三澤家と伊那部宿の売薬  越川次郎


.凡例
1 「三澤家と伊那部宿の売薬」は、聞取りと三澤家文書に基づいて越川次郎が執筆したものである。

  ※越川次郎氏は現在中部大学人文学部教授
 

.はじめに
 伊那部宿は、中仙道の脇往還である伊那街道の宿駅で、天竜川の段丘上に位置している。眼下に伊那市街と天竜川を見下ろし、桜で知られる高遠や杖突峠を遠望できる見晴らしの良い宿場である。かつては、善光寺参りや諏訪大社への参詣客などで賑わったという(久保村覚人 2000 「伊那部宿の歴史的概要」伊那部宿を考える会編『伊那部宿総合調査報告書』伊那部宿を考える会・伊那市教育委員会、P.3)。三澤家は、この伊那部宿で旅籠業の傍ら売薬業を営んでいた。店頭販売はもちろんのこと、富山の薬売りのように多くの売り子が行李を担いで各地を廻り、薬を売っていたという。
 本稿では、三澤家13代当主、良信氏からの聞き書きに加え、三澤家所蔵の文書や資料及び民家園所蔵資料などから、薬屋としての三澤家と伊那部宿について述べていきたい。

.1.三澤家における売薬業のはじまり
 現当主の三澤良信氏によると、三澤家で薬の製造販売をはじめた正確な年代は不明であるが、嘉永〜安政年間頃ではないかと考えられている。三澤家には近世のものと思われる『口伝』、『家伝法書控』という二つの文書が伝わっている。これらは、三澤家で売られていた「感應丸」「實母散」など様々な薬が記載されている。たとえば、『口伝』の「實母散」については次のように書かれている。

一香附子 一黄苓 一茯苓 一芭葉 一當皈 一午黄 一河骨 一生地黄 

    各々三百目

            (中略)

  口伝有之

 「口伝有之」とあるように、ここには調合する薬種の名前のみ記しており、具体的な製薬法が書かれていない。ほかの薬も同様に「口伝有之」とあり、これらの薬が特定の人物にのみ口頭で製法が伝承される秘伝的性格を持っていたことがわかる。ところが、これら文書は三澤家秘伝の薬を代々伝えてきたという性格のものではないらしい。三澤家9代目となる三澤新十郎という人物は、養子として三澤家に来たのであるが、その際に持参金代わりとして薬の製造販売の権利を持ってきたと伝えられている。その際にこれらの文書も三澤家にもたらされたようである。『口伝』、『家伝法書控』には、三澤家では売られていなかった薬も記されており、三澤家がこれら諸薬からいくつかを選択して製造販売していたことがわかる。
 『醫道日用綱目』という書が三澤家に残されている。これは、延享4年(1747)に出たもので、当時ベストセラーになった本である。ページの下隅が真っ黒になっている部分が多く見られ(写真1)、繰り返し参照して製薬の参考としていた形跡がある。
 以上のように初期の三澤家の売薬は、薬の製造販売の権利を獲得した後、『口伝』、『家伝法書控』『醫道日用綱目』などを参考にして薬を作っていたようである。

