた。一番良い席はオクノマ西の壁際である。子どもは一番下座に着かせる。これは子どものお披露目でもあり、産着をちゃんと着せて支度させ、女の子の場合には眉と眉のあいだに紅で丸くしるしを付ける。帰りにはお祝いに持ってきてくれた米でお赤飯を蒸かし、米の入っていた重箱に入れてお返しをする。このほか引き出物も付けた。
 なお、こうして席を設けるのは長男長女のときだけである。長男長女両方いれば同じように2回行う。次男次女以降の場合は、本当に近い親戚や兄弟はお祝いをくれるが、お返しするだけで席は設けない。長男長女はなにかと大事にされた。こうしたしきたりは今も同じである。

... 初正月
 子どもが生まれた年は、親戚から暮れに正月祝いが届く。お金だけでなく、女の子には羽子板、男の子には破魔弓が届く。そのためこれを「羽子板祝い」「破魔弓祝い」といった。
 いずれもたくさん集まるが、母方の実家からは大きいものが届く。これは床の間に飾り、その他の小さいものはチャノマの長押の上に斜めに板を取り付け、たくさん飾った。太田家では最近まで大きな羽子板が床の間に飾ってあったという。

... 初節句
 女の子の場合、母方の実家から御殿雛が届く。親戚や近所からは小さい雛人形が4つか5つ、そのほか高砂・汐汲等の人形もいくつも届く。こうした小さい人形にはガラスケースがあり、紙箱に入っていた。
 太田家ではこうした人形をオクノマの床の間前に飾った。孝政さんの娘さんのときは七段飾りで、その周囲に他の人形を飾った。一番最初は販売店の人が飾りに来てくれるが、すべて飾るのは大変な作業だった。
 男の子の場合も同様である。片庭では鯉幟も揚げるが、揚げるためのコイザオは山から伐り出した。太田家の持ち山にはちょうど良い木が何本もあった。そのうちの1本を、守彦さんは男の子が生まれたら使うと決めていた。しかし、孝政さんのもとに生まれてきたのは女の子だったため、シンタクや親戚、近所の家など、男の子の生まれた家に贈った。コイザオは伐ってくるのが大変だった。
 なお、初節句に人を招くことはなく、お祝いのお返しをするだけだった。

... 七五三
 七五三は笠間稲荷で行った。これは写真館が笠間市街にしかないためで、お詣りし、写真を撮って帰ってきた。

... 十三詣り
 子どもが13歳になると村松山虚空蔵堂(日高寺、茨城県那珂郡東海村)にお詣りに行った。知恵が付くといわれ、昭和30年代は学校行事として、小学校6年の夏休みに希望者で行き、御札をもらってきた。

..(3)厄除け・還暦
... 厄除け
 孝政さんは佐白観音(佐白山観世音寺、笠間市笠間)で42歳の厄除けをやった。このほか、市原観音(如意輪寺、笠間市上市原)や笠間稲荷でやったこともある。
 現在は佐野厄除大師(惣宗寺、栃木県佐野市)に行くことが多い。

... 還暦
 子どもが赤いものを買って親に贈る。孝政さんは赤いシャツをもらった。

..(4)葬儀
... 臨終
 亡くなった人はオクノマに北を枕にして寝かせる。晒しの白い着物を裏返しにして着せ、上にその人が生前着ていた着物を掛ける。それから胸のところに刃物とホウキを置く。刃物は何でもよい。枕元には一輪挿しに菊の花一輪を供え、線香立を置く。そして神棚に封をする。家族はまずこれだけやった。なお、昔はこのとき逆さ屏風を立てた。この逆さ屏風など葬式関係の道具は、かつては墓のある正覚院大日堂の小屋から借り出していた。
 このあとはクミナイ(組内)の人がすぐに駆けつけ、何から何までやってくれる。お金のこと、魚屋に頼む料理のこと、オテラサンのこと、埋葬許可証等役所のことなど、葬式が終わるまでのことすべてである。家族は聞かれたことに答えるだけだった。
 オカンは台のようなものにのせる。このときは両側に花を供え、線香立を置く。それから逆さ屏風も同じように立てる。

