長野県長野市上ケ屋 水車小屋民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告書は、日本民家園が長野県長野市上ケ屋(ながのけんながのしあげや)の水車小屋について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成25(2013)年8月20日と21日に行った。聞き取りに当たったのは畑山拓登、お話を聞かせていただいた方は次の通りである。
  丸山勝さん   水車小屋があった池平集落に在住   昭和19年(1944)年生まれ
  大日方福栄さん 池平地区の上流にある軍足集落に在住 昭和5年(1930)年生まれ
お二人は、長野市上ケ屋に現在もお住まいであり、聞き取りも同所で行った。なお、大日方さんは、水車小屋のあった池平の出身ではないが、池平の上流に位置する軍足で育った方である。池平の水車小屋が現地にあったころの状況を覚えており、また軍足を含めた旧芋井村の水車小屋についても詳しいため、一緒にお話を聞かせていただいた。なお、聞き取りの他、移築前に撮影された記録写真も補助資料として活用した。
 これに先立ち、平成16(2004)年2月22日には旧所在地の現況確認を行っている。担当したのは田中洋子(当時公益財団法人文化財建造物保存技術協会より当園に派遣)である。
3 現地の言葉・言い回しについては、片仮名表記またはかっこ書きにするなど、できる限り記録することに努めた。片仮名表記としたのは、次のうち聞き取り調査で聞くことのできた語句である。
  建築に関する用語(部屋・付属屋・工法・部材・材料等の名称)
  民俗に関する用語(民具・行事習慣等の名称)
4 図版の出所等は次のとおりである。
  1,17               小澤・畑山作成。
  2,24,35              佐塚・畑山作成。
  3,7,10~15,23,27,29~32,34,36,37 平成25(2013)年8月21日、畑山撮影。
  4,33               平成25(2013)年8月20日、畑山撮影。
  5,8,19              小澤・佐塚・畑山作成。
  6,28               昭和45(1970)年の夏ごろ、関一撮影。
  9,16,20~22,25,26         昭和45(1970)年12月1日、移築工事に伴い当園撮影。
  18                大野敏作成。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現も含まれていることがある。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 日本民家園の水車小屋は、長野県長野市大字上ケ屋(あげや)字池平(いけだいら)より移築された。上ケ屋は、もともと上ケ屋村という村であったが、明治22(1889)年4月1日の町村制施行により入山村・広瀬村・桜村・泉平村・鑪村(たたらむら)・富田村と合併して芋井(いもい)村となった。
 旧芋井村は東西約7.5km、南北約8.3km、面積約32.62k㎡で、中山間地に36余りの集落が点在していた。標高の最高点は飯縄山(いいづなやま、1,917m)で、そこから裾花川(すそばながわ)へ下るように傾斜地が続いている。飯綱高原を中心に池や湖、湿原が点在しており、飯縄山の雪解け水に恵まれた土地である。この芋井村は昭和29(1954)年4月1日に長野市へ編入された。
 上ケ屋の中で最も古い集落は一区の平で(注1)、ついで古いのが二区の荒井である。池平集落は当初荒井に属していたが、独立して第十五区となった。池平は14戸ほどの集落で全戸が農業に従事しており、米や麦を作っていた。
 今回の調査では、池平在住の丸山勝(まるやままさる)さんと、池平の上流に位置する軍足(ぐんたり)在住の大日方福栄(おびなたふくえ)さんにお話をうかがった(大日方さんは池平の水車についてもよくご存知である)。この稿ではお二人のお話を元にして、池平にあった当園の水車小屋のことを中心に、軍足の事例(注2)と比較しつつ記述していくことにする。丸山さんは昭和19(1944)年生まれ、大日方さんは昭和5(1930)年生まれである。したがって、時代的には昭和10年代から40年代の話が中心である。
 なお、現地では水車小屋のことを「クルマヤ」と呼んでいる。文化財の指定名称は「水車小屋」であり、当園でもこの名称を用いているが、本稿ではクルマヤで統一した。

.1 クルマヤ
..(1)概況
... 呼称
 水車小屋のことを「クルマヤ」といった。これは軍足集落でも同様で、水車や水車小屋という言葉を使うのは学校の先生だけだった。

... 必要数
 旧芋井村では、米や麦、ソバなどを栽培していた。いずれも食べるには搗いたり粉に挽いたりする必要があったため、多くの集落でクルマヤを持っていた。割合としてはおよそ20戸につきクルマヤ1軒で、40戸以上の大きな集落になるとクルマヤは2軒以上必要となった。昔は電気がなかったため、クルマヤは貴重な動力だった。

... 建築の経緯
 池平は裕福な集落ではなかったため、祭りなどさまざまな行事を荒井集落と一緒に行っていた。池平にクルマヤを作る前は、この荒井か平集落のものを借りていたようである。池平は他の集落から離れていたため、自動車がない時代は40~50kgほどの荷を背負ってかなりの距離を歩かなければならなかった。それでは大変だということで、金を出し合ってクルマヤを建てることになったようである。旧芋井村では、どの集落も似たような経緯で建てていた。池平にできたときは、すでに周りの集落にもあったため、他からクルマヤを借りにくることはなかった。
 池平のクルマヤは旧芋井村の中でも立派な部類だった。これを手掛けたのは平集落の大工、中澤政親(なかざわまさみ)さんの先祖ではないかとのことだが、建築年代などはっきりしたことは不明である。旧芋井村では、どこも地元の大工に頼んだため、内部の様子や作りはいずれも似通っていた。

... 立地
 池平集落に涼森神社(すずもりじんじゃ、現在は諏訪神社となっている(注3))があり、この神社に面した道路から下の土地を「蟹沢(がんざ)」といった。クルマヤが建っていたのはこの場所である。日当たりも良く、湿気も少ない土地だった。土砂が流れたためわかりにくくなってしまったが、神社前の道からクルマヤへ下る道はまだ昔の面影を残しており、クルマヤの基礎であった石垣も残っている。
 神社とクルマヤのあいだに信仰的な関連があったかどうかは不明である。また、この場所がもともと共有地だったのか、個人の土地だったのか、それも不明である。クルマヤの立地場所は川の近くということになるが、神社前のこの土地がちょうど適した場所だったため選ばれたらしい。場所としてはできれば集落の中央が望ましいが、池平の中央部周辺には川がなかった。

