鹿児島県大島郡和泊町内城 高倉民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が「沖永良部の高倉」(鹿児島県大島郡和泊町内城、山田中安家旧蔵)について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成27(2015)年7月2日から4日に行った。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話をうかがった方は次の通りである。
  仲津留政隆(なかつるまさたか)さん 昭和12(1937)年生まれ
仲津留さんは高倉の旧所蔵者、山田中安さんの孫に当たる方である。現在は同町和泊でつるやホテルというホテルを経営されている。仲津留家は元は山田家のすぐ近くにあり、政隆さんは幼いころからよく山田家に出入りしていたという。今回、仲津留さんには同ホテルでお話をうかがった他、高倉の跡地までご案内いただいた。高倉については解体工事にも民家園の職員は立ち会っていないため、旧所在地を確認できたのは今回が初めてである。なお、直接お話を聞くことはできなかったが、文中お名前の出てくる方々を記しておく。
  山田中安(なかやす)さん (移築時当主)
  山田まつさん       (中安さん妻)
  仲津留つるさん       明治43(1910)年生まれ 平成21(2009)年没
               (中安さん五女、政隆さん母)
 この他、えらぶ郷土研究会の会長で、現在和泊町歴史民俗資料館に勤務されている先田光演(さきだみつのぶ)氏にもお話をうかがった。先田氏には沖永良部島の高倉の状況についてご教示いただいた他、現存するいくつかの高倉をご案内いただいた。
 日本民家園では平成7(1995)年2月7日と8日にも沖永良部島で、同9日には奄美大島で調査を行っている。この調査は高倉の葺き替えのために行ったもので、聞き取りの内容も屋根のことに限定されている。調査に当たったのは大野敏(当時当園建築職、現横浜国立大学教授)と野呂瀬正雄(当時民家園建築職)、お話をうかがった方は次の通りである。
  吉田喜信さん 大正9(1920)年生まれ 沖永良部島の屋根葺師
  前嶋元義さん 大正7(1918)年生まれ 奄美大島の屋根葺師
なおこの調査の際、大野と野呂瀬は高倉跡地の確認も試みたが、場所が不明で到達できなかった。
 以上の聞き取りの他、4に出所を示した昭和44(1969)年の記録写真も補助資料として活用した。この写真は、移築を仲介し、解体に立ち会った村田弘之氏(鹿児島大学農学部)が撮影したもので、同氏の聞き取りにより部材の名称等が赤ペンで記されている。
3 現地の言葉・言い回しについては、片仮名表記またはかっこ書きにするなど、できる限り記録することに努めた。片仮名表記としたのは、次のうち聞き取り調査で聞くことのできた語句である。
  建築に関する用語(部屋・付属屋・工法・部材・材料等の名称)
  民俗に関する用語(民具・行事習慣・屋号等の名称)
4 図版の出所等は次の通りである。
  1,7     佐塚作成。
  2,5,8〜16  平成27(2015)年7月、渋谷撮影。
  4,17    平成27(2015)年10月、渋谷撮影。
  3      平成7(1995)年2月、大野撮影。
  6      昭和44(1969)年、村田弘之氏撮影。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれていることがある。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 日本民家園にある「沖永良部の高倉」は、沖縄と奄美大島のあいだに浮かぶ沖永良部島(おきのえらぶじま)より移築された。住所で言えば、鹿児島県大島郡和泊町内城(わどまりちょううちじろ)である(図版1)。東日本の民家を中心とする当園では例外の1棟だが、川崎市には沖縄出身者が多く、そうした人々にもふるさとの建物をと移築が計画された。沖縄でなく鹿児島県奄美群島の建物が選ばれたのは、昭和44(1969)年当時、沖縄がまだ米軍統治下にあったためである。
 実は、この倉の選定作業や移築の交渉に日本民家園は関わっていない(注1)。引き続く解体作業にも立ち会っていない。そのため、旧所蔵者への聞き取りは行われておらず、倉の使い方や家の様子についてはこれまで全く情報がなかった。しかし、今回幸いにして高倉の旧所蔵者、山田中安(なかやす)さんの孫に当たる仲津留政隆(なかつるまさたか、図版2)さんにお話を聞くことができたため、その聞き取りを中心に、高倉と、山田家の暮らしの2点について報告する。政隆さんは昭和12(1937)年生まれであり、したがって時代的には昭和10年代から20年代末ごろまでのことが中心である。

.1 高倉
 はじめに高倉について、(1)沖永良部島の状況、(2)山田家の状況、の2つに分けて記す。

..(1)沖永良部島の高倉
 沖永良部島の状況については、和泊町歴史民俗資料館の先田光演氏のお話の他、同氏のご案内で実現した和泊町玉城(たまじろ)の榮家と同町根折(ねおり)の大山家での聞き取り、さらに地元で屋根葺き職人をしていた吉田喜信さんへの聞き取りを元に記す。吉田さんは学校卒業後、屋根葺きの仕事につき、カヤ刈りやカヤの運搬などから経験を積んでいったという方である。

...ア 概況
 沖永良部島には、昭和55(1980)年の調査では87棟の高倉があった(注2)。これが平成12(2000)年の調査では47棟(注3)、平成16(2004)年には35棟(注4)、平成25(2013)年には19棟となり(注5)、現在はさらに減少している。
 減少の要因は主に2つある。まず1つ目は農業の構造が変化したことである。沖永良部島では主要な作物が米からサトウキビに変わった。そのため、米の保管に使用していた高倉が不要になったのである。2つ目は台風である。沖永良部島はいわゆる台風銀座であり、強力な台風に繰り返し襲われている。明治31(1898)年の台風では450棟の高倉が全壊した(注6)。その後も、陸上における日本の最低気圧907.3hpを記録した昭和52(1977)年の台風9号(沖永良部台風)でかなりの数が倒壊した。近年も平成24(2012)年の台風17号で歴史民俗資料館に移築されていた和泊町指定文化財の高倉が倒壊している。
 こうした状況の中、かろうじて残った高倉も現在は穀物倉庫としての役割は終えている。登り降りするのが大変だということもあり、あまり出し入れしないものの置き場所になっている例が多い。それでも残されているのは、高倉が富の象徴であったことも理由の一つのようである。倉のある家とは倉に積む米のある家、つまり裕福な家であった。

