神奈川県川崎市麻生区金程 伊藤家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が伊藤家で行った聞取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成18年(2006)10月から平成19年(2007)4月にかけて、6回に分けて行われた。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、野口文子である。
3 話者は、つぎのとおりである。
 伊藤酉造氏   大正10年(1921)生まれ 伊藤家現当主
 伊藤スギ氏   昭和2年(1927)生まれ 酉造氏の妻
4 図版の出処等はつぎのとおりである。
 図版1、9、10、12、14〜19  2007年、渋谷撮影。
 図版2         野口作成。
 図版3、6        関口欣也氏撮影。
 図版4         関口欣也氏撮影の写真に、文字を配置。
 図版5、8        聞き取り調査を元に野口が作成。
             なお、関口欣也氏の1959年の調査記録も参考にさせていただいた。
 図版7         『旧伊藤家住宅移築修理工事報告書』(1966)より転載。
 図版11、13       伊藤酉造氏のスケッチを元に野口が作成。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で必ずしも確認されていないことが含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。

.1 伊藤家
..(1)金程と伊藤家
 伊藤家のある金程は元はひとつのムラであり、300年ほど前13軒で始まったといわれている(注1)。「カナホド」という地名は、地中から出てくる「鉄鉱石」に由来するという。現当主酉造氏が敷地を掘り下げたところ、10mほど下から青い縞模様のものが出てきた。これは清水が湧いたとき鉄分のみが固まったもので、このほかカナクソ(金屎)が出るところもあったという。
 金程の戸数は太平洋戦争前まで大きな変化はなかった。その後、戦争中に疎開してきた家が数軒定着し、次第に増えていった。これら新たに移ってきた家を「疎開者」と呼んだ。現在、この地域は金程町会という自治会を作っている。金程町会の人は今でも、町会内のことを「ムラ」と呼ぶことがあるという。
 伊藤家は屋号を「シモ」という。家紋は「イオリモッコウ(庵木瓜)」である。三角の家紋は少ないため、丸い形のものも使われた。伊藤家の先祖がどこから移ってきたか、記録や言い伝えは残されていない。酉造氏が墓石を調べたところ、最も古いのは寛文10年(1670)、徳左衛門という人物の妻のものであった。これ以前の資料は残っていないが、徳左衛門自身の死亡記事がそれ以降にないことから、伊藤家は寛文10年以前から続いていると酉造氏は考えている(注2)。
 伊藤家は金程村で名主も務めた家柄だという。酉造氏の曽祖父にあたる寅蔵氏も名主を務めていた。当時としては長命で、明治17年(1884)に92歳で亡くなっている。クラにはこの人の刀や紋付の裃が残されていたが、傷みが激しいため燃やしてしまい、現在は煙草入れぐらいしか残っていないという。
 父親の雄蔵氏は明治19年(1886)生まれで、生前、日露戦争の話をしてくれたことがあったという。
 伊藤家の現当主、酉造氏は、大正10年(1921)の生まれである。戸籍上12人兄弟で、うち8人が男であった。この稿では酉造氏とその妻スギ氏(昭和2年生まれ)の話をもとに、伊藤家の暮らしを見ていくことにする。

..(2)住宅の移築
 酉造氏が3歳のとき、関東大震災が起きた。伊藤家では大きな被害はなかったが、主屋の屋根の小屋組みがねじれ、棟が傾いてしまった。震災後、この棟を起こそうと試みたが、やはり元通りには直せない。棟がかしいだことにより、入母屋の煙出し部分が起き上がり、雨が降り込むようになってしまった。特に台風のときなどは、台所まで濡れてしまう状態だったという。
 昭和30年代になり、酉造氏は修理を検討するようになった。同じころ共同所有の土地を売ったので、この収入をあて、屋根の葺き替えとともに小屋組みを修理しようと考えたのである。しかし見積もり金額は高額で、そのうえ金程周辺では茅が確保できず、茅葺職人も減っていた。酉造氏は相模原や箱根の仙石原から茅を取り寄せることも考えたが、「屋根をそっくり取って瓦屋根にしちゃったほうが安いよ」と業者に言われたという。
 関口欣也氏(横浜国立大学名誉教授)や大岡實氏(横浜国立大学名誉教授・故人)が調査に来たのは、そのころのことである。貴重な建物だから建て替えは待ってくれと言われ、足掛け6年修理を待ち、移築することになった。

.2 衣食住
..(1)住
... 敷地
 伊藤家の主屋は、南に広がるなだらかな斜面に、北に山を背負って建てられていた。
 敷地の入口から主屋の入口までの道を「ジョウグチ」と呼んでいた。ジョウグチの途中から道路に出る道があり、下の畑への近道として使っていた。この道は、車の通れない細い道であった。
 主屋の南側の斜面は畑になっていた。ここからさらに100mほど先、道を下りきったところに田があった。
 一方、北側には土手があり、そのむこうは裏山であった。裏山は大半が雑木林だったが、頂上には桜があった。
 裏山のむこう側の斜面は畑になっており、「オオバタケ」と呼んでいた。主屋の裏からキゴヤ(ソダゴヤ)の横をまわってこの畑に通じる道があり、その先へさらに行くともう1つ松と杉の苗を200本ほど植えている山があった。現在主屋の前に移されている白山神社は、この山の中腹にあったものである。松の苗はタイヒシャの西側にも植えていた。
 区画整理などで土地を手放したが、敷地は現在でも1200坪あるという。

... 水利
 伊藤家では裏山からシミズ(清水)を引いていた。竹の節を抜いたトヨ(樋)で道を渡し、屋内まで引き込んでいた。トヨの口にはオオガメが置かれ、流れてくる水を溜めていたが、夏場になると水量が減った。この水は主に飲料水と炊事、それからフロに使っていた。
 敷地内には井戸もあった。蛇口がついており、こちらは着物や農具を洗うときなど、炊事以外のことに使っていた。この井戸は酉造氏が18歳のときに掘られたものである。このあたりは「スナイワ」という岩盤であったが、14m掘り下げたところ「スナシマ」という薄い層が出てきた。井戸の口から見ていたところ、このスナシマの底に周囲から水がにじみ出し、見る見るうちに溜まって2.5mほどの深さになった。それ以来、どんな大旱魃が起こっても水位は変わらない。以前、井戸の蛇口を閉め忘れて、4、5時間も水を出しっぱなしにしたことがあった。あわてて深さを測ってみたが、このときも水位は変わらなかったという。
 主屋の周辺にはいくつも池があった。ソダゴヤのとなり、キゴヤのとなり、井戸の傍に大小1つずつ、モノオキと車庫のあいだ、ブタ小屋のとなり、いずれも山の清水が溜まったものである。水は澄んでおり、その中を鯉などが泳いでいた。大旱魃の年、井戸の傍にある大きな池から水を汲み集め、フロに使ったことがあった。酉造氏が物心ついてから、こうしたことが2、3度あったという。しかし、普段の炊事や洗濯に池の水を使用することはなかった。
 池や井戸から流れ出た水は、主屋の西側を通るホリに流れ込んでいた。主屋と土手のあいだにはミゾが掘られており、フロや台所の排水はここへ流していた。

... 屋根
 茅葺きの屋根に明かり取りの窓がついていた。大きさは3尺四方ほどで、ガラスがはまっていた。酉造氏が生まれたころには、すでに窓がついていたという。この窓がないと台所は真っ暗であった。
 葺き替えは職人が行うが、材料は自分で調達した。茅は自分の山から刈ってくる。しかし1度にたくさんは取れないので、2、3年がかりで少しずつ貯めていく。刈った茅は1把ずつ束ね、タイヒシャの2階とキゴヤに積み上げたほか、主屋の屋根裏にも少し置いていた。これは大変な作業であったという。それでも足りないときは笹も使用した。
 酉造氏の知る限り、一度にすべて葺き替えたことはなく、棟を入れると3、4回に分けてやっていた。葺き替えたのはコビラ(屋根の妻側)だけという年もあり、屋根の途中に段が付いていることもあった。
 屋根の葺き替えというと、親戚は縄や茅を差し入れに行った。縄を持っていったのは、葺き替えに大量に使うからである。そのため、伊藤家でも冬場には縄を作り貯めていた。
 こうした屋根替えや何かの急用のときなどは、おにぎりをたくさん作り、ハンダイ(飯台)に入れて持っていった。このとき、雨に濡れたりせぬようシブカミでくるんでいった。昔の文書などを貼り合わせ、柿のシブを何回も塗り重ねたもので、今のビニール代わりだった。

... ドマ
 主屋の出入口は2箇所あった。南側正面を「トンボグチ」、北側を「ウラグチ」と呼んだ。通常はトンボグチを利用することが多かった。
 トンボグチから入るとドマになっている。右手には応接用のテーブル、左手にはフロのマキが積まれ、そのむこうに粉を挽いたり麦を割ったりするのに使う石臼、製茶用のホイロがあった。そのさらに左手がフロとミソベヤである。中央にはオオガマとイロリ、その向こうにカマドが配され、一番奥にナガシがあった。
 縄綯いや炭俵づくりなどには、ドマを入ってすぐのあたりを使った。こうした作業はモノオキでもやったが、ドマの方が暖かかった。

... フロ
 フロは楕円型の木桶であった。脇にはスノコが置いてあり、フロの出入りに使った。また、スノコの脇には台があり、フロから上がると下駄を履き、ここで着替えをした。
 フロの水はナガシのオオガメから運んだ。毎日入ったが、水の入れ替えは1日おきぐらいであった。湯を使い終わると桶の底のホシ(栓)を抜く。桶の下にはヨントダル(四斗樽)が埋め込まれており、水はこの樽に一旦落ちてから主屋の北側のミゾへ流れ出るようになっていた。
 カマは桶の下を掘り下げて据えてあった。焚き口は桶の横に付いており、そこからマキを入れていた。

... ミソベヤ
 ミソベヤには味噌や醤油のヨントダルが並んでいた。一番奥には麹を寝かせるため、大きなモロミオケ(シコミダル)が置かれていた。

... オカッテ
 調理は主にカマド(ヘッツイ)で行っていた。オオガマは味噌、醤油造りの大豆を煮たり、冬場にお湯を沸かすのに使っていたほか、水あめを作ったり、サツマ(サツマイモ)をふかしたりするのに使用していた。
 オオガマの前はイロリになっていた(図版6)。暖が取れるよう周りにはムシロが敷いてあり、自在鈎に鉄瓶を掛けて、いつでもお湯が使えるように沸かしてあった。このイロリは、酉造氏が小さいころは製茶にも使われていたという。
 ドマの一番奥のナガシには、山の清水が一日中オオガメに流れ込んでいた。夜中に目が覚めたときなど、チョロチョロという水の音がよく聞こえたという。

... イタノマ
 イタノマとドマのあいだに食卓が置かれていた。長さ6尺以上もあるもので、食事をするときはここに集まった。
 男たちはドマ側に置いた長い椅子に腰掛けた。トンボグチに一番近い席が、主人の席である。一方、女たちはイタノマ側に座った。ナガシ寄りにお釜や味噌汁の鍋を置き、となりに座った女が給仕をした。

... カッテノマ
 カッテノマは寝起きには使わなかった。部屋の真ん中にホリゴタツがあり、冬は炭火を入れ、夏はふたをしていた。このホリゴタツはイロリを改造したもので、イロリとして使っていたころは、部屋の隅にソダ(小枝などの燃料)が置かれていた。このイロリは暖をとるためのもので、煮炊きには使わなかった。
 養蚕の時期はヘーヤ寄りの壁に棚を作った。8月になると、同じ場所にボンダナを設けた。冠婚葬祭で、ボタモチなどゴチソウをたくさん準備するときには、ドマやイタノマのほか、この部屋のイタノマ寄りの場所まで使用した。

... ザシキ
 ザシキは主人の姉妹が寝室として使っていた。節句の人形や正月のユミハマ・羽子板、それから小正月のマユダマなどは、この部屋とデイとの境に飾っていた。この部屋には、移動できるように持ち手を付けた囲炉裏が置いてあった。
 養蚕はこの部屋を中心に行っていた。

