山形県鶴岡市松沢 菅原家民俗調査報告


 .凡例
1 この調査報告は、日本民家園が菅原家の関係者に対して行った聞取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成18年(2006)7月から9月にかけて、5回に分けて行われた。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、木下あけみ、野口文子、今井功一、安田徹也(当園嘱託職員)である。
3 話者は、つぎのとおりである。
 菅原淳一氏   昭和27年(1952)生まれ 菅原家現当主   移築時の当主竹治郎氏の孫
 菅原今朝春氏  昭和15年(1940)生まれ 竹治郎氏次男   神奈川県茅ヶ崎市在住
 菅原文雄氏   昭和18年(1943)生まれ 竹治郎氏三男   茨城県石岡市在住
 菅原七郎氏   昭和20年(1945)生まれ 竹治郎氏四男   神奈川県厚木市在住
 小野寺みつせ氏 昭和4年(1929)生まれ 竹治郎氏次女   千葉県館山市在住
 小野寺すみ氏  昭和10年(1935)生まれ 竹治郎氏三女   神奈川県鎌倉市在住
 小野寺末雄氏  昭和4年(1929)生まれ 小野寺すみ氏の夫 菅原家の近くで育つ
4 以上のほか、当園ではつぎのとおり菅原家の調査を行っている。この報告では、これらの調査記録もデータとして活かした。
 昭和45年(1970)6月には、資料収集にともなって現地で調査が行われた。聞き取りに当たったのは小坂広志(当時当園学芸員)である。
 昭和51年(1976)3月には、運搬用具調査の一環として菅原家に対しアンケート調査を行った。調査を担当したのは小坂広志である。
 昭和58年(1983)3月から2年度にわたって行われた資料収集の際にも、現地調査が行われた。聞き取りに当たったのは渡辺美彦(当時当園学芸員)である。
 平成5年(1993)12月には、雪囲いについて現地調査が行われた。この調査は当園で菅原家の雪囲いを再現するために行われたもので、調査に当たったのは、小坂広志、大野敏(当時当園建築職・現横浜国立大学助教授)、野呂瀬正男(元当園建築職)、上野勝久氏(当時横浜国立大学助手・現文化庁文化財調査官)である。この調査結果は『日本民家園叢書4 日本民家園の雪囲い』(日本民家園・平成15年)にまとめられているため、本調査報告には盛り込んでいない。
 平成14年(2002)12月には、屋根の棟飾りを中心に現地調査が行われた。聞き取りにあたったのは小坂広志、田中洋子(当時文化財建造物保存技術協会より当園に派遣)である。この調査は修理工事のため建築的な見地から行われたものであり、茅葺職人への聞き取りが主となっているため、本調査報告には盛り込んでいない。
 このほか、調査年は不明だが、同家の年中行事について調査が行われた。聞き取りに当たったのは新井清(元当園職員)である。
5 文中に登場する方々の生年はつぎのとおりである。すでに亡くなられており今回の調査でお話を伺うことはかなわなかったが、過去の調査記録はこれらの方々からの聞き取りも含まれている。
 菅原竹治郎氏  明治35年(1902)生まれ 移築時の当主
 菅原すへよ氏  明治38年(1905)生まれ 竹治郎氏の妻
 菅原勇太郎氏  大正14年(1925)生まれ 竹治郎氏長男
6 図版の出処等はつぎのとおりである。
 写真1、5      1967年、故大岡實氏(元横浜国立大学教授)撮影。
          現在、大岡實博士文庫として当園で収蔵。
 写真2、3、7、8、10  2006年、渋谷撮影。
 写真4       1970年、主屋の解体工事前に撮影。
 写真6       1970年、小坂撮影。モデルはすへよ氏。
 写真9、11     2006年、野口撮影。
 図1       『日本民家園解説シリーズ 旧菅原家住宅』(1987)より転載。
 図2       『旧菅原家住宅移築修理工事報告書』(1987)より転載。
 図3、5       野口作成。
 図4、6〜10     新井作成。
7 聞き取りの内容には、建築上の調査で必ずしも確認されていないことが含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。

.はじめに
 菅原家は屋号を「ナエモン(名右エ門)」という。松沢地区ではヨザエモン、スケザエモンなど「エモン」の付く屋号が多いが、実際にはヨンゼム、スゲゼムというように言い、菅原家も「ナイム」と呼ばれていた。家紋は「ウメバチノモン」である。
 菅原家は代々肝煎を務めた家柄といわれ、昭和55年(1980)に亡くなった勇太郎氏は朝日村の村会議員も務めた。ただし、菩提寺が火災に遭っているため古い記録はなく、移築された旧住宅を建てたのが誰か、どこから移り住んできたか、そうした言い伝えは残されていない。わずかに、先祖は山伏をしていたという話があるだけである〈注1〉。生計の中心は稲作を主とする農業であり、そのほか養蚕や炭焼きなどを行っていた。
 昭和4年(1929)ころ、菅原家は16人家族であった。昭和45年(1970)に住宅が移築された当時も、当主竹治郎氏夫妻、長男勇太郎氏夫妻とその弟、勇太郎氏の長男淳一氏(現当主)とその弟の3世代計7人が暮らしていた。ここでは故竹治郎氏の子の世代と孫の世代からの聞き取りを中心に、菅原家の暮らしを記述していくことにする。

.1 地域の概況
..(1)松沢
 菅原家のある松沢地区は、古くは松沢村といい、庄内藩の田沢組に属していた。その後合併により、明治22年(1889)に大泉村、昭和29年(1954)には朝日村となり、さらに平成の大合併により平成17年(2005)に鶴岡市松沢となっている。このように松沢は、現在行政上は1つの地区に過ぎないが、住人は「ムラ」と呼んでいた。
 昭和45年(1970)の移築当時、世帯数は29戸、人口は男77名女73名計150名、耕作面積11町歩、耕作農家は29軒のうち20軒だった。菅原姓は29戸のうち5戸である。このほか、小野寺姓13戸、斉藤姓6戸、伊藤姓1戸、その他4戸である。なお、平成18年(2006)現在、戸数は15戸となった。松沢から移る先は鶴岡が多い。就職場所を求めて子供世代が山を降りると、続いて彼らの親も出てしまい、戸数が減った。他から移ってきた家はない。
 言葉は、松沢を含む大泉地区ではほとんど変わらないが、大鳥は違う。もう少し下の大針に行くと、また全然違ってしまう。大網もアクセントが若干違う。
 父親のことは「ダタ」、母親は「アバ」と呼ぶ。しかし、そのほか人の名前を呼ぶときは、年齢、序列など関係なく、すべて呼び捨てであった。子供が隣の家の当主を呼ぶときも呼び捨てで、呼ぶ方も呼ばれる方も何とも思わなかった。現在もムラの中では同じだが、よそからの客の前では「さん」付けするようになっている。

..(2)自然環境
... 地形と気候
 松沢は四方を山で囲まれているため、「スリバチ村」と呼ばれていた。山は杉が多い。一時カラマツがはやったが、雪が多いので良いものはできなかった。
 夏は短く、盆過ぎにはぐっと冷えこむ。朝晩の気温は10℃代にまで下がる。
 冬は「さんぶぐなったちゃなー」と思うと、気温は0℃から−3℃ほどである。そのくらいになると、ケーシキ(木製スコップ)がペタペタと肌にくっつくような感じになる。雪は3mほど積もる。シガ(氷柱)も1mくらいのものが下がり、ケーシキでパタパタ落とした。

... 雪
 11月10日ごろから雪が降る。ただしこれは、根雪が降るという意味で、降雪はもっと早くからある。遅い年でも12月の初旬になれば吹雪である。
 雪は平らなところで3mほど積もる。家のまわりは屋根から落ちた雪も積もるので、4m以上の高さになる。2階から出入りする家もあった。雪が積もると、前の道から玄関まで雪の坂になったため、スキーで玄関まで滑ってきた。
 3月ごろになると、雪はそれ以上積もらない。その後も降るには降るが、天気が良いと溶けてしまうからである。春になると雪崩が起こる。また、雪に穴が空き、気づかずに落ちてしまうこともある。かつてはモミガラを焼いたものをとっておき、早く雪が解けるよう撒いた。それでも雪が消えるのは5月ごろであった。

... 災害
 山を背負っているため、台風の被害はあまりなかった。
 新潟地震のときはかなり揺れた。学校は揺れでものすごかったという。

... 害獣
 イノシシはいないが、熊は近所まで降りてくる。
 サルは60〜70頭の集団で稲の中に入ってくる。サルよけにガスで鉄砲のような音を出していたが、効かなくなった。その後、人のしゃべっている声や音楽を流したら少し効いたが、しばらくは効いてもすぐに慣れてしまった。
 このほかネズミは多く、土蔵に入らないよう、出入りする際には必ずすぐに戸を閉めた。

.2 衣食住
..(1)住
... 水利
 水は豊富で、夏場にも水が涸れたという話はなかった。
 どの家も家のまわりにホリがあった【写真3】。菅原家にも3箇所あり、鯉やニジマスなどを飼っていた。ホリの水は川とシミズ(湧き水)から引いていた。川の水は山の中腹から、シミズの方はアナシゾウ(アナナシ沢)という沢の湧き水から引いていた。いずれもセギ(堰)を設け、そこから水を引いていた。
 家で使う水は、このホリから引いていた。昔はホリが家よりも一段高くなっており、そこから壁を突き通して木のトイを家のナガシまで渡し、水を取り入れていた。トイには直径17cmほどの栗の木を使っていた。ここに幅12cmぐらいの溝をチョウナで彫り、Y字型をした木の支柱に載せた。
 水は流しっぱなしだった。常に勢いよく流れていたため、冬でも凍ることはなかった。また、川の水だけでなくシミズも引いていたため、雪が降っても水が止まることはなかった。流しに氷が張ることもほとんどなく、年に2、3回、ヒシャクが流しにくっついて取れなくなる程度であった。冬は水が温かかった。
 食器を洗った水や風呂の水など、使った水は現在のU字溝のようなものを通し、下のホリに落としていた。下の家はこのホリから水を引き、使った水をまたその下のホリに落とした。このようにして、菅原家で使っていた川とシミズを、下流に位置するヨンゼム、スゲゼム、サンゼムなど、5、6軒の家が共同で使用していた。一度使った水をまた使うということで「黄色い水」という言い方もしたが、勢いが強かったこととホリを通過することで、隣に流れていくときは水はきれいだった。「三寸流せば清(きよ)の水」と言った。
 下流にはセギのそばにオシメを洗う場所があり、近所で共同で使用していた。ここはいつも氷が溶けていた。
 肺病などの伝染病が出たときは、その家は水の使用を止めた。こうした家ではバケツで水を汲み、家まで運んで使った。

... 屋根
 春になると、雪の塊が氷になって屋根の茅にくっつき、その重さで茅が束になって抜け落ちた。そのため、毎年修理をする必要があった。このように、葺き替えは数年でひと回りするように少しずつを行っており、全部の茅を取り替えることは滅多になかった。
 葺き替え作業はムラにいる専門の職人に頼んだ。葺き替えの時期以外は、ムラの中で護岸工事や土木工事などをやっていた人である。葺き替えの際、職人の昼食は頼んだ家で出した。謝礼は金で渡していた。
 屋根に突き出ている部材を「グシ」という【写真4】。葺き替えの際はこのグシに綱を掛けて上にのぼった。この綱を「ヨウジンヅナ(用心綱)」といい、葺き替えのほか、火事のときには火の粉を防ぐのに上にあがったり、水を上げたりするのに使った。普段はアマヤ(玄関)に掛けておいた。
 葺き替えに使用するのは4〜5尺の茅である。屋根には茅の先の部分は使用しないため、雪囲いで使った茅はその部分を切り落とした。雪囲いは家の4面すべて行ったが、それでも1年分の葺き替えに足りるか足りないかというところだった。葺き替えた茅はコヤシにしていた。
 なお、増築部分の屋根はコンクリートの瓦葺であった。