... フコウツカイ
 翌日、訃報を知らせる役を決める。この役を「フコウツカイ(不幸使)」という。片庭は入組(いりくみ)・中組(なかくみ)・古山(こやま)の3つに分かれる。入組はさらに大内(おおうち)と由良沢(ゆらざわ)に分かれる。太田家は大内だが、この大内20軒はさらに3つのクミナイに分かれる。フコウツカイを決めるときはこの3つのクミナイが集まり、死者の出たクミを除く2つのクミナイから2人、若者と年寄の組み合わせで選出する。通常は「ヒトダテ」あるいは「ニダテ」といい、フコウツカイは1組か2組だが、親戚の多い家になると「ミダテ(3組)」を出すこともあった。
 現在は電話だが、昔はシラセする家にはどこでも歩いて行った。孝政さんも20歳のころ行ったことがあるという。

... ニッカン
 この日は亡くなった人の身体を洗う。これを「ニッカン」という。洗うのは身内の者、すなわち息子・嫁・妻である。
 洗った水は畳の下(床下)にあけた。

... 通夜
 通夜も葬式もかつては自宅でやった。ただし、片庭周辺では通夜はあらたまって行わず、オテラサンも呼ばない。来た人がお参りするだけである。

... 葬式
 3日目に葬式を行う。ただし、友引の日に当たると「友を引く」といい、この日は葬儀に関することは行わない。そのため4日目になることもある。
 葬式のときはオテラサン(楞厳寺)を呼び、お経を上げてもらう。このとき家族はオクノマ押入の前あたりに座る。他の者はナカノマ北側の壁際からチャノマ境の戸に沿って近い人から順に座る。座敷に上がるのは近親だけだが、それでもいっぱいになる。
 一般の人は葬式のあいだ庭先に立ち、そこで見送る。焼香台も縁側の外に設ける。焼香はある程度お経が進んでから始まる。家族と近親はオクノマで焼香するが、昔は「呼び出し焼香」といって名前が呼ばれてから行った。焼香を終えたらナカノマの縁側近くに移り、焼香してくれた一般の人々にお礼の挨拶をする。
 集まる人は喪服である。手伝いの人は動くため黒とは限らなかったが、地味なものを身に着け、上に割烹着を着る。割烹着は昔は白だったが、次第に黒になった。現在、白を着る人はいない。

... 穴掘り
 片庭では平成6、7年(1994、95)ごろまで土葬だった。太田家では昭和55年(1980)に亡くなった守彦さんのときが最後の土葬である。
 墓穴を掘り、オカンを担ぐ役を「トコトリサン(「ロクドウサン」とも)」といった。オオウチ20軒は先述の通り3つのクミナイに分かれており、死者が出たクミを除く2つのクミナイから4人を選んだ。誰を選ぶかについては「トコトリチョウ(床取帳)」という帳面を参照する。それぞれ何回務めたかを記したものである。同じクミナイの場合だけでなく、近い親戚のときもできなかったため、順番というわけにはいかなかった。
 掘るときにはトコトリサン4人のほか、死者を出したクミナイから1人出る。この人はお酒で浄めたり、飲み物や食べ物を持って行ったりするのが役目である。掘り終えて帰ってくると、トコトリサンは当家で風呂に入れ、支度も揃える。着るもの上下・足袋・ワラジなどで、こうしたものは親戚で整える。オカンを担ぐときには、これらを「ロクシャク」と呼ばれる1反の晒しで巻いて背負った。
昼食は本膳を用意する。この席では、トコトリサンを務めた人たちは格別なもてなしを受けた。なお、このときお膳を上げ下げする人を「キュウジサン」といった。手伝いの中で若い人がやらされたが、お盆を持って立ったり座ったりしなければならず、しかもどんどん人が入れ替わるためとても大変だった。