.2.三澤家で売られていた薬の名称と効能
 現在のところ、三澤家にある近世の文書で、薬についてのものはほとんど見受けられない。しかし、明治期以降になると、薬の製造販売に関する文書が多く現存している。そのなかに、『営業賣薬方劑寫』というものがある。これは、明治9年(1876)から明治16(1883)年の間に内務省から免許を交付されて三澤家で製造販売していた薬の名称と成分、効能を書き記したものである。この文書によって、遅くとも明治9年には、三澤家は「官許」の薬を製造販売していたことを知ることができ、それらの薬の名称や効能などを知ることができる。そこで、この『営業賣薬方劑寫』から、当時の三澤家の薬を具体的に見てみよう。
 『営業賣薬方劑寫』によると、明治9年に三澤家が免許を得た薬は以下に紹介する7種類である。
「神農感應丸」は、「卒倒、霍乱、胃痙(ママ)、下利(ママ)、咳嗽、ヒホコンデル(ⅰ)、ヒステリー(句読点は筆者による。以下同)」を「主治」とした丸薬である。「金箔ヲ衣トス」とあるように、金箔が施されていたらしい。現当主である三澤良信氏によると、この「神農感應丸」が三澤家で最も売れた薬であった。
 「犀角圓」は、その名の通り、犀の角を用いた薬で「勞〈やまいだれに「祭」〉(ⅱ)、骨蒸熱、黄胖、水腫、眩暈、上氣、白帯下、慢性下利、月経不順、産後の瘧後、男女大病後の衰弱」に効果がある。犀の角は、漢方で解熱や解毒に効き目があるとされている。
 「竒應丸」は、「小児急慢驚風、氣絶、吐乳、青便、發熱、〈てへんに「蓄」〉搦」など、子どもの病気に効き目があった。竒應丸は、奈良の東大寺で製造販売されていたものが有名である。これには、永正年間(1510年頃)、東大寺の破れた太鼓の皮の裏側に薬の処方が書いてあり、ためしに作ってみると奇応があったので「奇応丸」としたという由来が知られる(岡崎寛蔵 1976 『くすりの歴史』 講談社 p.127)。
 「起死回生 寳丹」は、「暴瀉病(ⅲ)、霍乱、氣絶、眩暈、氣鬱、中暑、痢疾、啖咳、喘息、停飮、〈くちへんに「愛」〉氣、食滞、舶車、酒害、心腹痛、癪□、疝氣、感冒」を主治としている。
 「萬金丹」は、「赤痢、白痢、攪乱、疫痢」を主治とした薬である。富山売薬のものが有名。「調痢丸」も同様に、「疫痢、赤痢、白痢」に効能がある薬である。
 「實母散」は、「産前、産後、血之道一切」とあるように、女性特有の病気に効果があったようである。
 三澤家ではその後以上7種に加え、次の3種が免許を得ている。「飛梅」(明治14年、1881)は、「氣絶、眩暈、食滞、舩車酒害に効アリ」とされる薬である。「千金丹」(免許年不明)は、「気鬱、眩暈、吐瀉、停飲、食滞、癪聚、中暑、胸腹痛、其他舩車酒害、時疫豫防等ニ効アリ」としている。
 明治11年(1878)には、「養血圓」という薬が免許を得ている。後述するように、この薬は、三澤家で最も売れた薬である。『営業賣薬方劑寫』には、「産前産後血之道一切ニ効アリ」とある。明治14年(1881)には、「養血散」という粉薬も販売されている。こちらは、「『血之道』一切ヨリ起ル病ニ効アリ」となっている。

.3.三澤家における薬の製造
  家伝薬の製法は、一般的には家の継承者によって、代々伝承されることが多い。三澤家の場合は、先に述べたように、よそからもたらされた『口伝』、『家伝法書控』を下敷きに、『醫道日用綱目』など刊本を参考にしつつ徐々に改良を加え伝承していったものと考えられる。しかし、薬の具体的な製法を伝える文書などは残されておらず、三澤家独自の何らかの口伝・秘伝の類が存在したのではないかとも推察される。ただ、いくつかの文書から、それぞれの薬の材料いわゆる薬種は判明しており、また製薬道具などが残されている。また、三澤家で作られていた薬は、いわゆる有名売薬に類するものが多く、それら有名売薬は現在にもその製法が伝えられている。以上から、三澤家の薬の製法のうち、三澤家中の秘伝に属さない部分はある程度判明する。ここでは、三澤家の薬の中から、具体的にいくつか見てみたい。

..(1)神農感應丸
 薬は、その形状から散薬・丸薬・円薬の三種類に分けられる。散薬は、いわゆる粉薬で、薬研などで薬種を細かく粉砕して篩にかけ、乳鉢で混和する。丸薬は、この粉状のものに、澱粉糊液と水を加えて練り上げ、切丸器という器具で成形する。そして、成丸器の板上に薬を転がして丸形にする。
 神農感應丸は、その名称が示すとおり丸薬である。前出の『営業賣薬方劑寫』には、明治9年(1876)に調合に用いた生薬と分量が記載されている。
 そこには、「麝香 量目壹厘六毛 カミツレエキス三厘二毛 ヒヨスエキス三厘二毛 杜根末壹厘六毛、コロンボ四厘八毛、アラビヤゴム四厘八毛 以上六味調合右量ヲ以テ壹粒ヲ製シ金箔ヲ衣トス」とある。「カミツレエキス」は、カミルレというキク科の一年草のエキスであると思われる。この花には、強い香りと苦味があり発汗薬や駆風剤として用いられる(『広辞苑』岩波書店)。「ヒヨスエキス」は、ナス科の越年草であるヒヨスの葉から製した粘り気のある液で、気管支炎に用い、また緩化剤・肛門座薬などとした(『広辞苑』岩波書店)。杜根は、アカネ科の常緑多年草で、その乾燥した根を粉末にしたものが「杜根末」である(『広辞苑』岩波書店)。「コロンボ」は、東アフリカ原産の蔓草で、根を乾燥させて慢性の下痢などに用いる(『広辞苑』岩波書店)。「アラビヤゴム」は、アラビアゴムノキの樹液を分泌させて固まらせたもので(『広辞苑』岩波書店)、先述の澱粉糊液の役割を果たしていると思われる。
 以上を、直径30センチほどの乳鉢に入れて練ると粘りが出てくる。軟らかくなって乾燥してきたら、切丸器(写真2)の上に載せて平らにする。の中心の鉄棒は金型になっていて円筒形に切り抜くことができる。これを成丸器(写真3)に落として、鍋蓋形の板を押し付けて回転させると、丸薬になる。この丸薬を乾燥させた後、金箔を施す。金箔を成丸器に乗せ、丸薬をそのうえに乗せて、4・5回こすると完成である。金箔は、防湿のためであると三澤良信氏は述べている。