... デイ
 デイは主人夫婦とその子供たちの寝室であった。北西の角には仏壇と神棚があった。仏壇の下とその脇の戸棚の下は収納場所になっており、ロウカ側の押入れとともに布団を入れていた。
 結婚式、葬式、出産などはこの部屋で行った。披露宴や法事で大勢集まる際は、となりのザシキとつなげて使用した。また、部屋の一部は養蚕にも使っていた。

... ヘーヤ
 ヘーヤはトシヨリ夫婦の寝室であった。北の壁際を残して畳が敷いてあり、この残った場所にタンスを置いていた。
 結婚式の三々九度はこの部屋で行った。

... ロウカ・ベンジョ
 ロウカには雨戸がなかった。出産後の女性がタライで行水するときには、この場所を使用した。
 ロウカにベンジョがあった。ベンジョは大小あり、小用には戸がなかった。

... 床・天井・壁
 酉造氏の時代には、各部屋とも畳が入っていた。
 天井は台所を除き、板張りであった。移築の際、酉造氏はこの天井板がはがされるのを見ていたという。板と板のあいだに大きな隙間があるところもあったが、表面には鋸目がきちんと残り、しかも挽き割った順に並べてあったという。なお、台所の天井は竹簀であった。
 壁は土壁で、直すときは自分たちで塗った。高いところを塗るときは2人1組になり、下の者は長い木のヘラに土をのせて上の者に渡した。

... チュウニカイ・オオニカイ
 主屋は3層に分かれていた。1階の上をチュウニカイ(中二階)、その上をオオニカイ(大二階)と呼ぶ。ドマ部分にはチュウニカイがなく、オオニカイのみであった。
 チュウニカイの床は板、オオニカイの床は竹であった。使用するのはいずれも養蚕のおりだけで、このときのため普段からあまり物を置かないようにしていたという。

... シモヤ
 伊藤家の敷地内には複数の付属屋があり、これらを「シモヤ」と呼んでいた。
 主屋の脇にはモノオキがあり、雨でも行き来できるよう主屋とのあいだに屋根がついていた。
 モノオキの横にはマユの乾燥庫があり、養蚕終了後は改造して車庫にしていた。
 乾燥庫の手前にはタイヒシャがあった。横に大きな庇を掛け、その下をウマヤにしていた。
 クラの1階には穀類、2階には衣類がしまってあった。このクラも前後に庇が張り出していた。主屋側の庇の下にはカラウスが置いてあった。反対側の庇は「ハチジョウヒサシ(八畳庇)」という大きなもので、周囲に戸が入っていた。
 主屋の北側にキゴヤが2棟あった。道の内側にあるキゴヤは掘立て小屋で、ソダ(燃料となる木の枝など)を保管していたため「ソダゴヤ」と呼んでいた。ソダゴヤの西にあったもう1棟のキゴヤには、ワラや葺き替え用の茅をしまっていた。
 シモヤの屋根は、クラも含めてかつては草屋根であった。しかしその後、クラは瓦屋根にし、クラの小さい庇部分と新しい車庫はトタン屋根にした。

..(2)衣
... 素材
 伊藤家では養蚕をやっていたが、絹の真綿は高級品であった。絹織物になると、さらに貴重であった。
 染みや穴があったり、硬すぎたりするマユを「クズ」という。クズは出荷できないため、これを真綿にしてドテラやチョッキなどを作った。絹は肌に触れた瞬間は冷たいが、着てしまうとホカホカと温かい。そのうえ生地が薄いので便利だった。
 普段の衣類は木綿であった。呉服屋から購入することが多かったが、家で織ったものもあった。酉造氏は母親が機織りをしていたのを見ていた記憶があるという。機織り機は大きくて邪魔なので、使わなくなってどこかへやってしまった。
 仕立ては家で行った。1反の布で、モンペと着物両方を作った。仕立てをするのは夕食後、または雨が降った日である。冬場の農閑期も縄綯いなどの作業があるため、昼間はできなかった。
 戦後は物資不足で、着物も手に入れることがむずかしかった。酉造氏夫妻が結婚したころは配給制で、着物1枚買うにも家族中の配給切符を集めなければならなかった。スギ氏が実家から持参した着物も、そのようにして手に入れたものだという。

... 普段着
 酉造氏が小学生のころは、どの子供も絣や縞の着物だった。特に縞が多かったという。
 戦後すぐのころ、女性の普段着は下がモンペ、上は半分の丈に裁断した着物で、これを「標準服」といった。着物は実家から持ってきたものが多かったが、自分でも縫った。頭には手ぬぐいを被った。
 男性は、戦前は長袖のシャツにモモヒキであった。夏はシャツ1枚だったが、作業によっては腕がチクチクするので、半袖はめったに着なかった。戦後は軍服のような作業着とズボンもあったが、田んぼでは必ずモモヒキだった。

... 防寒着
 冬場や寒いときは、男女ともワタイレのハンテン(ドテラ)を着た。セーターなどは着なかった。ハンテンの中身は、薄く広げた2枚の真綿で木綿のワタをはさんだものだった。

... 雨具
 雨具にはカッパとワラミノがあった。
 カッパはゴザの裏に油紙を縫い付けたものである。これに紐がついており、腕を通すようになっていた。畑で作業するときはこのカッパを着て、頭にはカサを被った。それでも背中が濡れないくらいで、腕などは濡れた。
 一方、田んぼで作業するときはワラミノだった。カッパだとマンノウグワが引っかかって使いづらいことに加え、ワラミノの方が泥水のハネを避けられたからである。頭には畑と同じくカサを被った。

... 洗濯
 井戸水の流れていく方を、「井戸のシモ」という。洗濯は井戸のそばで行ったが、オムツなど汚いものは井戸のシモで洗った。また、出産後21日間は体がよごれているとされたため、このときも井戸のシモの方でやらなければならなかった。
 洗濯機や洗剤はなく、洗濯板で手洗いだったため、毎日のようにはできなかった。

... 履き物
 戦前は、作業をする際はアシナカか裸足だった。アシナカを履いて出かけ、基本的に畑ではそのまま作業し、田んぼではアシナカを脱いで裸足になった。
 アシナカはかかとの無いゾウリで、自分で作った。田んぼに入って足が濡れると、普通のゾウリではかかとにくっついて歩きづらくなるからである。アシナカは冬場にかなりの量を作り貯めた。すぐに潰れてしまうことはなかったが、それでも雨の日などに履くとビチャビチャしてじきに傷んだ。
 その後、地下足袋が出てきて、畑ではこれを履くようになった。しかし、終戦後数年は物資不足のためこうしたものも手に入らず、稲刈りも畑での作業も裸足だった。酉造氏が配給の当番になったとき、地下足袋が1足だけ配給所に来たことがあった。片方ずつ配給するわけにもいかず、泣きたくなったという。
 戦後しばらくするとゴム靴なども売られるようになった。そこで、畑では地下足袋、田んぼではゴム靴を履くようになった。ゴム靴はピタッとした感触の生ゴム製で、これで作業がかなり楽になったという。

... 髪型
 戦後すぐのころは、男性は丸坊主、女性は頭のうしろで丸めるのがほとんどだった。散髪は男女とも家でやっていた。丸坊主には短いのと五分刈りがあった。短い丸坊主だと頭が光ってしまうが、五分刈りは光らなかった。
 酉造氏はその後、登戸の紀伊国屋のあたりにあった小出という床屋に通うようになった。ここの経営者は同じ土地の出身だったので、オート三輪車で出かけたついでに寄っていた。
 女性のあいだでパーマが流行しだしたのは、昭和21年(1946)ごろからであった。スギ氏は結婚前、実家のあった柿生から登戸までパーマをかけに行ったという。

..(3)食
... 普段の食事
 主食は麦の入った白米のご飯だった。麦は、古くはドマの石臼で荒く挽いた「ヒキワリ」だったが、酉造氏が物心ついたころから「オシムギ」を使うようになった。そのころは麦が7割、白米は3割で、酉造氏はこれで育った。その後この割合は、白米が7割、麦は3割ほどになった。
 おかずには、ジャガイモ、サトイモ、ダイコン、ハクサイなど、季節ごとに家で採れるものを使った。ダイコンは、オシンコやタクアンにしたものでも、食べきれない分は味噌漬けにした。そうすると持ちがよかったからである。また、オオガマを下ろして大きなホーロクを据え、サツマをふかしたりした。タケノコも「テコノミ」という道具で掘って食べた。なお、スリバチに使うスリコギは、桐製のものを使った。木が擦れて良い香りがするため、桐が一番良いといわれていた。
 ソバは、普段も行事の際も食べた。ただし、普段のソバはソバ粉の入らない小麦粉だけのもので、ソバとはいってもうどんと同じであった。

... 餅
 正月食べるのとは別に、正月のあと餅を搗いた。これを「カンモチ(寒餅)」といった。正月用の餅はお供えと正月食べる分だけで量はそれほど搗かなかったが、カンモチは4斗(1俵・約74kg)から、多いときで2俵ほど搗いた。酉造氏は父親と2人で交代しながら、朝から晩までドマで搗いたという。
 カンモチは乾燥させてから切り、ヨントダルの水につけておく。これを「ミズモチ」という。1俵でヨントダル1杯分である。ミズモチにするのはカンモチでなければならない。冬に搗いた餅は夏まで溶けないが、暖かい季節に搗いたものは腐ってしまうからである。
 ミズモチは1〜2ヶ月もつけておくと表面が溶けてドロドロになる。食べるときはこれを洗い落とし、焼いて醤油をつけて食べた。煮て食べることもあったが、ミズモチは香りが良くないため、焼いて匂いを消した方がおいしかった。
 その日に食べる餅であれば、冬以外でも搗いた。そもそも焼いて食べるのは、「おちて(鮮度が落ちて)」硬くなった餅である。搗いて3、4日ぐらいのものは焼いたりせず、そのまま食べたという。

... 調味料
 味噌と醤油は麹から造り、ミソベヤのヨントダルで保存していた。
 醤油のモロミは、大きなモロミオケに入れてミソベヤの奥で寝かせた。このモロミオケは、毎日1回欠かさずに混ぜる必要がある。伊藤家では酉造氏の母がこれを管理しており、毎日かき混ぜていたという。搾るのは1年に1回で、搾り器を使い、醤油にした。このときの搾りかすはブタのエサにしたり、タイヒシャに撒いたりした。

... 水あめ
 秋になってサツマ(サツマイモ)のクズがでると、水あめを作った。
 作る際はオオガマを使い、大根おろしを入れてサツマを煮る。こうするとダイコンのジアスターゼが効いてあめになるのである。そして最後にこれを搾り器で搾り、水あめにした。水あめは配給時代、砂糖の代用品として使用した。

... 干し芋
 イモキリキを使ってサツマを薄く切り、干し芋にした。サツマイモのほか、ジャガイモを干し芋にしたこともあった。ジャガイモからでんぷんをとるときには、干さなければならなかった。

... 茶
 1年に使う程度の茶は家で作っていた。ジョウグチから主屋へつづく道の脇に茶の木がずっと植えられており、毎年5月に摘んだ。
 製茶することを「茶っ葉をこせぇる」という。製茶に使うホイロは、オオガマの横のドマを掘り下げて置いてあった。この掘り下げたところに足を入れ、腰掛けて作業をしたのである。
 ホイロには炭火を使ったが、酉造氏が小さいころはオオガマの前のイロリを使い、両側に人が立って茶をもんでいた。
 出来上がった茶は缶に入れ、何年はどれだけ作ったということを荷札に書いて下げておいた。製茶は、酉造氏の両親がやることが多かった。

... 酒
 昔はトックリを持って酒を買いに行った。ドブロクを作っていたという話もあった。

..(4)暮らし
... 1日の流れ
 起床、就寝などの時間は、夏と冬とでは1時間ほどずれがあった。
 夏は朝5時ごろ起きた。朝食前の仕事を「アサヅクリ」といい、草刈りに行ったり馬にエサを食べさせたりした。
 夏は夕方5時半ごろまで田んぼの畦の草刈りなどをしたが、冬場は日暮れになると外での作業は終えた。街灯など無いので手元が見えない上、寒かったからである。そこで家に戻り、縄綯いやゾウリ作りなどをした。
 寝るのは夜10時ごろであった。布団の中身は木綿のワタで、絹のマワタは使用しなかった。

