長野県伊那市西町 三澤家民俗調査報告



.凡例
1 「長野県伊那市西町 三澤家民俗調査報告」は、日本民家園が三澤家住宅の旧所在地、長野県伊那市西町の三澤家で行なった聞取り調査の記録である。
2 この調査は、平成17年3月4日、5日、6日に実施された。聞き取りにあたったのは澁谷卓男、木下あけみ、越川次郎である。なお調査終了後、いくつかの点について、電話とファックスで質問を繰り返した。
3 話者は、三澤家現当主、三澤良信氏である。良信氏は大正13年生まれ、先代が早くに亡くなったため、5歳で後を継いだ。その後、昭和37年に工業薬品の製造会社を起こし、現在に至っている。
4 このほか、良信氏の講演会の記録テープも資料として使用した。この講演会は、平成11年1月、良信氏が当園に来園したおり行なわれたものである。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で必ずしも確認されていないことが含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。
6 写真は、昭和44年の移築時に撮影されたものである。(写真4は本書制作のため園内で撮影したもの)
7 図面は、『旧三澤家住宅移築修理報告書』(1973)より転載した。掲載にあたっては、今回の聞取りに基づいて部屋の名称を若干改めた。
8 写真1〜5、8、9は、調査時に越川と澁谷が撮影したものである。写真6は、資料の所蔵先である早稲田大学図書館より提供していただいたものである。写真7は、本書制作のため園内で撮影したものである。

.はじめに
 伊那街道は中山道の脇往還であり、松本と飯田をつないでいた。三澤家はこの街道の宿駅、伊那部宿で代々組頭をつとめた家柄である。江戸期より薬の製造販売を始めて成功し(注1)、幕末か明治初年からは旅籠も兼ねていた(注2)。その後、大地主として宿場の有力者となり、明治23年(1890)には10代目荘衛が伊那村の村長もつとめている。屋号は「槌屋」、家紋は「丸に拍子木」である。家業の売薬業については越川論文に譲り、ここでは家屋や行事などを中心に、三澤家の暮らしについて記述することにする。

.1 地域との関わり
..(1)隣組
 伊那部宿は35組に分かれている。それぞれの隣組は、平均して7、8戸である。
 三澤家は12組である。この12組は全部で10戸あり、中には寺(長桂寺)も含まれている。もともと現在の12組と13組は一緒だったが、戸数が増えたために分かれ、むかいの家とも別の組になった。
 組長は毎年かわる。自分のときに葬式がないこともあるが、2回も3回も当たることもある。

..(2)神社
 伊那部宿周辺は、三澤家を含め、みな春日神社の氏子である。
 山寺という土地に伊藤という家がある。この家は「神職」と呼ばれ、代々資格をとって神主をつとめている。決まった神社の宮司をしているわけではなく、祭や行事があると呼ばれて行って神主をつとめるのである。春日神社にも宮司はおらず、この人が来て神主をつとめている。地鎮祭などにも、この神職を呼ぶ。

..(3)寺
 菩提寺は曹洞宗長桂寺である。三澤家は文久元年(1861)、本堂再建のおり多額の寄附をしたことにより、壇頭格10軒の中の1軒となっている。
 良信氏は檀徒総代を8年つとめた。また、父荘衛氏は20世内藤文英住職の「親方」をつとめた。親方とは、いわば住職の相談役である。住職が亡くなると子が世襲するわけではなく、本山から新たに人が送られてくる。その際、新住職は単身で身寄りがないため、有力な檀家の中から親方を決め、親戚代わりをつとめるのである。
 この長桂寺は伊那部宿の中央にある。しかし、宿場すべてが長桂寺の檀家というわけではなく、いろいろな寺の檀家がいる。また、近くにある天台宗円福寺は善光寺系の祈祷寺だったが、今は三澤家をはじめ、旧家はみな付き合いを持っている。
 三澤家の裏山の上は古蓮台と呼ばれ、長桂寺の墓地となっている。数にしておよそ250戸分である。三澤一族の墓地は、これらの墓地から100メートルほど北に独立して設けられている。

..(4)顕彰碑
 昭和5年、良信氏が5歳のとき父12代荘衛氏が30歳で亡くなった。この荘衛氏も5歳で父親を亡くしている。良信氏の祖父にあたる11代荘衛氏は、近衛の守備兵となり、明治37年(1904)に日露戦争で戦死した。やはり30歳だった。
 この荘衛氏の顕彰碑が裏山にあり、鳥居が立っている。屋敷の裏手の門は、この碑に参拝するためのものである。毎年命日の6月15日には、近衛兵が参拝に来た。1小隊、40人ほどが顕彰碑の前に整列し、拝礼するのである。このあと屋敷で兵士をもてなした。朱塗の本膳、二の膳、さらにフルーツや羊羹をつけて出し、大きな盃をまわした。しかし負担が大きいため、その後、折り詰めを本膳に置いて出すようになった。この参拝は昭和になるまで続いた。