... 出棺
 オカンはトコトリサン4人で担ぐ。このとき、共同で使用していた輿を使った。
 家族や親族はオオドから出るが、ホトケサマはオクノマの縁側から出す。庭先には御札のようなものを下げた竹を4本、クミナイの人が支えるようにして立てる。このまわりを、オカンを担いで時計と反対に3回まわる。このときに亡くなった人の嫁や息子・近親がマキセン(お金)をまく。このお金で茶碗を買うと長生きするとか食うに困らないといわれ、会葬者たちがこれを拾う。マキセンは今も葬儀場でやっている。
 これが終わると遠回りをしてオハカに行く。オカンが橋を渡るときは、橋の手前にムシロかゴザを敷き、そこを渡る。
 オカンが出たあと、亡くなった人を寝かせた部屋を浄める。まず最初にさっとホウキで掃く。それからクミナイの長老がショイカゴをころがしてまわる。これはカゴが目になっているため、悪霊を追い出す魔除けの効果があるとされる。

... 埋葬
 トコトリサンが掘った穴の中に埋葬したあと、その場所に木製の碑を建てる。これを「モクヒ(木碑)」という。石の墓は建てない。モクヒは正面に戒名、背面に俗名、背面か側面に命日を記す。戒名は葬式の時点には決まっている。このモクヒは腐るまで立てておき、造り替えることはない。守彦さんのモクヒは尺(30㎝角)で高さ10尺(3m)というもので、担いでいけないため車で運んだ。三十三年忌のときもまだ残っていた。
 モクヒのまわりには竹で柵のようなものを作る。前には白木の膳を置き、ダンゴ・マクラメシ・花を供える。いずれもオクノマでホトケサマに供えていたものである。残ったダンゴは集まった人に墓の前で食べてもらう。そうすると頭が痛くならないといわれている。

... 埋め墓と詣り墓
 片庭では墓地が埋め墓と詣り墓に分かれていた。いずれも呼び方は「オハカ」である。
 埋め墓があったのは「山崎台」という畑の奥で、この場所に何軒分もあった。詣り墓があったのは近くの正覚院大日堂のところで、こちらには元は石碑だけがあった。
 人が亡くなったあと、百日目までは埋め墓にお参りした。これを過ぎると詣り墓と埋め墓両方にお参りした。お彼岸の墓参りも両方である。掃除も草刈りも大変だった上、用意しなければならない花の量も多かった。また、お盆のときは埋め墓まで提灯を持って迎えに行った。
 埋め墓は遠くて高台だったため行くのが大変だった。以前は土葬だったため許可が出なかったが、今は火葬になったため詣り墓の場所にも埋葬できるようになり、墓を移した。石碑とお骨が、これですべて一緒になった。

... 精進落とし
 雨戸などで作った台の上に、塩を入れた皿を用意する。オハカから帰ってきた者は、この塩を付けて手を洗い、キヨメの酒を飲む。
 このあと家に入り、精進落としをする。クミナイの人に準備はしてもらうが、そのあとは客になってもらい、家族と近い親戚の者が振る舞いをする。この席に着くのは親戚と手伝いをしてくれたクミナイの人だけだが4、50人にはなり、一人一人にお膳を用意した。
 こうした席で使う黒椀類を「本膳」といった。どこの家にもあったが、数が足りないと「モチヨリ」をやった。食器の貸し借りである。守彦さんのときは魚屋から借りた。不足分だけでもこうした業者から借りると、手伝いの人たちの負担が減った。

