奈良県奈良市高畑町 井岡家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が奈良県奈良市高畑町の井岡家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は2期に分けて行った。
 1期目は昭和56年(1981)2月27日、井岡家のクドと各部屋の民具の配置を中心にお話をうかがった。担当したのは渡辺美彦(当時当園学芸員)、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  井岡清一さん  現当主父   大正3年(1914)生まれ 平成5年(1993)没
 2期目は平成23年(2011)7月31日と8月25日、本書の編集に合わせて行った。
 7月31日には、奈良市の井岡家を訪れ、お話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  井岡博一さん  現当主    昭和22年(1947)生まれ
  井岡洋子さん  現当主夫人  昭和26年(1951)生まれ
 8月25日には、千葉県船橋市の鬼木家を訪れ、お話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男・畑山拓登、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  鬼木都起子さん 現当主姉   昭和18年(1943)生まれ
 このほか、直接お話をうかがうことはできなかったが、本文中にお名前の出てくる方を記しておく。
  井岡多吉さん  現当主曾祖父 文久元年(または万延2年 1861)生まれ 明治30年(1897)没
  井岡ハツさん  現当主曾祖母 慶応元年(または元治2年 1865)生まれ 昭和14年(1939)没
  井岡楢清さん  現当主祖父  明治17年(1884)生まれ 昭和45年(1970)没
  井岡タツさん  現当主祖母  明治19年(1886)生まれ 昭和50年(1975)没
  井岡コウさん  現当主母   大正10年(1921)生まれ
3 先行する調査としては、昭和37年(1962)8月21・22日、奈良文化財研究所が奈良市史編纂のために行ったものがある。話者は当時の当主、井岡楢清さんと考えられる。この調査の結果は『奈良市史 建築編』(奈良市 1971)に反映されているほか、『旧井岡家住宅移築修理工事報告書』(川崎市 1986)でも活用されている。しかしながら、これまで未報告の情報があること、さらには解体前に行われた唯一の調査であることから、データの出処を示した上で本報告でも活用させていただくことにした。それぞれ「(奈)」から「。」までが奈文研の調査に基づく箇所である。
4 図版の出処等はつぎのとおりである。
 1,7,8   遠山作成。
 2,6,25,26,27,28,29,30,32,33,35,37,38,39,40,46,47,50,51,52,53
          平成23年(2011)7月31日、渋谷撮影。
 3        平成23年(2011)8月25日、畑山撮影。
 4        フリー素材を使用。
 5,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,36,48,49
          昭和37年(1962)8月21・22日、奈良文化財研究所の調査で撮影。
 31,34   昭和56年(1981)2月27日、渡辺撮影。
 41,42,43,44    井岡家提供。
 45        鬼木都起子さんのイラスト。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれている。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 井岡家は旧奈良町のはずれ、柳生街道沿いにある。近くには志賀直哉旧宅や新薬師寺があり、現在もなお旧道の落ち着いた町並みを見ることができる。
 井岡家はこの地で、古くは油、その後は線香の製造販売業を営んでいた。高畑町は春日大社の禰宜町であり、今も同社の神官が多数屋敷を構えているが、その中にあって井岡家は当初より商家として建てられたようである。
 今回お話をうかがった博一(ひろいち)さんと都起子(ときこ)さんは、移築時の当主井岡楢清(ならきよ)さんの孫に当たられる。お二人の父、清一さん(楢清さん長男)がいわゆる転勤族だったため旧宅で育った期間は必ずしも長くないが、それでも毎年盆と正月には必ず里帰りしていたという。この稿ではこのお二人からの聞き取りを中心に、それ以前の調査記録も合わせ、井岡家の暮らしについて記述していくことにする。したがって、時代的には昭和20年代から30年代までの話が中心である。

.1 井岡家
... 屋号と家紋
 屋号は、油屋時代は「油屋与兵衛」「与兵衛」、線香屋時代は「線香屋新兵衛」「線香新」といった。
 家紋は「丸に違い鷹の羽」(図版4)だが、あまり使っていなかった。

... 先祖
 井岡家がどこから移ってきたか、そうした言い伝えは残されていない。(奈)井岡家の過去帳で最古の人物は、元禄9年(1696)没の覚眞禅門である。(奈)祖先は油屋をしていたというが、油屋の名が現れるのは天保12年(1841)没の油屋与兵衛が最初である。それ以前に何を生業としていたか、それについても不明である。

... 家族
 移築時の当主、楢清さんの父は多吉さんという。商才があり、あちこちに家作を買ったが早くに亡くなった。そのため、残されたハツさんは一人息子の楢清さんとともに、多吉さんの家作をある程度売り食いして生活していた。
 楢清さんは線香屋を継いだが、それが立ち行かなくなると役所に勤めた。
 楢清さんの長男清一さんは、線香づくりを手伝うことはあったが、学校を卒業してから勤めに出、家業は継がなかった。したがって、線香の製造販売に関わる伝承は清一さんの代で途切れたことになる。
 なお、清一さんの長男である現当主博一さんは、企業に勤務する技術者である。

... 建て替え
 旧住宅はかなり傷んでいた。「ガタガタ」で、開けるのも閉めるのも大変だった。住めないことはなかったが、押入れなどもほこりがひどく、汚かったという。
 清一さん家族が転勤先の北海道にいたころ、歳をとった楢清さん夫婦の世話をするため、コウさんが奈良へ帰ることになった。コウさんは日ごろ、何も言わず口答えすることも一切ない人だったが、このときは「家を直してくれなければ住めない」と言った。これがきっかけで昭和43年(1968)に主屋を建て替えた。

.2 衣食住
..(1)住
... 敷地
 敷地は柳生街道に面し、間口が15間(27.2m)、奥行が約40間(約72.7m)あった。南北方向に細長い土地である。現在も裏の道には抜けられないが、昭和30年代ごろ裏は田んぼになっており、道はなかった。ただし、裏に奥薬師堂(45頁参照)があったころは通路があったといわれている。
 なお、この敷地は北東の角が15尺(4.5m)ほど削れており、台形状になっていた。家相上、長方形にするとこの方向が鬼門になってしまうため、それを避けたのである(図版7)。北側の境界は、塀も門もなく、生け垣になっていた。
 東側も井岡家の土地で、ここには主屋と並んでオジゾウサン(地蔵堂)と、借家が建っていた。敷地の東側の境界は、きちんとした塀はなく、隣家の壁がそのまま境になっている箇所が多かった。奈良では東側の家が塀を作る習わしであったという。
西側には借家と分家の家が並んでいた。敷地の西側の境界は、北寄りについては築地塀になっていた。この塀は瓦葺きの片屋根で、井岡家側に傾斜していた。

... 主屋とハナレ
 井岡家の屋敷は、民家園に移築された主屋を含め、3つの建物が南北に連なる形をとっていた(図版8)(注1)。主屋のすぐ北側の建物は、東側のドマに沿って小部屋・ベンジョ・フロが並ぶ南北に長い建物である。この建物の北側には、ドマと座敷2間のある東西に長い建物が鉤の手に続いている。この建物は「ハナレ」と呼ばれていた。3つの建物は「ロウカ」と呼ばれる伝い縁で結ばれていたほか、ドマでもつながっていた。主屋と中央の建物とのあいだには引き戸があったが(図版14参照)、中央の建物とハナレとのあいだに仕切りはなく、ドマは裏の戸口まで長い廊下のようにつづいていた。
 建物はいずれも土壁で瓦葺きだった。壁は職人を呼んで修理することがあったが、都起子さん博一さん姉弟が育ったころは屋根の葺き替えや修理はしたことがなかった。

... 入口
 街道と主屋のあいだに溝があった。大人の目にはさほどのものではなかったが、子どもにとっては深い上、幅も広く、小学生ではまたげなかった。入口の前には、この溝をまたぐように石が置いてあった。
 入口にはまずガラスの入った引き戸があり(図版9)、その内側にオオドがあった。オオドは引き戸や開き戸ではなく、上に跳ね上げる揚げ戸だった(図版10)。天井から金具のついた紐が下げてあり、毎朝引き上げてこれに掛け、夕方下ろした。戸が重い上、高いところまで持ち上げなければならないため、この作業は上背がある者でないとできなかった。
 ガラス戸もオオドも、昼のあいだは冬場も開けておき、夜は両方閉めた。閉めたあと出入りするときはクグリドを使い(図版11)、(奈)来訪者があったときは「デマド」という横に設けられた覗き窓から確かめた。オオドは細い板を下ろすと戸締まりできるようになっていた。(奈)クグリドには戸締まり用に横木が付いており、これを「ナンバ」と呼んだ。

