岐阜県大野郡白川村長瀬 山下家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が岐阜県大野郡白川村長瀬の山下家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は2期に分けて行った。
 1期目は平成5(1993)年9月3日に行った。聞き取りに当たったのは小坂広志(当時当園学芸員)、お話を聞かせていただいた方は次の通りである。
  山下良忠さん 現当主   昭和7(1932)年生
  山下はるさん 現当主夫人 昭和8(1933)年生
         昭和37(1962)年、郡上郡高鷲村(現・郡上市)より嫁ぐ。
 2期目は平成24(2012)年7月26日、27日に行った。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話を聞かせていただいた方は1期目と同じ良忠さんとはるさんである。
 この他、直接お話をうかがうことはできなかったが、本文中にお名前の出てくる方を記しておく。
  山下良一郎さん 現当主父 明治35(1902)年生 昭和24(1949)年没
  山下たかさん  現当主母 明治44(1911)年生 平成6(1994)年没
3 現地の言葉・言い回しについては、片仮名表記またはかっこ書きにするなど、できる限り記録することに努めた。
片仮名表記としたのは、次のうち聞き取り調査で聞くことのできた語句である。
(1) 建築に関する用語(部屋・付属屋・工法・部材・材料等の名称)
(2) 民俗に関する用語(民具・行事習慣・屋号等の名称)
4 図版の出所等は次の通りである。
 1、13、15   小澤作成。
 2、4、9、11、12、14、17、18、20、21、24〜27

        平成24(2012)年7月26日、27日、渋谷撮影。
 3                    フリー素材を使用。
 5                    昭和30(1955)年9月、矢島鋤夫氏撮影。
 6                    昭和30(1955)年11月、矢島鋤夫氏撮影。
 7                    昭和30(1955)年、矢島鋤夫氏撮影。
 8                    昭和30(1955)年3月、矢島鋤夫氏撮影。
 9                    昭和30(1955)年、矢島鋤夫氏撮影。
 10、23           昭和33(1958)年、千葉健三氏撮影。
 16                  昭和46(1971)年撮影。高山市提供。
 19                  良忠氏の図を元に小澤作成。
 22                  昭和15、6(1940、41)年ごろ。山下家提供。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれている。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 岐阜県大野郡白川村は、荻町(おぎまち)集落が世界遺産に登録されてもなお、訪れる者には便利とは言い難い土地である。JR高山本線の高山駅からバスで1時間、山下家のある長瀬集落に入るには、バスを乗り換えてさらに30分、そこからまた15分ほど歩かなければならない。しかも、日本有数の豪雪地帯である。
 山下家は白川街道の対岸、庄川(しょうがわ)を渡った地にある。3軒(昭和30年ごろまでは4軒)しかない集落で、山下家は焼畑農業と養蚕を中心に暮らしを営んでいた。白川村についてはすでに多くの報告があるため、この稿では現当主・良忠(よしただ)さんからの聞き取りを元に、山下家の暮らしに絞って記述していくことにする。時代的には昭和10(1935)年から30(1955)年ごろまでが中心である。

.1 山下家
... 先祖
 山下家の法名簿には天保・弘化・安政・文久・明治と年号が並んでおり、このうち最も古いのが天保8(1837)年である。現当主・良忠さんは、この人から数えて5代目に当たる。
 山下家の先祖が何をしていたか、またどこから移ってきたか、言い伝えは残されていない。落人の伝承などはなく、よろいやかぶとといった武具のたぐいも伝えられていなかった。

... 屋号・家紋
 屋号は「スケロク(助六)」、家紋は「タカノハチガイ(鷹の羽違い)」(図版3)である。ただし、紋付を着ることはあっても、それ以外に家紋を付ける機会はあまりなかった。

... 家族
 昭和7(1932)年生まれの良忠さんが育った時代、家族が最も多かったのは昭和20(1945)年ごろである。戦争が終わり、兵隊に行った人たちが皆帰ってきたときで、このころは17〜20人くらいいた。みんなで農業をやり、みんなで食べる。精一杯の暮らしだったという。その後、所帯を持って「デイエ(分家)」していったが、良忠さんが大きくなったころもおじさんおばさんがいて、家族は12、3人だった。なお、デイエした先は稗田(ひえだ)・御母衣(みぼろ)・牧(以上白川村)・高山(高山市)などで、このうち最も多かったのは高山だった。
 良忠さんの父・良一郎さんは10人兄弟、良忠さんご自身は7人兄弟である。かつては「いとこ会」があり、いとこ同士集まっていた。

.2 衣食住
..(1)住
... 集落
 山下家のある長瀬集落は、白川街道(国道156号線)から脇に入り、庄川を渡った所にある。庄川をはさみ、山下家側を「ヒガシ」、対岸を「ニシ」という。ヒガシの方がニシよりは日照時間が長いが、いずれも山に貼り付いた土地であり、日の当たる時間は限られている。最も日照時間の長い場所は川であった。河原も含めれば面積も最も広い。
 集落は昔も今も3軒である。一番北が大塚家、中央が中谷家、一番南が山下家である(図版5〜8)。この地に根を下ろしたのがいつか、記録も伝承も残されていない。しかし、かつてはいずれも合掌造りであり、同時期に入ったのは間違いないようである。

... 敷地
 山下家の広い土地には、主屋の他クラなどの付属屋が点在している。周囲には田畑やため池、そして山があり、どこからが山下家の土地なのか、よそから訪ねた者には判別し難い。
 庄川を長瀬橋で渡ると、まず右手に池が見える。これは常八という人が作ったと言われ、「ツネハチタンボ」と呼ばれている。これも山下家の池で、元は池に降りる斜面に唐臼小屋があった。
 主屋は山を背負っている。家の周囲には桑や柿、ヤエツバキ、それからこの辺りでは珍しい樹齢数百年のマキの古木がある。このマキは山下家のシンボルのようなものとして大切にされている(図版4)。

... 水利
 長瀬は湧き水の豊富な土地で、山下家の裏にも4カ所ぐらい水の湧く泉がある。主屋周囲の水路を流れるのも皆湧き水であり、美しい水にはイワナがいくらでもいた。どの集落も入っているのは水のある所であり、長瀬3軒も湧き水故にこの土地を選んだのではないかと良忠さんは言う。
 山下家ではこの泉の1つから水をトイで引いていた。直径15cmほどの木をくりぬいて作ったもので、材料は比較的水に強い松である。トイを支えていたのはY字型の木である。水田の境にこれを立て、ミズヤにトイを渡していた。どの家もこのように水を引いていたという。
 水は365日流しっぱなしだった。手を入れると冷たく、豪雨が来ても濁ることはなかった。使った水はフロの下に抜け、石積みの水路を通り、北側の小さな谷に流れ落ちるようになっていた。

... 移築
 昭和34(1959)年に仙台屋(川崎市川崎区)の千葉健三氏が主屋を買い取った。主屋にはクレ葺き(板葺き)のオチヤが付いていたが、必要ないということで合掌部分のみ移築し、料亭として使用した。
 その後、山下家では昭和35(1960)年から新築工事を始め、36(1961)年に現在の屋敷が完成した(図版11)。2階建てとしたため建築面積は現在の方が小さいが、方位は旧住宅と同じである。家の周囲には今もかつての礎石や石積みが残っている。この石は大きい上、非常に根が深く、重機でないと掘り出せないという。

... 主屋
 主屋のことを「ホンダテ」「ホンヤ」といった。
 現在民家園に復原されている主屋は、簡単に言えば移築前の状態からクレ葺きのオチヤ部分を取り除いたものである。料亭時代の改造を残したことも含め、民家園の他の住宅と異なり当初復原はなされていない。
 良忠さんによれば、オクノデイ南側のサンジャクマ、ブツマ南側のエンノマもオチヤだった。すなわち、主屋から張り出した部分だったのである。さらに、オクノデイとブツマ自体があとからの増築であり、屋根もこのとき大きくしたという。元は現在より座敷2間分小さかったのである。チョウダは昔のままなのでチョウナバツリの跡が柱に残っているが、増築部分にもこうした跡があるのは、一部古い材料を使ったためである。増築した正確な年代は不明だが、柱の細工がチョウナからノコギリに変わったころといわれている。
 大黒柱はなかった。その他についても、柱や梁で名前の付いた部材はなかった。主屋やオチヤの壁は土壁ではなく、杉や松を使用した板壁だった。杉皮を張るようなことはなかった。
 方角は棟を南北方向に取り、東に山を背負って、平入(ひらいり)の入口は西側に設けている。オチヤが付くのは北の妻側である。

... 屋根
....[カヤの確保]
 昔は主屋の他、ハサゴヤなどの付属屋も皆合掌造りだった。
 茅はかなり遠くまで刈りに行った。そのまま運ぶと重いため、現場に立て、乾燥させてから運ぶ(注1)。合掌造りを葺き替えるには、片屋根ずつであっても大量の茅が必要である。そのため茅は刈り貯めておき、長ければ20年ぐらい「ニウ」にして保存した(注2)。柱を1本立て、これに引っ掛けるようにして丸く積み上げるのである。形としては、円筒形の上に笠を載せたようなものとなる。何年かに一度はニウを崩して日に当て、積み替えも行う。一時的にハサゴヤに入れることもあった。
 茅を刈る場所は全て個人持ちである(注3)。共有地はなかった。山下家ではナギハタ(焼畑)の跡や、養蚕用の桑の木のあった場所で茅を育てていたが、こうした場所も次第に荒れ、なくなってしまった。

....[葺き替え作業]
 葺き替えは資材を持ち合ってユイで行う。本職の職人を呼ぶことはなかった。
 作業は屋根の内側と外側とで組になって進める。まず外側からハリサシという道具を刺す。内側では針に糸を通すようにこれに縄を入れる。次にこれを外側に引き抜き、茅束に回してまた刺す。これを繰り返して満遍なく茅を葺いていく。厚さは軒近くで1.6〜2尺くらいである。雑にやると茅の薄い所が溝になってしまうため、近年は上からベテランが見ていて「ここが薄い」などと指示するようになった。作業は簡単だったが、縄の縛り方は習わないとできなかった。なお、縄はわら縄である。かつてはこれも持ち寄りだった。余裕がなくなり既成品を買うようになったが、わらそのものの質が落ちたという。
 茅は太いカヤと細いクサガラ(コガヤ)とを使い分けた(注4)。斜面にはカヤだけを使った。棟のムナガヤにはカヤとクサガラとを混ぜて使った。カヤは太いためそれだけだと隙間ができ、雨が入ってしまう。これに細いクサガラを混ぜることで隙間をふさぐのである。こうした工夫をしないと棟には勾配がないため雨が染み込み、腐りやすかった。
 棟の上に乗せる押さえ木は2本が普通である。できるだけクリを使い、田の字型にヨツワリにしたものを藤で押さえた。また屋根の両側に突き出す水梁は家の大きさによって本数が異なった。
 葺き替えは、大きな家では片面ずつ行った。近年は見栄えを重視して刈り込んだり段を付けたりするが、昔はやらなかった。

....[葺き替え周期]
 良忠さんが子どものころ、屋根の葺き替えが行われた。良忠さんの父・良一郎さんのころにも一度葺き替えたという話が残っている。葺き替え周期は特に決まっていなかったが、7、80年持ったのではないかと良忠さんは言う。
 雪の重さがかかると、茅が「ビシッ」と締まり、屋根に丸みが出る。茅が長持ちしたのは、こうした状態になると雨が内側に浸透しないためである。下で火をたくと長持ちするという話があるが、それだけではなかった。ハサゴヤやクラなどは火をたかなかったが、同じくらい持ったからである。

....[修理]
 屋根に溝ができると修理した。そのままにしておくとこの部分にコケが生え、土となってそこから腐ってしまう。そのため傷んだ所はかき出し、随時クサガラを挿していった。また、落ちる雪に引きずられて茅が抜けたときも随時補修した。
 修理は棟がしっかりしていないとできない。また、屋根全体が薄くなると、サシガヤしても抜けてしまうため修理はできない。こうなった場合は葺き替えるしかなかった。
 移築前の山下家の屋根は、片面はまだ新しかったが、片面が限界に来ていた。良忠さんは合掌造りを守っていきたかったが、茅を確保することができなかった。かつては家族が多かったため人手があったが、それができなくなっていたのである。