... 一年忌まで
 土葬の時代は葬式の翌日、親を送った息子が朝暗いうちに出かけ、墓に盛った土を整えた。これを「オヤオコシ」といった。
 クミナイの人々は翌日も手伝いに行った。したがって前日から翌日まで計3日ぐらい行くことになる。葬式当日はお参りに行けないため、この日は墓まで線香を上げに行き、それから女性たちは片付けも行う。お膳や汁椀・黒椀など、葬式で借りた食器類は一軒ずつすべて数える。塗り物なのですぐにしまうことはできず、乾いた布で拭いてから片付けた。
 墓へのお参りは7日ごとに行く。葬式のオダンゴを作るとき重箱で1重分、粉の状態で残してくれるので、これを7等分し、初七日、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)と、7日ごとに朝オダンゴを作り、四十九日まで墓に供えに行く。
 三十五日はオテラサンを呼んで法事をする。三十五日にできない場合は四十九日にやる。やるのはどちらか片方だけだが、片庭周辺は三十五日にやることが多い。現在は少し前の土日にやっている。これは世話になった人に対するお礼の意味があり、近い親戚とクミナイを招く。
 つぎは一年忌である。このときもオテラサンを呼ぶ。招くのはクミナイと親戚だが、三十五日よりも少し広く人を呼ぶ。そのため、包むお金も三十五日より少し多めにする。

... 三十三年忌
 三十三年忌には、葉の付いた杉を削り「三十三年忌」と書いたものをホトケサマを埋めた方のオハカに立てる。これによって、その人へのお参りは終わる。

.7 信仰
... 概況
 片庭は神仏の祠の多いところで、20いくつ神様があるという。
 その一方で、願掛けや占いで近くの神社に行くようなことはなく、安産祈願に行くこともなかった。

... 仏壇
 仏壇のことを「ホトケサマ」という。古くはヘヤ(六畳)にあったが、その後カッテに移した。
 ホトケサマは、中央に仏像の厨子が祀られ、その前に位牌が並べられていた。このほか手前に、常花を挿した花立、線香立、蝋燭立などが置いてあった。
 守彦さんは合理的な人で、子どもたちにお参りさせるようなことはなかった。

... 神棚
 チャノマのナカノマ境の鴨居の上に神棚が2か所あった。中央の神棚は大神宮で妻入の切妻屋根の社、その左の神棚には御幣が祀ってあった。いずれも棚の両端に短い竹筒が取り付けてあり、榊などが挿せるようになっていた。中央の神棚には、「御祈祷神璽 年男 太田孝政殿」や「稻荷神社」の札などが祀ってあった。
 なお、神棚左手の鴨居には、剣型の祈祷札が2枚置いてあった。

... 札の額・御幣
 暮れに義孝神社から御札が届いた。こうした札を貼るための板額が、チャノマのヘヤ境、鴨居の上に掛けてあった。貼ってあったのは、義孝神社(笠間市片庭)・楞厳寺(笠間市片庭)・愛宕神社(笠間市泉)・八坂神社(笠間市笠間)・徳蔵寺(茨城県東茨城郡城里町)・筑波山神社(茨城県つくば市)・加波山神社(茨城県桜川市真壁)・古峯神社(栃木県鹿沼市草久)・新勝寺(千葉県成田市)・三峯神社(埼玉県秩父市三峰)・善光寺(長野県長野市)などの札である。この額は1年に1回外して洗い、新しい札を貼った。
 御札としてはこのほか、門口にも加波山神社の厄除けの札などが貼ってあった。
 カマド裏の壁に、カマドの神として御幣が祀ってあった。こうした御幣は神社から買い、毎年暮れに取り替えた。
 このほか、札の額の右端やウマヤ入口の柱など御幣を祀る場所が数か所あった。

... ウジガミサマ
 この地域で「ウジガミサマ」といえば、氏子になっている集落の神社のことではなく、屋敷神のことである。ウジガミサマはどこの家にもあった。
 太田家のウジガミサマは主屋西側の山にある。傷んでいたため平成22年(2010)に同じ位置に建て替え、このとき階段も石屋に造ってもらった。
 このウジガミサマのお祭りを毎年12月13日に行っている。これは太田家だけの行事である。太田家のシンタクは同じ日に行っているが、太田姓を名乗っても違う日にやっている家もある。