... 利用の終了
 旧芋井村に電気が通ったのは大正時代の終わりごろだった。それまで動力としてはクルマヤしか頼るものはなかったが、これ以降、次第にクルマヤが姿を消していった。逆に言えば、電気の開通が遅い地域ほどクルマヤが残った。
 もう一つ、クルマヤを取り巻く状況を大きく変えたのが高度経済成長である。昭和40年代以降、さまざまな農機具が機械化された。農協の斡旋により、精米作業は発動機で動かす「還流式」という精米機で行うようになった。ムシロは使わなくなり、わら縄もホームセンターで安く買えるようになったため、わらはたきをする必要もなくなった。クルマヤはこうして昭和40(1965)年ごろを境に使われなくなっていった。
 各集落のクルマヤは「誰も管理しないなら残しておいてもしょうがないのでつぶしてしまおう」ということで、次第に取り壊されていった。池平でも水を止めて「ほっぽりかえされ(放置され)」、乾燥した水輪は徐々に劣化していったが、内部はあまり傷んでいなかった。

..(2)設備
... 水輪
 クルマヤは水輪に水がかかる位置によって「上掛け式」「胸掛け式」「下掛け式」の3種類に分けられる。低い土地では、水輪の下に水を流す下掛け式となる。旧芋井村のような山間では段差を活かし、トヨ(樋)を引いて上から水を落とすため上掛け式か胸掛け式となる。また、入口側から見たときに水輪が回る方向によって、「右回り(時計回り)」と「左回り(反時計回り)」に分けられる。(※図17参照)トヨの水を入口側から見て水輪の左側に落とせば左回り、右側に落とせば右回りとなった。軍足のクルマヤは胸掛け式の左回りだったが、池平のものは上掛け式の右回りだった。いずれの場合にも、水を受ける羽根板は水平ではなく斜めに取り付けてあり、落ちてくる水が溜まりやすい構造になっていた。
 池平でも軍足でも、水輪の回転軸に使っていたのはケヤキである(注4)。ケヤキは固くて粘りがあるため、旧芋井村ではほとんどのクルマヤで使っていたが、ケヤキの特性上、伐採後10年ほど乾燥させてから製材しなければ木が狂うといわれていた。
 軍足では、昭和30(1955)年になる前に回転軸を取り換えた。このときは軍足中の人々で新屋集落まで出かけ、木材を担いできた。

... 機能
 クルマヤには3つの機能があった。粉挽き臼、搗き臼、わらはたきである。池平では、入口から見て左から粉挽き臼、搗き臼、わらはたきが水輪と平行に並んでいた。軍足では、入口側から粉挽き臼、搗き臼、わらはたきの順番で水輪に対して垂直に並んでいた。いずれも搗き臼は2基だったが、中には4基もある大きなクルマヤもあった。
 搗き臼とわらはたきは、杵をはね上げることで水輪の回転運動を上下運動に変える。回転軸に付いているはね上げ部分を「ハネ」といった。杵の材質は不明である。旧芋井村には栗もケヤキもたくさん生えており、こうした木や水に強い松などを使ったのではないかとのことである(注4)。わらはたきの杵はとても重く、1人で持ち上げるのは大変だった。受ける台は石だったため、杵を落とすと危険だった。台石は表面が平らで、重い杵で1日打っても動かないようにしなければならない。そのため直径50cm以上の大きなものを選び、地中に埋め込んだ。
 挽き臼は上臼の周囲に木が歯車状に取り付けてあり、これが回転軸の歯車と噛み合うことで稼働する。これらの歯車のことを「マンリキ」という。稼働させるときはT字型の木の棒で臼を押し、歯車にかませる。停止させるときは逆に、臼と歯車との距離を離す。臼の底面には筋が切り込んであり、床板に取り付けた桟(角材)に沿いながらちょうどよい場所まで動くようになっていたが、臼は非常に重く、手だけで押しても動かなかった。

... 照明
 クルマヤに電気は通っていなかった。そのため、夜は提灯や裸のままのろうそくを持っていった。内部は暗かったため、夜中に行うヌカバナシ(26頁参照「搗き臼」)の作業は嫌だったという。

... 修理
 大規模な改修はしたことがなかったが、日常的な修理は行っていた。雨漏りした場合など、職人を呼ばずにやれる程度のことは気付いた人がその場その場で対処した。
 もう少しまとまった修理の場合には、職人や、専業ではないがそうしたことの得意な人を呼んだ。「ダイクサン」「イシヤサン」「カベヌリサン」「クズヤネヤサン」と呼ばれる人たちが旧芋井村のほとんどの集落にいて、修理する箇所に応じて呼んできた。
 ダイクサンは、木工関係全般を扱った。平集落の中澤政親さんや荒井集落の丸山一夫(まるやまかずお)さんなどがいた。ただし、いずれもクルマヤ専門ではなく、大工として何でも扱えるという人々だった。ハネが「ヘチガッタリ(曲ったり)」したときなど、具合が悪くなったらすぐに見てもらえた。
 イシヤサンは、クルマヤの土台や石臼を扱った。挽き臼のメキリも行っていた。「メキリ(目切り)」とは粉挽き臼内部に筋を付けることで、しっかりやっておかないと石臼が駄目になってしまった。どの程度の頻度で行っていたか不明だが、粉の出が悪くなると頼んでいたという。池平にはイシヤサンが2人いた。農業と兼業で石に関する仕事全般を行っており、建物のドダイイシ(礎石)や祭りの幟旗を立てるためのクツイシ(沓石)、もち搗きの臼、庭の石垣などを扱っていた。軍足にもこうした人が1人か2人はいて、挽き臼のメキリなどを依頼していた。
 カベヌリサンとは、左官屋のことである。クルマヤの壁も農家の壁も土壁で、カベヌリサンが作った。壁を塗るときは芯として、1間(180cm)の壁ならまず縦に6本ほど細い木を取り付ける。この間に縦横2cmくらいの升目ができるよう、ヨシやアシをわら縄でかき付けていく。この2cmくらいの升目のことを「小目」といい、この作業のことを「小目をかく」といった。普通の縄が直径1.5cmほどであるのに対し、このとき使う縄は非常に細いものである。長さも、通常は30尋(約45m)を1束とするのに対し、壁用の縄は40尋(約60m)を1束とする。なお、壁土を練る作業は依頼した側も手伝った。
 クズヤネヤサンとは、「クズヤネ(茅葺き屋根)」を葺く職人のことで、屋根の修理も行っていた。池平では主に小麦を使ったが、「利場所(ききばしょ)」には茅を用いた。いずれも材料は地元で調達したが、稲わらを使用することはなかった。なお、茅を押さえる押しぼこのことを「オシボク」といった。
 こうした職人は多くの場合1人で作業したため、依頼する側も手伝える仕事は手伝った。

