愛知県名古屋市東区白壁 旧佐地家門・供待民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が愛知県名古屋市東区白壁の旧佐地家門・供待について行った調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成26(2014)年11月2日に行った。聞き取りにあたったのは小澤葉菜、お話を聞かせていただいた方は次の通りである。
  佐地元嘉さん (移築時当主悌道さんのご子息) 昭和17(1942)年生まれ
  佐地里子さん (元嘉さん妻)         昭和16(1941)年生まれ
お二人とも名古屋のご出身だが、長く横浜に在住されており、平成16(2004)年ごろに名古屋へ戻られた。この度は、川崎に在住されているご親族をお訪ねの折にお願いし、民家園にて聞き取りを行った。
この他、平成16(2004)年9月にも民家園において聞き取り調査を行っている。このとき聞き取りにあたったのは渋谷卓男、お話を聞かせていただいた方は次の通りである。
  石原多美さん (元嘉さん妹)
また、昭和62(1987)年3月にも現地調査を行っている。このときの担当は渡辺美彦(当時当園学芸員)で、写真撮影等を行っている。
そして、平成27年3月11日と17日に石川家(明治初年まで武家屋敷に暮らしていた武士)の子孫の方よりご連絡があり、渋谷が電話にて聞き取りを行っている。お話を聞かせていただいた方は次の通りである。
  児島幸子さん (石川甚之進玄孫)
以上の聞き取り・現地調査に加えて、平成25(2013)年には石川氏の系譜に関する文献調査を根本佐智子(当時当園学芸員)が行っている。本報告ではその結果も踏まえ、移築時に撮影された記録写真やその他文献資料も補助資料として活用した。
加えて、本文中にくり返しお名前の出てくる方を記しておく。
  佐地悌道さん (元嘉さん父) 大正2(1913)年生まれ 平成13(2001)年没
  佐地栄子さん (元嘉さん母) 大正6(1917)年生まれ 平成26(2014)年没
3 図番の出所等は次の通りである。
  1      小澤作成。
  2      『旧佐地家門・供待・塀 移築修理工事報告書』および『日本民家園叢書No.9 日本
         民家園草創期の記憶4』掲載図版および、元嘉さんからの聞き取りをもとに小澤作成。
  7,8     『旧佐地家門・供待・塀 移築修理工事報告書』より転載。
  3,5,6,9    昭和45(1970)年ごろ、当園撮影。
  4,10,11,12  昭和62(1987)年3月8日、当園撮影。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれていることがある。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 旧佐地家門・供待は、愛知県名古屋市東区白壁(当時長塀町)にあった。もともとは石川家という中級武士が居住していた武家屋敷の一部である。昭和初期に佐地家の所有となり、昭和45(1970)年に川崎市へ寄贈された。日本民家園へ移築されたのは、すでに解体が始まっていた主屋等を除いた門・供待・塀の一部のみであるため、旧三澤家を主屋に見立てて配置している。供待とは、お供が主人の帰りを待つための施設である。建築年代は19世紀初期ごろ、供待が独立した建物であるのは事例として稀有であり貴重である。
 移築時当主悌道(やすみち)さんのご子息である元嘉(もとよし)さんは、昭和35(1960)年まで敷地内にあった主屋とは別の建物で生活をしていた。また、奥様の里子さんも子供のころ、古い家(佐地家)があるなと思いながら、当時前の道路を走っていた市電に乗っていたという。本報告書では、元嘉さんからの聞き取りを中心に、現在までに蓄積されてきた情報も含め、門・供待、その他の建物がどのように使用されてきたのかを報告したい。