... 明かり
 電気は主屋の2箇所に引いていた。1箇所はイタノマとカッテノマのあいだ、もう1箇所はザシキで、天井から電球が吊り下げられていた。
 電気が来るまではランプだった。1軒のうちにオオランプとテランプしかなく、オオランプをつけているときはテランプはつけなかった。昔の家は暗かった。

... 燃料
 雑木林は20年に1回伐採し、マキにしていた。マキをそろえるときは、オシギリを使って枝先を落とす。このオシギリは木の枝用の大きなもので、切るときには両手を使った。
 フロと炭焼きにはこうした雑木のマキを使用した。それ以外、通常の燃料には冬に集めた落ち葉や枝、笹を利用し、マキは使わなかった。

... 病院
 しもやけや風邪程度では医者へは行かなかった。ひどいしもやけでも、自分で包帯をするくらいであった。
 一番よく行ったのは片平(麻生区)の安藤という病院である。生田(多摩区)の当麻や、能ヶ谷(町田市)の病院も利用した。そのほか、歯の治療には調布の石原、目の治療には溝の口(高津区)の津田眼科へ行った。
 昔は目の病気のことを「トラホーム」と呼んだ。酉造氏は学校でトラホームと診断され、校医であった津田眼科へ通ったことがある。通うときには自転車を使っていた。

... 休み日
 毎月1日、15日の午後は、「誰かに言おうが言われまいが」仕事を休んでよい日であった。まるっきり自由なのはそのときだけであった。この日は午前中もあまり働かなかった。
 休みの日には、「今日は休みだから白いご飯を食べようか」「ボタモチこせぇようか」という話になった。戦前ごろまではどの家も米や麦などしか作っていなかったので、休み日も毎月1日、15日とムラで合わせることができた。しかし養蚕が終わり、生産する作物の種類が多様化してくると、休みもバラバラにとるようになった。

... 子供の暮らし
 子供は小さいころから家の仕事をした。フロを焚いたり水を替えたりするのはよくやらされた仕事である。桑の葉を摘むなどノラの仕事はあまりせず、家の中のことが中心であった。
 酉造氏の時代は、小学校5、6年になると生田小学校へ行ったが、4年生までは分教場(注3)であった。この分教場は教室が2部屋しかなく、1年生と2年生、3年生と4年生が一緒だった。当時はノートではなく、セキバン(石板)を使っていた。
 酉造氏は子供のころウナギ獲りをした。道具は「ナガシバリ」という木製の浮きをつけた針のほか、「ウナギウチ」という竹竿の先に針をクシ状に並べたものがあった。

.3 生業
..(1)概況
 現在、伊藤家では稲作はやっておらず、畑作と果樹栽培が中心である(注4)。かつては米も作っていたが、やはり田んぼよりも畑の面積の方が広かった。伊藤家の土地は2町歩(約6000坪)ほどあり、田んぼは4反(1200坪)、畑は9反(2700坪)であった。裏山のむこうがわとヤシキから下の斜面に畑が広がっていたほか、ヤシキの敷地内にも2箇所の畑があった。
 金程では田んぼのそばに水の湧くところがあり、稲作には主にこうした清水を利用していた。そのため、どこも水はけが悪かった。水は「足りたり足りなかったりして、まったく話にならない」状態で、いつも不足していたわけではないが、不自由することも多かった。特に夏場は足りなくなることが多く、大旱魃で6月にウエタ(田植え)ができないこともあったという。
 一方、水はけが悪いため土地自体は水気が多く、伊藤家の田んぼにも「ドブッタ(ひどくゆるい田)」があった。一番ひどいところでは腰まで泥に浸かってしまい、足を抜かなくてもそのまま横に動けるほどであった。このため、暗渠排水を金程集落全体で3回、伊藤家では更に数回行った。暗渠排水(あんきょはいすい)とは、吸水管(暗渠)を地下に埋めて排水することである。吸水管には、戦後の1回は土管を使用したが、その前2回は竹を使った。まず、フシヌキを使って孟宗竹の節を抜いていく。フシヌキには柄の付いたものと、柄の代わりにワイヤーを付けたものがある。節を抜いた竹は、ノコギリで3分の1ほど交互に切れ込みを入れる。水を吸ったり出したりするためである。こうして作った吸水管を埋設して排水し、ひどいドブッタだった田んぼにも機械を入れられるようになった。暗渠排水の管には栓をするところがあり、ここに木製のセンを押し込むことで上の田んぼに水がたまるようになっていた。このセンは、排水管に段差のあるところとないところとで、2種類の長さのものを使い分けた。

..(2)変遷
 養蚕を盛んにやっていたころは、耕地面積の大部分は桑畑であった。野菜の方は種類はさほど多くなく、量も家で消費する程度であった。
 昭和19年(1944)に食糧増産計画が出されると、養蚕をやめて桑の木を伐り、切り株のあいだにジャガイモ、麦を植えた。この畑は終戦直後などは驚くほど作物ができた。桑のあいだに毎年肥料を入れていたため、土が肥えていたのである。アンモニアを手で撒いたぐらいで、ジャガイモもとても大きいものが採れた。供出で割り当てられた量の倍ほど採れ、消費しきれないので、余った分を東京まで運んで売った。サツマ(サツマイモ)もよくできた。また、戦後の数年間はソバも作っていた。
 戦後の食糧難が終わると、桑畑だったところにモモなどの果樹や幾種類もの野菜を植えるようになった。養蚕をやっていたときより忙しくなった。
 昭和30年(1955)ごろからは種なしスイカやメロンの栽培を始めた。しかし、手間がかかる上収穫が少なく、やめてしまった。
 スイカやメロンのあとは、サツマ、小麦、オカブ(陸稲)などを中心に、ニンジン、ハクサイ、ダイコンなど野菜も生産した。
 伊藤家で主に現金収入源となっていたのは、養蚕、小麦、サツマであった。特にサツマは生活費を得るための重要な作物であった。しかし、昭和30〜40年ごろになると、「農業など問題にならない時代になってしまった」。勤め人の収入が農業収入の18倍といわれたころである。そこで、昭和35、36年、現在の金程1丁目あたりに共同所有していた土地を売却した。

..(3)1年の流れ
 1月から3月いっぱいまでは、マキや落ち葉を集めたり、縄やアシナカなどを作り貯めたりする作業をした。炭焼きをやっていたのもこの時期だった。
 3月になると、養蚕を行っていた時代は桑畑の手入れを始めた。また、田んぼをひっくり返すなど、稲作の準備も始めた。
 4月になると、サツマ(サツマイモ)を発芽させるトコツキの作業を始めた。また、ハルゴ(春蚕)の飼育を始めるのも、桑が芽を出す4月末から5月にかけてであった。
 5月にはまず、苗床を作るモミフリを行い、月末から6月はじめごろ麦畑のあいだにサツマを植えた。
 6月は麦の刈入れである。そして入れ替わりに今度は田植えを行った。また、ハルゴのマユの出荷もこの時期であった。
 8月は田んぼの草取りが忙しかった。また、戦時中はナツゴ(夏蚕)を始める時期であり、戦後はメロンやスイカを収穫する時期であった。
 10月になるとアキゴ(秋蚕)が始まった。養蚕をやめてからも秋の作業は多かった。
 11月はサツマの収穫や麦撒きをした。冬作は小麦と大麦しかなく、伊藤家では小麦を作っていた。アキゴのマユの出荷もこの時期であった。
 12月、麦撒きとアキゴが終わると稲刈りをした。脱穀やモミスリも暮れのうちにやらなければならなかったが、日中は忙しいため夜の仕事であった。

..(4)農業
... 米
 田んぼは、主屋から南に100mほど離れたところに4反あった。
 田んぼの土は、できれば年の暮れのうちからひっくり返しておくとよい。早めに返すことによって土の表面が乾き、チッ素が増えるからである。しかし、暮れは忙しくてそんなことはできず、ひっくり返すのは春になってからであった。
 苗床を作る「モミフリ(モミ)」は5月の節句(5日)と決まっていた。田んぼをこしらえるなどの準備をあらかじめしておき、種籾を撒く作業を5日に行うのである。モミフリの場所は「ナエバ」と呼び、毎年大体決まっていた。
 「ウエタ(田植え)」は6月に行った。しかし、ひどい水不足の年など、7月に入ってやったこともあった。苗取りは女、田植えは主に男がやった。田植えには土をうなって練る作業があり、力のある男性の方が向いていたからである。
 稲刈りは毎年遅く、12月ごろに行った。遅くなると稲が枯れて寝てしまうため、刈り取るたびにいちいち起こさねばならず、大変やりづらかった。酉造氏が兵隊から帰ってきた年は、今でも記憶に残るほど遅かった。すでに田んぼには薄氷が張っており、その中を裸足で稲刈りした。このとき足の小指が親指ほどに腫れ上がり、今でもこの指の爪はほとんどないという。
 田んぼの作業は人力で行うことが多く、馬がいればよい方だった。
 なお、オカブ(陸稲)もたくさん作った。ただし、水稲はいくらか売ったが、オカブの方は出荷はしなかった。

... サツマイモ・小麦
 裏山の反対の斜面に畑があり、離れたところを通る道までずっと広がっていた。この畑を「オオバタケ」と呼んでいた。昭和19年(1944)までは桑畑であったが、その後サツマ(サツマイモ)や小麦を中心に野菜などを育てていた。サツマの畑は2反歩あり、サツマと小麦を交互に栽培していた。すなわち、6月、刈り入れ前の小麦のあいだにサツマを植え、11月、サツマの収穫を終えると麦を蒔くのである。伊藤家のサツマはできがよく、しかも大量に収穫していたので、表彰状をもらったこともあった。
 サツマの作業は落ち葉集めから始まる。冬場、山から落ち葉を掃き取ってきてトツボ(10坪)ほどの場所に集める。この場所を「サツマグラ」という。40cm強の厚みにするため、落ち葉はカゴに何十杯と集めなければならない。集めた落ち葉は足で踏み込む。この作業を「フミコミ」といった。
 こうして発酵させると、落ち葉は手で触ると熱いくらいの温度になる。ここに種芋を植える作業を「トコツキ」といい、毎年4月8日ごろに行う。熱を利用して、サツマを発芽させるのである。
 5月末から6月初旬ごろ、芽が出た部分を切り取って苗田に植える。そして1ヶ月間そこで育てた後、麦畑の中へ植え替えた。刈り取り前の麦のあいだに畝を作り、そこに植えていくのである。この作業をするときは、サツマの畝と麦のあいだの溝に足を入れ、麦を踏まぬようにした。

... 果物
 生業として果樹栽培を始めたのは、酉造氏夫妻が結婚してからである。かつて桑畑だったところに、最初はモモ、つぎにナシを植えた。その後ウメの栽培をやってみたが、これは失敗だった。これらの果樹は出荷はせず、直売のような形をとっていた。
 昭和30年(1955)ごろからは種なしスイカやメロンの栽培を始めた。スイカは築地などへ、メロンは大森へ出荷し、美味しいと評判だった。しかし、スイカは「なんぼやってもひきあわなかった」。10年ほど試行錯誤したが、手間がかかる上にいくつも実が成らないのである。植えるときは種に1つずつ切れ目を入れる。交配は朝7〜9時までのあいだにしなければならない。さらに種無しスイカにするには、ブドウならジベレリンに房を浸ければよいのに対し、薬品を注射していかねばならない。そんな苦労をしても、1株に3個ほどしか成らなかった。出来上がると高くは売れたが、やめてしまった。
 ブドウ棚もあった。広さは5畝(150坪)ほどで、主屋の北側の土手にひっつくように設けてあった。
 戦後力を入れた果樹栽培であるが、柿は古くからあった(注5)。金程では「禅寺丸」という品種が多く、伊藤家の木も古いものは樹齢300年ほどである。柿の栽培は少しずつ増やし、現在では一番生産量が多い。かつて柿は、新宿の淀橋市場へ出荷していた。
 伊藤家では、果樹などに年3回ぐらい消毒をしている。

