富山県南砺市桂 山田家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が富山県南砺市桂の山田家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成26(2014)年7月14日と8月20日に行った。聞き取りに当たったのは渋谷卓男である。まず7月14日には、富山県砺波市において次の方にお話をうかがった。
  山田昭治(しょうじ)さん 昭和18(1943)年生まれ
昭治さんは山田家現当主で、移築時の当主善治(ぜんじ)さん(明治33年〜昭和45年)のご子息である。次に8月20日には、大阪府大阪市此花区において次の方にお話をうかがった。
  山田栄一さん 昭和6(1931)年生まれ
栄一さんの家は昭治さんの家の分家に当たり、住宅は2軒隣にあった。この他、昭和43(1968)年10月にも資料収集に合わせて現地で調査を行っている。このとき聞き取りに当たったのは小坂広志(当時当園学芸員)、お話を聞かせていただいた方は山本久一さんである。久一さんは通りを隔て、山田家の斜向かいにあった家のご当主である。以上の聞き取りの他、4に出所を示した移築前の記録写真も補助資料として活用した。
3 現地の言葉・言い回しについては、片仮名表記またはかっこ書きにするなど、できる限り記録することに努めた。片仮名表記としたのは、次のうち聞き取り調査で聞くことのできた語句である。
  建築に関する用語(部屋・付属屋・工法・部材・材料等の名称)
  民俗に関する用語(民具・行事習慣・屋号等の名称)
4 図版の出所等は次の通りである。
  1            濱津作成。
  2            平成24(2012)年7月16日、畑山撮影。
  3            平成26(2014)年7月14日、渋谷撮影。
  4、11、12、18、37   昭和40(1965)年10月13日、古江亮仁撮影。
  5、7、9、13、14、19、22、23、24、25、26、27、29、30、31、40
              昭和43(1968)年10月頃、移築工事に伴い当園撮影。
  6、32、33、34、35、36、38、41 昭和43(1968)年頃、小坂撮影。
  8、17、20、21、28   昭和40(1965)年10月13日、大岡實氏撮影。
              現在、当園の大岡實博士文庫に収蔵。
 10            『旧山田家住宅移築修理工事報告書』の図を元に濱津作成。
 15            『旧山田家住宅移築修理工事報告書』より転載。
 16            豊田・濱津作成。
 39            小坂の図を元に渋谷作成。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれていることがある。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 山田家のあった桂集落は庄川の支流境川上流にあり、秘境として知られる五箇山の中でも最奥部に位置していた(図版1)。標高530m、戸数6戸。川は県境となっており対岸は岐阜県である。豪雪のため冬は交通が途絶し、外部の者はもちろん、集落の者が出入りするのも難しかった。桂では長い間日本の敗戦を知らなかったという話が残っている(注1)。真偽のほどは不明だが、この話は桂がどのような土地であったかをよく示しているだろう。昭和42(1967)年には、力を合わせて暮らしてきた対岸の加須良(かずら)集落が集団で離村した。高齢化が進んだ桂集落だけで越冬するのは難しく、冬場だけ緊急避難するという対応も取られたが、昭和45(1970)年には桂も解村に至った。その後、平成5(1993)年に境川ダムが完成し、集落は現在、桂湖と名付けられた湖の底に沈んでいる(図版2)。
 山田昭治さんは移築時の当主善治さんの次男である(図版3)。兄がいたが中学の寄宿舎から峠を越えて帰省する折に雪で遭難し、亡くなられた。桂には中学がなかったため、小学校を終えると皆、西赤尾(現南砺市西赤尾町)の寄宿舎に入ったのである。昭治さんご自身も中学から家を離れ、卒業後は金沢に出て桂に帰るのは農繁期だけだったという。
 この稿では昭治さんのお話を中心に、他の方々のお話も参考にしながら、山田家と桂の暮らしについて記述していくことにする。時代的には昭和10年代から30年代までの話が中心である。

.1 山田家
... 先祖
 桂には次のような話が伝わっていた。「言伝へではもと現在の部落より稍北寄りの地に千戸の家があつたのが、大きなホラが出て潰してしまつたといふ。ホラとは何かときくと大きなホラの貝の化物で、山に千年、川に千年、海に千年居り千年に一度それが出て行く時悪さしてゆくのだと真顔で答へる老人がゐた。この部落がホラに潰された時たゞ一軒残つた家が屋号シマといふ家で現在の所に移転したのだといふ。もと部落のあつたといふあたりは赤尾への路を川原に沿ふて少し許り行つた所で、山崩れの跡らしく、緩い傾斜面が広い原一帯をうづめる許りに押し出てゐる。」(「赤尾谷桂見聞(一)」12頁)。この話に見える「屋号シマといふ家」が山田家である。先祖についての伝承は特に残っていないが、この話が示す通り山田家が草分の1軒であったのは間違いない。桂の中では松島家とともに財産家と見なされていた。家紋は「ツタ」である。

... 家族
 昭治さんが幼いころ、家族は10人だった。父方の祖父、両親、そして兄弟が7人である。兄弟は5人の姉と弟で、元はこの他にもう1人兄がいたが昭治さんが生まれる前に亡くなった。どの家も大家族だったが、夏場は農作業の手伝いに帰ってくるので人数が多く、冬は少なかった。なお桂では、父親のことを「トト」、母親のことを「バァバァ」、男の子のことを「ヤロウ」、女の子のことを「ベエ」といった。
 山田家にはもう1人、五郎さんという岡山出身の人がいた。昭治さんがまだ小さく男手が少なかったため来てもらった人で、家族同様に暮らしていた。

.2 衣食住
..(1)住
... 敷地
 桂の集落は境川沿いのわずかな土地に広がっていた(図版4〜7)。通りに沿って南から井並家(屋号ロクベイ)、松島家(屋号オモテ)、山田家(屋号シマ)(図版8・9)、中谷家(屋号ナカネ)、山田家(屋号ナヤ、山田家分家)が並び、通りを挟んで山本家(屋号アラヤ)があった(図版10)。
 山田家があったのは集落のほぼ中央である。主屋の裏にはすぐ険しい山が迫っていた。

... 屋根
 桂には6軒、対岸の加須良には7軒の家があったが、いずれもいわゆる合掌造りである。葺き替えは今年はどの家というように交代で行い、実際の作業は総出で行った。葺き替えのような大きな作業の折は互いに助け合い、13軒が一緒に行った。こうしたときには「屋根葺きを何日にやるから頼みます」と事前に案内を出した。家の修理には西赤尾から大工を呼ぶことがあったが(注2)、葺き替えに当たっては職人を呼ぶことはなかった。
 作業を行うのは春、雪の消えた後である。片面ずつ葺き替える場合と、片面を短冊状に3つほどに区切り、今年はここ、来年はそこというように葺き替えていく場合があった。後者の場合には両面終えるのに6年くらいかかり、部分ごとに修理するため屋根にはところどころ段差ができた。いずれの場合も、一通り葺き替えると最低でも20年は持った。
 カヤには3種類あった。コガヤとオガヤ、それからヨシである。このうち屋根に使われたのは、棟も含めてコガヤ(カリヤス)のみである。他のカヤを混ぜて使うことはなかった。このことは富山県側の桂も、川を隔てた岐阜県側の加須良も同じである。
 それぞれの家では山の傾斜地でコガヤを育てていた。この場所を「カヤバ」という。共有地ではなく、個人の所有地である。葺き替えの作業は皆で行ったが、カヤを育て、貯めておくところまでは各家の仕事だった。
 刈り取りは毎年お盆明けから10月ごろまでに始める。これが一番大変な仕事だった。まず、刈り取ったコガヤをその場に積み、ある程度乾燥させる。次に、これを大きな束にして縛り、斜面から下に転がす。それから、転がり落ちた先の田んぼでこれを縛り直し、小分けにして積み上げ、さらに乾燥させる。こうしたものを何十と作り、積んだ状態で冬まで置いてまずカコイ(雪囲い)に使う。その後、カコイから取り外したカヤを「カヤニウ(カヤを円錐状にしたもの)」にして積み上げ、何年も貯めて屋根の葺き替えに使った。
 この他のカヤのうち、ヨシは使わなかったが、オガヤは炭俵を作るのに使った。「オガヤ」とはススキのことである。これで葺けばコガヤの3倍から5倍も長持ちしたが、この地域では屋根を葺くほどの量が手に入らなかった。
 カヤ以外の材料として必要なものは、縄とネソである。葺き替えに使用する縄は直径5cmほどある太いもので「ヌイナワ」という。冬場、これを手でない、葺き替えのためにたくさん貯めておいた。「ネソ」とは部材と部材の固定や棟の押さえに使用する木の枝である。使われたのは「ネソの木」と呼ばれる木で(注3)、山で刈って束にして運び、よく練ってから、すなわち手でぐるぐる回して柔らかくしてから使った。ネソは非常に丈夫で、縄の場合は傷んで駄目になったが、ネソなら何十年経っても大丈夫だった。そのため、部材と部材の固定には縄やひもを用いず、ほとんどの場合にネソを使った。また、棟の押さえにはネソと「ハネガリ(針金のこと)」を併用した。棟に直接当たる部分はネソで締め、このネソと笄棟とをつなぐ部分にハネガリを使うのである。これで棟のカヤを押さえ込めば風が吹いても飛ぶことはなかった。なお、どの家の屋根も棟の両端にはカヤ束がくくりつけてあった(注4)。
 作業に使う道具としては、「ノイボクチ」と呼ばれる先の尖った木の針や、カヤを突き上げてそろえる「ツキアゲ」(12頁参照)などがある。ノイボクチは縫い針のようなもので、屋根の外側から縄を刺し入れ、中の部材に掛けてまた外に出し、締め込んでいくのに使った。こうした道具は借りる場合もあったが、基本的には材料とともに全て葺き替えを行う家で用意した。
 葺き替えが終わると、次の葺き替えのためにまたコガヤを貯めていった。屋根が部分的に傷んだ場合には、コガヤを挿して修理することもあった。