..(3)管理
... 申し合わせ
 クルマヤは集落全体で共同管理しており、申し合わせ事項は集落ごとに異なっていた。
 池平では、利用に関することは全て「常会(寄り合い)」(34頁参照)で相談して決めていた。

... クルマヤバン
 クルマヤを使用する当番の家を「クルマヤバン」といった。1日ごとの交代で順番はあらかじめ決まっており、終わると次の家に鍵を渡して引き継ぎをした。ただし、冠婚葬祭など予定外のことがあった場合は、順番を代わってもらうこともあった。
 軍足では、クルマヤバンの順番を地元で漉いていた和紙に筆で書いていた(33頁参照)。

... 経費
 池平には特に大きな家がなく、1日ごとの交代制だったため、経費は全戸均等割だった。
 軍足では、1口いくらで経費を集めた。1口当たり1昼夜利用することができた。家族が多ければ2口申し込んで2昼夜連続で使い、少なければ半口申し込んで半日使うというように、使用時間に応じて経費を分担した。1口当たりの金額は時代によって変わった。
 集まった経費はクルマヤの修理や軸受部分に差す油の購入に充てた。
 油は、朝の作業を始める前に必ず差した。何の油を使っていたか不明だが、旧芋井村では菜種やゴマを栽培していたため、そうした油を使ったのではないかとのことである。軍足では、専用の油を長野の市街地から買っていた。粘り気のあるコールタールのような油だった。
 クルマヤにかかる税金(いわゆる水車運上)が過去にあったかどうかはわからない。

... 清掃
 クルマヤは共有物だったため、皆できれいにして大事に使っていた。使ったあとは必ず本人が掃除した。汚すと次の人が困るということもあったが、順番が決まっていたため、散らかしたままにすればやったのが誰かすぐにわかってしまった。
 臼やそのまわりの掃除には「ミゴボウキ」を使った。これは稲わらのうち、米が付いていた部分だけを25cmほど切り取り、束ねて作ったものである。

... 施錠
 盗難対策として必ず鍵を掛けていた。木製の柄に「Γ」字型の鉄製の金具が付いたもので、クルマヤバンの交代時に次の家に渡した。クルマヤを使わなくなった後、この鍵は公民館に置いてあった。
 軍足でも同じように鍵を掛けていた。搗き臼と挽き臼のある作業場には鍵をかけていたが、わらはたき場の部屋には鍵がなかった。鍵を掛けていて困るのは、クルマヤまで来て鍵を忘れたことに気付いたときである。そんなときは戻るのも面倒なため、鍵のかかっていないわらはたき側から屋根裏に上り、水輪をまたいで中に入った。このように、鍵が掛かっていても入ろうと思えばどこからでも入ることができた。
 なお、鍵を掛けるだけで、夜中に見まわりをするようなことはなかった。

... 水の管理
 旧芋井村の水はほとんどが飯縄山から来ており、クルマヤも基本的にこの水で回っていた。飯縄山は雪が多く、周囲に7つほどある池からは枯れることなく水が流れ出していた。そのため季節によって水量が極端に変化することがなかった。
 池平のクルマヤは、達橋沢(たっぱしざわ)から水を引き込んでいた。取水口は涼森神社脇の坂を登ったところにあり、落差のある地形を選んで水路を作っていた。この水路は現在U字溝となっているが、かつては「泥側溝(土に溝を掘ったもの)」だった。そのため秋になるとよく落葉が詰まり、「オチバサライ」を行っていた。その他、年に3、4回、春先などに各家から人を出し、鎌を使って水路周辺の草刈りも行っていた。こうした作業をするため、水路に沿うように管理道路が設けられていた。この水路の水は現在も農業用水として使用されており、草刈りも行っている。管理道路は車道となっているが、涼森神社前の道が一度拡幅されたため、水路の流れは多少変わった。
 水が細くなる渇水期には本流から多く取り入れ、昼間は水田の方に水をまわし、夜はクルマヤの方に多くまわした。このように、田に水を引く時期でもクルマヤを止めることはなかった。
 水量の調節は達橋沢の取水口で行った。使用するのは付近の河原に転がっているゴロ石と「ぼろっきれ」である。こうしたものを組み合わせ、その場その場で調節した。現在も同じ方法で水田に引く水の量を調節している。軍足のクルマヤは、水輪上部にある掛け口でも水量を調整できる仕組みになっていた。旧芋井村のクルマヤはほとんどがこのように水路とトヨの2カ所で調節できるようになっており、早く搗きたい場合は水を多めに出すなど自分で調整しながら作業を行っていた。水量さえ調節すれば、2基の搗き臼、挽き臼、わらはたきを同時に動かしても十分に回った。
 土砂災害に対応するため、大雨が降った日はクルマヤバンが取水口まで行って水路の水を細くすることになっていた。出来ないときは他の家に頼んだりもしたが、皆農家で自宅にいることが多かった上、互いの事情はよくわかっていたため、できる人が自発的にやっていた。

