神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町 原家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が原家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成19年(2007)10月と平成20年(2008)2月〜5月、計16回に分けて行った。聞き取りに当たったのは渋谷卓男と野口文子、話者はつぎのとおりである。
  原正人氏   昭和32年(1957)生まれ 原家現当主
  原美恵子氏  昭和 7年(1932)生まれ 前当主正巳氏夫人
  牛頭典子氏  昭和33年(1958)生まれ 原正巳氏長女
  原弘三氏   昭和13年(1938)生まれ 原正巳氏弟
  原賀子氏   大正12年(1923)生まれ 分家ショウユヤ前当主元川崎市議会議員原泰造氏妻
  原文子氏   昭和21年(1946)生まれ 原賀子氏娘
  原隼三氏   大正11年(1922)生まれ 分家ゴフクヤ当主
  原文代氏   昭和 3年(1928)生まれ 原隼三氏妻
  伊藤奎助氏  昭和18年(1943)生まれ 原正巳氏従兄弟
  村田惠次郎氏 大正12年(1923)生まれ 10代当主原正一氏従兄弟
  竹田梅子氏  明治45年(1912)生まれ 分家ニシダナ出身
  原豊孝氏   昭和11年(1936)生まれ 『原家四百年の人脈』編者
  松本恒二氏  大正13年(1924)生まれ 原家出入職・差配、松本瓦店(現:株式会社松建)3代目
  松本ミツ氏  昭和 3年(1928)生まれ 松本恒二氏妻
  村上節子氏  昭和23年(1948)生まれ 原家近隣に在住
  市川清氏   大正11年(1922)生まれ 原家棟梁市川登代次郎氏縁者、ジェクト株式会社会長
  市川健司氏               原家棟梁市川登代次郎氏孫
3 このほか、当園では平成5年(1993)3月、2回に分けて調査を行っており、これらの調査記録も活用した。聞き取りに当たったのは小坂広志(当時当園学芸員)と多摩文化財愛護ボランティア、話者はつぎのとおりである。
  羽鳥迪子氏  大正7年(1918)生まれ 原正一氏妹
4 以上のほか、原家関係者が来園したおりに伺った話も参考にした。
5 図版の出処等はつぎのとおりである。
  1、20、21     村田惠次郎氏提供。
  2、9、22、24、25 平成20年、渋谷撮影。
  3、19                 『旧原家住宅移築修理工事報告書』をもとに野口作成。
  4、7                     川崎市市民ミュージアム蔵。
  5                         『旧原家住宅移築修理工事報告書』をもとに渋谷作成。
  6          川崎市市民ミュージアム所蔵原家文書「強盗難告訴状」より。
  8、10、13〜18、23 原家提供。
  11         安田徹也(登園建築担当嘱託職員)作成。
  12                        昭和63年、文化財建造物保存技術協会撮影。
6 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。

はじめに
 旧原家住宅は、川崎市のほぼ中央、中原区小杉陣屋町より移築された。昭和63年(1988)に解体、平成3年(1991)に復原されている。ただし、移築されたのは主屋部分のみで、もとは西側に事務所、北側にハナレ・インキョベヤ・ブンコグラと続く広大な屋敷であった。
 内部は数度にわたって増改築が行われているが、ここでは家族や関係者からの聞き取りをもとに、9代当主・文次郎氏(昭和30年没 享年78)とナミ氏(昭和37年没 享年82)夫妻の時代から、10代当主・正一氏(昭和42年没 享年65)と春子氏(昭和53年没 享年72)夫妻、11代当主・正巳氏(昭和5年〜平成18)と美恵子氏(昭和7年〜)夫妻、それから12代現当主・正人氏(昭和32年〜)の幼少時ぐらいまでのことを中心に記述していくことにする。

.1 原家
... 歴史
 原家は20石以上を持つ豪農であった。初代伝右衛門の墓石銘に「延宝元丑十二月二十四日」(1673)とあり、成立したのは17世紀後半と推定される。天明4年(1784)には穀商売、肥物商売を始めたとされ、このこともあって近世後期資産を築いていったようである。
 明治以降は広大な土地を経営するとともに、銀行を興すなど事業を広げ、一方では地域のリーダーとして政界にも進出した。

... 屋号と家紋
 屋号は「イシバシ(石橋)」である。石橋を方々に架けたことに由来するという。このほか地元では、「ジンヤソウ(陣屋荘)」というかつて経営した料亭の名を屋号のように使う人もいる。家紋は亀甲花菱、家印は丸に石橋の「イ」である。

... 家風
 10代当主・正一氏は「身分相応わきまえの精神」ということをいつも言った。要るものは買ったが、贅沢はしなかった。大家族だったこともあり、子どもたちも勝手なことは許されなかったという。
 家の中での言葉遣いは丁寧で、年長者に対しては敬語が当たり前だった。挨拶も「ただいま」ではなく「ただいま帰りました」、「行ってきます」ではなく「行ってまいります」と言うことが多かった。

... 歴代当主
 8代目文次郎氏は、神奈川県議会議員を務めた。ブンコグラを建て、さらに主屋の建築計画を立てて材木の手配を開始したのがこの文次郎氏である。
 9代目文次郎氏も、神奈川県議会議員を務めた。また、玉川銀行を興して初代頭取となり、その後、神奈川農工銀行の監査役を務めた。主屋はこの文次郎氏の代に完成した。職人の世話など、それを陰で支えたのが妻のナミ氏である。
 10代目正一氏は、神奈川県議会議長を務めた。南方から復員後、農地解放など戦後のもっとも困難な時期を乗り切った。出征中、家を守りとおしたのが妻の春子氏である。
 11代目正巳氏は、正一氏に引き続き2代続けて神奈川県議会議長を務めた。主屋を移築し、文化財として後世に残すことを決断したのがこの正巳氏である。妻の美恵子氏は橘樹郡長を務めた三浦助一郎氏の孫である。父、義秋氏が外交官だったため海外で育ち、原家に嫁いで学ぶことが多かったという。
 12代目現当主正人氏は、株式会社電通退社後神奈川県議会議員を1期務め、現在株式会社原マネージメント代表取締役として不動産管理、および武蔵小杉の再開発に携わっている。そのほか、西明寺檀家総代を3代続けて務め、地域のために尽力している。

... 本家分家
 一族のことを「イッケ」「イッケウチ」といい、この中の交際を「イッケヅキアイ」という。現在は本家、シンタク、ゴフクヤ、ニシダナ、ショウユヤ、シンミセ、サンヤ(伊藤家)、小林家の8軒がイッケウチである。シンタク、ゴフクヤ、ニシダナ、ショウユヤの4軒は分家、シンミセは分家の分家である。サンヤは、正一氏の弟信光氏が養子入りした家である。小林家は縁組でつながる家だが、小林英男氏(元川崎市議会議員)は正巳氏の後見役として選挙の本部長を務めるなど、原家と強い結びつきを持っていた。
 シンタクは最初のシンヤ(分家)で、本家の隣に分家を出し、材木問屋を営んだ。
 ゴフクヤははじめ古着を扱い、その後足袋工場を経て石橋呉服店を営んだ。
 ショウユヤは石橋醤油店を営み、醤油や味噌を醸造していた。
 ニシダナは本家の家業肥料問屋を継いだほか、玉川銀行の経営に関わっていた。
 本家にはさまざまな役目があった。逆に冠婚葬祭など本家で何かあると、すぐ分家が行ってどうするか相談し、手伝った。分家で何かあったときも同じであり、葬式といえばイッケウチがその家に集まり、日取りなどを決めていた。イッケウチには当番制で、何かあるとふれまわる役があった。
 かつては祝儀不祝儀だけでなく、何かというとイッケが集まり、特にお盆やお彼岸にはイッケ同士すべて行き来した。中元や歳暮のやり取りも本家分家のあいだで行われていた。こうした付き合いは家の当主がやっていた。

.2 衣食住
..(1)住
... 大正2年以前の旧主屋
 現在日本民家園に移築されている主屋は、敷地の北側に建てられていた。これ以前の旧主屋は敷地の南側、中原街道沿いに建てられていた。茅葺の2階建てで、原家はここで代々肥料問屋など商店を営んでいた。

... 主屋の普請
 原家住宅は明治44年(1911)上棟、竣工は大正2年(1913)である。原家の伝承では建築に22年を要したと言われ、8代目文次郎氏の時代から材料の調達に約20年をかけたことになる。
 棟梁は新城(中原区)の市川登代次郎氏(とよじろう 大正11年没)である。登代次郎氏はもともと、ブンコグラの棟梁市川喜八氏(きはち 明治38年没)の弟子だったが、喜八氏に息子がなかったため見込まれて養子に入った。喜八氏には若いころ神奈川へ出て失敗して戻ったという話があり、仕事はそこでおぼえたようである。喜八氏・登代次郎氏親子は地元で活躍し、中原街道筋には得意先がかなりあった。喜八氏にはもう1人、清次郎氏(せいじろう 昭和13年没 享年69)という養子がおり、原家普請のおりには副棟梁を務めた。登代次郎氏の弟弟子で、久地(高津区)の矢島家の出である。後に川崎組(現:ジェクト株式会社)を創業する重太郎氏(じゅうたろう)は清次郎氏の息子で、原家の現場にも8年通ったという。一方、登代次郎氏の息子は万蔵氏という。棟梁を務めるほどの腕前だったが、その後農業に重心を移し、昭和10年代半ばで大工はやめている。市川氏の菩提寺は新城の又玄寺(臨済宗)である。
 原家住宅は木組みに複雑な技法が採用されていた。民家園への移築にともなう解体工事のとき、大工たちが困っていて棟梁を呼んでくれという。どうしたのかと聞いたら、この戸袋をこわせない(分解できない)のだという。大工が3人、3時間もかかりきりでわからないほど複雑だったと、そんな話が残っている。原家の主屋は関東大震災でも被害がなかった。棟梁の市川氏のところも本家分家ともに無事で、「市川んところはつぶれねえけどみんなどうしてんだ」と言われたという。
 原家は荏田(横浜市青葉区)に山を持っていた。山にはケヤキなど良い木がたくさんあり、普請のおりはこの持ち山からコビキ(木挽き)が伐り出して7年寝かせた(注1)。材木屋は、8代目文次郎氏夫人ヒサ氏の妹の嫁ぎ先である神地(中原区上小田中)の小川氏が入っていた。当時はコビキも中原に何人もいたという。ただし、持ち山でまかなったのは柱や鴨居など主なものが中心で、他は木場の材木問屋から取り寄せたものもあった。建具は東京の職人が作り、ガラスはドイツからの輸入品を使用した。
 普請中、9代目文次郎氏夫人ナミ氏は職人50人分の食事を毎朝用意し、土地の大工が夜までやれば夜食まで出したと伝えている。なお、普請のおりはこうした職人だけでなく、イッケウチの男たちもみな行って仕事を手伝った。

... 屋根
 かつては東横線が多摩川を渡りはじめると原家の屋根が見えた。大きな屋根は寺院のそれに似ており、近くの西明寺の参拝客が間違って入ってきたり、賽銭を投げ込んで拝んで行ったりすることもあったという。
 屋根を葺いたのは松本辰吉氏、菊三郎氏親子である。松本瓦店(現:株式会社松建)はもともとは銀座歌舞伎座近くに店を構えていたが、原家の誘いで川崎に移り、その後も出入職として屋根の修理などに関わっている。昔の瓦は製法が違うため、ひびが入ったところに水がしみこむと、冬は凍って割れたり表面がはがれたりした。また、鬼瓦は3つか4つの部分に分かれているが、それを締めるボルトは鉄だったので、錆びると膨張して割れることがあった。原家の屋根の修理はあまりなく、こうしたところを少し直したり、割れ目に出来た鳥の巣を取り除いたりする程度だったという。
 瓦は傷まなかったが、周囲の樋は雪が降るたびにその重みで傷んだ。アカ(銅)職人が出入りし、よく半田ごてで直していた。
 屋根の中央には大きな避雷針が立っていた。周辺に高い建物がなかったため原家にはよく雷が落ち、子どもたちは蚊帳に入って遠ざかるのを待ったという。

... 門
 正門は朝一番に開け、日没ごろ閉めた。閉まったあとは裏門から出入りした。古くは正門から入るのは当主夫妻やその親だけで、他の家族や親戚の者は裏門から入ったが、移築前は通学の子どもたちも含め、家族は正門から出入りしていた。
 正門の脇の松を「門かぶりの松」といった。

... 出入口
 主屋の出入口は3箇所あった。
 正面左の大戸のある場所はゲンカンと呼ばれ、通常時の正式な入口だった。家族の中でもここから入ってヒロマへ上がるのは当主夫妻とその親だけで、そのほか正規の客だけが出入りした。土間はセメントで固めてあった。上がり框(かまち)は高く、その前に踏み台が置いてあった。
 主屋の左手には勝手口が設けられていた。家族は通常、ここから入ってオカッテを抜け、イマに入った。御用聞きもこちらから来た。
 主屋の正面中央に式台がある。これは冠婚葬祭のおりの正式な入口であり、やたらの人は上がれなかった。式台の上には精巧な彫り物が付いているが、材質が硬くて彫り上げるのに何十年もかかり、それが原因で職人が亡くなったという話が伝わっている。
 主屋の正面は、ゲンカンから座敷の前の方までつるつるの大理石が敷いてあった。子どもたちはここで、トウシューズを履いてバレエの練習をしたり、ローラースケートで遊んだりしたという。

... ヒロマ
 オウセツマとも言った。もともとは和室だが、その後絨毯を敷いてソファーを置き、応接室にしていた。電灯も元は笠付きのものだったが、部屋に合わないと言われ昭和30年(1955)ごろシャンデリアに替えた。そのほかピアノも置かれ、外の縁側には正巳氏が県議会議長時代外国土産にもらった大きな虎の彫り物が飾られてあった。ただし、会合のあるときはこれらをすべて出し、座敷をつなげて大広間にした。

... ナカノマ
 オヘヤで寝起きしていた正一氏夫妻が、年をとってからこの部屋に移った。その前は、ナミ氏が使っていたこともあった。この部屋は正人氏の時代まで、夏は蚊帳を吊っていたという。
 三月や五月の節句にはこの部屋に人形を飾った。冠婚葬祭のときの出入りには、この部屋の前の式台を使った。葬儀の際遺体を安置したのもこの部屋である。襖の表装は絹に金箔で、とてもきれいだったという。

... オクザシキ
 オクザシキは正式な客間で、何かあるとここで宴会をした。人が大勢集まるときは、このオクザシキとナカノマ、ヒロマの襖を外して「ツヅキノマ」にした。

... ロクジョウ
 オクとも呼んだ。正一氏の娘が、嫁ぐまでこの部屋を使っていた(注2)。
 その後、この部屋は書斎になり、正一氏が机を置いて事務仕事をしていた。中には金庫と、正一氏の背広などが入った洋服ダンスがいくつかあり、押入にはいただき物などが入っていた。暗い部屋で、子どもは怖くて入れなかったという。

... オヘヤ
 オヘヤといっていた(注3)。正一氏夫妻は年をとってナカノマに移ったが、それまではこの部屋で寝起きしていた。また、子どもがたくさん泊まりにきたときに、この部屋を使うことがあった。
 東側には桐のタンスがあり、着替えたりするのにも使っていた。地代の出納帳などが仕舞われているタンスもこの部屋にあった。