... 雪対策
 冬の雪について昭治さんは言う。
「すうごい量やもんねえ。まあ、雪降ったら終わり。そこでまあ、もう終わり。病気になろうとなんなろうとも、医者もおらんし」。
 桂は豪雪地帯であり、一階部分が埋もれるくらい積もった。一晩で1尺(約30cm)から2尺ほども積もったという。冬の暮らしはほとんど家の中であり、どこにも出られなかった。冬場、桂を出るには山を越えなければならなかったが、よほどのことがない限りそんなことはしなかった。正月に帰省することも難しく、交通が途絶することも珍しくなかった。
 屋根の雪を「ヤネユキ」という。雪が降り続くときは、週に1、2回は雪下ろしをした。逆にあまり雪が降らなければ、1週間から10日ぐらい屋根に上がらないこともあった。
 雪下ろしをするときは入口の軒先からまっすぐ棟まで登っていった。屋根を葺くのと同じヌイナワが棟から下げてあり、これを使った。登るのは簡単で、慣れると別に怖いこともなかった。ただし、家によっては登れる人がいない場合があり、こうしたときは他の家の者が交代で上がり、雪を下ろした。
 桂では冬の間、家の周囲に一日中水を流していた。水が温かかったため、下に落とした雪は自然に消え、溜まらないようになっていた。雪を落とすだけでよかったので、この点は楽だった。
 雪囲いのことを「カコイ」という。基本的に全ての建物に行い、入口にも、主屋とヘンチャゴヤ(大便所)をつなぐ通路にも、クラやナヤなどの付属屋にもカコイをした。
 カコイに使うのは屋根と同じコガヤである。毎年秋に刈り取り、11月末か12月、雪の降る前に取り付け作業を行った。やるのはいつも非常に寒いころだった。
 作業としては、まず家の周囲に枠組みを取り付け、ここにカヤ束をくくり付けていく。このとき基本的には穂先を上にするが、窓のところだけは下にする。明かりを取るために、根元を上にして窓の下でそろえていくのである。窓の上には取り付けないので、この場所からは光が入った。カヤ束をくくり付けたあと、最後に竹ざおを横2段に取り付け、外側からカヤ束を押さえる。雪囲いをすると家の中は暗くなったが、暖かさは全然違ったという。
 春になり、雪が降らなくなるとカコイを外した。外したカヤはカヤニウにして積み上げ、屋根の葺き替えのために貯めておいた。積み上げる前にわざわざ乾燥させなくても、水は吸っていないので腐ることはなかった。なお、カコイにはその年に刈ったカヤだけを使い、こうして保管しておいたカヤを使うことはなかった。

... 水利
 山田家には次のような言伝えがある。「桂には蓮如上人の伝説が多く、シマ家の裏手に今も滾々と湧出てゐる清冽な清水は、上人がこの家に泊つて出立の折境川が氾濫して渡れなかつたのを、この家の力人二人で大戸をはづしその上に乗せて渡し参らせた際の賜物だといふ。」(「赤尾谷桂見聞(三)」27頁)。「シマ家」というのが山田家のことである。この話には異なる型もあるが、山田家裏手の小高いところには「蓮如上人御霊水」と書かれた石碑が建っており、この足元から清水が湧いていた。冬温かく、夏は冷たい水で枯れることがなく、どんなに雨が降っても濁ることもなかった。霊験あらたかな水ということで、訪ねてきて飲んでいく人もあったという。山田家ではこの清水を主屋に引き、一年中流しっ放しにしていた。記録写真を見ると2本の管が差し込んであり、1本は主屋のナガシバに続き、もう1本は石垣の縁に掛けてある(図版11)。この下にはスノコと洗面器も置いてある。桂6軒のうち中谷家と山田栄蔵家もこの蓮如上人の水を使っていた。水の豊富な土地で井戸はなく、他の家も別の谷から水を引いていた。
 蓮如上人の碑と主屋の間には周囲を石積みにした池があり、いろいろな魚もいた。池は堰で2つに分かれ、上の池から溢れた水が下の池に流れ落ちるようになっていた。この下の池に、フロの排水用の管が引いてあった。

... 入口
 山田家は平入で、入口の前に庇が張り出していた(図版12)。「ナミトタン(波板のこと)」葺きのこの庇は4本の柱で支えられ、両脇には板壁が設けられていた。
 この庇の下には入口が3つ並んでいた。中央と右には引き違いの障子戸が入っており、このうち右が通常家族が出入りするところだった。一方、左はマヤの入口で、建具は入っていなかった。冬はふさいだが、夏は開けっ放しだった。
 なお桂では、主屋の入口を「ヤンセェ」といった。神主やボンサンはここからは入らず、オクのエンガワから上がったという。

... ゲンカン
 入口を入ると木製の上がり段があり、右手の板壁に下駄箱のような3段の棚が取り付けてあった(図版13)。上がり段を上がると、引き違いの障子戸があり、開けると板敷きの部屋になっていた。この部屋を「ゲンカン」といった(図版14)。
 間仕切りは、オエ境は障子、マヤ境は板壁で、隙間を紙で塞いであった。この壁の中央には片開きの板戸があった。
 この部屋には中二階へ上がる梯子段があった。

... デイ
 表側中央、ゲンカンに続く部屋を「デイ」といった(解体時の調査では「ヒロマ」)。北側はオク、西側はオエと接していた。
 間仕切りはゲンカン境が障子、オク境は現在民家園で見ることのできる漆塗りの板戸、正面側はガラスの入った障子である。天井は張っておらず、中央に裸電球が下がっていた。床は板敷きで、元はこの部屋にも囲炉裏が設けられていた。
 この部屋の記録写真にはカマスやムシロ、一斗枡などが写っており、刈り入れ後の作業などにも使われたようである。

... オク
 表側、デイに続く部屋を「オク」といった(図版17)。北側は仏壇のあるブツマ、西側はマガリザシキ・チョンダと接していた。
 マガリザシキとの境は裾模様のある襖で、襖の上には猫と牡丹を彫り込んだ欄間があった。欄間の手前には遺影が掛けられ、その左手、ちょうど部屋の中央に神棚が祭られていた(64頁参照)。チョンダとの境は板壁で、カレンダーなどが貼ってあった。東側の間仕切りはガラスの入った障子で、開けるとエンガワになっていた。なお、障子は他の部屋も含め、毎年5月、祭りの前に必ず貼り替えた。祭りには大勢の客が来るからである。
 天井は北寄り半分が棹縁天井になっており、裸電球が下がっていた。床は畳敷きだった。ただし、敷いたのは祝い事があるときだけで、行事が終わると部屋の中に積んでおいた。
 この部屋は普段、仏壇にお参りする以外ほとんど使わなかった。

... ブツマ
 オクの奥、仏壇の収められている場所を「ブツマ」と呼んだ(図版17)。この仏壇は現在、民家園に移されている(14頁参照)。
 このブツマ部分は下屋として北側に張り出し、屋根はトタン葺きだった(図版18)。