... カキ(雪囲い)
 雪が来る前にカキをした。「カキ」とは雪囲いのことである。主屋だけでなく付属屋も全てやらなければならないため、準備は手がかかった。
 カキに使ったのは、屋根に使うカヤより細いクサガラ(コガヤ)である。作業はこのクサガラの束を作ることから始め(p.43参照)、建物の周囲を軒の高さまで囲っていく。合掌造りは軒が低く、囲ってしまうと隙間ができないため雪室のようになり、雪が2m近く積もっても中は比較的暖かかった。
 雪が消えると同時にカキを外し、使用したクサガラをウマヤに入れた。地面に敷き、堆肥にするためである。ただし、一度に全て入れられるわけではないため、残ったクサガラは地面に立てた柱に引っ掛け、丸いニウにして積み上げておいた。

... 雪下ろし
 雪下ろしは一冬に通常2回ほど、雪の多い年は4、5回行った。家族が多かったので4、5人で行ったが、付属屋の屋根も全て下ろさねばならず、重労働だった。
 雪は棟から下ろす。したがって、まず棟に登らなければならない。オチヤ(ひさし)まではしごで登り、ここからさらにホンヤネにはしごを掛け、棟まで登るのである。ただし、しっかり雪が固まれば、はしごを掛けなくとも登ることができた。積もった雪を掘り、屋根の斜面に斜めに道を付けるのである。固く締まっていると雪が茅に食らいついているため、容易に登ることができた。しかし下で火をたくと、その熱で雪だるまのように雪が落ちてくることがあった。これを「マキオトシ」という。下敷きになってけがをした人も多く、恐ろしかったという。下に雪があるからよかったが、棟は登ると非常に高かった。
 雪は下ろしてからも面倒だった。建物の周囲にカキ(雪囲い)はしてあるが、屋根が大きかったため下ろした雪が山のようになり、雪かきが必要だったからである。屋敷の裏手に田んぼがあるが(現在は池になっている)、これは融雪池を兼ねたものである(図版12)。日陰になるため育ちは良くなかったが、夏場は米を作り、冬は下ろした雪を溶かすのに使用した。荻町集落で家の裏手に水田を作っているのもこのためである。
 なお現在は、毎年12月に融雪用のパイプを家の周囲に敷設している。この塩ビ管のパイプは側面の穴から24時間水が流れるようになっており、下ろした雪はほとんど溶かすことができる。最近の雪は「ネバイ」。粘りがあるため落ちにくく、軒先に1mほども垂れ下がってしまう。こうなると、トタン屋根などは重みで折れてしまった。

... 入口
 入口は主屋の西側に2カ所あった。向かって右は人用である。家族は通常こちらの引き違い戸から出入りした。向かって左はウマヤ用である。こちらには大きくて非常に重い引き違い戸が入っていた。
 この入口部分は、幅約2間のオチヤ(ひさし)になっていた。元はクレ葺きだったが、雨漏りがひどいため昭和20年代にトタンの平葺きにした。

... シャシ
 入口を入ってすぐの場所を「シャシ」という。入った人はここからオモヤに上がった。
 このシャシは、ウマヤ手前部分と、オモヤ手前部分と2つに分かれ、境に板戸があった。ウマヤの手前部分には干し草など馬の餌が積んであり、床はコンクリートだった。ただし、当時のコンクリートはあまりしっかりしたものではなかったという。一方、オモヤの手前部分は土間になっており、南側隅に小便所があった。

... ウマヤ
 シャシの奥は「ウマヤ」になっていた。ウマヤは手前側と奥側、大きく2つに分かれており、いずれも「マセンボウ」と呼ばれる3本の丸太で仕切られていた。手前のウマヤの北側は土間の通路になっていた。奥のウマヤとウスナワとの境は、馬が蹴破らないよう厚い板壁になっていた。
 ウマヤの床は堆肥をためるため、1mほど掘り下げてあった。この際、砂利はきれいに取り去り、粘土質の土が表面に出るようにした。
 山下家はここで馬を2頭飼っており(p.43参照)、マセンボウの手前に餌を置いていた。馬は行儀が良く、暴れることはあまりなかった。

... ウスナワ
 ウマヤの奥を「ウスナワ」といった。ダイドコロとの間には引き戸、ミズヤとの間には板戸があった。床の高さはダイドコロと同じだった。窓はなかった。
 この部屋は主に穀類の加工や餅つきなどに使われた。隣のミズヤとともに食事の支度に使われた場所である。穀類の置き場所があった他、石臼やモチツキウス・漬物のオケなどが置いてあった。

... オモヤ
 表側、一番北寄りの部屋を「オモヤ」といった。民家園で作成した復原平面図(注5)では、この部屋の北寄り半間分が板戸で仕切られ、廊下のような空間になっているが、こうした間仕切りはなかった。
 北側土間境は板壁で、ここに小さな窓があった。ウマヤの様子を確認するためのものだが、ここからよく馬が顔を出していた。南側のデイ境と西側には障子戸が入っていた。山下家の障子戸は他の箇所も含め、上部が障子、下部が板で、ガラスは入っていない。床は板敷きで何も敷いていなかった。家具も戸棚が3台あるだけだった。新しいものもあったが、古いものはひどくすすけていたため、建て替えたとき捨ててしまった。
 この部屋は報恩講など、来客が大勢あるとき使うだけで、普段はあまり使わなかった。中央にいろりがあったが、火を入れるのはそうした折だけで、普段は板でふたをしてあった。このいろりにはアマ(火棚)はあったが、自在かぎもゴトクもなかった。なお、二階へ上がるはしごはこの部屋の北寄りにあった。

... デイ
 表側、オモヤに続く部屋を「デイ」といった。板の間で、床にはウスベリが敷いてあった。この部屋には杉板の天井が張ってあった。山下家で天井があったのは、デイ・オクノデイ・ブツマの3部屋だけである。
 この部屋は主に養蚕に使われた。オクノデイとの間は鴨居があるだけで建具がなかったが、これは養蚕の作業に不便だったからである。オモヤからデイに入る場合、通常北側の障子から直接入ったが、養蚕時期はまずロウカに入り、西側の障子から入った。養蚕時期以外は一部寝室として使われるのみで、その他にはあまり使用されなかった。

... オクノデイ
 表側一番南寄りの部屋を「オクノデイ」といった。板の間で、床にはウスベリが敷いてあった。ムシロはわら製のためごみが出たが、ウスベリはそれがなかった。建具は、西側は障子、ブツマとの境は板戸だった。
 この部屋は部分的に寝室として使われた他、普段はあまり使用されなかった。部分的といってもついたてなどを立てることはなかった。

... ロウカ
 デイ西側の縁側を「ロウカ」という。オモヤからは開き戸を開けて入るようになっていた。ここには木製の雨戸があり、南西隅の戸袋に収まるようになっていた。夜は雨戸を閉めた。夏も閉めることの方が多かった。
 床は板張りだった。邪魔になるため物を置くこともなく、ほとんど使われていなかった。

... ぬれ縁
 オモヤ、ロウカの西側には、クリ板のぬれ縁が付いていた。このぬれ縁とシャシとの間には板戸があり、出入りできるようになっていた。

... サンジャクマ
 オクノデイ南側に押入れのような部屋がある。ここを「サンジャクマ」という。寝室として使われていた部屋で、床にはウスベリが敷いてあった。
 入口はヒノキの大きな板戸で、中は半分に仕切ってあった。ここは3人で利用し、良忠さんの祖父や妹たちが使っていた。
 このサンジャクマと後述するエンノマ部分は、主屋から張り出すオチヤになっていた。当初クレ葺きだったが、のちトタンに替えた。ただし、トタン葺きといってもトタン板を1枚渡しただけのもので、現在のような本葺きではなかった。

... ダイドコロ
 裏側、一番北寄りの部屋を「ダイドコロ」といった。板の間で、床にはワラムシロが敷いてあった。建具としては、オモヤとの間に板戸、チョウダとの間に障子戸が入っていた。東側には障子窓があった。家具としては、北東と南西の角にトダナがあり、北東側のトダナにはオゼンが入っていた。
 ダイドコロは居間であり、家族が集まる生活の中心である。山下家にはオモヤとコヤとダイドコロ、計3カ所にいろりがあったが、主にたいていたのはこの部屋である。良忠さんたちは慣れていたが、いとこたちは訪れるたびに、煙たい、目が痛いと言っていたという。なお、いろりのことを「ユロリ」と言った。
 いろりの上には太い縄で四方をつった棚があった。これを「アマ」という。床からの高さは1m70cmほどで、マキを大量に燃やしたため、すすで黒光りしていた。周りには川魚を乾燥させる道具などがつるしてあった他、雨のときや日の当たらない冬には、そばに洗濯物をつるして乾燥させた。ただし、棚の上は火がつきやすいため、ここにはあまり物は載せなかった。
 北西の角はマキ置き場になっており、そのためこの一角にはワラムシロが敷かれていなかった。山下家のマキは4尺ほどもある長いもので、この場所に立てかけて置いていたのである。部屋が大きく熱効率が悪かったためマキはたくさん必要で、冬はマキ作りに追われ、ソリを使って遠い所から運んでいた(p.39参照)。
 このマキをいろりにくべるのは女性の仕事だった。そのため、女性たちはいろりの北側や西側に座ったが、それ以外の席は特に決まっていなかった。

... チョウダ
 裏側、ダイドコロに続く部屋を「チョウダ」といった。この部屋は南西の角を障子で仕切り、三畳ほどの小部屋が作られていた。チョウダとはこの小部屋も含めた全体の呼び名である。いずれも板の間で、床にはヘントリが敷いてあった。「ヘントリ(ヘリトリ)」とはウスベリの少し厚手のもののことで、ムシロと異なり肌触りが良かった。東側には障子窓があった。ただし、明かりを採るだけのごく小さなもので、夜は真っ暗だったという。家具としてあったのは、引き出しの付いた小型のたんすだけである。押入れはなかったため、布団は昼間たたんで置いてあった。
 チョウダは寝室であり、昼間はあまり使わなかった。手前側に寝起きしていたのは子どもたちとおばあさん、小部屋に寝起きしていたのは良忠さんのご両親である良一郎さんとたかさん夫妻である。なお、お産に使うのもこの部屋だった(p.50参照)。

... ブツマ
 裏側一番南寄りの座敷を「ブツマ」といった。畳が敷いてあったのはこの部屋だけである。畳は現在とは違う薄いものだったが、普段から入れてあった。
 この部屋に入ると正面に襖があり、開けると中央にホトケサマ(仏壇)があった(p.52参照)。この襖は通常は閉めてあり、お参りするときにだけ開けた。仏壇両脇には仏事に使用するものが保管されていた。なお、民家園で作成した復原平面図(注5)ではこの仏壇部分が主屋東側に張り出しているが、移築前はそのようにはなっていなかった。
 仏壇左手には1間の床の間があった。飾り棚のある奥行2尺ほどのもので、掛け軸が掛かっていた。床の間の上、北東の角には神棚があった(p.52参照)。部屋の南側、エンノマとの境は障子になっていた。
 この部屋は、普段はホトケサマにお参りするだけだったが、お盆や報恩講など仏事に使用したほか(p.49参照)、客間として来客の接待場所や寝室として使用した。また、葬儀の際、ホトケサマを寝かせたのもこの部屋だった(p.51参照)。

... エンノマ
 ブツマ南側の縁側を「エンノマ」といった。板張りで、西側半分は板でふさいであり、東側半分は木製の雨戸が入っていた。戸袋は南東の隅にあった。
 ブツマへはこのエンノマから直接出入りできるようになっていたが、使われたのは報恩講などの準備のときだけである。それ以外に普段使用することはほとんどなかった。

... 二階三階
 上階のことを「ニカイ、サンガイ」といった。二階へ上がるはしごはオモヤの北側、二階から三階へ上がるはしごは南側のブツマの上辺りに取り付けてあった。この他西側外にもはしごが掛けてあり、子どもたちはこれで上っては二階を遊び場にしていた。床は竹を編んだスノコの部分と、5×2mの木のスノコの部分があった。南北の窓には障子が入っていた。上3分の1が障子、下部は板になったものである。民家園では現在、台風前には障子を板戸に入れ替えているが、そのようなことはなかった。
 三階は主に養蚕に使用した。二階は養蚕の他、大豆・ヒエ・アワ・トチの実・干し柿などの食料、わらや干し草など家畜の餌の乾燥と保管に使用した。餌を刻む作業も二階で行い、オシギリで刻んでは一階に下ろしていた。なお、家族は多かったが、上階で寝起きすることはなかった。