... ミセノマ(東側)
 街道沿いの東側の小部屋を「ミセノマ」と呼んでいた。
 (奈)油屋時代は、この場所は壁のある仕事部屋になっていた。
 (奈)その後、線香屋時代には土間に板敷きの仕事場となっていた。線香の製造機械があったほか、北側の壁際には棚があり、出来上がった線香が置かれていた。
 線香の製造をやめてからは物置のようになってあまり使われていなかったが、養鶏をやっていたコウさんがヒヨコを飼育していたことがあった(37頁参照)。この当時は床があり、板の間になっていた。その後畳敷きとなり、子どもたちが集まって夏休みの宿題をしたり、遊んだりするのに使っていた。このときには障子戸が入っていた(図版12)。
 ミセノマの街道側には折りたたみ式のエンダイがあり(図版5参照)、下ろすとちょうど溝をまたぐようになっていた。このエンダイは楢清さんがよく使っており、夏は近所の人が夕涼みに来て将棋をさしたりしていた。また子どもたちもこの場所に座り、トンボが来ると追いかけたりしていた。

... ミセノマ(西側)
 街道沿いの西側の小部屋も「ミセノマ」と呼んでいた(図版10参照)。
 線香屋時代は作業や(奈)客の応接に使われていた。表側にはガラス戸の入った戸棚が2つあり、線香が並べてあった。北側の壁際にも戸棚が2つ、少し離して置いてあった。これは、戸棚のあいだを通ってダイドコロと行き来できるようにしていたためである。こちらの戸棚は線香の保管場所として使われていた。
 線香屋を廃業したあと、昭和26年(1951)ごろは転勤先から戻った都起子さん博一さん家族が寝起きするのに使っていた。このころは畳敷きだった。一番明るい場所だったので机が置いてあり、よく勉強に使った。また子どもが集まって、祭りの前には町内の大人に笛を習ったり、7月23日のオジゾウサンの日にはのど自慢をやったりした。
 その後は、客が大勢泊まるとき以外はほとんど使われなくなった。物置のようになっていて、押入れに普段使わない来客用の座布団などがたくさん入れてあった。
 街道側は面格子になっており、内側にガラス戸が入っていた。しかし、車やバスが通るためほこりがひどく、夏は戸を開けたがそれ以外は閉めていた。隙間が多かったため、閉めていてもほこりが入ってきた。

... ドマ
 主屋の土間はのれんと格子戸で大きく3つに仕切られていた。いずれも「ドマ」と呼ばれ、呼び方は特に分かれていなかった。
 のれんはミセノマとダイドコロとの境にかかっていた。長さ3尺程度(90㎝)、三つ折れの中央には茶色の地に「井岡」の文字が白く染め抜かれていた。のれんの手前は明るかったため、子どもたちはよく、ゴムとびや毬つき、ペッタン(メンコ)などをして遊んでいた。
 のれんの内側は暗かった。のれんを掛けた東側の柱の根元には竹筒が取り付けられ、売上を入れるのに使われていた。この柱の奥には、東側のミセノマに続き、30㎝ほどの高さに床板を張った2畳程度の場所があった。もともとは線香の原料置き場だったが、その後も物置場所としてさまざまなものが置かれていた(図版12参照)。
 (奈)格子戸は昭和7年(1932)ごろ、来訪者を遮断するのが目的で設けられた(図版16参照)。ただし、夜に閉めることはあったが、通常はいつも開けていた。格子戸の内側は本当に暗かった。窓はあったが、明かりとしては暗い蛍光灯が1つ、それ以前は笠の付いた裸電球が1つあるだけだった。この場所にはクド・ナガシ・ミズヤなどがあった。
 裏口の上には傘置き場があった(図版13)。古い番傘が置いてあったが、博一さんたち家族が普段使うことはなく、普段使っている傘をこの場所に乗せることもなかった。

... クド
 ドマの奥に2つのクドがあった(図版14)。1つは煮炊き用、1つは祭祀用である。
 煮炊き用のクドは、(奈)古くは東の壁際に設けられ、焚口は通路側にあったが、大正元年(1912)ごろ壁から離し、焚口を壁側に移した。(奈)これは、西焚口はよくないとされていたこと、火の用心に悪いこと、餅搗きのとき蒸した米を取るのに火を越さねばならないため不便だったことが理由である。
 現在民家園では、湾曲した弓型のクドが復原されている。これは周辺地域の古民家の事例を参考にしたもので、移築前のクドは長方形だった。焚口も、民家園のものはドマと同じ高さだが、移築前は立ってマキを入れられるよう高くなっていた。釜口は4つあった。クドの上面は中央に10㎝ほどの段差があり、北側は低く、南側は高くなっている。釜口は低い方と高い方それぞれ2つずつあり、いずれも北側がナベ用、南側がカマ用だった。通常は北側の低い方のみを使い、南側の高い方は春日大社の祭礼など、祭りの時のみ使用した。なお、こうしたハレの日に使うナベを「ノッペ」といった。
 祭祀用のクドは「オクドサン(コウジンサマとも)」と呼ばれていた。煮炊き用とは異なる丸い形状である。正面にドマから少し距離を置いて台のようなものが設けてあり、そこが焚口になっていた。煮炊き用と異なり、焚口は通路側である。このクドは三宝荒神を祀るもので、正月用の餅搗きの折りを除き、火を入れることはなかった。
 いずれのクドも土製、黒漆喰仕上げだった。祭祀用の方はタツさんが乾拭きして常にピカピカだったが、煮炊き用の方はそこまでの手入れはされていなかった。博一さんの記憶の限りでは修理したこともなかったという。排煙塔がないため、主屋もハナレもクド周辺の壁は煤で真っ黒だった。
 なお、オクドサンと壁とのあいだに(奈)シバ入れの箱があった。ここには長さ60㎝くらいのシバが2束ほど立てて置いてあった。また、煮炊き用のクドの後ろ、東側の壁に神棚があった。

... ナガシ
 ドマの東北の隅、東側の壁際にナガシがあった。水道がなかった時代は、このナガシの右に直径45㎝高さ75㎝、蓋付きで木枠で囲った陶製のミズガメが置いてあった。簡単な洗い物はここでやっていた。

... アガリエン
 ダイドコロとザシキの手前に設けられた上がり口を「アガリエン((奈)「ノボリエン」とも)」といった。幅はダイドコロの前とザシキの前とで異なり、ザシキの前の方が倍ぐらい広かった。両者の境には障子の入った仕切りが設けられていた。
 ダイドコロのアガリエン手前に、黒ずんだ円い踏み台があった(図版15)。博一さんは子どものころ石でできていると思ったというが、石ではなく木製だった。外から帰った人はこの踏み台からダイドコロのアガリエンに上がり、部屋に入った。
 ザシキ前のアガリエンは大きく2つに分かれ、右側はミズヤ、左側はデッチサン(住み込みの職人)の食事場所になっていた(図版16)。
 ミズヤはゆがんで戸が斜めになっていたが、幅1間ほどもある大きなものだった。この右隣、ドマの一番奥には2段になった小さなミズヤが、この向かい、ナガシの左横にやはり小さなミズヤがあった(図版17)。ナガシ脇のミズヤの下には棚もあった。これらのミズヤには茶椀などが入れてあった。
 デッチサンの食事場所には固定式の食卓台が置いてあった。この台は高さ10〜15㎝ほど、箱型で中央には釜を置けるよう円い穴が開けられていた。大きさは8人で囲める程度だった。線香の製造販売を行っていた楢清さんの時代にはデッチサンが4、5人いたため、アガリエンに座れない場合はドマ側に縁台を置いて席を作り、腰掛けて食事させていた。

... ダイドコロ
 西側3部屋のうち、中央を「ダイドコロ」と呼んでいた(図版18)。畳敷きだった。
 (奈)ハナレができる前は、家族の食事に使われていた。しかし、サンジョウノマで食事するようになると、この部屋で食事するのは正月やお盆、そのほか兄弟親戚が集まるときだけになった。
 博一さんは子どものころ、ご両親とともにこの部屋で寝起きしていたことがある。しかし、長じて西側のサンジョウノマで寝るようになると、この部屋を使うのは夏の暑いあいだだけになった。こうしたときは蚊帳を吊って眠った。そのほかは来客が多いときに使う程度で、普段ここを寝部屋にする人はいなかった。
 この部屋の押入れは、中央部分の戸が二重になっていた(図版19)。すなわち、襖を開けるともう1枚戸が現れるのである。上下2段になっており、上段は襖で布団が入れてあり、(奈)下段は鍵のかかる板戸で小物入れになっていた。襖の裏には昔の書き付けが貼ってあった。
 この中央部を挟み、左手は押入れ、右手は仏間になっていて仏壇が祀られていた。押入れの上段は布団など、下段は何が入っていたか不明だが、ほこりだらけだったという。
 この部屋には神棚が2個所、押入れの上と北西の角に設けられていた。
 ドマ境には、敷居の溝が途中までしか彫られていないツキドメの障子があった。(奈)敷居は厚さ6.5㎝のサクラ材で、継目のないのが自慢だった。