... オテラノマ
 ブツマ脇の狭い場所を「オテラノマ」といった(図版17)。
 ボンサンがまわってくると、この場所で着替えたり泊まったりした。昭治さんは大きくなってからはこの部屋で一人で寝起きしていた。
 この部屋の入口には襖などの建具は入っていなかった。記録写真には書画を貼り混ぜた二曲一隻の大きな屏風が写っており、これで部屋を仕切っていたようである。

... マガリザシキ
 オクの西側にもう一つ座敷があり、ここを「マガリザシキ」と呼んだ(図版19)(注5)。
 南側チョンダ境は板壁、西側ヘヤ境は床の間、北側は障子だったが普段は雨戸を閉めたままにしていた。雨戸は上部に明かり取りのあるもので、一番西寄りに戸袋があった。天井は竿縁天井、明かりの裸電球には長いコードを取り付け、下げる場所を変えられるようなっていた。
 床の間は幅が半間、その左に1間の床脇が並び、床の間の内部には白い壁紙が、床脇にも色は不明だが壁紙が貼ってあった。床の間には普段から掛軸が掛けてあった。掛軸は何本かあり、天皇の真影などもあった。床脇の小壁には、板に直接横書きの書が貼ってあった。
 この部屋には普段から畳が敷いてあり、善治さんは後年ここで寝起きした。なお昭治さんによれば、この座敷に金屏風があったという。

... オエ
 裏側中央の部屋を「オエ」といった(図版20)。西側には窓が3つ並び、チョンダ寄りは障子、中央とニワ寄りはガラス窓だった。
 チョンダ寄りの窓の手前には笠のあるランプが2つ下がっていた。下には引き出しのある座り机が置いてあり、机の前にはカレンダーが貼ってあった。中央の窓の下にはちゃぶ台が置いてあり、その手前に座布団が置いてあった。上には蠅取り紙が下がっていた。ニワ寄りの窓の上には棚が吊ってあり、荷物が置いてあった。
 この部屋の南西角には、窓の手前に一間幅の大きな戸棚が取り付けてあった。上下に曇りガラスの戸が入り、中央には引き出しが3つ並んでいた。戸棚の右脇には棚が取り付けてあった他、カレンダーと「火の用心」の紙が貼ってあった。その足元にはプロパンガスのボンベが置いてあった。
 北側チョンダ境は、右手はガラスの入った板戸、中央は引き手の付いた漆塗りの板戸、左手は半間の開き戸だが手前にカーテンが吊ってあった。カーテンの左の柱には状差しが2つ掛けてあり、手紙などが入れてあった。柱の左隣は、上は棚になっており、その下に黒板が掛けてあった。中央の板戸の前にはカレンダーがいくつも掛けてあった他、手前にはテレビやラジオ、保温ジャーなどが置いてあった。右手の柱には六角時計が取り付けてあり、その下に御札や「火の用心」の紙が貼ってあった。
 南側、ニワ境には引き違いの障子戸が入っていた(図版21)。通常出入りに使用していたのは一番西寄りで、ここにはカーテンも掛かっていた。このカーテンの右手には半間の物入れがあった。この物入れは上下二段に分かれ、それぞれに開き戸が付いていた。
 この部屋の床は板敷きで、ござが敷いてあった。囲炉裏は2カ所あり、冬は両方焚いていたが、夏、使わないときはふたをしていた。席は、奥の囲炉裏のチョンダを背にした位置だけは当主の場所と決まっていたが、あとは誰がどこに座ってもよかった(注6)。囲炉裏の上には棚が吊ってあった。これを「ヒアマ」といい、自在鉤を吊るため中央に付いている木製の鉤を「カンコ」といった。高さは170cm以上で、縄ではなく針金で吊っていた。
 なお記録写真を見ると、チョンダ寄りの囲炉裏にはやぐらこたつ、ニワ寄りの囲炉裏には薪ストーブが置かれ、煙突はそのまま二階のすのこ床に伸びている。囲炉裏中心の暮らしから、ある時期にこたつとストーブの暮らしに移行したようである。
 この部屋には天井は張っていなかった。照明としては笠付の電灯が3カ所、こたつの近くとストーブの近く、それから窓の近くに下げてあった。いずれも長いコードが付いており、位置を調整できるようになっていた。
 なお、同じ桂の山本久一氏宅では、オエ中央の柱のうち入口に近い方を「シモ大黒」、奥を「カミ大黒」といった。いわゆる大黒柱である。山田家にも大黒柱はあったが、昭治さんはどれがその柱かわからないという。

... チョンダ
 裏側、オエに続く部屋を「チョンダ」といった(解体時の調査では「ヘヤ」)(図版22)(注7)。この部屋の西寄り部分は下屋になって張り出しており、上部に傾斜があった。屋根はトタン葺きである。
 オエから入ると左手には格子の入った明かり取りが2つあり、内側から障子紙が貼ってあった。この手前には棚が設けてあり、鏡などが置いてあった。入って正面、北側は板壁でヘヤへ続く引き戸があった。右手、東側は板壁で棚が吊ってあり、その下にカレンダーが貼ってあった。
 この部屋は寝部屋で、兄弟や親戚などが泊まりに来たときに使っていた。畳はなく、わらを敷きこんでその上にむしろを敷いていた。明かりとして裸電球が下がっており、長いコードを取り付けて位置を変えられるようになっていた。

... ヘヤ
 主屋の北西角に三畳の小部屋があり「ヘヤ」と呼んでいた(図版23)。この部屋は下屋として西側に張り出しており、上部には傾斜があった。入口はチョンダ側のみで片開きの板戸、床は畳敷きである。
 北側の壁には棚が2つ吊ってあった他、ポスターやカレンダーなどが一面に貼ってあった。西側や南側の壁にもさまざまなカレンダーやポスターなどが貼ってあった。また、板の継ぎ目は紙を貼ってふさいであった。
 この部屋には善治さん夫妻が寝起きしていた他、小さいころは子供が一緒に寝ていたこともあった。子供たちはどこの部屋で寝るかあまり決まっていなかったという。

... マヤ
 入口を入ってすぐの場所に「マヤ」があった(図版24)(57頁参照)。飼っていたのは牛で、家によっては「ウシマヤ」ともいった。
 この小屋には正面に重い戸があったが、あまり閉めることはなかった。入口の前は通り土間になっており、上に裸電球が下がっていた。内部は板壁で、ゲンカン境に片開きの板戸、ニワ境に開き戸があった。

... ニワ
 裏側、南西角に広い土間があり「ニワ」といった。西側の窓寄りには右に「フロバ」(49頁参照)、左に「ナガシバ」が設けられていた(図版25)。
 ナガシバには水舟があった。浴槽の土台や洗い場と一体で作られたコンクリート製のもので、壁に突き通した金属管から水を引き、使った水は左手に落ちて壁の下から主屋の外へ流れ出すようになっていた。水舟の手前にはスノコが置いてあり、上にすり鉢や鍋などが置いてあった。正面には障子紙を貼った格子窓があり、手前に棚が2段設けてあった。
 この部屋の南側には障子戸が入っていた。その手前には机が置いてあり、瓶などが置いてあった他、周辺にはふた付きの甕や鍋などが置いてあった。北側、オエ境の間仕切りは障子で、一番左手にコンクリート製の踏み段が設けてあった。
 ニワには天井は張っておらず、屋根の内側にネソが見えていた。

... 物置
 主屋南東の角、マヤの脇に鉤の手に折れた通り土間があった。物置のようになっており、マキなどが置いてあった。

... エンガワ
 正面に縁側があり、「エンガワ」といった。
 エンガワには一番南寄りに戸袋があり、上部に明かり取りのある雨戸が入っていた。しかし、雪のある冬は閉めていたが、夏はほとんど閉めず、開けっ放しのことが多かった。

... エンノシタ
 床下のことを「エンノシタ」といった。中は丈が高く、柱の土台となっている大きな石がたくさん並んでいた。エンノシタの周囲は板で塞いであった。

... 中二階
 ゲンカンから梯子段を上ると、マヤの上に当たる場所に中二階があった。
 中二階は物置であり、わらがたくさん積んであった他、いろいろなものが置いてあった。東側には格子のある空気抜きが設けてあった。

... アマ(二階)
 二階のことを「アマ」といった(図版26)。ゲンカンから中二階に上ると、90度北へ折れる形でもう一つ梯子段があり、それを上るとアマだった。床は板敷で、オエとデイの上に当たる部分だけは木製のすのこになっていた。南北に設けられた窓は障子窓で、板庇が設けられていた。
 アマは養蚕に使われた他、隅の方を区切って部屋を作り、寝起きする場所としても使っていた。