... 冬の管理
 掃除のときはもちろん、冬などの作業がないときも水を止めた。「クルマヤの水を止めてこい」と父親に言われて、子供たちも止めに行ったという。
 水に関わる作業は冬が一番大変だった。冬に水を止めるとクルマヤに氷やつららが着いて回らなくなる。再び回すときは氷を落とさなければならないが、この作業は非常に危険で、クルマヤの原理がわかっていないと怪我をすることになった。氷を落とすときは一番高い所からやらなければならない。低いところから始めてしまうと重心が上になるため、途中で水輪が回転し、重い氷が上から落ちかかってくるからである。
 一方、雪の方はそれほど手がかからなかった。池平は旧芋井村の中では暖かく、雪が少なかったからである。雪下ろしをしなくても、柱が丈夫だったため雪でつぶれることはなかった。また、中は隙間風で寒かったものの、雪囲いをすることもなかった。入口までの雪かきは必要だったが、これについてはその日のクルマヤバンがやることになっていた。

..(4)利用
... 搗き臼
 クルマヤで一番利用されたのが搗き臼である。小麦や大麦も搗いたが、最も利用の多かったのは米であり、秋から冬によく搗いた。旧芋井村では杵で搗くことを「ドヅク」といい、搗いた米のことを「ドヅキ米」といった(注5)。杵で搗いた米は熱を持たなかった。
 池平のクルマヤは1臼で1斗5升(約22.5kg)、2臼備わっていたので一度に3斗の米を搗くことができた。昔は大家族だったが、1日1升食べたとしても2臼分搗けば1カ月ほどは大丈夫だった。戸数が多い集落の場合、一度にたくさん搗いておかないと次の当番が来るまでに米がなくなってしまう。14戸ほどしかない池平では、クルマヤバンが2週間に1度まわってくるため、一度に1臼分搗けば十分間に合った。
 米を精白するには、まず自宅でスルス(磨臼)を使い、もみを玄米にする。もみの状態からでも搗くことはできたが、通常は玄米にした上でクルマヤに運んだ。クルマヤに行く時間は特に決まっていなかった。精白するには4、5時間搗くことになるため、基本的にクルマヤを動かしているあいだは別の仕事をした。
 米を搗くとコヌカ(粉糠)が出てくる。これが溜まると均等に搗くことができないため、途中で取り除く必要がある。この作業を「ヌカバナシ」といった。まず、臼から杵を上げる。そして、米をすくい取る。このとき使用するのは「メンパ」と呼ばれる小判型の弁当箱である。その後、トーシ(フルイ)でコヌカだけ振るい落とし、再び臼に入れる。この作業は、搗き臼が2基あることを活かして効率的に行った。すなわち、1臼目の米はヌカバナシをしたあとミの中に入れておく。2臼目の米はヌカバナシをしながら1臼目の石臼に直接入れる。その後、空いた2臼目の石臼に、ミの中に入れたおいた1臼目の米を入れるのである。
 夕方から米を搗き始めると、夜中の10時ごろヌカバナシに行くことになり、提灯か裸ろうそくの灯りを頼りに作業を行った。クルマヤが家から遠いと大変な作業だった。
 1日の流れをまとめると次の通りである。
 (1) 朝、米Aを運び込み、搗き始める。
 (2) 昼、クルマヤに行き、米Aのヌカバナシをして再び搗き臼に入れる。
 (3) 夕方、米Bを運び込み、搗き終わった米Aと入れ替える。米Aは2回目のヌカバナシをして家に持ち帰る。
 (4) 夜中、クルマヤに行き、米Bのヌカバナシをして再び搗き臼に入れる。
 (5) 翌朝、搗き終わった米Bの2回目のヌカバナシをして家に持ち帰る。
 年末は米を搗く量が増えるため、クルマヤが混雑した。そのため水量を調整し、1昼夜で3回搗けるようにした。3斗分を3回、計9斗搗いたわけである。このように3回分の作業ができたことを「3ワタリ(渉)できた」といった。池平に比べ戸数が多かった軍足では(約30戸)、年末になると非常に混雑した。そのため、冬は米が悪くなりにくいこともあって、年末の分も事前に搗いておいた。しかし、家族が多い家はそれでも追いつかず、「他人の口を借りて」、すなわち他の家と助けあって作業していた。
 クルマヤで使う道具としては、次のようなものがある。
 (1) ワテ
 軍足では精白の際、米の上に「ワテ」を入れた(※図版32参照)。これは細いわら縄で作った輪で、この中心に杵が落ちるようにする。ワテがあると臼の中で米が循環するため効率が良かった。
 一方、池平ではこうしたワテや搗き砂のようなものを入れることはなかった。
 (2) メンパ
 臼からすくい出す専用の道具はなく、「メンパ(小判型の弁当箱)」や柄杓など、各家庭から使いやすいものを持っていった。
 (3) トーシ(注6)
 ヌカバナシには「トーシ(ふるい)」を使った。
 (4) ミ(箕)
 ヌカバナシの際、振るい終えた米を一時的に置くのに「ミ」を使った。1臼分の米が入るミを「1斗5升のミ」といった。戸隠に竹細工の店があり、旧芋井村の農家は皆その店で購入していた(図版33参照)。
 クルマヤに唐箕がなかったため(注7)、クチアケ(10頁参照)されたソバの殻と実を分別する際に用いた。少量ずつ箕の中に入れ、上下させて風で殻を飛ばした。
 (5) カマス(叺)
 クルマヤへ運びこむ作物は「カマス(わらで編んだ袋)」に入れた。米の場合はカマスに3斗(約45kg)の玄米を入れ、ショイコに縛って運んだ。軍足では、運ぶのは子供(小学校高学年~中学生くらい)の仕事だった。
 (6) ショイコ
 クルマヤ付近に作物や道具を保管しておく場所はなかった。また、梁の上などに道具を置いておくこともなかった。そのため、道具や作物は各自「ショイコ」で運んでいた。
 電気式保管庫がない時代、搗き終えた米は土蔵に保管していた。土蔵内はある程度温度が一定しているが、気温が高くなると虫が入ってくるため、そのような時期は米を大量に搗かないようにした。