... 床下
 床下には小丸太材など、雪囲い用の資材が入れてあった。
 煙硝の製造に使ったという伝承は残っていない。

... オチヤ
 主屋北側の妻面に平屋建ての小屋が付属しており、これを「オチヤ」といった(注6)。長瀬集落3軒のうち、一番北の大塚家は南側にオチヤがあり、中央の中谷家も南に小さなオチヤが付いていた。主屋の大きい家は、広いオチヤは持たなかったという
 山下家のオチヤは間口3間、奥行6間と大きなもので、中には作業場とミズヤがあった。主屋に比べれば新しかったが、それでも建物はかなり古く、中でマキをたくためひどく「ススボッテ(すすけて)」いた。
 屋根はクレ葺き、切妻型の「イタヤネ」である。「クレ」とは木を薄く割ったもので、材料としてはクリを使用した。このクレ板を作るのは専門の職人である。職人は荘川(高山市荘川町)におり、長瀬ではそこから買っていた。長瀬周辺は雪が多かったため、雪で押されて上質のクリがなかったが、荘川のものは雪が少ないため育ちが良く、きれいに柾目に割れた。材料にクリが使用されたのは、一番日持ちが良かったためである。しかし、それでも3、4年に一度は補修・交換をしなければならない。この作業を「クレガエシ」といった。なお、クリには欠点もあった。反りやすく、ねじれてしまうのである。天気が良いと反り上がって隙間が開くため、夕立が来ると雨が「ダーッと」漏ったという。クレ板は釘では一切止めていなかった。屋根の上に「シソ」と呼ばれる押さえ木を載せ、これを玉石で押さえるだけである。押さえ木には、主にクリを田の字型にヨツワリにしたものを使用した。玉石はカワイシ(河原石)である。適当に配置し、位置を変えることは特になかった。
 屋根の勾配は、現在の住宅と比べても緩やかだった。これはクレ板を止めるのに釘を使わなかったことと、雪が「ズラない(滑らない)」ようにするためである。このような屋根でも雪に対して問題はなく、雪解け時に玉石が落ちることもなかった。
 オチヤの出入口は西側にある。この入口の手前はたたきになっており、左手にはセンチ(大便所)があった。

... コヤ
 オチヤに入ってすぐの部屋を「コヤ」という。入口には3尺の板戸が2枚入っていた。中は板敷きで、中央にいろりがある。壁は板壁で、北側東寄りに高さ6尺、幅2間?ほどの開口部があり、上が障子で下が板になった障子戸が入っていた。
 コヤは作業場兼物置である。農作業をしなければならないため主屋だけで生活することはできず、そのため非常に重要な場所だった。作業としては、稲の脱穀などに使われた。ハサガケして乾燥させたものを運び入れ、ここで脱穀するのである。こうしたときはヤギョウ(夜なべ)をした(p.42参照)。
 この他、養蚕時期は家族の生活場所をここに移した(p.44参照)。主屋が養蚕に使われるためである。いろりを使うのはこの時期だけで、普段はほとんど使用しなかった。

... ミズヤ
 コヤの奥を「ミズヤ」といった。東側半分は土間、西側半分は板の間である。南側にはウスナワへ続く板戸、西側にはコヤへ続く板戸、東側には小窓が2カ所あった。この部屋の床はウスナワより約30cm低くなっており、ウスナワ側の板戸の手前には踏み台が置いてあった。
 土間部分にはコンクリート製の水槽があった。縦5尺(150cm)×横1.5間(270cm)ほどもある大きなものである。土間を掘り下げて造ってあり、水槽の縁は床より10〜15cm低かったが、中は子どもが入れば溺れるくらいの深さがあった。山下家はここにトイで水を引いていたが、近くの大塚家は流水を直接ミズヤまで引いていた。ここには大小数十匹のイワナがいた。
 山下家は主屋に炊事場がなく、水仕事は全てこの場所で行った(p.34参照)。野菜もここで洗い、米もここで研いで主屋まで運ぶ。食べ終わると食器をこの場所に運び、女性たちが洗った。

... フロバ
 ミズヤの北東隅が「フロバ」になっていた。周囲に目隠しはなかった。
 浴槽は木製のオケブロである。水は水槽からそのままくんで使った。かまどは煙突のないダルマ型で、燃料はマキだったが、熱効率が悪く沸かすのは手間がかかった。たき口は西側、北側には洗い場として台が設けてあった。ただし、体はあまり洗わなかったという。
 フロに入るのは大人の男性が先だったが、あとは特に順番はなかった。

... センチ(便所)
 便所のことを「センチ」といった。
 山下家を含め、どこの家も3尺ほどの小便所がシャシにあった。便器は西側の壁際にあったが、目隠しはなかった。下には大きな木製のおけが埋めてあり、たまった小水はくみ出して肥料として野菜にかけていた。なお、この便所は男性用で、女性は使用しなかった。
 大便所は主屋の正面にあった(図版9)。大きさは間口2間×奥行2間2、3尺、屋根は石で押さえるクレ葺きのイタヤネである。中には便つぼがあり、簡単な板が2枚渡してあった。子どもにとって、特に夜は恐ろしい場所だったという。便つぼの中には刻んだわらが入れてあった。これは肥料として使うためで、ナエダ(苗代)を作るとき利用した。尻はスベ(スクベ)で拭いた。「スベ」とはワラスグリしたときに出る稲わらの柔らかい部分のことで、箱に入れて中に置いてあった。都会から来た工事関係者は紙を使っていたが、新聞を取っていなかったため、使うような紙がなかった。
 この大便所を真夜中に使うことはほとんどなかったが、雨や雪のときあまりに不便だということで、昭和20年代末ごろコヤの北西隅に大便所を作った。この便所も遠かったが、オチヤのコヤを通って行くことができた。入口は引き戸、北側は板でふさがれ窓はなかった。なお、この便所ができたあとも元の大便所はそのまま残っていたが、あまり使用しなかったため、その後家畜小屋にした。

... クラ
 主屋の正面に「クラ」があった。
 大きさは間口4間×奥行3間、屋根は茅葺きの合掌造りである。2階建てだが、合掌の小屋裏も物置として利用したため、一部3層になっていた。内部の壁にはヒノキが使われており、2階部分には次のような墨書が残されている。

  飛州大野郡長瀬邑助六助右衛門
  五拾三才是健立
  作人海正邑兵四郎内蔵助立之
   明治四年未十月吉日
    小さく人 荷部邑半三郎
    そ間人  尾神邑幸作
      
  悦ひたきや 長[繰り返し記号]つゝく 蚕糸
     家ろくにて ゑつもこたえしに

これにより、このクラが明治4(1871)年、当主助六助右衛門53歳の折に建てられたものと知れる。「作人」は棟梁、「小さく人」は副棟梁であろう。
 2階部分には、普段使わない大切なものが保管されていた。きりだんすの他、仏事などに使うヌリモン(漆器)や食器類の入った木箱が置かれており、使うときはここから出し入れした。
 1階部分には、稲もみと精米した白米が貯蔵されていた。保管場所としてそれぞれ小部屋が設けられており、もみと白米を別々に保管した。いずれも俵や容器は使用せず、直接部屋に入れたが、虫はあまり付かなかった。かつてはこの小部屋一杯に米が保管されていた。
 クラの入口にはクレ葺きのオチヤ(ひさし)があった。作業場として脱穀機・モミスリ機・精米機などが置いてあり、稲ハサで十分乾燥させたもみをここですり、白米にしてクラに収めた。
 このクラは現在も残されているが、良忠さんの代に増築し、屋根も瓦葺きに改めた(図版14)。茅の確保が難しくなったためである。瓦の場合はしっかりした建物でないと長持ちしない。そのためトタン葺きにすることがほとんどだが、このクラは柱も梁も傷みがなかったため瓦葺きにすることができた。

... ソデクラ
 主屋裏手に「ソデクラ」があった。
 大きさは間口4間×奥行3間、屋根は茅葺きの合掌造りである。中は2層になっており、1階部分にはみそや漬物など、2階部分にはわらや干し草を保管していた。

... ハサゴヤ
 稲を掛けたり、家畜の飼料用のわらを保管したりする小屋があり、これを「ハサゴヤ」といった。
 大きさは4間四方、屋根は茅葺きの合掌造りである。壁はなく、柱と柱をつなぐ貫がむき出しになっており、稲などが掛けられるようになっている。冬は周囲に、クサガラ(コガヤ)で雪囲いをした。
 なお、この小屋は荒れ放題になっていたが、飛騨民俗村(高山市)から話があり、昭和46(1971)年同村に移築された(図版16)。そのためこの建物は現在も見ることができるが、良忠さんによれば柱が腐食していたため移築前より高さが4、50cm低くなっているという。

... カラウス(唐臼小屋)
 精米などに使用する「カラウス(唐臼小屋)」があり、水を利用するカラウス(水唐臼)が1基、中にあった(p.35参照)。小さいながらも茅葺きの合掌造りだった。
 カラウスを動かすには水の流れが必要であり、落差が1〜1.5mある場所でなければならない。そのため、この小屋はツネハチタンボという池の斜面に設けられていた(図版17)。この場所の下には大塚家のカラウスもあった。

... 乾燥小屋
 養蚕用の乾燥小屋があった。繭の中のサナギを熱で殺すのに使用するものである(p.45参照)。
 屋根はクレ葺きだった。

..(2)食
... 炊事
 炊事に使われたのはミズヤとウスナワ、ダイドコロである。
 野菜を洗ったり、米を研いだりという作業は水槽のあるオチヤのミズヤで行った。
 ウスナワには石臼やモチツキウスが置いてあり、粉をひいたり、豆腐を作ったり、餅をついたりという穀類の加工作業を行った。おばあさんはここにいることが多く、いろいろな仕事をこなしていた。
 山下家にかまどはなく、火を使う調理仕事はダイドコロのいろりで行った。ゴトクとツリカギ(自在かぎ)があったが、料理に使ったのはほとんどゴトクである。いろりの中央に大きなゴトクが据えてあり、ここに大きなヒラナベをかけた。釜は使わなかった。一方、ツリカギはお茶を入れるとき冷えないように掛けておく程度で、あまり使わなかった。食事の支度はほとんどおばあさんがやっていた。

... 食事
 良忠さんの育った昭和10年代20年代は、食事は一人一人オゼンで食べた。このオゼンはふたのできるもので、中には飯茶碗とおわん、皿が入っていた。このオゼンは普段はダイドコロのオモヤ寄りのトダナにしまってあるが、食事のときは自分で出し、食べ終わるとミズヤに運んだ。油ものは少なかったので、洗うときも水だけで簡単に落ちた。
 朝食は7〜8時ごろである。年を取った人は食べる時間が遅かった。ご飯の他、おかずはキュウリ・ナス・ササゲなど、家で採れた野菜が中心である。トマトはあまりできなかった。今のササゲはハウス栽培であまり味が良くないが、昔のものはほんとうにおいしかったという。この他みそ汁が付く。だしは干した川魚である。冬になれば野ウサギやヤマドリも入れる。ネギを入れてダイコン汁にすると最高だった。ワカメはあまりなかったが、豆腐汁は作った。豆腐も自家製だったため味が良かった。
 昼は朝と変わらなかった。おかずは残ったみそ汁や、干したダイコンなどだった。
 夜も特にごちそうを食べることはなかった。

... 主食
 昭和10年代の主食は白米で、ヒエがわずかに入れてあった。
 精米はカラウスで行った。カラウスとはシーソー状の道具で、片方にはきね、もう片方には水のたまる槽があり、流れ込む水の力を利用してつくのである。山下家では米の他、ヒエやアワなど雑穀類も全てこのカラウスでついていた。この仕事はおばあさんの役目だった。昭和25(1950)年ごろ精米機が入るまで、毎日穀物を入れたオケを背負ってカラウス小屋に通い、つき終わったものをウスナワに持ち帰ってはフルイでヌカトリをした。このオケは最近まで残っていたが、ぬかの油で磨かれたようになっていた。
 米は自家用分にも不足したため、ヒエやアワなど雑穀を加え、雑穀で足りなければトチの実で補った。ヒエやアワは米と比べ、つくのに非常に時間がかかる。ヒエはただでもぼそぼそしており、きれいになるまでつかないと余計にまずかった。しかもつき終わってからも蒸したりする必要があり、食べるまでに非常に手間がかかった。あまり食べたいものではなかった。