... 菩提寺
 菩提寺は臨済宗妙心寺派の楞厳寺(りょうごんじ、笠間市片庭)である。

... 義孝神社
 義孝神社(笠間市片庭)のことを「ミョウジンサマ」という。片庭は3つの地区に分かれるが、義孝神社はこのうち入組の神社であり、太田家はその氏子ということになる。お宮参りのときはこの神社にお詣りに行った。
 この神社の宮司は石井神社(笠間市石井)の宮司が兼務しており、祭礼などのときは来るが、通常は不在である。

... 八幡神社
 太田家の家の前にハチマンサマ(八幡神社)の参道がある。何軒かで祀っている。
 なお、この神社には椎の大木があり、毎年7月10日前後になるとヒメハルゼミが鳴くという(注5)。

... 笠間稲荷
 笠間市は笠間稲荷で知られるが、地域とはそれほど密接な関わりがあるわけではなかった。
 笠間稲荷のことを「オイナリサン」といった。オイナリサンに行くのは元朝詣り・七五三・厄除けぐらいで、そのほかは境内で何か行事のあるときだけだった。地区で行くようなことはなかった。
 神社の裏手には広場があり、小屋掛けをしてサーカス・万歳(まんざい)・菊人形など、さまざまなものをやった。菊人形は大がかりなもので、舞台を上下左右に動かして場面を転換させる「段返し」の仕掛けがあった。

... 三峯神社
 三峯神社(埼玉県秩父市三峰)のことを「ミツミネサマ」といった。この講は片庭だけでなく、箱田の家も入っており、講員は70軒ぐらいあった。しかし、次第にやめる家が多くなり、平成の初めごろなくなった。最後のトウヤは太田家だった。
 当番のことを「トウヤ」という。順番は決まっており、今年はこの集落、というように集落単位でまわっていく。片庭は3つのクミに分かれているが、これを順にまわっていくのである。そして、それぞれの集落の中でトウヤを決め、それ以外の数軒の家が補佐をする。何かのときは5、6人出て手伝いを務める。
 代参はこの中から4軒を順番に決め、毎年御札を迎えに行った。行くのは5月ごろである。電車と徒歩で泊まりがけで行った時代もあるが、その後は車を使っての日帰りである。孝政さんも自分の車を使って2回行き、迎えた御札を講員に配った。なお、旅費の積み立てのようなものはなかった。
 太田家の山の上に三峯神社を祀った祠がある。壊れたため平成11年(1999)に造り直し、現在は石の祠になっている。中に祀ってある御札を代参に行くとき持って行ってもらい、新しいのが来るとまた祠に納めた。御札は大口真神の札ではなく、文字の書いてある木札である。三峯から御札を配りに来ることはなかった。
 毎年1回、講員がトウヤの家に集まって宴会のようなことをやった。行われるのは10月19日の夜、ちょうど米の出来たあとである。集まりに出る家からは米を1升集めてまわり、これを売ったお金で食材を買い、ご馳走を作る。料理は煮物などで、うどんもゆでた。
 現在は講がなくなったため、古い御札を三峯山に郵送し、新しいものが送られてきたら配布するだけである。今は入組の中だけでやっており、郵送するのは役員(義孝神社の総代)だが、それ以外のことは担当の4軒が行っている。この4軒は家の並びごとに順番にまわる。

... 古峯神社
 古峯神社(栃木県鹿沼市草久)の御札をもらいに行くことがあった。太田家では現在は行かなくなったが、信仰する家では今でも行っている。

... 加波山神社
 加波山神社(茨城県桜川市真壁)のことを「カバサンサマ」という。入組30数軒で講を作っていた。トウヤは4軒で、家の並び順にまわる。この中で当番の家を決め、毎年3月の終わりごろ代参に行って御札を受けてきた。代参の前には回覧がまわり、「家内安全」「厄除け」など御札の注文を取っている。飲食するような集まりはなかった。