... イマ
 チャノマともいう。家族が通常いたのがこの部屋である。親戚などが集まるときや、普通の用事で来た人を応対するときにもこの部屋が使われ、子どもは勉強などもこの場所でやっていた。また、オカッテを見下ろす位置に大きな火鉢があり、ナミ氏がよく座っていたという。こうして集まるのは部屋の北側で、南側はあまり使わなかった。冬はコタツも置いてあったが、北側は日が当たらないため寒かったという。
 オヘヤとの境は板戸である。この板戸は小さい子どもでは開けられないほど重く、誰かが動かすとキリキリと音がして、しんとしているときに聞くと怖かったという。板戸に使われている一枚板は荏田(横浜市青葉区)の持ち山から切り出し、7年寝かせたものである。この木を挽くとき、今のように機械がないため両方から切って行ったところ、1枚だけ失敗した。そのため、一番左の部分だけ戸棚になったといわれている。この戸棚には、子どもの服などが入れてあった。
 戸棚の右にはホトケサマ(仏壇)があった。置いてあったのはオヘヤだが、この部屋からお参りするようになっていた。ヒロマ寄りの隅には神棚があった。神棚の下には戸棚があり、普段用の座布団などが入れてあった。

... 六畳
 オカッテを洋風に改造するまでは、イマのとなりに六畳の部屋があった。この部屋にはコウジンサマが祭られており、古くはここで食事をしていた。

... 電話室
 イマの脇に二畳の電話室があり、呼び出し式の電話があった。

... オカッテ
 イマの方から3段ほど下りたところがオカッテになっていた。この段は床板を上げると下が物入れになっており、来客用の食器などが仕舞ってあった。オワン類は、12時になろうと1時になろうと、会合のあとは洗って必ず赤い絹の布で拭い、それから仕舞っていた。また、普段の食器類も夏冬で替えていたため、入れ替え用のものがここに仕舞ってあった。このほか、北側の物入れには毎日使うオゼンや食器など、階段の下にはテーブルなどが入れてあった。
 移築前のオカッテは、民家園で復原されたものよりも外側に大きく張り出しており、そこが土間と板の間になっていた。ここにはアカ(銅)製の釜の乗ったカマド(「オヘッツイ」とも言った)があり、普段のご飯を炊いていたほか、大きな炊き出しや餅搗きのときに使っていた。また、古くは井戸があり、その後水道に変わったが、流し場も設けられていた。野菜を洗ったり大きな魚をさばいたりしていたほか、オテツダイサンはここで顔を洗ったり、歯を磨いたりしていた。
 原家では、「男の子はオカッテに入るな、入ると『ダンナ』になれない」といわれていた。

... 階段
 階段は糠でも磨いたが、すべると危険なため、通常は水拭きかから拭きだった。この階段は急な上に途中で曲がっているため子どもには怖い場所で、実際に子どもが階段から落ちたこともあったという。

... 二階
 二階は大きくなった子どもが勉強部屋にしたり、若夫婦が使ったりすることが多かった。
 南側の3間を「オモテ」といった。正巳氏夫妻はこの場所を使い、洋服ダンスなども置いていた。はじめ使っていたのは中央と西側で、トコノマのある東側は使わずにきちんとしてあった。このトコノマには、9代目文次郎氏夫人・ナミ氏の手作りの人形が飾ってあったという。その後、長女典子氏が長じて西側を使うようになり、正巳氏夫妻は中央と東側に移った。なおこの3間は、戦後料亭をやった時代は宴会や結婚披露宴などにも使われていた。
 北側の2間を「ウラ」といった。北側の窓からは多摩川がよく見えた。窓はもう1つ、東側に小さなものがあったが、この窓は何のためのものかわからなかったという。正人氏は長じてこの2間を使っていた。
 階段を上がった場所には、西向きにナガシがあった。ここにはそのほか、洋服ダンスが鉤状に作り付けてあった。
 2階には屋根裏への上がり口があった。しかし、原家の人が上に登ることはなく、収納にも使っていなかった。

... 納戸
 民家園への移築時風呂場と判明した場所は、納戸となっていた。ここには布団や蚊帳、座布団などが仕舞われていた。天井が低くて暗く、子どもはお化けが入ってるんじゃないかと思っていたという。

... オトコベヤ
 ゲンカンの小部屋にはオトコシ(男衆)が住み込んでいた。その後オトコシがいなくなり、さらにオテツダイサンの人数が減ってからは、この部屋が女中部屋として使われるようになった。

... 女中部屋
 オカッテの西側、現在事務所が建っているあたりに8畳ほどの部屋があり、オテツダイサンが住み込んでいた。この部屋には便所はなく、オテツダイサンは外にあった職人用のものを使っていた。

... 廊下
 主屋の廊下には欅の一枚板を使っていた。ロクジョウ前あたりは暗く、子どもは怖がってあまり通らなかった。なお、ロクジョウ前のガラスの張り出し部分には鏡が置いてあり、春子氏が髪をとかしたり、化粧したりするのに使っていた。
 ハナレに続くところに重い戸があり、それを開けるとまた長い廊下が続いていた。この廊下にはモミジの木が使われていた。窓のガラスは主屋と同じく、ドイツからの輸入品だった。

... ハナレ
 ハナレには襖で仕切られた4.5畳、8畳、10畳の3部屋が並び、中央の部屋の奥にブンコグラの入口があった。正巳氏の弟、武氏と弘三氏が東側2間を使っていたほか、晩年のナミ氏が一番東の部屋に寝起きしていた時代もあった。また、西側の4.5畳を正巳氏の長女典子氏が使っていたこともあった。典子氏の時代にはハナレはもうあまり使われておらず、ブンコグラの入口のある部屋も物置のようになっており、子供心になんとなく怖かったという。
 なお、このハナレは関東大震災のとき倒壊し、その後再建したものという。

... インキョベヤ
 ハナレの廊下をさらに行くとオベンジョや押入があり、その先にインキョベヤがあった。ここはハナレのあとから付け加えられたもので、9代目文次郎氏夫妻が老後使っていた。文次郎氏はここで晩酌などもしていたという。
 その後この部屋はあまり使われなくなり、物置のようになっていた。

... オベンジョ
 原家にはオベンジョが5箇所あった。オクザシキの東側、イマの北側、2階、ハナレ、そして通用門の脇にもあった。
 家族は主にイマの北側を使っていた。何箇所もあったが、人数が多かったので朝などは足りなかったという。昭和40年代ぐらいまでは「スットン」(汲み取り式)だった。真ん中に板が渡してあり、オツリが来ないようになっていた。しかし、汲み取る人が下手でこの板が横にずれると、桶の中にまともに落ちるためオツリが来た。汲み取り口はそれぞれ裏手にあり、汲み取り屋が汲み取っていた。肥桶は素人ではバランスがとれず、なかなか担げなかったという。
 オクザシキの東側のオベンジョは広く、床はすべてケヤキだった。ここは客用のような扱いだった。
 2階のオベンジョは下までスットンだった。小さな子どもがいるときは、落ちないか心配で仕方なかったという。しかも冬は風が吹き上げ、ひどく寒い便所だった。
 出入りの職人やオテツダイサン用として、裏門のケヤキのそばに、大用小用ともある大きなものがあった。この便所には肥溜めが付いていた。

... センメンジョ
 ハナレにつづく廊下の途中に洋式のセンメンジョがあった。階段を2段下りて入るようになっており、その分天井が高く、窓が上の方にあった。広さは3畳ほどだった。中は1m少々の高さまで輸入物のタイルが張ってあり、その上は横にずっと鏡張りになっていた。洗面台は2つつながったもので、そのほか化粧品を置くような棚があった。お湯は出なかったため、朝、顔を洗うのにオカッテでお湯を沸かし、それを洗面器に入れて運んだりしていたという。

... オフロバ
 原家で風呂場とされた場所は4箇所ある。
 まず、移築の際の調査で風呂場と判明した場所がある。ここは移築前は納戸に使っており、風呂として使っていた時代や、改築時の聞き取りは得られていない。井戸や、マキを入れていた物置とも離れており、どうしてこの場所に風呂場を造ったか原家でもわからないという。
 2箇所目のオフロバは、古い時代に裏門の近くにあった。ここの風呂は小判型をした頑丈な普段用のもので、ほとんど毎日立てていたという。
 3箇所目のオフロバは、ハナレに行く途中、センメンジョの北側にあった。普段用の風呂があった時代は来客用だったが、その後家族も使用するようになった。桶も当初はサワラ造りだったが、五右衛門風呂のようなものがはまったタイル張りの洋式のものに改造され、その後現在見るような普通の浴槽に変わった。これらの浴槽は子どもたちが何人かで入れるくらい大きかったという。
 このオフロバは遠く、小走りで行くほどだった。しかも、入りに行くにも寒く、入ったあとも戻ってくるうちに冷えてしまった。また、建物の隙間から虫などが入ってきて、子供には怖い風呂だったという。
 燃料はマキだった。焚き口は西側にあり、オテツダイサンが毎日割ってくべていた。全員が入り終わるまで付けてないとぬるくなってしまうため、若いオテツダイサンが雑誌などを読みながら座ってやっていた。風呂には入る順番があり、ナミ氏や正一氏など、年長者が先だった。
 もう1箇所のオフロバは、女中部屋のそばにあった。脱衣用の板の間が1畳ほどと、同じくらいのオフロバがあった。この風呂はオテツダイサン用で、家族は入らなかった。その後、この場所に事務所が作られてからは、オテツダイサンたちは風呂屋に行くようになった。

... 水場
 女中部屋の外にコンクリートの水場があった。洗濯はここでやっていた。

... ブンコグラ(内倉)
 ブンコグラは石造りの2階建てだった。ハナレの中央の部屋に入口があり、大きな扉が付いていた。この扉は二重になっており、外側はいつも開けてあった。内側の扉には大きな錠前がかかっていたが、網戸になっていて外の空気が入るようになっていた。窓も同じように2重になっており、格子がはまっていた。
 1階には大きな甕があり、地代を持ってくる人が持参した中元歳暮の砂糖が入っていた。砂糖は飴のようになったりカチカチに固まったりするため、使うときには金槌を持っていって叩かねばならなかった。また、事務所が出来て物置がなくなってからは、この場所に梅干を保管していた。
 1階は床板をはずすと下が土間になっており、夏でも涼しいこの倉の中でも一番涼しい場所だった。そのためここにビールを保存していたが、保存するときは必ずビンを上下さかさまにした。そうしておくと腐らないといわれていた。
 2階には戸棚も付いていたが、そのほか長持や、新しいものも古いものも含めたくさんのタンスが並んでいた。洋服も着物もオメシカエした人はここに仕舞い、部屋にはタンスはあまり置いていなかった。ここには戦時中、嫁に行った娘たちのお道具を預かっていた。
 ブンコグラにはそのほか、毛布やシーツなどが仕舞われていた。戦争中のカツブシの紙箱やタワシがまとめて出てきたこともあったという。

... オクラ(外倉)
 外のオクラはモク(木造)だった。大きな倉で入口が2つあり、中は中央をトタンで仕切ってそれぞれ別の使い方をしていた。
 北側半分は、1階に祝儀不祝儀のオゼン、宿泊客用の布団、会合用の座布団、テーブル、コップなどが仕舞ってあった。会合に使う食器類は、どんなものでも100ないと足りなかったという。2階には農機具や餅搗きの道具が入っていた。一方、南側半分には年貢米などが積んであった。仕切りのトタンは、ネズミが入らないようしっかり作ってあった。
 なおこのほかにも、古くは門を入ってすぐ右に「種倉」という倉があったという。

... 物置
 オカッテから出てすぐ外側、現在事務所のある場所に物置が3棟並んでいた。3棟とも大きなもので2階建てになっており、1階の床は土間だった。
 南側の物置には、食料が保管されていた。味噌、漬物、それから梅干などである。梅干は大きな甕に入れられ、昭和10年12年などと年ごとに保管されていた。
 中央の物置は間口が狭く、農具や植木の枝を落とす鋏など、道具類が仕舞われていた。
 北側の物置には、ジャガイモやサツマイモ、炭やゴザなどが仕舞ってあった。この物置は長く大きなもので、電気もなく真っ暗だった。中はオトコシの作業場にもなっており、ここで割ったマキも積み上げてあった。
 正門を入って右手の塀際は、長い物置になっていた。物置といっても屋根と戸が付いているだけのもので、中には箒など庭掃除の道具が入っていた。この物置の右にはハシゴが置いてあった。

... 庭
 原家の庭は広く、マエニワ、オクニワ、ウラニワと大きく3つに分かれていた。このほか、主屋とハナレのあいだにナカニワがあり、敷地の東側には畑が広がっていた。庭に蛇なども住んでいたという。
 マエニワは正門と主屋のあいだの庭で、オモテノニワともいう。門を入ると主屋の玄関まで石畳が続き、左右には梅の古木が何本もあって、春先は匂うようだった。古くは門灯がなかったため暗く、冬などは怖かったという。裏門のそばには大きなケヤキがあった。正人氏は子どものころ、このケヤキが公道に出っ張っていることに対して、肩身の狭い思いをしていた。それをあるとき祖母の春子氏に言ったところ、道が狭いからうちが土地を提供したんだ、堂々としていいんだと、そう言われたという。オイナリサンのそばには一年中フキが出ているところもあった。このマエニワは広かったため、学校が終わると男の子たちが集まってきて公園のようだった。かくれんぼは見つけるのが大変で、やるときには範囲を区切ったりしていたという。
 オクザシキの前に広がる庭園をオクニワといった。マエニワとのあいだは仕切られており、ここに入る門が主屋の前と東側の塀沿いに設けられていた。東側の門は格子戸で、石段を3段ほど上がって入るようになっていた。オクザシキのまわりには芝生が広がっていた。その芝生の横に枯山水の石組みがあり、2mほどの石と、黒い石を敷き詰めて池を模したものとが組み合わされていた。このほかオクニワにはピンクの牡丹があり、ハナレの脇にはサクランボのなる木があった。このほか、戦時中の防空壕が移築工事のときまで残っていた。水が溜まって奥までは入れなかったが、正人氏はかくれんぼに使ったこともあったという。ただし、オクニワは薄暗く、子どもたちもあまり遊ばなかった。なお、この庭の東側には畑に抜ける簡単な門があった。
 主屋とハナレの裏手をウラニワといった。オクニワから抜けるところには、屋根のある観音開きの門があり、カンヌキができるようになっていた。ウラニワには柿、グミ、ビワ、ザクロなど、実のなる木がたくさんあった。柿の木は大きな実を付けるよう接ぎ木したものが何十本もあった。グミの木は2階建ての家ほどもあった。ビワの木も大きく、枝に座ることができた。多摩川の方を眺めると、何もないころは川までレンゲ畑が広がり、川のむこうには多摩川台公園近くのガラス戸のモダンな家々が見えた。子どもたちはブンコグラの後ろのコンクリートにテーブルを運び、写生をしたりした。なお、ウラニワには物干し場もあった。
 オクニワと畑のあいだに川が流れ、その縁に桜の木があった。この川は途中2箇所で分かれ、1本はブンコグラの後ろを通り、もう1本は畑の中を流れていた。そばでセリを摘んだほか、子どもたちは小さな舟を浮かべて遊んだりした。
 庭の管理は、木については植木屋がやったが、花はナミ氏が世話をしていた。原家では土も大切にしていた。庭の土が減らないよう、草むしりをしたあとは1日置いて草をふるい、土を戻していたという。