... 野菜
 スイカやメロンの後は、サツマ、小麦、オカブ(陸稲)などを中心に生産した。途中、キュウリなどもやったことがある。また、ニンジン、ハクサイ、ダイコンなどの野菜を作り、5、6人共同で調布の丸中市場(のちになくなった)へ出荷していたこともあった。出荷といってもこちらから運ぶのではなく、集落の所定の場所に置いておくと、市場の方から取りに来てくれた。
 畑はヤシキの敷地内にも2箇所あり、南側の畑ではナッパやニンニクなど、家で食べるものを育てていた。東側の畑には、戦前までは桑、昭和19年(1944)以降はサトイモを中心にイモ類を植えていた。コエジ(重地)なのでサツマには適していなかった。その後、昭和23年(1948)ごろからはモモ畑にした。
 ビニールがないころ、温床の覆いにはワラを使った。上の方は編まず、2箇所だけスダレ状に編み上げたもので、キュウリやナスなどの苗床に使った。

... 肥料
 酉造氏が若いころは、肥料はほとんど堆肥と下肥であった。
 主屋の南西にタイヒシャがあり、ここで堆肥を保管していた。広さは2間角、深さは1mくらいあり、これを年に3回ほど切り返しをする。堆肥の材料は家畜の糞や山から集めた落ち葉、養蚕で出たコシタ(蚕の糞など)、醤油の搾りかすなどさまざまである。堆肥はできあがるのに1年を要し、夏ごろ作り始めて翌年までかかった。
 堆肥を人の手で運ぶときは、ニナイモッコを使って2人で担いだ。堆肥は土の中に入れていくだけでなく、作物によっては種と混ぜ合わせてポンポンと土の上に置いていく。このとき、古い椀を利用した柄杓のような道具を使った。
 タイヒシャには下肥を溜める場所もあった。入口近くに穴が掘ってあり、上に板が渡してある。主屋の汲み取り便所に溜まってくると、桶でその穴へ運んだ。これだけでも大変な作業であった。
 使用する際はここから汲み上げ、畑へ持っていく。運ぶときには木槌を使ってコエオケのフタをきつく締め、テンビンやクルマ(大八車)で運ぶ。テンビンにオケを2つ付けると非常に重く、若いうちでないととても担げなかった。また、馬を使うこともあった。馬で運ぶときには細長いコエダルに入れ、背中の両脇に1本ずつ付けた。こうすると狭いところでも入ることができた。
 化学肥料はまだあまり出回っていなかった。当時は配合肥料はなく、「タンピ(単肥)」といってチッ素、リン酸、カリウムが別々に売られていた。これらを農協から買い、作物や土壌の具合に応じて自分で配合した。
 なお肥料ではないが、モミガラを焼いて炭のような灰を作り、乾燥剤として使った。これを「ヤキヌカ」といった。

... 家畜
 伊藤家では馬を1頭飼っていた。ウマヤはタイヒシャの庇の下だった。張り出した庇の2面に壁を入れ、もう1面に「マセ(マセンボウ・馬が出ないようにする横棒)」を取り付けて、馬の出入り口としていた。耕作に使うのが目的だったが、満足に作業できるようになる前に戦争で徴収させられてしまった。牛は飼っていなかった。
 そのほか、豚を数頭飼っていた。エサはサツマ(サツマイモ)のクズなどをオオガマで煮て与え、定期的に出荷していた。

... 保管
 収穫した麦や米はクラの庇の下に一時置いた。この場所は10畳ほどの広さがあった。このほかタイヒシャも置き場所に使った。この時期になると、ちょうどタイヒシャが空くからである。主屋のドマも置き場所になった。ドマはかなり広かったが、メロンやスイカの収穫時期は足の踏み場もないほどであったという。
 モミスリを終えた米はクラに入れた。このクラには1年分の米と、そのほか小麦などがたくさん積んであった。その後、米はタワラではなくコメノカンに入れるようになった。タワラだと虫に食われるので消毒の必要があったが、コメノカンの場合は密閉されるためその必要がなかった。
 伊藤家では11月に収穫したサツマ(サツマイモ)を、翌年5月まで「モロ(室)」に保管していた。モロは主屋の北側斜面にあり、横穴式で奥行4、5間(10m近く)、幅3m程度、高さは人が荷物を背負って歩けるほどだった。モロはもともとあったが、酉造氏の代に作業しやすいよう奥行と幅を広げたのである。中は冬暖かく、夏は涼しかった。真夏でも16℃で、裸で荷物を取り込むと涼しくて気持ちが良かった。そのままムシロなどを敷いて昼寝したりすると、必ず風邪をひいたという。サツマのほかにも、蚕に与える桑をここに広げて置いていた。モロに入れておくと、他へ置くのに比べ鮮度がまったく違った。こうしたもののない時期は冷蔵庫代わりに使い、スイカなどをとってくると一番奥に置いて冷やしていた。

... 水車
 田んぼのそばに水車があった。精米に使う場合は、一度米をしゃくい出さなくてはならない。このとき、石臼の底に合わせて先が丸くなった木製の道具を使った。
 精米した米は大きな袋に入れた。この袋は1人でも入れやすいよう、口の端が切れていた。「コナミ」という目の詰まった粉専門の箕も使用した。

..(5)養蚕
... 概況
 かつて養蚕は神奈川県奨励の産業であり、特に昭和17、18年ごろが一番盛んであった。戦闘機の翼に絹が使用されていたため、当局によって養蚕が奨励されていたのである。そのころ桑畑は9反歩ほどあり、伊藤家の耕地の約半分を占めていた。
 しかし、昭和19年(1944)の食糧増産計画により、風向きが変わった。飛行機の羽根にしか使わない絹よりも、食料を作れというわけである。伊藤家ではこの命令に従って長年続いた養蚕を「すっぱり」やめ、桑の木を伐って畑を作り変えていった。酉造氏は、昭和19年当時は兵隊に行って留守であったが、復員してくると、畑にはまだ抜ききれていない桑の木が残っていたという。
 養蚕は、戦争中は年3回、多いときで4回行った。戦争中以外は春と秋のみだった。飼育する季節によって「ハルゴ(春蚕・4〜5月)」、「ナツゴ(夏蚕・8月)」、「アキゴ(秋蚕・10月)」と呼んだ。
 養蚕はザシキを中心に行い、カッテノマやデイもそれぞれ一部を使用していた。蚕が成長し、さらに場所が必要になると、主屋のチュウニカイ(中二階)、オオニカイ(大二階)を使用した。また、主屋の南側に大きな天幕を張り、外でも飼育した。
 金程は細山養蚕組合に入っていた。金程会館にある蚕影山の鳥居には、「細山養蚕組合」の銘が残っている(図版9)。

... 桑畑の手入れ
 3月、桑の木に堆肥をやることから養蚕の仕事が始まる。桑の木自体の手入れは大変ではないが、肥料はかなりたくさんやった。まだ化学肥料があまりない時代だったため、主に使用されたのは堆肥であった。
 堆肥は、前年、サツマ(サツマイモ)のサツマグラ(23頁参照)に使用したものを再利用する。しかし、それだけでは足りないので、前の年の夏ごろからカリクサ(刈り草)を積み込んだり、クズ(クズッパ・落ち葉)を集めて積み込んだりした。こうして出来上がった堆肥を、桑畑の木のあいだに溝を掘り、入れていった。
 堆肥に加え、化学肥料も使用した。チッ素の量を増減するだけで効き目が極端に異なった。

... ハルゴ
 4月から5月にかけて、桑の芽が出はじめるころハルゴ(春蚕)を始めた。春はまだ寒い日もあるため、室温を計って管理しなければならない。昔の家は隙間だらけだったので、蚕が小さいうちは部屋の隙間に目張りをした。

... 孵化
 蚕は卵から育てた。卵は、県か細山の養蚕組合からタネガミ(種紙)で買う。半紙より小さい紙に卵がたくさん産み付けられたもので、家まで届けてくれた。これを箱の中に入れ温度を保ってやると、卵が孵るのである。
 孵化したばかりの稚蚕には、桑の柔らかいところだけをクワキリダイで刻んで食べさせる。そのため、この時期は「ツメ」という道具を使い、葉だけを摘んだ。ツメは通常右手の人差し指につけるが、酉造氏は両手につけて両手で作業をした。ときどきこのツメで指まで切ったという。

... 条桑飼い
 蚕は桑の葉を大量に食べる。ハルゴには特にたくさん食べさせる。そのため、桑畑から葉を取り、運び出す作業が重要になる。次第に大きくなると食欲も旺盛になり、葉だけ摘むのでは間に合わなくなる。そこで成長すると、桑の枝ごと棚に置く方法を採っていた。これを「条桑飼い(じょうそうがい)」という。条桑飼いに使うのは、枝の延びた部分であった。
 蚕は脱皮を繰り返すごとに大きくなるため、それに合わせて飼育場所を広げる必要があった。養蚕を盛んに行っていた時期は、庭に天幕を張り、その下に棚を作って飼育した。スギ氏の柿生の実家でも、夏になると同じように外に天幕を張った。蜂が蚕を「食べ」にくるので、子供のころから蜂を追い払う番をさせられたという。

... コシリトリ
 蚕の糞と食べ残しを取り除くことを「コシリトリ」といった。「コ」は蚕、「シリ」は尻のことである。酉造氏は小学校のころからこの作業を手伝ったという。
 作業には「イトアミ」という網を使用する。まずこのイトアミを蚕の上に掛け、そこに桑の葉をのせる。少し時間を置くとイトアミの上に蚕が全部上がってくるので、これを2人で持ち、あらかじめとなりに用意しておいた台へ移す。そして食べ残しや糞を掃除し、きれいになったらまた蚕を戻す。この作業をエビラ1枚ごとに行った。イトアミは目の大きさの違うものが数種類用意されており、カイコの大きさに応じて使い分けた。
 なお、集めた糞や食べ残しは、タイヒゴヤに入れて肥料とした。

... ヒキヒロイ
 蚕は4回脱皮し、マユを作る。4回目の脱皮を終えた蚕は体が透明になり、動きが鈍くなって葉を食べなくなる。これを「ヒキ」と呼んだ。ヒキは放っておくとその場でマユを作り始めるため、間を置かずにマブシに入れなければならない。ヒキになるのは1日くらいのばらつきがあるため、なったものからキバチに拾い集めていく。これを「ヒキヒロイ」といった。キバチには木製のものと金属製のものがあったが、金属製のものもキバチと呼んだ。
 拾ったヒキは、形のよいマユを作らせるためマブシに入れた。マブシは、かつては「ワラマブシ」であった。稲ワラをマブシオリ器で織ったもので、事前に作って畳んでおいた。その後何回か改良され、昭和18、19年ごろダンボールを組んだマブシが出てきた。ワラマブシは毎年作る必要があるだけでなく、ワラの繊維がマユにくっつくため無駄が出るという欠点があった。これに対し、ボール紙のマブシは毎年繰り返し使用でき、しかも繊維が絡まることもないため、きれいにマユをとることができた。そのため、伊藤家でも農協で購入して使用するようになった。
 ヒキをマブシに入れるときは、まずクワクレダイの上にエビラを載せ、その上にエビラと同じ大きさの紙を敷く。この紙を「サンザシ」という。縦線の入った茶封筒と同じような薄い紙である。このサンザシの上へ拾ったヒキを両手で散らし、その上へマブシを載せてやる。すると、ヒキは1匹ずつ桝目の中に入り、すぐにマユを作り始めた。
 マユが出来上がると指でつまんでマブシから外す。ぐずぐずしているとマユから蛾が出てきてしまう。この時期は大変忙しいため、近所の女性を2人ほど手伝いで雇っていた。

... 乾燥
 マブシから外したマユはそのまま出荷することもあったが、乾燥庫で乾燥させることが多かった。
 乾燥庫は敷地内にあった。間口は2間ほどで、壁は土で塗り固めてあった。中に入ると、手前に2間四方ほどの作業場があり、奥に棚が設けてある。棚の幅は1間分、高さは頭より高く、エビラが10数段入るようになっていた。乾燥させるときマユを載せる台を「ムシエビラ」という。飼育用のエビラが籠目編みであるのに対し、ムシエビラは竹を格子状に編んである。このムシエビラを棚に入れ、炭火を焚いてマユを乾燥させた。
 この乾燥庫は昭和19年(1944)、養蚕をやめるまで使用した。