..(2)千金丹
 丹薬は、丸薬を錠剤形にしたもので、円形、四角形をはじめ、さまざまな形のものがあった(清水藤太郎 1949 『日本薬学史』 p.152-153)。千金丹は、弘法大師に授けられたという伝説をもつ四国の高松のものが有名で、薬売りが諸国を売り歩いた(鈴木昶 1999 『伝承薬の事典—ガマの油から薬用酒まで—』東京堂出版)。千金丹は板状のものに、5ミリ大で正方形の切れ目が入っている。三澤家の千金丹も同様の形状となっている。
 三澤家千金丹の処方は、『営業賣薬方劑寫』によると次のとおりである。
 
  阿仙薬目方三分 薄荷三厘 カンプル三厘 丁子五厘 甘艸五厘 甘
  茶壱分 肉桂壱分 甘艸二厘 葛粉二厘 
 以上九味調合量七分ヲ以テ壹錠トナシ壱錠ヲ壹貼トス
 
 阿仙薬は、インド産のマメ科植物から製した、褐色または暗褐色塊状の薬剤。主成分はカテキンで、収斂剤、口中清涼剤などに用いる(『広辞苑』岩波書店)。カンプルはカンフル、すなわち樟脳のことをさしていると思われる。甘艸は甘草のことで、根が鎮痛や鎮咳に用いられる(『広辞苑』岩波書店)。肉桂は、クスノキ科の常緑喬木で、樹皮を乾燥したものは俗にニッキとも呼ばれ、健胃薬、矯味薬、矯臭薬とする(『広辞苑』岩波書店)。
 これらの薬を乳鉢で練り、ます目の型を取る。このます目ひとつが一回分にあたるが、病状により大きさを加減して欠き砕いて用いたらしい。三澤氏によると、これを板状のまま紙袋に入れて販売していたという。

..(3)養血圓・養血散
 「養血圓」の方剤は、次のようになっている。

人参六厘 泊夫藍壱分 甘艸五厘 黄蓮四厘 陳皮五厘 □香四厘 龍脳壱厘 沈香五厘 芍藥六厘 茯苓八厘 丁子壱厘 肉桂五厘
以上拾貮味ニシテ右量ヲ三分シ粘ヲ以テ圓トナシ三圓之量六分ヲ壹貼トス

「養血散」は、先述のように、効能についてはさきの「養血圓」とほぼ変わらないが、材料の薬種は、以下のようにだいぶ異なる。

大黄貳分 軋姜壱分 桂皮貳分 ケンチアナエキス五厘 コロツクマルチス五厘
以上五味細末ニシテ調合量六分ヲ以テ壱貼トス

..(4)方剤の変化
 現在、薬を販売するには薬事法に則って医薬品として販売しなければならないが、その起源は明治3年(1870)に出された「賣藥取締規則」に求めることができる。この時に賣薬は免許制となり、その後3−4年ごとに続けて規則や規制が出された。これら規制の部分的影響を、さきの『営業賣薬方劑寫』にある「神農感應丸」からうかがうことができる。
 先に紹介した「神農感應丸」の明治9年(1876)の方剤は、「麝香 量目壹厘六毛 カミツレエキス三厘二毛 ヒヨスエキス三厘二毛 杜根末壹厘六毛、コロンボ四厘八毛、アラビヤゴム四厘八毛」というものであった。『営業賣薬方劑寫』によると、明治14年(1881)に三澤家の諸薬は方剤を変更して免許を再取得している。その際「神農感應丸」は次のように変更した。「人参五厘五毛 龍脳一厘 沈香五厘五毛 麝香一厘 午黄三厘 耳艸一厘 猪膽一厘 丁子一厘」。明治9年の時と、同じものは「麝香」のみである。このように、大きく内容物を変えたのは、明治11年(1878)に出された「賣藥檢査心得書」によるものと考えられる。これは、薬味分量の基準を定め、毒劇薬の使用を極端に制限したものである(清水藤太郎 1949 『日本薬学史』 南山堂 p.201)。この「賣藥檢査心得書」が「全禁」するなかに、「神農感應丸」で用いられていた「ヒヨスエキス」などが「劇薬」として指定されている。これによって方剤を変更せざるを得なくなったのであろう。明治期の売薬業者は、政府による諸規制の対応に追われ、特に薬の成分と税対策に腐心した(税に関しては後述)。それによって、薬の製造や方剤、販売法などが変化した(ⅳ)。しかしながら、三澤家を含めて売薬業は、このような規制の波にもまれながらも、それにうまく対応して発展していったのである。