... サンガイ
 三階は「サンガイ」といって、特別な呼び方はなかった(図版27)。二階までは上り下りしたが、三階に上ることはほとんどなかった。南北の窓は板庇の付いた障子窓だったが、破れたままになっていた。

... フロ
 ニワの一角、ナガシバの隣に「フロ」があった(図版28)。ニワ側には目隠しが設けられ、西側には格子の入った障子窓があった。
 フロの入口には衣桁が置いてあった。入るとまず板敷の脱衣場、続いて一段高くなった洗い場があった。周囲に縁を設けたこの洗い場と、奥にある浴槽の土台、それに続くナガシバの水舟はいずれもコンクリート製で、1列につながっていた。
 フロは五右衛門風呂だった。ナガシバから水を汲み入れ、マキで沸かした。炭は高価なので使わなかった。焚口があったのはニワ側で、土間の一角を四角く掘り下げ、周囲を固めてあった。焚口の上には波板が庇のように取り付けてあったが、周囲は煤で真っ黒になっていた。煙突は上に伸びたあと東側に折れ、そのままニワの中に煙を吐き出すようになっていた。この吐出口の上にも波板の庇が取り付けてあった。
 フロに入る順番は、当主が最初で女性は一番後だった。桂では風呂を沸かすと、「わかしたからおいでよ」と声を掛け合った。そうすると呼ばれに行くこともあった。

... ショウベンジャ(小)
 マヤの入口に小便所があり「ショウベンジャ」といった(図版29)。男性用で便壺の上に板を渡し、四角い穴を開けて朝顔形の陶製便器を取り付けていた。右脇、ゲンカンの入口との境には腰高の目隠しが設けられていた。上には裸電球を吊り下げ、紐でスイッチを入れるようになっていた。

... ヘンチャゴヤ(大)
 主屋の南側に大便所があり「ヘンチャゴヤ」といった(図版30)。板壁で屋根は茅葺きである。小屋の軒は主屋の庇と接しており、雨や雪でも濡れずに行けるよう、間に屋根が掛けてあった。この屋根はトタン葺きで上に石が載せてあった。屋根の下には大きな板が橋のように渡してあった。これは冬、主屋周囲に融雪用の水を流すため
設けられていたものである。冬はヘンチャゴヤだけでなく、この橋の両側にも雪囲いのカヤを取り付けた(40頁参照)。
 便壺は小屋全体と同じくらい面積のある大きなもので、周囲は石積みで、隙間をコンクリートのようなもので埋めていた。開き戸を開けると、便壺の上に板が3枚、入口と直角方向に渡してあり、板の前後に尻拭き用のものを入れる四角い木箱が置いてあった。尻拭きに使っていたのは、フキやヨモギなどの葉やわらをすぐったものである。使ったものがそのまま肥やしになるため都合が良かったという。草は手の空いたときに刈っていた。
 この小屋は大便所だが、女性は大小ともここを使った。電気はなかったので、夜行くときはガス灯(カーバイトランプ)を持っていった。
 記録写真を見ると、ヘンチャゴヤ内部は3室に分かれ、西側に設けられた2つの小部屋は物置と汲取口を兼ねていたようである。物置には桶などが置かれていた。汲み出すのは畑で使うときだけだった。

... クラ
 通りを隔てた向かいに倉があり、「クラ」といった(図版31)。建築年代は不明だが、白壁造りの二階建てである。二階には格子の入った小さな窓があり、一階部分には周囲に波板を取り付けていた。屋根は本体との間に隙間を設けた置き屋根で、古くは石置きの板葺き、その後桟瓦葺きとした。南側と東側には瓦葺きで周囲を波板で囲った下屋が張り出し、南側の下屋にはさらに波板葺きの庇が差し掛けてあった。
 このクラには家具類や布団などが保管されていた。タンスや長持など良い家具は皆ここに置いてあり、二十人前そろった輪島塗の膳椀や、大盃などもあった(8頁参照)。この他、漬物なども大きな桶で保存していた。周りには刈り取った稲なども干していた。
 なお、移築のため主屋を解体したとき、山田家のご家族は一時このクラに住んでいた。

... ナヤ
 集落の裏手に山田家のナヤがあった(図版32)。規模は小さかったが茅葺きの合掌造りである。壁は一部茅壁で、材料には屋根と同じコガヤが使われていた。
 このナヤは物置だったが、昭和8(1933)年ごろ、分家した山田栄蔵さん一家が3年ほど住んでいた。その後はまた物置として使われていた他、秋には稲を干す場所として周囲に稲束を掛けていた。

..(2)食
... 炊事
 山田家では、野菜を洗ったり切ったりする下ごしらえはナガシバで、その後の調理はオエで行った。
 オエには囲炉裏が2つ切ってあったが、調理に使われたのはニワ寄りの囲炉裏である。ヒアマ(火棚)に鉤を吊り、ここに鍋を掛けて煮炊きした。その後、この囲炉裏にカマドを設け、ここで調理するようになった。

... 食事
 夕食は一緒に食べることもあったが、朝昼は仕事があるため、手の空いた者からばらばらに食べていた。
 食事に使われたのはオエである。片隅に一人用のオゼンを出し、食べたあとは洗わずに、食器をそのままオゼンに入れてふたをしておいた。

... 主食
 昭和20年代ごろの主食は「サツマイモばかりのところにご飯がちょこちょこついたもの」だった。
 ソバは粉にして団子を作り、焼いて食べた。

... 副食
 普段はおかずらしいおかずはなく、漬物ぐらいだった。昭和20年代前半ごろは卵もあまりなく、子供たちは栄養失調気味だった。それでも別に腹が減ったとも思わなかったという。
 豆腐は道具があったので、臼で豆を挽いて作っていた。
 魚は川でイワナやヤマメを捕って食べた。今は少なくなったが、昔は手足に寄ってきた虫を餌にすれば釣れるほどたくさんいた。
 肉は買うものではなく狩るものだった。ウサギは皮を剥げばきれいに食べられて、捨てるところが一つもなかった。串に刺して焼いたりしたが、とてもおいしかったという。熊が捕れると分けあって食べた。焼き肉にしたり、すき焼きにしたり、捕ってきてすぐは刺身でも食べた。桂ではよく食べたが、とてもおいしいものだったという。
 善治さんはよく山菜やキノコを採ってきた。季節は春から夏にかけて、それから秋である。春はゼンマイ・ウド・アザミなど、秋はシメジやナメコなど。アザミの葉はおつゆにするとおいしかったという。なお、シイタケは栽培もしており、主屋の裏、蓮如上人の碑の近くの木に原木を立て掛けていた。

... 保存食
 焼畑で作っていた赤カブはほとんど漬物にした。直径1mくらいの大きな桶に入れ、上には石を何十とのせた。雪が降るとどこにも出られないので、これが冬の保存食になった。この他、ハクサイはなかったがダイコンも漬けた。
 ホッケなどの魚もニワに置いていた樽で漬けた。魚は集落の外の店に注文した。
 冬、野菜類は外に置き、わらを載せて土をかぶせておけば保存できた。床下などに貯蔵用のムロはなかった。

... 調味料
 みそやしょうゆは自家製だったが、塩や酢はまとめて買っていた。

... 嗜好品
 お茶は大きな鉄瓶で沸かして飲んだ。桂に茶の木はなかったので、お茶は買っていた。
 お酒といえばドブロクであり、清酒はなかった。ドブロクは全て自家製で、どの家も昔は作っていた。仕込むのは1月、1年間飲めるくらい大量に作り、クラや主屋に保管した。税務署が査察に来るといううわさが立って恐れられたが、実際に来たことは一度もなかった。

..(3)衣
... 衣類
 昭和20年代、子供たちは学校に行くときは学生服だったが、家では洋服も着物も着ていた。ただし、着物といっても「ゴツくて汚い」ものだった。
 下着は、昭治さんたち子供はパンツだったが、父親の善治さんはフンドシをしていた。
 寝るときは、善治さんは寝間着に着替えていたが、子供たちは昼間の服のまま寝ていた。
 かつて機織りは冬の間の仕事だったが、昭和20年代には山田家ではもう機織りはしていなかった。

... 洗濯
 洗濯は大きな丸いタライを使って裏の水場でやっていた。
 洗濯物はエンガワの前や二階の軒下の他、正面の電柱のところで干した。電柱には低いところにさおが掛けてあり、物干し場のようになっていた。