.2 家と暮らし
..(1)屋根
 三澤家の屋根は、石をのせた板葺き屋根である。手入れに手間がかかり、屋根職人が入っていたほか、良信氏自身も年に何回も屋根に上っていた。
 屋根に使う板材は、クリ・ネズコ・ヒノキが多かった。これらの木を45センチから60センチに切り、アマの部分をとって、ハギボウチョウで厚さ1センチほどに割る。柾目なのでよく割れた。板は2、3年で天地をかえす。そして、足りない場所にはそのつど新しい板を補った。
 板を押さえる横木を「ヤワラ」という。ヤワラに使うのは、ヒノキかサワラである。直径7、8センチの若木を、1メートル40センチから60センチほどに切る。そして皮は残して小枝を取り去り、たてに四つ割りにする。この割った面で板を押さえるのである。
 このヤワラの上に平らな石をのせる。特に棟近くには、できるだけ薄く平らなものを使う。石が揃っているように見せるために、この棟に近いところほど大きい石をのせた。丸い石や不安定な石は、地震などのとき落石の危険があるため使わなかった。なお、移築後にのせている石は合っていないものもある。解体するとき屋根から投げ下ろし、元の石は割れてしまったものが多かったためである。
 このあたりは台風の影響は少なく、また雪も少ないので、その点の心配はなかった。雪下ろしもすることはない。しかし、傾斜が弱いため水を保ちやすく、腐りやすかった。また、夏になると板が反り、そのあと夕立が来ると反ったところから雨が漏った。2階一面にキノコが生えたこともある。車が通るところでは、振動で板が動いてしまうこともあった。
 厚い板は高価だった。また、板は相当量ないとどうしようもないが、次第に手に入らなくなっていった。そのため、補助金が出たこともあり、多くの家はトタンに葺き替えてしまった。

..(2)門
 伊那部宿には、門のある家が三澤家を含め4軒しかなかった。当時、庶民が門を造ることは許されず、高遠藩に多額の献金をした家だけが許可されたのである。
 門から入り式台から上がるのは、要人や身分の高い人だけである。良信氏が子供のころには、この門はほとんど使われていなかった。
 この門が、道路拡張のとき40センチほど下げられた。このとき右と左とで寸法が違ってしまった。雨よけの板もとっておいたが、新しい木でやられてしまった。
 門のところの松は220年から230年経っている。宿場ではどの家も松を植えていた。

..(3)ザシキ・カミザシキ
 式台に続く2つの座敷は、いずれも来客用であり、日ごろは空けてある。良信氏の育った当時も、移築前のころも、他が狭くても通常ほとんど使われることはなかった。
 三月、五月の節句、それから盆にはこれらの部屋が使われた。カミザシキに節句雛や盆棚を飾りつけ、手前のザシキを来客の接待に使っていた。
 畳はいつも敷いてある。欄間には冬のあいだ紙を貼り、風を防ぐ。床の間は「ハンドコ」(奥行きが半分)である。本陣などを除き、ホンドコは民間では許されなかった。

..(4)ミセ
 普通の人は潜り戸から出入りした。
 入ってすぐ右手にあるミセは、人に応対する場所である。ここには畳が敷いてあり、座布団が用意してあった。良信氏の時代は、帳場のような形にはなっていなかった。

..(5)オオエ
 オオエ(またはオエ)は、居間、応接間として使われた。板の間であり、その上に「ネコ」というムシロのようなものを敷いていた。これは厚さ3センチ程度、縄のようなものを編んだ上、たたいて目を詰めたものである。その上にウスベリを2枚重ねて敷き、鋲で止めていた。ウスベリは部屋の大きさに合わせて注文し、長く巻いたものを買って使用した。イロリの火がはぜるのでじき穴だらけになり、畳だと危なかった。
 イロリはほとんど一日中焚いていた。燃やすのは、山から切ってきた雑木である。これを、イロリの土間側の板敷きに置いていた。自在鍵は、縁起をかついで松竹梅を使った。筒は竹、中に通す木は松、横木の魚の部分には梅を使っている。梅は火に強く、松は脂が出るためすべりが良かった。炉縁が一箇所だけ直角になっていなかったのも縁起をかついでのものである。四角は閉じ込めるなどといわれ、縁起が良くないとされた。
 良信氏が子供のころは、家族も多かったので、イロリのまわりに飯台を出して食事をしていた。席は、座敷を背にし、土間を向く席が「横座」と呼ばれる主人の席、その右手、神棚の下が「腰元」と呼ばれる婦人の席、その向かいが「寄付」と呼ばれる客の席、その左手、土間寄りは薪置場である。イロリのことを「ヒジロ(火代)」ともいった。
 ※調査報告書には次のようになっている。「席は、大戸に向かっての正面が主人、そのむかいが客である。」これは平成17(2005)年の聞き取りに基づいた記述だが、刊行後良信氏から訂正の手紙をいただいた。
 かつては小作の関係で人の出入りが多かった。そうした人たちは農家のため土足であり、それでこの部屋を応対に使った。人が来るとお茶や酒も出した。三澤家では酒を振る舞うことが多く、やかんに入れてイロリに掛けてあったという。大福帳にも、酒屋から四斗樽で買っていたことが記してある。
 なお、この部屋にはイロリのほか、ヘッツイがあった。ヘッツイには焚き口が2つあり、ひとつは飯炊き用、もうひとつは湯沸し用だった。飯を炊き終わると燃えている木をとなりに移し、そこにお湯をかけておいた。