..(5)薬の製造場所
 現在の三澤家には土蔵が4つある。うち、奥の2つは明治19年(1886)に建造されたことが明らかとなっている。これらと現在の住宅との間に、文庫蔵と呼ばれる蔵があった。これは、薬蔵とも呼ばれ、安政4年(1857)に建てられた蔵であったが、老朽化のため昭和61年(1986)に解体された。三澤氏によると、この蔵の2階に文書類を保管し、1階で薬を製造していた。このように、昔の売薬は家の中や敷地内において、家人総出で薬を作っていたというのが一般的であった(ⅴ)。

.4.薬の販売形態
 三澤家では、いわゆる店頭販売、配置販売、委託販売という3つの形態で薬を販売していた。ここでは、三澤家に残る資料および三澤良信氏からの聞きとりからうかがうことのできる、三澤家における薬の販売について述べてみたい。

..(1)店頭販売 
 先述のように、三澤家で薬を始めたのは9代三澤信十郎であるが、10代から三澤荘衛を名乗り12代まで襲名している。三澤良信氏によれば、この三澤荘衛時代に「薬斎堂」という名称で薬を販売していたという。
 三澤家には、当時店頭に掲げられていたと思われる薬の看板がいくつか残されている。三澤氏から日本民家園に寄贈された看板は次の通りである。

 官許本舗 養血圓 三澤莊衛謹製(印)
 
 小児犀角圓 本舗 三澤氏謹製 (印)
 
 神農感應丸 本舗 三澤氏謹製(印)
  
 健胃補血 養血散 本舗 三澤氏謹製(印)

目藥 精錡水 西洋大医ノ發明スル所ニシテ眼病ニ用ヒテ神効無比ノ良劑ナル普ク世上ノ知ル所也 官許 本家調合所 東京銀座 岸田吟香製(印) 大取次賣弘所 養血圓本舗 三澤莊衛(印)

 目薬「精錡水」は、元治1年(1864)に岸田吟香という人物が、ヘボン式ローマ字で知られるアメリカ人宣教師ヘボンから伝授されたもので、明治期の有名売薬のひとつである。「精錡水」は、三澤家で作られたものではなく、「大取次賣弘所」とあるように三澤家でこの薬の委託販売をしていた。
 このように、三澤家「薬斎堂」では、三澤家の自家製薬によるもの以外の薬も売られ、店先にそれらの看板がいくつもかかっていた。次に紹介する三澤家に現存している看板「金太郎」「寶丹」「紫雪」の3点も同様である。各々の看板に書かれていた文字はつぎの通り。

 一名犀角圓
       金 太 郎
 小兒虫根切   信州 山崎忠重謹製 (印)

 起死        東京池之端仲町
    寶 丹    本舗 守田氏謹製 (印)
 回生
 
 尾州        尾州名古屋中市塲町
    紫 雪    本舗 生田氏謹製 (印)
 本方
 
 「金太郎」は、子どもの疳の虫や夜泣きなどに効能のある薬だったようである。先に紹介した「口伝」、「家伝」に「金太郎」の名称が見えるが、三澤家ではこの薬を作ることはせずに、「信州 山崎忠重」氏のものを委託販売していたらしい。
 「寶丹」は、明治初期に猛威を振るった伝染病コレラの応急処置的な薬として守田治兵衛が売り出したものである。明治3年(1870)に布達された「賣藥取締規則」による官許売薬第1号の薬としても知られる(宗田一  1981 『日本の名薬〜売薬の文化史〜』 八坂書房 p.152-153)。「寶丹」は、先に紹介した精錡水とともに、明治初期のもっとも有名な売薬のうちのひとつである。
 「紫雪」は、加賀藩のものがよく知られ、世に言う「加賀の秘薬」三方(ⅵ)のうちのひとつであった(鈴木昶 1999 『伝承薬の事典〜ガマの油から薬用酒まで』 東京堂出版 p.4)。三澤家で売られていたものは、「尾州名古屋」という文字が見えるので、加賀の薬とは異なるようである。
 同じように、三澤家からも多くの薬を他地域の薬屋で委託販売していた。このことについては後述する。
 現在、日本民家園の旧三澤家は建築当初の姿に復原されている。家に入ると先に紹介した薬の看板が下がり、「みせ」には薬を保管しておく薬箱や「百目箪笥」などを見ることができる。