...イ 流通
 高倉は流通するものだった。榮家の高倉は同町瀬名(せな)で買い、移築したものである。ご主人が倉好きでどうしても買うと言って入手したという。大山家の高倉も同じく瀬名より買ってきたもので、もともと瀬名のその家では奄美大島から買ってきた。和泊町歴史民俗資料館の高倉(図版3)は同町古里(ふるさと)の重村家旧蔵のものだが、重村家では大正8(1919)年に加計呂麻島諸鈍(かけろまじましょどん)の林家から購入移築した。林家は同島の富豪で、10棟以上の高倉を持っていた。重村家が購入したのはその中で最も大きい一番倉であり、価格は150円だったという(注7)。

...ウ 構造・部材
 礎石のことを「イシジ」「イシデイ」という(注8)。イシデイの「デイ」とは「床」という意味である。
 倉の脚となる柱の用材としては、イジュ(注9)・シギ(シイノキ)・イク(アカイク、シロイク)・松などが使用された。シギは沖永良部島の大山に生えるが、皮を剥いで加工しても虫喰いの被害が大きかった。イクは桃であり、イジュとは別の木である。アカイクは奄美大島に行かないと入手できないため、いかだに組んで運搬した。
 屋根の垂木やこれに取り付ける屋中には沖永良部島の「アクチー」という木を使った。この木を手に入れるため、人夫を連れて遠くの山まで探しにいき、そこから切って運んできたという。ただし、これらの部材はまっすぐな木であれば杉でも何でもよかった。
 床板を支える根太を「ココノツギ」「イナムチ」という。ココノツギとは、9本あることによる呼び名である。イナムチとは「稲を持つ」という意味であり、この場所に俵を入れることに由来する呼び名である。

...エ 葺き替え
.... カヤ
 高倉でなく通常の民家の場合、屋根の葺き替えには直径6.5〜7寸程度のカヤ束が1800束必要だった。牛を使うと背中側に左右4束づつ、腹側に左右5束づつ、1頭で計18束運ぶことができるので、牛100頭分ということになる。
 屋根材として使用したのはススキとトウジュキである。ススキは沖永良部島でも「ススキ」と呼ぶ。「トウジュキ」とはヨシのような草であり、葉の幅が広く、3月に花を咲かせる。実際に葺くときはこの2つを混ぜて使用するが、割合としてはトウジュキの方が多かった。葺き替えは人手の都合に合わせて行うため、カヤの刈り取りも何月と決まっておらず、葺き替えに合わせて行った。まだ青いものはそれだけ重かったが、2、3日干して枯らせれば問題なかった。

.... 葺き替え
 葺き替え作業はカヤを屋根に上げることから始まる。上げるときはカヤ束をまとめて縛ってから上に載せ、この縄を鎌で切り、皆で屋根に広げていった。
 カヤは竹で押さえ、縄で締める。この取り付けは3人で行った。屋根の下からハリを刺す者が1人、上でそれを取る者が1人、カヤを押さえる者が1人である。ハリを刺す役は主に年配者が行い、若い者は皆屋根の上に乗った。
 ハリはまず、内側から外側に突き通す。上の者がこのハリの穴に縄を通したら引き戻し、今度は少し上に突き通す。そして縄で締める。ハリを突き通す位置は重要である。その位置によって縄が締まらなかったりカヤが落ちたりするため、長年の経験が必要である。こうした作業を繰り返し、カヤを固定する。締めて固定することを「キビル(決める)」という。ハリは長さの違うものを用意しておき、屋根の下の方をやるときは長いものを使った。
 カヤは足で押さえ、離さないようにしなければならない。カヤは滑るので離すとすぐに落ちてしまい、しかも一度落としてしまうと全て落とすことになった。この作業は年を取ると足に力が入らないため大変だった。カヤは長いものと短いものを両方使った。平均を保つため、長さが足りないときは長いカヤで押さえるというように、長いものと短いものを組み合わせて使う。長いものは主に根元を上にし、穂だけを外に出すようにして葺く。このようにして軒部分からカヤをぐるっと1周止めていき、これを通常5周目まで行う。最後、一番上の段には短いカヤだけを使うが、棟から2尺ぐらい上がる形になった。
 棟部分はこうして飛び出したカヤを重ね、四角くする。長いカヤは隅に入れたり、短いカヤは重ねたり、さらには四隅にも入れていく。すると厚みが2尺ぐらいになる。これを4本の竹で押さえる。竹は生のものを丸いまま使い、余った部分は折り曲げ、竹のしなりを利用して四隅で締める。生のまま使うのは折ることができるからである。これが済んだらさらに短いカヤで押さえ、イキャクを取り付けるまでロープで仮止めする。