... 挽き臼
 挽き臼を使って米、小麦、ソバを粉にした。そば粉を作る作業も米搗きと同じくらいよく行われていた。ただし、クルマヤバンのたびに毎回行うわけではなく、ある程度の量をまとめて作り、保存しておいた。
 米の精白とは異なり、挽き臼を使う場合にはそばについて行った。そば粉を作る場合には、まずミガキを行う。「ミガキ」とは、ソバの実についているメハナを落とす作業である。「メハナ」とは、ソバの花弁が干からびて付着したもので、搗き臼に実を入れ、短時間搗くときれいに取ることができた。次に、挽き臼を使用してソバの「クチアケ」を行う。実と殻を分ける作業である。挽き臼の上部には穀物を入れるジョウゴが付いており、ジョウゴと臼の間の台形の部分(※図版34・35参照)に落ちる量を調節するための木の板と流量を見るための穴が設けられている。クチアケの作業では、実がたくさん落ちるようにこの板を調節する。そうすると粉にならず、実と殻がうまく分かれるのである。続いてミを使い、殻を取り除く。丁寧に殻を取ると白いそばが出来、そうでないと黒いそばが出来る。旧芋井村では、昔は真っ黒なそばを食べていた。殻が若干混ざっている方が良い風味になるという。最後に、同じく挽き臼で製粉する。クチアケの場合と異なり、仕切板を調整して少しずつ落ちるようにする。「出てこないんじゃないか」と思うぐらいごく少量ずつ落とした方が良い粉になった。

... わらはたき
 わらはたきは脱穀後に行うため、秋から冬にかけての仕事である。クルマヤでは専用の杵を使い、手に持ったわらを回転させながら、位置を変えてはたいていった。部屋が暗いとできない仕事であるため昼間に行った。翌日すぐに使う場合は、人によっては半日かけて作業した。わらは自宅から背負って行き、きれいにはたいて持ち帰った。

..(5)その他
... 信仰
 クルマヤの柱や梁、扉などに寺社の御札が貼ってあった。集落としてやっていたものではなく、心ある人が神社などに参拝した折、購入していたようである。
 年中行事としてクルマヤで行うものはなかった。

... 事故・事件
 昔は着物や半纏の裾などが巻き込まれ、事故になることがあった。粉を掻き出すときに体を奥へ入れるためである。集落によっては手をはさんで指をつぶしたり切断したりという事故の他、死亡事故もあった。池平ではそうした大きな事故はなかったが、ある人がマンリキ(歯車)に肩を引っ掛け、6時間後ぐらいにやっと引き上げられたということがあった。
 クルマヤで火事が起きたことはなかった。昔はキセルで煙草を吸っていたのでわらに火がつくことはあったが、水路がそばにあるため消火用水を貯めておくようなことはしなかった。
 戦後の食べ物がない時代にはクルマヤによく泥棒が入った。クルマヤが建っているのは沢の近くだが、そうした場所は人家から離れていたからである。一番被害が多かったのは泉平集落で、影山の小名田(おなた)地籍のクルマヤも泥棒が入ることで有名だった。池平のクルマヤは比較的人通りの多い道沿いにあったため泥棒の話はなかったが、軍足では被害があった(注8)。あるときヌカバナシをするため夜中にクルマヤへ向かったところ、気付いた泥棒が逃げていったという。地元の人ではなく、他から盗みに来る例が多かったようである。

... クルマヤと子供
 クルマヤは誰でも出入りできたが、中で遊ぶ子供はいなかった。親がそのようにしつけていたからである。ふざけて挟まると危険だからということもあるが、クルマヤは作業する場所だと子供たちも理解していた。
 軍足では、学校帰りによく子供たちがクルマヤに落書きしていたという。

... 唐臼
 水力を利用するものとして、クルマヤの他にもいわゆる唐臼やバッタリと呼ばれるものがあった(独自の呼び方は特になかった)。片方に水を受ける部分を設け、もう片方に杵を取り付けた木製のシーソーのようなものである。水が流入すると重みで下がり、反対側の杵が上がる。水が排出されると軽くなって上がり、杵が臼に落ちる。庭に清水が流れている家では、こうしたものを個人的に設けているところがあった。流れが細いと水が溜まるのに時間がかかったが、自分の家の分だけであればこれで事足りた。

.2 衣食住
..(1)住
... ウマヤ
 旧芋井村周辺では、家の中にウマヤがあった。ゲンカンを入るとすぐ左がフロバ、その次がウマヤ、その隣が若い人のネドコになっている家が多かった。ウマヤが若い人のネドコ近くにあったのは、馬の世話がそうした人の役目だったからである。家によっては、ウマヤはオカッテの先、ロウカを進んだところにあった。米のとぎ水を馬にやるには便利な場所だった(注9)。

... 敷物
 わらで作ったムシロを「ネコ」という。池平も軍足も畳のある家はほとんどなかったため、ネコは貴重な敷物だった。夏は床板のまま、冬はネコを敷いて暮らしていた。家によっては食事をする部屋に敷いていた。

... 雪囲い
 各家で雪囲いを行っていた。隙間風を防ぐことと、雪から壁を守ることが目的だった。特に家の北側は屋根から落ちる雪が解けずに積もってしまうため、雪囲いが必要だった。
 材料として使ったのは稲わらである。束にして上下2カ所縛ったものを家の裏や脇に立て、その上から同じく稲わらの束を横に取り付けた。