... 履物
 冬でも家の中では皆裸足だった。その時分は寒いと思わなかったという。

... 寝具
 布団は木綿の綿布団だった。

..(4)暮らし
... 暖房
 主な暖房は囲炉裏だった。囲炉裏の火は夜寝るとき灰をかけておき、翌朝種火を掘り出してまた燃やした。こうしておけば火種が切れることはほとんどなかった。灰をかぶせれば済むので、水をかけて消したりすることはなかった。
 オエには囲炉裏が2カ所あったが、ニワ寄りの囲炉裏には後に薪ストーブを入れた(図版21)。電気などを使うよりマキが一番暖かかった。
 記録写真にはチョンダ寄りの囲炉裏の位置にコタツが写っているが(図版20・21)、昭治さんが育ったころはなかった。
 この他、寝るときは足が冷たいので布団にアンカを入れた。豆炭を入れて使うものだった。

... 燃料
 マキは冬の間に雪の上を滑らせて山から運び、春になったら積んでいった。
 この他、川から流れてくる流木もマキにした。良い木がけっこう流れてきたので、よく集めに行ったという。河原に行ってこれはという木があると印をつけた。山田家の印は「四」である。なぜ「四」か昭治さんもわからないとのことだが、石を4つ置けばそれが山田家の印になった。こうしておけば他の家が持って行くことはなかった。
 運び下ろしたマキは道のそばなどに積み上げ、一番上にカヤを置いて屋根とした。こうしたものをいくつも作って1年分のマキを蓄え、冬になる前にこれを家の中に運び込んだ。
 マキは炭を焼くときは割ったものを使ったが、囲炉裏やフロには太いものを丸太のまま使った。囲炉裏に使っていたのは1mほどの長いもので、そのまま差し込んで燃やした。

... 照明
 昭和30年代前半までは電気がなく、石油ランプだった。
 桂に電灯がともったのは昭和36(1961)年のことである。畑を田に改良するためダムを作って水路を引いたのがきっかけで、この水を有効活用して発電に使うことになった。基地を設け、発電機を取り付け、電柱を立てて各家に電気を引いた。家の中だけでなく、道沿いに立つ電柱にも笠の付いた電灯を取り付けた。

... ラジオ・テレビ
 携帯ラジオが入ったのは昭和30(1955)年ごろである。オエのチョンダ境の板戸の前に飾り棚のように木箱を取り付け、その中に置いていた。
 テレビが入ったのは発電機を設けた昭和36(1961)年以降のことである。テレビもラジオと同じく、チョンダ境の板戸の前に置いてあった。脚付のテレビには布のカバーをかぶせ、上には花を活けた花瓶や小物などが飾ってあった。(図版20)

... 動物
 山田家では農耕用の牛の他、犬と猫を飼っていた。鳥小屋を作ってニワトリも飼うようになると、卵には不自由しなくなった。
 近くで土木工事が行われたとき、作業員たちが桂に住み込みで働いた。小屋を作って自炊していた他、山田家にもしばらく泊まっていた。犬はこのとき食べられてしまった。

... 災害
 台風はときどき来た。集落で家が倒壊したことはないが、屋根がめくれたり、カヤが外れたりすることはあった。
 集落前を流れる境川はアバレガワで、雨が降ったらひどかった。1mくらいの大きな石が音を立てて転がってきて、橋はすぐに流された。川が増水するときは早く、一度増水すると何日も渡れなくなったりした。
 地震はなかった。昭治さんは1回も記憶にないという。

... 病気
 病院がなかったので、腹が痛いときは熊の胆を飲んで治した。
 診療所は赤尾にあった。あまり病気はしなかったが、冬に病人が出ると、皆で運んで山を越えた。

... 子供の暮らし
 家にいると「勉強より仕事せぇ」と言われ、子供も小学生のころから家の手伝いをした。刈った稲をハサに掛けて干す作業などは夜遅くまでやっていた。
 子供のころ、昭治さんにとって一番の楽しみは、冬にスキーをすることだった。木を削った手作り品で、縄で足に付けるだけのものだったが、けっこう滑れたという。夏は魚を釣りに行ったりもした。

.3 生業
..(1)概況
 桂6軒はほとんど養蚕と炭焼きで生活していた。朝は早く、大人たちは暗いうちから起き出し、暗くなるまで働いた。
 昭治さんは中学校を卒業したあと、石川県金沢市に出ていろいろな仕事をした。その後富山県に戻り、砺波市で20年ほど銭湯を経営していた。

..(2)稲作畑作
... 稲作
 桂では田んぼが少なく、米があまり採れない時代が長かった。栽培していたのは「アカゴメ(赤米)」「銀坊主」などである。陸稲も昭和10(1935)年ごろまで作っていた。その後は全て水稲になったが、田をたくさん持っていた山田家や松島家でも基本的には自家用で、出荷する
ことはなかった。ようやく自給自足できるようになったのは、化学肥料が出てきてからである。それまでは牛が踏んだ肥やしを田んぼに入れて栽培していたが、化学肥料を使うようになり、たとえばそれまで1斗しか採れなかった田んぼから1俵採れるようになったという。
 田んぼの周囲は石垣だった(図版33)。耕すと出てくる石や河原の石を使い、田んぼの周りや田と田の間に全て自分たちの手で積んでいった。雪解け水が入るため水温は低かったが、田に入れる前に温めるようなことはしなかった。
 刈り取った稲はハサに掛けて干し(図版34)、その後5、6人で助け合いながら脱穀や籾摺りをした。籾摺りに使用したのは「カッチャ」と呼ばれる唐臼である。片方に杵、片方に水を溜める槽を設けたシーソー状の道具で、水の力で上下させるものである。飲料水を取っていた谷に各家ごとに小屋を設け、それぞれの家で日を決めて皆で集まって作業を行った。カッチャを使うようになるまでは、「ドロウス(土磨臼)」を人力で回してモミガラを外した。精白にはその後、ヤンマーディーゼルの精米機を使うようになった。精白した米は家の中に置いた。
 脱穀したあとのわらはアマ(二階)に積み上げておいた。短く刻んで牛の餌にしたり、ワラジなどを作ったりした。稲は「ホカス(捨てる)」ところがなかった。

... 畑作
 畑ではジャガイモ・サツマイモ・ダイコン・ニンジン・ネギなどいろいろなものを作っていた。麦はやっていなかったが、ソバ・アワ・小豆など穀類も作っていた。ただし、基本的に自家用で出荷することはなかった。小豆や大豆などは庭先に広げ(図版35)、棒で叩いて脱穀した(図版36)。
 この他「ヤキハタ(焼畑)」もやっていた。火をつける場所は特に事前に相談することもなく、各家で好きなところを選んだ。選ぶのは降り積もった落葉が腐葉土に変わっているような栄養分の高い場所である。季節は夏、まず下草を刈り、4、5日乾燥させて火をつける。いきなり火をつけてもつくものではなかった。火が消えたら翌日、その上に直接種をまいていく。火が消えたあと土を耕すことはなかった。ヤキハタで育てたのは赤カブである。家によってはソバ・アワ・小豆なども植えたが、山田家では他の作物はやらなかった。種をまいたあとは放っておいたが、最高の赤カブができた。普通の畑で出来るものとは全然違ったという。

... 肥料
 化学肥料が普及する以前、肥やしとして使っていたのは下肥とマヤの堆肥である。大便所に溜まった下肥はヒシャクで汲み、オケに入れて担いで運んだ。この下肥が一番良い肥やしになった。

... 牛馬
 主屋のマヤで牛を1頭飼っていた。飼っていたのは朝鮮牛である。子牛を買い求め、大きくなると買い付けに来る業者に売った。牛乳を搾ることはなかった。
 マヤの中は板壁で、西側中央に牛をつなぐための鉄の輪が取り付けてあった(図版24)。縄はあまり長くせず、牛が寝たり起きたりできる程度にしてあった。下は土で、刈ってきた草やわらが敷いてあった。牛に踏ませ、田の肥やしにするためだが、風向きによってはひどい臭いがした。
 餌は草だった。運ぶときは牛を連れて行き、刈り取った草を背に付けて帰ってきた。この他、残飯も餌にした。マヤの入口には餌をやるための大きな樽が置いてあり、皿に残ったものをここに開けた。また、ゲンカン境に設けられていた戸から残り物を入れてやることもあった。
 田んぼの作業が忙しい時期は馬を1頭借り、牛と一緒にマヤにつないだ。専門の業者がいたわけではなく、借りた先は福光(現南砺市福光)あたりの農家である。牛も田んぼに使ったが、馬の方が脚が速いので3倍くらい能率が上がった。