..(2)配置販売の鑑札について
 三澤家では、富山の薬売りのように柳行李を担いだ売り子が各地を廻る行商もしていた。今で言う配置販売であるが、三澤家では「しょいあきない」などとも言っていた。
 『売薬鑑札願並返納願』という標題の文書がある。これは、売薬の行商に必要な鑑札の申請書類の写しである。最も古い明治15年(1882)1月23日のものを見てみよう。

     賣薬行商御鑑札願
 第八万八千八百八号
 一 養血圓    明治十一年三月四日
    右免許候事
 第二百十弐号
 一 養血散    明治十四年一月六日
    右免許候事
     長野縣信濃國上伊那郡伊那村
          二百九十三番地
         右営業人
            三澤荘衛
     同縣同國同郡同村三百拾八番地
        右営業人賣子
            安藤丑太郎
     同縣同國同郡同村二百九十四番地
        右営業人賣子
            三澤又三郎
     同縣同國同郡同村二百三十六番地
        右営業人賣子
            松澤鶴十
右之賣薬貳方今般右人各之者行商爲致度候ニ付行商御鑑札私共ニ都合四枚御下附被成下度此段奉願上候也
        右営業人
  明治十五年一月二十三日   三澤荘衛
                   戸長
               中村恭齊
  長野縣
   上伊那郡々長伊谷脩殿

 養血圓と養血散の行商鑑札を、三澤氏を含めた4名が申請している。次に見る史料は、鑑札の返納願いである。

    賣藥行商御鑑札返納願
 第八万八千八百八号
 一 養血円
    長野縣信濃國上伊那郡伊那村
明治十一年三月四日  二百九十三番地
筑弟二百三十七号    右営業人
一 養血円      三澤荘衛

明治十一年七月十一日同縣同國同郡同村二百九十四番地
筑弟三百三十三号    右営業人賣子
一 同断       三澤藤三郎

明治十一年三月四日同縣同國同郡同村百九十四番地
筑弟二百三十一号    右営業人賣子
同断          木島富十
明治十一年三月四日同縣同國同郡西高遠町百四十七番地
筑弟二百三十号     右営業人賣子
同断          伊藤藤太郎

右賣藥行商賣子御鑑札四枚御返納仕度候間此段奉願上候也
           右営業人
明治十五年一月廿三日  三澤荘衛
           戸長
            中村恭齋

 長野縣
  上伊那郡々長伊谷脩殿

 この二つの史料は日付が同じであることから、鑑札の返納と申請を同時にしていることがわかる。これらによると、明治15年1月23日に4名が「養血圓」の鑑札を返納し、同日にあらためて4名(三澤氏以外は別人)が鑑札を申請している。その際、「養血圓」以外に「養血散」も申請し、行商で扱う薬を増やしている。三澤氏は「営業人」であるとともに、実際に「売り子」として行商もしていた。
 同年2月2日の『賣薬行商鑑札願』では、「神農感應丸」「萬金丹」「犀角円」「竒應丸」「寶丹」「調痢丸」の6種があらたに申請されている。また、そこには6人の売り子の氏名が記載されている。同年同日の『賣薬行商返納願』で、「神農感應丸」「萬金丹」「犀角円」「竒應丸」「一角丸」の6種を返納している。「一角丸」を引き続いて申請せずに「調痢丸」に換えている。