... 出荷
 伊藤家では、マユのまま出荷するときと、量は少なかったが糸にして売るときがあった。
 マユを出荷する際は、大きな袋に入れて大八車で運んだ。物のない時代は袋の材料も調達できず、鯉幟のフキナガシを再利用したりした。
 出荷先はほとんど、柿生の山口谷戸にあるオサキという個人商店であった。未乾燥のマユを出荷する場合は、この店で乾燥させていた。この店はまた、桑の葉の取引きもやっていた。養蚕をやっていると、景気が悪くて桑の葉が余っている、あるいは反対に出来が良くて足りないということが家ごとに起きてくる。そうしたときこの店で、どこそこで桑が余っている、どこそこが足りていない、などと世話をしてやったのである。桑の葉は半日もすれば鮮度が落ちてしまうため、直接売り買いするわけにはいかず、こうした仲介という方法がとられていた。
 自宅で糸を取るときは、マユを乾燥させたあと「マユカン」というトタン製の保管容器に入れておいた。糸取りは冬の農閑期の仕事で、マユが出来てすぐにやるわけではなかったからである。糸取りの作業はお湯を使ったので、寒い時期には手が温かくて気持ちが良かった。
 出来上がった糸は「レイテン(令点)」と呼ばれる細かい秤で重さを量り、何匁という単位で売った。糸を扱う商売の人が上麻生(麻生区)の方から買い付けに来ていた。

..(6)炭焼き
 炭焼きをやっていたのは終戦後の5、6年である。宮城県の若い衆を3〜6人ほど呼んで、冬のあいだだけやっていた。宮城県から来ていたのは、開拓で宮城へ行っていた酉造氏の弟の関係である。その土地は雪が深く、冬は農作業ができないため、若い者が「冬のあいだに何か仕事はないか」と探していたのがきっかけだったという。
 炭窯は家から近いところにあった。当時は広い山を所有していたので、そこから木を伐って焼いた。一番多かったのはコナラ、質の良い炭ができるのはクヌギであった。伊藤家ではコナラが半分、その他の雑木が半分であった。
 焼くときは炭にする木を窯の中に立て、びっちり詰め込む。そして、口元のところで一日燃やす。熱くてそばに近寄れないので、「カマヒバシ」という先が又になった1mほどの棒でマキを押し込む。炭を焼くときは一日そばにいるが、そのために炭焼小屋を作るようなことはなかった。
 炭が焼きあがると1人が窯の中に入る。そして、「スミダシカゴ」という竹のカゴに入れて窯の口から押し出し、外の者が受け取った。出来上がった炭はオート三輪に乗せ、世田谷あたりまで売りに行った。

..(7)冬の仕事
 マキや落ち葉を集める作業を「ヤマシゴト」といった。落ち葉を集めるときは「オオカゴ」という大きな背負いカゴを使った。
 また、1年間に使用するワラ製品も、この時期火のそばで作り貯めた。ダイドコロにはワラウチの石があり、材料となるワラはここで打って繊維を柔らかくする。作ったものは縄やアシナカなどである。特に縄はたくさん必要で、屋根の葺き替えなどがあるとさらに大量に準備しなければならない。そのため縄綯い機も使用した。作った縄の一部は売ることもあった。
 ワラナワだけでなくシュロナワも自分で綯った。敷地に生えたシュロの木のケバを刃物で切り取り、これを貯めて材料にするのである。
 なお、ゾウリは竹の皮で作ることもあった。竹の皮でできたゾウリは軽く、使いやすかったという。

.4 交通・交易
..(1)交通
... 自転車
 伊藤家の前山の上には鎌倉街道が通っていた。周辺には切通しがあり、そこを抜けると広い畑があった。
 移動には徒歩のほか、自転車も使用した。溝の口(高津区)などは1時間ほどかけて自転車で行った。ところどころ急坂や道の悪いところがあり、そうした場所では自転車を担いで進んだという。

... 大八車
 戦前、マユなどの出荷には大八車を使用した。酉造氏は父親が引く車の後押しをしたという。現在、麻生郵便局(麻生区万福寺)があるあたりは「スリコバチ」と呼ばれた。急な坂道である上、馬が通るために道の真ん中が窪んでしまい、スリコバチ(すり鉢)のようになっていたのである。こうした場所がところどころにあり、車輪がとられてしまうため、1人ではとても引っ張っては行けなかった。

... オート三輪車
 昭和23年(1948)、近在で一番最初に「ツノハンの三輪車」を買った。これは、自転車のような角型ハンドルのオート三輪車のことで、10年ほど使用した。
 戦後のまだ物が不足していた時代、人々は電車を使って闇物資を運んでいたが、多くは警察に見つかって没収された。しかし、伊藤家ではこのオート三輪を使用していたため、こうした目には遭わなかったという。ただし、この時期はガソリンの調達には苦労した。川崎市のガソリン配給所は2箇所ほどしかなく、金程からは溝の口まで行かなくてはならなかった。配給所への往き帰りにもかなりのガソリンを食ってしまい、割に合わなかった。
 戦後の混乱期が終わると、果物や野菜を新宿、世田谷の市場へ出荷するのに使った。帰りには登戸の床屋に寄ったりすることもできた。
 オート三輪は車庫に入れていた。これはもとマユの乾燥庫だったもので、養蚕をやめて使用しなくなったため車庫に改装したのである。その後、ハンドルはツノハンから丸いものに変わった。

... 小田急線
 小田急線が通ったのは酉造氏が小学生のときである(昭和2年)。そのころ、読売ランド前駅は「西生田」といった。百合ヶ丘、新百合ヶ丘駅はまだなく、西生田のつぎは柿生だったため、どちらの駅に出るにも遠かった。

..(2)交易
... 買い物
 大きな買い物には町田へ行った。新宿へ出ることはほとんどなく、行くのは映画を見るときぐらいであった。
 農具は町田の金物屋で購入することが多かったが、こういうのを作ってくれと鍛冶屋に注文することもあった。鍛冶屋は近所にあったほか、柿生(麻生区)、鶴川(町田市)、長沢(多摩区)などにあった。修理の際もこうした店に頼んだ。
 ワラのものは家で作ったが、竹のものは店で買った。まわりに竹があったので、職人を呼んで家で作ってもらうこともあった。竹職人は万福寺(麻生区)にいた。

... 行商その他
 魚屋は月に2回ぐらいきていた。
 富山の薬売りは昔から来ていた。今でも来ている。
 このほか片平(麻生区)のオーノ(小野)さんという呉服屋や、古着を売る人などがまわってきた。
 知らない人が泊めてくれといって来たことは、聞いた限りではない。ただ、酉造氏は明治19年(1886)生まれの父親からこんな話は聞いたことがあるという。あるとき家に、見ず知らずの人が「おひかえなすって」といって来た。両親はその男にお金を渡し、追い返した。鎌倉街道が近いので旅の人がまわってきたのかもしれない。しかし、廃藩になって何十年も経つのにこういう人がいるのかと、酉造氏の父親はびっくりしたという。

.5 年中行事
... ススハライ
 ススハライは12月30日までにやっておくものである。伊藤家では毎年、暮れの25、26日ごろに済ませていた。
 ススハライには竹を使った。長い竹を1本伐ってきて、上の方だけ枝を残し、箒状のものを作る。これで天井の隅や梁の上などを払うのである。昔の家ではクモの巣などがケム(煙)に捲かれて「スス」となり、天井や柱を汚した。ススハライをすると真っ黒になってしまい、なかなか大変な作業であったという。
 ススハライをした後は正月用の注連縄などを綯った。そのため、この日は1日中忙しかった。

... 正月の準備
 注連縄はヨクミ(四組)用意し、神棚、コージンサマ、オイナリサマ、白山神社の4箇所に張った。形は「ハッチョウジメ」といい、幣束が8本下がったものである。注連縄をぎゅっと絞るとあいだに隙間ができるので、そこに幣束を差し込んだ。
 注連縄は家で作るが、幣束は近くの天理教会が持ってきた。しかし、終戦直後は幣束も自分で作らねばならず、紙がなかったので代わりに「ワラのシッポ」を垂らしたという。
 正月は神棚に「トシガミ」を祀る。トシガミのお札は登戸の丸山教会が出し、細山神明社から配られた(注6)。いくらかを納めると役員が持ってきてくれるのである。この役は回り持ちで、2年に1回交代した。
 餅を搗く日は大体決まっていた。伊藤家では搗くのは12月29日、切るのは30日だった。供える場所は、神棚、トシガミ、仏壇、コージンサマ、エビスダイコク、白山神社と、クラの裏のオイナリサマである。大きさは神棚へ供えるものが一番大きく、直径15cmほどである。お供えは二段重ねだったが、餅が柔らかいため重ねてもなかなか高くならず、平たくなってしまったという。餅の上には特に何も飾らなかった。
 門松はかつて、3mほどの真竹と5mほどの松で作った。ジョウグチ、すなわち敷地の入口の左右に杭を打ち、自分の山から伐ってきた竹と松を1組ずつ括りつけるのである。立てるのはこのジョウグチだけで、それ以外の場所へ飾ることはしない。こうしたやり方は伊藤家だけでなく、周囲の家はどこも同じであった。飾りつけは30日に行う。「一夜飾りはいけない」といい、31日にやることはなかった。

... 大晦日
 大晦日には年越しソバを食べた。ソバとはいっても、小麦粉のみで作ったものでうどんだった。
 この夜、香林寺(麻生区細山)へ除夜の鐘を撞きに行くことがあった。香林寺は来た人はみな撞いてよかった。潮音寺(麻生区高石)も誰が撞いても良かったが、撞けるのは108名だけだった。

... 三が日
 初詣は細山神明社(麻生区細山)に行く。夜中出かけ、帰って少し寝たら雑煮作りをした。
 三が日のあいだ、朝の雑煮作りは男がやると決まっていた。しかし、現在はこうした役割分担ははっきりしなくなっている。雑煮にはネギ、サトイモ、餅を入れる。餅は焼かないままである。つゆは醤油仕立てで、出汁はとらず醤油の量だけで味を加減した。
 三が日は朝晩2回、雑煮の中身を皿に載せ、神棚、仏壇、オイナリサンなどのほか、門松にも供える。このときお灯明も上げる。これも大体男の役目であった。現在でも三が日はお灯明を上げている。
 若水を汲むようなことはなかった。また、お屠蘇という言葉はあったが、実際に飲んだことはなかった。
 3日は獅子舞がまわってくる。細山神明社の獅子で、舞うのは地元の若い衆(青年団)である。かつては集落の家を片っぱしからまわっておひねりを集めたが、現在まわるのは申し込んだ家のみである。

... 1月4日
 1月4日の朝、門松をはずす。3日の夜にやることもあった。酉造氏が子供のころは、門松はすべてサエノカミのコヤの材料に使っていた。

... 年始まわり
 年始まわりは元日から1週間以内に行った。親戚同士日程をずらして訪ね合うが、行き来する日が毎年決まっており、あらためてサタ(沙汰・連絡)することはなかった。
 酉造氏の家には5日に集まると決まっている。集まる人数は世代によってまちまちだが、少ないときで5、6人、最近は孫ができたので人数が多くなったという。このため4日は食材などの買出しで忙しい。

... 仕事始め
 仕事始めは何日というキメは特になかった。最近は栽培している野菜の種類が家によって違うため、始める日はバラバラである。

... ナナクサガユ
 1月7日はナナクサガユである。この粥には神仏に供えた雑煮を入れた。そのため、三が日に神棚などに供えた雑煮は、下げたあと弁当箱に保存した。
 この日も神仏にお供えをし、お灯明を上げた。

... クラビラキ
 1月11日はクラビラキである。この日は1日中クラの扉を開けておき、中に供え物を置いた。供え物は、白いご飯、アゲ、それからお茶で、これをお盆に載せお灯明を上げる。この行事は現在もやっている。