..(6)ダイドコロ
 ダイドコロはオオエよりも1段低くなっていた。土を平らにした上に厚さ3センチほどの板を直接敷き、動かないよう両端を打ちつけてあった。
 ここに流し台があり、洗いものに使っていた。水甕がダイドコロの内にあり、3日に1度、釣瓶井戸から水を汲み入れていた。甕にはふたがしてあった。
 この部屋にはこのほか、戸が板戸の作り付けの食器棚があった。
 その後、ここにオオエと同じ高さに床を張り、掘りごたつを作った。それからは食事もこの部屋でとるようになった。

..(7)イマ
 家族が寝起きしていたのはイマである。良信氏はほとんどここで寝起きした。この部屋には南向きに仏壇が置いてあった。
 明かりは、昔は「とぼし油」だった。油を皿に入れ、木綿の芯を置き、火をつけて行灯に入れる。その後、蝋燭となり、良信氏が子供のころには電気が入っていた。

..(8)ナンド
 ナンドには書類箪笥などが置いてあり、通常ここに寝ることはなかった。
 お産にはこの部屋が使われた。お産は実家に帰ってすることになっており、良信氏の妹はここで出産した。

..(9)フトンベヤ・電話室
 オオエとザシキのあいだにフトンベヤがあった。ほかには布団をしまうところがなかった。
 このフトンベヤのとなりに、ローカをはさんで電話室があった。広さは、公衆電話と同じ90センチ四方だった。
 三澤家は薬屋をやっていたため、電話を引くのが早かった。当時、伊那部宿では三澤家にしかなく、近所の人が何かというとかけに来た。電話室を設けてあったのはそのためである。37番という番号だった

..(10)2階
 家族は一番多いときで14人いた。狭いため、2階を増築したり、部屋を増やしたりした。2階は子供の勉強部屋になっていた。
 2階に畳を切り取った板敷の部分があり、ここを開けると刀が隠してあった。賊に襲われたときは駆け上がって戸を閉め、この刀を取り出して応戦できるようになっていた。

..(11)便所
 便所は3ヶ所あった。1ヶ所は門の脇、もう1ヶ所は風呂と主屋のあいだ、そしてもう1ヶ所は隠宅(後述)の横にあった。
 手洗いのところに手水鉢があり、その台石は非常に大きなものだった。

..(12)風呂
 改築して、ナンドのむこうに風呂場がもうけられていた。風呂桶は木製の楕円形で、焚き口が非常に厚い銅でできていた。その後、大正ごろに五右衛門風呂になった。燃料は薪と石炭である。
 入るのは男が先で、主人が一番だった。その後、女が順に入り、それから主婦が子供と入った。
 昔の人はあまり風呂には入らず、行水ですませていた。板を立てかけ、洗い水が落ちるようにしていた。
 洗濯はたらいと洗濯板だった。物干場が男女分かれている家もあったが、三澤家ではそこまでしていなかった。

..(13)井戸
 主屋のむこうに井戸があった。これは今も残っており、水も湧いている。
 この井戸の石組みを作ったのは、高遠の石工である。石を亀甲に欠いて組み合わせているらしいが、100年以上経っているのに少しも狂っていない。高遠は石工の多いところで、昔、二百何十人かで江戸城の石垣を手がけに行ったという話がある。
 石灯籠も石工の手作りである。セメントを使っていないが、地震でも落ちることはなかった。

..(14)ウマヤ
 かつては馬を飼っていた。田畑の耕作用ではなく、街道の荷運び(中馬)用である。
 ウマヤに馬を入れるときは、壁に尻を向けるようにした。2頭ぐらい入ったらしいが、良信氏が子供のころにはもう飼っていなかった。この場所は、馬を飼うのをやめたあと改造され、ソトノナンドという物置になっていた。
 土間のかまどは「カイバカマド」である。馬のえさ用に使われた。
 ウマヤの奥は物置き場になっていた。コタツの炭、餅つきの臼、薪などが置いてあり、冬、外に出ないですむようになっていた。薪の管理をするのは「男衆」(使用人)である。三澤家には男衆が常に2人くらいおり、忙しい時期になると、そのたびに頼まなくても裏から入って仕事をした。この男衆がクヌギ林から薪を切って物置に1年分くらい貯蔵しており、それを少しずつ運んでこの場所に置いていた。

..(15)隠宅
 主屋に続いて、老夫婦が寝起きする隠宅があった。ここは、薬を作っていた当時は作業員の宿舎にも使われていた。
 現在神棚を祀っている棚は、もとは刀を保管するためのものだった。そのため、刀が転げ落ちぬよう、棚板が少し後ろに傾斜している。
 隠宅横の大木は朴の木である。他にも大きな木があったが、戦争中、船の材料にしてしまった。