... 餅
 12月から4月ごろまではよく餅を食べた。そのため、この間はなくなると餅つきをした。一方、夏は餅を食べなかったので、祝い事があっても餅をつくことはなく、葬式のときも餅屋が持ってきた。
 餅米のことを「モチ」という。山下家で作っていたのは特別な品種で、よく伸びて味が良かった。
 餅つきはウスナワで行った。つくのは主に男性である。臼はトチノキ製が主だったが、その後、木地屋が作ったケヤキ製のものを使うようになった。きねは太い横きねで、減ってくると削った。このきねは重く、つくのは重労働だった。
 餅は丸くする。トチ餅やアワ餅の他、何も入れない餅もたくさん作った。オミヤに供えるオカガミ(鏡餅)には真っ白い餅を使った。
 餅はいろりで焼く。太い針金を曲げてモヂヤキ(p.6、12参照)を作り、これをいろりの灰に挿して丸餅をのせる。焼き上がったらみそを付け、もう一度焼いて香ばしくなったところで食べた。こうすると自然に焼けた。

... 魚
 主なタンパク源は川魚だった。御母衣ダム(p.46参照)ができる前は魚が非常に豊富で、子どもたちは学校から帰るとすぐ川に行った。捕ったのはチチコ(ドンコ)・ウグイ・イワナ・ヤマメなどである。これらは日常的に食卓に上った。
 禁止されていたが、夜、魚を突きに行った。アセチレンランプをつけ、ハコメガネをしてヤスで突くと、ビクにいっぱい捕れた。
 魚は手製の竹串(p.12参照)に刺し、いろりの灰に挿してあぶった。たくさん捕れたときは、竹串で焼いたあと、カゴにわらを詰めたもの(べんけい)に挿し、いろりのアマ(火棚)につるして薫製にする。これをだしにし、野菜などと煮ると良い味が出た。

... 肉
 肉として食べたのは、山の野ウサギやヤマドリである。肉屋はなかったため、牛肉などはほとんど食べなかった。
 ヤマドリや野ウサギはわなで捕った。子どももやった。ヤマドリはすぐ裏の桑の木にも5、6羽いて、ひなの姿も見かけるほどたくさんいた。近年は生態系が変わりイノシシや猿を見るようになったが、逆にヤマドリや野ウサギは姿を消した。
 山下家に「シシクイザラ」という小皿がある(p.6、12参照)。「シシ」とはカモシカのことで、山の獣を捕ったとき食べる皿である。昭和30(1955)年に特別天然記念物に指定されて非常に厳しくなったが、それまではカモシカも食べていた。そのためか、かつては在所にいたが次第に姿を消した。

... 漬物・みそ・調味料
 漬物にしたのは、主にカブラとダイコンである。ダイコンは乾かしてコヌカ漬けにした。ハクサイの漬物はあまり作らなかった。
 みそも自家製である。自家製の大豆を使い、2年仕込んだ。仕込んで間がないものは味が良くなかった。
 漬物もみそも、家族が大勢いた時代はソデクラに保存していたが、その後ウスナワで保存するようになった。
 家にはヤエン(薬研)があり、サンショウなどをつぶして自家用に香辛料を作っていた。

... 山菜・キノコ
 山菜として食べたのは、ワラビ・ゼンマイ・ウド・根曲がり竹のタケノコ・ユリ根・ジネンジョなどである。こうしたものはブナ林などにたくさん出たが、近年はイノシシが掘るようになり、あまり採れなくなった。
 キノコは天然のものはあまりなかった。ナラゴケ(マイタケ)も出るのは1年置きで、毎年は出なかった。出るはずの年でも、その年の気候によって出たり出なかったりした。

... 木の実
 カヤ(カヤの実)は子どものおやつであり、子どもたちも採りに行った。ただし、採ってそのまま口にできるわけではなく、食べるには非常に手間がかかった。まず採ったものを寝かせる。すると青い渋皮が柔らかくなるので、これを谷の水で洗い、皮を取る。そしてこれを天日に干し、灰汁(あく)を使ってアク抜きをする。カヤはかつてはどこでも採れたが、ほとんどなくなってしまった。
 トチの加工にも灰汁を使う。こうした作業は子どもたちも手伝ったが、中心になってやったのはおばあさんだった。トチはトチ餅にした。戦時中は遠い山までトチ拾いに行き、雑穀も混ぜて餅についた。米があまり採れず、餅米もなかなか採れなかったため、トチは貴重だった。
 クリもたくさん食べた。近年はクリタマバチの影響で採れなくなったが、かつては良く採れた。
 良忠さんは食べたことがないが、ナラの実を食べた時代もあった。

... 果実
 甘いものといえば柿だった。現在はツグミ・ヒヨドリ・カケス・ヤマドリなどの餌用に、樹齢100〜150年くらいの古木が4本残してあるだけだが、かつては渋柿が12、3本あった。このうち1本は干し柿用である。この柿は串に挿し、ダイドコロの煙のそばにつるして乾燥させた。数はわずかで、正月に食べるぐらいしかできなかった。その他、大半の柿は「サワシガキ」にした。3、4回お湯に漬けて渋抜きするもので、作るのは毎年おばあさんの仕事だった。子どもたちはおやつ代わりにずいぶん食べた。もう1つ、「ワリガキ」という食べ方もあった。これは皮のまま割って二階(ダイドコロの竹スノコの上)に干したもので、食べるときはお湯で戻して皮ごと食べた。
 おやつはこうした果実や木の実などで間に合わせていた。

... 菓子
 お祝いのときはオマンジュウを配った。葬式のときや、主屋を直したときなどは落雁(らくがん)を配った。粉に砂糖を入れ、ハスの花などの型に入れたもので、菓子屋に作ってもらった。

... 昆虫その他
 スネナガ(アシナガバチ)・スズメバチ・ヘボ(地蜂)等、蜂の子は食べた。川の虫やサワガニなどは食べなかった。

... 酒
 ドブロクはどの家でも大っぴらに造っていた。法律上は違法だったが、売らなければ問題になることはなかった。しかし、在日韓国・朝鮮人の人々が時々売りに来るようになり、税務署が抜き打ちで検査に入るようになった。
 仕込むのは冬である。これを「カンヅクリ」という。山下家はあまり失敗しなかったが、この時期に造るのが一番確実だったため、どの家も大体1年分を仕込んだ。できあがるまでドブロクはオケに入れ、日の当たらない涼しい所で保管する。家が大きかったのであまり暑くはならなかったが、山下家ではできるだけミズヤに置いていた。こうすると秋の報恩講まで持った。ドブロクは温めて飲んだ。飲むのは男性が中心で女性は少々だったが、来客があると皆ドブロクだった。
 なお、甘酒も仕込んだ。子どもにも飲ませたが、行事のときなどは一番喜ばれた。

... 茶
 茶の木が1本あったが、茶作りをすることはなかった。お茶を売る店もなかった。
 お茶の代わりに飲んでいたのがコオボ茶である。「コオボ」とは一年性の植物で、葉ではなく、茎を乾燥させてお茶のように使用した。手間のかかるものだった。

... 食器
 飲食器は漆器が多く、中には自家製のものもあった。家にロクロがあり、木地をひいて自家製の漆を塗ったのである。陶土が出ないため、陶器を作ることはなかった。
 良い漆器は福井の越前塗である。輪島塗や飛騨高山の春慶塗は高価だったため、入っていなかった。
 シルワンやゼンなどは日常的に使用したが、仏事に使うものは木箱に入れてクラで保管した。冬になるとこの木箱の中に、冬眠するカメムシが大量に入った。
 木のこぶを彫ってさまざまな器を作った(p.9、15参照)。障子張りには「ノリボン」というのりを入れるための木皿を使うが(p.8、14参照)、これもこぶを彫って漆を塗ったものである。

..(3)衣
... 布・糸
 昭和10年代には機織りする機会はほとんどなかった。
 一方、糸は紡ぐことがあった。当時は大麻など問題にならなかったため、栽培した麻で糸を紡ぎ、ゾウリを作る際に使ったり、豆腐を搾る麻袋などを作ったりした。

... 服装
 女の子は着物も着ていたが、男の子はあまり着なかった。おばあさんたちは、上はハンテンで下は木綿のタツケ(もんぺ)だった。
 衣類は少なかったため、たんすはあまりなかった。紋付のような大切なものはクラに入れていた。
 昭和10年代は、雨具はミノだった。ゴムのかっぱなどはなかった。

... 履物
 農作業のときは、地下足袋やゴム長を履いた。冬場は、屋内ではワラゾウリやマメゾウリ、屋外では稲わら製のフカグツ、山仕事に入るときは生ゴム製のボッコグツを履いた。「マメゾウリ」とは、スリッパに似た爪掛け付きの草履である。わら製で、鼻緒には布が巻いてあった。

... 洗濯
 洗濯はミズヤで行ったが、現在のように頻繁にはやらなかった。洗剤には固形のせっけんを使った。
 干し場は主屋の前にあった。クリの木の柱を2本立て、物干しざおにはヒノキかスギの丸太を、樹皮をきれいに剥いで使用していた。竹ざおは弱いためあまり使わなかった。
 冬はいろりをたくダイドコロで干した。風通しの良い所に掛けておくと乾きは良かったが、煙の臭いやすすが付くので長い時間は干せなかった。

... 寝具
 夜は綿入りの着物で寝た。
 一番下にはワラブトンを敷いた。中身はわらのスベ(スクベ)である。毎年ではなかったが、時々入れ替えもした。入れ替えると温かさが全然違った。
 この上に敷き布団を敷き、掛け布団を掛けた。いずれも縞(しま)のない質素なもので、中身は重い木綿のワタである。シーツも布団カバーもなかった。また、布団を干すこともなかった。
 枕の中身はモミガラだった。茶ガラもソバガラもなかった。

..(4)暮らし
... 一日の流れ
 大人が起きるのは、早くても5時ぐらいだった。起きると男性は、食事の前にまず家畜の草を刈りに行く。これを「アサクサカリ」といった。
 寝るときは、いろりの火種を灰に埋めた。こうしておくと、翌朝たき付けるとき火を起こしやすかった。

... 照明
 電気が入ったのは戦後である。昭和10年代はまだ石油ランプだった。石油は配給だったため代わりにアセチレンランプも使ったが、当時はこの燃料のカーバイドもなかなか手に入らなかった。
 ランプをつけるのは作業に差しつかえるときだけである。食事のときはつけても、済んだら消してしまう。普段はいろりの火があるだけだった。
 便所は外にあった。ロウソクなどはなかったので、通うときはヒョウビアブラを灯して提げていった。「ヒョウビアブラ」とは、ヒョウビ(イヌガヤ)の実をシメギで搾ったものである。これを蓋の付いた鋳物製のひょうそくに入れ、灯心を差し込んで火を灯した。この他アンドンも使った。

... 暖房
 寒い時期は、寝るときにバンコ(万古焼)のネコゴタツを使った。火入れに灰とマキの消し炭を入れ、大人は1人1つ、子どもたちは2、3人で1つ使う。温かいのは足だけだったが、雪に囲まれて雪洞のようになっていたためそれほど寒くなかった。

... 燃料
 マキはナラとクリが中心で、その他の雑木も使用した。切るのは冬場、3〜4月ごろである。これを木棚に積んでおき、翌冬雪を利用して家の近くまでソリで運んだ。
木棚とは、丸太で組み、コガヤで屋根を葺いたマキ置き場である(図版19)。まず「シソ」と呼ばれる支柱を6本、3本ずつ2列に立てる。列の間隔は1m程度、3本の間隔は3〜3.5m程度で、上から見ると長方形になる。材料には杉やホオノキなどを使用した。次に、このシソに「マクラ木」と呼ばれる横木を、根元と、高さ1m50cm程度の所に取り付ける。マキを載せる2段の棚となる部材で、材料にはクリやナラを使用する。マキは長さ4〜4.5尺程度に切り、太いものは割って積んだ。木棚全体の高さは、地面から棟木に当たる部材まで3〜3.5mくらいあった。
 御母衣ダムができるまでは、川の流木もマキとして利用した。