..(3)「売り子」について
 三澤家には、常時5人くらいの「売り子」がおり、三澤良信氏によれば、県内まわりと県外まわりとに別れていたという。そして先の史料にみたように、鑑札を返納してあらたに申請する時期に売り子を交替し、売れなかった薬などを差し替えたようである。売り子の条件としては、お金を扱うので、地元の信頼のおける人物であることが重視された。
 「売り子」の出立は年1回で、柳行李を風呂敷に包んで背負っていった。行李は5段重ねで、中に薬を縦置きにして入れていたという。出立の時には旅費はそれほど必要なかった。訪問先での売り上げを旅費に充てるからである。訪問先の家では、去年置いていった薬をすべて新しいものに交換して、使った分だけの料金をもらった。これは、富山の薬売りと同じ、いわゆる「先用後利」の方式である。引き取った古い薬は、行李の最下段に入れて持ち帰ったという。持ち帰った薬は宿で処分したり、三澤家まで持ち帰って焼いたりしたらしい。ちなみに、富山の薬売りではよく知られている紙風船などのおみやげ物は持っていかなかったとのことである。
 三澤家に「薬懸帳」がある(写真4)。これには、「売り子」がまわった家の所在地や置いてきた薬の名称、数、金額が記載されている。かつては何人もいた三澤家の売り子が、それぞれ「薬懸帳」を持って得意先を訪問していたのであろう。現在三澤家にそのうちの1冊が残されている。この「薬懸帳」に記されている地域と、薬の名称および納品数を表にしたのが資料1である。
 この「薬懸帳」を携えていた「売り子」は、遠江・三河・駿河・美濃・尾張・信濃を行商している。伊那街道を南下し、岡崎から東海道沿いの宿場や村を訪れている。とくに遠江・三河に得意先が多かったようである。薬は、「千金丹」と「養血圓」が飛び抜けて多く、「調痢丸」「養血散」がそれに続いた。「薬懸帳」の記録を見てみると、およそ2ヶ月程度で行商範囲を回っていたようである。
 はじめ薬の配置販売は、先述のように年に1回三澤家から行李を担いで出立して、家々をまわった。しかし、次第に得意先も増えて販売する薬の量が増えてくるにしたがって、その形態も変化している。売り子が行く地方を取りまとめてもらう「薬舗」を置き、三澤家から直接薬を薬舗に送り込むのである。売り子は三澤家から空の行李を担いで行き、近くで寝泊りしながら、薬舗の指図であのうち、このうちへと売りに行った。薬舗が、個々の家にあらかじめ口を利いてくれるので売上げの幾分かを手数料として支払っていたという。

..(4)委託販売 
 三澤家では、柳行李をかついで個々の家をまわる「しょいあきない」とは別に、遠方の大店舗に大量の薬を置いて販売してもらう形式の、いわゆる委託販売を行って販売量を大幅に増やした。三澤家で最も売れた、いわゆる目玉商品と思われる薬は「養血圓」である。
 三澤家に残された文書の中に、『養血圓 皇國壹番簿』(写真5) というものがある。「四番簿」まであるこれらの文書は、明治11年(1878)から明治22年(1889)の間に、店舗に納品した「養血圓」の数量と金額を記録したものである。他の薬のものもあったのかは定かではない。これらをみると、当時三澤家の「養血圓」が非常に広範囲にわたって販売されていたことがわかる。
 「一番簿」から「四番簿」に記載された卸先の数を国別に集計したのが、資料2の表である。これをみると、卸先は近隣の信濃国と美濃国が多いが、遠くは武蔵国や摂津国にまでおよんでいる。そのなかに、さきに紹介した「東京銀座貳丁目」の「精錡水本舗 岸田吟香」の名前もみられる。
 ここには、明治11年に50貼、13年に500貼ほど納品し、加えて「引札」を2千枚、「紙看板」を30枚など、今でいう販促物を納品している。ほかに、「駿河国安部郡静岡宮ヶ崎町」の「薬大賣捌所 栗田嘉兵衛」には、「養血円」を1726貼も納品している。このように、「養血圓」は10カ国にまたがる、178もの卸先をもった三澤家の大ヒット商品であった。
 早稲田大学図書館所蔵のもので、「養血圓」の引き札がある(写真6)。「信州伊那部町 藥齋堂謹製」とあり、また屋根に三澤家の家紋「丸に拍子木」が見える。さらに、日本民家園に三澤氏から寄贈されている資料に、これと非常に類似した看板(写真7)があることから、この引き札が三澤家のものであることは確実である。この早稲田大学所蔵の引き札の来歴は不明であるが、東京かその近県の三澤家の薬を販売していた薬舗にあったことは間違いないだろう。
 以上のことから、信州伊那部にある三澤家の薬「養血圓」が東京近辺まで多く店頭販売されていたことが明らかになったが、「養血圓」以外の三澤家の薬についても同様であったことが最近判明した。現当主、13代三澤良信氏が、蔵から発見した文書のなかに、『賣薬約定書』という綴がある。これは、三澤家の薬を委託販売する際の約定書で、明治22年(1889)から明治31年(1898)までの分が綴られていた。たとえば、写真8にみえる人物は、明治25年(1892)に三澤氏とこの約定を取り交わし、「養血圓」「養血散」「調痢丸」「神農感應丸」「小児犀角圓」の5種類の薬を販売したようである。この約定書には、販売者が鑑札を願いうけた上で、営業者すなわち三澤氏の調製した薬を取次販売すること、売薬に関する規則を遵守し、不正行為を行わないことなどが記されている。このような約定書が綴の状態で50枚残されており、そこに記された販売者の住所は、地元伊那をはじめ、岐阜・愛知・静岡・埼玉など広範囲にわたっている。