..(16)倉
 隠宅の奥に文庫倉と味噌倉、その奥にさらに4つの倉が並んでいた。現在あるのはこの4棟だけで、文庫倉と味噌倉は残っていない。
 倉の壁は板と土でできている。まず内側に板を横に並べ、ナラの木釘で止める。板は普通マツを使うが、奥の倉だけは厚さ3センチほどのクリを使っている。つぎに、板の上に土を塗る。壁土には高遠の近く、芦沢の土を使う。ここの赤土は上質の粘土で保水力が高く、伊那周辺では古くから建築用に珍重されていた。こうした作業を3回くりかえし、最後に漆喰を塗る。屋根の部分も同じく3回塗り重ねる。いずれも厚みは30センチぐらいになる。そしてこの上に、少しあいだをあけて瓦の屋根を葺く。
 文庫倉は、主屋から隠宅を通り、廊下づたいに入れるようになっていた。南向きの2階建てで、広さは延べ12坪である。この倉は薬倉ともいい、中に畳を敷き、薬を作っていた。1階が製薬場所、2階は書類などの保管場所である。雨漏りしたため2階は落ちる寸前となり、書類も傷んでしまった。この倉を解体したとき、文久四年(1864)の弁財天の棟札が出た。
 奥の倉は、2階建てで200俵の米を入れることができた。そのため、2階は相当の重量まで耐えるように作られていたが、上げるのが厄介なため2階まで使うことはあまりなかった。建築は明治19年(1886)で、和釘しか使われていない。
 中の倉は、籾倉ともいう。ここには、夏蒸れぬよう、籾を俵に詰めない状態のまま貯蔵する「籾枡」という場所が設けられていた。
 南の倉には、三等米と道具などを入れた。のちには道具専用になった。
 作倉には、養蚕道具や農具などを入れた。
 これら4つの倉の上に、屋根が葺かれている。1つの大きな屋根の下に、4つの倉が左右に2棟ずつ並んでいるのである。

..(17)物置
 奥の倉の奥に物置がある。もとは薪や炭を貯蔵する場所だったが、その後、良信氏が化学の仕事に使っていたこともある。
 この物置のむかいは、肥溜めになっていた。旅籠をしていて、不浄物がたくさん出たためである。化学の仕事をしていた当時は、ここで廃液処理もしていた。

..(18)その他
 鰹節や昆布、飴玉などの行商が来ていた。鰹節は1本売りで、品物は良かったが高かった。昆布は北海道から売りに来ていたが、伊那部ではあまり使わないため売れていなかった。飴玉は品物が悪く、インチキに近かった。いずれも戦後になってからである。
 このほか薬の行商も来た。富山の薬売りは、戦時中は一時中断していたが、戦前の古いころから来ていた。売り方が強引で、無理やり薬を置いていった。1回でも手をつけてしまうと継続することになるので、こちらがことわっても逃げるように置いて行ってしまった。官庁関係は一切行かないが、個人宅のほか、会社などにも来ていた。このほか、埼玉の薬メーカーも来た。こちらは20年ほど前からで、現在も付き合いが続いている。
 旅芸人はほとんど来ない。物乞は戦後一時期来たことがあるが、現在はいない。

.3 生業
..(1)旅籠
 伊那街道は脇街道で、善光寺参りや伊勢参りの客が多かった。道はほとんど拡張していないが、かつては道の真中に川が通り、その両側に柳などが植えてあった。当時の客は草鞋履きなので、ここで足を洗い、宿に入る前に新しいものに履き替えた。
 旅籠の屋号は「つちや」である。伊那部宿にはほかにも何軒か旅籠があった。
 普通の客は大戸口から入った。身分の高い人は門から入り、式台から上がった。北白川家や県知事などが宿泊したことがあるが、こうした人を泊めるときはカミザシキやザシキを使った。客間としてはこのほか、隠宅横のオクザシキ2間が使われた。
 オオエにかけてある提灯は、夜、辻まで客の出迎えに行ったり、客を見送ったりするのに使われたものである。
 こうした旅籠でどのような料理が出されたか、伊那部宿の他の旅籠の例を参考としてあげておくことにする。
  「旅籠屋の料理について
    生ボラ、海老、鰤
    鯉料理   刺身、鯉こく(味噌仕立ての煮付)、鯉の甘露煮付
    うなぎ料理 かば焼、塩焼き(天竜川産)
    赤魚    (天竜川産)
    あゆ    (天竜川産)
    しゞみ   (諏訪湖産)
    其の他   玉子料理、野菜の煮付、根菜類、しい茸、氷豆腐
  上記は旅籠屋を実際にやって居った「小平」と云ふ古老より聞いた話しです。」(良信氏の手紙より)