.1 石川家の時代(江戸時代~明治時代)
 石川家は、250石取りの中級武士であった。家紋は「笹りんどう」である。石川家が居住していたころの武家屋敷に関して詳しい資料は残念ながら残されていないが、初代元右衛門に始まり、おそらく10代目の甚之進までの記録が『藩士名寄』や『士林泝回』などの文献より知ることができる。元禄年間(1688~1703)から明治2(1869)年までの古図には、門のあった場所にその当時の当主の名が見える(注1)。明治3(1870)年、甚蔵(明治15〔1882〕年没)の隠居と同時に息子の甚之進が家督を継いでいるが、それ以降の石川家の消息は不明であった。
 しかし平成27(2015)年3月に、石川家の子孫の児島幸子さんからご連絡があり、新たな事実が判明した。幸子さんはご自身の先祖について調べており、その過程で民家園へたどり着いたようである。幸子さんによれば、甚蔵には幼くして亡くなった人も含め少なくとも8人の子供がいた。家督を継いだのは甚之進である。ただし、菩提寺の含笑寺(名古屋市東区、曹洞宗)にある墓石に甚之進の名はなく、「甚蔵次男源正則」と刻まれている。他に記録はないため詳細は不明だが、この正則が甚之進と同一人物の可能性が考えられる。正則は明治28(1895)年、名古屋にて没している。
 正則の妻は名を「クメ」(昭和17〔1942〕年没)という。正則はこの妻との間に2人の姉妹を、異腹に長男「仙太郎」(明治10〔1877〕年生まれ、昭和11〔1936〕年没)をもうけた。明治28(1895)年ごろ、仙太郎は石川家を出て中尾家に入り家督を継いだ。のちに貿易など複数の事業を営み、裕福だったそうである。熱田神宮にはこの人の寄進した灯籠が残されている。姉妹のうち姉の方は名を「民代」(昭和35〔1960〕年没)という。民代は母親のクメと東京に出て兜町に住んだが、嫁ぐことはなかった。そして、そのまま東京で亡くなり葬式も東京で出したが、墓は含笑寺にある。妹の方の名は伝わっておらず、記録にも残っていないが、「おくりさん」と近所では呼ばれており、いつも付き人が後ろにいたという。熱田神宮のそばの円福寺(名古屋市熱田区、時宗)に嫁いだが、この人がその後どうなったか、またこの人に子供がいたかどうか、いずれも不明である。
 幸子さんの母は現在80代で、仙太郎の孫に当たる。ときどき思い出したように仙太郎や石川家のことを話すが、彼女にとって民代さん姉妹は別格の人で、声を掛けられないほどだったという。
 仙太郎が石川家を出た後、この武家屋敷は明治銀行の所有となるが、それがいつごろのことで、どのように管理されていたのかは不明である(注2)。
 栄子さんによると、武家屋敷は一時歩兵第六連隊長梨本宮守正王の官舎として使用されたこともあったと聞いたことがあるという。当時はまだ佐地家の所有ではなかったため詳しいことは不明であるが、梨本宮守正王(1874~1951、皇族・軍人)は、明治43(1910)年12月1日から大正2(1913)年8月31日の間歩兵第六連隊長を務めているのでこの時期のことと思われる。その関係のものか、菊の御紋が入った瓦が残っていた。

.2 佐地家の所有以後
..(1)武家屋敷の購入と使用
 明治期の様子に関しては不明な点が多いが、昭和5~6(1930~31)年ごろ、悌道さんの義父佐地種次郎さん(悌道さんは養子)が明治銀行の所有となっていた土地と建物を購入した。近世の古図によると石川家の土地面積は700~800坪ほどと推測されるが、このうち560坪の土地と建物を5万円(当時)で購入したという。このときから主屋は、陶器を扱う佐地貿易株式会社(明治37〔1904〕年創業、以下佐地貿易)の陶器工場として使用されるようになった。佐地貿易は種次郎さん、そしてその後義兄の康治さんが経営していた。

..(2)門・供待
 移築前の供待は改造されており、床の間や押し入れ、縁側、土間と二畳~六畳の部屋が4部屋あった。供待の奥には仕切りを挟んで風呂場があり、石炭やコークス、薪等の燃料置き場が隣接していた。燃料置き場の先には仕切りがあり、その向こうにあった陶器工場の建物には行けないようになっていた。陶器工場には陶器の見本展示室が隣接していた。図版3で、風呂場の煙突の奥に写っている一段屋根の高い部分が燃料置き場で、さらに奥の高い屋根が陶器工場である。
 供待に関して、栄子さんによれば、昭和12~13(1937~38)年ごろには土間があった記憶があるという。また、昭和18~19(1943~44)年ごろは陸軍工廠の被服工場として使用されていたので、このとき住宅に改造したのではないかという。悌道さんは軍医としてニューギニアへ従軍していたためか改造のご記憶はなかった。
 戦後、供待には陶器工場の共同経営者が住んでいた時期もあったようだが、少なくとも元嘉さんが暮らしていた間は供待、門番部屋とも陶器の置き場として使用されていた。供待は電気を点けられるようにはなっていたが、元嘉さんの妹の多美さんによれば、暗かったこともあってあまり近づかなかったという。
 また、昭和34(1959)年に伊勢湾台風が猛威を振るった際、市の衛生局長を務めていた悌道さんに代わり、元嘉さんが門に上って瓦の飛んだ屋根を修理したことがあった。その際、身体の重みで門がぐらぐらと揺れたことが、門についての一番強く残っている記憶だという。当時すでに土台が腐食してきており、傷みが激しかったことがうかがえる。