... 雪囲い・雪かき
 9〜10月ごろになると雪囲いの準備を始めた。秋はこの作業で大変だった。
 雪囲いのための茅を調達するカヤカリバ(茅刈場)は、家から1kmほどの山の斜面にあった。ここは国有林で、かつては毎年ムラ全戸でクジッピキ(くじ引き)をし、場所を決めていた。その後国有林を払い下げてもらったあとは、共有の場所も一部あったが、各家の場所を決めてそれぞれ手入れして賄っていた。
 カヤカリバでは茅だけを育てていた。茅は手入れしなければ長くならない。長い茅ならば上下2段で家の軒下まで囲うことができたが、短いと何段にもしなければならない。しかも手入れ不足だとあちこち疎らに生えてしまうため、刈るのも大変だった。むかしはすべて鎌で刈っていた。運び出すときは横に積み上げ、背負って運んだ。長いので苦労したという。
 雪囲いは頑健な人でなければできなかった。柱と竹で骨組みを作り、茅を小さい束にして縛りつけていく作業である。この茅の束を「ヌキ」といい、これを縛ることを「カキツケル」と言った。雪囲いをしてしまうと家の中は真っ暗だった。
 雪の多い年は、正月前に2度雪下ろしをする。屋根から雪を下ろし、それをまたどけなくてはいけないので、雪下ろしはひと苦労である。一番危険なのは最初の雪下ろしである。2回目以降はすでに下ろした雪が下にあるが、最初のときはそれがないため、地面との高低差が大きいからである。下ろした雪はホリに放り込んでいた。
 家のまわりや道路の雪かきは、手の空いた者はみな参加する。一晩おくと雪が積もって道がなくなってしまうため、朝になると足で踏んで道をつける。家のまわりは雪囲いをするが、窓のところは毎日雪かきをする。ひどいときは1日に2回かいた。
 雪囲いの骨組みは春になると毎年はずし、タテボク(立木)やヨコボク(横木)は縁の下に入れておいた。茅束は雪で傷んだ屋根の補修用として再利用した。

... アマヤ(玄関)
 アマヤにはミノやカサのほか、農作業の道具が掛けてあった。冬のあいだ外との出入口には、細い竹で編んだ引き戸を取り付けていた。

... ウード(大戸)
 家の入口には、子供では開けられないような重い戸があった。閉めるとカタンとサル(戸締りのための木片)が下りて、戸締りできるようになっていた。この戸は、夏でも夜になると涼しいので閉めていた。
 この戸は人の出入りのみで、馬の出入口は別にあった。遅くなって入口の戸が開かないときは、馬の出入口から入ることもあったという。
 雪の季節もこの戸から出入りした。菅原家では2階から出入りしたことはなかったという。まわりに雪が積もっているため、道に出るときは坂を上るような形になった。

... ニワ(玄関から上がった板の間)
 ニワは土間のままでなく、板敷きになっていた。そのため、靴を脱ぐ場所が大戸から入ったところに設けてあった。板は厚さ5cmほどで、並べてあるだけだったため、歩くとパタパタ音がしたという。馬を歩かせるときは、滑らないよう板の上にムシロを敷いた。
 床下には穴が掘られ、一升瓶につめた酒を大量に貯蔵していた。床板が留められていなかったのでこうしたことができた。
 ナヤの前に大きな石が半分埋め込んであり、ツチでワラ打ちをした。ワラはナヤの上から下ろして使った。ナワを綯う作業やムシロを編む作業も、ニワですることが多かった。
 ナガシのそばにカマ(竈)があった。床には板が敷いてあったため、板から突き出たようになっていた。豆フカシなどフカシモノに使ったほか、人が大勢来たときは、ここで手伝いの人と料理した。
 ニワの上は中2階になっており、そのため天井が低かった。上にあがる階段の下は物置きになっていた。
 夏になると毎年ツバメがやってきて、天井板と角材のあいだに巣を作った。フンが落ちるので、巣の下にはワラで作った敷物が吊るしてあった。するとヘビがやってきて、ヒナを飲み込んでしまうことがあったという。

... ナヤ
 牛や馬の小屋をナヤと呼んでいた。ナヤの上には稲ワラがたくさん積んであった。地面の高さはニワと同じで、掘り下げることはしていなかった。馬の出入口は人の出入口とは別になっており、傍の壁は風通しをよくするためか開いていたという。
 このほか鳥小屋もあった。

... ナガシ
 炊事する場所をナガシと呼んでいた。ナガシの壁をトイが突き通っており、ホリから引いた水が流しっぱなしになっていた。
 水場の脇にはナベやザルが釘に掛けてあった。シャモジなども掛けてあった。
 漬物を漬けていたツケモノオキバは、このナガシから出入りするようになっていた。

... オメ(オメー)
 オメはイロリのある部屋、家族が集まる場所である。ムラのヨリアイも、菅原家で行うときはこの部屋を使った。普段はムシロが敷いてあった。
 イロリは「ジロ」とも呼んだ。枠は「ヒジギ」といい、ナシの木で作られていた。
 イロリに座る位置は決まっていた。ウヘヤを背にした席は「ヨコザ」と呼び、当主が座った。イロリに座って話しているときにも、当主が入ってくるとヨコザをスッと空け、子供がここに座ると叱られた。また、客が来たときも当主はこの席に座り、客はシモデを背にした席に座った。ここを「キャクザ」という。その正面、窓を背にした席を「タテザ」、ニワを背にした席を「スエザ」という。これらは家族構成の変化によって座る者も変わった。タテザに惣領、スエザに嫁が座った時期もあった。タテザに当主の妻、スエザに使用人や若い者が座った時期もあった。また、タテザに子供と祖母、スエザに当主の妻が座ったこともあった。
 イロリの上にはカギノハナ【図4】とヒダナ(火棚)があった。ヒダナには濡れたユキグツやワラジをのせて乾かしていた。
 イロリのニワ側に、ムロ(モロ)があった。深さは1mほどで、イロリの土盛りを利用して赤土で固め、その上に石を積んで作られていた。ここにモミガラを入れ、冬場、カラドリイモを保存していた。
 オメには仏壇があり、その前にホリゴタツがあった。冬になるとやぐらを置いた。
 ウヘヤの入口をはさんで仏壇の反対側には、戸棚があった。観音開きの戸が付いており、普段使う食器がそれぞれの膳に載せてしまってあった。棚の上には恵比寿大黒が祀ってあった。棚の脇には竹を利用した杓子掛けがあった。なお、ウヘヤの入口と戸棚のあいだの柱がトコバシラ(床柱)である。この柱には穴が開いており、ここに子供が小銭を隠しておいたりした。
 シモデとの境の戸の上には棚があった。
 オメの隅に猫にご飯をやる場所があった。飼っていた猫は大きかったが、ニワとの境に小さなネコアナ(猫穴)が設けてあり、自由に出入りしていた。
 オバアサン(竹治郎氏の母)は非常に話好きな人で、あまり動けなくなってからも近所の人などが訪ねてきたとき話ができるよう、オメのシモデ寄りに寝ていた。子供たちが走り回って騒いでいると、横になったまま睨みつけられて非常に怖かったという。

... ウヘヤ(ネドコ)
 寝る部屋のことを「ネドコ(寝床)」という。そのため、ウヘヤのことをネドコとも呼んでいた。
 ウヘヤは当主夫婦の寝室である。子供はある程度の年になるまでここで両親と眠り、その後コベヤに移った。
 床はワラムシロ敷きである。角材で囲った床板の上にワラを敷き詰め、その上に5、6cmほどの分厚いムシロを敷いていた。他のネドコも同じようになっていた。
 敷布団は2枚敷いた。下の布団は「コモズブトン」といい、ワタの代わりにコモズ(稲ワラのハカマ)を入れたものだった。新しいときは背中にワラがあたってチクチクしたが、使っているうちにだんだんやわらかくなった。掛布団は「オクソブトン」といい、ワタの代わりにオクソ(麻の繊維を取るときに出るカス)を入れたものであった。寝るときは北枕にならないようにしていた。寝るのは10時か11時ごろだった。
 ウヘヤにはタンスのほか、大きなコメビツが置かれてあった。

... カミデ
 カミデは来客用で、家族は誰も寝なかった。普段は物を置いていたが、客があるときはそれを片付けて通した。
 床にはスガムシロ(スゲムシロ)を敷いていた。畳は普段、部屋の隅に立てかけてあり、ヒトヨセや来客の折りにだけ敷いた。年に1、2回ほどしか敷かなかったため、毎年一度虫干しをした。干すときには竹を使って立て、ずらっと並べたという。
 カミデには神棚があり、天井もあった。棹縁が床の間方向へ走る「切腹座敷」という作りだった。
 床の間の右には軸物と来客用の布団をしまっていた。ただし、半間しかないため布団はしまいきれず、残りは土蔵に入れていた。床の間の左の押入を「アミダサマ」と呼んだ。ここにはヒャクマンベン(百万遍)の道具や葬式用具がしまってあった。ただし、実際のヒャクマンベンには、カミデではなくシモデを使用していた。
 山伏が来たときはカミデに泊った。ひな人形、お盆の飾りなどは、すべてこの部屋に飾った。

... シモデ
 シモデの畳は普段は土蔵にしまわれていた。家具はなく、布団と座布団、2つ折りにしたスガムシロ(スゲムシロ)とコスガムシロ、そのほか機織り機が置いてあるだけだった。この部屋にはムシロも敷いていなかった。
 移築前には天井があった。これは、長男が結婚する直前に作ったものである。イロリは移築前にはなかった。昔はあったが、この部屋のイロリはカギノハナだけで、ヒダナは設けていなかった。
 ヒャクマンベンのときには、シモデを使っていた。

... コベヤ
 菅原家にはコベヤが2つあった。ひとつはシモデの隣、もうひとつはオメの隣である。
 シモデの隣のコベヤは、若夫婦のネドコだった。シモデとのあいだには廊下があった。お産をするのはこの部屋だった。
 オメの隣のコベヤは、ある程度大きくなった子供のネドコだった。この部屋は5、6人寝ることができた。

... 2階
 菅原家にはニカイ(2階)のほか、数個所にナカニカイ(中2階)があった。
 2階のハッポウの手前に、イモ、カボチャ、マメ、小豆などを乾燥させて保存していた。その他の場所は、100枚以上のアミなど養蚕の道具、暖房器具などがたくさん積んであった。暗かったが、ウヘヤから上ったところにも移築前には窓があり、多少明るかった。お手伝いさんがいたときは、この2階で寝泊りさせていた。
 ウヘヤの上の中2階には、槍、長短10本ほどの刀のほか、トアミ(投網)がたくさん置いてあった。他にも荷物がいっぱいで、中2階から2階に上がる梯子などは見えなかった。
 ナヤの上の中2階には、ワラをたくさん積んでいた。
 アマヤに増築された部分にも中2階があった。ここには部屋があり、子供のネドコになっていた。シモデのニワ(土間)側に上がるところがあり、その下に衣類がたくさん積んであった。子供はこの衣類の上に、中2階から飛び降りて遊んだという。