..(2)土地・山林
 薬の収益で土地を買った。また、借金の担保で土地を取った。借金の形に掛軸などを持ってくる者もあったが、大口の場合には田畑を担保にし、結局金は返ってこないため自然に田畑が増えた。所有していた土地は60000坪に及んだ。伊那一番の大地主である。この土地を貸して金や米を納めさせ、明治半ばごろにはこうした土地からの収益が主となっていた。抱えていた小作は、終戦のころまで200軒あった。
 米は収穫の半分を納めさせていた。収穫後、11月1日から1ヶ月間、小作人が俵をつんで納めに来る。俵をのせた牛車はそのまま大戸から入り、土間を通り抜けて倉の前につける。ここで係の者が品質を検査し、すべて受け渡しをする。そして収量を量ると、小作人は牛車をまわして帰っていった。このとき、茶碗酒を用意して四斗樽からついでふるまい、子供たちにはイモキリ(干し芋)などの菓子を配った。
 1等米は奥の倉に入れた。入れ終わると、蒸れて虫がつかぬよう薬品で燻蒸し、さらに空気が入らぬよう、扉の隙間を紙で目張りして封印した。この封印は、翌年の土用まで絶対に解かなかった。そしてその後、良い米がなくなったころに開けて売り、儲けた。
 2等米は中の倉に入れた。この倉の米は無造作に入れてあり、自家用で食べたほか、百姓をやっていない近所の人に売った。なお、酒米は扱わなかった。これは、少しでもカビが生えると酒米にならないため、保存方法が難しかったからである
 山林は、用材林(ヒノキ林)と雑木林(薪用のクヌギ林)を持っていた。ヒノキ林は日当たりの良い山でないとだめで、区別して植林していた。
 隣村のゴルフ場のところに長林という土地があり、そこに良い林があった。しかし、10キロくらい離れていたため夜中に木を切られ、番人を置いたがその人にも切られてしまった。その後、この土地は管理しきれないため売ったが、用材だけは隠宅を建てかえたときに使った。柱などに使われているヒノキや、床の間に使っているエンジュ(延寿)はこの林から切り出したものである。なお、このエンジュは縁起が良いとされる木である。非常に堅く、柱になるには年数がかかった。
 林はその後、歩いて行けるところだけを残した。マツの平地林を4町歩持っていたが、戦争中、食糧増産のため農耕隊が入り、開拓してしまった。このとき、マツの木は15日間も燃え続けていた。

..(3)養蚕
 伊那部宿では昭和30年ごろまで養蚕をやっており、水田にならない荒地はクワ畑になっていた。
 三澤家でやっていたのは大正の末ごろまでである。春から秋にかけてオオエを養蚕に使ったらしい。良信氏は家でやっていた記憶は持っていないが、親戚はほとんどやっており、手伝いには行った。
 養蚕の神としては「蚕玉様(こだまさま)」があった。町の辻の道祖神のとなりに、その碑がある。祭は特になかったが、秋の収穫のころ、この石碑にぼた餅、赤飯を供えて酒を飲み、お祝いした。日は決まっておらず、やらない家もあった。良信氏もやった記憶は持っていない。

..(4)農業
 農業をやるようになったのは、戦後、農地改革のあとである。10年ぐらいやり、道具もひととおり揃っていた。馬にスキをつけて土を起こす馬耕で、田も畑も耕した。米のほか、大豆、トウモロコシ、小豆、胡麻、つけ菜、大根、白菜など、畑もひととおりやった。

.4 人生儀礼
..(1)婚礼
 良信氏の母が嫁いできたとき、家の座敷で式を挙げた。部屋が狭いので、3回ぐらいに分けたという。1回目は「一元(いちげん)」といい、双方の親戚を招いて三々九度をする。2回目は「二元(にげん)」といい、友人関係や親戚以外のいろいろな人を招いて披露宴をする。3回目は「三元(さんげん)」といい、付き合いのある家を招く。3回目までやるのは、交際や親戚の多い家だけである。この式は三日三晩やるので「金林(かなばやし)」といわれるほど金がかかり、銀行から借金したり、良い財産を無くしたりする人もいた。来る人はわずかな祝儀で飲み放題なので、やる方は大変だった。
 普通の家は内々で簡単にやるが、大きくやる家では「料理人」を雇った。この料理人が指示を出して食材を集め、料理した。料理人が自分のところで作って持って来る場合もあった。料理人というのはこうした職業で、伊那市内に1人か2人いた。
 料理は最高22品目、普通は10から13品目ぐらいだった。料理は「ナナツバチ」(切溜)に入れ、取り分けずに器ごとまわす。このほか、朱塗のお重も使う。このとき高い食材のものは小さい器に入れ、大きい器には安いものを入れた。あとは「酒ばっかり」だった。
 このナナツバチは、今でも市議選のおりなど毎日のように使われている。

..(2)宮参り
 子供が生まれると、春日神社にお宮参りに行く。このとき、両親とともに「親様」も同行する。親様とは、親族の筆頭者の家から選ぶもので、いわば相談役である。親戚の場合が多いが、それ以外の親しい家の人がやることもある。親様は死ぬまで相談役として関わっていく。しかし、死ぬと終わりとなり、代わりに別の人を立てることはない。

..(3)厄年
 1月14日の夜、「年取り」(後述)をすませてから厄落としに行く。行くのは、男は25歳と42歳、女は19歳と33歳である。出かける前には裸になって手ぬぐいで身を浄め、その手ぬぐいと今まで使っていた茶碗を持参する。茶碗には、歳の数だけ金(1円玉、5円玉、10円玉など)を入れる。そして、南の鍵の手の辻にある道祖神碑(文字碑)に行き、茶碗を投げつけて割り、手ぬぐいを投げ捨てる。そのあと、後ろをふり返らずに家に駆けもどる。金の代わりに、大根や人参の輪切りを入れることも多くなった。これは、誰が厄年かわかっているため、若者たちが隠れて様子をうかがい、金がまかれると飛びだして拾ったりすることがあったからである。19歳の女の場合などは、いたずらすることもあった。
 翌朝、子供たちは碑のところへ行って金を拾い、ものを買って食べる。そうすると縁起が良いと言われていた。
 今も旧家ではこうした行事をやっている。女性もやるが、夜出かけることになるので、19歳のときは親がついていくこともあった。
 このほか、午伏寺(ごふくじ)(長野県松本市)まで除厄祈願に行くこともあった。昭和30年ごろは、バス会社が仕立てたバスで出かけていた。行くのは同じく1月14日である。夜の9時か10時ごろ伊那部を出発し、1時間ほど参拝したあと、また同じバスで帰ってくる。もらったお札は自分の部屋に祀り、無事を祈願した。翌年は同じ日にお礼参りに行った。お札を入れる箱に札を返し、燃やしてもらった。なお、この午伏寺には受験や結婚など、願掛けに行く人も多い。