..(2)食
... 水
 原家には井戸が4箇所あった。
 家の外には3箇所あった。1箇所は裏門そばの普段風呂のとなりにあり、洗濯などをしていた。もう1箇所はハナレに行く途中のセンメンジョ近くにあった。こちらは掘り抜き井戸で、冷たくおいしい水がいつも細い竹の先から流れていた。夏は流しを作ってこの水でスイカを冷やしたりしたが、関東大震災のあと涸れてしまった。そのほかもう1箇所ウラニワに大きな井戸があった。
 主屋の中にも1箇所、オカッテに井戸があった。この井戸は車井戸から手押しポンプになったが、よく故障して洗足(東京都目黒区)からポンプ屋が来ていた。
 水道は昭和3年(1928)ごろ入り、家の中はすべて水道だった。私設浄水場が多摩川のすぐ近くに出来たが、水はカルキ(塩素)の匂いが強くてまずかった。そのためか、水道の水を砂で濾す用具があったという。

... 炊事
 食事の支度は主に嫁がやっていた。原家の女性は、米を研ぐ音や、味噌汁の出汁にするカツオブシを削る音で上手下手がわかるほど家事に手馴れていた。美恵子氏が嫁に来たころは、ご飯はまだカマドだった。
職人が入るときは、古い時代は朝の分から時には夜の分まで4回食事をしたため、用意が大変だった。
 何か行事のあるときは分家や近所の人が集まって、ご飯やてんぷらなどみんな作った。

... 食材
 米は作っていなかったが、戦後、野菜は自家製だった。畑はナミ氏がやっていて、子どもたちも手伝った。肥料には下肥と堆肥を使った。堆肥は畑の中に大きいごみためを作り、生ごみや残飯を集めて作っていた。ごみためはときどき場所を変えた。
 魚はすぐそばの魚屋から買った。多摩川で獲って来ることはなかった。
 肉は鶏と豚だった。鶏はウラニワで飼っており、ときどき料理に使った。
 醤油や味噌、それからナメミソなどは、分家の石橋醤油店から入手していた。ナメミソは麦で作るもので、ご飯のおかずにしたり、キュウリなどにつけたりした。
 戦後は米があまりなく、イモやカボチャとスイトンだった。調味料もなかったためスイトンも塩味で、まずかったという。
 典子氏が育った時代は、牛乳やヨーグルトを取っていた。牛乳もヨーグルトも瓶だった。

... 梅干・梅酒
 庭に梅の木がたくさんあり、大きな実がなった。古くは梅干だけ漬けていたが、その後は毎年、半分は梅干半分は梅酒にし、後の残りで梅肉エキスや梅ジャムを作っていた。梅酒も梅干も同じ時期だったので、とても忙しかったという。梅は生ったらすぐにもいでいたが、木が大きかったので女性では取り切れない。傷が付くので棒でたたき落とすこともできない。それで、人を頼んで登って採ってもらっていた。
 原家では飢饉や災害のとき周囲の人々に配るため、米、井戸の水、梅干はいつも備えなければいけないと代々言われ続けていた。そのため梅干は塩をことさらきつくして昔風に作り、甕にいくつも作って保存していた。梅干を店で買うことはなかったという。
 作る手順としては、まず梅をもぎ、ヘタを取って洗う。これを1個ずつ拭いて塩を撒いた甕に1段ずつ並べる。この甕は高さ1mほどもある、陶製のとても大きなものである。この中に7、8分目まで積み、上に木の板を置いて石を載せる。こうして3、4日すると水が上がってくるので、シソを10本ほど用意し、葉をもぎ、洗い、塩もみし、甕の中にばっと入れる。そうして中の水を揺らしてやると赤くなるので、そのまま土用まで漬けておく。土用まで漬けたら今度は干す作業である。縁台を両側に置き、そのあいだにゴザを何枚も広げてそこに梅を1個ずつ並べる。このとき甕も一緒に日に当てる。そうするとやがて中のシソの液が熱くなり熱湯のようになるので、ここに梅を1個ずつ入れていく。液が熱く、梅の方は表面が乾いているので、浸した瞬間「チー」という音がするという。この液の中に1時間浸し、もう一度茣蓙の上で干す。この作業を1日2回、3日間行う。そして最後の日は「ヨボシ(夜干し)」といい、一晩外に干す。このとき雨に降られるとおしまいである。こうしてヨボシした梅は、塩を入れたきれいな甕に保管する。梅が腐るのは縁起が悪いと言われ、最後まで念入りにやった。干すころは暑いので麦藁帽子をかぶってやったという。出来上がったものは、人に分けたりしていた。
 梅酒もヘタをとって洗い、1つずつよく拭くのは同じである。こうするのは、水気があると腐ってしまうためである。これを、梅酒用の1升瓶に1kgぐらい入れ、氷砂糖と焼酎を入れる。原家ではあまり甘くないものを好んだため、氷砂糖は梅より少なめで、1kgの袋で買っても全部は入れなかった。焼酎は、梅酒用に容器とセットで売られているが、それだけでは足りないため梅酒用の焼酎を買って使っていた。焼酎を入れたらふたをする。さらにその上から紙をかぶせ、紐でぐっと口を縛る。腐らないようにするためである。これを、原家では半年以上寝かせる。通常は3箇月というが、飴色になった方がおいしく、何十年前のものも残っている。
 梅肉エキスを作るには、梅を摺って水(液体)にし、どろどろになるまで煮詰める。ほんの少し作るにも、何日もかかるものである。夏ばてのときや腹の調子が悪いとき、子供になめさせると治るというので、原家では常備薬として作っていた。

... 食事
 古くはイマにひとりひとりオゼンを出して食事をしていた。1人帰ってくるたびに出すといった形だった。
 その後、大きな長方形のオゼンを使うようになった。人数の多いときは、このほかにもう1つオゼンを出した。席は決まっており、オカッテから遠いオヘヤ寄りの位置に当主や年長者が座り、オカッテ寄りに嫁や子どもが座った。
 食事はいっせいに食べ始めて、いっせいに終わるというものではなかった。当主は席に着き、まず刺身などを食べながら晩酌をする。そして食事となるが、子どもたちは食べたらどこかへ行ってしまった。また、昼などは廊下にゴザを敷いて、友だちといっしょに食べることもあったという。
 その後、昭和59年(1984)ごろ、オカッテを改造して洋間にした。柱を利用して周囲に大きなテーブルをしつらえ、椅子に座って食事をするようになった。

..(3)衣
... 服装
 正一氏は帰ってくると着物に着替えた。いつも正座で、足をくずしたり、横になったりすることはなかったという。春子氏の方もほとんど着物で、いつも白い割烹着姿だった。衣類は、和服はオヘヤの桐のタンスに、洋服はブンコグラに入れていた。
 正巳氏兄弟の世代は、子どもの服装は和服ではなく洋服だった。和服を着る機会もあったが、正月だからといって着物に着替えることもなく、寒くても半纏などは着なかった。しかし、足もとは靴下ではなく足袋で、下駄を履いていた。学校へ行くときは夏は裸足が多かった。下の子の着るものは上からのお下がりで、新品はあまりなかったという。

... 髪型
 子どもの髪型はボウズだった。ハナレの縁側に並ばされて刈られたが、バリカンが噛んで痛かったという。昭和20年代前半ごろは、髪を伸ばしたボッチャンガリは小学校では誰もいなかった。
 家の女性たちは、となりの美容院に行っていた。

... 寝巻
 寝巻は浴衣だった。ただし、風呂に入ったあとも浴衣に着替えず、また元のように着た。原家では子どもを除き、寝巻で歩く人はいなかった。夏も浴衣でゆったりする余裕などはなかったという。

... 寝具
 布団はカイマキだった。今なら布団カバーを替えればよいが、カイマキにはビロードの襟がついており、その襟に白い布を縫い付けなければならない。しかもこの襟は汚れるので、頻繁に替えなければならなかった。綿の打ち直しはめったにしなかったという。
 布団の上げ下げも簡単ではなかった。布団はオベンジョのとなりの戸棚や押入に入れてあり、目の前にあるわけではなかったので、毎日運ぶだけでも大変だった。
 原家は木が多かったので蚊も多く、蚊取線香も使ったが、どの部屋も蚊帳を吊っていた。長押にはそのための金具が取り付けられている。蚊帳は12畳もある大きなもので、これを何張も吊り、朝になると布団と同じく、オベンジョのとなりの戸棚に仕舞わなければならない。この仕舞うときのたたみ方が難しかった。
 枕は、カイマキのころは円筒形のものを使った。台に乗っているものと乗ってないものとがあった。中身は蕎麦殻だった。

... 洗濯
 主屋の西側の洗い場に、大きなタライと洗濯機が置いてあった。手で洗っていた時代は、つぎのようにしていた。まず洗剤だが、使っていたのは固形石鹸である。冷たい水で、敷布や寝巻きの浴衣など、1回に7竿分ぐらいをしゃがみながら洗った。大きなものを洗うので、流すのとしぼるのが大変だったという。
 浴衣などに使う糊も手作りだった。手拭いを四角く縫ったものに御飯の残りを入れ、絞って糊にする。これを水に溶いて、その中に洗い物を漬ける。このとき、なるべく襟のところは強くする。そして、これを半乾きにしてたたみ、アイロンではなく自分の腰の下に敷いてある程度固め、それをまた乾した。
 洗濯物や布団は人目に付くところには干さなかった。「よそから洗濯物が見えるのは長屋のやることだ」と言い、2階に布団を干すこともなかった。そのため、干すときは洗濯物も布団もウラニワまで運んだ。ウラニワには柿の木のそばに長い竹竿が7本ぐらい掛けてあった。着物などは、長い竿でないと広げて干すことができなかった。

..(4)暮らし
... 暖房具
 原家は部屋が大きく、しかも天井が高いので、風が吹きぬけるようで寒かった。しかし、暖房器具としてはイマにホリゴタツが1つあるきりで、毎日タドンやスミを燃やしたが凍えそうな寒さだったという。その後、アラジンストーブを入れたがそれでも寒かった。
 子どもたちが部屋で勉強するときは、赤い瀬戸物の手あぶりに炭を入れ、ふたをして毛布をかけて暖をとった。座布団を使い、きちんと正座して勉強していた。
 その後、昭和40年代の末ごろ1階にGEのセントラルヒーティングが入った。しかし、木がゆがんで戸の開け閉めができなくなり、あまり使わなかった。

... 電気・ガス・電話
 電気もガスも早くから入っていた。ただし、料理にガスを使うようになってからも、カマドも餅搗きなどで使っていた。
 電話が入ったのは大正10年(1921)である(注4)。原家は「中原8番」だった。当時は耳に当ててぐるぐる回す呼び出し式で、何かあるとみんなが使いに来た。

... 冷蔵庫
 氷で冷やす冷蔵庫があった。氷は近くの山本という氷屋から買っていた。ただし、現在のように冷蔵庫に買い置きすることはなく、毎日買ったものを冷やすだけだった。

... 蓄音機・テレビ
 ヒロマに大きな蓄音機があった。ソニーの前身の会社に親戚がおり、その関係で入手したものである。ラジオ付きで上がレコードプレーヤーになっていて、オペラなどを聴いていた。隣にはレコードのケースが置いてあった。
 テレビはイマに置いてあった。テレビのある家は少なかったので、食事をしているときでも近所の人がぞろぞろ入ってきて食べていられなかった。特に力道山の試合があるときは、全く知らない人まで何十人も平気で上がってきて、映画館のように部屋がいっぱいになった。はじめのころはナミ氏も御菓子などを紙にくるんで振舞っていたが、頻繁にくるのでそのうち何もしなくなったという。

... 雨戸・障子・簾戸
 朝、雨戸を開け出すとそれだけで30分かかり、夕方閉めるのにまた30分かかった。家の角には戸を回さなければならないところがあり、そこが特に大変だった。雨戸の桟も常にきれいにしていたが、それでも開け閉めすると手が真っ黒になったという。敷居に蝋を塗るのは子どもたちも手伝った。正面ゲンカン右の戸袋には、陽射しが直接あたらぬようスダレをかけていたことがあった。
 ガラス戸の拭き掃除は毎日ではなかったが、大変だった。現在のような大きなガラスではなく、小さな桝目に区切れているため、拭きにくく非常に手間がかかったという。
 障子は毎年、暮れに張り替えた。どこかに運んでやるわけではなく、その場所でやれるものはその場所でやり、それが出来ないところはハナレに続く廊下に立てかけてやった。まず、古い障子紙をはがす。うまくやるときれいにはがれる。そのあと、濡れた手ぬぐいで桟を拭いていく。糊とともに、桟の汚れを落とすのである。はがしたあとは、下手な置き方をすると枠がゆがむため注意する。障子紙は巻いてあるものをいったん全部とく。そして剃刀を使い、桟の幅に合わせて裁ち台の上で紙を切り落とし、それをまた丸めて使う。これは障子の桟の幅が1箇所ずつ違うためで、細かいところは大変だった。先に切らず、貼ってから大きい定規を当てて切り落とす方法もあった。糊は米糊ではなく、「正麩(しょうふ)」という障子用の小麦粉を溶いて使う。米糊だとはがすとき取れなかった。すべて終わったあと、最後に霧を吹いた。こうした作業はすべて家でやり、経師屋に頼むことはなかった。子どもたちもはがすのは手伝った。
 毎年衣更えの時期ぐらいから秋の彼岸ごろまでは、障子を簾戸に入れ替えた。使わないあいだはオクラ(外倉)に仕舞ってあり、入れ替えるのは大変な仕事だった。夏でも夜は雨戸を閉めていたが、朝5時ごろになると開けていたので、廊下で足音がしたりすると怖かったという。原家は冬は寒かったが、夏は川からの風が吹きぬけて涼しかった。

... 掃除
 朝、家のまわりに水を打ち、イマ、ヒロマ、オカッテ、ゲンカンなど、主なところはほとんどみな掃除した。ハタキは市販の品では布の量が少なかったので、絹の切れで太いものを手作りしていた。こうしたハタキでしっかりかけると、スットンスットンという良い音がする。原家の女性は、この音でかけ方の上手下手がわかるほど家事に精通していた。
 廊下は水をつけてはいけないので、糠袋で磨いていた。顔が見えるぐらいピカピカで、框は光らせすぎて滑るほどだった。
 毎週土曜日になると、ヒロマの格天井の桝目をオテツダイサンが脚立に乗って磨いていた。