... ザシキ
 西側3部屋のうち、一番奥を「ザシキ」と呼んでいた。畳敷きで、西側には床の間と押入れがあったが(図版20)、この部分は明治以降の増築といわれている。押入れには布団が入っていた。床の間には掛軸がかかっていて、コウさんが季節に応じて掛け替えていた。このほか、北側の長押には額が掛けてあった(図版21)。楢清さんが大切にしていたもので、その後は奥のクラに入れてあったが、保管状態が悪くて傷みが激しかった。
 この部屋は主に年長者の寝室として使われ、博一さんが子どものころは楢清さん夫婦が寝起きしていた。その後、楢清さん夫婦がハナレを使うようになると、清一さん家族が使った。
 ダイドコロとザシキのあいだ、ドマ境の柱を「ダイコクバシラ」と呼んだ。(奈)このダイコクバシラと対になるドマの壁側の柱を「ヒカエバシラ」といい、2つの柱をつなぐ梁を「ミツケバリ」といった。
 (奈)アガリエンとのあいだに板戸があった。客の食事を運んだりするとき、ここから出入りした。
 部屋の北側にはロウカがあり、東の端に戸棚があった。(奈)この場所を「行燈部屋」と呼んだらしい。
 またこの部屋には障子があった。障子は汚れたら張り替えるものであり、コウさんは季節に関係なくよく張り替えていた。

... ツシ
 天井裏のことを「ツシ」と呼んだ(図版22)。物置として使われた場所である。上がり口のそばの梁には滑車が取り付けてあり(図版24)、物を上に載せるとき吊り上げるのに使っていた。上がるときにはハシゴを使った。ハシゴはいつも格子戸脇の壁に立てかけてあり(図版23)、清一さんがときどき使っていたが、他の家族はほとんど上がることはなかった。
 ツシの天井には、煤で真っ黒になったススダケが張ってあった。床には板が張ってあったが、ザシキの上にだけは厚く土が載せてあった(図版24)。(奈)座敷に火を入れることは禁令で、したがって、座敷からの失火は首切りの罪になった。天井裏に土を載せるのは火を出さないための工夫であるという。こうした話を都起子さんは祖父の楢清さんから聞き、気になって一度だけ上ってみたという。すると確かに、ザシキの上だけは何もなく、ベターっと土だけが厚く載せてあった。この土の中にお金や宝などが埋まっているのではないかと、博一さんは聞かされていたという。家を解体するとき、母親のコウさんも気にかけていたが、「何もなかったわ」と言ってがっかりしていた。

... 中庭
 主屋とハナレに囲まれて中庭があった(図版25)。植木のほか石灯籠や手水鉢などが配され、そのあいだを踏み石が縫っていた。なお、建物のない西側には塀があり、カミベンジョ西側部分は土塀、それ以外は板塀になっていた。
 植木としては、まず松があった。かつては今よりさらに大きなものがあったが、室戸台風(昭和9年)で倒れ、現在残っているのはその後同じ位置に植え替えたものである。このほか、梅やキンモクセイなどがあった。
 石灯籠はむかし地震で倒れ、中央部が破損した。本来はロウソクを立てるだけの高さがあったが、それができなくなった。

... サンジョウノマ(西側)
 主屋の北西に瓦葺きの古いハナレがあり、「サンジョウノマ」と呼ばれていた。ザシキ前のロウカを曲がると、部屋の東側と北側はガラス戸の入ったロウカ(縁側)になっており、障子を開けると畳敷きの座敷になっていた。部屋に押入れはなかったが、ザシキ前のロウカの突き当たりは、物入れになっていた。
 線香屋時代は住み込みのデッチサンたちが寝起きしていた。その後は(奈)子どもたちが勉強部屋に使っていた。そのほか、親戚の親子がこの部屋で寝起きしていたこともあった。

... ロウカ
 主屋とそれに続く2棟の建物をロウカがつなぎ(図版26)、これに沿って部屋のほか、ベンジョやフロが並んでいた(図版29)。(奈)このロウカは昭和12、3年(1937、38)ごろ、中庭の松が室戸台風で倒れたあと作ったものである。
 ロウカはサンジョウノマの前で曲がっていた。この角の軒内側の柱は三方突抜け柱となっているが、宮大工でない普通の大工には細工が難しく(図版27)、職人が悩んで仕事がはかどらなかったという話が残っている。ここには軒から吊灯籠が下がっていた(図版28)。

... サンジョウノマ(東側)
 主屋の北東に小部屋があり、こちらも「サンジョウノマ」と呼ばれていた。出入口はロウカ側とドマ側と2つあったが、通常はドマ側から出入りしていた。中は畳敷きで掘ゴタツが設けてあり、居間として食事などに使われていた。狭い部屋だったが、家族はここで過ごすことが多かった。
 掘ゴタツには豆炭を使っていた。家族の席は決まっており、北を背にした一番奥が主人の席だった。

... 物入れ
 サンジョウノマの北隣に板敷きの物入れがあった。入口はロウカ側にあった。

... ベンジョ
 物入れの北隣にベンジョがあった。中は2つに分かれ、手前は小便所、奥が大便所である。戸にはガラスがはまっており、天井は網代天井だった。
 このベンジョはロウカ側から出入りするようになっていたが、裏のドマ側にはもうひとつ小便所が設けられていた。汲み取り口もドマ側にあり、楢清さんが汲みだして畑の肥溜めに運び、肥料として使っていた。蛆虫がすごかったという。
 ベンジョの向かい、ロウカの角の庭先に手水鉢があった(図版30)。ここに水を汲み入れて使っていた。
 なお古くは、このほかに2か所ベンジョがあった。1か所目は北側ハナレの南西角である。ロウカの突き当たりに左に折れる通路があり、その奥に「カミベンジョ」と呼ばれるベンジョがあった。このベンジョが使われなくなってからは、通路部分は物入れになっていた。西側は土壁だったが、中は壁が落ちてほこりだらけだったという。2か所目は西側サンジョウノマの北側である。こちらは「シモベンジョ」と呼ばれ、外からも利用できるようになっていた。そばには小さな手水鉢もあった。しかし、いずれも都起子さん博一さんが育った時代には取り壊されてすでになかった。

... フロ
 ベンジョの北隣にフロがあった。入口はガラス戸、入ると脱衣所になっており、つづいて洗い場、一番奥に五右衛門風呂の丸い浴槽があった。五右衛門風呂は下が熱くなるため、入るときには板を沈めるが、1回浮いてしまうと再び沈めるのが大変だったという。燃料はマキで、水道が入る前は井戸水を使っていた。
 入る順番は男が先で、当主が一番風呂、嫁が一番最後だった。焚くのも嫁だったので、自分が入るときにはお湯も少なく、マキをくべる人もいないのでぬるかったという。

... 物置
 主屋から長い廊下のようなハナレのドマに入ると、まず左右に扉があった。左はサンジョウノマ、右は物置の扉である(図版14参照)。
 物置の扉は手前に引くようになっており、中には醤油や味噌、壷に入った梅干しなどが保管されていた。電気がなく、暗い部屋だった。
 なお、この物置の脇は燃料置き場になっており、マキやシバ、炭などが置いてあった。

... ドマ
 中央の建物のドマは、線香屋時代は作業場としても使われていた。
 中央にはクドがあった。釜口が3つあり、2つは食事用でそれぞれご飯用とお湯用、もう1つは作業用だった。クドの奥には2つの作業台があり、作業台とクドのあいだに桶が置いてあった。
 その後、クドのそばに調理台を設け、野菜や魚の調理に使っていた。調理台の前には窓があった。

... クラ
 ハナレのドマの北東角に、「クラ」と呼ばれる部屋があった。独立した建物ではなく、家財道具の保管場所として使っていた一室である。入口は普通の引き戸で、中は1階部分のみ。北側の高い所に窓があり、明かりとしてはそのほか、裸電球が1つついていた。
 中にはタンスや長持があり、来客用の布団や座布団がしまってあった。このほか、祭りで使う太鼓なども置かれていた。

... 物置
 クラの南側に物置があった。戸のある独立した部屋ではなく、一角に棚が設けてあっただけである。棚の下段には漬物(ぬか漬け)など、上段にはウスやキネ、餅を作るときの台などがしまってあった。

... 井戸
 ハナレのドマに井戸があった(図版31)。石組みの四角い井戸枠があったが、丈は低く、子どもが覗くと落ちてしまう高さだった。そのため楢清さんも清一さんも、孫が来ると必ず大きなふたをしていた。
 この井戸は飲み水やフロの水に使っていたほか、畑で採れたスイカなどを冷やすのにも利用していた。そばには、落とした物を引っ張り上げるための碇状の道具が下げてあった。井戸さらいは、博一さんの記憶の範囲では一度くらいしかやったことがなかったという。なお、この井戸は建て替えられたハナレの床下に残っており(図版32)、現在も正月は床板を外し、お参りしている。
 水道が入ってからは、この井戸のすぐ手前、ドマからハナレに上がるところに水道管を引いていた。この場所に、ドマ側と床上側両方に流しが設けられ、どちらからも使えるようになっていた。
 井戸はこのほか2つあった。1つは西側の借家のところ、もう1つは東側の借家のところであり、いずれも借家で使うためのものだった。西側の井戸は現在もポンプで汲み上げ、畑に使っている(図版33)。東側は駐車場となっているため残っていないが、名残として現在も排水溝が残っている。