... 物置
 オメ側のコベヤの隣には、料理に使うマキを積んでおく部屋があった。
 また、増築部分にあったヌカヤには、モミガラを入れていた。

... 便所
 ショウベンジョはナヤの隣にあった。戸もなく開け放しで、積んであったモミガラ(米の殻)に引っ掛けていた。その後、入口の左手に建て増しをし、ベンジョを移した。これにより空いた場所に、牛を飼うようになった。
 増築する前、大便は別の建物でした。昔は尻拭きにガンザ(ウツギの葉)を使っていた。ガンザの木は家の入口の手前に植えてあった。

... 風呂
 風呂はニワ(土間)のナガシのそばにあった。水はナガシから1回ずつ汲み、中で火を焚いていた。
 夏はホリのかたわらに移動した。中が広く使える上、火を焚いて暑くなるのも防げたからである。家の外といっても屋根は付いていた。
 風呂は昔は木でできていたが、昭和35年(1960)ごろコンクリート製にした。このあたりでは菅原家だけだった。
 風呂に入るのは1週間に1度くらいだった。空気がきれいなので、あまり体が汚れなかった。入るのは当主が最初だった。決まりというより、何に関しても当主が一番ということが染み付いていて、自然にそうしていた。

... ドンゾ(土蔵)
 ドンゾは土壁で、火事で焼けないように作ってあった。作れる家ではどこでも作り、陶器、布団、ひな人形、味噌、酒、米など、焼けて困る大切なものはすべてしまっていた。
 菅原家ではドンゾにタンスや車長持があり、何代も前の人の着物などがしまわれていた。このほか、客用の布団や畳もしまってあった。

... 建具
 障子張りは大人の仕事だった。1年に1回程度張り替えたが、真っ黒だった。
 雪が積もっても、その重みで戸が開けづらくなることはなかった。

... 暖房
 暖房器具はイロリとコタツだけだった。家は隙間が多かったのでなかなか暖かくならなかったが、その代わりボンボン燃やした。「ひと冬燃しっぱなし」であった。マキは、イロリから大幅にはみだす5尺ほどの非常に長いもの使った。これをイロリに横たえ、端の部分が燃えるとまたずらして燃やすのである。イロリの横にはマキを置く場所があり、ここに一晩分を入れておいた。イロリの火は寝る前に灰をかけ、オキ(熾火)にしていた。
 コタツには炭を使用した。火種はイロリからとって入れた。
 シモデのイロリではマキは燃やさなかった。人が集まるときだけ炭を燃やしていた。
 ネドコには火の気はなく、寝るときには湯たんぽを使用した。
 イナグラの2階にはワラがいっぱい積んであった。子供はこの中に入って温まることがあったという。

... 照明
 電気が入ってからも、オメ、カミデ、シモデに1つずつ裸電球がついていただけで、家の中より外の方が明るかった。中2階、2階は真っ暗なうえ電気もなかったため、荷物はハッポウのまわりに置いていた。

..(2)衣
... 概況
 冬の暇なときなど、女はみな機織りをした。子供の服を縫ったり、綿入れを解き洗いしたりするのも女の冬の仕事だった。着替えも家で作った。戦時中ものが買えないときは実家から古い着物をもらい、それをほどいて子供の着物を縫ったりした。
 普段着るものは縞(シマ)や絣(カスリ)の柄が多かった。昔の着物は綿入れでも、ワタは裾の方にのみ薄く入っていた。ワタは買っていた。手ぬぐいも他の集落に1、2軒あった呉服屋で、物々交換で入手した。
 家では簡単なものしか縫わなかった。長襦袢などちゃんとしたものは、生地を選び、仕立屋に頼んだ。結婚式のときなどはそうしていた。このほか、サシコ(刺し子)も普通の人では縫うことができなかった。菱形の模様などは大変な技術を要するという。

... 麻
 大きな畑で麻を作っていた。冬の暇なときにこの麻で糸を紡ぎ、機を織っていた。年寄りは皆やっていた。
 織り上げた布は、夏物の上に着るノラギ(野良着)などにしたほか、反物にして、木綿の絣や縞、タンボのモンペにする無地の生地などと交換した。
 糸を取ったあとのオガラ(麻の芯)は、マキの小屋の奥にしまった。イロリや風呂の焚きつけとして日常的に使ったほか、湿気がこもらないようタンスの引き出しに敷いたり、屋根に使用したりした。
 麻から繊維を取るときに出るカスを「オクソ」という。これも乾かして、布団やこたつ布団の中身にしていた。ワタに比べると、全然フワフワしていなかった。

... 絹
 絹糸も家で紡いだ。土蔵には糸を紡ぐ道具がたくさんあり、それで糸を紡ぎ、機を織った。織り上げた布は染めに出したり、自分で染めたりした。絹でタンボのノラギを作ったこともあった。
 出荷できないマユは真綿にし、布団をくるんだりした。

... 毛糸
 家で羊を飼っていた。春になると羊の毛を刈る人が落合、鶴岡あたりから訪れ、代金の代わりに毛糸をおいていった。この糸でチョッキなどを編んだ。毛糸の帽子は大人の男や赤子がかぶっていた。

... 獣皮
 ウサギの皮は乾かし、寒いとき背中につけた。また、コテ(手甲)にもした。これらは贅沢品で、大人が身に付けるものであった。

... ノラギ(野良着)
 ノラギにも使い分けがあり、新しいものはちょっと出かけるときに、それが古くなるとタンボで着た。
 タンボに出るときの着物一式を「デダチ」と呼んだ。下は男も女も木綿の黒いモンペ、上は夏は縞か絣の半袖で、冬も綿入れなどは着なかった。足にはワラジかアシナカを履いた。
 女性はデダチの上に帯を締めた。帯は腰に巻き、巻き終わりを少しはさみこんで留め、マエタレの紐で締める。マエタレはノラ作業の際、胸に着用するものである。帯は真田帯で、年寄りは地味な色あいのものを、若い娘は赤などを入れた若い色あいのものを締めるのが流行した。娘たちは、母親が織ってくれたこうした帯を何枚か持っていておしゃれをした。
 普段ノラで頭に被るのは手ぬぐいだったが、ズキンもあった。ズキンは紺絣のものが多く、夏物と冬物があった【写真6】。夏かぶるのは暑さよけのためで、日焼けはどうでも良かった。冬は防寒用で、中にワタが入っていた。吹雪のときはズキンをかぶれと言われた。

... 普段着
 下着は、男は白いフンドシだった。女はすへよ氏の世代より上はコシマキ、すへよ氏の娘の世代にはすでにパンツだった。コシマキは夏は木綿、冬はネルだった。ネルは買ってきて家で縫った。パンツは今よりたっぷりした2分丈で、裾にゴムが入っていた。
 モンペとダップリは違うものである。ダップリは幅があり、縞模様などの柄ものが多い。男も女も子供から年寄りまで着用する普段着で、自分の家で縫った。ダップリにワタは入れない。地が厚いので、上に元禄袖で裾の長い綿入れを着れば寒くないからである。
 サシコノソデナシはハッピともいう。秋や春、少し寒いようなとき重ね着するもので、冬には着ない。着るのは年寄りで、若い女は着なかった。
 冬の一番寒い時期には、綿入れの下に裏が起毛になっているシャツを2、3枚着た。今のシャツのように薄地ではなかった。

... 晴れ着
 祭りのときには色のついていないような絣の浴衣を着た。これに絞の帯を締めて盆踊りなどに出たという。
 結婚式や葬式には紋付の着物を着た。葬式のと結婚式のは同じもので、黒系の無地に裾模様であった。葬式には無地の紋付を着るべきだが、たいていの家は余裕がなく、帯だけ黒を締めていた。

... 履物
 履物は、ユキグツからカンジキまで家で作った。一般にゾウリと言っている履物は、松沢周辺ではアシナカと呼んだ。
 冬は深いワラグツを履いた。子供には父親が作って与えた。ワラグツの中に新しいワラを敷くと、フカフカして温かかった。ワラは踏んだり濡れたりするとペシャンコになってしまうので、定期的に入れ替えた。ワラはチクチクするが、慣れれば平気だった。靴下は贅沢なので普段は履かなかった。
 フルマイなど、晴れ着を着るときには、フシのないところを使用したイッポンイリノフカグツを履いた。

... 子供の服装
 子供の服はよそ行きのものでも家で作った。
 普段着るものは縞や絣が多かった。女の子の場合、そのなかでもお気に入りの着物があったという。男の子の下着はサルマタであった。
 学校へ行くときにはノラギを着ていった。モンペと上着で、「ホソヒモ(細紐)」という帯をした。親の着物を小さく作り直したものや、上のお下がりが多く、新しいものを買ってもらうことはなかった。
 学校は4kmほど離れていたが、ほとんど裸足だった。本当はゾウリを履いていきたいのだが、忙しいので親は作ってくれない。仕方無く自分で作るのだが、手が小さいので上手に作ることができない。そこで「他の人はもっと良いものを履いている」と言って泣くと、「足の裏に履いているのだから誰にも見えない」といって父親に叱られた。
 「雨の日だけだよ」と言って下駄は買ってくれた。ワラゾウリは水に浸かるとすぐ壊れてしまうからである。しかし、鼻緒の無い下駄を買い、家でナワを綯ってすげてくれるので、擦れて血が出てしまう。そのため下駄を持って、砂利道を裸足でピタピタ歩いたという。結局、雨の日などは尻の辺まで泥がはね上がるので、裸足が一番よかった。
 冬はワラグツを履き、ミノボウシを被った。防寒具は特に着なかった。
 運動会には黒いパンツを買ってもらい、それを1年間体操の時間に着用した。予備はなかったが、1式あれば上等な方で、体操着を持っていない者もたくさんいた。そうした人たちはダップリを履いていた。運動会も全員裸足であった。体操着もなかなか親に洗ってもらえないので、10日も20日も着たという。
 卒業式や入学式、天長節、お祭、お盆やひな祭りで近所を廻るときなどは、親が土蔵から良い着物を出して着せてくれた。良い着物といっても、普段着ている縞や絣の新しいもの、というだけであったが、ナフタリンの匂いがして子供も喜んだという。
 赤子には木綿の着物を着せた。形は大人と同じで、大人のものをほどいて小さく作り直した。オシメは古くて着られなくなった着物で作った。20枚から30枚ほどあった。

... 洗濯
 洗濯はタライを使い、10日に1回ほどホリや川でやっていた。ホリで洗濯するときは、石鹸が鯉に悪いので使った水は他へ捨てていた。
 冬、洗濯物は家族全員分オメに干した。そうすると次の朝には乾いていた。

... 化粧
 化粧はしなかった。化粧品を持っている人もなく、化粧をしようという考え自体誰も持っていなかった。ただ、パーマをかけることはあった。

..(3)食
... 概況
 水はナガシで使い、魚を焼いたり味噌汁を作ったりするのはオメのイロリを使った。米もイロリで炊く。大きなナベに米と水を入れ、ツルベにぶら下げて蓋をする。煮立ってきたら火を弱める。普段はこうしてイロリでやっていたが、お手伝いさんを頼んでいる忙しい時期やヒトヨセのときなどは、ニワ(土間)のカマで炊くこともあった。またてんぷらなどは、オメの窓のそばに七輪を置いてやっていた。
 麦など雑穀を入れたご飯を「マゼゴハン」という。米と雑穀の割合は家によって異なったが、菅原家ではおかずは少なかったが、こうしたものは作らなかった。ただ、カボチャ、ダイコン、イモなどは、よく入れて炊いた。塩味もつけないのでおいしいものではなかった。
 味噌汁は朝と昼はほとんど作っていた。また、すり鉢は毎日のように使い、和え物などを作った。クルミ、ゴマ、味噌は家で作っていたので、野菜をそれらで和えることが多かった。油いためもたまに作った。