... たばこ神社
 加波山神社の摂社にたばこ神社がある。煙草の栽培農家が信仰し、毎年御札をもらいに行っていた。太田家は煙草は栽培していなかったが、行っていた。

... 愛宕神社
 愛宕神社(笠間市泉)のことを「アタゴサマ」という。火除けの神で、入組30数軒で講を作っていた。トウヤは4軒である。1月24日が祭礼のため、毎年この日に代参を行い、御札を持ち帰って講員に配る。御札の代金はその都度集金して歩いた。また、年に一度くらい講中で集まり、飲食する機会があった。
 なお、このアタゴサマを勧請した祠がウジガミサマの上にあった。

... 大日様
 奥の山の上に大日様の祠がある。東日本大震災で屋根が壊れてしまったが、1間四方ほどの大きなものである。
 この祠は入組30数軒で祀っている。トウヤは4軒で順にまわり、毎年10月の終わりに引き継ぎを行った。集まるのは現在のトウヤと次のトウヤ、すなわち計8軒で、赤飯や煮染めなどを1品ずつ持ち寄り、祠の前で食べた。この行事は現在も続いているが、今は公民館で行っている。

... 子安講
 女性たちが集まる子安講があった。掛軸を飾り、煮豆・煮染め・きんぴら・天ぷら・漬物等でお茶を飲みながら世間話をするのである。安産を祈願するものだったが、女性たちの楽しみでもあった。
 集まるのは夜で、トウヤは順にまわる。太田家でやるときはチャノマを使い、ナカノマ境の板戸の前に掛軸を掛けた。

... オコシンサマ
 毎年旧の正月1日の夜、オコシンサマ(庚申様)があった。夫婦でトウヤに集まり、女性たちが準備した食事をみんなで食べた。このとき子どもも一緒に行って先にご飯を食べさせてもらい、そのあとは家に帰って待っていた。かつては葬式でも何でも行事があると、子どもたちは先にちょっと行ってご飯を食べさせてもらった。

... ネンブツ
 ネンブツ(大数珠まわし、百万遍念仏)をやっていた。場所は墓のある正覚院大日堂で、集まるのはおばあさんや子どもたちである。集まると鉦をチンチン鳴らし、「ナンマイダンボ」と称えながら長い数珠をまわした。
 太田家では孝政さんの曾祖母にあたるあささんがよくネンブツをやっていた。太田家に集まることはなかったが、ナンドの棚に道具が置いてあった。

... 踊り念仏
 昭和20年代初めごろまで、白装束を来た人がまわってきて踊り念仏をやることがあった。まわってくるのは4月ごろ、場所は墓のある正覚院大日堂のところだった。この境内はかつて広く、地域の人々も集まり、一緒に踊りはしなかったが、おばあさんたちは念仏を称えていた。

... オダイシサマ
 徳蔵寺(東茨城郡城里町徳蔵)のことを「オダイシサマ」といった。毎年4月29日がオダイシサマの縁日(徳蔵大師祭り)で、このときはお詣りに行く人のため、義孝神社の前に食べ物や玩具を売る店が出た。そのくらい参詣者がたくさん通った。