... 排水溝
 井戸のあるところには必ず排水溝を作らなくてはならなかった。井岡家の排水溝は、東側の借家の井戸から敷地に沿って走り、そのあと家の中に入ってハナレのドマを横切り、井戸の脇を通って再び外に続いていた。幅は20㎝ほどで、両側は石で固めてあった。ドマを横切るときも下水管を通してあるわけではなく、この溝がそのまま走っていた。井岡家ではここに生活排水を流していた。

... ハナレ
 北側の建物を「ハナレ」と呼んでいた。主屋から伸びるロウカを進むと突き当たりに開き戸があり、開けると斜めに渡り廊下が続いてハナレのエンガワにつながっていた。このほか、ドマ側からも入ることができた。ドマ側の上がり口は井戸の右にあり、床下にはマキが置かれていた(図版31参照)。
 ハナレにはエンガワに沿って、四畳と六畳の畳敷きの部屋があった。四畳の座敷は北側に戸棚があった。六畳の座敷は、西側向かって左が床の間、右が押入れになっており、北側には窓があった。窓の手前は、幅、高さとも30〜40㎝程度の腰高の縁になっていた。建物の外側にまわるとこの縁の下は凹んでおり、マキがたくさん置かれていた。建具は、上がり口と四畳のあいだは板戸、2間の境は襖、ロウカ沿いと六畳の窓際には障子が入っていた。
 エンガワ突き当たりの南側にベンジョ(「カミベンジョ」とも)があった。また雨戸の戸袋が、同じエンガワの突き当たりと、六畳の座敷の北西の角にあった。
 転勤先から戻ったとき、清一さん家族は主屋を使い、このハナレには楢清さん夫婦が寝起きした。その後、奈良教育大学の学生を2間に下宿させていたこともあった。また、主屋を建て替えたときは、家族全員が一時ハナレで生活した。
 なお、このハナレは平成19年(2007)に建て替えられた。多少広くなっているが、位置は同じである。

... カンソウジョ
 ハナレのドマを出た突き当たりに、南京錠をかけた小屋があった(図版34)。「カンソウジョ」という名称が残っており、線香屋時代、作業に使われた場所だったと思われる。
 その後、一時家畜小屋としてヤギとニワトリを飼っていたこともあったが、飼育をやめてからは物置になり、農機具や採れた野菜などが置かれていた。

... ニワトリ小屋
 このカンソウジョの小屋とは別に、ハナレの東側に大きなニワトリ小屋があった。近くにはイチジクの木があった。

... 裏庭
 ハナレの裏は元は藪だった(図版35)。戦後の食糧不足のとき、戦争から帰ってきた清一さんが少しずつ開墾し、畑にした。それまではこの藪に何でも捨てていたため、陶器や瓦のかけらがたくさん出てきたという。
 畑を拓いてからも、東側の奥には竹藪が残っていた。昭和20年代には、面積としては裏庭の3分の1ほどが竹藪だった。狭い藪だが覗いても奥の方まで見えなかったため、子どもの目にはとても恐ろしく、夜などは怖くてとても行けたものではなかったという。
 裏庭には植木も植えてあった。正月のお飾り用の干し柿を作るツルノコガキ、もっと大きな実が付くタクラガキ、梅酒にする梅、オクドサンに供えるゴマイザサ(五枚笹)、栗、サカキ、ユスラウメなど。このほか、敷地の北西の角にはヨノミの木(エノキ)があった(注2)。もう1つ目に付くのはシュロで、背が高かったため中庭からも見ることができた。なお、このシュロの繊維は箒用などに売っていた時代もあった。
 また、オイナリサンやオジゾウサンがあったのも裏庭である。
 なお、かつては周囲を囲っていなかったため、春日大社の鹿がよく入ってきた。朝、裏の戸を開けると鹿がいるということもあったという。昔は町の方まで鹿が歩いていた。

... 借家
 井岡家の敷地には借家が3軒建っていた。
 1軒目はオジゾウサンの東側にあった。この借家とその奥のニワトリ小屋とのあいだには板塀があった。
 2軒目は主屋の西側、分家とのあいだにあった。
 3軒目は北側ハナレの北西にあった。表通りからこの家に入ろうとすると、まず通りに面した引き戸を開け、路地を通り抜け、さらにこの借家の出入口にある門をくぐるようになっていた。この借家から裏庭に入る場所には開き戸があった。

..(2)食
... 水
 井戸水を使っていた時代は、釣瓶で汲み上げ、手桶で主屋に運び、ミズガメに入れていた。この仕事はコウさんがやることが多かった。手間が掛かったが、主屋のナガシでは食器を洗うぐらいだったため、運ぶ回数はそれほど多くなかった。畑で採れた野菜などは井戸のそばで直接洗っていた。
 その後、昭和20年代末に水道が入り、井戸水は洗い物に使うだけになった。

... 炊事
 普段の炊事はコウさんがやっていた。クドは2か所、主屋と中央の建物にあったが、昭和20年代ごろはご飯を炊くときは奥のクドを使っていた。燃料はマキだった。夜はすべての火を消し、種火をとっておくことはなかった。
 その後、昭和20年代末ごろ石油コンロになり、30年代の終わりにはガスが入った。井岡家ではガスの開通とともに引いたが、これは早い方で、周囲は必ずしもそうではなかった。

... 食事
 (奈)もともと家族の食事に使われていたのはダイドコロである。しかし、サンジョウノマができるとこちらで食事をするようになり、ダイドコロを使うのは正月やお盆、そのほか兄弟親戚が集まるときだけになった。
 住み込みのデッチサンがいたころは、デッチサンたちの食事にはザシキ前のアガリエンを使っていた。

... 主食
 朝は「オカユサン」が多かった。奈良は茶粥で知られるが、井岡家のものは普通のお粥である。残りご飯から作ることもあったが、それがないときは米から作っていた。昼も残っていればオカユサンを食べた。
 余ったご飯はザルに入れてよくロウカに吊るしていた。そうすると少し長持ちした。
 米以外の主食としてよく食べていたのはウドンである。パンはあまり食べなかった。

... 副食
 畑があったので、野菜は自家製だった。夏には、カボチャ・ナンバ(トウモロコシ)・ナス・スイカ・マッカ(黄色いマクワウリ)など、冬はミズナなど葉物を作っていた。
 漬物は普通の糠味噌漬けだった。奈良漬は熟成させるのが大変で、普通の家ではなかなか作れなかった。

... 魚・肉
 近所に魚屋があり、そこで買った魚をおかずにすることが多かった。昔はイワシやニシン、サバなどは安く、特にサバをよく食べていた。
 都起子さん博一さんが育った時代は肉も食べたが、家族が多かったため牛肉を食べる機会は少なかった。すき焼きには牛肉も使ったが、カシワ(鶏肉)の方が多かった。

... 調味料
 コウさんは味噌も作っていた。ただし、伝統を守ってという作り方ではなかった。

... おやつ
 毎年暮れと大寒の日に餅を搗き、オカキを作っていた。作り方はつぎのとおりである。まず、搗き上がった餅を四角いコウジブタに入れる。これを、両手持ちのカンナのような道具で薄く削ぐ。これをわら縄の目に挟み込み、吊して乾燥させる。オカキは日に当てないで乾燥させるため、東側のミセノマなどに竹竿を使って吊るしておいた。できあがったものは子どものおやつにした。
 裏庭にはツルノコガキ(鶴の子柿)とタクラガキ(田倉柿)があった。ツルノコガキの実は小さく、正月のお飾り用の干し柿にした。タクラガキの実はもっと大きく、干し柿にすると立派なものができた。コウさんは皮をむいてまめに干し柿を作り、子どものおやつにしたり、近所に分けたりしていた。

... 煙草
 楢清さんはキセルで刻み煙草を吸っていた。タバコボンに火入れと竹製の灰吹きを入れ、消すときは「ポーンポーンと」とキセルを打ち付けて灰を落としていた。ときどき畳が焦げていることがあり、あれでよく火事にならないものだと、都起子さんはいつも思っていたという。夏は蚊帳の中でも吸っていた。

..(3)衣
... 服装
 楢清さん夫婦は亡くなるまで日常的に和服を着ていた。
 清一さんは年をとるとあまり和服は着なくなったが、50代ぐらいまでは家に帰ってくつろぐときは和服だった。コウさんも和服を着ていた。コウさんは和裁が上手で、近所の呉服屋に結婚式の着物の仕立てを頼まれるほどの腕前だった。
 博一さんは学校へ行くときは洋服を来ていたが、昭和29年(1954)ぐらいまでは帰ったら和服に下駄だった。周りは、和服は着るときもあるという程度だったが、下駄はみな履いていた。ところが昭和29年(1954)ごろを境に、自分も周囲も和服を着なくなり、下駄も履かなくなった。