... 郵便・新聞
 冬は行商も来なくなるが、郵便だけは通じた。
 良忠さんは3年間、郵便物の運搬に携わった。仕事をしたのは冬場、11月から4月にかけてである。10〜30㎏くらいの荷物を背負い、カンジキを履いて約3里(12km)離れた集落まで運ぶというもので、重労働だった。扱っていたのは封書と葉書が中心である。小包は少なかったが、餅や団子を子どもに送る人もいた。餅は重かったという。
 新聞も郵便で届いた。2、3日遅れてきたが、情報源としてはラジオより頼りになった。

... ラジオ・テレビ
 昭和10(1935)年ごろはすでにラジオが入っていた。小さいもので、ダイドコロ南側の壁際に置いてあったが、電波の状態が悪く、あまり入らなかった。その後、性能の良いものに買い換えていったが、やはり雑音が多かった。現在も携帯ラジオはあまり入らない。
 テレビがいつ入ったか不明だが、昭和39(1964)年の東京オリンピックの年には入っていた(注7)。それでも主体はラジオだった。

... 医療・衛生
 平瀬に診療所ができたのは昭和12(1937)年である。それまでは、荘川村(現・高山市)か高鷲村(たかすむら、現・郡上市)まで行った。白鳥町(現・郡上市)や高山にも病院があったが(注8)、交通の便が悪かったため、重病でなければ行かなかった。
 歯はあまり磨かなかった。昭和20年代ごろまでは歯磨き粉も見かけず、歯ブラシはあるにはあったが、あまり使わなかった。当時は砂糖の入った食品はあまり食べなかったので、それでも大丈夫だった。

... 災害
 近くの集落で合掌造りが火事になったことがある(注9)。このとき3軒か4軒焼け、飼っていた牛も焼け死んでしまった。この家はその後、クレ葺きのイタヤネにした。合掌造りにするにはカヤが必要だが、すぐには集められなかったからである。
 庄川はしばしば氾濫した。昭和36(1961)年に御母衣ダムが完成したが、上流に集中豪雨があると放水するため、氾濫の度合いは以前よりひどいくらいだという。山下家の手前にある池(ツネハチタンボ)に水が流れ込んだこともあった。
 地震は大きくても震度3〜4くらいだった。下が岩盤であり、大きく揺れることはなかった。

.3 生業
..(1)概況
 山下家は稲作と畑作を中心に、古くは養蚕、その後は林業を加えて暮らしを立ててきた。しかし、減反や外国産の流入による値下がり、需要の低下等、経済環境の変化にもまれ、一方では自然環境の変化にも大きな影響を受けてきた。パルプの需要が高かった時代に木を切りすぎたこと、さらには温暖化が加わって、地域の生態系が変わってしまった。カモシカなどが姿を消す一方、猿やイノシシ・ニホンジカ・キツネ・タヌキ・ハクビシンなどが田畑を荒らすようになった。また、カシノナガキクイムシ(ナラに付く)・オオキバラノメイガ(トチノキに付く)など、以前は見かけなかった害虫により、実がならなくなったり枯れたりということも起こっている。

..(2)稲作・畑作
... 耕地
 長瀬は山に囲まれているため、日照時間が短かかった。また、水は豊富だったが、水温が低かった。こうしたことから米は作っていたが収量は少なく、年40俵ほどしか採れなかった。したがって自家用分だけであり、いくらか売ることができるようになったのは土地改良してからである。それでも手伝いの人に報酬も払ったため、家計の足しにはあまりならなかった。
 長瀬の耕地は、いわば庄川の河原のような場所である。かつて川だった土地であり、洪水のときは流れに洗われた。そのため砂と砂利と半々ぐらいであり、耕せば石ころばかり上げることになった。そもそも耕作に向く土地ではなかったが、特に畑にするのは難しかった。山下家でも畑にしてホウレンソウを多少作っていたことがあったが、やめてしまった。
 一方、水田はなんとか作ることができた。少し土地があればどんな所にでも田んぼを作った。こんな所によく、と思うような場所にまで作ってあった。その代わり、1枚1枚が小さかった上四角い田んぼがなく、数だけが増えることになった。山下家の田んぼは計85〜90反ほどだったが、枚数としては60数枚あった。
 田んぼの周囲は玉石で囲った。この石は全て、耕した田畑から掘り出したものである。

... 稲作
....[品種]
 戦時中に作っていたのは「愛国」という品種である。今と比べれば落ちるが、堆肥で作ったのでそれなりにおいしい米だった。
 餅米は今でもなかなか採れない。かつては肥料も少なかったため、反収4俵ぐらいしか採れなかった。
 昔は今と違い、耐冷性の品種が少なかった。そこで、田んぼのミナクチ(水口)周辺には米ではなく、ヒエを植えた。水の取り入れ口であるミナクチの周りは特に水温が低く、米には向かなかったが、ヒエはこうした冷たい水にも強かったからである。
 山沿いの田んぼは「ヌマダ(沼田)」だった。踏み込めば4、50cm体が埋まってしまうほど深く、しかも水温が上がらなかった。こうした田んぼも米は採れなかったためヒエを植えた。ヌマダは維持するのに人手がかかり、作物もあまりできなかったため、どこの家でも費用をかけて土地改良をした。

....[用水]
 水回りの管理は手がかかった。湧き水は飲料水には充分だったが、農業用には少し足りなかった。そこで山に溝を掘り、谷から水を引いたが、水温が低かったため米作りには工夫が必要だった。
 まず朝の5時か6時、できるだけ早く水口を開ける。そして、太陽が上がるとともに閉める。流れを止めることで、張った水にできるだけ長時間、日が当たるようにしたのである。この作業だけで昼までかかったが、土地の水持ちが悪く、10cmほど水を張っても夕方にはなくなっていた。水が2日以上持つ田はあまりなかった。
 その後、水温については田んぼの1つをため池(図版21)として利用することで改善した。まず、冷たい水をこの池に導き、日中、太陽の熱で温めておく。この水は翌朝田に当てる分に回し、日中はため池の水ではなく、引いた水を直接田に当てる。こうした工夫である程度米が採れるようになった。上がった水温は1℃か2℃程度だったが、池にためることで一時に水が使える利点もあった。

....[作業]
 スキで田んぼをすく作業を「スキドコ」という。馬を使い、3回も4回も田んぼに入った。
 田植えまでの作業も大変だったが、田植えも大変だった(p.48 参照)。田植えと稲刈りは自家労力だけでは足らず、近隣の家と「ユイ」をやった他、親戚など手伝いの人も頼み、4、50人でやった。こうした農作業のときはわら帽子をかぶった。
 刈り取った稲はイネバサに掛けて乾燥させた。このあとは脱穀だが、昼間は雪囲い用のクサガラを刈らねばならなかったので、ハサから取り込むのは夕方になり、作業は夜になった。秋から冬の、こうした夜なべ仕事のことを「ヤギョウ(夜業)」という。おじいさんはダイドコロでわら細工もやり、ゾウリ・ワラジ・ミノなど、作れるものは皆作っていた。

... 畑作
 畑のことを「ハタ」という。土地があまり良くなかったため、麦も野菜も販売するほどは収穫できなかった。
 麦の収穫はわずかだった。米に入れることはなく、主に麹(こうじ)にした。野菜はジャガイモ・サツマイモ・ダイコン・ネギぐらいで、いずれも自家消費分である。高山ではカブを漬物にするが、白川ではカブもあまりできなかった。それでも毎月どこに何をまくか、段取りに頭を使った。
 焼畑農業のことを「ナギハタ」という。山下家では古くからナギハタを行い、かなりの面積を耕作していた。ナギハタにするのは雑木林や杉林・松林などの伐採地である。5〜6月ごろ下草を刈り、0.5〜1mくらいの長さに切り、燃えやすいよう2、3週間乾燥させる。火をつけるのは風のない日に行った。
 戦時中、山下家では山林を焼き、農地を持たない人に畑を提供していた。こうした人々は皆アワを栽培したが、農家は食糧にするほど作らなかった。ナギハタをやめたのは昭和25、6(1950、51)年ごろである。そのあとはカヤバにしたり、クサガラを刈る場所にしたりした。

... 肥料
 肥料として下肥も利用したが、中心は堆肥だった。使ったのは主にクサガラ(コガヤ)である。
 クサガラはナギハタの跡地で育てていた。毎年秋になると、この5、6反のクサガラを刈る。そして刈ったものを束にし、立てて乾燥させたあと、雨に遭わないうちに山から運び出す。そのため荷物専用の運行機が設けてあった。直径8㎜ほどの鉄線を1本張り、滑車を取り付けたロープウエー状の装置である。使用するときはまず、刈ったクサガラを高台に一度上げる。クサガラが集まると、10束ぐらいずつ運行機に掛け、勾配40度ほどの傾斜地を下ろした。ブレーキはなかったが、風にあおられてスピードが落ちるため問題はなかった。担ぎ下ろすよりはよかったが、それでも楽な作業ではなかった。こうして集めたクサガラはハサゴヤで保管し、雪囲いに使用したあと、ウマヤに敷いて堆肥にした(p.26参照)。
 クサガラの他、カヤ・アオクサ・ブタノクサなども使った。夏はクズを刈った。桑の下草も利用した。さまざまな植物をカマで刈り取り、ウマヤに敷いた。ただし、山の落ち葉を集めて堆肥にすることはなかった。
 こうして作った堆肥は年3、4回ウマヤからかき出した。これを「ウマヤのダシ」「コエダシ」という。古くは背負いカゴだったが、良忠さんの時代になるとソリを使って運び、田んぼ一面に入れた。
 化学肥料が出はじめたころは硫安だけだったが、その後窒素や硫黄が出てきた。化学肥料が入ってくると堆肥作りをしなくて済むようになったが、米はまずくなった。そのため、牛ふん・鶏ふん・油かすなど有機質のものも農協で扱うようになった。

... 家畜
 かつてはほとんどの家で1頭か2頭、農耕用に馬を飼っていた。馬を飼っていない家は牛だったが、牛は足が遅いため農耕には向かなかった。
 山下家では雄と雌を1頭ずつ飼っていた。スキやマンガを引かせて田畑を耕したり、背中に稲をつけて運ばせたりした他、ウマヤにはクサガラを敷いて堆肥を作った。名前を付けることはなかったが、黒っぽい馬なら「アオ」と呼んだ。餌はわらや干し草である。干し草は刈ったボタクサを乾燥させたものである。まず束にしてハサゴヤに掛け、かびないよう、さらに家の中で煙に当てて乾燥させる。冬の間は主屋の二階に保管し、オシギリで切ってわらと混ぜた。この作業は二階でやったため、見上げると明かりが動くのが見えた。なお、この他コヌカ(米ぬか)も混ぜてやると馬が喜んだ。牛も肉牛として飼っていたことがあった。飼育していたのは外便所を改造した家畜小屋である。
 昭和20(1945)年ごろまで馬の「タナヅケ(種付け)」もやっていた。戦時中は軍馬の需要が多かったため、発情期を迎えた馬を連れてきて種を付けたのである。生まれた子馬のうち、良いものは軍馬として出し、向かないものは農耕馬にした。馬は貴重な労働力だったため、出せるのは年に1頭ぐらいだった。軍馬として出す子馬は、荘川村(現・高山市)で開かれるイチバに引いていく。子馬だけでは歩かないため、出かけるときは親馬に付け、その親馬の方に乗っていった。その後、昭和23(1948)年ごろ馬1頭、牛1頭に替え、25(1950)年ごろ、農機具を買い入れたためいずれも飼育をやめた。
 外便所を改造した家畜小屋では、牛馬の他、羊・ヤギ・鶏などを飼った。羊は毛糸を取るのに飼っていた。ヤギは終戦後、母乳の不足を補うために飼っていた。
 この他狩猟用に犬を一時飼っていたことがあったが、それ以外に犬や猫を飼うことはあまりなかった。