..(3)主屋と医院
 武家屋敷が佐地家の所有となったときには主屋も残っていた。しかし主屋に人が住むことはなく、佐地貿易が扱う陶器の工場として使用されていたという。陶器は絵付けをして出荷していた。当時の間取り等は不明である。
 元嘉さんとご家族は、もともと武家屋敷近くの東区主税町にあった洋館に暮らしていたが、戦時中に焼夷弾により被災したため武家屋敷に移った。そして元嘉さんは、進学のために家を離れる昭和35(1960)年まで、ご家族は昭和38年(1963)まで敷地内にあった主屋とは別の建物で暮らしていた。当時は門をくぐると階段があり、その正面に主屋があった。元嘉さんたちが暮らしていた建物は、主屋に向かって右側にあった。その建物は主屋ほどではないが古い家で、悌道さんはそこで医院を開業していた。門からも出入りできたが、この門は開けづらかったためほとんど閉めたままになっており、通常は通用口を使用していた。

.3 移築の経緯
 昭和43(1968)年、武家屋敷の前を走る県道名古屋―田籾線の拡張工事に伴い、武家屋敷の取り壊しが決定した。そのときたまたま仕事のかたわら名古屋を訪れていた田中木工(東京都八王子市高尾町)の田中昌文さんという大工がいた(当時59歳)。田中さんは、古建築の修理や移築等に経験を持つベテランの大工で、武家屋敷の価値にも気づいていた。武家屋敷の取り壊しが決定したことを知った田中さんは、文化財関係の仕事を通じて親しく、その上当時民家園で指導的役割を務めていた大岡實(おおおかみのる)氏(当時文化財審議会専門調査会委員)に鑑定を依頼した。そして改めてその価値が認識され、解体に及んでいなかった門・供待部分が民家園へ移築されることとなったのである。解体と運搬も田中木工が担当した。
 取り壊しが進んだ後も、同じ敷地内に建てた別の建物で佐地貿易は営業を続けていた。昭和62(1987)年撮影の写真には、佐地貿易の看板や絵付け前と思われる多くの皿、井戸等が写されている(図版10、11、12)。井戸の前は中庭のように少し広くなっており、元嘉さんが住んでいたころは自転車を止めたり洗濯物を干したりしていたという。現在は佐地貿易も不動産業に転向しており、建物が全て取り壊された跡地には紳士衣料品店が建っている。

.注
1 『旧佐地家門・供待・塀 移築修理工事報告書』写真95~100
2 明治銀行は、明治29(1896)年8月27日設立、昭和13(1938)年8月3日業務廃止認可を受けた愛知の銀行の一つである。

参考文献・資料等
川崎市『旧佐地家門・供待・塀 移築修理工事報告書』川崎 1989年
新修名古屋市史編集委員会「寛永年中分限帳」「分限帳 元禄之末、宝永正徳、享保頃迄」「尾張分限帳 明治二年訂正」『新修名古屋市史 資料編近代1』名古屋 1997年
徳川林政史研究所蔵『藩士名寄 第一冊』(旧蓬左文庫所蔵史料140-4)
名古屋市教育委員会『「士林泝洄 第2」名古屋叢書続編第18巻』名古屋市教育委員 1967年
名古屋市蓬左文庫蔵『尾張分限帳』
名古屋市蓬左文庫蔵『仮名分名寄(一)』
野呂瀬正男著/安田徹也編『日本民家園叢書No.9「日本民家園草創期の記憶4」-旧井岡家住宅、旧佐地家門・供待・塀、水車小屋-』川崎市立日本民家 2010年
歩六史編集委員会『歩兵第六聯隊歴史』歩六史刊行会事務 1968年
中日新聞(昭和43年8月3日付)
銀行変遷史データベースhttp://www.opac1.com/bank/detail.php?bcd=5422(平成27年8月13日閲覧)

 

 (『日本民家園収蔵品目録21 旧佐地家門・供待、水車小屋、沖永良部の高倉、棟持柱の木小屋』2016 所収)