... 髪型
 タツさんの髪型はヒッツメだった。

... 寝具
 布団は木綿のワタだった。コウさんは、布団は重くないと寝られない、と言っていた。
 夏はどの部屋も寝るときは蚊帳を吊った。

... 洗濯・掃除
 洗濯機は比較的早く入ったが、それまではハナレの井戸の横にあった流しで洗濯していた。洗濯物を男女分けて洗うことはなかった。干すのは裏庭で、畑のところにあった洗濯竿を使っていた。
 掃除はすべてコウさんがやっていた。

..(4)暮らし
... 暖房
 昔の家は寒かった。昭和30年代の終わりに古い型の石油ストーブが入るまでは、暖房といえば昼間は火鉢だけだった。
 炭は東側のミセノマに置いてあった。取りに行くときは居間になっていた東のサンジョウノマを通らなければならないが、炭を持って何度も通ると楢清さんににらまれた。また、火を強くしていると「炭をよく使う」と言われてしまうので、タツさんが来ると灰を被せ、「あまり使ってませんよ」という顔をしたという。
 夜はアンカを使った。清一さんの仕事の関係で電気アンカは早くに入ったが、それまではヤグラ型の豆炭アンカだった。

... 燃料
 木を割ったものを「マキ」、細い枝を切り揃えたものを「シバ」と言った。燃料はこうしたものがほとんどだった。大八車にこれらを積んで売りに来る人がいて、買い求めるとアガリエンの床下やハナレの窓の下などに置いていた(図版36)。

... 冷蔵庫
 主屋のナガシのそばに冷蔵庫があった。電気冷蔵庫ではなく、上部に氷を入れるものである。都起子さんは小学生のころ、よく近所の氷屋でかき氷用のものを買っていた。

... ラジオ・テレビ・電話
 ラジオは昭和20年代にはすでに入っていた。一方、テレビが入ったのは昭和32、3年(1957、58)ごろである。東側サンジョウノマの北東角には少し窪んだ空間があり、そこの棚の上にラジオ、その下にテレビが置かれてあった。
 電話が入ったのは旧住宅の移築(昭和43年)以降である。それまでは、近所でたばこ屋をやっていた親戚の家で借りていた。

... 娯楽
 家族で旅行に行くことはなかった。清一さんは旅行を好まず、外食も好きではなかったため、家族全員で家を空けることはなかった。都起子さんが唯一覚えているのは、小学生のとき宝塚につれていってもらったことである。清一さんと出かけたのはそれだけで、楽しかった思い出として今も記憶にあるという。
 井岡家の前には街道を隔てて空き地があり、夏はよく映画を上映した。布を張ってスクリーンにした野外劇場で、三益愛子の母物などをよくやっていた。映画館にもなかなかつれていってもらえなかったため、この空き地の映画会は楽しみだったという。

... ペット
 犬や猫は畑を荒らすということで清一さんが嫌い、ペットを飼っていたことはなかった。
 子どもの暮らし
 子どもたちは鬼ごっこやドウマ(長馬跳び)、虫採りなど、外で遊ぶことが多かった。
 表の柳生街道や裏の川あたりをトンボがよく通った。オニヤンマは流れ沿いに飛んでくることが多いため、網を持ってみんなで待ち構え、上から降りてくるのを捕まえたりした。
 浅茅ヶ原(奈良公園)には2つの小川が合流しているところがあった。そこには小さなエビがいて、やはりみんなで捕りに行ったりした。
 新薬師寺は現在有料だが、都起子さんが子どものころは無料だった。そのため子どもの遊び場になっており、池の橋に座り、写真を撮ったりしたという。
 奈良は映画の撮影が多かった。中村錦之助とか東千代之介とか、有名な映画俳優が来ると追っかけをして見に行った。都起子さんはそれが楽しかったという。

... 災害
 (奈)嘉永大地震(1854)のとき、東から順に倒れてきた家並みが、柱を折りながらも井岡家で止まった(注3)。(奈)先祖のあるおじいさんは、この地震で藪に避難している折りに生れたという。
 井岡家の裏庭には竹藪があった。都起子さんは子どものころ、地震があると楢清さんに「竹藪へ逃げろ」と言われ、みんなで走り込んだ。ただし、奈良は地震も含めて災害は比較的少なく、阪神大震災でもあまり揺れなかった。都起子さんは東京に来たとき、地震が多くて驚いたという。
 また、奈良は火事を出すと大変だったため、町家が燃えることはほとんどなかった。

.3 生業
..(1)油屋
 井岡家の先祖は油屋をしていたと言われる。(奈)過去帳に名の残る者としては、天保12年(1841)10月に55歳で亡くなった「油屋与兵衛」が最古の油屋である。しかし、具体的にどのような商いをしていたのか、記録などは残されていない。言い伝えとして残っているのも、油屋時代「油屋新兵衛」や「与兵衛」の屋号で呼ばれていたこと、(奈)東側のミセノマが仕事部屋になっていたこと、その程度だけである。

..(2)線香屋
... 概況
 井岡家はその後、家業を線香屋に改めた。伝承としては(奈)誓多林村(現奈良市誓多林町)の線香原料を扱う家から養子をとり、それがきっかけで嘉永のころ、同じ建物で線香屋を始めたとされている。(奈)過去帳には文政10年(1827)に亡くなった「誓多林治兵衛母」の名が残っている。
 廃業したのは楢清さんの代である。昭和16年(1941)ごろのことで、第二次世界大戦により原料が入手できなくなったことがきっかけだった。
 井岡家では通常の線香のほか巻線香も作っていた。

... 製造工程
 線香の原料は主屋に置いていた。東側のミセノマに続き、ドマに床板を張った2畳ほどの場所があり、ここに杉の葉や糊などが保管されていた。
 ハナレのドマを出た突き当たりに、「カンソウジョ」という小屋があった。詳細は不明だが、原料を乾燥させておくための場所だったと思われる。内部には線香の製造に使われたであろう踏み臼があった。
 主屋に続く中央の建物のドマは、線香の原料をこねるのに使用されていた。中央にクドがあり、3つの釜口のうち1つには作業用に湯を沸かすための釜がかけてあった。クドの奥には2つの作業台、作業台とクドのあいだには桶が置いてあり、いずれも作業に使われていた。
 東側のミセノマには線香の製造機械が置いてあった。こねた原料を運び込んで機械に入れ、細く伸ばす作業をしていた。
 清一さんは継ぐ気はなかったが、手先が器用だったうえ長男だったので仕事を手伝っていた。通常の長い線香は何本も同時に押し出されてくる。これを途中でさっと切り、綺麗に並べていく。巻線香の方は出てきたものを台に受けるのだが、きれいに、長く、重ならないように巻いていくのは難しかった。職人を雇っていたが、清一さんは自分が一番うまかったと自慢していたという。なお、清一さんは手伝っても、コウさんは線香の仕事はしなかった。
 この部屋の北側の壁際には2、3段の戸のない棚があり、出来上がった線香はここに置いていた。
 出来上がった線香を束ねる仕事は西側のミセノマで行っていた。

... 製造用具
 現在井岡家には、線香の製造に使われたとされる木製器具が3点残されている。
 1つ目は円筒状で(図版37)、材質は樫である。博一さんによれば、団子状になった原料を線状に押し出すため、回転させて圧縮する道具だろうとのことである。
 2つ目は滑車状で(図版38)、ロープを掛けて回転させるものだろうとのことである。
 3つ目は取っ手状だが(図版39)、使用場所、使用方法は不明である。

... 職人
 楢清さんの時代には「デッチサン」と呼ばれる職人が4、5人いた。いずれも住み込みである。寝起きには西側のサンジョウノマを使っていた。食事には主屋のアガリエンを使っていたが、人数が多くて座れない場合はドマに縁台を置き、腰掛けて食事した。さらに人数が多いときには、ザシキのドマ寄りの隅にチャブダイを置いて席を作った。
 このデッチサンたちは線香をやめてからも、亡くなるまで毎年正月に挨拶に来ていた。

... 販売
 (奈)客の応接には西側のミセノマを使っていた。
 表側には通りに平行して戸棚が2つ並べてある。前面と背面にガラス戸の入った、両側から線香の出し入れができるものである。北側の壁際には、主に線香の保管場所として使われた戸棚が2つ置いてあった。
 ミセノマから奥に入るところにのれんがあった。こののれんを掛けた東側の柱には、長さ1mほどの竹筒が根元に取り付けられてあり、店の売上を入れるのに使われていた。
 井岡家は店頭で販売するだけでなく、近隣の社寺にも納めていた。一番の大口は、生駒聖天宝山寺(生駒市門前町)である。売り込んでようやく獲得した得意先で、背に担ぎ、鉄道を使って納めに行った。

..(3)その他
... 養鶏
 昭和20年代に養鶏をやっていたことがあった。実際に作業していたのはコウさんである。まず東側のミセノマで、電気を入れて暖めながらヒヨコを育てる。そして大きくなると、裏庭のニワトリ小屋に移して飼い、卵を売った。近所の人が買いに来たりしていたが、清一さんがまた転勤になったため、短期間でやめてしまった。