..(4)葬式・法事
 亡くなると、一番先に隣組の組長に連絡する。この組長が葬式を仕切ることになっており、夜、遺族宅に見舞いに訪れ、長桂寺住職も同席の上、葬儀全般について打ち合わせを行う。この席は通夜も兼ねている。また、亡くなると広告を出すが、出さなくても新聞が出してくれることになっている。
 隣組の各世帯からは、2名ずつ手伝いに出る。そして、葬儀終了まで一切をあずかることになっている。
 葬式当日のことは住職が指示を出す。式は長桂寺でやり、寺の庫裏で飲み食いする。料理は寺の指示で10品目となっており、野菜、とうふ、こんにゃく、天ぷら、ひじき、寿司など、肉を使わない精進料理である。このほか、赤飯、あんころもちも出る。こうした料理は、専門の料理屋や農協に頼むようになった。
 香典は、親戚は別だが、普通の人は取り決めで3000円となっている。終戦後は1000円で、それから少しづつ上がってきた。
 帰りには香典返しとして、800円から1000円程度のお茶を引き物にする。引き物をするのは、西町区と荒井区だけである。西町が一番古く、荒井はそこから分かれた地区である。
 法事には仏壇、または木製で3段ぐらいの壇を用意し、住職と親族一同が供養する。その後墓参りをし、終わり次第住職同席の上、本膳を行う。本膳は別の店で簡単に席を設ける。
 法事は三十三回忌までである。最近ほとんどやる人はいないが、この最後の法事には「ホイツキトウバ」(穂付塔婆)を立てた。これは、直径5センチくらいの生の松を1メートル20センチほどに切ったもので、皮を削り、そこに戒名を書く。お経を上げて供養したあと、この塔婆を墓の前の地面に立てる。かつてはしばらく立てておいたあと焼いたが、今は寺で処分している。この三十三回忌がすむと、あとは通常の墓参りだけを行う。

.5 年中行事
..(1)大晦日
 夕方、神棚にお神酒、醤油または味噌仕立の野菜の煮付、鰤の切身を供え、「年取り」を行う。鰤は、家族の多いうちでは中くらいのものを1尾買い、良いところは切身にして旨煮にし、残りの頭や骨の部分は煮込み汁にした。
 年取りが終わると長桂寺に行く。持参した古いお札を焼き、除夜の鐘をついて帰宅する。

..(2)正月
 元日はまず、神棚、仏壇に雑煮を供える。雑煮は醤油仕立で、餅、野菜、きのこ、こんにゃく、いたつき(蒲鉾)を入れる。そして、家族全員集まって新年の挨拶をし、お屠蘇をいただき、雑煮を食べる。そのあと、家族の代表が長桂寺、円福寺に新年の挨拶に行く。春日神社にも早い時間に参拝する。午後は、近くの集会所にその年の役員20名ぐらいが集まり、新年会をする。
 2日は神棚、仏壇にナガイモ汁を供える。
 3日から5日は、神棚、仏壇に御飯を供える。
 6日は、「六日年取り」といい、夕食時、神棚、仏壇に野菜の煮付汁と「トシトリザカナ」(鮭の切身)を供え、年取りを行う。そしてこの夜、しめ飾りをすべてはずす。
 7日は、朝、七草粥を炊き、神棚、仏壇に供える。また、この日はどんど焼きを行う。前夜にはずしたしめ飾りを、かつては朝暗いうちから子供たちが集めてまわった。現在は、PTAの役員とともに小学生が午後からやっている。場所も以前は天竜川の河原だったが、伊那部では現在、春日公園でやっている。

..(3)小正月
 14日は、年取りをもう一度やった。この日、正月同様餅を搗き、団子を作って柳の小枝にさし、イマに飾る。団子には赤い色をつける家もあったが、三澤家では白1色だった。団子の形は、中央が少しくびれたものと、くびれていない丸いものとがあった。くびれているのは繭の豊作を、丸いものは農作物の豊作を祈願するものである。
 主人は毎年この日、だるまの絵を描いてヘッツイの後ろの板壁に貼った。絵は2枚の和紙に描く。1枚は中央に「萬物作(よろずものづくり)」、その右に年号、左に「一月十四日」と書き、右側に貼る。もう1枚は中央にだるまの絵、その右に「人馬長久 商売繁盛」、左に「大入叶」と書き、左側に貼る。紙の寸法は、縦50センチ、横40センチぐらいだった。少しざらざらして布のような手ざわりのある「はじ切らず」と呼ばれる紙で、引っ張っても裂けないぐらいしっかりしたものである。この紙は普通のところでは売っていなかったが、この土地ではどの家でもやっていたので、時季になると紙屋が仕入れてきた。絵は毎年、上に重ねて貼った。そのため30枚ぐらい重なり、落ちるほどになっていた。20年か30年分くらいたまるとこれをはがして丸め、祈祷と感謝を込めて屋根裏に上げた。先祖が寺子屋をやっていた家が近くにあるが、その家ではこうした行事をつい最近までやっていた。
 また、厄落としをするのもこの日の夜である。(「厄除け」の項参照)
 翌15日の朝は、餅を小さく切ったものを一緒に煮込んで白粥を炊き、神棚、仏壇に供えた。