.... イキャク
 沖永良部島の高倉の特徴として、屋根の押さえを棟から掛け渡すことがあげられる(図版4)。この押さえを「イキャク」「イーチャデ」という。葺いてすぐのときはカヤが「ゆわゆわ」しているため、台風のときに下から持ち上げられないようにするための工夫である。材料は竹で、これを編み込んで作った。
 イキャクは屋根に載せる前に片面ずつ作っておく。形状としては縦方向に垂らした3本の割竹に、丸竹を横方向に差し込んだものである。縦方向の割竹はそれぞれ3本で構成されており、互い違いにして横方向の竹を編み込むようにする。この横方向の竹は14〜15段ぐらいになるため、あらかじめ切っておく。この際、一番下に取り付けるものから順番に5〜8寸ずつ短くする。屋根の面に合わせ、最終的に山型にするためである。屋根は4面あるため、したがって各長さの竹が4本ずつということになる。横方向の竹を固定したあと、縦方向の割竹3本のうち2本は折り返して止めるが、1本はそのままにして反対側のイキャクと組み合わせるときに使用する。カヤの運搬から取り付け、それから竹を切ってイキャクを付けるところまで3、4人で1日で済ませる。そのためこうしたやり方になったが、かつてはかごのように四つ編みで編んでいた。
 実際にイキャクを載せるときは屋根の各面に梯子を掛け、まず上に親方が1人で登り、立っていると危ないので棟にまたがる。棟は麻などの丈夫なロープで締めて仮止めしてあるが、イキャクで押さえるまでは人が乗るとカヤが落ちやすいので、他の者は登らせなかった。
 はじめに表側の広いところから裏側部分に掛けるものを載せていく。裏は狭いからである。このとき、最終的に下になる部分を先にして上げていく。親方は切った縄を持ち、下から上がってきたイキャクを受け取り、頭上でゆっくりかわして裏側に下ろしていく。次に表側部分を上げ、上で前後2面のイキャク同士を組み合わせる。次に左右のものを上げ、同じように組み合わせる。こうしてできた縦方向のイキャクと銫方向のイキャクを縄で締めてしっかり組み合わせる。それから竹の上に皆で乗り、足で押さえつけて屋根に止める。葺き替え作業のうち、このイキャクの取り付けが一番の重労働だった。
 イキャクを載せたあと、今度はこれを下から順番に屋根にクイで止めていく。「クイ」は直径約3cm、長さ120〜150cmほどのもので、「アマギー」という水に濡れても腐りにくい木を使う。腐りにくいものを使うのは、腐るとイキャクが飛んでしまうからである。クイの先端は鉛筆のように尖らせ、屋根の面に直角ではなく、斜め上に向かって刺していく。このようにすれば屋根の内側に突き出すこともなく、しかも抜けてこなかった。刺したら次はクイとイキャクを縄で止めていく。ここまでするのは台風対策のためだが、それでもなおしばしば風で飛ばされた。そのため、2年か3年に1回は掛け直さなければならなかった。

.... 仕上げ
 葺き終えたあと、軒の部分だけはハサミを入れる。軒の出は家によって異なる。軒以外の部分は仕上げに刈り込むことはせず、表面のカヤを道具で叩くこともしない。ただしそのためには、葺くときにカヤの「ハッパ」を上手に下から合わせなければならない。でたらめに出したり引っ込めたりすると、凸凹になってしまうからである。これも経験がなければなかなかできない仕事だった。

.... 台風
 きれいに仕上がった屋根は台風のときでも丈夫だが、そうでないものは風で下から持ち上げられてしまった。特に、中に風が入ると怖かった。
 榮家で話を聞いたところ、実際に台風で壊れた倉を見たら、本体部分が脚からはずれ、そのままの形で真っすぐ地面に落ちていたという(注10)。


...オ 利用
 榮家では粟を詰めた俵をたくさん積んでいた(注11)。こうした穀物類を積むのは中央部分で、周囲の傾斜部分(倉壁)にも物を置くことはできたが、この場所にはどの家もわらを置いていた。かくれんぼのとき、こうしたわらの中に隠れるとなかなか見つからなかったという。
 榮家では米俵を上げるときは3人がかりで作業した。このとき使うのは木に刻みを入れた一本梯子である。この梯子はわざと登りづらくなっている上、普段は外して置いてあった。倉には鍵がなかったため、防犯上の工夫である。この梯子のことは単に「ハシゴ」といった。
 倉の下は、ヌキの上に杉板で床を張り、農具や肥料等の収納に使った(図版5、注12)。ただし吉田さんによれば、床を張らないのが本来の形だという。

..(2)山田家の高倉
 次に、山田家とその周辺の高倉について、政隆さんのお話を元に記す。

...ア 概況
 高倉のことを「クラ」といった(図版6)。年代は不明だが、山田家のクラは政隆さん(昭和12年生まれ)が小さいころからあった。近隣では両隣の中生(なかいく)さんと中重(なかしげ)さんの家にもクラがあった他、集落は全体的に裕福だったため、どの家にも大体クラがあった。逆に言えば、経済的に厳しい家にクラはなく、小作人にも必要なかったのである。
 しかし、稲作をやめ米の保管場所が不要になると、クラは邪魔になり、姿を消していった。クラがあると台風のときなども心配だった。

...イ 構造・部材
 クラの柱は4本の他、6本、9本、12本のものがあった。柱が多いほど丈夫で大きく、最も多い12本のクラになるとかなりの大きさがあった。こうしたクラがあるのは米のたくさん採れる裕福な家だった。
 山田家のクラは柱の根元にコールタールが塗ってあった。柱の上部には、ネズミが登らないようトタンが巻いてあった(注13)。
 クラは台風には比較的強かった。しかし台風が通過したあと「どこそこのクラがやられた」という話を聞くこともあった。

...ウ 葺き替え
 屋根はカヤ葺きで、材料には全てススキを使っていた。ススキは家周辺のもので、刈り集めたあと乾燥させて使用した。
 葺き替え作業は梅雨以外の時期に家族親戚総出で行った。きれいに束にしたカヤをわら縄で下地にくくり付けて行く作業であり、住宅もカヤ葺きだったため手慣れてはいたが、大仕事だった。集落によっては「トーリョー(棟梁)」と呼ばれる屋根葺き職人がいるところもあった。名の知れたトーリョーが沖永良部島全体で5、6人いた。