... 下宿
 ハナレの2間に、奈良教育大学の学生を下宿させていたことがあった。学生たちは水道を使って自炊していたが、フロに入れたりもしていた。
 下宿は主屋を移築してからもやっていた。移築後は電話を入れ、学生にかかってくると呼び出しもした。ただし、長電話していると清一さんは怒っていたという。

.4 交通交易
... 柳生街道
 街道の道幅は昔から変わらない(図版40)。舗装されていない時代は非常に埃っぽい道だった。
 車は少なかったが、昭和20年代ごろはボンネット型の観光バスがよく通った。道幅が狭かったため、サイドミラーが電信柱にぶつかるぐらいギリギリに通っていた。

... 買い物
 井岡家は町中にあったため、周囲には魚屋・野菜屋・米屋・氷屋などの店があり、こうしたところでみな買い物をしていた。柳生街道沿いも途中までは店が多かった。

... 行商
 大八車にシバをたくさん積んで街道を売り歩く人がいた。井岡家ではシバもマキもこの人たちから買っていた。
 このほか、やはり荷車を引いてくる女性の行商がいた。何を売りに来ていたか不明だが、必ず「メンメンテー」と声を上げながらやってきた。

... 芸人
 正月にも獅子舞や芸人などがまわってくることはなかった。

... 虚無僧
 深編笠をかぶった虚無僧がまわってくることがあった。家の前で拝みはじめると、何かあげないとなかなか帰らなかった。どこの寺からまわってくるのかわからなかった。

... 進駐軍
 戦後、奈良教育大学のところにアメリカの連隊が進駐していた。周囲には進駐軍向けの店がたくさんあり、派手な服などが売られていた。
 井岡家の前をタッタッタッと、進駐軍が行軍してくることがあった。また、軍人がジープで通ったり、2、3人で歩いていることもあった。子どもたちが「ハロー」と声をかけると、チューインガムやチョコレートをくれたりした。

.5 年中行事
... 大掃除
 暮れに大掃除の日があった。この日は毎年必ず、畳を上げてたたいた。

... 正月飾り
 一夜飾りはいけないとされるため、正月飾りは30日に付けた。飾りを付け、供え物をするのは、全部で9か所である。
 ザシキの床の間には家のお祀りをする(図版41)。供えるのは鏡餅ではなく、いくつかのお供えを脚付膳にのせたものである。用意するのは三日月に十三餅、すなわち三日月型の餅と13個の丸い餅、それからミカン、そして串に挿した干し柿とウラジロである。この干し柿には「ツルノコガキ(鶴の子柿)」という柿を使う。裏庭のオイナリサンのところにある柿で、小さいが味は良い。これを、お供え用として売っている専用の串の両端に2個づつ、あいだに6個挿す。これには「にこにこ(2個)、仲睦(6つ)まじく」という意味が込められている。
 オイナリサンとオクドサンには一般的な鏡餅を供える(図版42)。
 火の神様・水の神様・便所の神様など、あとの神様には床の間と同じように脚付膳にのせたものを供える(図版43)。用意するのは、鏡餅にちなみ小餅で作ったカサネモチ、干し柿、ウラジロである。
 こうして供え物をしたところには、ウラジロとユズリハを輪飾りにして柱などに付けた。また、門松は飾らなかったが、入口のオオドのところには正月のあいだ注連縄をかけていた。この輪飾りや注連縄は毎年楢清さんが作っていた。

... 餅搗き
 お飾りを付ける日の朝に餅搗きをした。餅搗きはフロの前あたりのドマで行っていた。

... 大晦日
 大晦日には年越しそばとして日本そばを食べた。

... 正月
 元日は起きるとすぐ、家族全員で神様を拝んでまわった。床の間・オイナリサン・オクドサン・火の神様・水の神様・便所の神様・オジゾウサンなど、正月飾りを付けたところはすべてである。このとき短いロウソクを灯していくのだが、この火が消えないうちにすべてまわらなければならない。途中で消えるとやり直しになるため、「ロウソクつけたわよー」などと声をかけながらまわった。本来は三が日やらなければいけないが、実際にお参りするのは元旦と二日だけだった。
 なお、こうして神様を祀った場所には、雑煮の具を少しづつ取り分け、折敷にのせて供えた(図版42,図版43参照)。
 正月は、楢清さんの時代までは必ず全員が家族で集まった。嫁のコウさんは大変だった。

... 正月料理
 正月はダイドコロで食事をとった。
 食事が並んだら、まず主人が焼いた鯛を盛りつけた皿を持ち、「おめでとうございます」と言う。そしてこの皿を順にまわし、「おめでとうございます」と言っていく。この鯛を「ニラミダイ」という。食べるのは二日からで、元日は睨んでおくだけだからである。
 これが終わると、つぎにお酒の杯をまわす。こちらも「おめでとうございます」と言いながら、順番に飲んでいく。このとき子どもたちもついでもらって飲んでいた。
 暮れの料理の準備は女の仕事だが、正月三が日はその家の一番若い男が水仕事をした。この男のことを「ワカオトコ」という。これは女性たちを休めるためと言い、ワカオトコは一番に起きて若水を汲み、雑煮を作った。雑煮は合わせ味噌の味噌仕立てである。具は昆布とダイコン・サトイモ・豆腐などである。餅は丸餅で、食べるときには汁から取り出し、きな粉をつけて食べる。これは奈良独特のもので、同じ関西でも大阪から嫁に来た洋子さんは驚いたという。きな粉は自家製ではなく、買っていた。
 その他の正月料理としては、自家製のボウダラ(棒鱈)があった。それ以外は昆布巻きなどごく普通のものである。

... 年始
 昔は元日の午前中、年始の挨拶に来る人がいた。親戚だけでなく、近所の人も来た。神社にお参りに行くのはそれが終わって昼からだった。

... 初詣
 元日は氏神の鏡神社に必ずお参りにいった。このときお餅とお供えを持っていった。
 その後春日大社に行くが、こちらはお供えなどは持たず、お賽銭を上げて御札を買う程度である。
 正月に菩提寺に行くことはなかった。

... 七草
 7日は七草がゆである。ただし、特別なものを作るわけではなく、材料は家の畑の菜っ葉などだった。

... トンド
 15日はトンドである。注連飾りを燃やし、その火で餅を一緒に焼いてオサガリを食べた。そうすると無病息災と言われた。

... 節分
 節分のときは、入口左手の柱にイワシの頭と庭から取ったヒイラギを付けた。これは節分が過ぎても外さず、そのままにしていた。
 豆まきは子どもたちが家の中や外に向かってやっていた。このあと、自分の歳に1を加えた数の豆を食べた。

... ひな祭り
 ひな祭りは3月である。ザシキの床の間にひな人形を飾り、ひし餅を供えた。都起子さんのひな人形は、母方の祖母から贈られたものである。館入りの立派なものだった(図版44)。

... お彼岸
 お彼岸には墓参りに行き、オハギを作った。米をつぶして作る、あんこのオハギである。

... 五月節句
 五月の節句には床の間に古い武者人形を飾った。こいのぼりは立てなかった。
 また、菖蒲があれば菖蒲湯にした。ただし、これは清一さんが風呂好きだったためで、井岡家で伝統的にやっていたわけではなかった。

... 七夕
 井岡家で毎年やっていたわけではないが、学校で覚えてきた子どもたちが七夕の笹を飾ったことはあった。一晩飾って翌朝、家の前の溝が小川に合流するところまで行って笹を流した。

... オジゾウサン(地蔵盆)
 7月23日はオジゾウサンである。
 この日は各家で四角いチョウチンを作り、玄関に飾る。正面には朝顔など夏らしい絵を描き、両脇には「家内安全」「町内安全」などと書き入れる(図版45)。コウさんは絵が上手で、子どもの絵などを描いてよく褒められていた。
 オジゾウサンは、自治会ごとにお守りするものが決まっていた。となりのオジゾウサン(地蔵堂、図版5,6)は井岡家も入っている下高畑自治会で祀るもので、オジゾウサンのときは賑わった。この日はエンダイを開き、中では閼伽井庵(あかいあん 奈良市高畑町、浄土宗、尼寺)(図版46)の人も来ておばあさんたちが御詠歌を上げる。子どもたちがここに行くと、お供え物をみんな分けてくれる。このほか金魚すくいがあったり、福引きで一等二等になるとけっこう良いものがもらえたり、縁日のように賑やかだった。
 井岡家でもこの日は裏庭のオジゾウサンにお供えをした。また、のど自慢をやったりもした。会場に使っていた西側のミセノマには、賞品がたくさん置いてあったという。