..(3)養蚕
... 飼育
 養蚕は生活の柱だった。飼育は年1回だったという話と、春と夏2回だったという話があり、桂でも時代によって移り変わりがあったようである。実際の作業も農協などから蚕紙を購入して卵から育てたという話と、稚蚕から育てたという話が残っている。
 飼育場所は一階と二階だった。ある程度大きくなってから二階に移すということではなく、最初から二階も使った。一方、三階はあまり使わなかった。このように上階も使っていたが、囲炉裏の煙が生育に影響を及ぼすことはなかった。ただし、蚊取り線香など殺虫剤は一切使えなかった。桂での事例はないが、殺虫剤のために蚕が全滅してしまうこともあったという。
 養蚕は手間のかかる作業だが、基本的に家族だけで作業し、繁忙期でも人を雇うということはなかった。
 桂には桑畑というものはなく、畑の横に桑の木を植えて餌を確保していた。その他、野原に生える野生の桑も利用していた。このように身近な場所の木を利用できるようになる前は、山奥のかなり遠いところまで山桑の葉を採りに行っていた。この地には次のようなクワコキウタが残っていたが、これは桂と加須良との間で桑を摘みながら囃し合った掛け合い唄である。
 「坊主山道をやらけた衣 行きつ戻りつ木にかかる」
 「色でなぁ身を売るよ西瓜でさえも 中に苦労の種がある」
 「儂と貴方とは欅のイナモク 仲の良いこと人知らなんだ」
 「瀬田の唐橋唐金擬宝珠 水に影さす膳所の城」
 「山に登れば茨がとめる 茨はなしゃれ日が暮れる」
 養蚕の豊作祈願は特に行わなかった。昭治さんによれば、柱に御札を貼ったことはあったが、その御札をどう入手していたかわからないとのことである。

... 出荷
 桂では昭和10年代初めごろまではイトヒキをして糸にしてから納めていた(注8)。出来上がった糸は人の手で担いで町へ運んだ。「赤尾谷桂見聞(一)」によれば、山田家ではイトヒキ作業のため工場を作ったこともあったという。「二十年も前のこと桂で最も豊かなオモテ、シマといふ両家が各糸挽き工場を設け、飛騨の人五六人やとつて糸をとつたことがあつた。糸挽き器械も捲替の器械も皆水車で動かした。」(13頁)。この記録は昭和11(1936)年のものなので20年前とすれば大正5(1916)年ごろということになるが、残念ながらこの工場についての聞き取りは得られなかった。
 繭はその後、買い取り専門の業者や農協にそのまま出荷するようになった。出来損ないの繭をより分け、他に使いまわすようなことはやらなかった。

..(4)炭焼き
 桂では人手のなかった中谷家を除き、どの家も炭焼きをしていた。
 炭焼きシーズンは田植えが終わる5月末か6月の初めから、雪の降り始める11月初旬ごろまでである。場所は少し離れた山の奥だった。
 桂で焼いていたのは備長炭のような硬質の白炭ではなく、軟質の黒炭である。原料として使った木はブナとナラが多かった。焼くときは炭窯の口で火を焚き、中の木に火をつける。ここが一番大切なところで、このときは山に泊まりこんで火の調整をした。炭は火を入れてから1週間ぐらいで出来たが、火が消えてからある程度冷やさなければならないため実際には10日かかった。
 出来上がった炭は炭俵に入れ、買い取りにまわってくる業者に売った。業者は何人かいたが、ほとんど城端(現南砺市城端町)の人だった。炭俵は全て手製で、オガヤという太いカヤ(ススキのこと)を使い、冬の間に作り貯めておいた。

..(5)その他
... 狩猟
 桂の男たちは皆熊を撃ちに行った。狙うのは冬眠でねぐらに入る直前と、ねぐらから出た直後である。秋の終わり、雪が急に1mくらい積もったときは熊がいた。また3月、冬眠から覚めたときも動きが鈍いため狙いやすかった。人数はさまざまだったが、少ないときは集落の中の2、3人で、多いときは加須良集落と合同で12、3人でやることもあった。
 鉄砲など、狩猟道具は各自持っていた。福光(現南砺市福光)まで行くとこうしたものを扱う店があった。火薬もここで買っていたが、古くは床下で作った自家製の塩硝も利用したようである(59頁参照)。弾は自家製だった。家に鋳型があり、猟の前には鉛を溶かしてたくさん作り貯めた。この他、猟のために犬を飼う家もあった。
 熊を追うときは富山側の山だけでなく、岐阜側の山にも入った。集落のそばまで熊が下りてくることはなかったので山の奥まで入ったが、基本的に日帰りで、泊まり込みでやることはなかった。
 仕留めた熊は山分けにした。慣れていたので参加者全員で上手に分けた。熊は捨てるところがなかった。
 まず毛皮は、買い取る業者がいたのでそうした人に売った。「良い銭」になったという。自分たちで使うこともあった。防寒着にもなったが、主な用途は敷物である。冬、材木を切りに行ったりするとき腰に付けるもので、これを「ヘシキ」といった。熊の毛皮は非常に丈夫で、尻に敷けば雪の上でも湿った土の上でも絶対に濡れることがなかった。重宝なものだったので、互いに皮を切り分けて作った。
 肉は皆で分けて食べた(52頁参照)。
 熊の胆は薬になるため、これも良い銭になった。熊の胆とは胆嚢のことであり、取り出したときは液体の入った袋のような状態である。これをかごなどに入れ、囲炉裏の火の上、程よい温度のところに吊るしてゆっくり乾燥させていく。この作業は夜寝ずに行う。そして、ある程度乾燥して生乾きの状態になると、今度は板と板の間に挟み、薄い板状にしていく。これを固くなるまで行った。こうした作業は上手な人がいたので、熊を捕ってくるといくらか手数料を払い、皆その人に任せた。出来上がった熊の胆は切り分け、はかりで量って山分けした。欲しい人が高いお金を出して買っていくこともあった。
 法律が厳しくなると、免許を持っていたわけではないので鉄砲は皆取り上げられた。山田家に鉄砲があったのも昭治さんが小さいころまでである。猟に出たのも善治さんまでで、昭治さん自身は熊撃ちに参加したことはなかった。

... 塩硝作り
 昭和10年代には塩硝を作っている家はなかったが、昭和6(1931)年生まれの栄一さんは火薬の原料を床下で作ったという話だけは大人たちから聞かされていた(注9)。原料は草、ただし草なら何でも良いというわけではなく、火薬製造のための特定の草があった。そして出来上がった火薬の原料は「石川県(加賀藩)」に納めていたと、そんな話だったという。桂では床下のことを「エンノシタ」といった。この地域の合掌造りはエンノシタが高く、子供ならゆうゆう動きまわれるほどで良い遊び場になっていた。このエンノシタの土を採ってきて、指でつまんで囲炉裏の火に入れると、「パチパチパチ」と火花が出たという。塩硝の成分が残っていたのである。
 昭和18(1943)年生まれの昭治さんも話だけは聞かされていた。年貢代わりに加賀藩に納めるのが取り止めになったあとも、個人個人床下で少しずつ塩硝を作りこれを熊撃ちの火薬に使っていた。製造用具もあったらしい。そんな話だったという。

... フユシゴト
 桂では冬、出稼ぎに出る人はいなかった。善治さんもずっと家にいて、「フユシゴト」にワラジやワラグツ・ゾウリ・ムシロ・ミノ・ニナワ(荷縄)など、朝から晩までわら細工を作っていた。炭を出荷するときに使う炭俵を作るのも冬の仕事だった。
 女性たちも冬は冬で仕事をしていた。特にムシロを織るのは一人ではできない仕事だったので、縄をなったりいろいろな作業を手伝った。

... その他
 昭和10年代には紙漉きをしている家はなかった(注10)。
 桂には漆の木がなかったため、漆を採集することはなかった。

.4 交通交易
..(1)交通
... 道路
 集落の中央に砂利道が通っていた。車が入れるようになったのは、昭和31(1956)年のことである。

... 橋
 集落から境川へ下りたところに丸木橋があった(図版37)。桂と加須良をつなぐものだが、架け替え作業は桂だけで行った。材料にはブナを使うことが多かった。
 橋を架けるときはまず、3本の丸太を三角錐状にしたものを両岸に立てる。次に、この三角錐にそれぞれ横桟を取り付け、ここに橋代わりの丸太を架ける。さらに、三角錐の各頂点にもう1本丸太を渡し、手すり代わりとする。橋といっても足が濡れない程度のもので、増水するたびに流されたため、年に何回も架け替えていた。なお、こうした橋が何カ所もあったわけではなく、集落の前に1カ所あっただけだった。