... 女性の暮らし
 原家の女性は忙しかった。掃除、洗濯、炊事、地代の管理といった日常の仕事から、梅干作り、簾戸の入れ替え、お彼岸やお盆のご馳走の支度、暮れの餅の切り分けといった季節の仕事、さらには座布団を運んだり襖をはずしたりといった来客時の準備片付けまでやった。オテツダイサンもいたが、すべて自分で出来なければ人は使えない、まず自分が働かなければ人はついてこないというのが原家の考え方で、家の者が率先して仕事をした。家計も細かく管理し、キュウリが1袋いくらお魚がいくらと、その日使ったものは紙に書いて残していた。
 原家の娘は結婚前にいろいろ身につけた方が良いということで、何でもできるよう躾られた。正一氏の娘は、学校へ行く前に廊下を磨いていたという。正巳氏の長女典子氏も、朝食の支度やアイロン掛けなど、さまざまな仕事を手伝った。朝食の支度は中学のころからで、朝6時前に起きて準備をした。アイロンがけもこのころから家族全員の分をやっていた。この他にも風呂のマキにボイラーで火をつけたりと何でもやったが、やらされている感じはなく、手伝いをするのはあたりまえだったという。

... 子どもの遊び
 原家の庭ではいつも大勢の子どもが遊んでいた。缶けりや鬼ごっこ、ドッヂボールなどをして、そこらじゅう走りまわっていた。昭和20年(1945)ごろは他の子の家に行って泊まっていたり、よその子がいっしょにご飯を食べていたり、誰が家の子だかわからないような生活だったという。
 子どもたちは家の外では、稲を刈ったあとの田んぼで遊んだり、多摩川に行ったりした。頭まで泥だらけだった。西明寺も遊び場で、縁の下に入ったりしたという。そのほか、セミ、カナブンブン、クワガタなど虫捕りをしたり、ザリガニを捕ったりした。
 女の子はオハリ(縫いもの)をして遊んだ。大人の縫いかけの着物の袖で、自分のオニンギョウサンの着物を作ったりしたこともあったという。ホトケサマ(仏壇)の大きな引き出しには、オニンギョウサンとオニンギョウサンの着物がいっぱい入っていた。

... 子育て・しつけ
 正人氏が子どものとき、美恵子氏は一度もおフロに入れたことがなかったという。湯船には正人氏の曾祖母に当たるナミ氏が入り、洗い場には祖母の春子氏が控え、美恵子氏は子どもの服を脱がせ、タオルでくるんで運ぶ役だった。それほど大切に育てられた。
 子どもたちは悪いことをすると、ロクジョウ前の暗い廊下の柱にしばりつけられたり、ブンコグラに入れられて大きな錠前をかけられたりした。正人氏は閉じ込められると悔しがって、倉の戸に貼ってあった障子紙を全部はがしてしまったという。

... 習い事
 原家の子どもたちはさまざまな習い事をしていた。茶道、華道などの芸事、長唄、琴といった邦楽などである。春子氏は琴が上手で、娘が稽古から帰ってくるといっしょに弾き、おさらいをしたという。ブンコグラには琴が何竿かあり、子ども用の小さなものもあった。
 邦楽ではなく、ピアノやエレクトーンを習う子どももいた。女児だけでなく、男児もこうした楽器類を学んだ。練習するときは音が出るので、練習していいでしょうかと年長者に訊いてからやっていたという。
また、バレエに通う子どももいた。昭和5年(1930)生まれの正巳氏兄弟の世代は、すでにこうした習い事をやっていた。

... 花・掛軸
 原家にはトコノマが何箇所もあったので、毎月花を飾っていた。そのため、竹で編んだ大きな籠など、月ごとに花器が用意されていた。花はすべて庭のものを使い、花屋で求めることはなかった。ウラニワには花がたくさん咲いた。育てていたのはナミ氏で、花が終われば種を採って保存し、翌年また咲かせたという。
 一方、トコノマの掛軸の方は当主が替えていた。

... 行楽
 原家では家を空けるということはできなかったため、家族で旅行に行ったり、食事に行ったりすることはなかった。子どもたちは親戚につれられて遊びに行ったり、子ども同士で出かけたりした。
 海水浴は鎌倉の由比ガ浜へ行った。電車が込んでいて、鎌倉の駅に着いたら袖が千切れてなかったということもあった。そのほか、金沢八景のあたりに潮干狩りに行ったり羽田の方にハゼ釣りに行ったりと、いろいろなところに行ったが、鉄道の便の悪いころは出かけるのは大仕事だったという。
 多摩川園には子ども同士で歩いていった。「大山すべり」という長いすべり台があり、座布団のようなものを敷いて山の上からすべった。そのほか、お化け屋敷や猿の小屋があった。
 二子玉川園にも歩いていった。遊園地としてはこちらの方が大きく、落下傘塔などもあった。菊人形は多摩川園が有名だったが、二子玉川園でもやっていたという。遊園地に行くのは子どもにはとても楽しみだった。
 二子玉川園の脇に明大プールがあった。50mの競泳用プールと飛び込み用のプールがあったが、井戸水だったのでものすごく冷たかった。飛び込みはみなここで覚えたという。

... ペット・家畜
 正一氏はシェパード犬協会の役員をするほど犬好きで、犬はいつもいた。オフロバの外に犬小屋があり、シェパードのほか秋田犬などを飼っていた。
 シェパードが2匹いたときは、訓練士が毎日来ていた。3ヶ月間、警察犬の訓練所に預けていたこともあった。フィラリアの飲み薬がなかったころは、毎晩、蚊取線香を犬の檻まで点けに行っていたという。
 ウラニワに鳥小屋があり、鶏を数羽飼っていた。卵を採ったほか、家でさばいて料理することもあった。昔は小杉にもイタチがおり、金網の下を掘って小屋に入り込み、鶏を襲うことがあったという。

... 使用人
 オトコシ(男衆)が2人、オトコベヤに住み込んでいた。庭を掃いたり野菜作りをしたりしたほか、マキ割りをほとんど一日中していた。食事はオカッテの上がり口あたりにお膳を出して済ましていた。その後、オトコシは「日庸とり」(通い)になり、週に3、4日来ていた。このときは1人だったが、やがて男の使用人はいなくなった。
 一方、女性のオテツダイサンの方は、7、8人いた時代から1人のときまで、時々で人数は変わったが常にいた。多い時代は主人つきの者、奥様つきの者など、役割が分かれていた。4人の子どもに1人ずつつくため、4人いた時代もある。年齢の若い女中が来ることもあったが、上女中、下女中というような区別はなかった。
 オテツダイサンは当初、桂庵(口入れ屋)の紹介で山形の方から来ていた。その後、正一氏の姉・やす氏の嫁ぎ先、神奈川県愛川町の半原から来るようになった。給料は1年決めで、来たときから1年である。給金は安かったが、朝は5時ごろから働いていた。結婚するまで7〜8年いることが多く、嫁に行くときは箪笥などの仕度を原家でしていた。
 女中部屋として使われていたのは、オカッテの先にあった8畳弱の部屋である(現在事務所になっているところ)。ここに数人が住み込んでいた。その後、人数が減ってからは、オトコシがいた時代に住み込んでいたオトコベヤを使うようになった。子どもたちはオテツダイサンになついて、部屋に出入りしたりしたという。オテツダイサンも食事はオカッテの上がり口あたりで済ましていた。
 オテツダイサンは指示にしたがって掃除やおつかいをした。針仕事が上手な人、炊事の上手な人など、それぞれよく働いていたという。ただし年齢も若く、仕込まれてから来るわけではなかったので、一通り仕事を覚えるのに1年はかかった。そのため、野菜を洗ったりという下ごしらえはしたが、料理は家の者が先頭でやっていた。

... 出入職
 職方とも言った。出入職は毎日のように入り、入っていない日はほとんどなかったという。代々植木屋は金子氏、鳶は西村氏、大工は鈴木氏(以上いずれも中原区小杉陣屋町)、瓦屋は松本氏(丸子通)。そのほか水道屋や樋の補修をするアカ(銅)職人など、全部で12、3人入っていた。
 出入職は朝7時ごろ来て家の外で食事をする。仕事先で食事を出してもらうことを「サキブチ(先扶持)」と言う。原家では、朝はご飯にオミオツケと漬物、そのあとオヤツ、オヒル、サンジと用意したので、朝昼晩と毎日たくさんの米を炊いていた。
 出入職への支払いは通常15日と晦日だった。昔は休みも1日と15日で、日曜はなかった。職人が盆暮れに挨拶に来ると、原家では家印を染め抜いた半纏の反物を配っていた。
 何かあると出入職同士で連絡しあい、職人たちは黙っていても集まった。葬式のときなどは原家の半纏を着てずらりと並び、下足番などを務めた。選挙のときも事務所のお茶当番をやったりした。

.3 生業
..(1)原家の商い
 明治45年(1912)生まれの竹田梅子氏が選挙の応援をたのみに犬蔵(宮前区)の山田家へ行ったとき、その家の当主が原家の昔の話をしてくれたという。山田家では肥桶を6個ほど車に積んで丸子(中原区)まで行き、舟で渡って品川の方まで汲みに行っていた。午前2時に家を立ち、途中原家の前を通ると、そんな夜中にもかかわらず家族総出で商売をはじめていたという。店を兼ねたかつての自宅は茅葺で、中原街道沿いに建っていた。
 初代文次郎は天明4年(1784)に穀商売、肥物商売をはじめたとされている。その後、原家は6つの商いをしていたという話がある。米問屋、肥料問屋、味噌屋、醤油屋、古着屋(昔の古着屋は質屋と同じであった)、油問屋(灯明油)などである。原家の分家にゴフクヤやショウユヤがあるが、それぞれ分家を出すときに本家の商いを引き継いだという話もあるという。
 原家は大地主であったが金に困った時代もあったらしい。昔、嫁を迎えるときは玄関に米俵をいっぱいに積んだ。それが、うちはこれだけ米があるんですよ大尽ですよ、というしるしだった。ところが何代目かが嫁を迎えたとき、それが空っぽのアキダワラだった。それを知ってその嫁は、「わたしたちの代でこのアキダワラにお米をいっぱい詰めましょう」と言い、その後、財産を築いていったという。そんな話も残されている。

..(2)問屋
... 米問屋
 年貢で入ってきた米を扱っていた。当主は米が上がってくると、売ることに追われていたという。

... 肥料問屋
 原家で肥料をどのように商っていたか、文次郎氏の話は残されていない。しかし、弟佐十郎氏の話がわずかながら伝わっている。佐十郎氏は分家(屋号ニシダナ)に出て、この家業を譲られた。
 佐十郎氏が扱っていたのは、シメガラ(〆粕)、カス(醤油粕)、カリンサン(過燐酸石灰)などである。シメガラの原料はニシンである。北海道から六郷(東京都大田区)に届くと、こちらから舟を出して丸子(中原区)まで運んだ。シメガラはワラ(俵)に入っており、玄関の棚にまで積んであった。農家が買いに来ると、ワラを少し開いて魚が出てくればそのまま売り、カズノコが出てくると別のものを売った。農家は平間(中原区)などあちこちから自転車で乗り付け、家の前でワラを積んでいた。他に、渡しに載せて東京側に売りに行くこともあったという。このシメガラは田んぼに撒いて使った。掛売りだったため人に頼んで帳面を作り、出荷を終えた時期に代金を取りに行った。先方にお金がないと支払ってもらえなかったが、それでも毎年やっていた。佐十郎氏の娘である竹田梅子氏は、こうしたものを見ているため、いまだにカズノコが食べられないという。
 カス(醤油粕)の方は野田(千葉県野田市)から届いた。夜明けごろ積荷が丸子に着くと、手伝っていた分家の者や番頭、オトコシが、大八車で荷を下ろしに行った。
 この店はしかし、大正9年(1920)に佐十郎氏がスペイン風邪で亡くなったため、この年で終わりとなった。

..(3)銀行
 明治33年(1900)、9代目文次郎氏は小林三左衛門氏(文次郎氏の母・ヒサ氏の兄弟)とともに玉川銀行を創業し、初代頭取となった。小杉に本店を置き(注5)、数箇所に支店や出張所を開いた。支店は馬込、洗足、用賀などにあり(注6)、どこも親戚がやっていたという。
 玉川銀行の本店は中原街道沿い、西明寺の参道前で鍵の字に曲がったところにあった。ここはハシバという屋号の家の土地だったが、この家が絶えたので原家が買い取り、9代目文次郎氏の弟佐十郎氏が分家に出た。「ニシダナ」という屋号は、この土地が本家の西にあたることから来ている。銀行は佐十郎氏の屋敷の隣に建てられていた。当時、分家に出るときは本家で倉を立てたが、佐十郎氏は倉はいらないから銀行を建ててくれといい、それで銀行を建てたという話が伝わっている。敷地は広く、建物は瓦屋根でガラス戸があった。石段を2段ほど上がってこの戸を開けると、中には畳の座敷が2つあり、佐十郎氏や文次郎氏が仕事をしていた。2人とも英語ができたので、銀行の業務で使っていたという。職員としては通いで勤めていた男の行員がいたが、まだ女性の行員はいなかった。竹田梅子氏は子どものころ、銀行の窓ごしに「うめこー」と文次郎氏に呼ばれ、「敷島買って来い」と言われてよく煙草を買いに行ったという。
 玉川銀行は昭和7年(1932)に自主解散した。これは昭和2年(1927)の銀行法制定にともなうものだが、従業員の使い込みのために神奈川農工銀行に吸収された、という話も伝わっている。銀行の両側は植木場になっていたので、解散後、その植木をみんな原家の庭に持ってきたという。
 なおもう1つ、原家イッケウチの銀行として石橋銀行(1898〜1923)がある。こちらは分家シンタクの原伝蔵氏とショウユヤの原文三郎氏が設立した。

..(4)土地経営
... 土地
 原家は広大な土地を所有していた。オダイシサマ(川崎大師)へ行くのに人の土地を踏まないで行けた、綱島(横浜市港北区)へ行くのに、あるいは二子玉川(東京都世田谷区)へ行くのに自分の地所伝いに行けた、というような話が残されている。現在の大西学園、イトーヨーカドー、東横病院、法政二高、ブレーメン通り(いずれも中原区武蔵小杉駅周辺)なども元は原家の土地だった。そのほか丸子(中原区)にも土地があり、さらに用賀(世田谷区)の駅の周りに6万坪、それから横浜の荏田(港北区)の山はほとんど原家のものだったという。しかし、原家の当主は土地があっても自分がもらったという感覚は全くなく、それよりも土地を守らなければいけないという重圧の方が大きかったという。その後、農地解放で田畑を19町8反手放し、財産税がかかったため丸子の土地はほとんど売りに出してしまった。こうした戦後の混乱を乗り切ったとき、時の当主は「ああ、(土地をすべて失うのが)ぼくの代じゃなくて良かった」と言ったという。

... 地代
 地代の支払いは毎月の人、1年ごとの人、本来前払いだが後払いの人などいろいろだった。滞納する人や持って来ない人もいた。そのため帳面の管理が大変だった。この帳面は厚さ20センチほどもあり、普通の人が見たのではわからないほどいろいろなことが細かく書き込まれていた。
 地代を持ってくる人は、ごめんくださいこんにちはしばらくでございます、から始まり、お元気ですかみなさんどうですか、と続く。中には金額を把握しておらず、おいくらでございましょうか、という人もいる。そうすると部屋の方まで走っていって旧式の算盤で計算し、いくらでございますと答えると、また丁度ではなくお釣りのいる額を渡される。そうするとまた戻っていって、釣りを用意し、領収書を書いて渡す。このような具合で1人に時間がかかり、それが何人もばらばらに来るので手間がかかった。お金のやりとりは土間のイスのところでやり、受け取った地代は通常のお金とは別に管理していた。
 地代を持ってくる人は、みな中元お歳暮に砂糖を持ってきた。この砂糖はブンコグラの大きな甕に入れて使っていた。