..(2)食
... 主食
 朝食にはご飯を炊いたが、昼食は朝の残りもの、夕食は主に「粉もの」を食べていた。
 大麦を混ぜない米のご飯を「ギンマイ」という。ギンマイを食べるのは祭りやお盆、来客時などだけで、普段は大麦を混ぜて食べる家が多かった(大麦を押し麦や挽き割り麦にすることはなかった)。割合は大麦3に対して米7、もしくは5分5分だった。ご飯が残った場合はみそ汁に入れておじやなどを作り、残さないように食べた。
 夕食はほとんどどの家庭でもそばかうどんだった。いずれもクルマヤで挽いた粉から作る手打ちである。特によく食べたのは「ブチコミ」「ブッコミ」である。これは山梨県のほうとうに似たもので、カボチャ等の野菜とうどんをみそ汁に入れ、鍋で煮て作った。旧芋井村では、そばにもみそ汁を具ごとかけて食べていた。50cmほどの柄の付いた竹製のトウジカゴに1膳分のそばを入れ、これを囲炉裏の鍋に入れて温めるのである。これを「オトウジ」「トウジル」「トウジソバ」などという。今でも安曇野あたりではトウジソバとして売っている。
 小麦粉で作るオヤキも主食の一つだった。ソバを栽培している地域ではそば粉でも作り、現在も食べている。

... 副食
 秋になると「タクアンヅケ」を作った。コヌカと塩を混ぜ、自家製の大根を漬けたものである。大根は現在も栽培している。

... 調味料
 みそは各家で作っていた。みそ作りに使う豆をつぶす道具と大きな釜は集落で共有のものがあり、順番を決めて使用していた。
 煮た大豆をつぶして手で丸めたものをみそ玉という。形は直径10cm、長さ15cmほどの円筒形である。このみそ玉を縦に並べ、4本の縄で四方から押さえ、みそ玉とみそ玉のあいだをわらで結んではずれないようにする。これを家の中に吊るして乾燥させるとともに、ある程度発酵させてから仕込んだ。

..(3)衣
... 布団
 大人の布団は「スベブトン」だった。「スベ」とはわらの茎から枯れ葉を取り除いたものである。スベを作るときはわらの頭を縛り、「ワラスグリ」という小さな熊手型の道具で根を掻き出す。この作業を「わらをすぐる」という。このスベを木綿の布団袋に詰め込んだ布団は、夏は涼しく、冬は暖かかった。ただし、使っていると次第に中身がつぶれてしまった。
 乳児用には「ヌカブトン」を使った。これはアワのぬかを布団袋に厚く詰めたものである。母親が働いている間、わら製の「ツグラ」にこのヌカブトンを敷いて乳児を入れ、着物で囲って首だけ出るようにしておいた。アワのぬかは細かいため、おしっこをよく吸収して安心だった。このヌカブトンはスベブトンと異なり、長期間使用しても中身がつぶれなかった。

... 枕
 枕の中身はソバ殻だった。三角形のソバの実は身を取ったあと中が空洞になるため、弾力があって軟らかい。また、この空洞部分に空気が入るため熱を持たない。そのため、枕の中身には最適だった。ソバの育たない地域では米のもみ殻を使っていたが、とても硬かった。また、コヌカを使った枕も旧芋井村では使われなかった。
 ソバ殻を取るには、身と殻を分ける「クチアケ」作業の折、実がたくさん落ちるよう挽き臼を調整する。そうすると粉になることなく、身と殻がうまく分かれた。
 作った枕は自分たちで使っていたため、売っていた人はほとんどいなかった。

..(4)暮らし
 掃除用に「ハキボウキ」や「ニワバキホウキ」を自作した。植物名ははっきりしないが、旧芋井村では「草ボウキ」といい、家の庭にこうしたホウキを作るための植物が植えてあった(注10)。

.3 生業
..(1)農業
... 稲作
 池平には水田が多かった。米はクルマヤで搗いて自家分とした他、供出制度があったときはほとんどの家で出荷していた。それが現金収入だった。
 春先から8月までの間は、どの集落でも田に水を引くため、沢の水量が減った。そのため、水をめぐって大小の水争いがあった。けんかするわけではなかったが、見ていないうちに勝手に自分の田に引いたり、やられた側がやり返したりした。ただし、事前にしっかり話を付ければ互いに譲り合った。

... 畑作
 傾斜地が大部分を占める旧芋井村では畑作が盛んで、小麦や大麦、ソバ、戦後はホップ、葉タバコなども栽培していた。麻も昭和40(1965)年近くまで地区の半数程度の家で栽培していた。
 池平周辺は比較的標高が低く気温が高かったため、ソバは栽培することができず、主に大麦と小麦を栽培していた。大麦は米に足して麦飯にした他、家畜の飼料にもしていた。小麦は殻をむいて粉にし、うどんやすいとん、オヤキなどを作った。なお、麦の裏作には大豆を栽培していた。
 昭和初期はソバの栽培が非常に盛んだった。池平より標高の高い軍足では、ほとんどの家で栽培していた。池平でも、標高の高い飯綱高原まで1時間半ほど歩いて通い、ソバを栽培する家があった。火山灰土の飯綱高原はソバの栽培に適しており、土が軽いため農作業も容易だったが、距離が遠く作業には丸一日かかったという。なお、ソバには出荷時期によって「夏ソバ」と「秋ソバ」があった。