... お盆
 お盆は8月である。お彼岸とともに、お盆には必ず墓参りに行った。
 飾り付けは12日である。仏壇の前に提灯を飾り、ハスの葉の上にカボチャやナスなど、裏の畑で採れたものや麻殻をのせて供える。こうしたものをオジゾウサンにも供えるが、猫などが来るため、供える場所は石仏の前ではなくロウカだった。
 13日は昼からお迎えの御詠歌を上げる。ダイドコロの仏壇の前に家族が座り、鉦と木魚を叩きながら全員で唱える(図版47)。鉦で先導する者を「導師」という。木魚はまた別の者が叩く。いずれも誰がやっても良い。導師は主人が務めることが多いが、早く終わらせたいときは若い人にやらせる。時間は30分程度で、途中1回休み、お茶を飲んでまた行う。導師がゆっくりだとさらに時間がかかる。清一さんは長かったため、脚がしびれたという。現在、こうしてお盆に御詠歌を上げるのは、近隣では井岡家を含め3軒ぐらいだという。やっている家もテープを使っていたりする。この日の夜はムカエダンゴを仏壇に供える。現在は店で買っている。迎え火は焚かない。
 14日にはオテラサン(興善寺)がお参りに来る。それとは別に、閼伽井庵からもお参りに来る。興善寺は月命日にも来るが、閼伽井庵が来るのは盆の14日だけである。この日の朝は、塗りのお膳にご飯と煮物、汁物、漬物と水をのせ、仏壇に供える。このほか、家で採れた野菜なども供える。お盆の3日間は、かつては1日目は何、2日目は何というように食べるものが決まっており、高野豆腐・コンニャクやシイタケの煮物・素麺・オハギなど、いろいろな精進料理を作っていた。14日も御詠歌を上げる。この日上げるのは、夜の8時ごろである。
 15日は送り日である。この日は昼間、送りの御詠歌を上げる。時間は3時ぐらいからである。これが終わると、ハスの葉にのせた供えものなどを片付ける。現在はみなゴミに出してしまうが、かつては町内に決まった場所があり、そこへ持って行った。
 こうした家の行事のほか、奈良では盆の前後にさまざまな行事があり、井岡家でもこうしたところへ出かけることがあった。
 高円山(奈良市)では大文字焼きが行われた。これに先立って飛火野(奈良公園)では、毎年「大」と書いてある大きなうちわを無料で配った。子どもたちはこのうちわがほしくて、午後4時か5時の明るいうちから並んだ。夜、花火が上がると大文字焼きのはじまりである。家からも見えたが、みんなで飛火野に座って眺めた。このほか、春日大社では万燈籠があったので、公園は暗かったがみな歩いて帰ってきた。
 近くの空き地で盆踊りもあった。当時は盆踊りといえば必ず炭坑節が流れ、練習もよくやっていた。

... オセガキ
 8月26、7日はオセガキである。寺に檀家が集まり、お坊さんが何人か来てお経を唱えた。

... お月見
 お月見の日は裏庭のススキと、家で作ったダンゴをロウカに供えた。
 よその家のダンゴを取りに行くということはなく、家の中だけでやっていた。

... 祭り
 鏡神社の祭りは10月14日である。この日は御輿が出て町内を練り歩いた。
 先頭に立つのは子どもたちである。この日のために、子どもたちは神社に集まって大人たちに笛や太鼓を習う。井岡家のミセノマでも子どもたちが集まって練習した。子どもたちのあとには町内の年寄りたちが続く。かつては皆、祭礼用の装束を着た。そのあとに大人たちの担ぐ神輿が続く。神輿の前には賽銭箱があり、家の前を通ると賽銭を入れた。
 祭りの日、神社ではくじ引きなどの夜店や神楽が出た。井岡家は氏子なので、お供えを持って行った。
 なお現在は、子どもも神輿を担ぐ人もいなくなったため、笛や太鼓はなくなり、神輿も車で運んでいる。ともに歩く年寄りたちも装束を着ることはなくなったという。
 このほか、春日大社若宮のおん祭(12月)では、京都の時代祭りのような練りがあった。このときは三条通りを有名な女優が輿に乗って通るので、みんな見に行った。

... 冬至
 冬至の日に特別なものを食べることはなかった。

.6 人生儀礼
... 婚礼
 清一さんの末弟がお見合いをしたことがあった。使われたのはハナレの座敷で、都起子さんはのぞきに行ったのを覚えているという。その後結婚式が行われたが、このときもハナレが使われた。

... 産育
 戦時中、コウさんはお腹が大きかった。空襲警報が鳴ったが、お腹が大きくて動くことができない。そのため、家族はやむを得ずコウさんのまわりに布団をうず高く積み上げ、それから自分たちだけ藪の方に避難したという。
 お宮参りや七五三は鏡神社で行った。

... 厄年
 博一さんは厄払いに行った。母親のコウさんはこうしたことを気にしたため、一緒に行った。

... 葬儀
 葬式のときは興善寺のお坊さんに来てもらう。お寺さんへ渡すお金のことや車の手配など、準備については町内の役員の人たちに相談の上すべて任せた。家族は台所に立つことも一切なく、隣組の女性たちが食事等の世話もすべてやってくれた。

... 墓地
 墓は2か所あった。菩提寺である興善寺と、白毫寺(奈良市白毫寺町)のそばにある地区の墓地である。興善寺の墓には古いころの祖先が祀られ、白毫寺の墓には最近の人が祀られていた。興善寺の墓には知らない人が多いため、整理して白毫寺の方にまとめた。

... 法事
 毎月、月命日には興善寺からお坊さんがきて拝んでくれる。そのたびにお布施をする。ただし、やっているのは父親の月命日だけで、他の人の月命日は行わない。
 法事は興善寺にお願いする。通常は十三回忌までである。清一さんが十三回忌で終わりにするようにと遺言したこともあり、十七回忌の折りは家族だけで済まし、寺には連絡しなかった。

.7 信仰
... 仏壇
 ダイドコロの右端の襖を開けると仏間になっており、中に仏壇が祀られていた。(奈)仏壇は本来家に造り付けるものであり、したがって設置場所も仏壇そのものも昔のままである。中央に祀られていたのは阿弥陀如来、内部には金箔が張ってあったが煤で真っ黒だった(図版48)。
 井岡家ではご飯が炊きあがると、必ず一番に神仏に供えた。炊きあがるとまず、主屋のクド近くにあった台まで運ぶ。ここで、直径5㎝ほどの平たい器にご飯をみんなでよそう。仏壇にはこの器を16、平膳にのせて供え、「どうぞ召し上がってください」と言って拝む。仏壇が済むとつぎは神棚とオクドサンである。ダイドコロの神棚に供えるときは、脚立を使って供えた。そして家族の食事が終わるとこれらを「たばって」きて、器から取って食べた。「たばる」というのは「下げてくる」という意味である。

... 神棚
 神棚はダイドコロに2か所設けられていた(図版49)。押入れの上には奥行20㎝、長さ120〜130㎝の棚が設けられ、エビス様・大黒様・天照皇大神宮・鏡神社(氏神)が祀られていた。北西の角にはもう1つ小さな棚が設けられ、春日大神が祀られていた。このほか、ドマの煮炊き用のクドの背面にも神棚が設けられていた(図版14参照)。
 こうした神棚に御札として祀られていたのは、天照皇大神宮・鏡神社・春日大社である。家の中に他に御札を貼るような場所はなく、井戸に御札を貼ることもなかった。古くなったお札は春日大社に持って行ってお焚き上げしてもらった。
 アオモノ(榊など)は小まめに替えていた。いつ取り替えるという決まりはなく、枯れたらすぐに替えていた。

... オクドサン
 ドマに祭祀用大竈があり、「オクドサン(コウジンサマとも)」と呼ばれていた。コウジンサマ(三宝荒神)を祀るもので、正月の餅を搗くとき大釜で湯を沸かしたりするほか、火を入れることはなかった。
 大釜の蓋の上には花瓶が置いてあり、松の枝や榊を供える。いずれも庭から取ったものである。正月前には必ず替えていたが、それ以外、供える日は特に決まっていなかった。このほか、クドの両脇には笹を1本ずつ飾った(図版14参照)。通常は普通の笹を使うが、正月にはゴマイザサ(五枚笹)という特別な笹を使った(図版50)。この笹も裏庭に植えてあった。

... オイナリサン
 裏庭にオイナリサンの祠がある(図版51)。ハナレは建て替えたが、神仏関係は動かしていないため、位置は昔から同じである。
 暮れに正月飾りをして供えものをするが(図版42参照)、それ以外にオイナリサンの祭りはなく、初午の行事もなかった。
 なお、神前の徳利に挿している御神酒口は、毎年正月前に店で買い求め、取り替えている。

... オジゾウサン
 裏庭のオイナリサンの隣に、3体の石造のオジゾウサンがある(図版52)。正月とお盆、それから7月のオジゾウサンのときにお供えをしてお参りした。