..(2)交易
... 買い物
 桂にもさまざまな行商が訪れた。富山の薬売りは毎年2回、春と秋に万金丹などの常備薬を持ってまわってきた。魚売りは城端(現南砺市城端町)から来ていた。塩サバ・ハマヤキ(焼いたサバ)など、サバが多かった。果物売りはどこから来ていたか不明だが、リンゴなどをトラックに載せ、拡声器を鳴らしながらたまにまわってきた。
 こうした行商が来るようになるまでは、西赤尾まで買い出しに行っていた。この町まで出るといろいろな店があった。

... 興行・娯楽
 田舎芝居の旅芸人が何年かに1度まわってきた。芝居小屋ができたわけではなく、こうしたときは座敷の間仕切りを全て外し、大広間にして上演した。上演するのは山田家や松島家だった。
 この他、子供たちは紙芝居が来るのを楽しみにしていた。また、電気が通ってからは映画の上映会が行われることもあった。
 なお、物乞いがまわってくることはなかった。

.5 社会生活
... ヨリアイ
 桂6軒で「ヨリアイ」を行っていた。定期的なものではなく、必要に応じて開いた。会場は区長の家だった。
 区長は、今年はうちがやったから次はそちらというように、6軒の家が順番に務めた。

... 共有物・共同作業
 集落共有の財産や道具などはなかった。
 火の用心を呼びかけてまわる夜警のようなことはしなかった。消防団は西赤尾と合同でやっていた。

... 教育
 集落の裏手に分教場(西赤尾小学校桂分校)があり、小学生はここに通った(図版38)。先生はこの分教場に住み込んでいた。
 桂に中学校はなかったため、子供たちは小学校を出ると中学の寄宿舎に入った。寄宿舎は西赤尾にあり、ここで3年間、先生と一緒に寝起きし、食事も一緒にとった。昭治さんが入ったのもこの寄宿舎である。冬場は雪のために帰ることができず、夏休みも帰ると仕事をさせられるのであまり戻らなかったという。

.6 年中行事
... 正月準備
 年末、正月の準備として朝から米を蒸して餅をついた。餅つきはニワで行い、大きな「オカガミ(鏡餅)」を作って供えた。他の時期に餅をつくことはほとんどなかった。
 門松は主屋の入口(ヤンセェ)に立てた。

... 正月
 正月には必ず餅を食べた。また高級なものではなかったが、魚も付いた。魚は西赤尾の魚屋で予約した。
 山田家の雑煮はすまし汁ではなく、普通のものを何でもたくさん入れた。魚も入っていた。

... 節句
 三月や五月の節句はなかった。

... 祭り
 祭りは春が5月9日、秋は10月6日だった。盛んだったのは春祭りで、一年で一番賑やかな行事だった。子供たちも一番楽しみにしていたという。他の集落の人が来ることはなかったが、この日は仕事の関係で集落を出た家族が皆戻ってきたため、何十人にもなった。
 祭りの日は神主が来るので(64頁参照)まず神明宮に行き、その後一軒一軒まわって歩いた。春祭りではこのとき獅子舞も一緒にまわり、ハナを打ったりした(ご祝儀を出すこと)。それぞれの家では酒とご馳走を出した。ご馳走といっても魚などはなく、煮しめが中心で、食材は漬けておいた山菜がほとんどだった。各家で飲み食いするためけっこう時間がかかり、夜通しやっていた。

... 盆
 お盆は8月15日だった。この日は加須良集落にある蓮受寺にお参りに行き、夜は盆踊りをして遅くに帰ってきた。中には泊まる人もいた。あの時分どうしてあんなに人がいたかと思うほど賑わったという。なお、桂の人が蓮受寺に行くのはこのときだけだった。
 仏壇の前に盆棚を作ることはなかったが、町から戻った人々も含め墓参りには行った。
 この日はそうめんを冷やして食べた。イワナを焼いたものやトマトなど、上に何でものせた。そうめんがこの日一番のご馳走であり、皆喜んで食べたという。

... ホンコサマ(報恩講)
 報恩講のことを「ホンコサマ」という。10月か11月ごろで、今日はここの家、明日はそこの家というように集落のなかで毎晩1軒ずつ行っていた。
 夜、囲炉裏のあるオエに家族の他集落の人々も集まり、「オキョウサン(お経)」を上げる。最初に当主が唱え、そのあと皆が続く。その後、お坊さんは来ないため、代わりに分教場の先生が法話の本を読む。とても有り難い話で、昭治さんはこれが楽しみだったという。
 続いてご馳走になる。朱塗りの膳椀を使い、一人6品出される。各椀の位置は、手前右がオツユ(汁椀)、左がメシ(飯碗)、中央がナカモリ(高坏)、奥右がチョク、左がツボ(壺椀)、お膳の脇にオヒラ(平椀)である(図版39)(8頁参照)。ご馳走といっても山菜類が中心で、煮物の他、自家製の堅い豆腐を焼いたもの、そばなどである。持ち帰ったりせず、皆その場で食べた。食事が終わったあとは、お茶を飲みながら囲炉裏のまわりで皆で話しをした。
 こうしたことを翌日は次の家で行った。先生にもまた同じように法話の本を読んでもらった。

.7 人の一生
..(1)婚礼
 昭治さんの母は隣の松島家から嫁いできた人である。対岸の加須良集落とも嫁のやりとりをしており、加須良はほとんど全戸が親戚だった。このように桂に嫁いでくるのは皆近くの人で、遠くから来た人は一人もいなかった。
 桂では婚礼の際、新婦は家に入るときに杯で水を飲んだ。結婚式は座敷で行い、オオサカズキで酒を飲みかわした(8頁参照)。新婚夫婦の部屋はチョンダの中を区切るか、「サッサ(下屋)」を作って確保した。

..(2)産育
 桂では出産にはチョンダを使った(注7)。集落に専門の産婆がいたわけではなく、誰か手慣れた人が取り上げていた。
 誕生して7日目を「オビドキ」、抱っこのことを「ウダケャ」、おんぶすることを「ボンボシュ」といった。

..(3)厄除・還暦
 還暦の祝いや厄除けはなかった。

..(4)葬儀
 家族が亡くなると、火葬に送り出すまでオクの仏壇前に寝かせておいた。
 桂は昔から火葬である。土葬することはなかった。焼く場所を「ヤキバ」といったが場所が決まっていたわけではなく、川の近くなどその都度焼くところを選んだ。場所が決まるとまず穴を掘る。そして遺体を寝かせ、上から灯油をかけ、さらに炭を2俵かけて火をつける。焼き上がると納骨するためのオコツを取り分け、その他はそのまま埋めた。
 墓は埋葬場所とは別にあった。共同墓地ではなく、家ごとに場所が決まっていた(注11)。山田家の墓は神明宮の近くだった。
 オコツは京都の東本願寺に納骨することが多かった。納める時期は特に決まっていなかった。
 法事はオクとデイを使って行った。何回忌までやるという決まりはなかった。三十三回忌はあったが、五十回忌はほとんどなかったという。法事のときは皆で手を貸しあった。

.8 信仰
... 神棚・護符
 神棚はオクにあった。棚には白い榊立てが置かれ、その手前に半紙が垂らしてあった。棚の上の天井部分には墨で「雲」と書かれた紙が貼ってあった(図版40)。
 記録写真を見ると、オエのニワ境の柱に「正一位□□神社祈祷加持」の御札が、窓際の壁に「正一位秋葉神社 火災 鎮護」の御札が貼ってある。ただし、こうした御札の入手先は不明である。毎年の祭りには神主も来たが、御札を配るようなことはなかった。また、御札を売り歩くような人々がまわってくることもなかったという。

... 仏壇
 仏壇はブツマにあり、前にカーテンが掛けてあった。漆塗りの立派なもので、現在は主屋とともに民家園に移されている(14頁参照)。
 仏壇の扉は普段は閉めてあり、お参りするときだけ開けた。開けると中には立派な掛軸が掛けられていた(注12)。お参りするのは朝だけである。善治さんは毎朝御飯を供え、オキョウサン(お経)を読んだ。夫婦でお参りすることもあった。

... 神社
 集落のはずれに神明宮があった(図版41)。神主は城端から少し離れた北野(現南砺市北野)の人で、毎年5月9日の祭りのときだけやってきた。桂の人々が神社にお参りするのもこの時だけだった。冬は集落で雪囲いをした。