..(3)養蚕
... 概況
 山下家でいつ養蚕をはじめたか、言い伝えは残されていない。しかし、古くからやっていたのは確かだという。養蚕は山下家の家計の柱であり、これによって現金収入を得ていた。なお、養蚕のことを「ヨウザン」といった。
 家族が多かった時代は大規模にやっていた。1軒で購入する蚕紙は、通常15〜20gぐらいである。たくさん飼う家でも30gほどだったが、山下家では100gぐらいやっていた。白川でも一番ぐらいだったのではないかと良忠さんは言う。これくらいやると餌が大量に必要で、その確保に手がかかった。その後、良忠さんの時代には叔父たちが皆分家して家族が少なくなったため、小規模になっていった。
 養蚕をやめたのは昭和23(1948)年である。中国から安い繭が入るようになったのがきっかけだった。山下家では桑の木を切ってマキにし、その跡地で杉の植林を始めた。一部、戦後も続けた家があったが、こうした家では平らな土地に桑畑を作り、手で摘み取れるように改良していた。

... 飼育
 養蚕シーズンは6月から7月である。「ナツコ」といって2回やる家もあったが、山下家では年に1回だけだった。
 蚕紙のことを「タネ」という。良忠さんの父・良一郎さんの時代はタネを購入し、卵をかえすところからやっていた。その後、農業指導員が稚蚕になるまで飼育し、各農家に配るようになった(注10)。卵の扱いは手間がかかったため、これでかなり楽になった。
 飼育場所は、稚蚕の段階まではデイを使った。保温のため天井まである紙帳を張り(注11)、養蚕用の温湿度計(p.9、14参照)を2カ所に掛けて温度と湿度を管理した。
 稚蚕の飼育方法で「オケガイ」という方法が流行したことがあった(注12)。使用するのは、直径50〜60cm、深さ1m20〜30cmほどの大きな漬物おけである。この中に桑の葉を入れて飼い、葉がなくなったら新しい葉をそのまま積み重ねていく。ふんなどを取ることはしない。そして、何令かになるまで飼育し、それから二階の養蚕棚に上げるのである。簡単でいいということでかなり普及した。
少し大きくなると、階上の養蚕棚に移した(注13)。二階と三階両方使ったが、主に二階でやっていた。こうして飼育している間は家全体を開け放しにする。また煙を嫌うということで、この期間は生活場所をオチヤのコヤに移した。
 養蚕用具はさまざまなものがあった。山下家を含め、養蚕を盛んにやっている家では、補助金をもらってまぶし織機も購入していた。
 なお、養蚕の守り札はあったが(p.53参照)、繭の収穫祈願や収穫祝いの行事などは特になかった。

... 桑
 山下家では蚕の飼育に2種類の桑を併用していた。ヤマグワとオウシュウグワである。
 ヤマグワは古くから使用していた。葉が小さく、種がたくさんできるのが特徴である。桑を植えるようなハタ(畑)がなかったため桑畑というものはなく、作物が日陰になるのを承知で田畑の「シユーイ(周囲)」などに植えていた。その他遠くの山の、かなり標高の高い所にも植えていた。こんな所までよく来たと思うような奥地にまで植えてあった。背の高い木だったので葉を採るときは木に登り、枝を打って落とした(注14)。
 オウシュウグワは後から入ってきた品種である。葉が大きかったので、餌をたくさん食べる時期、すなわち繭を作る少し前にこの桑を使った。効率を良くするため家の近くに5、6本植えてあった。とにかく手のかかる作業で、この時期は親戚や分家の人など、手伝いの人を頼んだ。なお、繭を作る前の白く透明な蚕のことを「スガキ」と言った。
 採った葉は二階に上げた。この作業のため南側妻面に鉄製のはしごが掛けてあり、窓から直接出入りしていた。

... 出荷
 山下家では糸取りをすることはなく、繭のまま出荷していた。出荷先は平瀬である。
 繭は放っておくとガが出てきてしまう。そのため、敷地の中に繭を熱で殺すための乾燥小屋があった(注15)。クレ葺きの小さな建物で、使用するときは中で炭火をたいた。
 なお、不良品の繭は真綿に加工して使った。

..(4)林業
 山下家では林業もやっていた。本格的に始めたのは良忠さんの代になってからだが、それまでも自家用程度は植林していた。植えていたのは杉である。谷間の草の生えない所にわずかに植えていただけだが、古くからやっていたため、樹齢200年300年の大木もあった。
 養蚕用の桑は遠い山の、かなり標高の高い所まで植えてあった。良忠さんの父・良一郎さんの時代、この桑の木を切ったあと杉を中心に造林した。ヒノキはやってみたが駄目だった。また別に、松林もあった。この松は、自然に生えたものである。4haほどあり、戦後、木材の一番高いときに売ったため主屋建て替えの資金になった。
 かつては山に入って下刈りや除伐などもやった。切り倒した木を出すときは、6尺ほどの長さに切り、手ソリで下ろした。現在のように4mもなくても、板材として使えたのである。しかし、全国どこでも杉の造林をやったため需要が無くなり、さらには外材にも押されてお金にならないのが現状だという。
 なお、この他昭和初期までキリも植えた。自家用はわずかで、ほとんどは売りに出した。商人が回ってきて、下駄やたんす、小物の家具用などに高値で買い取っていったのである。田畑が日陰になるがやむを得なかった。

..(5)狩猟
 良忠さんは40年以上猟をしてきた。現在屋敷に飾ってある獣や鳥の剥製は、皆ご自身で作ったものである。かつては鳥も獣も豊富で、熊も40頭以上捕った。
 熊は10人ぐらいの仲間で捕り、クマノイ(胆嚢)を売った。白川ではこれを「マキガリ」という(注16)。大白川の温泉小屋に泊まり込んで捕ったことも2、3回あったが、大白川ダムの建設に伴って道路ができ、除雪されるようになったため、通いでやるようになった。熊は雄よりも雌の方が恐ろしい。特に子持ちの雌熊が恐ろしく、子どもと親の間に入ってしまったときが一番怖い。かつて熊は山奥に行かなければいなかったが、現在は里近くまで出てくるようになった。地元でも釣り人や山の下刈りに行った人が熊に「引っかかれて」いる。
 その他、タヌキやキツネもわなを使って捕った。良忠さんのおじさんは器用な人で、こうした狩猟や山仕事などに使うガマテンゴ(蒲手籠)などを作ってくれた。

..(6)養殖
 豊富な湧き水を利用して魚の養殖をやったことがあった。場所は長瀬橋の手前にあるツネハチタンボである。飼っていたのは主にコイとニジマスで、その他ヤマメやアマゴなども稚魚から育てていた。しかし、飼料が高くて利益が出なかったこと、そして環境の面で養殖に向かなかったことから、やめてしまった。養殖には年間にわたって水温が安定していなければならない。その水温も、最低15、6度必要である。しかし白川では5、6度まで下がり、しかも冬季が長いため魚が痩せてしまった。
現在も冷水に強いニジマス・イワナ・コイなどは飼っているが、自家消費用である。

..(7)地域の生業
 炭は戦時中高価だった。そのため炭焼きをする家もあったが、山下家ではやっていなかった。やらなかったのは、炭窯を築く粘土が周辺になかったことも理由の1つだったようである。
 長瀬の対岸に平瀬という集落がある。この集落では明治期よりモリブデン鉱の採掘が細々と行われていたが、その後モリブデンは軍事物資として需要が高まり、平瀬鉱山は急激に発展した。鉱山長屋が建てられ、当時は家族も含め800人以上の住民がいた(注17)。この中には徴用で来ていた人々もいた。兵役に付けなかった人が皆来ており、中には下呂温泉の一流旅館の主人もいた。また、朝鮮半島の人々も子どもも連れ家族で来ていた。食糧面も含め、待遇は良かったという。良忠さんの同級生にはこうした鉱山の子どもたちも大勢いた。鉱山は戦後、住友系企業に経営が移り一時栄えたが、昭和50年代に採掘を終了した。
平瀬集落は大正15(1926)年に完成した平瀬発電所でも潤った。発電所は地元の人を優先して雇用したため、職を得た人が良忠さんの叔父も含め中切地区(尾神・福島・牧・御母衣・長瀬・平瀬・木谷)でも20数名いた。親が発電所に勤める同級生も2、3人いた。また「旅の人」、つまり発電所の技術者の中にはこちらの人と結婚して所帯を持つ人もいた。
 御母衣ダムの工事が始まったのは昭和32(1957)年である。当時は人が集まり、ダムの町ができたが、工事の終了とともに寂れてしまった。
 その後、村は観光に力を入れてきた。さまざまな施設が作られたが、どうにか維持できているのは温泉だけで、なかなか厳しいという。

.4 交通交易
... 渡し・橋
 長瀬集落から白川街道に出るには、庄川を渡らなければならない。学校は平瀬にあったが、橋や道路が整備される前は通うのも大変だった。4月半ばから11月までは、現在の稗田橋の方にあった歩道を使うことができた。しかし冬場、12月から翌年4月半ばまでは「ササブネ」と呼ばれる渡し舟で通った。渡し舟といっても船頭はいない。両岸にワイヤーが張ってあり、そこに通したワッパが舟に取り付けてある。このワッパには両岸から縄が取り付けてあり、渡るときはこの綱を手繰って舟を移動させていくのである。この縄は時々切れたが、そういうときは対岸に声をかけて誰かを呼んでもらった。
 昭和30(1955)年につり橋ができた(図版23)(注18)。この後数回架け直し、現在の長瀬橋は永久橋になって4本目である。

... 買い物
 地元で用が足りないときは、荘川村の牧戸(現・高山市)まで買い出しに行った。しかし交通の便が悪いため、かつては富山や郡上(現・郡上市)から行商も来ていた。
 富山から来る行商はイワシのコヌカ漬けを背負ってきた。塩辛いもので、これがあると食が進んだ。郡上から来る行商は着るものや靴などを持ってきた。しかし、こうした行商が来るのは雪のない時期だけで、冬に来る人はいなかった。
 昭和30年(1955)ごろ、国道156号線の除雪を行うようになり、冬場も買い物に行けるようになった。しかし、過疎化が進むと商店が次々に店をたたみ、現在地元に残っているのは八百屋1軒だけだという。

... 芸人
 平瀬でも芸人が来ることはほとんどなかった。まれに来ても、人が少ないのであまり客が集まらなかったからである。

.5 年中行事
... 正月準備
 入口両脇の柱に、切ってきた松を1本ずつひもで止めた。ササはなく、しめ飾りもなかった。
 餅をつくのは暮れの25日か26日である。この餅でハナモチを飾った。ハナモチに使うのは松である。おじいさんが暮れに切ってきたが、なかなか枝振りの良いものはなかった。取り付けるのはオモヤのデイ側間仕切りの辺りである。松を取り付けたら、次は枝に餅を付けていく。形は高山のような玉型ではなく、さいころ型である。ついた餅をまず伸ばし、細長く切り、それから四角く切っていく。松は葉が枯れる1月後半まで置いておくが、餅の方は乾燥して落ちてくる。山下家ではこれも捨てることはせず、お湯につけて食べた。この行事は毎年やったわけではなかったが、作業はなかなか手がかかり、おじいさんが年を取るとやめてしまった。
 すす落としは毎年したが、時期は年によってまちまちで、暮れの行事ということではなかった。養蚕をやると桑の葉などで汚れるため、それが済んだ後にやることが多かった。すすはひどかったが、どの家も同じだったのでそれほど丁寧にはやらなかった。
 オカガミ(鏡餅)は30日か31日に供える。干し柿・クリ・カヤ(カヤの実)等も同時に飾った。

... 正月
 正月に帰省する人は少なかった。雪で交通が途絶するため、まず帰れなかった。
 正月はスシや雑煮を食べた。「スシ」とは、ニシンをこうじで漬けたものである。乾燥させたニシンも食べた。正月のごちそうはニシンであり、サケやカズノコは食べなかった。山下家の雑煮は、自家製のたまりしょうゆで仕立てたものである。野菜はあまり入れず、丸餅の他これも自家製の豆腐を入れる。薄味だったが、餅も豆腐も味が良かった。
 初詣にはオミヤに行った。このときお金を持っていった。
 なお、七草行事や小正月行事はなかった。

... 節句
 節句は三月も五月もやらなかった(注19)。ひな人形もなかった。現在はこいのぼりを上げる家もあるが、もともとやってきた行事ではなく、かしわ餅やちまきを食べることもなかった。

... 彼岸
 彼岸に墓参りすることはなかった。墓参りに行くのは毎年お盆だけである。

... 田植え
 田植えは大勢来てやってくれたが、1日や2日では済まず、3日くらいかかった。
 この日はドブロクを飲み、田植唄を歌った。食糧難のころは、子どもたちも皆ついてきた。山下家は兄弟が多かったので、子どもだけで12、3人になった。