... コヤ作り
 正月三が日が過ぎると、子供たちは家々をまわり、サエノカミに使う門松を杭ごともらい集めた。当時の門松は非常に大きかったので、子供たちは引きずって運んだという。材料をまとめる場所は毎年決まっていた。そこは草を刈る以外使用しない土地であった。
 6日になるとコヤを作り始めた。まず、円を描くように門松の杭を地面に立てる。それに竹を結んで端をしばり合わせ、円錐形を作る。そのあと松をつけ、周囲をワラで囲むとコヤができた。円錐の一番上にはダルマサンを吊るした。
 コヤの壁には入口を1箇所設けた。中には中央に囲炉裏を作り、その中にサエノカミの石を置いた。この石は何も刻んでおらず、サエノカミが終わった後はそのまま同じところに転がしておいた。
 子供だけでコヤを作っていたのは酉造氏の時代までである。当時は中学生以下の男の子だけの行事だったが、戦後、兵隊帰りの人たちが参加し始め、次第に大人が中心になっていった。

... マユダンゴ作り
 サエノカミの数日前、家でマユダンゴ(マユダマダンゴ)を作った。材料はうるち米の粉で、色付けはせず、形はすべて丸かった。この団子はマユになぞらえたものだという。団子は家で飾るものと、サエノカミへ持ってゆくものと、2種類を用意した。
 家で飾る団子は樫の枝に飾りつけた。この枝は2mほどの大きなもので、そこに1臼分(3升)の団子と、彩りのためのミカンを挿した。終戦直後はミカンが手に入らなかったため、ミカンと同じくらいの、通常の3倍ほどある団子を代わりに挿したという。木は樫と決まっていた。これは、「貸し借りがどうの」という意味合いがあったという。こうして団子を枝に挿すのは、保存用に乾燥させるためでもあった。
 この飾りは、ザシキとデイの境にある柱にしばりつけた。このほか、小枝に挿したものも作り、神棚などに飾った。

... サエノカミ
 1月13日は昼から近所の家をまわり、お賽銭と餅をもらい集めた。夜になるとコヤの中でお雑煮を作り、もらったお金で買った菓子を食べたりして遊んだ。
 14日はサエノカミである。この日の朝コヤを燃やし、家から持ってきた団子を焼いて食べた。こうすると風邪を引かないといわれていた。
 サエノカミは豊作を願う行事だという。酉造氏が子供のころは金程町会13軒で盛んに行っていたが、戦後、区画整理でコヤの場所がなくなったこともあり、次第に廃れていった。サエノカミの石もいつのまにかなくなってしまった。しかし、最近になって近隣の金程富士見町会、金程向原町会から話があり、3町会合同で復活させることになった。場所は金程小学校の校庭を借り、名前もドンドンヤキと改めた。大人中心にやっているが、規模は年々大きくなり、近年では見物客を含め500〜600人ほど集まるという。

... 1月15日
 1月15日はナントカ正月と呼ばれていたが、酉造氏はよく覚えていないという。この日は農家の休みの日で、神仏にお供えとお灯明を上げた。
 家に飾っていたマユダンゴはこの日に下ろした。ダンゴはとっておき、煮たり焼いたりして食べた。
 「正月」は元日から15日までであった。

... 二十日正月
 1月20日を「ハツカショウガツ」と呼んだ。しかし呼び名があるだけで、この日に何かをやるわけではなかった。

... 節分
 2月3日に豆撒きをした。炒った豆を、主屋の部屋すべてとシモヤ(付属屋)、それから敷地内のお宮に撒いた。撒くのは家の主人で、「鬼は外、福は内」と言いながらやった。豆撒きの後は、自分の歳の数だけ食べろと言われ、豆を食べた。現在は、小袋に入っている既製品を供えるだけである。

... メカリババァ
 節分と同じ日、「メカリババァ(メカリバァサン)」を行った。
 「イモフリ」という目の大きなザルを、5〜6mほどもある竹竿の先にかぶせる。これを屋根に1日立てかけておくのである。イモフリが屋根から落ちてこないよう、竹竿は下から支えるように斜めに立てた。
 メカリババァは目が悪くならないようにというおまじないだと、酉造氏の母は言っていたという。

... 初午
 2月の初午は金程会館に集まり、蚕影山のお宮にお参りした。最近は勤め人が多いため、初午ではなく近い休日に行っている。現在は幟を立てて油揚げを供え、中で一杯やるだけである。
 会館が建てられる前はお宮が山の上にあったため、そこに集まった。現在は大人だけの行事だが、かつては皆が顔を合わせる年に一度の機会で、子供たちは太鼓を叩いて山まで行った。当時もさほど盛んではなく、決まって作る料理などもなかったが、楽しく一杯やったという。
 この日はヤシキのオイナリサンにもお供えをする。供えるものは油揚げ、お赤飯、メザシで、お灯明とお神酒も上げる。同じものを敷地内の白山神社にも供える。かつてオイナリサンのお宮の前には幟も立てたが、やらなくなってしまった。(44頁参照)
 この日はまたヤッカガシもやった。「ヤッカガシ、ヤッカガシ」と言いながらイワシの頭を焼き、ヒイラギの枝と一緒に、主屋や敷地内のお宮の入口に挿した。

... 三月節句
 3月3日は女の子のセックである。
 ひな人形はザシキに飾った。向きは、ドマの方を正面とした。子供たちが他の家のひな人形を見に行ったり、来たりすることはなかった。

... ヒガンヤスミ
 彼岸は「ヒガンヤスミ」といい、休みだった。この日はボタモチを作って食べた。
 彼岸中、ボサン(墓参)に行った。現在でも酉造氏の父親の兄弟や、酉造氏の弟などが墓参りに来る。

... 花祭り
 4月8日は戦前まで花祭りを行っていた。酉造氏の母が香林寺の御詠歌の集まりに入っており、年中寺へ行っていたため、ついでに花祭りにも行った。なお、この御詠歌は地域の集まりで、檀家かどうかは関係なかった。

... 五月節句
 5月5日は男の子のセックである。
 鯉幟を飾る竿を「ハチケンザオ(八間竿・約16m)」という。これは立てるのが大変だった。酉造氏の兄弟のときまではこの竿を使ったが、その後、幟は家の中に飾るようになった。
 五月人形は、ひな人形と同じくザシキに飾った。向きも同じく、ドマの方を正面とした。このとき、後ろの壁に武者絵の掛軸を何本も下げた。

... 大國魂神社の暗闇祭り
 酉造氏は若いころ、暗闇祭りを見物しに大國魂神社(府中市)まで2、3度行ったという。徒歩だと片道1時間ほどかかった。酉造氏は見物のみだったが、同じムラには2人ほど神輿を担ぐ人がいた。神社の講社に入ると、白装束のようなハッピを借りて神輿を担ぐことができた。

... 七夕
 七夕の行事はなかった。

... オヒマチ
 7月、ウエタが終わるとオヒマチを行った。この日は1日休みで、当番の家に集まってゴチソウを食べた。この行事をやっていたのは金程の戸数が増える前である。当番は輪番制で、毎年となりからとなりへと移った。日取りは当番の都合で決めていた。

... オセガキ
 8月11日は菩提寺の潮音寺にオセガキに行った。

... 盆
 盆棚は8月13日の昼間作った。場所はカッテノマのデイ境の戸の前である。
 まず、間隔を少しあけてヨントダル(四斗樽)を2つ置く。その上に戸板を1枚渡し、台とする。そしてその上にゴザを敷き、ヨントダルが隠れるよう前へ垂らす。
 ゴザの上には位牌をはじめ仏壇の中のものを移し、空になった仏壇は扉を閉める。背後の戸の左端には十三仏の掛軸を吊るす。
 つぎに、台の周囲に竹を立て、倒れないよう固定する。現在は前に2本しか立てないが、かつては台の四隅に1本ずつ立てていた。竹は葉が付いたまま使い、高さは天井に届くぐらいにする。この4本の竹に注連縄を渡し、家で採れたサツマ(サツマイモ)やホオズキなどをぶら下げた。
 台が完成したら供え物を並べる。その時期に採れた野菜、スイカなどの果物、それからサツマである。そしてご飯にお茶とお水を付けたお膳を供え、お灯明を上げる。お膳に水を付けるのは、ホトケサマは特に水が必要だからだという。さらに、ナスのウシとキウリ(キュウリ)のウマを供える。いずれも脚にゴマガラを使い、家で作る。
 なお、台の足もと、すなわち樽と樽のあいだにも同じお膳を入れる。酉造氏はこのお膳について、子供のためと、寺のお坊さんから聞いたことがあるという。
 13日の夕方、迎え火を焚く。焚く場所は、墓地へ行くとき1番最初にある辻の端である。最近は道が舗装されているため、土のある所を選んでやっている。
 用意するものは、ミソハギ、タイマツ、ナスのウシである。ミソハギはサトイモの葉に水を入れ、細かく切ったナスを浮かべたものである。タイマツはムギガラを細く束ねたもので、これを4、5束用意する。そしてナスのウシは、ホトケサマを乗せて帰ってくるといわれるものである。
 タイマツの1本に火をつけ、家の主人が持つ。ほかの家族はミソハギとナスのウシを持ち、鉦を叩きながら辻へ行く。辻に着くと、もう1本のタイマツに火を移し、そこで燃やす。タイマツとミソハギはその場に置き、ウシは持ち帰ってくる。
 送り火は16日である。このときはキウリのウマを辻まで持って行き、火の傍らに残して帰ってくる。

... お月見
 9月の十五夜、10月の十三夜ともお月見をした。お供えには、上新粉で作ったお団子、まんじゅう、ススキ、ゆで栗、お神酒を用意し、机にのせてエンガワに置いた。また、十三夜には収穫がはじまった禅寺丸も供えた。
 お団子は、十五夜には15個、十三夜には13個供える。まんじゅうは大きいので、十五夜には5個、十三夜には3個供える。供え物は手に取ってすぐ食べられるよう、火を通しておいた。近所の子供が盗りに来るからである。酉造氏も子供のころに数回やった記憶があるという。
 十五夜にお供えをしたら、十三夜も必ず行った。十五夜は覚えていても十三夜はうっかり忘れることがあるのだが、「カタミヅキ」はいけないと言われ、片方をやったらもう片方も必ず供え物をした。

... 細山神明社の祭り
 9月24日は細山神明社のお祭りだった。昼から夜にかけて行われ、歩くと30分ほどかかったが、みな見物に行った。祭りには、多いときは10軒ほど屋台が並んだほか、余興としてお囃子や芝居、ヒョットコ等のバカメンをつけた踊りなどが出た。
 芝居は終戦ごろまで行われていた。社務所を兼ねた舞台を使い、本職の芸人を呼んでいた。酉造氏の記憶では、芝居のことを「シバヤシ」といい、芸人は矢野口(稲城市)から来ていたという。芝居が立つときは親戚も呼び、ゴチソウを持ってお宮に見物に行った。当時は神明社のほかにも、秋はあちこちで芝居が立った。
 祭りは現在も10月初旬の土曜日に行われ、近年はカラオケ大会などをやっている。

... 冬至
 冬至にはフロにユズを入れた。「ユーズ(融通)がきくように」という意味があるのだという。しぼるといいにおいがする。今も毎年やっている。


.6 人生儀礼
..(1)婚礼
... 結納
 酉造氏夫妻は青年団のつながりで1月ごろ知り合い、5月には結納、そして10月に式を挙げたという。
 結納は大安の日を選び、女性の家へ行く。結納品はコンブなどである。このとき当人2人と両親のほか、互いの媒酌人とジシンルイが立ち会う。媒酌人は夫婦が務めるが、結納には男だけが出ることになっていた。
 結納のお返しは結婚式の日に渡す。もらったのと同じような品を婚家に届け、袴代として結納金の3割ほどを返した。

... 媒酌人など
 結婚の際には媒酌人のほか、立会人、仲人などを関係者が務めた。
 媒酌人は新郎側と新婦側と両方で立てる。務めるのは親戚以外の夫婦である。結婚後5〜7年ほどは付き合いが続き、3月にはヒシモチ、5月にはオカシワ(柏餅)、暮れには酒など、折々に付け届けをした。
 酉造氏のときは、伊藤家側は媒酌人のほか立会人もいた。立会人はジシンルイが務めた。このほか、仲人を青年団の団長が務めた。