... 寺
 桂は金沢にある慶恩寺(真宗大谷派、金沢市石引)の旦那場で、6軒はいずれも「オヒガシ(真宗大谷派)」だった。桂に寺はなかったが、対岸の加須良には両集落「兼用」の寺として蓮受寺があった。ここには住職もいた。
 年に数回、ボンサン(お坊さん)がまわってきた。金沢の慶恩寺の他、城端、福光、富山、氷見などの人で、「縄張り」があったため来る人はいつも決まっていた。そのため集落の人々とは皆顔なじみであり、来ると「おお来たぞー」という感じだった。そうしたときは楽しかったという。
 こうしたボンサンたちは桂に来ると山田家に泊まっていった。このとき寝起きしたのは仏壇脇のオテラノマである(44頁参照)。1回来ると1週間くらい泊まっていき、山田家を足がかりに他の集落へも行き来していた。
 山田家に泊まっている間、ボンサンは毎晩オキョウサンを上げてくれた。このときは集落の人々も集まり、皆で念仏を唱えた(注13)。このように集まって念仏を唱える機会はしばしばあったが、日にちが決まっているわけではなかった。オキョウサンが終わると、次は説教である。山田家のオクには座布団を載せた三方のような椅子が置いてあったが(図版17)、これは説教するときにボンサンが使ったものである。
 このようにボンサンはいろいろな寺からまわってきたが、桂の人がお参りに行く機会はなかった。慶恩寺からは毎年報恩講の案内が来ていたが、行ったことはなかった。

.注
 1 日本の敗戦を知らなかった 『さよなら、桂』110頁。
 2 大工 「赤尾谷桂見聞(二)」には「桂など大工は赤尾や新屋に居るのを呼ぶこともあれば、白川村荻町からよぶのもあり、ずつと遠く能登方面から頼んでくることもあるさうである。」(56頁)とある。
 3 ネソの木 「赤尾谷桂見聞(二)」には「ネソは木材を縛るに専ら用ゐられるもので、樹種はマンサクをもつて第一とし」(55頁)とあり、「ネソの木」とはマンサクだと思われる。
 4 棟両端のカヤ束 「赤尾谷桂見聞(二)」には「桂ではスズメドマリといつてゐる。ネソが雨にあたつて腐るのを防ぐ実用をもつたもの」(55頁)とある。
 5 マガリザシキ 「赤尾谷桂見聞(二)」に「チヨンダのはづれを仕切つてマーザシキ(また廻りザシキ)とて小奇麗な客間を設ける風は近頃のこと」(56頁)とある。
 6 囲炉裏の席 山本久一家では、ヨコザ・カカザ・キャクザ・シモザといった。主人や坊様はヨコザに、客はキャクザに、子供はキャクザやシモザに、女性はキャクザとシモザの間に座った。
 7 チョンダ 「赤尾谷桂見聞(四)」にはチョンダの入口について次のようにある。「チヨンダの敷居が中敷居とて四五寸許り上つてゐる家は今でもちよいちよい見られるが、もとはこの敷居の一尺許りも上つたものもあつたさうで、言伝へによるとチョンダでつかつた産湯を外へもち出すに決して敷居の上をこさせず、敷居の下の羽目を外してそこから持出したものだといふ。」(18頁)
 8 繭の出荷 「赤尾谷桂見聞(一)」にはその様子を次のように記している。「どの家でもニワの障子際にタンソーといふ足踏機をすゑ家のアネサ(嫁女)が糸をひいてゐた。同じニワの奥には大抵風呂桶と並んで糸を大枠にまきかへる大きな器械が置いてあり、家の外に径一尺五寸許りの玩具のやうなカツチヤ(水車)が廻つてその動力となつてゐる」(13頁)。「雪の前に冬籠りの備へに種々の物資がいるのは城端までとゝのへにゆく。夏からかゝつて挽き貯めた生糸も多くはこの時行李につめ背負つて城端へ持ち出すのである。」(「赤尾谷桂見聞(二)」57頁)。
 9 塩硝 「赤尾谷桂見聞(一)」には「桂など長く赤尾の豪家藤井長衛門方へ中煮したものをもつていつた。そこで上煮した硝石は太美山村下小屋を経て加賀藩へ納めてくれた。」(14頁)とある。
10 紙漉き 「赤尾谷桂見聞(一)」には「桂には河原に蒸し釜が二つあつて三軒づゝ一つ釜をもち、楮を蒸して皮を剥ぎ赤尾まで出すにとゞまつた」(13頁)とある。
11 墓地 「赤尾谷桂見聞(四)」に「墓地は桂など本分家関係にあつたと思はれる家だけが一緒になつて、全六戸の墓が三ヶ所に分散してゐる(中略)桂などに多いやゝ改まつた墓標も角形の石に南無阿弥陀仏と刻んだきりのもので一家共同たることに変りない。」(17頁)とある。
12 仏壇 『さよなら、桂』にはこの仏壇について次のように書かれている。「山田さんの家はその昔、蓮如上人がお泊まりになった家なのです。仏壇には上人直筆の「南無阿弥陀仏」六字の名号が納められています。」(12頁)この掛軸は現在も山田家に伝わっている。
13 念仏 「赤尾谷桂見聞(三)」に「桂など寺は飛騨加須良までゆくが、この種御坊衆の説教はその宿をする旧家シマで行はれる慣ひで、そこで板を叩けば村の衆が寄集つてくる。」(26頁)とある。

.参考文献
 川崎市  『旧山田家住宅移築修理工事報告書』 川崎市 1988年
 寺崎満雄 『さよなら、桂』 桂書房 2004年
 富田令禾 「白川村加須良の回想」『ひだびと』5年9号 1937年9月
 最上孝敬 「赤尾谷桂見聞(一)」『ひだびと』4年12号 1936年12月
 最上孝敬 「赤尾谷桂見聞(二)」『ひだびと』5年1号 1937年1月
 最上孝敬 「赤尾谷桂見聞(三)」『ひだびと』5年2号 1937年2月
 最上孝敬 「赤尾谷桂見聞(四)」『ひだびと』5年3号 1937年3月

.図版キャプション
1    山田家旧所在地
2    桂湖 平成24年。桂集落は湖底に沈んでいる。
3    山田昭治さん
4    桂集落 昭和40年。中央が山田家。
5    桂集落 昭和43年。手前は富山と岐阜の県境となっている境川。
6    桂集落 昭和43年頃。中央の四角い建物は分教場。
7    桂集落 昭和43年。
8    移築前の山田家(表側) 昭和40年。左手にヘンチャゴヤが見える。
9    移築前の山田家(裏側) 昭和43年。蓮如上人清水碑と池が見える。
10    桂集落配置図
11    蓮如上人清水碑 昭和40年。
12    正面入口 昭和40年。
13    ゲンカン入口 昭和43年。
14    ゲンカン 昭和43年。中二階と二階へ上がるための梯子が見える。
15    民家園に復原した建築当初の間取り
16    移築前(昭和43年頃)の間取り
17    オク 昭和40年。カーテンの陰に仏壇、屏風の陰にオテラノマがある。
18    ブツマ部分の張り出し 昭和40年。
19    マガリザシキ 昭和43年。床の間(右)と床脇が見える。
20    オエからチョンダ側を見る 昭和40年。手前は移築時の当主善治さん。
21    オエからニワ側を見る 昭和40年。中央に薪ストーブが見える。
22    チョンダ 昭和43年。右手の引戸は三畳のヘヤに続いている。
23    ヘヤ 昭和43年。下屋部分のため上に傾斜がある。
24    マヤ 昭和43年。壁に牛をつなぐための輪が見える。
25    ナガシバ 昭和43年。右下にフロの焚口が見える。
26    アマ(二階) 昭和43年。
27    サンガイ(三階) 昭和43年。
28    フロ 昭和40年。間仕切りの陰に浴槽がある。
29    ショウベンジャ 昭和43年。左手はマヤ。
30    ヘンチャゴヤ 昭和43年。主屋とのあいだに板が掛けてある。
31    クラ 昭和43年。
32    ナヤ 昭和43年頃。
33    田んぼの石垣 昭和43年頃。
34    ハサ掛け 昭和43年頃。
35    作物を干す 昭和43年頃。
36    小豆の脱穀 昭和43年頃。
37    境川の丸木橋 昭和40年。
38    分教場 昭和43年頃。
39    ホンコサマの食器の配置
40    神棚のあった場所 昭和43年。
41    神明宮 昭和43年頃。冬は集落で雪囲いをした。


(『日本民家園収蔵品目録20 旧山田家住宅』2015 所収)