... 七夕
 七夕は子どもが遊びでやることはあったが、大人も交えて行うものではなかった。

... 盆
 旧盆といって9月にお盆をやる地域もあったが、長瀬では8月15日だった。このときはおじさんやおばさん、親戚の人など、ほとんどが子どもたちをつれて家に帰り、墓参りをした。
 15日には何をする、16日には何をするという決まりはなかった。以前はだいたい決まっていたが、寺の都合があるため変わることもある。
 お勤めは3カ所で行う。オハカと、家と、長瀬にある戦没者の石塔である。それぞれオテラサン(菩提寺の浄楽寺)に短いお経を上げてもらい、1日で回った。寺に行くことはなかった。昭和10年代には、毎年菩提寺の他、富山県や石川県からも寺を持たないお坊さんがお勤めに回ってきた。金沢の人は、良忠さんが子どものころから毎年来ていたが、年を取って来なくなった。
 お盆に盆棚を作ったり、仏壇の周りに何かを飾ったりすることはなかった(注20)。食べるものも特に決まっておらず、山菜などあるもので済ませた。オテラサンは他の檀家も歩くため、一緒に席を囲むことはなかった。
 お盆には同窓会なども行った。

... 月見
 月見の行事はなかった。

... 祭り
 オミヤ(長瀬神明神社)の祭りは、かつては年に3回あった。春は祈願祭、秋は9月に例祭、そして感謝祭である。現在はこのうち例祭と感謝祭を同時に行い、年に2回となっている。近年は来なくなったが、かつては祭りのたびに飛騨一宮水無神社の神主が回ってきた。
 この神社を祭っているのは、長瀬地区3軒と貫見(ぬくみ)地区2軒である(p.53参照)。このうち貫見の2軒は離れているため、長瀬3軒で交代でヤドを務めた。
 祭りはにぎやかなものではなく、お宮で御神酒を上げ、飲むだけである。その後はヤドに集まり、親戚や親しい人なども呼んでどんちゃん騒ぎをした。この席に旅の人がふらっと来たこともあった。こうした行事が昭和23(1948)年ごろまで2、3年に一度行われていた。

... 収穫祝い
 稲の刈り入れが全て終わると、その年採れた餅米と小豆を使い、ボタモチをついて食べた。ホトケサマ(仏壇)やオミヤにも供えた。

... ホンコサマ
 報恩講のことを「ホンコサマ」という。行事といえば盆と正月そしてホンコサマであり、にぎやかで本当に楽しかったという。
 日取りは決まっておらず、家によっても違う。だいたい秋の穫り入れが済んでからだが、11月中には終わらせるようにする。年によっては雪が降ることもあった。時間は3時くらいから夜にかけてである。
 ホンコサマには親戚が何十人と集まった。長瀬のホンコサマというと大騒動で、身内の子どもたちは学校も半日で早退して集まった。なお、ホンコサマに行くのは親戚のうちだけで、子どもたちが席に加わるのは自分の家といとこたちの家の4軒くらいだった。お参りすることより食べることが楽しみだった。
 この日は部屋をつないで家全体を使う。サンジャクマの板戸の前にはびょうぶを立てた。このびょうぶは洞英斎という絵師の作で、山下家の家宝のようなものである。
 ホトケサマ(仏壇)にはオケソクを供える。「オケソク(お華束)」とは、コネリバチを使い、米の粉を平たく練って丸めたものである。餅米の粉を加えると粘りが出る。これをホトケサマの両脇にたくさん飾った。
 オテラサンが来てお勤めを終えると、そのあとはお坊さんも交えてホトケサマの前に並び、飲み食いの席となる。席は銘々のオゼンで、子どもも一人ずつもらえた。この席で使う上等の漆器は仏事用の越前塗で、普段はクラに納めてある。使ったあとは洗って布で拭い、紙に包んでしまっておいた。
 オゼンに並んだのは、ワラビ・ゼンマイ・コゴミ・タケノコなど山菜を使った煮しめやあえ物、それから白いご飯である。こうした仏事のときは魚は使わない。山菜は春から採りため、乾燥させたり塩漬けにしたりして蓄えておく。親戚の中には持ってきてくれる人もあった。ご飯は高く盛るようなことはしなかったが、オハチに入っていて好きなだけ食べることができた。ドブロクや甘酒も塗り物のユトウ(湯桶)で出た。この他菓子などはなかったため、山で採れた柿やクリ、カヤの実などが丸盆にのって出た。買って済ますことはなく、全て用意したため準備は手がかかった。
 この行事も昭和37(1962)年ごろから次第に簡素化し、現在はオケソクは作るが、あとはお坊さんを呼んでオキョウサマを上げてもらうだけになった。

.6 人の一生
..(1)婚礼
 良忠さんは旧住宅で結婚式を挙げた時代の記憶はない。ご自身は建て替えた現在の屋敷で式を挙げ、オサカズキで三三九度を交わした。近年は高山に出て挙式する人が多い。

..(2)産育
 お産には手前のチョウダを使った。山下家の子どもは乳幼児のころはほとんどここで育ち、良忠さんもよくおばあさんとこの部屋で寝ていた。
 サンバサンは来られなかったため、子どもを取り上げたのは近隣のおばさんたちである。産湯には木のタライを使った。
 名前を誰が付けるという決まりはなかった。比較的簡単な名前を付けることが多く、山下家では「良」の字を使った。
 お宮参りには行かなかった。七五三もやらなかった。役場が遠かったため、出生届も何かのついでに出すくらいで、ひどい人は1年も届けを出さなかった。

..(3)成人・還暦・米寿
 二十歳・還暦に特別な行事はなかったが、赤飯を炊き、オハギやお餅を作ってお祝いとした。
 男性は88歳になると、マスカケボウを88本作って親類や親しい人に配る(p.10、16参照)(注21)。「マスカケボウ(枡かき棒)」とは一升枡でスリキリに量るとき使うもので、88歳まで生きられた祝いに本人が作るのである。材質はヒノキか杉、つり金具が付いているものと付いていないものがあった。

..(4)葬儀
... 葬式
 亡くなったホトケサマはブツマに寝かせ、祭壇を作った。このとき、仏壇に頭を向けるため、北枕にはこだわらなかった。
 家族が亡くなるとすぐにお坊さんを呼び、お経を読んでもらう。これを「マクラヅトメ」といった。
 葬式の準備として、集落の人が大勢集まりシカバナ(紙華花)・ハス・ツバキ等の「キイバナ(切り花)」を作った(注22)。これは障子紙や金紙、それから木と竹で作る飾り花である。
 出棺するときは、ブツマからオクノデイを通り、表の縁側(ロウカ)から運び出した。

... 火葬
 浄土真宗だったため、昔からほとんど火葬だった。土葬は、事故で亡くなった人を一時的に埋め、保管した話が残る程度である。
 現在は村営の火葬場があり、1カ所でまとめて行うようになっている。しかし、かつては集落ごとに行ったため、2軒しかない集落にも火葬場があった。火葬場といっても施設はなく、場所が決まっていただけだが、認可は必ず受けていた。
 長瀬の火葬場は田んぼの先、河原の手前にあった。火葬する係がいるわけではなく、集落の中で順番があるわけでもない。家族が準備し、焼くだけである。
 焼くときはまずマキを敷き、上にお棺を置く。さらにその上にわらをのせ、最後にぬれたムシロをかぶせる。お棺を作るのは手がかかり、器用な人がいれば手伝ってもらったが、大工に頼むこともあった。形状は現在のような寝棺ではなく、中で座らせる「タテカン」である。置くときは、このタテカンを必ず横倒しにした。焼けていくうちに遺体が伸び上がるため、こうしておかないと飛び出してしまうからである。夕方から焼きはじめると、翌朝までにきれいに蒸し焼きになった。ほんとうに楽に焼けた。
 お骨は翌日家族が拾いに行く。墓に納める分と東本願寺に納骨する分とを適量拾い上げ、残りの骨と灰は火葬した場所に埋めた。

... 納骨
 山下家の墓は個人墓ではなく、先祖代々を1つにまとめた家墓である。寺ではなく家の近くにあるが、デイエ(分家)の人はそうした場所がないため、寺の境内に土地を借りて墓地を作った。
 墓地に納骨するのは四十九日である。納めるのはお骨だけで、骨つぼは埋めなかった。このときお骨の一部をとっておき、それを後で京都の東本願寺に納骨する。納める時期はまちまちで、四十九日に行ってしまう人もいる一方、5年も6年もお骨を手元に置いておく人もいる。また、高山別院(照蓮寺、高山市)に預ける家もある。納骨にも位があり、須弥壇に納骨すると10万円以上かかった。
 良忠さんは京都参りを兼ねて、兄弟とともに東本願寺に納骨に行った。昔は京都まで納骨に行くのは大変なことだった。

... 法事
 何回忌まで法事をするか、家によって異なるが、近年三十三回忌までやる家は少ない。その代わり、三十五日など、一周忌までは身内の人を呼んで必ずやらなければならなかった。

.7 信仰
... 仏壇
 ホトケサマ(仏壇)はブツマの東側中央にあった。現在の屋敷に祭られているのが当時のものである(図版24)。鴨居まで届く漆塗りの大きなもので、元は良忠さんの妻・はるさんの父親の実家にあったものである。はるさんは何も知らないで嫁いできたが、3人目の子どもが生まれたときそれがわかった。すすけてはいるが、良忠さんが子どものころ一度洗ってもらったことがある。
 中央に祭られているのは、像高39.0cm、寄木造の阿弥陀如来像である。「釋来如(花押) 木佛安置御免 寛政二年十一月二日 願主釋教順」という軸装の裡書が残されており(注23)、寛政2(1790)年の造立とわかる。報恩講やお盆、正月には仏壇の卓に「チシキ(打敷)」という三角形をした錦織の古い布を敷き、香炉1つ・花立2つ・鶴の燭台2つの五具足で飾る。
 お参りは毎朝行った。ただし、良忠さんの世代になると、子どもたちはあまりお参りしなかった。仏壇のそばにはジュズカケがあった(p.10、15参照)。家族全員の数珠が掛けてあり、お参りするとき手に取り、終わるとまた掛けておくのである。現在は家族が少ないため、数珠は仏壇の所に置いている。数珠にはさまざまなものがあった。東本願寺にお参りに行った人が土産に買ってきてくれたもの、ハスの実の玉で作った黒いもの、中には古いものもあった。
 報恩講など仏事の際には仏壇のそばにオサイセン(さい銭箱)を掛けた(p.10、15参照)。集まった人々がお参りするとき、この中にさい銭を入れるのである。集まったお金は本山(東本願寺)に行く人に託し、持って行ってもらった。良忠さん自身は入れたことはないという。

... 神棚
 神棚はブツマの北東角にあった。現在の屋敷に祭られているのが当時のものである(図版25)。朝、お参りするだけで、飾り程度のものだった。
 中のお札は隣のオミヤのものではなく、飛騨一宮水無神社(みなしじんじゃ、「すいむじんじゃ」とも、高山市一之宮町)の天照皇大神宮の札である。このお札は毎年買い換え、古いものは神社に納めて燃やしてもらった。

... 護符
 クラの2階に「エマ(絵馬)」と呼ばれる馬の絵札が貼ってある(図版26)。この中には「養蚕御守」「明治廿四年十月十四日 印刷御届 仝年仝月仝日 出版」「發行者 岐阜県大野郡高山町 □井正次郎」「内務省御届濟」とあり、高山で刷られたものとわかる。
 このエマは神社で買うものではなく、売りに来るものだった。来た時期は不明だが、近年まで高山から売りに来ており、良忠さんも一度だけ買ったことがある。

... オミヤ
 山下家の隣にあるオミヤ(図版27)は、正式には長瀬神明神社という。長瀬3軒と貫見2軒、計5軒で祭っている(注24)。昭和33(1958)年までは茅葺きだったが、腐ってしまいトタン葺きに改めた。しかし、これも古くなって雨漏りし、建物そのものに限界が来たため、平成24(2012)年に建て替え工事を始めた。
 このオミヤの周囲には大木があり、茅葺き時代は雪下ろしをする必要がなかった。トタンに葺き替えてからは、年に1回ぐらい下ろすようにしている。