... 嫁入り道具
 嫁入り道具は結婚式の3〜1週間前に新居へ運んだ。
 道具は式が終わるまで、ザシキのカッテノマ側に広げておく。これは披露宴の客に見せるためであった。

... 嫁入り行列
 結婚式と披露宴は、大安を選び同じ日に行う。酉造氏夫妻はいずれも旧住宅で行った。
 式当日、新婦は新婦側の媒酌人に付き添われ、新郎の家へ向かう。実家を出るときに特別な決まりごとはなかった。
 スギ氏が車で来ると、オチョウチンを持った金程ムラの人が数名迎えてくれた。その人たちから「ここからは歩いた方がいいよ」と言われ、嫁入り行列というほどのことはなかったが、彼らと一緒に歩いて伊藤家へ向かったという。
 新婦はトンボグチから家に入る。トンボグチ手前の両側でワラを焚き、ほとんど灰になったところを踏んで中へ入った。一方、結婚式の客はエンガワから家に上がった。

... 三々九度
 新婦が新郎の家に到着すると、しばらくして三々九度が始まる。始める時間には特に決まりはなかった。
 三々九度はヘーヤで行う。入口を背に新婦が座り、向き合って新郎が座る。両脇にそれぞれの媒酌人、ほかに仲人やジシンルイなどが立ち会う。お酒を注ぐ役は5〜6歳ぐらいの男女の子供が務め、男の子は新郎に、女の子は新婦に注ぐ。このときの立ちまわりには、右廻りにまわらなくてはならない、懐廻りではいけないなど、細々した決まりがある。子供たちはそうした決まりごとを、こう向くんだ、あっちからまわるんだ、などと媒酌人に教えられながらやったという。

... 披露宴
 三三九度が終わると披露宴である。酉造氏夫妻のときは夜だった。集まる人数は親戚の多寡によって異なるが、酉造氏のときは、新郎側は兄弟と叔母たち、新婦側からは親戚が数名集まった。このように人が集まるときはザシキとヘーヤの仕切りを外し、部屋をつなげて会場とした。
 披露宴の料理はジシンルイなどが手伝い、魚のほかはほとんど自宅で作った。この席に出すご飯は、茶碗を伏せた形に高く盛りつける。これを「オタカモリ」と呼ぶ。魚は出来上がったものを店から持ってきてもらう。伊藤家では高石の「チヨさん」という魚屋からとっていた。
 披露宴の司会はジシンルイが務める。この役はしゃべるのが上手下手ではなく、ジシンルイの中で一番の親戚がやると決まっていた。

... 衣装
 新婦は黒留袖に袋帯を締めた。頭は文金高島田に結い、白い角隠しをつける。新郎の方は紋付と袴であった。
 記念写真は普通結婚式の当日撮ったが、酉造氏夫妻のときは翌日にした。そのため改めて着物を着なおした。

... 見物人
 結婚式当日は、近所だけでなく、細山の方からも「シモ(伊藤家の屋号)の嫁さん見に行く」ということで人が集まってきた。障子は結婚式に合わせて張り替えるが、少し開けておかないと、見物に来た人が指で穴だらけにしてしまった。
 スギ氏は自分も、「見に行こうよ」といって、他の家の花嫁を見に皆で出かけたことがあるという。

... 挨拶まわり
 結婚式が終わると、新婦はムラのジシンルイの女性につれられて、金程ムラ全軒に挨拶まわりをした。酉造氏夫妻のときは翌日だったが、普通は式が終わるとすぐに出かけ、自分の名前を付けて半紙2帖を配った。この習慣はのちに廃止された。
 また、結婚式の3日後には近所中にボタモチを配った。これを「ミツメノボタモチ」という。数が多いので作るのは大変だったという。

... 新婚旅行
 酉造氏夫妻が式を挙げたのは、農作業が一番忙しい時期だった。そこで新婚旅行は延ばすことにしたが、そのまま行きそびれてしまったという。

..(2)産育
... 妊娠
 妊娠しているかどうかはオサンバ(お産婆)に行って確認した。しかし、今のようにしげしげ病院に行くことはせず、1度行ったら産まれるまで行かないことが多かった。
 妊娠中にやっていけないことは特になかった。また、食べていけないものも特別ないが、人によってはつわりでまったく食べられないものも出てきた。
 安産祈願などは特に行わなかったが、5ヶ月目の戌の日には腹帯を締めた。これは「寿」の印を押した紅白の帯で、実家の方から持ってくる。初めてのときは実家側の媒酌人の女性が来て締めてくれるが、2人目、3人目になると帯も自分で締めた。

... お産
 かつては産む直前まで普通と同じように働いた。
 お産には伊藤家ではデイを使ったが、どの部屋を使うかは家によって異なっていた。部屋に敷くのは布団だけで、他に何かを敷くことはなかった。
 お産は大体夜中で、昼間産む人などいなかったという。このあたりでは鶴川にオサンバがおり、酉造氏はお産のたびにオート三輪で迎えに行った。あるとき、夜中に産気づいてオサンバを迎えに行ったが、違う家のお産に出ていると言われた。そこで出先を訪ね、その家のお産が終わるのを待って自宅へ連れ帰ったことがあったという。オサンバは赤子を取り上げ、へその緒を切る。産湯にはナガシの水を沸かして使った。

... 産後の禁忌
 出産から21日間、あるいはお宮参りが終わるまでは、体がよごれているといわれた。このため風呂には入れず、井戸や神社に近づくこともできなかった。体を洗うときは外のロウカにタライを出し、赤子とともに腰湯を使った。このお湯は姑がナガシの水を沸かして用意してくれた。

... ミツメノボタモチ
 出産から3日目に、「おっぱいが出るように」と姑がボタモチを作ってくれた。これを「ミツメノボタモチ」といい、近所中にも配った。

... お七夜
 お七夜は行わなかった。

... 名付け
 名前は生後14日以内に付ける。誰が付けるという決まりはなく、長女のときは酉造氏の妹たちが名前をつけた。また現在のように、半紙に名前を書いて貼り出すこともしなかった。

... お宮参り
 お宮参りには細山神明社へ行った。母親は産後21日間は神社へ行くことができないため、つれて行くのは姑の役目であった。赤子には丈の長い少し良い着物を着せ、お米や赤飯を持って行った。
 子供が生まれると、「赤ちゃんに」といって親戚が着るものなどを持ってくる。このお返しとして、お宮参りのあとお赤飯を配った。こうしたやりとりが特に長男長女の際には多く、大変だった。

... 井戸のお参り
 生まれて21日すると、赤子に白手拭いを被せて井戸につれて行き、イドガミサマにお参りさせた。産後21日間は井戸に寄ってはいけないとされていたので、つれて行くのは姑の役目であった。酉造氏の母はこうした神仏のことをきちんとする人で、「(イドガミサマがいるので)そこで洗濯しちゃいけないよ」などと言っていた。

... 食い初め
 出産から100日目に食い初めを行った。お膳にのせた食事を、赤子の口に持っていくだけのものである。食事は別に良いものを用意するわけではなく、普通のものであった。

... 初節句
 初節句にも特別人を招いて祝うことはないが、お祝いのやり取りはあった。
 3月の女の子の節句には、母親の実家がトノサマとオクサマの人形を持ってくる。他の人形は親戚が持ってくる。お返しにはヒシモチを作り、親戚中に配った。ヒシモチは家で餅を搗き、カタイタ(型板)に入れて作る。この型は1臼入る大きなもので、ヒシモチを4枚切り出すことができた。色は白、赤、青の3色で、赤と青は色粉で着けた。
 5月の男の子の節句には、親戚がコイノボリや弁慶、金太郎などの人形を持ってくる。女の子の初節句とは異なり、誰が何を持ってくるという決まりはなかった。ノボリザオは家で用意したので、大きいノボリをもらうと大変であった。お返しにはオカシワ(柏餅)を作り、親戚中に配った。

... 初正月
 初めての正月には、親戚が正月の飾りを持ってきた。男の子には「ユミハマ」という箱に入った弓、女の子には長さ1mほどの大きな羽子板である(図版10)。これらを以前にもらったものと一緒に、ザシキに並べて飾った。ユミハマ、羽子板については、お返しをする必要はなかった。
 金程周辺では、こうしたユミハマや羽子板などは町田で購入していた。福田屋などはよく利用したという。

... 餅を背負わせる
 1歳の誕生日前に赤子が歩いてしまうと、1升餅を背負わせた。重くて背負えないが、それでよかった。

... 七五三
 七五三は細山神明社へ行く。女の子は3歳と7歳、男の子は5歳だった。
 3歳のときは、母親の実家が着物を持ってくる。他の親戚は着物や反物、お金を持ってくる。お返しには赤飯のほか、鰹節かスルメを添えて配った。実際は鰹節を付けることが多く、包むときには2本を腹合わせにした。

..(3)成人・厄年
... 成人
 酉造氏のころは成人式というものはなかった。満20歳になったとき兵隊検査を受け甲種合格したが、このときもお祝いなどはしてもらわなかった。ただ、出征のときはお祝いをしてもらい、駅まで楽隊で送られた。

... 厄年
 厄年にも厄除けなどは行わなかった。やる人はほとんどいなかったという。

..(4)葬儀
... 通知
 人が亡くなるとムラの当番が知らせにまわった。この役を「ヒキャク」という。ヒキャクは1人ではなく、必ず2人ずつ組んだ。
 かつてはヒキャクが、金程全軒とその他の親戚を手分けして歩いた。親戚の多い家のときはヒキャクも多く出た。遠くても歩く場合もあったが、自転車で行くこともあった。

... 通夜
 ホトケサン(遺体)はデイに寝かせ、近い親戚はそのまわりで、ほかの親戚はザシキで待機した。
 枕元にはお膳を置き、箸1膳を立てたご飯、マクラダンゴ6つ、そして水を供える。ご飯は茶碗を伏せた形に高く盛る。マクラダンゴを6つ供えるのは、六地蔵と関係しているという。こうしたものはムラの人が作ってくれた。作る場所は普段の食事のときと同じであった。
 また、枕元か布団の上に魔よけとして刃物を置いた。これは家族が用意して行うが、菩提寺の宗派によっては坊さんが置き、置き場所も多少異なることがあった。現在、これらの用意は葬儀屋がやっている。
 通夜にはオテラサンから坊さんを呼んだ。

... 葬式
 農家では葬式などは堅くやり、通夜や葬式には友引の日を避けた。
 葬式も通夜と同じくデイで行った。当日は、供えたお膳のうちマクラダンゴだけを新しく6つ作る。棺桶は長い寝棺で、棺の上にも刃物を置く。位牌は白木のものを安置した。
 葬式の日も通夜に引き続き、オテラサンから坊さんを呼んだ。

... 出棺
 葬式が終わると出棺である。参列者はトンボグチから出入りするが、ホトケサンはエンガワから外へ出した。これは現在も同じである。
 棺を担ぐときは専用の台に載せる。前後に2本ずつ棒が出ているもので、普段はクラブ(注7)に置いてあった。
 出棺の際はまず、ニワ(家の周囲)を左まわりにミマワリ(三廻り)する。それからジョウグチを出て、墓地へ向かう。これは現在でも行う家が多いという。

... 葬式行列
 墓までの道は、ホトケサンに近い者ほど前を歩く。行列には、棺を担ぐ人、位牌を持つ人、ご飯と作り替えたマクラダンゴなどをのせたお膳を持つ人、そのほか旗を持つ人がいた。この旗は竹にピラピラした紙を付けたもので、宗派によっては使わなかった。
 棺、位牌、お膳を持つ役の人は、ムラの人が作ったワラジを素足に履く。このワラジは埋葬が終わった帰り、「逃げてくるから」ということでドウザカあたりの辻に置いてくる。そのため、帰りに履くハキガエ(履き替え)をあらかじめ持参した。普通の履き物(ゾウリ)で行列につくのは、ほんの2、3人であった。