... 差配
 小作人が作った米を集め、それを運んできてオクラに入れる役を差配(サハイ)と言う。木月、井田(いずれも中原区)など地区ごとにおり、地元のまとめ役のような立場だったため選挙のときは役員を務めたりした。その後、地代を米でなく現金で集めるようになり、直接原家に納めに来る人が多くなったが、引き続き差配が集めてまわる地域もあった。
 松本恒二氏の家は原家に頼まれ、親子2代にわたって差配を務めた。恒二氏の父菊三郎氏の時代は月ごとに地代を集めており、毎月晦日になると丸子と用賀を自転車でまわった。恒二氏の代になってからは、丸子は売りに出したため用賀の方だけ扱い、月ごとでは大変なので毎年盆暮れに集めていた。
 このほか横浜の荏田に原家所有の山があり、これを管理をする山番がいた。

..(5)議員
... 議員の暮らし
 原家は8代目文次郎氏から数代続けて神奈川県議会議員を務め、正一氏と正巳氏は議長も務めた。
 原家にはそのため、朝早くから陳情に来る人たちが訪れた。玄関に鍵もかかっていなかったので、さまざまな人がいきなり来た。選挙のときは朝6時ぐらいから新聞記者が家に詰め、お茶出しなどが大変だったという。
 議長の家には県庁から車が迎えに来た。しかし正一氏は、普段は雨の日でも黒い傘をさしてバスと電車で通っていた。バスを待っているあいだ、家のまわりの草をむしったりしていたという。議会が休みのとき、正一氏はたまにゴルフに出かけた。しかし、みんなが働いているのにゴルフの格好で出るのが申し訳ないといって、家から車で出るのに隠れるように出ていたという。また戦後、見ず知らずの引揚者をつれて帰り、住むところが見つかるまで面倒を見ていたこともあった。

... 会合
 センタイカイギ(選挙対策会議)や当選祝いをするときは、ヒロマ、ナカノマ、オクザシキの襖を取り払い、大広間にした。ここにテーブルを2列か3列並べ、オクザシキの一番上座にもう1つテーブルを置いて、挨拶などをする人の席とした。
 会合に使う座布団はオクラから出してきた。100組あったという。これを使う前に1回干し、会合が済むとまた干してから仕舞った。

... 選挙
 古くは自宅を選挙事務所にしてやっていた。その後、外に選挙事務所を借りるようになったが、それでも自宅は人の出入りがすごかった。選挙事務所にはかつては堂々と酒が置いてあり、昼間から飲んだりしていた。また、選挙中あちこちの事務所を回って酒を飲みまわる人もいたという。
 正一氏の時代は、地域ごとの役員に挨拶に行けば、現在のような運動をしなくても選挙ができた。票を読むことも容易だったので、本人はほとんど、堂々と落ち着いて座っていた。正一氏は常に周囲に配慮する人で、選挙でも一番にならなくてよい中ぐらいでいいんだと言っていたという。ポスターも簡単だった。当時は公営掲示板がなく壁に貼リ出したりするのが主だったが、そのころでも他の人は写真やキャッチフレーズを載せていたのに、正一氏のポスターは半紙に「原正一」と書いてあるだけだった。選挙カーもあった。ただし、今のように訓練されたウグイス嬢を雇うようなことはなく、家族や地元の支援者が交代で、しかもぶっつけ本番でやっていた。美恵子氏も車に乗ってウグイス嬢をやったという。そのほか運動方法としては、行列を作って地元を歩いたり、自転車に旗を立ててメガホンで呼びかけたりした。正人氏は子どもながら、自転車に乗ってバケツをたたきながら、「原正一お願いしまーす」と叫んで走りまわった。子どもにとっては祭りのようだったという。当選後だるまに目を書き入れることも正一氏の時代からやっていた。
 正巳氏の代になると、時代の変化にともなって選挙は厳しいものとなった。地元有志の熱心な応援に支えられるとともに、家族も総出で戦った。朝はまず、街頭演説の陣取りから始まる。早朝、駅で幟旗を持って演説することを「アサダチ」といっていた。電話を何千件もかけることもあった。選挙カーにも乗り込み、運転もやり、支援者とともにウグイス嬢もやった。そして選挙カーが帰ってくれば、後援会婦人会の「オニギリ部隊」とともに、おにぎりや味噌汁など差し入れを持っていった。朝から晩まで、家族は大変だったという。
 当選祝いはヒロマ、ナカノマ、オクザシキの襖を取り払って行った。出入りの職人たちが下足番をつとめ、番号札を配っていた。この席に使われたのはビールである。ブンコグラ1階の床下には、そのためのビールが保管されていた。当選祝いはにぎやかで、祭りのようだった。

..(6)料亭
 正一氏は戦後すぐに復員することはできなかった。その間、農地解放、銀行資産の凍結、財産税と経済的に大変だったこと、一方では家を空けておくと進駐軍に接収される恐れもあったことから、妻の春子氏は分家ゴフクヤの当主岩吉氏に相談し、料亭を始めることにした。店の経営というようなことから縁遠い育ち方をした春子氏は、大変な苦労をしたという。準備に当たっていたのは正一氏の弟・信光氏だが、昭和23年(1948)に亡くなったため、復員した正一氏が引き継ぎ、岩吉氏が番頭兼オカンバンとなって昭和24年(1949)から数年間料亭を開いた。店の名前は「陣屋荘」である。岩吉氏は毎日夕方になると陣屋荘に出勤し、夜遅くに帰ってきていたという。店には白い服を着た通いのイタマエが4、5人、そのほか女中が5、6人いた。女中は今でいうパートで、近所の人が雇われていた。
 料亭として使われていたのは主に1階のオモテ側である。ただし、客の多いときや結婚披露宴などのときは2階も使った。泊まり客もいた。客は川崎にある大工場の経営者など会社関係が多く、重役たちが相談に使ったりすることもあった。また、三菱とつながりがあったため、三菱の客も多かった。店はかなり繁盛し、丸子(中原区)の花火のときは満員になった。芸者が来て和傘をまわす芸をやったり、にぎやかだったという。芸者は丸子の三業地のほか、綱島(横浜市港北区)からも来ていた。
 陣屋荘では結婚式も行われた。分家ゴフクヤの現当主、隼三氏・文代氏ご夫妻はここで式を挙げられた。着付けは裏のハナレで行い、オクザシキで式を挙げた。神主は日枝神社(中原区上丸子山王町)の山本宮司が務めた。その後2階のオモテの座敷で披露宴を行ったという。

.4 社会生活
..(1)近隣社会
... 来訪者
 原家は普段から人の出入りが多く、人の来ない日はなかった。近所の人やいろいろな問題を抱えた人が玄関に絶えず出入りしており、一家で固まっている感じではなく、子どもたちもいつも大勢の人に守られているふうだったという。
中には変わった人も来た。正人氏が子どものころ来ていた「ビールのおじさん」は、月に何回か酔っ払ってやってきた。そして原家でまたビールを飲み、話し込んで帰るのである。すぐ追い返すわけにもいかないので、春子氏が話を聞いてやり、少し小遣いを持たせて帰していたという。
 昭和の初め、多摩川で大演習があったときは「将校さん」たちが泊まりにきた。オクラの前に馬をつなぎ、1階のオモテの3間と、2階の部屋を使ってもらった。雨が降ったあとはオカッテに炭を熾し、濡れた軍服を乾かしていた。
 昭和10年(1935)ごろには、日枝神社(中原区上丸子山王町)の豆まきに来ていた東富士というオスモウサンの一行を泊めたこともあった。この力士が風呂に入ったらお湯がなくなってしまったという。この神社には毎年のようにオスモウサンが何人か来ていた。
 大正7年(1918)生まれの羽鳥迪子氏(正一氏妹)が、8代目文次郎氏夫人ヒサ氏(昭和7年没 享年74)から聞いたところでは、茅葺時代の昔の主屋にはよく泥棒も入ったという。商売をやっていたため狙われやすかったらしく、1週間に1回入ったという。壁の中にお金が隠されていると思われ、壁を壊されたこともあった。また、買い物に来た客が泥棒にしばられたり、あるいは逆に、警察が間違えて家の者や客を一緒にしばったという話も残っている。
 泥棒ではないが、米騒動の時代には「壮士」が来てオクラで暴れたこともあった。壮士は袴を履いた立派な男で、鉄砲を仕込んだ棒を持っていた。倉にしまっておかないで米を出せというのが彼らの主張で、9代目文次郎氏はよく弟の佐十郎氏の家に逃げたという。
 柿泥棒は年中入っていた。正一氏はほっとけと言っていたが、毎日のようにあったという。ある晩、カチンカチンと鋏を使う音が聞こえてきた。犬に吠えられて逃げてしまったが、この泥棒は盗んだ柿をこぼした上、靴を置いていってしまった。そうしたところ、つぎの日の夕方、昨日の泥棒ですといって男が謝りに来たという。盗みに来るのは大人で、子どもが来ることはなかった。
 そのほか、敷地が広かったので不審者が紛れ込むことも少なくなかった。遅くなって門をくぐったら、ツツジの陰から男が立ち上がったり、オフロバへ続く廊下を渡っていると、鍵がかかっているはずの東側の畑から背広を着た男が抜けてきたこともあったという。

... 周囲の様子
 道を隔てた隣は、長屋門のある安藤家だった。正方形の広い敷地で、裏は竹薮、中には池があり鯉がたくさんいた。家のそばには「ジャリッポの船頭さん」(砂利掘りの親方)が住んでいた。ここには子分や船頭がたくさんいた。
 小杉周辺は戦後、家をなくした人たちが東京や横浜から移ってきて家が増えた。しかし、大正のはじめごろはとにかく家と人が少なかった。小杉神社のまわりは全部畑で、新城(中原区)のむこうまでタンボが広がっていた。
 周囲にはあちこちに小川(農業用水)が流れていた。きれいな水が流れていて、食べはしなかったが子どもたちはドジョウやフナを捕って遊んだ。カイボリをするとたくさん捕れたという。原家の裏門の前にも川が流れていた。川幅は3尺ほどで、タライ舟を浮かべるくらいあった。農家がこの川でクワや野菜を洗ったり、あるいは食器の洗いものや洗濯をしたり、とてもにぎやかだったという。その後、これらの流れはすべて蓋でふさがれた。しかし、雨が多いとあふれ、子どもたちはグチャグチャやりながら学校へ行ったという。
 等々力には、現在釣堀となっている東横池のほかにも池がたくさんあった。子どもたちはまわりで駆けずり回って遊んだほか、泳いだりもした。底がすごく冷たく、亡くなった子どももいた。このほか、小杉の駅のむこう側にも池があり、電車から見えた。
 東横池のそばから小杉神社の脇を抜け、丸子へ抜ける道がある。これはもともとは多摩川の堤防で、桜の木がいっぱいあった。この堤防の外を堤外地と言った。堤外地には豚を飼う家が多かった。宮内(中原区)に行く途中あたりは特に多く、家には唐辛子がたくさん吊るしてあった。河川敷には畑も多かった。戦時下は食べ物がなかったので、サツマイモと麦が中心だった。
 同じ中原でも地域によって言葉が違った。街道沿いの小杉と、田畑の広がる小田中あたりとでは全く異なった。西明寺の人もお布施を持ってくる人の言葉を聞いて、同じ中原でもこんなに言葉が違うのかと、慣れるまでびっくりしたという。

... 多摩川
 正巳氏兄弟の世代までは、子どもたちは多摩川で泳ぎをおぼえた。
 かつて多摩川は水が透き通っていて、ものすごくきれいだった。白い石を投げ、飛び込んで拾い上げる、そんな遊びができるくらいきれいだったという。岸には岩の割れ目からポコンポコンと水の湧いているところが何箇所かあり、川遊びの子どもたちは水筒を持たずに出かけていき、みんなこの水を飲んだ。
 子どもたちは、自分の川のように多摩川で泳いだ。東京側まで行ったり来たりし、どこが深くてどこが浅いか、どこからどういうふうに流れているか、全部知っていた。流れは多摩川園の方に来るに従って深くなり、砂利舟が掘ったらしきところでは、いきなり子どもの背丈の倍ぐらいになった。
 川崎の子どもは赤や白の褌で、東京の子どもは海水パンツだった。川崎と東京では泳ぎが全く違い、川崎の子どもの方が溺れなかった。川崎の子どもは大水のときでも「ダム」(丸子の堰)に飛び込み、流れてくる丸太などにつかまって遊んだ。
 一方、女児の水着は、しぼるとじゅっと水の出るような毛糸の水着だった。ブンコグラの長持には原家の女性たちが着た、縞々の毛糸の水着がたくさん入っていたという。
 昭和20年代の初めごろまでは、小学校の体操の時間にも多摩川で泳いだ。泳いだのは宮内の方の、底が見えるような浅いところである。近くには砂場があり、ものすごくきれいな砂があった。子どもたちはここでダンゴを作り、坂道を作って転がしたりした。
 かつては魚も多かった。鮎を手ぬぐいで追いかけたり、泳いでいたら雷魚が脇を通ったりした。大雨で増水したとき、網ですくったら大きな魚がゴロンゴロン獲れたこともあった。ダムのところでは、シモから上がってきたマルタ(マルタウグイ)が跳ぶので「ヒッカケ」をやった。またダムから下は潮が来るので、ハゼ釣りをすることもできた。昭和20年代ごろガス橋は穴ぼこだらけで、その穴をまたいで糸をたらし、釣りをしたこともあったという。

... 災害
 古くは多摩川が氾濫して中原街道に水が溢れ、バシャバシャ行ったり来たりしたことがあったという。しかし、大正2年(1913)に新しい土手が出来てからは、台風や大雨で街道が水浸しになっても、川の氾濫で堤防が決壊したことはなかった。ただし、堤外地と呼ばれた西丸子小学校のあたりは、ポンプ場が完備していなかった時代は台風が来ると小舟を出すくらい水が上がったという。
 もっともひどかったのは、狛江市で家が流された昭和49年(1974)の台風16号のときである。増水した水は堤防のサイクリングロード近くまで上がり、グランドの中に止まっていた車は全部だめになった。このときは流れてくるものがいつもと異なり、家具などが流されてきたという。
 関東大震災のときは、西明寺では瓦がぼんぼん落ちてきたが、原家ではガラス1枚も割れなかった。