... 食器
 食事は脚のあるお膳で食べていた。お膳は一人一人で、食べた後は自分で食器を洗い、お膳に載せ、戸棚に重ねてしまった。
 客に出す膳はイチノゼン(一の膳)、ニノゼン(二の膳)があった。高い方がニノゼン、低い方がイチノゼンである。このほか折敷があったが、ここには膳にのせきれないものをのせた。こうした良い膳は祝言や葬式の際に使用し、ヒャクマンベンなどのときは脚のない膳を使用した。客用の食器は、その都度土蔵から出していた。

... 餅
 農家はどこの家でもしょっちゅう餅を搗いていた。
 正月の餅はちゃんとしたものだが、日常食べる餅には米の粉が混ざっていた。毎年、供出米として出せない悪い米が大量に出る。これを機械で粉にし、それだけだとおいしくないのでもち米をまぜ、餅を作ったのである。冬のあいだこうした餅を何回か搗き、春になるまでずっと食べていた。
 餅を搗くときは土蔵から臼を持ってきてニワ(土間)で搗いた。何俵も一度に搗くので、搗くときは1日中搗いた。
 餅は焼くことが多かった。白い餅だけでなく、草餅、ヤマゴンボウの葉っぱの餅、トチ餅などを丸餅にし、焼いて食べた。
 シミモチを作るには、餅をワラで結んで下げておき、カンカンに凍らせる。そして6月1日に食べた。プリプリとして柔らかく、味などはつけなかったがおいしかった。

... そば
 そばを食べるのはごくたまにで、行事の折りか、冬など暇があるときだけだった。石臼で挽き、そば用のまな板を使った。

... サトイモ
 収穫したサトイモを使い、家で芋煮会をした。具の多い味噌汁のようなもので、サトイモのほかに野菜、ニワトリやウサギの肉などを入れ、イロリで調理した。10月の収穫したてのころは特別においしかった。なお、クジラの肉を入れることもあったが、固くて脂が多く、まずかった。包丁で切ると黒いものがついた。

... 山菜
 ウルイ、ヤマゴンボウ、コゴメ(コゴミ)、ゼンマイ、ワラビ、フキ、カタッコ(カタクリ)の茎などの山菜を食べた。ウルイはおひたし、味噌汁などにして食べた。ヤマゴンボウは根ではなく、葉を食べた。風味があっておいしく、餅を搗くときにはトシヨリが採りに行って餅にまぜた。
 トチの実はそのままだと飛び上がるほど渋い。知らない人が栗かと思ってゆでたら、食べられなかったという話がある。熊もサルも食わないという。しかし、灰汁で渋を抜くのに時間と手間がかかるが、大変おいしい。トチ餅にして家で食べたほか、出荷する家もあった。
 家の裏にカラダケ(唐竹)とモウソウダケ(孟宗竹)の竹やぶがあった。洗濯物や豆などを干す物干し竿にしたほか、タケノコを掘って食べた。

... 魚
 魚は普段でも食べたが、いつも食べていたわけではなかった。食べるときは焼くことが多かった。
 家のまわりのホリでは鯉を飼っていた。これは浄水のためであるとともに、栄養源でもあった。特にゴチソウではなく、普段から食べていた。食べるときはうろことはらわたを取り、適当に切れ目をつくって味噌を入れ、味噌煮にすることが多かった。このほか、生で刺身にすることもあった。食べる2ヶ月ほど前から餌をやらないでおくとおいしかった。
 川の魚では、ヤマメ、イワナ、ドジョウ、カジカなどを食べた。カジカは焼いた後、串に刺してワラで作ったベンケイにさし、天井から下げて保存した。食べるときはこれをまた焼いたり、粉にしたものを味噌と混ぜて「カジカミソ」にし、ご飯につけて食べたりした。これがあればおかずはいらなかった。
 魚はこのほか、鶴岡、湯の浜あたりの行商からニシンやイワシなどを買っていた。

... 肉
 肉は山から獲ってきた。ウサギ、キジをよく食べたほか、ムジナも獲った。冬のあいだはウサギぐらいだった。このほか家で飼っているニワトリを食べたりしたが、肉を買うということはなかった。
 冬、ノウサギやムジナを獲ると、皮を剥いで外の竹竿やアマヤの天井に吊るしておく。雪の中よりも外の方が冷たく、こうしておくとカチンカチンに凍ってしまった。肉は骨ごとぶつ切りにする。2階にあった短い刀は、ウサギの骨を切るのに重宝した。切った肉は骨ごと煮込み、ニクジルにした。骨から出汁が出るので肉がおいしかった。
 肉の調理は「家の中(主屋の床上部分)」ではしない。神様が嫌うからである。そこで、肉を煮るときはイナベヤ(ニワをはさんでオメの反対側)のイロリを使った。食べるときは隣の部屋で食べた。

... その他の食材
 カタツムリはよく食べた。子供も大人も食べた。探して食べるものではないが、クワトリ(桑とり)に山へ行った際など、見つけたら必ず採り、フキの葉にくるんで持ち帰った。雨の日にはカタツムリがよく出てきた。食べるときには炭火の上にそのままのせるか、あるいは炭火の上の網にのせて焼く。そして塩をふりかけ、楊枝で殻から出して食べた。ハマグリよりずっとおいしかった。
 マムシは獲って売っていたほか、自分たちでも食べた。食べるときは串を作って刺す。家の中では調理せず、河原へ行って焚き火をし、カリッとなるまで焼いて骨ごと食べた。焼くと香ばしく、おいしかった。
 屋根を葺いている茅の中に蜂が巣を作る。すると黄色い粉がその中に溜まるので、茅を縦に割って食べた。これは子供のおやつで、とても甘く、おいしかった。これを食べるために、大きい茅を束にして吊るしておいた。
 これらのほか、イナゴやサワガニも食べた。カエルは食べなかった。

... 調味料
 味噌は作っていたが、醤油は作っていなかった。
 砂糖は貴重だったので、あまり使わなかった。お祝い事などのときはアンコロに砂糖を入れたが、普段の餅に入れるアンコロは塩味だった。

... 弁当
 農作業のときは、昼は弁当を持っていった。おにぎりではなくご飯とおかずを入れたベントウだったが、おかずはミソヅケ、シオジャケぐらいで、ツクダニがあれば良い方だった。

... 保存
 春にたくさん採った山菜は茹でて干しておく。ナメキノコ、ノダシ、スギカナコなどキノコ類や、ワラビやフキなどは茹でてシオヅケにもできる。こうすると1年もつので、保存食として冬に食べるのである。干したものは、食べるとき水で戻して調理した。
 漬物は秋口に一冬分漬けた。「漬物ばかり食べて一冬過ごしたようなもの」であるという。塩と唐辛子を入れたシオヅケで、近所にも分けたりした。大変おいしかった。漬け物は大きなタルに入れ、ツケモノオキバで漬ける。ダイコン、ナス、ハクサイ、ニンジン、ゴンボウ、ナス、キュウリなどのほか、山から採ったものも漬けた。ダイコンは干してから漬ける、いわゆるたくあんであった。このほか梅干も漬けていた。漬物はツケモノオキバのほか、土蔵にも入れていた。
 イモやカボチャ、豆、小豆などは2階のハッポウのまわりに置いた。豆や小豆は乾燥させた上、ネズミよけにヒョウタンに入れて保存していた。ヒョウタンはこの辺で栽培したもので、ビンと違って湿気ることがなかった。ハッポウのまわりにはこのヒョウタンがゴロゴロしていた。
 ジャガイモ、サトイモ、サトイモの茎の干したものなどは2階のイロリの上にあたるところに置いた。ここに置いておくと凍らずにすんだ。
 オメの床下にはムロ(モロ)があった。ここにモミガラを入れ、サトイモやカラドリイモ(茎を太く育てたサトイモ)を保存した。春になって芽が出ると食べられないが、ここに入れておくとサトイモはひと冬もった。
 ダイコン、ハクサイ、カブラなどは、普通に置いておくと凍ってしまう。そのため、雪が降る前に家の庭先に穴を掘り、そこに入れてワラで囲っておく。雪が降るとどこに埋めたかわからなくなるので、穴の位置に竿を立てておいた。
 このほか、ニシンやイワシは行商から余計に買い、塩と糠でタルにシオヅケにしておいた。また、秋になるとシブガキの皮をむき、ホシガキにした。冬のあいだはワラで納豆をたくさん作った。

... 酒
 酒は行事の席だけでなく、日常的に飲まれていた。晩酌をする家もめずらしくなく、仕込んで日が浅いときは酒が甘いので、子供も甘酒がわりに飲んだ。多少苦くなっても、好きな子は飲んでいた。「この子はお酒が好きだー」などという言い方をしたという。近所の人が家に来たときなども、「ちょっといっぱい」などと言ってお茶代わりに飲んだりした。こうしたときに飲むのはドブロクで、酒を買うこともなかったし、ビールを飲むこともなかった。どの家でもかつてはドブロクを造っていた。
 ドブロクの味は1軒ずつみんな違った。早くするときつくなり、じわじわとやると甘くなる。下手に造ると酸っぱくなってしまう。酒造りは女の仕事で、男が手伝うのは力仕事のみだった。農閑期にその家の主婦などがやることが多く、若い者はやらない。代替わりのときは、嫁は酒の造り方を仕込まれた。
 すへよ氏は酒造りが大変上手で、小さい甕で造った酒のモトを、1升ぐらいずつ他の家にも分けていた。もらった家ではそのモトで酒を造った。
 仕込むのは冬である。涼しくならないと良いものはできない。米は自家製のうるち米を使う。ただし、「二番米」「下米」という売り物にしない悪い米でないとだめで、良い米ではできない。トオシで下に落ちたものをもう1回トオシにかけ、そこで落ちたものを取っておき、白米にして使う。
 麹も自分の家でつくる。麹ともち米を煮立て、蓋付きの大きなカメに入れる。仕込みに使うのはタルである。漬物やミソのタルと大きさは同じである。
 仕込む過程で、麹と米をまぜて蒸かしたものを、イロリの上にあたる2階の竹すだれの脇に一晩置く。これは甘くて非常においしいもので、子供も大人も食べたがる。すると弁当箱を持ってこいと言われ、よそってもらった。まだアルコールになりかけぐらいのときなので、小さい子まで食べられたが、子供は顔が真っ赤になったという。
 できたドブロクは一升瓶につめ、ニワの床下の貯蔵庫にしまう。この貯蔵庫は穴を掘って作ったもので、1年分仕込むので大量に貯蔵することができた。
 ドブロク造りは内緒だったが、作ると店の酒が売れなくなるので税務署にわかってしまった。税務署は春、雪のあるころカンジキを履いて廻って来る。来る時期は大体わかるが、近所の集落からも事前に情報が入る。連絡には、ムラで1つだけあった電話が使用された。その家の人は電話で連絡が入ると、ムラの者に知らせて廻った。そのとき、両手のひとさし指を頭の上にかざし、「これ(鬼)がくるぞー」と声をかけたという。知らせが入ると、うちの中では匂いでわかってしまうので、山にある小屋まで酒を隠しに行った。しかし、ものは隠しても匂いはなかなか消えない上、雪の上に足跡が残ってしまうので、わかってしまった。見つかると没収され、罰金も取られた。
 焼酎も造っていた。造るのは春である。酒粕を煮立て、雪で冷やす。蒸気にしてパイプで取る。これを始めると、夜を徹して行った。子供も手伝った。焼酎はドブロクに比べ醸造できる量が少ないため、飲むのは行事のときなどで、そのほか梅酒にしたりマムシを漬けたりするのに使った。
 甘酒も造っていた。家で造った麹を煮立て、麹だけではもったいないのでそこにもち米も入れる。これを蓋付きの大きなカメに入れておくと一晩でできる。カメに入れて保存しておくと、1週間から10日ほどもった。