... 菩提寺
 菩提寺は真宗大谷派(東本願寺)の浄楽寺(白川村長瀬)である。檀家は20戸ぐらいだった(注25)。

... その他
 毎年4月下旬ごろ、御手経で檀家の人が浄楽寺に集まり、永代経の念仏を唱えた。
 東本願寺・善光寺・伊勢神宮、この3カ所は一生に一度は参拝したい場所だった。良忠さんは善光寺には行っていないが、東本願寺には3、4回行った。

[付記]
 最後に、良忠さんの言葉を紹介しておきたい。
 「人間もいずれは土になる。土から生まれて土になるので、動物の世界もいっしょである。」

.注
1 「それを地面に横倒しにして乾燥させる。この乾かし方を『カリタオシ』あるいは『カキタオシ』という。好天が続けば三〜四日後、今度はカヤの束の根元の方を開いて地面に立てる『カキタテ』という形で干す。」(『新編白川村史』下巻 p.241)
2 「まず中心となる丸太を立て、角材などで底上げをし、その周囲に茅を束にして根元を外に向けて斜めに立てかけ、円錐状に何層にも積み上げ、その最上部に茅で編んだふたをかぶせる。それを毎年交換することで風雨や日射から茅を保護し、さらに内部が蒸れるのを防ぐために春に茅の積み替えを行うといった貯蔵法がとられた。高さは三ないし五メートル近くなるものもつくられた。」(『新編白川村史』下巻 p.348)
3 「長瀬集落を含む中切地区では個人所有地が主であった。長瀬集落本村三軒のカヤバの広さは、小字『上長』のタイラに各家ともほぼ均等の三ないし四町歩を所有していた。」(『新編白川村史』下巻 p.346)
4 「白川村で利用しているカヤは、『オオガヤ』と『コガヤ』の二種類がある。前者はオガヤとも呼ばれ、標準和名はススキ、後者はカリヤスである。(中略)屋根葺きに利用するのは、オオガヤが主であるが、荻町と小白川ではコガヤを使った。これは、オオガヤの茎は、中にスポンジ状の芯が詰まっているのに対し、コガヤは芯が空洞になっているため、屋根に葺いたときに水はけがよく、長持ちするからである。半面、コガヤは短く細いので牛馬の『マヤジキ(敷き草)』としても向いているとされた。そのため、平瀬など中切地区から椿原にかけて、ほとんどの集落が、むしろコガヤを敷き草にした。そして、カヤバの維持が比較的容易で入手しやすいオオガヤを屋根材として利用していた。」(『新編白川村史』下巻 p.239)
5 『旧山下家住宅のしおり』に「本来の復原平面」として掲載されている。
6 「おちや[落屋](1)富山県五箇山の合掌造りの民家で妻側に付けた庇.平(ひら)側に付けたのは下屋という.落屋が座敷側にあるのを転棟(ころむね)の家といい,土間側にあるのを『ひだち』,または『さじの家』という.」(『建築大辞典 第2版』208p.)山下良忠さんは、平方向のものもオチヤと呼んでいる。
7 「本村のテレビの視聴は、きわめて古い歴史をもっている。(中略)三十年ころ、牧・御母衣・平瀬地区で屋根の上や近くの受信できる場所を選んでアンテナを上げ、数台のテレビを設置している。(中略)その後、平瀬・荻町・鳩谷・飯島など各地域別に共同アンテナを設置し鮮明な画像が映るようになって、全村のテレビ台数が増加し、三十六年、全村で二二二台(五世帯に一台、二〇パーセント)に達している。」(『新編白川村史』中巻 p.587)
8 高山には、明治32(1899)年に設立された大野郡立病院があった(『新編白川村史』中巻 p.417)。
9 木谷集落は「大正13年の火災で東屋・田中両家を除く家屋全部が焼失した。以後、坂下・森下の両家は、非合掌家屋になった。」(『新編白川村史』下巻 p.139)
10 「昭和に入ってから、飯島などの集落では稚蚕飼育所で共同飼育をした稚蚕の供給が始まった。当時の稚蚕飼育所では、二齢幼虫の段階で配蚕されていた。」(『新編白川村史』下巻 p.184)
11 「孵化した蟻蚕は掃立といって、紙を敷いた折蓋の上に移す。(中略)掃き立てた折蓋は、積上式の棚に差し込み、風除けと防寒のために上から紙帳を吊って全体を覆い、外気を遮断する。」(『新編白川村史』中巻 p.211)
12 「白川村では、自宅で稚蚕を飼育する場合、『オケガイ(桶飼い)』と呼ばれる方法をとっていた。これは、二齢までの稚蚕を桶に入れて飼育するやり方である。木の桶の底に砂を敷き、孵化したカイコを入れ、湿らせた筵で蓋をして飼育した。」(『新編白川村史』下巻 p.184)
13 「多くの家では、カイコが小さい間(二回脱皮するころまで)はデエを使い、その後は二階に移した。」(『新編白川村史』下巻 p.185)
14 「桑コキの作業時には、ときに高さ一〇メートルもある桑の木に梯子やくらかけで登り、摘んだ葉を腰に下げたアジカ(籠)に入れる。」(『新編白川村史』中巻 p.218)
15 「蛹の羽化を防ぐために熱をかけて乾燥させて蛹を殺す。この作業をマユアブリと呼び、昭和十年代前半のころまで自家で行っていた家が多かった。」(『新編白川村史』下巻 p.193)
16 「春の土用以降、冬眠から目覚めて穴から出たころを狙う『ハルガリ(春先の狩り)』で、クマを囲むように輪をつくり、囲いこんでとるため『巻き狩り(マキガリ)』または『クマ巻き』と呼ばれる。」(『新編白川村史』下巻 p.261)
17 「昭和十七、八年以降、この鉱山で働いていた人は八〇〇人から一〇〇〇人、多いときには一二〇〇人ほどもいたという。この中には報国隊(岐阜・愛知・富山県出身者約二〇〇人で編成)や金砲隊(外国籍の労働者一〇〇人〜三〇〇人)の徴用人夫も含まれていた。」(『新編白川村史』中巻 p.259)
18 「長瀬橋=昭和三十年春、御母衣電源開発(株)が工事用として架設した木造吊橋で、延長七一メートル、幅員二メートルであったが、(中略)五十年、橋長七〇メートルの橋梁が四五〇〇万円をかけて竣工した。」(『新編白川村史』中巻 p.572)
19 「浄土真宗の信仰が厚い白川村においては、真宗と集落の神社、および稲作や養蚕に関する行事を除くと、ほとんど行事らしい行事は行われていない。三月三日や五月五日などの節句についても、昭和初期のころの聞き書きによれば、白川村では行われていなかったという。」(『新編白川村史』下巻 p.360)
20 「他の地方でみられるような、盆棚を飾り、送り火や迎え火で先祖を送り迎えするといった行事は行われなかった。」(『新編白川村史』下巻 p.366)
21 「女は茶袋を縫って配る習わしがある。」(『新編白川村史』下巻 p.499)
22 「喪花をつくることをハナキリという。(中略)障子紙で作る紙華花とハス・キク・ツバキ・アヤメである。(中略)長瀬では、長瀬集落三軒と貫見二軒、それに親戚の手伝いによってハナキリが行われた。(中略)葬儀のための造花づくりは、およそ江戸末期より集落の人々のユイによってつくり伝えられてきたが、生活改善運動のあおりを受け昭和四十九年一月を最後に姿を消してしまった。」(『新編白川村史』下巻 p.500)
23 『岐阜白川村の仏像』p.31
24 「〈氏子〉長瀬三軒、貫見二軒、計五軒。〈総代〉三人。三年ごとに輪番制で一〜二人交代。交通不便等の理由で長瀬の氏子のみであった輪番を、平成三年ごろから氏子全体とした。総代代表は総代から一人を適宜選出。〈神主宿〉一年ごとの輪番で一軒。供物の準備や神社会計、社殿の鍵等を預かる。役柄上神社に近い長瀬の氏子のみの輪番。〈祭礼〉九月二十四日例祭を含む三回。以前は口取り等を神主宿へ持ち寄ったが、現在は社殿でおこなう。」(『新編白川村史』下巻 p.400)
25 「門徒は長瀬、木谷を中心に、平瀬、稗田の一部を含み、現在約二〇軒。」(『新編白川村史』下巻 p.443)

.参考文献
川崎市立日本民家園   『旧山下家住宅のしおり』民家園解説シリーズNo.13 日本民家園 1987年
彰国社         『建築大辞典 第2版』〈普及版〉 彰国社 1993年
大野郡白川村史編纂委員会『白川村史』大野郡白川村 1968年
白川村史編さん委員会  『新編白川村史』上巻 白川村 1998年
白川村史編さん委員会  『新編白川村史』中巻 白川村 1998年
白川村史編さん委員会  『新編白川村史』下巻 白川村 1998年
白川村教育委員会    『岐阜白川村の仏像』白川村教育委員会 1994年

.資料
 本書の編集後、山下家住宅が川崎に移築された折の新聞記事が川崎市立中原図書館のご協力により見つかった。昭和33(1958)年に移築されたことを裏付ける貴重な資料であり、ここに全文を掲げておきたい。

「合掌造りの白川の郷 民芸喫茶として近く開店
仙台屋の千葉健三氏が小川町三二(教安寺附近)に建設工事中の民芸喫茶舗『白川の郷』は十七日頃開店を予定している。この建物は岐阜県大野郡白川村にあったもの(重要文化財)で、同地が御母衣ダム建設のため埋ってしまうので、これを買取り移築したもので建坪は約八十坪(平面積)内部は四階建になっており、原型を崩さず切妻合掌造り、建造部の各所を特殊な縄或は藤づるで組立てたそのまゝの特性、構造をこわさないように工夫されている。開店後は一階は半分を喫茶部、残りはいろりをかこんで座敷として建物の調和に即した店とし、二階は民芸考古館として数百点の考古品を陳列し、昔の生活様式等を知る参考として家族ぐるみ或は学童等の参観にも適するようにするという。一階での民芸料理としては合掌らくがん、どぶろくまんじゆう、春慶塗、山ごぼう、味噌ごぼう等原地での特殊なものも販売し、もんぺ姿の女給を配置、土、日曜には民謡踊等も披露、二階の考古館にはこの建物における生活様式の品物として長い間伝わってきたうるし桶、ゴキ(手造りの碗)麻の着物、カラウス(水車利用によるウス)イジリウス(昔における脱穀機)ハンドリー(いろり用)等、三〜五百年を経てきたものを陳列する計画で、喰べて見て楽しむ憩いの場とする構想(写真は工事中の白川の郷)」
(『川崎新聞』519号 昭和33年12月6日)

.図版キャプション
1 下家所在地
2 山下良忠さん・はるさんご夫妻
3 山下家家紋
4 マキの古木
5 長瀬集落。一番右が山下家。手前は庄川。(昭和30年9月、矢嶋鋤夫氏撮影)
6 一番右が山下家。右端は乾燥小屋。左手前の小さな合掌造りはクラ。クラと主屋のあいだはセンチ。中央手前はカラウス。(昭和30年11月、矢嶋鋤夫氏撮影)
7 一番左が山下家。中央に長瀬橋が見える。(昭和30年、矢嶋鋤夫氏撮影)
8 一番手前が山下家。(昭和30年3月、矢嶋鋤夫氏撮影)
9 右手、木の陰に山下家の屋根とオチヤが見える。左はセンチ。(昭和30年、矢嶋鋤夫氏撮影)
10 山下家正面。右端に木棚、左橋にセンチが見える。(昭和33年、千葉健三氏撮影)
11 現在の山下家
12 融雪池を兼ねた元の田んぼ
13 移築前の間取り
14 増築されたクラ
15 主屋と付属屋の配置
16 復原されたハサゴヤ(写真提供・高山市)
17 カラウスのあった場所 奥はツネハチタンボ
18 積み上げられたマキ
19 昔の木棚
20 クラの裏に広がる耕地
21 水温調整用のため池
22 刈り入れ風景 [後列右]馬の横に立つ良一郎さん [前列左]子どもを抱くたかさん(昭和15、6年ごろ)
23 吊り橋時代の長瀬橋(昭和33年、千葉健三氏撮影)
24 仏壇
25 神棚
26 養蚕守りの絵馬
27 長瀬神明神社


(『日本民家園収蔵品目録18 旧山下家住宅』2013 所収)