...エ 利用
 山田家のクラは入口が東を向いていた。入口はどのクラも狭かった。
 中に入れたのは主に米であり、モミの状態で俵に詰め、積み上げていた。俵は1俵約60kg、出し入れするときは2人から4人で、上と下に分かれて作業した。このときに使用したのが、1本の木に段を刻んだ独特の梯子である(6頁参照、注14)。上げるときには俵を肩に担ぐことになるが、安定を良くするため体を横にして上がった(注15)。
 クラの中は暑く、寝ることはなかった。一方、クラの下は涼んだり、子供が昼寝や遊びに使ったり、ちょっとした物置として使ったりしていた。広い家ではクラとは別に、物置としてナヤを持っていることもあった。

.2 衣食住
 ここからは高倉の旧所蔵者、山田家の暮らしについて記す。
 山田家のあった内城は1400年ごろ島を支配していた世之主(よのぬし)の居城があった場所である。この内城地区の家々は世之主の家来の子孫だという言伝えがあったというが(注16)、政隆さんからはそうした話を聞くことはできなかった。
 山田家は農家で、地域では裕福な家だった。中安さんと妻まつさんのあいだには子供が7人おり、この子供世代が幼かった当時はまだ中安さんの親が存命だったため、家族は10人だった。このころはどこの家でも10人くらいは住んでおり、内城で一番裕福だった村山家は22人家族だった。この家では朝は3回に分けて食事をしていたという。
 山田家は長命な家系で、政隆さんの母つるさんが100歳まで生きた他、その兄弟も98歳、103歳と大変長生きだった。

..(1)住
.... 敷地
 中安(長男)さんの屋敷は山を背にした土地にあった(図版7)。向かって右、東側には弟の中生(次男)さんの屋敷、向かって左、西側には同じく中重(三男)さんの屋敷があった。内城はかつては深い谷間の集落であり、昼なお暗い土地だったという(注17)。元は豊かな水田地帯で、そのため倉を持つ家が多かった。
 土壌は、山の上の方は赤土だったが、山田家周囲は白い砂状の土だった。花崗岩が風化したもので、こうした土は沖永良部島ではこの地域だけに見られた。鹿児島のシラス同様、雨が降ると土砂崩れを起こしやすかった。
 山田家の敷地は道から少し上がるようになっており、入口に階段があった。この階段は土を固めたもので、木で土留めしてあった。

.... 防風林
 屋敷の周囲に防風林があった。植えていたのはガジュマルである。この木は非常に大きくなったが、木質が軟らかいため木材としては利用できず、特に使い道がなかった。防風林はどの家にもあり、それが家と家との境界になっていた。
 山田家の敷地には、防風林とオモティヤのあいだ、それからオモティヤの南側にみかんの木があった。実がなると採って食べていた。

.... 水利
 山を背負う土地だったため水は豊富だった。土にも水気が多く、ガジュマルなどの木がよく伸びた。
 井戸のことを「チンチョ」といった。水の豊富な土地であっても貧しい家にはチンチョがなく、そうした家では周囲の家から水をもらっていた。
 山田家のチンチョは深さ6mほどで、釣瓶で汲むようになっていた。ちなみに、西側の中重さんの家にもチンチョがあったが、土地が一段低かったため非常に浅く、山裾からそのまま水が湧いているような状態だった。

.... オモティヤ
 山田家の住宅は、「オモティヤ」と呼ばれる建物と「トーグラ」と呼ばれる建物に分かれていた(図版8、注18)。いずれも屋根は茅葺きで、壁は杉の板壁だった。両者のあいだには平たい石が渡り廊下のように置いてあり、2つの建物を行き来する場合には戸を開けてこの石の上に下り、また戸を開けて隣の建物に入ることになった。ただし、この渡り廊下部分に屋根はなかった。
 オモティヤは寝間であり、客間である。4間四方で、建坪は約16坪だった。大きい家は4間×5間、あるいは5間四方あった。
 オモティヤ内部には4つの部屋が田の字型に並び、南から東にかけてL字型にエンガワが設けられていた。このエンガワは板敷きで幅は3尺、建具としては板戸があり、戸袋が南側には西の端に、東側には北の端に設けられていた。台風が来るため戸袋は重要で、頑丈な作りになっていた。こうしたエンガワがどの家にも大体あった。
 部屋はタタミノマ(畳の間)だった。それぞれの部屋は「ジイチャンバアチャンノヘヤ」「コドモノヘヤ」などと呼ばれていた(注19)。エンガワとの間仕切りは障子、部屋同士の間仕切りは襖で、行事や祝儀で親戚がたくさん集まるようなときは建具を外して大広間にした。こうしたとき最も格式が高い部屋は南東の座敷で、この座敷の東側に設けられていた先祖棚(51頁参照)の下が上座だった。
 オモティヤは風通しが良かった。通常は正面から出入りしたが、裏からでも脇からでも入ることができた。泥棒などはいなかったため防犯の心配はなく、鍵をかけることはなかった。
 この建物の北側に便所があり、部屋から直接行けるようになっていた。