..(5)売薬形態の変化と「売薬本舗」
 本章では、三澤家における様々な売薬の形態について説明してきたが、ここで簡単に整理すると次のようになる。三澤家では、自家製薬による薬を店頭販売するとともに、他の薬屋の薬も卸して販売した。また、富山の薬売りのように、「売り子」が行李を背負って家々をまわって薬を売った。今でいう配置販売である。後に、売り上げの多い地域では「薬舗」を置き、そこから「売り子」が家々をまわるようになった。また、三澤家が他店の薬を店頭販売したように、三澤家も他地域の店に薬を卸していた。これはいわゆる請売りである。配置販売における「薬舗」方式も、請売りの一種といえるだろう。このように、薬を製造販売し、また他店にも卸して請売りをさせる店を「売薬本舗」という。
 さきに、明治期の売薬業者は政府の課す税金に悩まされたことを述べたが、この「売薬本舗」はまさに税金対策の結果発生したものである。明治10年(1878)に政府は、「賣藥規則」を公布し、薬剤1方につき1ヶ年2円を売薬営業税として課すことにした(清水藤太郎前掲書、p.200)。当時は、どの薬店も自家製剤で40−50方から100方以上も製剤していたので、毎年1方につき2円ずつの売薬税は甚だしい重税であった。この対策として、各薬店は売薬を一時廃業し、製造を分担して少数の代表者を決めて、免許を取得し、他は請売りの形式で税を逃れる方法を講じた(清水前掲書、p.200)。この結果、免許を有して製造販売する少数の専門業、すなわち「売薬本舗」が発生した(清水前掲書、p.200)。これは結局、税金対策が資本の一極集中をもたらしたということになる。個々の薬店がそれぞれ独立して薬を製造販売していた関係から、大きな資本を持つ「本舗」と薬の販売のみを行なう「小売」という関係へ再編されたのである。また、この販売システムは、製薬をしなくとも薬の販売が可能であるために、売薬業へのあらたな参入を容易にしたという側面も指摘できるだろう。このようにして、三澤家もある時期から新旧の売薬商を小売として傘下に置き、「売薬本舗」の道を歩んでいった。また先述のように、岸田吟香や守田治兵衛など、日本全国に代理店を持っていた当時の大「売薬本舗」の薬を自店に置く一方、三澤家の薬も東京の彼らの店に納品していた。このようにして本舗同士の連携を強め、いっそうの発展をみたのである。

..(6)薬の販売高
 三澤家は、売薬によってどれくらいの収入を得ていたのだろうか。その参考になるのが、三澤家蔵『賣藥製造販売髙帳』である。これは、三澤家で扱っていた薬の製造高と販売高を記したもので、現在三澤家には、明治23年(1890)から明治41年(1908)までのものが部分的に残されている。この文書をもとに、薬の販売高を表にしたのが、資料4である。
 これをみると、年間千円程度であった販売高が、明治30年(1897)から、3千円台に跳ね上がっている。その後明治41年には4115円に達している。販売高急伸の理由は現在明らかにできていないが、明治30年代の10年前後が三澤家にとって発展の時期であったことだけは指摘できるだろう。
 現当主の三澤良信氏によると、薬の製造販売を行っていたのは明治期までで、大正に入ってからはほとんど製造しなくなったという。薬の収入で土地を購入し、それを貸すことによって利益を上げ、それが本業になっていったとのことである。先に述べた明治後期に売薬で得た収入を元手に、新たな事業へと展開していったさまがうかがえる。

.5.売薬業と信仰
 富山の売薬業者たちは、商売繁盛や旅の安全を願って神農を祀ってきたことが知られている。神農とは、医薬の神または商売の神とされている神で、医薬業関係者や売薬商人の信仰を集めてきた(八木橋伸浩 1999「神農」 『日本民俗大辞典』(上) 吉川弘文館 p.893)。薬種問屋が多く軒を連ねる大阪市中央区道修町の少彦名神社は、「神農さん」とよばれ、毎年11月22・23日に神農祭が挙行されている(八木橋、前掲)。また、売薬業者の信仰として、正月になると床の間に神農の掛け軸をかけるか、置物を飾って、鏡餅を供えるという習俗も知られている(玉川しんめい 1979 『反魂丹の文化史〜越中富山の薬売り〜』晶文社 p.124)。
 信州伊那部の三澤家では、このような習俗は伝承されていないが、かつて神農を信仰していたらしいことをうかがわせる文書が三澤家に残されている。それは、『神農講連名預物控帳』『神農講永続出金帳』という2つの文書である。『神農講連名預物控帳』(写真9)は、天保13年(1842)のものである。この文書によると、神農講は中・河東・河西・南の4つの組に分かれており、すべての組を合わせて174名の名前が見える。この文書は、講の所有物を組から組へ引き継ぐ際の控え帳と思われ、中組の人名中に三澤氏の名前が見える。
 『神農講永続出金帳』は文久2年(1862)のものである。この文書は、はじめに「神農講再興規定之事」とあり、金銭面にかんしての規定が記され、次に出金者の名前と金額が連なっている。ここでは神農講世話人のなかに、三澤氏の名前を認めることができる。神農講は薬祖神としての神農にたいする信仰集団であるとともに、薬種仲買組合や頼母子講的機能を担っている場合が多いことが知られている。詳細は稿を改めたいが、この神農講にも社会互助組織的な性格が認められる。
 以上からは少なくとも次のことが指摘できる。天保期から文久期の20年あまりの間に、伊那地域において神農講が中断をはさみながら活動しており、三澤氏がその中心的存在として活躍していたということである。当時、三澤家が売薬業もしくは薬種業を営んでいたかは確認できないが、神農の信仰的性格上、その可能性は非常に高い。いずれにせよ、三澤氏が神農を信仰していたであろうことは、「神農尊図」と表書きのある桐箱が現在三澤家に残されていることからもうかがえる。