..(4)暮らし
... 女の仕事
 女は夫と一緒にタンボやハタケで仕事をした。帰りは夫より少し早かったが、帰ったあとは女の方が忙しかった。
 女は暗いうちから起きてナガシで水を汲み、弁当を作り、夜暗くなるまで戻らない。そして帰ってくるとすぐゴハンシタクをし、風呂の用意をし、片付け、明日の準備などをする。さらには、子供の面倒もみなくてはならなかった。
 赤子がいるあいだも昼間は外に働きに出るため、子供の面倒はオバアサンやトナリがみた。そのため乳を飲ませるときは、親の働いているところまで子守りが赤子を連れて行った。そしてしばらくタンボの畦に寝かせ、落ち着いてから家へ戻した。昼になると、母親も帰れるときは家に帰った。

... 大人と子供
 父親は怖い存在だった。兄弟げんかをしたり、仕事をやりたくないなどというと、怒られた。また、食事に不満で食べたくないと言うと、「贅沢言うと食べずにいろ」と怒られた。
 「子供はイロリはだめ。コタツだよ」と言われ、イロリにはあたらせてもらえなかった。これは、人数が多かったためである。
 昔は大事な話をするときは、「子供はあっちに行っていなさい」と言われた。

... 手伝い
 何歳から手伝うということはなかったが、できるようになったらやらされた。仕事の指示は母親が出した。
 子供のアサシゴトとしては、クサカリがあった。これは牛や馬の餌にするもので、朝のうちに1日分の餌をとってきた。餌をとるだけでなく、世話もした。小学校4、5年生ごろから馬に運動をさせ、中学生になると農繁期にはタンボに馬を出して使った。ワラを切る仕事もよくやらされたという。
 マキをとりに行くのも子供の仕事だった。イロリにくべる大量のマキをコヤから中に運ぶのは、力の強い子供がやっていた。
 養蚕の手伝いもした。放課後や休みの日の朝、山へクワトリに行かされた。
 農閑期には毎日ワラジ作りなどをした。このほか冬は、敷地の雪の下に設けた保存用の穴から、その日に食べる野菜を取ってくるのも子供たちの仕事だった。
 男兄弟はオカッテは手伝わなかったが、娘たちはよく手伝っていた。子守もした。1人が子守、もう1人がご飯の支度だった。
 子守をするときは、紐を使って赤子を背負った。紐を胸の前で交差させて後ろにまわし、赤子の尻を紐で支えるのである。1人がこうしているあいだ、もう1人はオシメを洗った。タライなどは使わず、川のセギで洗った。
 子供たちはこうした家の仕事を、時には学校も休んで手伝ったという。

... 奉公
 出稼ぎはなかったが、長男長女以外は住み込みで働きに出ることがあった。
 みつせ氏は高等科を卒業したあと、学校の斡旋で1年ほど東京五反田の落下傘会社へ働きに行った。その後、鶴岡在の大きな農家へ奉公に行った。
 奉公先では着替え以外そこの家持ちである。食事、布団、履き物、傘、そうしたものは先方で賄った。しかし、住み込みなので寝坊はできず、休みの日でも遅くまで寝ていることはできなかった。
 休みは半月に1日だった。同じムラから同じ年ごろの娘たちが何人か来ており、休みになると湯田川温泉、湯の浜温泉など、近くの温泉につれだって出かけた。
 盆暮れに実家に帰るときには、小遣いのほか、畑で採れたものを土産にくれた。
 給料は年に2万円で、働き始めて1年目にもらえる。みつせ氏はそのお金で嫁入り道具の布団を買った。
 こうした住み込みの奉公のほか、通いで、忙しいときだけ農家に手伝いに行くということもあった。

... 学校
 朝、母親はご飯だけ炊いておいてくれた。子供たちが起きてくるころはノラシゴトに出ていなかったので、自分たちで味噌汁を作った。
 学校の弁当はおにぎりだった。梅干などを入れ塩をつけてにぎったもので、これをイロリで焼いた。オキの上にそのままポンと置き、下の方に焦げ目が出ると、灰をポンポンと叩いて朴の葉に包むのである。このおにぎりの大きいのを1つ、母親か姉が作ってくれた。上の学年になると上田沢など他の集落といっしょになる。その中には役場や郵便局など勤め人の子がいた。そういう子供はご飯を入れるところとおかずを入れるところが別になっている弁当を持ってきていた。
 現在の公民館がかつての分教場である。3年生までの子供は12月〜5月までここに通った。分教場の教員は代用教員で、寺の住職や「あの人ならできそうだ」という人が担当した。
 4年生になると、冬のあいだも1里ほど離れた学校に通った。中学1年生の女の子が先頭、男の子が一番後ろにつき、そのあいだに小学生を入れて登校する。道は一本道で細く、少しでも端によるとスポッとヌカルので、一列になって前の人の足跡をなぞって歩いてゆく。ヌカッたりして手足が濡れると凍えてしまう。4年生ぐらいの女の子は寒さに耐え切れず、メソメソ泣き出してしまう。手袋はしたが今のように良い素材ではなかったので、雪が浸みると紫色になるほど手が冷えてしまうのである。手先が冷たくなると、子供は口に入れてなめてしまう。そうすると一時よくてもますます冷えてしまう。女の子が泣き出すと、「オニヤク」という年長の子供がその子の手をパチンと叩いた。するといくらか良くなって、また歩くことができたという。
 仏壇の下の引き出しに学校の教材を入れていた。みんなで使用していたため「あれが無いこれが無い」ということがしょっちゅうあり、よく喧嘩になった。宿題は夜、仏壇の前のホリゴタツにねそべってやった。ホリゴタツの無い時期はこの板の間で、やはり寝そべってやっていた。
 小学校の遠足は、淳一氏のときは酒田にある本間家の庭園(現在の本間美術館)だった。6年のとき新潟まで行くことができ、中学校の修学旅行でやっと東京へ行くことができた。

... 子供の遊び
 夏は川に入った。赤川のほか、松沢に流れている松沢川、このほか大きい子は、現在荒沢ダムのあるあたりまで泳ぎに行った。学校帰りに泳いだので、家に帰って風呂に入らずにすんだ。海水着などはなく、泳ぐときはどの子供も裸だった。少し大きくなると男の子と女の子は一緒には泳がなかった。泳げるのは7月末からお盆過ぎまでの、短いあいだだけだった。
 川の流れがあるため、夏は蛍が出た。カブトムシなどはどこにでもいた。葺き替えた茅を山積みにしておくと、そこから大量に出てきた。淳一氏は子供のとき、捕れて一番うれしかったのはオニヤンマだったという。当時はいたようでおらず、捕れると虫かごに入れ、糸をつけて飛ばしたりした。オニヤンマが飛んでいると、虻や蚊などが不思議にぴたりといなくなった。
 ウサギのケモノミチにワッカ(丸くした罠)を「ヒシカケル」こともやった。こうすると、朝には獲物が引っ掛かっていた。
 子供たちは5、6歳ごろからスキーで遊んだ。スキーは父親が分厚い木で作ってくれたもので、金具だけ買って取り付け、ここに長靴を括り付けて履いた。ムラの坂道はスキー場だった。しかしそれだけでは物足りないので、屋根から下ろした雪で坂を作って遊んだ。
 3月の雪が固まる時期には、下駄の底に竹で作った板を取り付け、滑って遊んだ。このほかにもタルのマワリ(タガ)を取って転がしたり、竹で鳥かごを作ったり、道具を工夫しながら遊んだ。道具を作るのも上手な人と下手な人がいた。
 女の子の遊びは、ハジキ(おはじき)、ツカ(お手玉)、カルタ、コマ、ナワトビ、カクレンボなどであった。ツカの中には小豆やソバガラを入れた。

... 病気
 普通の病気や怪我は富山の置き薬に頼っていた。風邪などは病気のうちにも入らないので、薬も飲まなかった。子供が風邪を引いても、学校を休んで治るまで寝かされているだけだった。虫に食われたりしても、何もしなかった。草の葉の汁を付けるようなこともなく、食われっぱなしだった。
 しかし、重い急病人が出たり、あるいは横になっても治らず「とうとう危なそうだ」というときには、ムラの若い衆を頼んでマチイシャまで病人を運んだ。冬はソリ、雪のないときはリヤカーで、3、4人がかりだった。逆に医者を連れて来てもらうこともあった。
 マチイシャは落合や河原の集落にいた。しかし、それより以前は鶴岡まで行かなければならなかった。昔は医者へ行くのは、苦しいのを我慢に我慢を重ね、それからだった。70過ぎぐらいで死ぬ人は、みな老衰と言われた。

... その他
 夏は祭り、冬は冬でいろいろな娯楽があった。特にドブロクを造って飲むのは楽しみだった。
 竹治郎氏は春の雪解けごろ、温泉へ湯治に行っていた。よく効く温泉で、米や味噌を持って行っていた。
 新聞をとっているのは裕福な家だけだった。
 ラジオは親戚が組み立てて持ってきてくれたのが最初だった。
 テレビを持っているうちは1軒しかなかった。人の顔もよく見えない「雪が降る」画面だったが、大人も子供も大勢押しかけて力道山などを見た。
 電話も1軒の家にしかなく、かけるときは皆その家に借りに行った。また逆に電話があると、その家の人が呼びに来た。ただし、電話を使用することはめったになかった。

.3 生業
... 概況
 現在、松沢に専業農家はない。しかし、かつては30戸のうち8割は農業だった。あとの家は山林、炭焼き、山菜、キノコなど山の仕事のほか、土木関係の仕事をしていた。
 菅原家は田畑を1町歩ほど持っていた。タンボの割合が多く、畑は家のまわりにあるだけだった。そのほか山に焼畑を作っていた。生産していたのは主に米である。出荷していたのも米だけで、野菜は自家用だった。松沢周辺では紅花も作っていなかった。
 現金収入として、農業のほかに養蚕と炭焼きをしていた。その他に現金収入の手段はなかった。田畑はあっても現金がないため、財産を減らさずに守るのは大変だった。
 仕事は忙しく、子供が起きるころには親の姿はなかった。また、山仕事やタンボの仕事も遠い場所だと昼に戻れず、弁当を持って暗くなるまで働いた。