.注
1 第1期の調査で聞き取った部屋名(「チャノマ」「カッテ」「ナカノマ」「オクノマ」)を見出しとして掲げ、第3期の調査で聞き取った部屋名(「マエノザシキ」「イタノマ」「ナカノザシキ」「オクノザシキ」)をカッコ書きで加えた。
2 『日本民家園物語』太田家の項につぎのようにある。「母屋の右端、土間との接続部分はタタキが残っていたが、特にその正面寄りには幅十三センチ、高さ八センチのタタキの造り出しがあり、正面に向かって広がっていた。これは、ここに風呂桶を据え、大樋の雨水を集めてわかし、入浴したもので、その流し湯が土間のほうへ流れ出さないようにした施設とみられる。このような別棟造りでの雨水利用の風呂場の類例を、愛知県新城市郊外で見た。その家も建築年代はかなり古いようだが、同様に母屋と釜屋の接続部分の前面寄りに風呂桶を据え、接続部の軒に沿って架けた大樋からの雨水を導入するようにしてあって、現在も家族の入浴にあてているそうである。」(128頁)
3 茨城県牛久市ではつぎのように行われていた。「農耕は、正月三日に行われるイチクワという行事に始まります。この行事の前には、農具に触れてもいけないし、田畑に入ってもいけないとされています。(中略)この行事は、その家の主人によって行われます。松の枝を3本用意し、それに直径三○〜四○センチメートルの輪にした注連縄にカキダレを付けたものをそれぞれの松の枝に付けます。そして、田畑の両方で土を3回、クワでさくった後、先の3本の松と注連縄を置き、米をまきます。家に帰ってくると土間に箕を置き、ろうそくを立て、そこに外でまいてきた米の残りを入れた1升枡と外で使ってきたクワを置きます。後日、その米でご飯を炊き、神仏に供えます。」(『広報うしく』第872号 平成16年(2004)1月1日)
4 『広辞苑』「すむつかり」の項につぎのようにある。「古くは、おろし大根に炒り大豆を加え、酢醤油をかけた郷土料理の一種。今では、栃木県地方などに「しもつかれ」の名で遺され、塩鮭の頭・人参・酒粕などを加えて煮た料理。初午の嘉例に道祖神に捧げ、また自家の食用とする。」
5 この八幡神社と楞厳寺の境内は、「片庭ヒメハルゼミ発生地」として昭和9年(1934)に国の天然記念物に指定されている。

.参考文献
笠間市    『笠間市史』地誌編 笠間市史編さん委員会 2004年
川崎市    『重要文化財旧太田家移築修理工事報告書』川崎市 1970年
川崎市    『重要文化財旧太田家住宅焼損復旧調査報告書』川崎市教育委員会 1991年
川崎市    『重要文化財旧太田家住宅復旧修理工事報告書』川崎市 1994年
立原健甫    「茨城県笠間市片庭の二棟造民家」『日本民俗学会報』57 1968年7月
古江亮仁    『日本民家園物語』多摩川新聞社 1996年

.図版キャプション
1    太田家所在地
2    (左から)太田孝政さん・正江さん夫妻、中山てる子さん
3    ※図版2と3で1つのキャプション
4    太田家家紋
5    万治2年の年号が残る位牌
6    現在の太田家
7    ホリ 手前はツカイッバタのあと
8    敷地配置図
9    移築前の太田家住宅 右端はアマヤ
10    東側面 手前にホリが見える
11    ドマ 左にナガシ、中央にカマド、右に洗濯機が見える
12    ドマのトダナ 下段右隅は米びつ
13    ウマヤ 左上に御幣が見える
14    カマド 右の焚口は一段下がっている
15    ナガシとポンプ
16    ナガシ周辺
17    ナガシの裏 排水用の竹筒が見える
18    イタバ
19    チャノマ コタツとテレビが見える
20    復原された建築当初の間取り
21    移築前の間取り
22    ヘヤ(六畳)
23    ヘヤ(三畳)
24    ナンド
25    フロ周辺 中央はフロの目隠し
26    アマヤ 左にヒリョウシャ、右手、主屋とのあいだにベンジョが見える
27    キゴヤ
28    ヒリョウシャ 下部が石壁になっている
29    クラ 左、クラの妻部分に干し柿、右に、庭にあった松の老木が見える
30    西側面とトリゴヤ
31    太田家の詣り墓と大日堂 このお堂の小屋に葬式用具が保管されていた
32    太田家の詣り墓 中央の墓碑が太田家の墓である
33    仏壇
34    神棚
35    札の額
36    ウジガミサマ


(『日本民家園収蔵品目録17 旧太田家住宅』2012 所収)