... 戦中戦後
 正一氏は南方(現ミャンマー)に出征した。春子氏は正一氏が急死したときの悲しみよりも、この出征していたときの悲しみの方が遥かに大きかったという。両親と小さい子供を残されてどうしたらいいかわからなかったが、春子氏はそれでも自分の大家族を守っただけでなく、親戚中の子供を預かって原家から学校に通わせた。春子氏は実践女子大出で教員の資格も持っていたため、みんなの勉強も教えていた。
 主屋の東側、オイナリサンの近くに鉄筋の防空壕があった。鉄の扉が2つあり、中に洋服ダンスも入れてあったほど大きなものだった。脇に不発弾が落ちたこともあったが、9代目文次郎氏はしかし、自分が家を守る、そんなもの入らないといってテコでも入らなかったという。小杉周辺は空襲でほとんど焼けた。
原家の裏には簡易兵舎がたくさん建てられ、階級の低い兵隊が詰めていた。これを「ヘイタイヤシキ」(兵隊屋敷)と呼んでいた。東側の田んぼの中には高射砲陣地があり、夜になると探照灯がつくので昼間のように明るかった。高射砲陣地は宮内にもあったが、B29などが飛んできても弾が届かず、全然当たらなかった。たまに煙を吹いても人々は、東京湾に救援用の向こうの潜水艦が来ていてそこに不時着するんだろう、などといっていた。
「河原にアメリカの飛行機が落ちて。私たちが首出しているところに、バァーっと走っていきましたよ、飛行機が。こっちの方にも軍隊が駐屯していたんですね、ニッポンの。だけどその人たちはね、私たちがあんまり怖くて河原へ逃げるでしょ、そうすると兵隊さんたちは先回りして河原へ出てましたもの。役に立たないんですよね。アメリカ人がやってきたって、みんな逃げちゃってますもの、河原へ。」(竹田梅子氏)
 正巳氏の末弟弘三氏は、母親の里である石田(神奈川県伊勢原市)に疎開に行った。そして、そこからさらに大山(伊勢原市)の麓の寺のようなところに行かされたという。
 戦後は原家も苦労した。財産や土地を凍結され、国から支給される手当だけで食べていけず、「キュウリ1本買うお金もないわ」という時期もあったという。そういう状態だったため、裏にジャガイモを作ったり、枝豆を作ったりもしていた。
 正巳氏は中学生のころは体が小さかったが、家族を助けるために買い出しに行った。出かけていったのは石田にある春子氏の実家で、リュックに野菜をいっぱい詰め、列車を乗り継いで日に2往復したという。
そのころは闇市も多かった。自由が丘の線路際のマーケットも元は闇市で、駐留軍のチューインガムやチョコレート、缶詰、それからジャンパーなどが売られていた。そのほか、個人でやっている交換所もあちこちにあった。

..(2)社会組織
... 近隣組織
 地域の組織として無尽講があった。また、地域のまわり持ちの仕事としては、オセガキの役割分担が西明寺からまわってきたり、火の用心の仕事がまわってきたりした。
 火の用心の当番がまわってくると、夜警をする小屋にオトコシが一晩中詰めて、ムラの中を錫杖をジャランジャラン鳴らして火の用心をしてまわった。家の中は寝る前に、オトコシがチャキチャキと拍子木を打ってまわった。そのため、オトコベヤにはいつも拍子木が置いてあった。

... 学校
 幼稚園は西明寺の参道の左にあった。先生も西明寺の人が務めていた。
 小学校は、かつては小杉も丸子も中原小学校だった。そのため、友だちと遊びに行く範囲が広かった。西明寺は学校への抜け道で、子どもたちはみな裏に流れていた川を渡って学校に行った。
 9代目文次郎氏と佐十郎氏は、神田の中学校へ行った。まだ東横線がなかったので、目黒に家を1軒借りて通わせていたという。女中を置いていたほか、オトコシが大八車で米や味噌を運んでいた。
 正一氏は中学は立教に通い、大学は早稲田に行った。周辺の旧家では昔、長男は学校にやると家から出てしまうため行かせない風潮があったが、正一氏はどうしても行きたくて早稲田を受けたという。一方、正巳氏は中学から慶応だった。そのため早慶戦の日は無口で、どちらかが負けているともうテレビは見なかったという。多摩川で野球をするときは、チームのメンバーは原家のオフロバで着替え、終わると風呂に入って帰った。ハワイアンが好きでバンドも組んでいた正巳氏は、その合間に演奏を楽しんだりもしていたという。

... 病院
 かかりつけは小杉陣屋町の小野医院だった。この病院の院長はどんな病気でもペニシリンを打つので、みんなから「ペニシリン博士」と呼ばれていた。このほか、南方でマラリアを患った正一氏が、西明寺の左側にあった壱岐病院で治療を受けていた。また、日本医科大学の院長にも世話になっていた。

... 女性の集まり
 春子氏は川崎市仏教婦人会の会長として活躍していた。
町内会には婦人部があり、美恵子氏は婦人部長として活躍した。一日旅行をしたり、書道の勉強をしたりしていたこともあったという。

.5 交通交易
..(1)交通
... 中原街道
 原家の前には中原街道が通っている。かつてこの街道は幅が4mもなく、切り通しになっている影向寺の坂は、人の歩くのがやっとという怖いほどの狭さだったという。
 街道には朝2時3時になると、ガラガラガラガラとクルマの通る音が聞こえた。山田(横浜市港北区)などオクの方から来る農家で、リヤカーの倍ほどもある大きなコエグルマにコエオケを載せ、牛に曳かせていた。東京へ渡って肥を積み午後に戻って来るのだが、舗装してないころは砂利道でところどころ穴が開いていたため、車輪が落ちるたび肥がこぼれた。また、牛が糞を落としていくので、子どもたちはそれを拾って投げっこしたり、家によってはこれを集めて畑の肥料にしたという。
 現在、街道沿いには家やビルが立ち並び様子が変わったが、原家やとなりの安藤家には昔ながらの門が残り、このあたりを通るとほっとするという人が多いという。

... 渡し場
 丸子橋ができたのは昭和7年(1932)である。それまではどこへ行くにも必ず渡し舟だった。渡し場は中原街道を行ったつきあたりにあり、牛も人もいっしょに乗った。大八車が2台も3台も乗れるほど大きな舟だった。多摩川には砂利を運ぶ舟も通っていた。白帆が行き交う様子はとても綺麗だったという。
 9代目文次郎氏は、川崎へ行くときは馬に乗っていった。東京へ行くには六郷橋まで行かなければならなかったが、大正13年(1924)に目蒲線ができたので、2銭の渡し賃で沼部(東京都大田区)まで舟で渡り、目蒲線を利用するようになった。

... 鉄道
 東横線と南武線が開通したのは昭和2年(1927)である。当時、南武線の武蔵小杉駅は「グランド前」といった。
 そのころは原家のある小杉陣屋町から元住吉の駅が見えた。そこに列車が来たのを見てから家を出ても間に合ったという。駅に人はおらず、切符は中で買った。自動ドアではなかったので、列車が走り出してから飛び乗る人もいた。

... 自転車
 自転車は高価だった。大正のはじめごろはまだ持っている家は数えるほどで、小杉陣屋町周辺では、原家のほかは分家のニシダナとショウユヤぐらいだった。当時、自転車は課税の対象で、役所で登録して鑑札をもらい、それを自転車に付けなければならなかった(注7)。
 ニシダナの佐十郎氏は玉川銀行の支店へ行くとき、面白がってよく娘を自転車に乗せていった。多摩川の渡し場に来ると、自転車ごと舟に乗せて渡った。自転車はとても大事にされており、家に帰るとすぐ天井から吊るしていたという。

... 自動車
 原家に自動車が入ったのは、昭和31年(1956)ごろである。

..(2)交易
... 商店
 小杉陣屋町周辺には、中原街道沿いを中心にいくつかの店が並んでいた。金物屋、鍛冶屋、車大工のボウヤ、床屋、玉の湯という風呂屋など。この風呂屋はコークスで焚いており、煤が入ってくると足袋の裏が真っ黒になったという。分家のゴフクヤは和服だけでなく、ブラウス、シャツ、肌着なども扱っていた。食品類では魚屋、丸子に最初にできた肉屋、お菓子を売るお煎餅屋、ラッパの音を鳴らしてくる豆腐屋などがあった。ナットヤサンの納豆はツトに入っており、青海苔など中にみんな入っていた。油などはフジヤという店で商っていた。台秤で計り売りしており、話し込むとガチャンと目盛りが上がってしまったという。
 大正のはじめころは店も少なく、お小遣いをもらっても子どもが使うような場所もなかった。その後駄菓子屋が近くにでき、ガッチャンヤと呼ばれて溜まり場となった。子どもたちは10円もらって遊びに行き、紅梅キャラメルなどを食べた。
 なお、原家周辺には歳の市が立つ場所はなかったという。

... 買い物
 原家の女性たちはナミ氏の時代でも、ときには銀座の松屋や日本橋の三越などを利用するようなハイカラなところがあった。ナミ氏は買い物に出かけると、オテツダイサンなどあげる人がたくさんいたため、箱で買い物をすることがあったという。

... 行商
 佃煮屋が木綿の風呂敷で大きな荷物を背負ってきた。この荷物は段になっており、コウナゴの佃煮などいろいろなものが入っていた。商店がなかったのでそれを待って買い、家によっては来るとお茶を飲ませたり、話をしたりしていた。
 アサリウリはテンビンボウで桶をかつぎ、大森から定期的に来ていた。「アサリー、アサリー」と呼び歩くので、「アサリヤさーん」と声をかけると、「ヘーイ」と答えた。このアサリはおいしかった。水産物ではほかにワタリガニも売りに来ていた。
 このほか風鈴売りや富山の薬売りが来ていた。また、小杉御殿町には大八車にいろいろなものを積んで売りに来る人もいた。
 子ども相手のものとしては、昭和40年代まで原家の裏の通りに紙芝居が来ていた。お金を持っていくとオセンベに水あめをはさみ、味噌を付けてくれた。クイズをやって、当たると飴などをくれた。また、同じころまで「ポンポンお菓子」が来ていた。これは大砲のような機械で破裂させるもので、お米を持っていってやってもらった。このほか、子どもの写真を勝手に撮って家を訪ね、親に売りつける男が来たこともあった。

... 芸人・芸能
 正月に烏帽子をかぶった二人組のマンザイシが来た。どこから来ているのかわからなかったが、鼓を鳴らして家の前で何かをやっていた。
 街道をまわってくるものとしては他に、チンドンヤサンやタクハツがあった。タクハツに来るのはお坊さんで、お金をあげるとお経を上げて帰った。
 小杉御殿町に中原劇場という劇場があった。畳敷きで、古くは芸人が来て芝居をやったりしていたが、その後映画専門になった。『ハワイ真珠湾攻撃』や嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』など、雨降りのひどい画面だったが、他に娯楽がないので混み合っていた。この劇場の入口には川野時計店という時計屋があって、腕時計などを扱っていた。このほか新丸子の東口にはモンブランという洋画のかかる劇場があった。近所にサーカスが来たこともあったという。

.6 年中行事
... 正月準備
 昔はムラで日を決め、竹でススハライをしていた。また、暮れには障子を張り替えた。
 正月飾りは鳶の親方(大陣京)が仕切ってすべてやっていた。門松や輪飾りなどを作ってもらい、ヤシキガミ、キモンサマ(鬼門様)、コウジンサマに輪飾りとお供えをあげた。
 餅搗きは出入職がやった。その日は早朝、大勢の職人たちがみな「石橋」の屋号の入った紺色の半纏を身に着け、「おはようございまーす」といって集まってくる。そして、オカッテの中に臼を入れ、朝の5時ごろから餅を搗きはじめた。大きなカマドにはアカ(銅)の釜が左右にあり、その上にセイロを3、4段も乗せた。オカッテにはその湯気がもうもうと立っていた。
 搗いた餅は伸し台に移し、「だーっと」ならべた。これを家の女性やオテツダイサンが、固くならないうちに大きな木枠の中に入れて切った。そのほか丸い餅やお供えとすごい量を作り、きな粉や大根おろしの餅、それからアンコロ餅などにした。この仕事は子どもたちも手伝った。
 できあがった餅はブンコグラに入れたほか、お歳暮代わりに分家や東京の親戚に配った。おいしいと評判だったこともあり、一番良い米で搗いていた。
 お餅はイマの神棚、オカッテ隣の六畳のコウジンサマ、オクザシキのトコノマに供えた。ホトケサマにはお雑煮をあげた。
 おせち料理は29日ごろから仕込み、奥の寒い部屋に置いておいたりした。

... 大晦日
 大晦日には当主が風呂に入ってからオアカリをあげた。
 除夜の鐘は西明寺につきに行った。甘酒が出た。

... 正月
 かつては三が日のあいだ分家や親戚が集まったほか、その他大勢の人が新年の挨拶に来た。近年は簡素化したが、1日に正巳氏の兄弟が集まり新年会をやっていた。
 正月はホトケサマにお雑煮をあげた。神社に餅を供えにいくようなことはなかった。
 三が日にオシシがまわってきた。地元の有志が7、8人でやっていたものである。ヒョットコやオカメはなかったが、御囃子の笛や太鼓とともに、ご祝儀が出そうな家を一軒一軒まわってきた。原家ではゲンカン(土間)から入って、1階から2階までひと部屋ずつまわってくれた。アクマッパライなので、口でカチカチやってもらうと1年息災に過ごせるといわれていたが、すぐそばで口を開け閉めするので子どもたちは怖がった。
 オシシのほかに、鳶の人たちもまわってきた。有力者の家をまわり、梯子乗りをしてご祝儀をもらうもので、原家では毎年、ゲンカンの前で梯子乗りをしていた。
 初詣に川崎大師に行くこともあった。

... 小正月
 かつては「焼くぞー、焼くぞー」と言って正月の飾りを集めてまわる人がいたという。マユダンゴは作ることはなかった。

... 節分
 節分には豆撒きをして歳の数だけ豆を食べたが、門口にイワシの頭やヒイラギを付けることは行わなかった。
 この地域で節分が盛んだったのは西明寺である。今は檀家だけで行っているが、かつては本堂の前に舞台を作り盛大にやっていた。年男は地元から募集した。年男になると1人3万円納め、舞台に上がり豆を播いた。有名人は招かなかったが、市会議員や県会議員、横浜銀行や東調布銀行などからも人が来て豆を撒いた。豆といっしょにうちわも撒かれた。取り合いになるので、せっかく手に入れてもうちわの形になっていないことも多かった。出店は出なかったが、子どもたちは落ちた豆を拾って食べたりし、とてもにぎやかだった。
 この節分の講元を務めていたのは、中原鳶組合の会長も務めた故原平八氏である。そうした関係もあり、木遣行列などもやっていた。

... 初午
 初午の日、オイナリサンのある家は祠の前に小屋を建て、火を焚いた。子ども達がそこで待っていると、蒸かしたオコワやオダンゴ、オイナリサンなどのお供えを家の人が持ってきてご馳走してくれた。
 この日子どもたちは、太鼓をたたきながらオイナリサンのある家をまわった。家の前で太鼓をチンチョヤチンチョヤすると、家の人がお金やお菓子をくれる。たくさんもらうと「ダイジンだダイジンだ クラのヒャクもおっ建てろ」と太鼓を叩いて囃し、少ないと太鼓も叩かず他の家へ向かった。
 原家のオイナリサンにも近所の子どもたちが太鼓を叩きながらお参りにきた。子どもたちが来ると、原家では店で売っているお面やお菓子を配っていた。隣は隣で別の子どもたちがまわってきているので、太鼓の音がとてもにぎやかだったという。
 この日、当主は風呂に入ってから神棚にオアカリを上げた。夜はご馳走を作った。
なお、初午の行事は現在も引き続き行われており、お酒のほか、油揚げ2枚、みかん5個と目刺しを供えている。