... 稲作
 かつて作っていたのは「農林何号」という品種で、おいしくなかった。しかし化学肥料を使用しなかった上、ナベで大量に炊くため、とてもおいしく感じたという。現在主になっているのは、あきたこまち、はえぬき、はなの舞(酒米)、とよにしき(酒米)などである。農協から植えてみてくれと言われ以前ササニシキもやったが、気候が合わないためか全然駄目で1年でやめてしまった。あとの品種も病気にかかって駄目である。
 タンボを作る作業は3月下旬、タネモミの準備から始める。タネモミを水に浮かせて選別したりする作業である。
 苗代を作るのは4月中ごろ、タンボに出て耕すのは、中旬はまだ雪が残っているため下旬からである。耕すときは牛や馬を使ったが、小さいタンボは人間がやるしかなかった。
 田植えは5月の終わりごろである。このときはお互い手伝いに行き来したほか、田畑を持たない2、3軒の家の人にヤトイを頼んだ。ヤトイには3食出し、報酬は現金でなく米や味噌などで渡した。稲刈りのときもヤトイを頼んだ。
 タンボの草取りは3回ほど行った。暑かったが、暑さよけにはヒサシの長いカサをかぶるくらいだった。しかも苗を跨いで行う重労働だったため、休憩時には昼寝をした。
 米の収穫は10月の中旬〜下旬ごろである。刈り取った稲はタンボでクイガケした。背丈ほどの長さの杉の間伐材を立て、穂を外側にして稲を互い違いに掛けてゆく。このとき、稲が落ちないよう、一番下になる位置には杉の枝を少し残しておく。こうして乾かしてから家まで運び、イナグラに入た。稲は20把ぐらいを束にし、穂の付いたまま積んでおいた。ネズミには当然食われた。
 稲をコナス(脱穀する)のは冬の仕事だった。足踏みの脱穀機と千歯扱きと両方使われていた。コナした後は土蔵で保管し、食べるときに精米した。水車はなく、精米には精米機を使用していた。稲をモミにした後のワラは、ナヤの上に積んでおいた。
 農協に出荷するときも昔はタワラを使った。そのため、土蔵などに積んでおくとネズミが穴を開け、もう1回やり直しになった。しかし「ネズミが全部食うわけではない」と、なかばあきらめていた。
 米が配給だった時代は、夏に供出米を出していた。悪い米以外は全部出せ、代わりに配給してあげるよという時代で、当時の農家は皆そのような境遇であった。米を出してしまうので、自分たちは餅を食べていた。

... 畑作
 夏が短い上、盆過ぎには朝晩の気温が10℃代に下がるため、畑の作物は良いものができた。ただし、野菜やもち米は自家用であった。
 畑ではハクサイ、大豆、小豆、ササギ(ササゲ)などを作った。麦は作っていなかった。
 保存食にして冬場に食べる秋大根は、お盆前に撒いた。そして10月末にトリイレをした。イモも10月のイネカリが終わったころに収穫した。
 山では焼畑をしてソバを作った。草を刈り、それを焼く。そして種を撒き、クワでならす。種は踏みつけるぐらいでよかった。翌年は別のところで作った方が出来が良いので、場所を変えた。

... 堆肥
 肥料はやったが農薬は使用しなかった。肥料はほとんど堆肥であった。馬糞はタンボにはよく使ったが、畑にはあまり使わなかった。
 堆肥を作るにはタイヒゴヤに草を入れ、牛馬の糞をはさんで重ね、発酵させる。堆肥をしないと土が痩せてしまうため、どうしても堆肥が必要だった。
 堆肥用の草は日ごろから取ってタイヒゴヤに入れる。しかしそれでは足りないので、どの家もお盆前には大量に草を刈って、タイヒゴヤを山にするのに忙しくなる。それが終わらないと盆が来ないというぐらいであった。
 3月、雪が最高に積もった状態のとき、タイヒゴヤから堆肥を運ぶ。この作業は必ずこの時期に行う。雪が積もっていればユキゾリでタンボの畦などを通れる上、畦とタンボの高さが同じになるため、タンボの中まで入れるからである。カンジキで道をつければ、ソリは好きな場所へ滑らすことができた。
 出来上がった堆肥は、ワラで作ったタワラに入れる。堆肥用のタワラは、直径60〜80cm、深さ50cmほどで、縄の取っ手が付いている。丈夫で重いものも入れられるため、他の用途にも使われるものである。堆肥を入れたタワラは1つ50〜60kgくらいで、1回に5つほどソリに載せる。タワラの総数は30〜50個ほどになったので、近いタンボで1kmほど、遠いタンボで2kmほどの道を人の手で曳いて何度も往復した。
 タンボへ行くまでのあいだに川があった。この川に、3月になるとムラで橋を架けた。橋は1日で架けた。太い丸太を4人がかりで運んで渡し、細めの丸太を横に並べ、その上にムシロを敷いて雪を載せる。木材は毎年同じものを使い、期間が過ぎれば橋を引き上げて丸太を仕舞った。冬場はタンボの水が少ないためにできることだった。
 橋を一気に架けると、みんなで一気に堆肥を運ぶ。暖かくなって水量が増えると橋が流されてしまうので、ムラの人はみな急いで仕事をした。「お祭みてえなさわぎ」だったという。
 共同で掛けた橋を渡ると、それぞれ自分のタンボまで道を作ってすべってゆく。タンボに1.5〜2mほどの雪穴を掘り、この中に堆肥を入れてゆく。雪がすっかり溶けると、穴に入れた堆肥だけがタンボの中に筒のように立っていたという。耕す前、でっかいフォークや手を使ってこれをばら撒いた。

... 家畜
 牛と馬を1頭ずつ飼って、荷物運びやタンボを耕す仕事をさせていた。大きいタンボ、段々になっていないタンボは馬にやらせた。小さいタンボや、段があったり傾斜のきついタンボは牛にやらせた。これは牛が山も登れるのに対し、馬は蹄鉄を付けているため傾斜のきついところでは動けず、また小さいタンボの場合、馬では足が速すぎてきちんと掻けないからである。
 今朝春氏が小さいころ飼っていた馬は、父親が100円で買ってきたもので、片目が見えなかった。そのうち高齢になって使えなくなったが、かわいそうなのでそのまま飼い続けた。その代わりの労働力として牛を買い、また小学校4年生ごろに新しい馬を入れた。この馬はまだ2歳くらいで、タンボに出せないほど若かったという。
 餌にはワラや干草をやった。ナヤの上には脱穀したあとの稲ワラがたくさん積んであり、これをテオシ(押切り)で5cmくらいに切って冬中与えた。乾草は山から運び、カリボシをして与えた。このほか、精米したあとのヌカも乾草に混ぜて与えていた。
 牛と馬を飼っていたのは、堆肥を作るためでもあった。ナヤに敷いた古いワラをタイヒゴヤに入れ、堆肥にするのである。ワラは1週間に1回取り替えた。雨が降った日などは1日か2日延ばした。取り替えるときは馬を外に出し、フォークのような道具とワラ製の担架のような道具を使って運びだす。そして最後に、細かいワラを竹ボウキと竹のミを使って運んだ。
 馬はずっと飼っていたが、他はその時々でさまざまなものを飼っていた。
 乳を採るためヤギを飼ったこともあった。子供は学校から帰ると乳搾りをやらされた。牛の乳は採らなかった。
 猫は3匹ほど飼っていた。これはネズミから蚕を守るためで、蚕の部屋の火のそばで寝ていた。猫には魚を食べさせていた。
 その他、綿羊、豚、犬、ウサギ、ニワトリなどを飼っていたことがあった。子供は竹で鳥かごを作って、小鳥を飼ったりした。

... 手細工
 ムシロなど、ワラのものはすべて家で作った。
 ワラ打ちをするときは、中2階からワラをドスンとニワ(土間)に落とす。ニワには大きな石が埋めてあり、この上にワラを置き、槌などで叩く。
 ワラシゴトは春になってタンボがはじまるとできなくなるので、冬場のうちに行った。ナワナイのほか、ミノ、ワラジ、ゾウリ、タワラなど、毎日たくさんのものを作った。
 朝食前の仕事を「アサシゴト」と言った。スミダワラ作りが朝の仕事で、朝5時か5時半ごろ起きて編んだ。スミダワラにはワラではなく茅を使った。
 なお、ワラ製品は家で作ったが、竹の製品は職人から買っていた。

... 養蚕
 菅原家では、昭和40年(1965)まで養蚕を行っていた。秋は米の方で忙しかったため、年に1回だけだった。
 始めるのは6月である。田植えが終わってすぐで、他の農作業とも重なるため忙しかった。この時期は冷える日もあり、火鉢を入れていた。
 飼っているあいだ、家の中は人の寝る場所もないほどだった。主に使われたのはシモデで、真ん中に火鉢を置き、まわりに棚を作った。隣のオメにも広げ、入口のみを残してたくさんの棚を設けた。カミデも畳を上げて使用することがあった。このほか、2階も少し片付けて棚を設置していた。
 蚕は丸いザルの上に、網目のコマイ(細かい)、ムシロのようなものを敷いて飼う。目が粗いとカイコの糞が落ちてしまうので、コマくしなければならない。ここに桑の葉とカイコを置き、棚に載せた。
 棚は竹で作った骨組みだけである。かなり高くまである。餌をやるときはアミをおろすが、このとき小柄な者はアガリダイを使った。
 稚蚕は1cmぐらいのものを農協から仕入れた。蚕のことは「シロ」「シロオ」と呼んだが、稚蚕の呼び方は特になかった。小さいうちはあまり大きく広げない。そして最初は柔らかい葉を、途中からは硬めの葉を与える。
 朝は4時半か5時ごろ、夜明けとともに起きた。まずアサシゴトにクワトリに行く。それから食事をしに家にもどる。食べ終わると今度はタンボに出て働き、手が足りないと農作業を半日で切り上げ、午後からまたクワトリに行く。桑は家のまわりの桑畑からもとったが、それでは全然足りなかったので、カンチヤマ(官地山)へ行ってとってきた。
 一番大変だったのは雨の日のクワトリである。良い葉っぱをさがすうち、体はびっしょりになってしまった。しかし、濡れた葉をそのまま与えるわけにはいかないので、雨の日は採ってきた葉をニワ(土間)に広げて干さなければならなかった。こうしたことも子供の仕事だったが、とても大変だった。
 養蚕の忙しい時期にはお手伝いさんを呼んだ。お手伝いさんは2階で寝泊りし、母親の指示で仕事をした。
 出荷は6月の下旬か7月の上旬である。隣の上田沢の集落まで、背負って運んだ。文雄氏はその帰り道、売上げで傘を買ってもらったことがあり、とてもうれしかったという。なお、柔らかかったり汚れたりしたマユは出荷できないので、そうしたものは家で真綿にして使った。
 マユを取ったあとのサナギは、鯉が好きだったのでホリに投げていた。また、カイコの糞はタンボの堆肥にしていた。よい肥料になった。
 養蚕の季節が終わると、アミ、棚、ヒバチなど、道具はニワの上の2階にしまった。アミは100枚以上もあった。