... 果樹栽培
 旧芋井村では、麦畑や桑畑がリンゴ畑に変わっていった。リンゴは病気にも冷害にも強かった。

... 家畜
 戦時中は、旧芋井村でもたくさんの馬が軍馬に取られた。そのため数は減ったが、戦後も昭和30年代前半ごろまでは多くの家で馬を飼っていた。貧しい家の中には馬の代わりに牛を飼う家もあったが、牛の方が動きが遅いため、作業の効率は馬の方がよかった。
 馬にスキを引かせて田畑を耕すことを「バコオ(馬耕)」という。代掻きの際は水が張ってあり、馬は進む道筋がわからないため誘導してやる必要がある。このとき前に立って引くと水に濡れてしまうため、鼻に2mほどの竹ざおを付け、橫に立って誘導する。これを「ハナットリ(鼻取り)」といい、馬の後ろでマンガ(馬鍬)を操る人を「心取り」といった。
 馬はこの他、水路などを作るときにも使い、鞍を付けて移動にも使った。馬ふんも庭へ出して積んでおくと良い肥料になった。
 えさを買うことはほとんどなかった。馬も牛も主なえさは草とわらである。朝は馬に乗って山へ行き、刈った草をつけて帰ってきた。子供たちは学校から帰ると、5cmほどに切った草やわらにふすま(小麦を粉にしたときに残る殻のくず)を混ぜ、水をまぶしたものを与えた。これを「ケーバ(飼葉)」といった。この他、コヌカや粟ぬかなども多少与えた。冬場は草がなくなるため、9月末になると1週間ほどフジッパ採りに行った。「フジッパ」とは葛の葉のことで、採ってきたものは葛のツルで家の脇や物置につるし、乾燥させた。また、わらも物置の2階などに保存した。冬のあいだはこうしたフジッパやわらをオシガマで切り、混ぜた上でえさにした。また、与える水には、米のとぎ水やそばのゆで汁等を使った。
 牛馬の他、ニワトリやウサギも飼われていた。ニワトリには大根の葉とコヌカを混ぜたものを与えた。ウサギのえさにはふすまが最適だった。

... 養蚕
 旧芋井村では養蚕を行っていた。そのため桑畑が多かった。

..(2)その他
... わら細工
 稲わらによりを付ける作業を「ワラナイ」といい、この作業をすることを「わらをなう」といった。1人では退屈なため、作業するときは「明日、うちにワラナイに来ないか」と隣近所に声をかけ、「今日こっちの家へきたら、明日はそっちの家」というようにやっていた。ただし、皆で協力して大量のわらをなうということではなく、それぞれ家で必要な分だけを作っていた。ワラナイは交流の場でもあり、世間話などをしながら作業し、疲れたらお茶を飲んで休憩した。
 こうしてなった稲わらを使い、さまざまなものを作った。縄、ぞうり、わらじ、そしてむしろも作った。旧芋井村ではむしろのことを「ネコ」という。このうち、機械織りのものを「ムシロネコ」といい、手織りのものを「ホンネコ」とか「ホン」という。このホンネコを織る作業のことを「耳のない猫をかく」という言い方をした。ネコは大きいものだと1枚で四畳半ほどあった。また非常に厚く、1枚織るためにわら束が8束(はっそく)ほど必要だった。

... 紙漉き
 旧芋井村大字桜の坂額(さかびたい)集落では、昭和初期まで「カズガミ」を漉いていた。「カズ」とはカジノキ(梶)のことで、傾斜地や水田の脇などに自生したカズを1.5mほどに刈り取り、煮て皮を剥いだものを叩いて原料にした。

... 採石業
 上ケ屋のバス停近くに狢郷路山(むじなごうろやま)という山がある。この山では昭和30年代終わりごろまで、長野市街の土木会社が2社ほど採石していた。当時は芋井村の大事な産業の一つだったが、ダイナマイトで砕いた石が家の庭まで飛んでくるようなこともあったという。
 砕いた石は1辺35cm、高さ50㎝ほどの四角錐形にして、1個あたり20~30kg程度になるよう加工した。この石のことを「ケンチ」といい、ケンチに加工することを「ケンチをとる」という。石垣に使われるもので、四角錐の底面を表にして積んでいった(現在はコンクリートで裏詰めしてから積んでいく)。しかし、コンクリートの普及により、ケンチを造る職人は次第に減少していった。

... その他
 旧芋井村にもかつては女性が働ける工場があった。しかし現在はなくなってしまったため、よほど良い産業が入ってこなければ、若者に「山に残れ」と言えなくなった。

.4 交通交易
 昭和10年代は、バスがあってもほとんど来なかったため、「下(長野市街)」に用があるときは歩いていった。停留所まで近い集落はまだよかったが、歩いて20~30分ほどある地域は大変だった。冬になるとバスも山の上まで登ってくるのが大変だった。
 青年団で会議があっても昔は地域の学校に集まるだけで済んでいた。しかし、昭和29(1954)年に芋井村が長野市と合併すると、役員は「下」まで行かなければならなかった。1人の場合は夜中に歩くこともあったが、青年団には女性もいたため、会議が遅くなるとなけなしの金でタクシーを呼んで送り届けた。そういうこともあるため、「下」の人に対して「ここまで登ってこい」とはなかなか言いづらいという。
 高等学校へ通うには、長野市街まで下りなければならなかった。元気のある男子は自転車で通ったが、帰り道は自転車を押して登らなければならないため大変だった。冗談で、「自転車100台購入して毎日山を下るときだけ乗っていき、100 台全部乗り終えたらトラックでまとめて回収したらどうか」という話もあった。「歩いても楽な平地に汽車やバスが早く発達し、歩くだけでも難儀な山間部に便利なものがなぜ出来ないのだ」と、子供ながら思っていたという。

.5 社会生活
... 家
 長男は家を継がなければならなかった。そのため「家の跡取り」という意識が強く、親の姿を見て学び、ときには親の代わりもした。中学生になると、父親の代理で集会や人足に出ることもあった。

... 常会
 「常会」とは寄り合いのことである。クルマヤのなくなった現在も行っており、公民館の修理費用の分担や行政との連絡など、さまざまなことを決めている。

... 共同作業
 集落の共同作業として、道普請や用水の清掃があった。
 道普請を行うときは、集落中どの家からも人が出た。今でも車道脇の草刈りなどを皆で行っている。
 5月3日には、くわやスコップ、農業用フォークなどを使って農業用水や達橋沢の清掃を行った。これを「オオセゲボリ(大堰掘り)」という。作業に当たるのは農業組合や水利組合などの役員20人ほどである。役員は集落の中で毎年交代するため、平等に役目がまわってくることになった。この作業は現在も行っている。
 クズヤネを葺くときは集落の人々が手伝いに出て、屋根にはしごをかけて茅を葺いたりした。田植えのときなども「今日はどこどこの家」といって手伝いに行ったり来たりした。こうした助け合いを「エイ(結い)」といい、手伝いのお礼返しを「エイゲエシ(結い返し)」といった。