..(4)節分
 2月3日は節分である。夕方、神棚に祀ってある恵比寿大黒にお神酒、米、塩を供える。そして夕食後、大豆を炒って、「鬼は外、福は内」と唱えながら各部屋と外にまく。

..(5)桃の節句
 雛人形は、女児の初節句に嫁の里から贈られる。内祝いは、初節句のときに限り親族を招待して行う。翌年からは、雛人形の飾りつけだけである。

..(6)五月節句
 五月飾りは、男児の初節句に嫁の里から贈られる。親族からもお祝いが贈られる。昔は幟、こいのぼりなどすべて外飾りだった。しかし、雨に弱いことと、落雷の危険があることで、次第に鎧や兜など内飾りが多くなった。なお、内祝いは初節句に限り行う。

..(7)盆
 8月6日に長桂寺で盂蘭盆供養が行われる。近隣寺院の住職も集まって行うもので、毎年寺より通知があり、必ず出席する。このとき先祖代々の塔婆を受け取って帰り、これを盆のあいだ盆棚に祀る。
 盆の前日12日は、山に入り、ススキ、キキョウ、ハギなどの花をとる。
 盆の入り(迎え盆)は13日である。この日、馬を2頭、ナスで作る。へたの柄の部分を、馬の口になる程度に切り、ススキの根本の白いところをさして足にする。この馬の背にそうめんをのせて墓参りに行き、持ち帰って「オタナ」(盆棚)に供える。オタナは大正のころ作ったもので、木製の組立式である。高さは1メートル80センチ程度、コの字型になっており、中に2段の棚がある。上段には本尊様と仏壇の位牌、それから仏具一式を決められた順に並べる。下段にはお膳を置いて、その上に「ツクモ」を敷く。ツクモとは、カトギという3メートルくらいの茅のような植物で編む敷物である。現在、カトギは店で買っているが、昔は天竜川の河原へ行って青いうちに刈ってきた。そして、3、4日干しておくとよい匂いがしてくるので、これを1時間ぐらいかけて敷物に編んだ。幅は棚に合わせて1メートル、前は少したらして、線香や蝋燭を置く台の下にも敷きこむようにする。馬を供えるのは、このツクモの上である。2頭をこちら向きに置き、両側には前日とった山野草を飾る。そして、15日の夕方まで、毎日供物を供えて供養する。
 夜は迎え火を焚く。このとき燃やすのは、シラカバの皮である。シラカバは油があるため燃えやすく、火がつくと消えにくい。かつては山まで採りに行ったが、今は店で買っている。火を焚くのは家の前の川べりである。30センチ程度の間隔で3箇所くらいに皮を置き、いっせいに火をつける。燃え尽きたあとは、残りかすを川へ投げる。この行事はどの家庭でも今もやっているが、近ごろは子供の花火のついでに、14日、15日も焚く家が多い。
 盆の3日間はいろいろな人がお参りにくる。家から出た人も、墓参りはしなくても必ず線香を上げに来る。
 16日は送り盆である。早朝、オタナをすべてかたづける。棚に敷いていたツクモに、ナスの馬のほか、供えていた花、果物、野菜を包む。そしてこれを縄でしばって舟のようにし、線香を立てて天竜川に流す。家族は流れていくのを見送ってから家に帰る。今は川に流せなくなったので、市のトラックが来て集めるようになった。最後に墓参りをし、夜、送り火を焚く。

..(8)十五夜
 前夜より水に浸しておいた米を、朝、引き上げておく。この米を臼で挽き、団子を作る。この団子を皿に盛り付け、葉付きの里芋とススキの穂とともに供える。

..(9)彼岸
 春彼岸も秋彼岸も、仏壇に先祖の好物であった果物や菓子を供え、中日に墓参りをする。

..(10)祭
 春日神社の例祭は、毎年9月30日が宵宮で、本祭は10月1日である。西町区で選出された議員の中から神社役員を選び、地区担当の神職により神事を行う。経費は各戸均一の寄附で一切をまかなっている。お札は後日届けられる。

.6 信仰
..(1)神棚ほか
...ア 神棚
 オオエの神棚には、左から、恵比寿大黒、金毘羅宮、伊勢(天照皇太神宮)、春日神社を祀っていた。これは春日神社の神主の指示でやったものである。現在も隠宅の棚に同じ順に祀っている。
 神酒徳利にさす「オミキスズ」(神酒の口)は、松本で作られたものである。毎年買い換えるということはなく、正月に徳利に酒を入れ、そのとき根元の紙だけを取り替える。