... 炭焼き
 菅原家では、昭和32、3年ごろまで炭焼きをしていた。ムラではどの家もやっており、菅原家は田畑を持っていたので農閑期だけだったが、もっと盛んに行っている家もあった。農閑期の現金収入は炭焼きぐらいであった。
 炭焼きは国有林で行い、カマゴヤ(炭焼き小屋)の周囲に良い木がなくなると次の場所に移動する。移動範囲はムラから3、4km以内で、3年ほど経つと移動した。
 炭にするのは、ナラ、モミジ、イカヤ(カエデ)、ブナなどである。一番良いのがナラの丸、次に良いのがナラの割ったもので、これを「ナラワリ」という。また、モミジの炭も最高の部類に入る。良い炭のことを「炭のジョウ(上)」という言い方をした。伐った木は雪の上を滑らせて小屋まで降ろした。そういう仕掛けが作ってあった。
 菅原家のカマゴヤは、家から半日ほど離れた場所にあった。炭は釜に入れて1週間ほど焼き、そのまま2日間冷ます。この間、泊り込みで火の加減をみる。その際、家からは味噌だけ持って行き、山で採ったシイタケを焼いて味噌を付けたり、味噌汁にしたりして食べていた。
 炭を運び出す際は、スミダワラに入れて背負った。男は3俵、女は2俵、若い男は5俵ほど背負った。1俵は4貫、約12kgである。「3俵背負えなきゃ一人前じゃない」といわれた。3俵背負うときは、2本を立てて荷縄を通し、1俵をその上に横たえる。スミダワラは荷縄で背負うので、バンドリなどは使用しなかった。
 小屋に泊るのは父親だけだったが、炭を運び出したり材料の木を小屋へ運んだりする仕事は子供も手伝った。息子だけでなく、娘もやった。
 山から下ろした炭は、出荷するために農協の倉庫まで運んだ。砕けたりして出荷できないものは、家でコタツに使用していた。

... キノコ・山菜
 春一番にシイタケが採れた。ナラの木を切って2、3年経つと、切り株に自然に生えてきた。秋には、ナメキノコ(ナメコ)、スギカナ(ノ)コ、モダシ(モタシ)、マイタケなどが採れた。
 キノコは栽培もした。シイタケもやっていたが雪が多くてハウスというわけにいかないので、主力はナメコだった。場所は営林署の山を借りた。キノコを植えるというと許可にならないので、マキや炭焼きで使うといっていくらかずつキノコを植えた。何人かで共同でやっていた。
 山菜はゼンマイ、コゴメ(ミ)が主力だった。春にはほかに、ウド、ミズ(ミズナ)、ウルイ(ギボウシと同じ種類)、カタッコ(カタクリ)、ワラビなどが採れた。ミズはセギのフチなどに生えた。また、ウルイは大量に採れた。
 キノコも山菜も農協に出荷していた。

... マキ
 マキは、他の用事で山へ行った帰りなどにとって来た。山へ行ったら手ぶらでは帰ってこなかった。
 マキは春にソリで集めてきて、貯蔵しておく。寒くなるころには乾いて燃えやすくなる。一冬燃しっぱなしなので、マキは大量に必要であった。
 マキを運ぶ道具で、「タケノマ」という割った竹を下に張った四角いソリのようなものがあった。長い方の2辺にロープを付け、これを両手に持ってマキの上にまたがり、山から雪の上をダーッと滑ってくるのである。50kmほどのスピードが出た。途中では止まれなかったが、止まりたいときには自然に止まった。
 マキは多少出荷していた。

... 猟
 菅原家では鉄砲を持っていた。鉄砲を持つには鑑札が必要だった。現在は警察の公安委員会に届けが必要で、銃はロッカーに納め、弾も別の保管庫に入れないと許可にならない。
 昔は弾も自分で作り、火薬も買ってきて自分で詰めた。作るときにはまず、2階に上がり、たくさん置いてあった錆びたトアミから鉛のおもりをはずす。これをフライパンのような道具でイロリの火にかけて溶かし、細い板状にする。そしてハサミで細かく切り、コロコロと転がして3cmほどに丸める。丸めるときは熱を加えなくても丸まった。この仕事は子供も手伝った。
 鉄砲で撃つのは、熊のほか、野ウサギ、カモ、キジなどである。熊のほかは個人で撃ちに行くこともあった。
 雪がカタユキになる春先には、村中の人が出てウサギガリをした。このときは、鉄砲を持つ人とウサギを追う役の人と分かれて行った。なおウサギには、鉄砲のほか、ワッカ(丸くした罠)も使った。これは子供でもできた。
 罠で獲るものとしては、ほかにテンとイタチがあった。これらの皮は高く売れた。肉を食べることはしなかった。
 猟に犬を連れて行くことはなかったが、カモの場合は水辺の猟なので、犬を連れて行く人もいた。

... クマウチ
 菅原家ではクマウチ(熊撃ち)もした。
 クマウチは慣れた人でないと難しい。熊がどういうふうに動くか、知っていなければならない。初めての人には教えてから行くが、実際に山に入ると環境が違うので大変である。
 撃ちに行くのは3〜4月、雪が降らなくなり、少し暖かくなるころである。熊が出てくるこの時期に、2、3週間泊り込みで行う。入るのは朝日岳の方、大鳥方面の山か、八久和方面の山である。
 泊まるのは「クマゴヤ」と呼ばれる小屋である。この小屋はクマウチの仲間で建て、管理している。小屋といっても仮設のものではなく、猛吹雪でもつぶれないほどしっかりしたもので、14、5人は充分泊まれる広さがある。窓はなく入口だけで、クマウチが終わると閉ざし、雪が降っても大丈夫なようにしておいた。屋根は昔は茅葺だった。また、建てる場所は飲み水を確保するために、清水のそばなどを選んだ。
 泊り込むときの食糧は、秋のうちに全部クマゴヤまで上げておいた。大鳥からクマゴヤまでは、朝6時ごろ出ても、着くのは早くて昼ごろになる。そのため春行くときには、自分で飲みたいもの食べたいものだけ持ち、なるべく荷物を軽くした。
 クマウチには最低7人で行く。このうち一番山を知っていて、熊の動きのわかる者が「マエカタ」を務める。山を見て、熊の動きを合図する役である。その他に特に決まった呼び名はないが、猟場では鉄砲を持っている者を「一番」「二番」というように呼ぶ。鉄砲は全員が持っている。
 行く前には全員でムラの山神社に酒をあげ、これをみんなで飲んだ。特別お守りなどを持つことはなかった。
 熊は敏感なのですぐ逃げてしまう。そのため、猟場に行ったら煙草を吸ってはいけない。大声を出したり、みだりに話したりしてもいけない。今は無線機で静かに連絡することもできるが、昔は身振り手振りだった。
 熊が出たらマエカタの指示に絶対に従う。マエカタは反対側の山にいて、仲間がどこにいるか、熊がどこにいるか、すべて把握した上で指示を出す。「熊が一番のどっち側に行った、二番のどっち側に行った」という具合である。
 鉄砲で撃つ者は、少し平らになっていて感づかれにくいところで構えている。熊がどっちへ行ったか、撃つ者には全く見えない。「何番の右側の今どの辺まで行った」というようにマエカタが連絡する。「もうどのくらいで撃て」というところまでマエカタがすべて指示する。昔はこうした指示は声でやった。囲ってしまえば大声を出してもよかったが、熊はすぐ勘付いてしまうので、撃つ人は息も止めるほど静かにしていなければならなかった。
 仕留めると、クマゴヤまでロープで運ぶ。そして、お神酒を上げたりして儀式のようなことをする。このとき唱える言葉などは、今は特にない。
 山を下りるまで、熊は雪の中に埋めておいた。しかし、行ったときにはカラスの姿などないのに、カラスが見つけてつつくことがあった。
 熊の胆は、指先ほどでも1万円で買えるかというほど高価なものである。大きいものは100万、200万単位の値段になった。熊の胆でかなり稼ぐ人もいた。
 儲けは山分けである。仕留めた人が多いということはない。また、マエカタが多いということもない。ただし、山に1週間泊まった人と2週間泊まった人とでは配分は異なる。
 胆のほかの肉や皮は、自分たちで食べたり使ったりした。しかし、皮は重く、馬で曳くわけにも行かないので、これを運び出すのが一番大変だった。そのため欲しい人は自分で背負ってくるが、今は皮を剥ぐことは少なく、山においてくることもある。
 クマウチからもどると山神社にお礼参りに行った。帰るとドンチャン騒ぎをした。

... その他
 台風で増水したときや、大水が出たときは、川へ行ってカジカなどを網で獲った。また、ダムができるまでは秋にマスが上がってきたので獲った。マスはモリを持って潜ってとる。イクラもとれる。さらに川の上流へ行くと、マスの生んだ卵を食べようと魚がたくさん集まるので、それを狙った。このほかイワナなどもよく獲ったという〈注2〉。近所の人はトアミも使っていた。
 マムシはナツバテや疲れに効くので、高く売れた。出荷するわけではなく、「マムシが取れたら売ってください」と注文を受けて獲った。ただ、なかなかいるものではなかった。
 マムシは毒を持っている上、飛びかかってくるので捕まえにくいが、子供でも獲ることができる。先の尖った竿や棒で頭を叩き、弱ってきたところで頭にとどめを刺した。

.4 社会
... 概況
 松沢のことを地元では「マヅゾ」といった。松沢地区は1つのムラであり、1つのヨリアイである。つながりが全くない人は極めて少なく、世代をさかのぼると、どの代かで嫁をもらったりやったりしている。
 こうした環境のため、たとえば誰かが病気になればみんな知っており、マチに行ったときには珍しいものや果物などを買ってきたりした。
 しかしそうした中でもお金のある家とない家はあり、ヨリアイで誰かの家に集まるときなど、貧しくておなかの減っている人は猫のご飯の傍にいち早く座った、という話が残っている。

... 社会組織
 ムラのヨリアイは、年に何回か行われる。定期的に開かれるわけではなく、何かコトが起こったとき、たとえば役場から通達があったときなどに開かれる。ただし、春のヨリアイでは1年のことのほか、ムラのヤクを決めることになっていた。ヤクの任期は1年間だった。ムラ全体が集まるのは、この春のヨリアイのほかは、8月のお祭りと秋の収穫祝い、正月に行われる青年団の餅搗きぐらいであった。
 現在、会場は公民館だが、かつては年ごとに回り持ちだった。ただし、できない家もあるので、すべての家を回るわけではなかった。
 集まるのは夜で、各家の当主が出た。当主が行けない場合は、その家のアニキ(長男)が行った。それも駄目な場合は女が代わりに出ることもあった。会場となる家では漬物などを出した。以前はヨリアイが終わったあと酒の席になったりしたが、今はそうしたことはない。菅原家でヨリアイがあるときはオメを使った。
 ムラには駐在員がいる。駐在員とは、ムラの代表、窓口である。役所などから通達が出ると、駐在員が役場へ行って聞いてきた。その帰りに荷物などを引き取りムラまで運んだり、回覧板を回してさまざまな情報を流したりした。このほか、他の集落との交渉や話し合いがある場合にも、駐在員同士が役場に集まって行った。
 駐在員は春のヨリアイで決める。誰でもできるものではなく、ある程度信頼される人物がなるので、回り持ち制だが全戸に順番が回るものではなかった。ヨリアイの代表が駐在員を兼任する場合もあった。駐在員の下には係があり、何かを配るなどの仕事をした。
 ムラには消防団がある。以前は13人ぐらいいたが、今は7名である。かつては他に青年団があり、終戦までは青年学校もあった。
 女性の集まりとしては「若妻会」があり、あちこち遊びに行ったりしていた。昭和40年(1965)ごろはまだやっていた。
 子供だけの集まりはなかった。
 ムラでは現在、毎月1戸あたり5000円を積み立て、お宮の修理などに使っている。松沢から出る家があると、すべて精算している。頼母子講のようなものはなかった。