... 灯籠
 家から墓地までの辻々に、ダイコンとサトイモを竹に刺し、そこにロウソクをつけたものを立てた。灯籠に見立てたものである。(図版11)
 ダイコンとサトイモは皮を剥いて茹でる。竹は大量に伐って細く割り、両端を尖らせる。いずれもムラの人が用意し、みんなで立てた。
 この灯籠は、その日のうちに抜いた。

... 墓地
 金程では昭和53年(1978)の区画整理まで土葬であった。墓地も各家ごとにあり、伊藤家では主屋の北に位置する山の上に墓があった。そこには伊藤家のほか、2つの家の墓があった。
 その後、金程会館のところに集団墓地を作り、火葬しなおして埋葬した(図版12)。伊藤家の菩提寺は潮音寺だが、墓はこの集団墓地にある。

... 穴掘り
 土葬のころ、墓穴はムラの当番が掘った。当番は4人で、「タイヤク(大役)」2名、補助2名である。回り持ち制で順序は決まっていたが、妊婦のいる家は飛ばすことになっていた。
 当番になると、半纏、サンジャク(三尺帯)と穴掘りの帳面がまわってくる。シャベルは各自持参する。普段使用しているものを使うため、掘った後は塩でお清めをした。
 掘っているうちに、前に埋葬された骨が出てくることがあった。酉造氏がヤクになったとき、頭蓋骨が4つも出てきたことがあるという。
 半纏、サンジャクは葬式を出した家で洗濯し、帳面とともにつぎの葬式まで保管した。

... 埋葬
 棺を埋めると、その上に丸いツカ(塚)を作る。周囲に丸のままのホソダケ(細竹)4本を立て、それらの先をツカの上で束ねる。ちょうど四角錐の形である。束ねた先は丸く曲げてしばり、そこに「イモフリ」というザルをかぶせる(図版13)。かぶせるイモフリは底を抜くが、底がすでに抜けているボロを使ってもかまわない。このため底抜けザルを普段使っていると、「アリャ死んだ者か」と言われたという。こうした竹やザルも、あらかじめムラの人が用意した。
 ツカの上の竹やイモフリはそのまま置いておく。1年も経つと腐って落ちてしまった。

... 精進落とし
 精進落としはザシキで行った。タイヤクは「ショウザ(正座・ザシキのデイ側)」と呼ばれる上座に座り、このタイヤクが「ごちそうさま」を言わぬうちは他の人は席を立てないことになっていた。ただし、この席はジシンルイが仕切るので、頃合いになるとこの司会が座を締めた。
 精進落としの最後はソバを出した。こうした席にソバは付き物で、「おソバが出ないから帰ることはできねぇ」という言い回しもあった。

... 手伝い
 ムラの人は、亡くなった当日、通夜、葬式と、3日間手伝いに出た。そのため、葬式が出ると忙しくて大変だったという。
 ムラではさまざまな仕事を手伝い、料理なども作った。手伝いの人々には、葬式の翌日お墓参りをしてもらった。

... 四十九日まで
 初七日は葬式と一緒に行う。そのため七日目には墓参りだけをした。
 埋葬したツカには、葬式から四十九日までの忌日と戒名を書いた板を立てる。そして、お参りを済ませるたびに、その板の忌日のところを墨で消していく。かつてはそのために墨を持って墓参りに行ったが、今はマジックだという。これを四十九日まで行った。

... 四十九日
 四十九日は、オテラサンを頼んでおいて家でお経をあげてもらい、墓参りをした。
 墓から帰るとザシキで食事をする。この日も最後にソバを出すが、これはその場では食べず、折り詰めにして持ち帰ってもらう。引き物にはこのほか、葬式饅頭などを出した。

... 法事
 法事は三十三回忌で終わることが多い。五十回忌というのも聞くことはあるが、あまりない。
 三十三回忌には親戚を呼び、オテラサンを頼んで供養した。


.7 信仰
..(1)氏神・菩提寺
 伊藤家は細山神明社(麻生区細山・図版14)の氏子である。かつては金程にも神明社があったが、明治期、その他の神社とともに細山神明社に合祀された。伊藤家にはこの神明社の太鼓が伝わっている。なお、細山神明社には多くの絵馬が奉納されているが、納めているのはワキの人で、地元の人が願掛けに行くことはあまりなかったという。
 菩提寺は臨済宗潮音寺(麻生区高石・図版15)である。金程ムラ13軒のうち、潮音寺の檀家は6軒ほどと一番多く、ほかに高勝寺(稲城市・真言宗)と修廣寺(麻生区片平・曹洞宗)の檀家があった。香林寺は御詠歌の関係でつながりはあったが、檀家は1軒もなかった。

..(2)家の神
... 神棚
 デイの神棚には細山神明社のお札が祀られていた。正月のトシガミサマもここに祀った。
 また、神棚にはダルマが載っていた。良いことがあると翌年は前の年より少し大きいダルマを買い、だんだん大きなものにしていく。そして一番大きなダルマになったら、つぎはまた一番小さなものから始めるのである。ダルマは昔から麻生不動(不動院・麻生区下麻生)のダルマ市で購入していた。現在も、麻生不動では火災除けのお札を買っている。

... エビスダイコク
 カッテノマの戸棚の上にエビスダイコクが祀られていた。旧住宅のこの木像が、現在も伊藤家の神棚に祀られている。

... オイナリサン
 現在、主屋の裏にあるオイナリサンは、以前はソダゴヤと池のあいだにあった。稲荷社ではあるが、金程会館にある笠間稲荷とは関係が無い。また祠の中にお札などは入れていない。現在でも節分には豆を撒き、初午にはお供えをする。

... イドガミサマ
 井戸にはイドガミサマがいるとされていた。祠があるわけではないが、下着などは井戸の傍らで洗うことは禁じられており、井戸のシモの方で離れて洗濯した。子供が生まれると、イドガミサマに顔を見せに行った。(39頁参照)

... 白山神社
 現在、主屋の脇にある白山神社は、元は伊藤家の山の上にあった(注8)。酉造氏の代にソトミヤ(外宮)を作り、祠を山から下ろして中に入れたのである(図版16)。石段も山の上にあったときのものである。ただし元は30数段あったため、余ったものは祠の土台にし、さらに土台の下にも埋めてある。屋根は現在柿葺きだが、移築前は鉄板だった。
 この祠は山にあったときから歯の神様として知られ、近所の人も願掛けに来た。歯が痛いとき、供えられている箸を2本借りて行き、食事に使う。箸は萩の茎を切ったものである。そして治ったら同じものを作り、10本にして返す。箸は現在も供えられているが、これは伊藤家でやったものである(図版18)。
 白山神社にも正月は供え物をし、節分には豆を撒く。また、2月の初午にもオイナリサンと同じものを供えた。

..(3)その他
... 講
 金程会館の敷地内にお宮がある(図版19)。このお宮は中央で分かれ、笠間稲荷と蚕影山が並んで祀ってある。かつては山の上にあったが、宅地造成を機に移築し、その後さらに移して現在地に落ち着いた(注9)。山の上にあった当時も半分に分かれていたという。
 笠間稲荷、蚕影山とも講がある。講員は同じ顔ぶれの17軒ほどである。代表は宮田家が代々務め、そのほかに世話役が2人、2年の任期で講員から選ばれた。
 笠間稲荷の方は、2年に1度、茨城の本社(笠間市)へお参りに行く。秋大祭が10月にあり、神社から案内が来るので、日程はそれに合わせる。行くのは4人ほどである。車で行って午前中に参拝し、お札をもらって午後3時ごろ帰ってくる。金程会館に着くと皆で一杯やり、お祭りをした。古い札は笠間稲荷に納めず、サエノカミで焼いた。
 一方、蚕影山の方は2月の初午に行事を行った(34頁参照)。
 このほかにも地域で行う講はさまざまあり、モチマワリネンブツなども行われていた。なお、近隣に御嶽神社(麻生区千代ヶ丘)があるが伊藤家は関わっていない。御嶽講をやっているのは細山地域で、金程には入っている人はいなかった。
 講は、そういうことが好きな人が1人いると盛り上がった。しかし、その人がいなくなると、つぎに盛り上げ役が出てくるまでダレてしまうものだという。

... お札
 お札を配りにくる人がたくさんやってきた。こうした人は現在も来ることがある。
 逆に、札をもらいに行くことはほとんどなかった。徒歩で移動することが多かった時代は、旅行そのものもあまりなかった。ただ、富士山へお参りに行って札をもらったことはあるという。

... 出征祈願
 酉造氏が出征する際、周囲の人が千人針をして腹掛けを作ってくれた。白い布地に赤い糸で、千人分の結び目がきっちり作ってあった。ただ、これを出征先から持ち帰った記憶はないという。
 そのほかは、出征兵士に対する安全祈願などはなかった。「帰ってくるつもりがなかったので必要なかった」のである。

.注
 1 『新編武蔵風土記稿』金程村の項に、「家数十三軒、村内に散住せり」とある。
 2 関口欣也氏の調査によれば、過去帳では寛文4年(1664)没の法常禅定門から連続しており、この人物が徳左衛門だと伝えているという(関口2003 p.96)。また関口氏は、伊藤家敷地内から出土した永正5年(1508)銘の月待供養板碑について、伊藤家と関係がある可能性を指摘している(同 p.98)
 3 細山郷土資料館(麻生区細山)の前にあった生田分教場。
 4 平成18年(2006)は柿が成り過ぎる年であったという。一方、オガムシというつぶすと臭いのする虫の大発生により、モモとリンゴは葉も実も全滅、ナシも1つも良いものが出来ないほどの被害であった。こんなことは初めてだったと酉造氏は言う。
 5 『新編武蔵風土記稿』金程村の項につぎのようにある。「此ほとりの村々は柿の木土性に宜しきを以て所々に植をき、秋に至ればその実を江戸へ送りて産業の資とす」
 6 細山神明社の宮司は、登戸の丸山教の教主が兼務している。
 7 金程会館ができる前にあった建物で「ヨリバ」ともいった。金程13軒の寄り合い場所として終戦直後に建て直されていた。
 8 『新編武蔵風土記稿』金程村の項に白山社が見える。
 9 祠堂の前に立つ由来文に次のように記されている。執筆者は地元の郷土史家白井禄郎氏である。「明治十九年、蚕影神社を勧請したいという村民の意向がまとまり、明治二十二年(一八八九年)金程五三七番地、丘の中腹に蚕影山祠堂を創設し蚕影山を祭った。それに伴い、氏子によって開桑講社という講組織がつくられた。(中略)毎年代参が筑波の本社に詣り、御札を戴き、各戸に配布して蚕安全を祈った。二月の初午には養蚕安全の祭祀を行っていた。(中略)昭和六十一年(一九八六年)六月、土地区画整理事業に伴い現在の地に移転祭祀する。」

.参考文献
 蘆田伊人                1981『大日本地誌大系10 新編武蔵風土記稿』第4巻  雄山閣
 川崎市教育委員会        1966『旧伊藤家住宅移築修理報告書』        川崎市教育委員会
 川崎市教育委員会        1971『川崎市最西部地区民俗総合調査報告』  川崎市教育委員会
 川崎市農耕習俗調査団    1989『川崎市民俗文化財調査報告書−麻生区・多摩区の農耕習俗−』
                                    川崎市市民ミュージアム
 関口欣也                2003「多摩丘陵の農家 1955年細山」『日本民家園叢書』3
                                    川崎市立日本民家園
 中村亮雄                1970「谷戸田の稲作」『川崎市文化財調査収録』第6集  川崎市教育委員会
 山口台民俗文化財調査団  1987『山口の民俗』  山口台民俗文化財調査団

.図版キャプション
1 伊藤酉造さんとスギさんご夫妻
2 伊藤家の所在地
3 移築前の伊藤家(昭和36年)
4 伊藤家の屋敷(昭和34年)
5 屋敷内の配置
6 オオガマとコージンサマ(昭和36年)
7 復原された建築当初の間取り
8 移築前の間取り
9 蚕影山の鳥居の銘
10 ユミハマと羽子板
11 灯籠
12 集団墓地と供養塔
13 ツカ
14 細山神明社
15 潮音寺
16 白山神社
17 棟札
18 供えられた箸
19 蚕影山

 

(『日本民家園収蔵品目録8 旧伊藤家住宅』2007 所収)