.... トーグラ
 トーグラは茶の間と台所である。広さはオモティヤの半分ほどだった。
 内部は東西2つに分かれ、東側の床上部分は畳敷き、西側は土間になっていた。
 床上部分は家族の食事場所である。座布団を敷いたり、直に座ったりしてショクダイ(食台)を6人ほどで囲んだ。食事の他、ちょっとした集まりにもこの場所が使われた。
 土間は「ドマ」と呼んだ。北西の角にはカマドが設けられていた。釜口は3カ所ほどで、背後の板壁には防火用の土が塗ってあった(図版9)。燃料はマキである。松の木などを使っていたが、周りが山だったので不自由することはなかった。マッチがなかったため、マキの燃え残りを灰の中に埋めて火種を保存していた。
 この建物の北側に便所と風呂があった。別棟ではなく、いずれも中から直接行けるようになっていた。
 便所のことを「ベンジョ」といった。くみ取り式で、畑に運んで肥料にしていた。ベンジョはどの家でも大体北側、裏の暗いところにあった。大きな家では山田家のように便所が2カ所あったが、オモティヤの方にだけあるのが一般的だった。
 風呂のことを「フロ」といった。ベンジョの隣がフロになっていた。
 トーグラもオモティヤと同じく、どこからでも出入りできた。

.... 家畜小屋
 山田家には入口を入ってすぐ右手に牛小屋が、トーグラの裏手に豚小屋があった。
 牛小屋を「ウシノヤ」とか「ウマノイエ」といった。ウマノイエともいったのは、この小屋で牛も馬も一緒に飼っていたからである。エサも同じものを与えていた。
 豚小屋のことを「ゥワーノヤ」といった。「ゥワー」とは豚のことである(ちなみに馬は「マー」という)。山田家では残飯をエサに、豚を1、2頭飼っていた。

..(2)食
.... 主食
 主食は米だったが、終戦後、米がなかったときはイモを食べていた。
 精米は自家用の手回し精米機でやっていた。ただし、集落には精米所があり、機械式の精米機もあった。

.... 救荒食
 昔は野生のソテツがたくさんあった。丈夫な木で、ガジュマルと同様、家と家の境界にも使われていた。
 ソテツの葉を利用することはなかったが、実の方は毒抜きして食糧にした。この毒抜き作業は、実を剥き、潰してデンプンを作り、さらに水に晒すという手間のかかるものだったが、飢饉のときは米代わりに食べた。

.... 肉
 肉といえば豚肉だった。豚が一番安かった。山田家では豚を1、2頭裏の小屋で飼っており、正月には潰して食べた。これが何よりのご馳走だった。潰したものは頭から足先まで全部食べるが、一部は塩漬けにして保存食にした。
 かつては島に家畜を潰す専門の人がいた。

.... 酒
 集まりなどで飲む酒は黒糖焼酎だった。現在は焼酎工場がいくつもあるが、昔は発酵から蒸留まで全て家で行った。原料のサトウキビも自家製だった。

..(3)衣
.... 衣類
 普段着は大人も子供も着物が多かった。芭蕉布で仕立てたものは風通しも良かった。
 下着は、子供はパンツだったが、親の世代はフンドシを使っていた。一本になっているもので、暑いためきっちり締めることはせず、横から見えたという。男性の他、女性でも政隆さんの祖母の世代はフンドシを使っていた。

.... 履物
 履物は手製のわら草履だった。下駄や靴は、本土に行った人が土産にくれたときに履く程度だった。

.... 寝具
 夏は窓を開けっ放しにし、蚊帳を釣って寝た。布団は使わず、大人は畳の上にござを敷いて、子供は畳の上にそのまま寝た。年寄りは板の間にそのまま寝ることもあった。
 冬はやはり寒かったが、10度以下になることはあまりなかったため、毛布1枚あれば一年中大丈夫だった。

..(4)暮らし
.... 子供の遊び
 政隆さんが子供のころは野球の道具もなく、遊びといっても相撲をとる程度だった。

.... 災害
 災害で一番怖かったのは台風である。しかも毎年来た。雨の方は「いくら降っても海に流れるだけ」なのでそれほど怖くなかったが、風の方は恐ろしく、家が壊されたり、小屋が飛ばされたりした。サトウキビや花などの農作物も台風が来ると倒れてしまった。あちこちで木が折れているのも台風のためである。昭和52(1977)年の沖永良部台風は特に酷く、当時の金で100億の損害があったと言われている。こうした気象条件のため、住宅はどこも木造から鉄筋コンクリート製に建て替えていった。
 島では風に塩気があるため、塩害で車やエアコン、自動販売機など、金属製品がすぐに錆びて駄目になった。エアコンの室外機は水洗いしないと10年もするとぼろぼろになる。車も同じように傷みが早いため、余程の金持ちでないと新車を買うことはなく、一般家庭では古い型の軽自動車を乗りつぶすことが多いという。
 地震は普通にある。火事は少なく、昔は住宅も全て木だったが、焼けた話は聞かなかったという。

.... 戦争
 戦時中は背後の山に防空壕があった。助産師やノロをしていたまつさんは男勝りの元気な人だったが、飛行機だけは怖がり、グラマンなどアメリカの飛行機の音が聞こえるとどこにいてもすぐに防空壕に逃げ込んだ。

.3 生業
..(1)概況
 山田家は農家である。稲作と畑作が中心で、養蚕はやっていなかった。
 内城地区は農家が多く、それ以外は役場の職員や学校の教員がいる程度だった。しかし、農業では次第に食べていけなくなり、生活は大変だった。そのため集落を離れる人が多く、現在は空き家ばかりが目立っている。
 集団就職の行き先は関西方面が中心で、特に神戸に出る人が多かった。

..(2)稲作
 もともとは稲作が主で、二期作を行っていた。しかし、現在のコシヒカリのような粘り気のあるものではなく、亜熱帯産のパサパサした品種だったため、あまりおいしくはなかったという。
 米は自家用の他、出荷もしていた。物々交換にも使えたので昔は値打ちがあったが、その後、減反政策により田んぼを畑に切り替えていった。