.6.三澤家と「くすりの宿場」伊那部宿
 伊那部宿には、三澤家のほかに5軒の薬屋があった。そのうち、自家製薬を行っていたのは三澤家を含め3軒だったという。ほかの2軒は、売薬業から仕入れて売っていたらしい。三澤家以外の薬屋は、1軒は目薬および、咽の痛みに効く「今治散」という薬を作っていた。もう1軒は皮膚病の薬を作って売っていたらしい。またこれら2軒も、三澤家のように売子が行李を担いで各地(辰野、小野、塩尻あたりまでだという)を売り歩いていたようである。それぞれが異なる薬を扱ったので、互いの利害が対立することはなかったという。
 伊那部宿には、東京まで販売地域を延ばしていた三澤家をはじめとして、多くの薬屋が軒を連ねていた。今後、調査が進むに従って、伊那部宿の売薬業の実態が明らかになっていくと思われる。

.まとめ
 以上、信州伊那部の薬売りについて、三澤家を中心に述べてきた。三澤家は、遅くとも安政年間には売薬業を始めていた。「しょいあきない」すなわち富山の薬売りとおなじ配置販売をおこなうとともに店頭販売も手がけ、また遠方の大店にも大量の薬を卸していた。卸先のなかには、銀座にあった目薬「精錡水」で知られる岸田吟香や「寶丹」で有名な守田治兵衛も含まれており、三澤家の売薬業の規模をうかがわせている。三澤家の売薬の形態や規模と、伊那部宿の他の4軒の売薬業の存在から、筆者は三澤家を中心とした伊那部宿の売薬業を総称して、「富山売薬」「大和売薬」同様、「伊那部売薬」または「伊那売薬」としてもよいのではないかと思う。今後のさらなる調査研究が待たれる。

<謝辞>
 本稿執筆にあたって、三澤良信氏にはお忙しいなか、貴重な資料を見せていただくとともに、様々なご教示をいただきました。あらためてここに深く謝意を申し上げます。

.注
ⅰ Hypochondria 心気症であると思われる。
ⅱ 肺病、多くは肺結核をさした。
ⅲ 「暴瀉病」とは、伝染病コレラのことである。
ⅳ 薬の法的規制については、薬史学の諸文献に詳しいが、拙稿(越川次郎 1999 「家伝薬の諸相とその変容〜大雄山最乗寺の『大雄丸』を事例として〜」 『民俗学論叢』14号)でも取り扱っているので、参照されたい。
ⅴ このような家庭内製薬が実質的に不可能となったのは、昭和51年(1976)に施行されたGMP(医薬品の製造と品質管理の基準)による。詳細は、拙稿(越川前掲)を参照されたい。
ⅵ 「加賀の秘薬」は、「紫雪」「烏犀円」「万病丸」とされる(鈴木昶前掲書、p.4)。

.図版キャプション
写真1 『醫道日用綱目』 (三澤家)
写真2 切丸器(三澤家)
写真3 成丸器(三澤家)
写真4 薬懸帳(三澤家)
写真5 『養血圓 皇國壹番簿』(三澤家)
写真6 「養血圓」引札(早稲田大学図書館)
写真7 「養血圓」看板(日本民家園)
写真8 『神農講連名預物控帳』 (三澤家)
資料1「薬懸帳」に記された地域と薬の名称・納品数
資料2 「養血圓」 委託販売の取引範囲
資料3 「賣藥請賣約定書」三澤家文書
資料4 三澤家 売薬販売高


(『日本民家園収蔵品目録4 旧三澤家住宅』2005 所収)