... 三月節句
 3月の節句にはナカノマにオヒナサマを飾った。ヒロマとオヘヤを背にして鍵の字型に、娘と母親と祖母と、3代のオヒナサマを飾っていた。飾る時期も仕舞う時期も特にきまりはなかったが、通常は1週間ぐらい、初節句のときは少し早めに飾った。原家の庭を流れる川のふちに桜の木があり、毎年節句にはつぼみのものを籠に投げ入れて飾っていたという。
 オヒナサマを飾っているナカノマの前は式台になっており、娘の友だちが見に来るとここから上げた。また、親戚同士でも呼んだり呼ばれたりした。この日はナカノマとオクザシキをつなげ、お料理などを食べてお祝いをした。このときの食事は五目寿司や干瓢の巻き寿司、卵巻きなどで、そのほか神地(中原区上小田中)のさかど屋で桜餅など和菓子を買った。甘酒は分家のショウユヤから糀をもらって作っていた。
 オヒナサマはそれぞれが嫁入りのときに持っていったり、終戦後は進駐軍の求めで出したりした。それ以外の古いものは天神様(小杉神社境内社、元は多摩川の土手のそばにあった)へ納めた。この天神様にはオヒナサマを納めるようになっていた。

... お彼岸
 春と秋のお彼岸には、分家や親戚が先祖の墓にお参りにきた。このときホトケサマに供えるため、それぞれの家からお重箱にご馳走を入れて持ってくる。原家ではそのお返しがなるべくかち合わないよう、いろいろなご馳走を作って用意しておいた。お彼岸は「入りボタモチに明けダンゴ、中の中日ゴモクズシ」というが、それらの他にもキツネズシ、のりまき、おそばなどを準備した。

... 花祭り
 4月8日には、西明寺でお釈迦様の甘茶をやっていた。

... 五月節句
 5月5日は菖蒲湯に入り、柏餅を食べた。お人形はオヒナサマと同じく、ナカノマに飾った。

... ヒャクマンベン
 6月から7月ごろ、大人と一緒に子どもたちがジュズを持って一軒ずつまわり、庭先でまわした。子どもは50人ほども集まった。ナムアミダブツを唱えながらまわし、大きな玉が来ると拝むことになっていた。このときそれぞれの家ではお菓子などを出すのだが、農家へ行くと出してくれるソラマメがおいしかったという。
 原家ではこの行事は玄関の前で行っていた。

... 七夕
 センメンジョ横にあった掘り抜き井戸(湧き水)の脇に七夕を飾った。

... お盆
 お盆はかつて8月だったが、現在は7月である。
 13日には西明寺のお墓に行った。立派な竹をもらってきてはすかいに切り、それぞれの墓の前に立てて花を生ける。この花立ては1年使い、翌年のお盆に新しくした。
 盆棚の呼び名は特になかった。まず、ホトケサマ(仏壇)をきれいに掃除し、真鍮の仏具なども磨く。そしてその前に2段の棚を作る。棚は大工が作るが、あとの準備は家の女性がする。棚の上には綺麗な敷物を敷く。この敷物はナミ氏の手作りである。自分の振袖を袷に縫ったもので、水色の地に牡丹や菊の刺繍の入った綺麗なものだったという。
 棚の上段には牛と馬を素焼きの皿にのせて置いた。この牛馬はキュウリ、ナスに割り箸の脚を挿して作ったものである。そのほか桃や西瓜を供えた。下段には、ナスを切って作った牛馬の飼葉と、オボンサマへのお膳を供えた。お膳は脚付のもので、海のものや山のもの、ソーメンなど朝晩5種類のものを供える。これを3膳用意し、うち1膳はムエンサマの分として下に置いた。
 棚の前には経机を出した。ここに、仏壇から出した朱塗の香台、線香立て、鉦、その他の仏具を置き、位牌を並べた。
 棚の両脇の脚には、よく葉のついた男竹を1本ずつしばりつける。そして横に縄を張り、家で採れたまだ青い柿、枝ごとの栗、赤いホオズキ、十六ササゲなどを縄にはさんで吊るす。稲を吊るすことはなかったという。
 さらに、これらの棚の両脇にギフチョウチンを提げる。初盆には分家などからオチョウチンがたくさん届いた。提げるものや置くものなどいろいろ来たが、ゲンカン先には何も書いてない白いものを提げた。
 オムカエボン(お迎え盆)は13日である。夕飯前、西明寺までオボンサマをお迎えに行き、さらに家の前の川のほとりでオガラを焚いてお迎えした。昔はどの家の前にも小川が流れていたので、そこで火を焚いていた。
 14日はオルスミマイ(お留守見舞い)である。オボンサマがみな家に来られるので、朝の2時か3時ごろ、西明寺のお墓にオルスミマイに行った。誰が行くという決まりはなく、オテツダイサンもついて2、3人で行った。灯りをつけて持って行くので、寂しくはなかったという。お墓に着くと灯篭に灯を入れた。この灯篭はお盆の前にかついでいって立てるもので、お盆が過ぎるとまたかついで片付けた。お盆のあいだは毎日、朝、灯篭に火を入れ、夕方また火をつけに行った。
 お盆のあいだ、朝はミソハギでお参りする。ミソハギは堀のそばで採ってきたもので、2、3本束にし、水引で縛って半紙を巻く。これを牛馬の飼葉の横に置く。飼葉はナスを賽の目に切ったもので、ハスかサトイモの葉に載せる。お参りするときはミソハギで3回、ナスに水をふりかけるのである。お盆のあいだは当主がオアカリをあげていた。なお、お盆のときはみんなでご飯を食べた。
 お盆の期間、分家や親戚の人々がソーメンや桃などを持ってお参りに来た。そのお返しに、アンコロ餅やオハギを作り、オジュウに入れて持たせていた。お参りにきてくれたところには、原家からもお参りに行った。行くのは主に夜で、何か日持ちするものを持っていった。
 15日はオクリボン(送り盆)である。迎え火はなるべく早く、送り火はなるべく遅くといわれている。線香を焚き、送り火を燃やし、ナスとキュウリの牛馬を家の前の川へ流した。牛と馬は、来るときとは逆に寺の方を向かせた。

... オセガキ
 8月22日は西明寺でオセガキがあり、参道に出店がたくさん並んだ。さまざまな店があったが、このうちハッカパイプ屋は多摩川園の入口付近の店から来ていたという。また、紙に何かを書き、火にあぶると答えが出てくる炙り出し占いの店があった。

... オツキミ
 旧暦8月15日にオツキミを行った。高杯のような大きい器に、直径5センチほどのオダンゴ、キヌカツギ(皮つきのサトイモを丸のまま蒸かしたもの)、柿、栗などを一緒に入れ、オクザシキ前の廊下に机を出して供えた。机の横には、多摩川の河原から取ってきたススキを花瓶に挿して飾った。ススキやお供え物の数に決まりはなかった。豆腐は供えなかった。
 この日、庭に入る門はあけておいた。オツキミの日はドロボーが認められているので、子どもたちは竹の棒を切ってきて、みなオダンゴを盗りに行った。

... 十三夜
 十三夜はやらなかった。

... お祭り
 昭和26年(1951)、杉山様(現小杉神社)の境内に神明様が移された(67頁参照)。それまでは1年交代でお祭りをしていた。日取りはかつて、9月29日と日にちで決まっており、学校にいると太鼓の音がドンドンと聞こえてきて気になって仕方なかったという。
 お祭りのときは原家が神酒所になっていた。正門からお神輿が入って休憩し、当主が拍子木を打ってお清めをしたあと裏門から抜けた。まず入ってくるのは子供神輿である。つぎにワッショイワッショイと大人のお神輿が入り、山車が入ってくる。そうして庭でお神輿を揉んだあと休憩となる。原家では集まった人にもてなしをし、日本酒のほか、年によって異なったが、梨、麦茶、アイス、お菓子などをふるまった。ペットボトルがないころは、ジュースはポリ容器にジュースの素を入れ、かき混ぜて作っていた。議員をやっていたため、法律が変わってあまりもてなしができなくなったが、原家の庭に入れるということで近所の人たちが300人から500人も集まったので、一家総出でやっていた。その後、このふるまいは門の外でやるようになり、手もなくなってきたため、現在は陣屋一丁目会館でやっている。なお、不祝儀の年にはやらなかった。
 神社の境内には屋台が出た。ハッカパイプ、綿飴、金魚すくい、射的、それからぐるぐる回して止まったところで品物が決まるくじ引きなどがあった。戦争で東京が焼けてからは、東京から逃げてきた人たちが店を出した。食べるものが多く、そのほか折り紙など子どもたちが喜ぶようなものが出ていた。原家の子どもたちはお小遣いをもらってオテツダイサンと出かけ、自分で好きなものを買った。小遣いをもらえるのはこのようなときだけだった。
 夜は演芸があった。小杉神社に神楽殿のない時代は境内に仮設の舞台を作り、青年団が国定忠治などをやっていた。その後は神楽殿で舞いをやったり、有志や老人会が歌ったり踊ったりした。神明様の方でやった年も舞台を仮設し、面をかぶってオカグラをやっていたという。

... ダンゴダイシ
 毎年11月20日は成就院(小杉陣屋町)のダンゴダイシ(団子大師)である。昔、恵日和尚が疫病を収めると、それを知って信者が集まった。そのときダンゴを作ってふるまったのがこの行事の始まりとされている。かつては檀家が上新粉を使ってオダンゴを作り、恵日の法要のあと、5、6個ずつ袋に入れて配っていた。これを食べると1年間無病息災とされ、近所の子どもたちはもちろん、丸子の渡しをわたって東京の方からも人が集まり、スリが出るほどにぎわったという。しかしあるとき、参拝客の舟がひっくり返って大勢亡くなるという事故があった。そのため、ダンゴダイシは縁起が悪いと信者が離れ、一時は檀家だけで続けている状態だった。その後、地元に呼びかけ、再び人が集まるようになっている。現在、ダンゴ作りは業者に頼んでいるが、ダンゴを配る行事は続いている。

... 冬至
 冬至には柚子湯に入った。

... エビス講
 12月のおわりにエビス講があった。

... クリスマス
 典子氏の世代でも、クリスマスをやった記憶はないという。

... 誕生日
 家族の誕生日にはお赤飯を炊いて祝った。特に正一氏や春子氏の誕生日には親戚も集まって祝いの席を設けた。

.7 人生儀礼
..(1)祝儀不祝儀
 原家では不祝儀のときは丁重に行ったが、選挙と家のことでみな忙しかったため、祝儀は簡単に済ましてしまうことが多かった。

..(2)婚礼
... 結納
 娘を嫁に出すときの結納はオクザシキで行った。仲人は親戚関係の者が務めた。

... 嫁入
 正一氏の妹きみ子氏が五反田の石井家に嫁ぐときは、松屋と三越に布団の布地まで織らせて嫁入支度をした。長い行列を作って、馬車か荷車で曳いていったという。
 正一氏の娘は、嫁に行く日、朝の2時半か3時ごろ起こされた。そしてまずお風呂に入らされ、手作りの白無垢を着せられ、角隠しもした。着付けをしたのは、銀座の遠藤波津子美容室から来た美容師である。家を出るときはゲンカンでなく、ナカノマの式台から直接庭に出た。茶碗を割るような儀式はなかったという。家を出るとすぐ、門のところまでいっぱいに近所の人が並んでいる。何も言ってないのになぜみな知っているのかわからず、そのあいだをうつむいて歩き、門を出たところでハイヤーに乗った。ずっとうつむいていたので、首がおかしくなったという。

... 親戚まわり
 原家に嫁が来ると、披露宴の前に分家の女性が花嫁をつれ、他の分家をまわった。逆に分家の者が結婚すると、本家が花嫁をつれて紹介して歩いた。ゴフクヤの文代氏が昭和25年(1950)に嫁に来たときは、本家が先達、竹田梅子氏が介添え役となり、当時は交通量も少なかったので歩いて親戚まわりをした。江戸褄の振袖を着て、先方には半紙を持っていった。子どもたちがぞろぞろついてきたという。

... 披露宴
 1階オモテ側の座敷をつなぐと30畳敷きの広間になる。正一氏夫妻のときはここで1週間ぐらい披露宴をやったという。正巳氏夫妻はまず丸の内の日本工業倶楽部会館で行い、その後、近所や出入の職人を招いて自宅でやった。
 披露宴の席では分家の代表が挨拶などをした。この役は分家で順番にやっていた。また、イッケウチの女性はその家の台所に集まり、芋や大根を煮た。

... オヨバレ
 結婚式の翌日と翌々日、イッケウチを一軒一軒オヨバレでまわった。行くのは花嫁と姑で、花婿は行かない。花嫁もこのときは正装せず、たとえば「ゴフクヤのオルスイが参りましたのでよろしく」というように挨拶をする。まわるのは昼間である。かつて迎える側ではご馳走を作ってもてなしたが、その後、寿司の桶を交換するぐらいになった。

..(3)産育
... 妊娠
 妊娠中、何を食べてはいけないとか、何をしてはいけないとか、そうしたことは言われず、いつもと同じように動いていた。安産祈願などは行くひまもなかった。
 美恵子氏は腹帯もかかりつけの産院で締めてもらったという。

... 出産
 かつてオサンバサンはムラに1人くらいいた。専業ではなく、普段は田んぼをやったりしている人が多かった。原家の近在では、小杉御殿町にオサンバサンがいたという。
 美恵子氏は原家ではなく、目黒区洗足の目崎医院(注8)で出産した。正一氏春子氏、それからナミ氏は、正人氏の誕生を一方ならず喜んだという。
原家に戻ってからは、子どもとともにハナレの一番東側の部屋で休んだ。このとき、ナミ氏がとなりに寝て世話をしてくれたという。この部屋では1週間くらい休んだ。産後は何をしてはいけないというようなことも知っていたが、できるだけ早く仕事をはじめたという。

... 出産祝い
 かつては、初めての子どものときはイッケウチが集まってお祝いした。しかし、そうしたことは次第になくなった。

... お宮参り
 正人氏のときは、春子氏と親戚の竹田梅子氏が子どもを抱いて、家のオイナリサンと小杉神社にお宮参りに行った。オセキハンを炊いて祝った。

... 初節句
 正巳氏の初節句のときは、親戚からたくさんの人形が来た。鍾馗様、金太郎さんなど、どれも大きくてとても立派だった。外幟は無かったが、内幟は父親の正一氏のものがあった。この内幟の台はケヤキでタタミ1畳ほどもあり、竹に雀など立派な彫刻がほどこされてあった。正巳氏の節句にあたっては台に磨きをかけた。幟の方は松屋で染めさせたもので、縮緬で家紋入り、飾ると大人の背丈ほどもあったという。
 女児の初節句にも親戚からオヒナサマがたくさん来た。ただし、こうして人形が届くのは、男児も女児も初めての子のときだけである。正一氏に初めて女児が生まれたときは、ナミ氏が三越に行ってオヒナサマを3式、ウインドウのものをすべて買ってきたという。
 その後、近年は行ったり来たりしてお祝いすることはなくなった。人形を贈ることもなくなり、イッケヅキアイで長男の長男はいくらというように決め、お金を包むようになっている。