... オジゾウサン(地蔵堂)
 井岡家の裏道のところに奥薬師堂というお堂があった。皆がお参りするお堂だったが、明治のころ火事で焼けてしまった。このとき近所の人が救い出した本尊、木造の薬師如来像を井岡家で預かっていたが、その後町内会でお堂を建てることになり、主屋東の土地を無料で貸した。この際、町内にオジゾウサンがなかったため、本来薬師如来だが地蔵菩薩として祀ることにした。
 このオジゾウサンは当初は現在より広く、1間×3間で15、6人ほど入ることができた(図版5参照)。現在も毎年7月23日にはオジゾウサンの祭りをやっているが、昭和40年代初めごろまでは毎月地蔵講もやっていた。この日はおじいさんおばあさんのほか、閼伽井庵(奈良市高畑町、浄土宗、尼寺)の人がオジゾウサンに集まり、大数珠を繰りながら御詠歌を上げる。輪番制で当番がまわり、当番に当たるとお堂の掃除をしたり、花を替えたり、御詠歌を上げるときは導師役を務めたりした。このほか葬式があると、集まって御詠歌を上げた。老人たちの茶飲み会でもあった。

... 氏神
 氏神は鏡神社(奈良市高畑町)である(図版53)。楢清さんも清一さんも寺より神社に関わることを好み、楢清さんは世話役も努めていた。

... 菩提寺
 菩提寺は興善寺(奈良市十輪院畑町、浄土宗)である。寺はタツさんの担当だった。

... 参拝
 井岡家に西国三十三ヶ所霊場の御朱印の掛軸がある。これはコウさんが姉妹で回って集めてきたものである。

.8 その他
... 破石
 「ここは『破石(わりいし)』っていうんですけれども。これはどこまで本当かわかんないんですけれども、破石っていうのは『破る』『石』って書くんですけれどもね。僕の父親(清一さん)なんかが言うてたのは、斜め向かいにえびす屋さんいうてね、人力車屋さんが入ってるんですけれども。その人力車屋さんが入ったのは10年ぐらい前かな。その前は普通の家だったんですよ。で、その家の裏にですね、破石いう石があるんです。破石っていう石の謂われいうのは、僕の父親なんかに言わせると境界石やて。僕、見たことないんだけれども、石があって、で、3つこう分けてあんねん。彫ってね。
 んで、その破石の境界でいうと、吉備真備の昔の家と、それから阿倍仲麻呂の昔の屋敷と、もう1軒(藤原氏)のそれの境界石やったっていうふうに聞いてる(注5)。どこまで本当かわからないけど。ここはその境界石からいうたら阿倍仲麻呂の屋敷跡になるから、『天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも』っていうのは、うちから見る三笠の山のことなんやでって。三笠の山いうのはいまの若草山じゃないんですよ。若草山じゃなくて、こっちにある『御笠山』って書くんだけど、そっちの山をいうんや言うて、父親言ってたです。若草山じゃない、あれは三重やから三笠っていうけれども、本当は三笠の山いうたらこっちにある御笠の山や言うて。
 で、それからあの宮司さん、春日神社の真下に当たるその鏡神社、氏神の宮司さんですね。その宮司さんがその破石をですね、家を造作するのに場所がもうひとつ良くないからこの石を動かしてくれ言うて動かしたときに、瘴気を抜いてもらうためにその神主さんが行ってね。これ瘴気抜いてそのあと動かされたんですけれどもね。神主さん病気になったんですね。」
「それで、ここの家もすごく立派な家を建てられたのに、結局だめになって出て行かれたんです。今、えびす屋さんになっていますが。」
「そういうことがあったから、うちの奥さんがその、これ、井戸つぶしたらいかん言うて。」
「だから、オイナリサンもね。裏のハナレを建て替えるとき、オイナリサンとオジゾウサンを動かしたらもうちょっと大きくできますよ、って言われたんですよ。でもわたし、動かしません、て。そのまま置いといてください、と。」(博一さん・洋子さん)

... チマキ
 「僕とこはその、チマキは食べなかったですよ。それは何でかっていうとね。ひとつにはね、あの、鏡神社の祀ってる人(藤原広嗣)が必ずしもチマキを好まなかったっていう話が、ひょっとしたらあるのかと思うのと(注4)。もうひとつ、わたしの祖父の楢清いうのがねえ、笹の切り口でね、目をつぶしたんです。だからチマキを食べなかった。片っぽね。ええ。」(博一さん)

... 戦争
 清一さんは戦争に行った。彦根高商を出て勤めていたが、最初は中支那、その後フィリピンに連れていかれた。ルソンかレイテ島だったが、着いても戦争どころではなく、飢えとの戦いだった。3000人の部隊のほとんどが餓死し、残ったのは80人である。清一さん自身も餓死寸前だったが、終戦でアメリカに降伏して救われた。1年間捕虜になったが、体を養うためにはかえって良かったという。出征したときは20貫(75㎏)だったが、復員したときは10貫だった。それも回復してからのことで、それまではほとんど骨と皮だった。
 日本に帰ってきてからは少しずつ畑仕事をしていた。清一さんは無事だったが、帰ってきて食べ過ぎで亡くなった人が何人もいたらしい。家族の者も良かろうと思ってたくさん食べさせたのだが、急に食べて「胃破裂」を起こしてしまったのだという。

.注
1 主屋については、調査により江戸時代中期、17世紀と18世紀境ごろの建築と推定されている。しかし、ハナレ2棟については不明で、いつ建てたという伝承も残されていない。
2 「このヨノミの木は、大和地方では神木とされ、野神をまつる木とする所が多いようです。(中略)また、村の境や家の北西の角(これを角榎と呼んでいる)にも植えられていて、悪霊の進入を防ぐ神のやどる木とされて、伐ったり枝を折るとタタリがあるといい、繁るにまかせた大木を今も見ることがあります。」
(田原本町HP http://www.town.tawaramoto.nara.jp/03_sightseeing/story/legend_17.html)
3 「灯火は消え屋根瓦はとび家屋の倒壊はひどく、奈良町中で六〇〜七〇人の死者が出たうえ、傷ついた人は数知れずという惨状で、一七〇人ほどの死者が出たとうわさされた。」(『奈良市史 通史三』463頁)
4 「福井町にある鏡神社は藤原広嗣をまつっている。広嗣が九州で戦ったとき、馬から落ち笹の葉で眼をついて片目となったので、祭神も片目であるといい、現在この神社の氏子である高畑町では、チマキに笹の葉は使わないという。」(『奈良市史 民俗編』450頁)
5 「下高畑町の中ほどの藪の中にある。奈良時代吉備大臣が人麿という人に会うために、ここを通り、そのたびごとにこの石に腰を掛けて休まれたといい、そこに家をたてると町内に火事が起るという。一説には、藤原氏と吉備氏との領地の境界石ともいわれており、この石に触れると病気になるという。」(『奈良市史 民俗編』436頁)

.参考文献
 川崎市       『旧井岡家住宅移築修理工事報告書』川崎市 1986年
 奈良市史編集審議会 『奈良市史 建築編』奈良市 1971年
 奈良市史編集審議会 『奈良市史 民俗編』奈良市 1971年
 奈良市史編集審議会 『奈良市史 通史三』奈良市 1988年

.調査報告図版キャプション
1 井岡家所在地
2 現当主夫妻・博一さんと洋子さん
3 都起子さん
4 井岡家家紋
5 移築前の井岡家  折りたたみ式のエンダイが見える 右はオジゾウサン
6 現在の井岡家
7 敷地図
8 移築前の間取り  民家園に移築されたのは南側主屋のみ
9 入口のガラス戸
10 オオドとミセノマ(西側)入口  中央上にオオドを掛ける紐が見える
11 クグリド
12 ミセノマ(東側)と物置  物置き場と格子戸が見える
13 裏口の傘置き場
14 クド周辺  右端にオクドサンの笹、左に裏口と物置の扉が見える
15 アガリエンと踏み台
16 アガリエンと格子戸  右端はミズヤ
17 ナガシとミズヤ  ミズヤの下に棚が見える
18 ダイドコロ  左にミセノマとの境の障子が見える
19 二重の戸  襖を開けるとこの戸が現れる
20 床の間と押入れ
21 ザシキの額
22 ツシの上がり口
23 小屋裏  右下にハシゴが見える
24 ツシ  左は土をのせたザシキの天井裏、右は荷上げ用の滑車
25 現在の中庭  中央に灯籠と松が見える 左は建て替えたサンジョウノマ
26 ロウカ
27 ロウカの角
28 吊灯籠
29 ロウカ  左にフロの入口、松の陰にベンジョの入口が見える
30 手水鉢
31 井戸  左下に流し、右にハナレの上がり口が見える
32 現在の井戸1  床下に井戸が残る
33 現在の井戸2  覆いの下にはポンプがある
34 カンソウジョ
35 現在の裏庭
36 アガリエン  下にマキが積んである
37 線香の製造用具1
38 線香の製造用具2
39 線香の製造用具3
40 現在の柳生街道
41 床の間の供えもの  中央は串に挿した干し柿
42 オイナリサンの供えもの
43 その他の供えもの  折敷にのせて雑煮の具が供えてある
44 井岡家のひな人形
45 チョウチン
46 閼伽井庵
47 御詠歌用の鉦と木魚
48 移築前の仏壇
49 神棚
50 ゴマイザサ
51 オイナリサン  御神酒口を挿した徳利が見える
52 オジゾウサン
53 鏡神社


(『日本民家園収蔵品目録16 旧井岡家住宅』2012 所収)