..(3)畑作
 畑ではキビ(サトウキビ)を栽培していた(図版10)。キビは砂糖に加工したり、これを原料に焼酎を作ったりした他、本土にも輸出していた。
 キビの収穫は1月である。収穫するとまず葉を取り、畑の中のサトウゴヤ(砂糖小屋)に据えた圧搾機(砂糖車)で茎を搾る。この圧搾機には大きな鉄の歯車が3つあり(図版11)、中央の歯車を牛馬に引かせて回し、左右の歯車との間に茎を入れて汁を搾り取った。このとき一度にあまりたくさんの茎を入れてしまうと、牛でも引けなくなった。採集した汁はそのままでは薄いため、火で煮詰めて砂糖にした。これが黒糖である。一方、搾りかすも無駄にすることはなく、燃料として使った。
 なお、現在沖永良部島では、ジャガイモや花の栽培が中心になっている。

..(4)牛馬
 耕耘機がなかった時代は畜力が頼りだった。飼育されていたのは9割が牛で、馬は1割ほどだった。
 農家は牛を飼う家が多かった。子牛を育て、競りにかけると良い値段で売れたからである。飼われていたのは和牛で、通常は1頭か2頭だった。
 山田家では牛も馬も飼っていた。馬は牛に比べて脚が早く、キビの圧搾機も馬に引かせていた。

.4 交通交易
..(1)交通
 政隆さんの父は騎兵隊にいた人で馬が好きだった。そのため、マチ(和泊)に出るときは馬に乗って行った。政隆さんご自身も馬が好きで、たくさん乗ったという。

..(2)交易
 かつての取引はお金での売り買いではなく、米による物々交換が中心だった。政隆さんが物心つくころは戦争だったため、基本的に物々交換だった。内城など山の方では米を作り、商店に持っていって衣類に替えた。海の方では魚を捕った他、海水を煮詰めて塩を採り、イナカ(山の方)へ持ってきて米に替えた。
 終戦後、沖縄と関わりの深い時期があった。沖縄にはアメリカの物資が入ってくるため、それが小さな密航船で運び込まれていたのである。
 その後、鹿児島からいろいろな商品が入ってくるようになり、そうしたものがお金で買えるようになった。沖永良部島には和泊(大島郡和泊町)と知名(大島郡知名町)という2つの町がある。普段は自給自足に近かったが、何か特別な買い物があるときは、内城では和泊の商店街まで出た。

.5 社会生活
.... 教育
 沖永良部島には小学校が8校、中学校が4校ある。高校も1校あるが、経済的に少し余裕があると奄美大島や鹿児島などの高校に子供を出す家が少なくない。政隆さんも家が裕福だったので、高校入学の際奄美大島に出て、東京の大学に進学した。
 島の高校に行った子供も、卒業すると一度は外に出ることが多い。大学や専門学校に進学する者だけでなく、就職する者も同じである。こうして関西や関東に子供たちが出て行ってしまい、跡継ぎがいなくなる例が少なくないという。それでも、子供たちには「勉強、勉強」と言って教育にお金をかける傾向があった。

.... 寄り合い
 内城には集会所があり、月に1回くらい寄り合いがあった。

.6 年中行事
 山田中安家は本家だったため家も大きく、行事のあるたびに親戚たちが集まった。子供たちも「今日は何があるぞ」と、頻繁に山田の家に連れて行かれた。

.... 正月準備
 正月前に餅をついた。モチマイ(餅米)も自家製で、収穫すると親戚に分けることもあった。

.... 正月
 正月には大勢の子供や親戚たちが土産をたくさん持って本土から帰ってきた。このときはお金も落としていくため、商店街も大忙しだった。
 このように家族が集まる機会は少ないため、還暦や米寿などの祝い事、三年忌や七年忌などの法事もこのとき一緒にやった。
 餅の他、こうしたときの一番のご馳走は豚である。親戚や集落の人も集まり、飲めや歌えやという雰囲気だった。

.... 節句
 桃の節句や「オトコの節句(五月節句)」など、行事のときは親戚が集まり、飲んだり食べたりした。豚を潰して祝うこともあった。

 彼岸
 彼岸には墓参りに行った。

.... 盆
 盆は8月である。13日に迎え、16日に送った。墓参りにも行き、酒と塩とちょっとした食べ物などを供えた。

.... 二十三夜
 年に数回あった二十三夜の日に、二十三夜の祭りをした(注20)。
 この日、ノロをしていたまつさんは夜中に出かけていった。政隆さんは小さいとき一緒に連れて行かれたことがあったが、眠くてぐずった覚えがあるだけだという。

.7 人の一生
..(1)婚礼
 中安さんの長男の長男は、山田家の屋敷で結婚式を挙げた。このときはオモティヤもトーグラも、部屋の間仕切りや廊下の建具全てを外した。さらには庭にも腰掛けを置き、そこにも人を座らせた。部屋の中とこの腰掛けで100人ぐらいは収まった。
 山田家で最も良い部屋はオモティヤ東南の角部屋である。この部屋の先祖棚の下が「カミ」と呼ばれる一番良い席で、ここに花嫁花婿そして年寄りを座らせ、あとはおおよそ年齢順に席に着いた。
 式当日は朝から準備をはじめ、夕方5時ごろから夜の7時か8時ごろまで祝宴を開いた。この日はさまざまなご馳走を食べた。肉が好まれるため豚肉が中心だったが、刺し身や焼き魚など魚も並んだ。その他、餅をついたり、菓子屋から菓子を取り寄せたりした。