..(4)葬儀
... 葬式
 この地域では昭和10年(1935)ごろ土葬から火葬に変わりはじめた(注9)。土葬のころは紋付の喪服を着た人々が行列を作り、チーンチーンと鳴らしながらオテラサンに行った。そして、掘っておいた穴にホトケサマを入れた。この穴は親族や近所の人が掘るのではなく、そうしたことを仕事にしている人が何人かで掘ったという。墓石は当時、神地(中原区上小田中)の石留に頼んでいたので、穴掘りもその関係で石屋を通して頼んだのではないかと、分家の方は言う。そのころ子どもたちは、西明寺の裏で穴を掘ると人が出てくるぞ、といわれていた。
 原家で葬式があると、出入職はみな原家の半纏を着てずらりと並んだ。ナミ氏の葬式のときは花輪が西明寺まで並び、それを100人くらい並んだ出入職が白いさらしで首から掛けて担ぎ、行列した。
 正一氏は県議会議長在任中に急逝した。遺体はナカノマに安置し、まず内々のオソウシキを自宅から出した。本葬はつぎの議長が決まるまで行うことができず、そのため20日以上かかったが、その間毎日オツヤを行った。密葬ではあったが、相当な人が集まったという。本葬の県議会葬は西明寺で行われた。出入職が3列か4列、木遣りを唄いながら進む。最初の者が寺に着くころ、後ろの者はまだ家の門の中にいたという。花輪も何十人もの人が寺まで担いで歩き、並べた花輪が参堂の両脇に外まであふれた。会葬者も家から寺までつながってしまい、歩けないほどであったという。
 正巳氏の葬儀には2200人集まった。「小杉と丸子が真っ黒になった」といわれ、お年寄りたちまで杖をつきながら大勢参列したという。
 なお、現在は行われていないが、古くは葬式というとイッケウチが家に集まり、煮炊きなど手伝いをしていた。

... 四十九日まで
 かつては四十九日まで7日ごとにお参りに行くことになっていた。その日はイッケウチがオテラに集まり、お墓でお坊さんにお経を上げてもらった。ただし、法事ではないのでそのあと席を設けることはなく、それで解散だった。
 正一氏の妹まさ子氏は17歳で亡くなった。このとき、その浴衣を衣紋掛にかけてナカニワの庭木に吊るし、四十九日までのあいだ毎日裾の方に水をかけて乾かないようにした。掛けてあったのは寝ていた部屋の前で、寂しい光景だったという。

... 法事
 四十九日は法事を行う。法事のときはイッケウチが集まった。

.8 信仰
..(1)家の神
... 神棚
 神棚はオカッテに祀られ、オカッテの隣の六畳にはコウジンサマが祀られていた。原家ではホトケサマのことは女、カミサマのことは男ががやる決まりで、カミサマを掃除するのも男の仕事だった。
 正巳氏は朝起きて身なりを整えると、食事の前にホトケサマと神棚に手を合わせた。まずホトケサマでは、花の水を取り替え、過去帳をめくったりしながら拝む。つぎに神棚に手を合わせ、庭に出てオイナリサンに行って拝む。起きてから食事をするまで、そうして一家の健康、安全、安寧を祈って長い時間をかけていた。

... 屋敷神
 屋敷神はオイナリサンで、東南にある。伏見稲荷である。オイナリサンには当主が供え物をした。榊を取り替えるのは子どもの役目で、毎月1日と15日は神棚も含め、神様の榊を取り替えた。このオイナリサンは、庭に家作を建てるとき移動させる話もあったが、見てもらったところ霊験あらたか過ぎて動かせないと言われた。
 主屋の東側、ハナレのそばにキモンサマ(鬼門様)があった。コンクリートで1m50cmほどの高さになっており、石段を上がると「維持 明治丗二年十一月十五日 願主 原文次郎謹建之」と刻まれた石の祠があった(7頁参照)。
 このほか、庭には石の祠のようなものがあちこちにあった。

..(2)神社・寺
... 氏神
 この地域にはもとは杉山様(中原区小杉御殿町)と神明様(中原区小杉陣屋町)と神社が2社あり、原家も含め住人は両方の氏子だった。8代目文次郎氏夫人ヒサ氏は、毎月1日と15日にはお赤飯を炊き、小重に入れて神明様と杉山様、それから多摩川の土手のそばにあった天神様(現・小杉神社境内社)などに持って行き、ヘギ(経木)にのせて供えていた。
 この2社が昭和26年(1951)に合祀されることになり、神明様の社殿の下にコロを入れ、人力で杉山様の境内まで引っ張っていった。このとき生まれたのが小杉神社である。立て替えられて今は1つになっているが、それまでは杉山様の前に神明様をくっつけ、それぞれ本殿と拝殿のようになっていた。小杉神社からはいろいろなオフダが来ていた。

... 菩提寺
 原家の菩提寺は真言宗西明寺(中原区小杉御殿町)で、原家は正一氏から正人氏まで三代にわたって檀家総代を務めている。
 この寺は元は草屋根だったが、昭和6年(1931)4月8日、お釈迦様のお祭で中原小学校の子どもたちが集まったおり、打ち上げた花火が本堂の大屋根にもぐって燃え落ちてしまった。大きな火事で、神地(中原区上小田中)の方まで逃げた人もいたという。このとき建築委員長になって再興に努めたのが正一氏である。
 また平成9年(1997)、西明寺が旧住宅金融専門会社から巨額の借金をしていた問題が発覚したときには、正巳氏が大病後にもかかわらず檀家総代として解決に心身を削り、再建にこぎつけた。

..(3)その他
... オオヤマサマ
 小杉陣屋町にオオヤマサマ(大山様・神奈川県伊勢原市)のオマイリがあった。コウガシラ(カシラ)はまわり持ちではなくほとんど原家で務め、その下でムラの人たちが役割を分担した。昔は毎年オマイリがあり、「いついつお参りをするからどうか」とコウガシラが誘いにいった。今は泊らないが、そのころは1泊したという。そのほかに講員が集まる機会はなかった。
 原家には毎年、大山の御師が1人、大きな風呂敷をかついでまわってきた。来るのは3月か4月の春先で、玄関脇のヒロマに泊まり、そこから主だった家にお札を配り歩いていた。この大山や御嶽山の御師がくると、9代目文次郎氏は翌日、分家の梅子氏を呼んで「梅子、大山様の方が見えたから、一日助けてやってくれよ」と言う。そうすると梅子氏はオオヤマサマに入っている家を御師とともに順番にまわり、1日がかりでオフダを配って歩いた。オフダを受けた家では、1円くらいのお金をオオヤマサマに包んだという。御師は翌日は溝口の方へまわり、大山へ帰っていった。

... 御嶽山
 小杉陣屋町には武州御嶽山(東京都青梅市)の講もあった。家によって御嶽山に入ったり大山に入ったりだったが、両方入っている家もあった。
 代参は毎年行っていた。参拝者は10名以上はいて、バスで行って御師の家に1泊し、お札をもらってきた。講元は分家ショウユヤの泰造氏が務めていた。大山と同じように御師がまわってきたが、こちらはショウユヤの方に泊まっていた。

... 霊場めぐり
 西明寺では人を集め、玉川八十八カ所めぐりを案内することがあったという。
 このほか、小杉周辺には西明寺を含めて七福神めぐりの巡拝コースがあり、正月に歩く人がいた。
 菩提寺が真言宗だったこともあり、ナミ氏はよくダイシサン(川崎大師)に行っていた。

... オネンブツ
 オネンブツは2つあった。
 1つはムラで行っていたもので、古くからある家が入っていた。当番制で、当番のことをコウモト(講元)またはコウガシラ(講頭)、会場となるその家のことをヤドという。行われるのは春と秋のお彼岸の時期で、そのころになると前のコウモトが「お彼岸ですよ」といってつぎのヤドへジュズを持ってきた。当番は2年間だったが、家が小さくておジュズを置いておけないという家は、申し出てつぎの家に回してもらうこともあった。ヤドになった家ではホトケサマのある部屋に集まり、オネンブツを唱えながら大きなジュズをまわした。集まるのは20人前後、男女ともに集まったが、男は年寄りだけで若い人は来なかった。また、その家の子が見に来ることはあったが、子どもは集まらなかった。時間は昼過ぎだったが、ヤドの都合で午前中のこともあった。オネンブツが終わると、ヤドではお茶やお菓子を出した。ヤドは大変だったがこのとき雑談するのが娯楽になっており、家の子どももみんなが集まるのを楽しみにしていたという。なお、オネンブツの掛軸などはなかったという。
 2つ目として、イッケウチだけで行うオネンブツがあった。夜6時か7時ごろに集まって夕飯を食べ、オネンブツをあげて8時ごろには終わった。このオネンブツでは大きなジュズをまわすことはせず、1人がオネンブツの棒を叩き、それに合わせてオネンブツをあげた。疲れてくると、居眠りをして畳の上をたたくような人もあったという。集まるのは男が多く、家が空かないよう工夫して夫婦で来る家もあったが、子どもは行くことはなかった。会場は順番に廻ったが、原家かショウユヤで行われることが多かった。

... オガミヤサン
 戦後、知らないおばあさんが来て、ちょっとお宅のオイナリサンで私を呼んでるから拝ませてくれと言った。そうして拝んだあと、お宅のご主人は何月何日にビルマから帰りますと言った。その日になったところ、ゲンカンの土間に疲れ果てたなりの軍人が座っている。それが出征していた正一氏で、家族は驚くとともにとても喜んだという。この人は上丸子天神町(中原区)にいた金子さんというオガミヤサンだった。原家ではお礼に行ったほか、何かのときには相談に行ったりしていた。おばあさんが亡くなった後、今は娘の方が継いでいるとのことである。

... 巡行仏
 下田(横浜市港北区)の真福寺から、厨子に入ったオジゾウサマが1軒ごとに廻ってきた。オジゾウサマは、来るときは背負われてきた。そして家に届くとゲンカンに置き、よだれかけやお布施をあげて家中でお祈りした。

.おわりに
 原正巳氏はいつも、「ご先祖様のおかげで今がある」と家族にくりかえし言い聞かせていた。「いただきます」といって手を合わせるときも、そうした思いでしばらく合わせつづけていたという。そうした正巳氏にとって、主屋をどうするかはきわめて重大な課題であった。かつては大家族だったが、結婚等で次第に人は少なくなる。冬は寒くていられない。すべて改築しようという話も出たが、それももったいない。売ってくれという話もいろいろ来たが、それも気が進まない。そうした中、先祖の建てた家にとってどうすれば一番良いかを考え抜き、市長と相談をし、文化財としての調査を行った結果、移築ということになった。しかし、自分の代で家を崩すということに大きな責任を感じ、最後の大黒柱が外されたときに寝込んでしまったという。家というのは、当主にとってそれほど重いものだということが言えるだろう。
 現在、主屋は日本民家園に移築されたが、原家は先祖代々の地で、地域のリーダーとしての役割を担いつづけている。

.注
1 音楽好きの正人氏によれば、こうした良い木を使っているため、この住宅はきわめて音響効果が高かったという。音楽関係者も、どんなスタジオでもあれほどの場所はないと言っていたそうである。
2 これまで刊行された報告書やガイドブックでは、この部屋を「オンナベヤ」としている。しかし今回の調査では、このように呼んでいたという聞き取りは得られず、また女中部屋として使われていたという話もなかった。オトコシが使用した「オトコベヤ」と対応するものではない。
3 これまで刊行された報告書やガイドブックでは、この部屋を「仏間」としている。仏壇があったためこのようにしたようだが、今回の調査では部屋の呼び名は「オヘヤ」だったという。
4 この年の10月27日に泉沢寺(中原区上小田中)で抽選が行われ、電話番号を決定した(『写真で見る中原街道』79頁)。
5 当初、荏原郡馬込村に本店があったが、大正4年(1915)に本店を小杉に移した。
6 大正12年(1923)の営業報告書には、馬込支店、調布営業所、御幸営業所の名が見える(『川崎市史』資料編4下 112頁)。
7 自転車荷車税が廃止されたのは昭和33年(1958)である。
8 院長の目崎鉱太氏は、宮内庁病院の産婦人科医長を務めた医師である。
9 『小杉とその周辺の民俗』88頁。

.参考文献
川崎市            1990『川崎市史』資料編4下 川崎市
川崎市            1997『川崎市史』通史編4下 川崎市
川崎市市民ミュージアム    1997『川崎市市民ミュージアム収蔵品目録』民俗資料1 川崎市市民ミュージアム
川崎市市民ミュージアム    1998『川崎市市民ミュージアム収蔵品目録』民俗資料2 川崎市市民ミュージアム
川崎市市民ミュージアム    1999『川崎市市民ミュージアム収蔵品目録』民俗資料3 川崎市市民ミュージアム
川崎市民俗文化財緊急調査団  1987『小杉とその周辺の民俗』 川崎市教育委員会
川崎市立稲田図書館      1971『中原街道』 川崎市立稲田図書館
(財)文化財建造物保存技術協会 1991『旧原家住宅移築修理工事報告書』 川崎市
羽田猛            2000『写真で見る中原街道』 私家版
原家四百年の人脈編纂委員会  1995『原家四百年の人脈』 原家四百年の人脈編纂委員会
原正巳            1986『なぜ直球なのか』 出版記念実行委員会
原正巳            1990『やっぱり直球です』 出版記念実行委員会
原正巳            1993『直球リポート』 出版記念実行委員会

.図版キャプション
1 右から8代目文次郎氏妻ヒサ氏、9代目文次郎氏、正一氏の弟信光氏(伊藤家に養子に入る)、正一氏の妹きみ子氏(石井家に嫁ぐ)、10代目正一氏、正一氏妻春子氏、正一氏の妹迪子氏(羽鳥家に嫁ぐ)、9代目文次郎氏妻ナミ氏、その左4名は使用人 (昭和2年撮影)
2 原家の家紋(上)と家印
 3 原家所在地
 4 昔の主屋(撮影年不詳)
 5 屋敷内の配置の変遷
 6 上棟式(明治44年4月16日撮影) 左上は9代目文次郎氏。
 7 正門
 8 式台上の彫り物
 9 ヒロマ
10 移築前の間取り
11 主屋裏の建物 奥の高い屋根がブンコグラ、その手前庇のように見えるのがハナレ、右手の小さな屋根がインキョベヤである。
12 センメンジョ
13 洗面台
14 ブンコグラ入口
15 ブンコグラ内部
16 オクラ
17 マエニワ
18 屋敷内の配置
19 嫁入道具(昭和2年3月29日撮影) 正一氏に嫁いだ春子氏の嫁入道具。
20 婚礼祝い(同日撮影) 親族より送られたもの。鯛は反物を折って作られている。
21 原家墓所
22 オイナリサン
23 小杉神社
24 西明寺


(『日本民家園収蔵品目録10 旧原家住宅』2008 所収)