...イ お札
 古いお札は、正月飾り、ダルマなどとともに毎年どんど焼きで燃やしている。木札の方は、これまでの札の上に重ねて打ちつけていく。ただし、良信氏の時代にはもうそのようなことはしていなかった。
 お札は神棚に上げたほか、倉の本戸(鍵付の板戸)などに貼った。現在その戸に残されている札は、つぎのようなものである。
  奥の倉 「賊難除 高尾山」「火防除 高尾山」「盗賊除神璽 三峯神社」「防災火難 消除祭神符」
  中の倉 「盗賊除神璽 三峯神社」
  南の倉 「盗賊除神璽 三峯神社」「火防之神璽 三峯神社」「火災掃除守護 駒嶽」
  作倉  「火災掃除守護 駒嶽」「御祈祷神璽 三峯神社」

...ウ 屋敷神
 伊那部宿ではほとんどの屋敷の裏に稲荷があった。しかし処分されてしまい、現在、祠のある家はいくつもない。良信氏は商売をやっていたため、その後、昭和40年(1965)に豊川稲荷を迎え、石の祠を買って祀っている。

..(2)講
...ア 大伊勢講
 講の始まりははっきりしない。ただし、寛政9年(1797)の講帳が残されており、200年以上の歴史があるのはまちがいない。当時は「大々講」といい、伊勢神宮への代参も行っていた。
 講員は当初より26軒である。新たな加入は認めていない。なお、現在は高齢化のため15軒で行っており、代参も5、6年前から中止している。
 代参で伊勢に行くのは1月10日前までと決まっていた。全員で行ったり、5年に1度全員で行くというやり方をしたこともあった。抽選で決めるようになったのは戦後、昭和24、5年ごろからである。行くのは2人で、当たった人は翌年からの抽選に加わらないので、全員が交代で行くことになった。交通手段は車で、宿泊はせず日帰りだった。昔は歩きだったが、その時代も1月10日までに行って帰ってきていた。経費は1人25000円ぐらいかかった。講の積立金から出し、お札の購入代金も全員から集めた。現在は代参がなくなったため、積立金の額も減らしている。戦時中、代参は中止していた。
 講の集まりは、むかしは1月、4月、7月、10月と、年に4回あった。いずれも16日である。このうち1月を「初講」といい、このおりに伊勢の大麻を配布した。宿は、家並みの順にまわった。当番は大変で、しかも毎回順送りになるためまわってくるのが早かった。集まりの席には「天照皇太神」の掛軸をかけ、酒1本、塩、お洗米、かしらつき、野菜を供える。そして、お膳をもうけた。料理は、最後のころは5品に限っており、ほとんどお茶菓子程度だった。費用は、初穂料として300円を集めた。これを宿の家にわたし、その家で酒などを買い揃えた。この初穂料は代参の積立金とは別である。
 戦後、集まりは1月だけになった。今も毎年1月16日にやっているが、宿の家でやるのではなく、料亭で席をもうけている。現在、会費は年1万で、この一部を費用に充てている。
 15年ぐらい前に、春日公園に天照皇太神の碑を建てた。これは元、槌屋公園(三澤家の先代当主が作った公園)にあったものである。この碑を建ててから、毎年4月16日、碑の前に神酒、塩、米、かしらつき、野菜を供え、神主を頼んで祈祷している。祈祷の内容は、国家安泰、五穀豊穣、家内安全などである。そのあと社務所で直会をやる。このとき出るのは、魚料理の折り詰めと酒である。

...イ 秋葉講
 お札をもらってきて倉の扉に貼る。戦後はやっていない。

...ウ 庚申講
 60年に一度庚申塔を建てるもので、15、6年前に長桂寺の敷地に建てた。
 伊那部宿は中央に長桂寺があり、力を入れていたので、そんなにやらなくてもいいだろうということで、戦後2回ぐらいやってやめてしまった。

...エ 戸隠講
 三澤家では先祖代々信仰している。伊那部には信仰している家が3軒あり、1軒が代表でお金を送っている。毎年正月にお札を送ってくるので、これを神棚に祀る。

...オ 金比羅講
 戦後は中止している。

.注
1 製薬業は、12代荘衛が早世した後、現当主良信氏が幼かったため、良信氏の母が分家の人々を相談役に続けていたが、昭和12年ごろに廃業した。(『旧三澤家住宅移築修理報告書』p.4)
2 旅籠は、12代荘衛のとき、大正年間に廃業した。(『旧三澤家住宅移築修理報告書』p.4)

.参考文献
 伊那部宿を考える会   2000『伊那部宿総合調査報告書』伊那部宿を考える会
 川崎市         1973『旧三澤家住宅移築修理報告書』川崎市
 西町区         1961『西町風土記』伊那市西町区
 西町区誌編纂委員会   1982『西町区誌』伊那市西町区
 西町区百年誌編集委員会 2002『西町区百年誌』伊那市西町区

.図版キャプション
写真1 移築前の三澤家住宅
写真2 三澤家の屋根
図1  移築前の間取り
図2  民家園に復原された当初の間取り
写真3 三澤家家相図(明治24年/三澤家蔵)
写真4 旅籠看板
写真5 神棚
写真6 門口の軒に打付けられた祈祷札


(『日本民家園収蔵品目録4 旧三澤家住宅』2005 所収)