..(2)還暦・米寿
 還暦や米寿の祝いは正月に一緒にやった。こうしたときは豚を潰し、親戚や集落の人々が集まって飲み食いした。

..(3)葬儀
 まつさんは昭和30(1955)年ごろ亡くなった。このとき葬儀に使ったのはオモティヤ南西の角部屋である。写真屋が来てまつさんの写真を撮っていたのを政隆さんは覚えているという。葬式のときは神官を呼んでオキョウ(祝詞)を上げてもらった。島にはこうした神官が数人いた。
 沖永良部島で火葬が一般に行われるようになったのは昭和46(1971)年である。まつさんの時はまだ「マイソウ(土葬)」であり、集落の若者たちが穴を掘った。葬式の手伝いに行くと、誰々はこれをやりなさいと仕事を割り振られた。
 山田家の墓は屋敷のそばにあった。墓の後ろには厨子甕があり、ここに遺骨を入れていた(図版12、注21)。山の上で見晴らしは良かったが、足場の悪い坂を登らなければならなかったため、跡継ぎが関西にいることもあってそちらに墓を移転した。他の家の墓も次々に移転され、減る一方だという。

..(4)法事
 法事は三年忌、七年忌と続き、最後は三十三年忌である。子供たちや親戚は正月やお盆に帰ってくるため、こうした折に法事も済ませた。

.8 信仰
.... 先祖棚
 オモティヤ東南の角部屋の東側に先祖棚が祭ってあった。昔の主人夫婦の遺影の他、かつては昭和天皇の御真影も祭ってあった。
 仏壇は別にあった。豪華なものだった。

.... ノロ
 中安さんの妻、まつさんはノロだった。カミサマをやったり(注22)、二十三夜の祭りなどを取り仕切ったりしていた。
 まつさんは器用な人で、助産師もやっており、何十人も取り上げた。

.... かまど石
 山田家跡地の井戸のそばに、御影石で出来た三つの石が残っている(図版13)。大事なものだと言ってまつさんが大切にしていたもので、あまり触るものではないとも言っていたという。

.おわりに
 中安さんの長男、次男は神戸に出た。屋敷はその後空き家になっていたが、火事になったらいけないということで取り壊された。また、中安さんが植えた防風林のガジュマルも非常に大きくなっていたが、道に倒れると危ないということで、これらも全て処分された。現在、山田家の屋敷跡は背丈を超える草に覆われている(図版14)。