... 教育
 戦時中まで飯綱高原あたりには3戸しか家がなかった。戦後になると開拓や生活のため引っ越してくる人が増え、子供も小中学生合わせて10人以上になった。この子供たちは芋井の本校(現芋井小学校・芋井中学校)まで7km以上も通わなければならなかった。しかも、現在のような道路もなく、除雪機もなかったため、冬はスキーで山から下り、軍足のクルマヤのわらはたき場に板を置いてそこから学校まで歩いていた。帰りはスキーを担いで山道を登ったのである。昭和25(1950)年ごろ、飯綱高原に低学年のための冬期分室が出来たが、最初の生徒は1名だった。分室の先生は地元の人で、毎年歓送迎会を行った。

.6 年中行事
... サイノカミの祭り
 1月11日から14日の間、中学生までの男子が毎晩「トウバン(当番)」の家に集まり、お茶を飲んだり騒いだりした。
 祭りが始まるのは14日の晩、夜中の12時からである。この夜、子供たちは御神体である「サイノカミ(賽の神)」を持って集落中をまわった。この御神体は、松の木で作った男女の小さな木像や、厨子に入った男女のお姿などで、1人で持ち運びできるものだった。こうした御神体を持ってまわっていくと、それぞれの家ではこたつなどで待っており、「サイノカミの歌」という祝詞をあげるとあめやお金などがもらえた。お金をくれないときにさらに大きな声でもう一度歌うと、「しょうがないな、このガキども」と言って10円か30円ぐらいくれた。
 15日の朝、トウバンの家でお汁粉を食べ、集まったお金をみんなで分けた。分け方は年功序列だった。
 この日の夕方6時か7時ごろ、夕飯前に集落中の人々が道祖神前に集まり、どんど焼きを行った。1年間家で祭った神社の御札やダルマなど、それから書き初めも全てこの時に焼いた。書き初めは高く燃え上がると字が上手になる、今年の運気が良くなるなどとされていた。大人たちは御神酒を飲んだり、その年の厄落しをしたりした。
 なお、現在は行われていないが、昭和30年代ごろまでは池平と荒井集落の合同で祭りを行っていた。

... 涼森神社の祭り
 春祭りと秋祭りの折は、幟旗を立て、神官を呼んで祝詞をあげてもらった。昔は境内で酒を飲んだが、現在は終わった後に公民館でナオライ(直会)を行い、そこで飲んでいる。ただし、「酒を飲むのが祭り」という人は少なくなった。

.7 信仰
... 屋敷神
 池平には裏庭に祠のある家が2、3軒ある。丸山家に祀られているのは盗賊除け、疫病除けの神である「ミツミネサン(三峯神社)」である。この祠には次のような言い伝えがある。平集落の真中に中澤という医者がいた。昭和15(1940)年ごろまで自宅の座敷で診療していたが、あるとき疫病が流行してしまった。これを鎮めるために先人が祀ったのがこの祠だという。

... 石仏など
 池平の公民館前には、六地蔵の石像や月待塔、庚申塔などが並んでいる。庚申塔は60年に一度の庚申(かのえさる)の年に建てるもので、一番新しいものは昭和55(1980)年の建立である。この庚申塔を見ると地域の歴史がわかり、古い集落では10基近く並んでいる。
 池平にはないが、旧芋井村の各集落に「道祖神」が数多く建立されている。文字だけのもの、男女二人が並んでいるものなど姿はさまざまである。

... 雨乞い・雪乞い
 旧芋井村では水が不足することがなかったため、雨乞いや雪乞いはほとんど行わなかった。

.注
1 平集落に芋井元標(道路元標)があったため第一区に定められた。村では当時、その元標からの距離によってその他の区を定めたという。
2 軍足のクルマヤは戸隠民俗館(長野県長野市戸隠)へ移築されている。
3 社叢が繁って涼しいため、「涼森]といったという。
4 移築時の調査によれば、主な部材に使われている木は次の通りである。[柱]栗・松、[床板]松、[桁]栗・松、[扠首]松、[棟木]ケヤキ、[水輪]松、[回転軸]ケヤキ、[歯車]ケヤキ、[米搗き杵]松、[わら打ち杵]栗
5 お仕置きすることを「ドヅク」といい、「ドウヅカレル」というとげんこつで殴られたりはたかれたりすることだった。同様の言葉として、「ハリツケル」「クラシツケル」という言い方もあった。
6 トーシは選別するものによって目の粗さが異なり、それぞれ呼び名があった。目の粗い方から「籠通し」「籾通し」「米通し」「糠通し」という。このうち籠通しは大豆などに使用するもので、他が金属製の網を使っているのに対し、根曲がり竹で編んだものを使用している。この籠通しはミと同じく、戸隠の竹細工の店で入手していた。
7 各家には唐箕があったが、クルマヤに置いてあるところはなかった。
8 集落から離れた沢で、昼でも行くのが怖い場所だったという。
9 軍足では結婚の際、花嫁はウマヤの前を通り、オカッテから家に上がることになっていた(ちなみに寺の和尚はザシキの入口から直接家に上がった)。ウマヤの前を通るのは、人と馬はどちらも大切な家族だったからだという。なおこの際、花嫁の尻をホウキで「叩き込む」風習があった。これは、花嫁が一家の重要な働き手であり、絶対に家から出て行かないでほしいという願いを込めて行われたものだという。入口で、脱穀後の小麦のカラを両側から差し出して花嫁にまたがせ、入ったらさっと高く上げて通せんぼのようにするのも、意味は同様である。こうした行事は戦後次第にやらなくなっていった。
10 アカザ科ホウキギ属のホウキギのことと思われる。特別に栽培していたわけではないが、自然に種がこぼれて家の周りに生えていたという。


(『日本民家園収蔵品目録21 旧佐地家門・供待、水車小屋、沖永良部の高倉、棟持柱の木小屋』2016 所収)