.注
1 現地でこうした仕事に当たったのは、当時鹿児島大学農学部にいた村田弘之氏である。選定の経過や山田家との交渉内容についての記録は残念ながら残されていない。
2 鹿児島県教育委員会の調査による。
3 和泊町の調査による。
4 川上忠司氏の調査「平成16年度沖永良部島の高倉現状報告」による。
5 和泊町の調査による。
6 「平成16年度沖永良部島の高倉現状報告」によると、当時の『鹿児島新聞』にその記事が見えるという。
7 先田氏によれば、他の島に建っている倉を買い、解体して運んでくる例が戦前から少なくなかったという。購入先として多かったのは奄美大島である。奄美大島には倉専門の大工がたくさんおり、その倉は数が多かっただけでなく頑丈で大きかった。奄美大島の倉(以下「大島倉」)が頑丈だった理由の一つは、柱の用材として主に「イジュ」が使用されていたことである。ツバキ科のこの木は木質が堅く、樹皮にタンニンを豊富に含むためシロアリに強いという特徴があった。一方、沖永良部島で作られた倉(以下「永良部倉」)は主に松が使用されていた。松はシロアリの被害に遭いやすかったが、隆起サンゴ礁の島である沖永良部島は標高が低く、深い森がないためイジュの木は手に入らなかった。大島倉と永良部倉とで外見上最も違うのは、床の根太の部分である。大島倉の根太はココノツギと呼ばれ、両端が船の舳先のように反っているのに対し(図版15)、永良部倉の根太は井桁状に組んだ枠にほぞ差しにするようになっている(図版16)。沖永良部島では知名町(ちなちょう)の正名(まさな)・住吉周辺に大島倉が多く、同町上平川・下平川周辺に永良部倉が多かった。沖永良部でも昭和50年代までは倉大工がいたという。なお、民家園の高倉も、柱にイジュを用いていること、反りのあるココノツギが見られることから大島倉である(図版17)。
8 先田氏によると、礎石のほとんどは石灰岩であり、四角にはせず、円盤型に加工したという。石灰岩を使用したのは、この島が隆起サンゴ礁の島で石灰岩が豊富だったこともあるが、加工しやすかったことも理由の一つである。専門の石工はおらず、全て自分たちで加工しなければならなかった。
9 「イジュの樹皮はイジュコといい、その樹液は、魚をとるときに使う。海に入れると魚が腹を上にして浮き上がってくる(中略)イジュは建築用材としては水には多少弱いが硬質であり丈夫である。笠利町ではイジュを雨が直接かからない家屋の内部に使い、水に強いイヌマキを外回りに使う。」(『奄美大島笠利町の民家調査報告』12頁)イジュの樹皮には注7にもあるようにタンニンが含まれている。
10 先田氏に次のようなお話をうかがった。倉本体の最下部、柱の上に乗る部材を「ムルキ」という。柱の上部にはホゾがあり、これをムルキに差し込む形になる。ホゾの形状は円筒形で、倉大工によればこのホゾの周囲に指1本回るほどの遊びをあえて作ったという。これによって台風の風をある程度受け流す仕組みになっていた。
11 先田氏によれば、沖永良部島の知名町上平川周辺に次のような伝承が残っていたという。新しく高倉を建てたとき、その倉に最初に登るのは女性でなければならない。その家の娘か嫁の中から一人を選び、登るにあたって小さな俵を担がせる。大きさは通常の4分の1程度、中身も10分の1ほど入れたもので、この俵を「ヰーチドーラ」という。「ヰーチ」は足りない、定量に満たないという意味であり、「ドーラ」は俵である。この俵を女性に運び込ませると、その後は一切女性には登らせなかった。また、同じ知名町住吉地区には次のような伝承が残っていたという。倉内部の四隅に直径15cmほどのマーイシ(丸い石)を置く。この石を「ニャーガナシ」といった。「ニャー」は稲、「ガナシ」は「〜様」という敬称であり、稲の神様という意味である。特別祭りをするわけではなかったが、この家には実際に卵型のきれいな石が残っていた。この地区では他の家でも「今はもうそうした石は置いていないが、ずっと昔はそんなことをしていた」と、話だけは残っているという。なお、仲津留さんはこうした石は見た覚えがないとのことだったが、大山家では、昔、倉の中に黒い石があったというお話を聞くことができた。蛸島直氏の「高倉の神秘」には「ニャーガナシ」ではなく「イイナガシ」として事例が報告されている。「古い高倉の多くは,階上の四隅にマーイシと呼ばれる丸く固い石が置かれていた。その目的が何であるのかは判然としない。(中略)また別の何人かのインフォーマントによれば,ここにイイガナシ(穀霊,福の神)が宿るのであり,後に触れる俵上げの儀礼の際にここに供物が供されるのはそれ故であるという。」(15頁)
12 先田氏によれば、この場所には必ず臼が置いてあったという。ここで精米を行ったためで、必要に応じて上から米を下ろしてついていた。その他、わら綯いや竹細工などの作業場としても使われた。なお、床下部分には薪などを入れていたという。
13 先田氏によれば、古い倉ではトタンを巻く代わりに四角い板を取り付けていたという。
14 先田氏によれば、ハシゴの段数は9段か7段とするのが決まりだったという。
15 蛸島直氏の「高倉の神秘」には2通りの昇降方法があったことが報告されている。「梯子の昇降の仕方には,梯子に対して身体の正面を正対させるものと,右横を向けるものとの2通りがある。ともに左肩に俵を担ぐが,前者の場合,つま先のみを段にかけ,後者の場合,足もまた横向きの状態で,足裏の中部を段にかけて登るのである。一般に身体の屈強な者は前者の形を取ったようで,ある古老は,後者を女のやり方だといっている。」(16頁)
16 先田光演氏のご教示による。
17 先田光演氏のご教示による。なお、『和泊町誌 民俗編』には内城の特徴をとらえた民謡が掲載されている。標準語訳だけ紹介する。「どんなに好きで愛していても、内城へ嫁入りするな(嫁入りすると)内城の谷間で、天だけ眺めて暮らすようになるんだよ。」(634頁)
18 『奄美大島笠利町の民家調査報告』ではオモティヤに「表屋」の字を、トーグラに「戸倉」の字を当てている(30頁)。先田氏によれば、こうした分棟型の住宅に住んでいたのは中流以上の家であり、より下の層は分離していない住宅に、さらに上の層は二棟のあいだもう一棟(「ナカヤ」という)設けた三棟型の住宅に住んでいたという。
19.『奄美大島笠利町の民家調査報告』によれば、同地のオモティヤは三間取りが基本で、東側を「オモテ(表)」、西側は正面側を「ネショ・ニショ(寝所)」、裏側を「コザ(小座)」または「ナンド(納戸)」と呼んだ(31頁)。
20 『和泊町誌 民俗編』に次のようにある。「旧の一月、五月、九月の月を神月ともいい、この三つの月の十三日、十五日、十七日、十八日、二十三日、二十六日を祭日にしている。中でも十七日と二十三日に月待ちする家が多い。二十三日の神は海の神として考えられ、二十三日の月待ちをすると海での安全が保証されるというものである。当日は家族親類があつまって、おとぎ話をしながら御馳走を食べ月待ちし、月が出ると家の主人が月を拝み、床の前に供えてある団子や神酒を頂く。」(584頁)
21 墓の甕について『和泊町誌 民俗編』には次のようにある。「改葬は日中を避け、早朝、日の出前に行うのが普通である。(中略)男が埋葬されている遺体を掘り出し、女人が傘の陰で海水で洗つた。(中略)一骨も残すことなく、下肢より頭蓋骨に至るまで順序良くカメ甕に納める。(中略)骨を納めたヤザラ甕(厨子甕)は、墓碑の真下に埋没する所、墓碑の後方に上部を出して埋める所等々、所によって異なるようである(中略)火葬は昭和46年(1971)から一般にも行われてきたが、遺骨はヤザラ甕に納めるのが例である。」(555頁)
22 神降ろしをし、占いなどをすることを指していると思われる。

.参考文献
鹿児島県教育庁文化課『鹿児島県の民家(離島編)』(鹿児島県文化財調査報告書第36集) 鹿児島県教育委員会 1990年
関一『高倉のしおり』(民家園解説シリーズNo.19)川崎市立日本民家園 1988年
蛸島直「高倉の神秘−奄美沖永良部島を中心に−」『比較民俗研究』12号 1995年9月
野呂瀬正雄『日本民家園草創期の記憶2-沖永良部の高倉・蚕影山祠堂・旧山下家住宅-』(日本民家園叢書7) 川崎市立日本民家園 2006年
古江亮仁『日本民家園物語』多摩川新聞社 1996年
宮澤智士『奄美大島笠利町の民家調査報告』(財)日本ナショナルトラスト 1996年
和泊町誌編集委員会『和泊町誌 民俗編』鹿児島県大島郡和泊町 1984年
和泊町誌編集委員会『和泊町誌 歴史編』鹿児島県大島郡和泊町 1985年

 

(『日本民家園収蔵品目録21 旧佐地家門・供待、水車小屋、沖永良部の高倉、棟持柱の木小屋』2016 所収)