... 共有財産
 ムラの共有財産のようなものはなかった。共有のものは山神社の祭りの道具ぐらいで、行事の折りの椀なども全部家で持っていた。足らないときは、親戚に借りた。

... 共同作業
 冬は一晩で道が雪に埋もれてしまうため、朝、足で踏んで道をつける。自分の家のまわりは自分でやったが、集落から離れたところは当番がやるか順番にやるかしていた。
 現在も小規模な道の手入れなどはムラでやるようにしているが、後は役所に依頼している。

.5 交通交易
..(1)交通
 行き来のあったのは鶴岡、落合などである。冬だと鶴岡に出るのも歩いて1日がかりだった。
 山を越すと温海である。かつては、鶴岡よりも新潟側と行き来があったらしい。大鳥という集落はさらに新潟と近いので、行き来はほとんでそちらとだったという。道は今も残っているが、現在は炭焼きにも行かなくなったので荒れ放題になってしまった。かつて道路を通すという話もあったが、その当時はほとんど山のもので生活していたため、そうしたものが採れなくなると言って反対した。

..(2)運搬
 荷運びには牛よりも馬の方を使った。馬に運搬させるときには馬車のほか、荷が少ないときには振り分けにして背中に掛けて運んだ。牛には車を曳かせたりした。
 背負い梯子のうち、背の高いものを「ヤセウマ」、低いものを「ハシゴバンドリ」と呼ぶ。材料は杉で、大工に作ってもらう。
 数え方は「1ツイ」である。家には働く人の人数分用意してあり、菅原家では2ツイか3ツイくらいあった。使わないときには、玄関の端にハシゴのように掛けておいた。
 使うのは、堆肥を田畑に運ぶとき、稲をタンボから、野菜を畑から運ぶとき、マキや乾草を山から運ぶときなどである。草は束ねて載せる。草が襟元から入るとチクチク痒くなるので、それを防ぐため背が高くなっている。車の無いころには婚礼用具も運んだ。菅原家でも婚礼の道具を運んだことがある。一度に載せるのは50〜100kgぐらいで、荷物はカギのついた縄で固定した。なお、炭はヤセウマに載せると壊れてしまうので使わなかった。
 ヤセウマを使う際は、上はひざ上までの半袖のデタチ、下はモンペだった。手にはコテ、足にはワラジ、頭にはハチマキをしたり、手ぬぐいをかぶったりした。背負うときは下に骨(芯)が入ったバンドリを身に着ける。そしてまずヤセウマを起こし、倒さないように背中につけ、そのまま倒さないように立ち上がった。
 こうした荷物を、途中2回くらい休みながら3kmほど背負って歩いた。下りの坂道は、後ろが地面に付いてしまい苦労した。

..(3)交易
... 物々交換
 ムラに店はなく、買い物はほとんど行商からであった。しかも、昔は現金の無い時代だったので、物々交換であった。農家は大きな家でも物々交換だったという。
 魚、靴などを売りに来ると、豆や米を手ぬぐいに入れて交換した。着物の生地、手ぬぐいなども米と交換して入手していた。野菜は主に自家用だったが、トマトやキュウリ、小豆などは物々交換に出していた。
 畑で採れた麻で反物を織ると、これも交換に出した。交換に行く店は上田沢の方にあり、木綿の絣や縞、タンボへ出るとき履くモンペの無地の生地などと交換した。こうした取引は、母親が一切を行っていた。

... 行商
 行商は30〜40kgほどの荷を背負ってバスで来た。帰りは物々交換で得たものを、同じぐらい背負って帰った。
 魚は鶴岡から売りに来ていた。馴染みの人のところを中心に、ムラのフタトコロかミトコロ(2、3箇所)で売っていた。魚のほか、砂糖、塩、醤油なども行商が売りに来ていた。
 富山の薬売りも来ていた。薬売りは来るとカミデに泊まった。直径8cmほどのおまけの紙風船がもらえるので、子供たちは薬売りが来るのを楽しみにしていた。
 ムラのほとんどは農家であったが、田畑を持たない家も数軒あった。このなかには、鶴岡から物を仕入れて行商をしている家もあった。注文を聞いて仕入れたり、逆にマキを持っていって鶴岡で売ることもあった。

... ウルシカキ
 家のホリの脇に漆の木が並んでおり、ウルシカキが定期的に来ていた。このあたりは漆の木があちこちあったため、近くに数日滞在し、木のまわりに筋を付けて汁を採っていた。漆を採らせるとその代金をもらった〈注3〉。
 菅原家でも漆を掻くことがあった。商売ではなく、家の家具を修理するためである。塗ったり、ものをくっつけたりするのに使用していた〈注4〉。

.6 年中行事
... 正月準備
 暮れの28日か30日ごろ餅搗きをした。昔は日取りがきちんと決まっていたという。この日に搗く餅は、普段食べていた米の粉の混ざったものとは異なり、「ちゃんとした」餅であった。普段と異なるのは餅だけではなく、魚も鮭、ハタハタ、鱈など、正月に食べる決まった種類の魚を行商から購入した。また、大戸口にマツ(五葉松)とユズリハの飾りをつけた。
 菅原家では年越しそばを食べる習慣はなかった。

... 正月
 正月の期間は1週間程度であった。この間、青年団の餅搗き大会などもあった。
 初詣は、夜中にムラの山神社へ行った。早い人は12時過ぎあたりから参った。行くのは大体家の当主と子供たち(男女とも)で、参るときには山の神に供える丸い2段重ねの餅と、餅と昆布を付けたノサ(ワラの飾り)【図6】を持って行った。そしてお堂の中に上がってイロリのまわりで飲み食いした。2段重ねの餅は、供えた後、家へ持ち帰って食べた。
 雑煮は醤油味で、餅、カラドリイモのカラ、ゼンマイなどを入れた。ゼンマイは春にたくさん採ったものを干して保存しておいたものである。
 正月や小正月のあいだ、ドブロク、甘酒は欠かせないものだった。
 なお、7日に七草粥を食べる習慣はなかった。

... 小正月
 小正月には、当主が玄関の脇に雪で3尺四方の壇を作る【図7左】。そして、直径6cmほどのワラ束に松の枝を付けたもの【図7右】を12本作り、その上に立てた。これは菅原家だけが行っていたことである。
 13日あるいは14日、もち米とうるち米を混ぜて挽いた粉で団子を作った。これを直径3cmほどの梨の実の形に整え、山から伐ってきた大振りのミズキの枝に挿し、カミデの神棚と床の間、オメの長押に飾った【図8右上】。団子に色は付けなかった。また、2cm大の団子を付けたワラ飾りを作り、オメの長押へ掛けた。これをマイダマ(マユダマ)と言った【図8左】。これらの団子は「ホケキョウモチ(ウグイスモチ)」といい、2月1日に飾りを取り外した後、団子だけとっておき、初めてウグイスが鳴いたときに食べた。このほか、オメにはもう1本ミズキの枝を飾った。こちらの枝には梨の木で作ったクワ、マンガ、大小のウス、縦横のキネ、エビリ(オブリ)、ナエカゴ、カマ、イナカリカマを麻糸で吊るし、同じように長押に挿して飾った【図8右下】。これらも1月14から2月1日まで飾っていた。
 小正月にはドンドヤキも行った。これは子供が楽しみにしていた行事の1つである。オハカバ(お墓場)の下に平らなタンボがあり、14日、そこに中学生くらいまでのムラ中の子供たちが雪でお堂を作る。お堂は「かまくら」を小さくしたような形である。このお堂の中に子供たちが集まり、供え物をして餅や団子を焼いて食べた。お堂の中の火で焼いたものを食べると一年中元気で暮らせる、などと言われていた。また、大きい団子2つを持って、道祖神へ供えに行った。

... 節分
 豆撒きは子供ではなく、当主が行うものであった。母屋をはじめ、敷地内にある建物を全部廻り、豆を撒いた。豆撒きをした後は、豆を食べた。
 豆を撒くとき、すべての建物の門口の柱の内側に、煮干を使って酒粕を塗った。これは家の中に悪いものが入ってこないようにするためだった。

... 節句
 男の子も女の子も、節句は4月に行った。土蔵からひな人形と男の子の飾りを出し、カミデの床の間にひな壇を設けて飾った。人形は子供が産まれると1体ずつ増やしていくので、床の間だけでは足らず、前に台を置いていた。昔からの人形がたくさん飾られたという。ひな壇には人形のほか、お菓子を置いておく。この日は近所の子供が男の子も女の子も自由に遊びに来るので、そのために甘酒とお菓子が用意されているのである。
 また、この日はシシモチ(菱餅)と草餅を作って食べた。普段の餅のアンコロは塩味なので、この日の甘いアンコロは、子供にとって大変うれしいものであったという。

... 春祈祷
 神主ほか10人ぐらいが来て、山神社の中で太鼓や「オニ」というものを持って舞を舞う。これが終わると、そのまま中でサケノミする。上田沢の河内神社が、旧大泉村全部をこのように回ってやっている。以前はにぎやかな行事であった。
 神主は、春祈祷のときは菅原家に寄らず、お宮に直接来る。神主と一緒に来るのは神主が頼んで毎年やっている人で、神社の役員とは別である。
 毎年春祈祷にはお札を2枚もらい、ムラのはずれの木に1枚ずつ貼る【写真7】。貼るのは神主ではなく、ムラの代表者である。お札は翌年まで貼ったままにしておいた。

... 五月五日
 この日は子供の節句は行わなかった。農家が休む日で、笹の葉で巻いた三角形のチマキを作った。嫁はチマキを持って里帰りした。

... サナブリ
 田植えが終わった後、サナブリだなどと言って、各家で餅を搗いた。なお、ヤトイの人にフルマイをするのは刈り入れの後だけで、田植えのあと行うことはなかった。

... 六月一日
 冬に作ったシミモチをこの日に食べた。シミモチはこの日から食べられるものであった。

... 七夕
 七夕の行事は、家では行わなかった。ただ、子供たちは学校で行った。

... 盆
 13日、カミデに飾りを作る。床の間にセイロを置き、その上にミを載せる【図9上】。ミの上には半紙を敷き、果物、ご飯のお膳、菓子、蝋燭、水と線香を載せる【図9中】。また、床の間には花を供える。お盆に飾る花は、かつては決まったものがあったという。床の間には竹の棹を渡し、そこにショーレーガシ(精霊菓子)を吊るす。ショーレーガシは、ナスなどの野菜やホオズキの形をしたお菓子で、吊るすための紐が付いている。お盆の時期だけ売っているもので、店から買ってきた。床の間の脇には、ご先祖様に着ていただくための着物(男物、女物の別なし)を掛ける。また、ショーレーウマ(精霊馬)を作って飾る【図9下】。ショーレーウマとは、カヤの足とカヤの穂の尻尾をキウリに付けたものである。胴体の両脇にはカラトリ(里芋)の葉をつけ、おなかの部分2箇所をコンブで結び留めた。古くはこのようにしていたが、その後ナスとキウリで牛馬を作るようになった。提灯は飾らなかった。また、仏壇に供え物をしたり、位牌を出して飾ったりすることもなかった。
 この日は餅を搗いた。丸くした餅を7つも9つも重ねて蓮の葉の上に載せ、塩味のアンコロを付け、墓参りの際に持っていく。墓参りは、当主が浴衣と袴を着けて行く。墓には餅とともに、持参した線香と花、酒を供える。墓参りが済むと餅はすぐに下げ、ついてきた近所の子供たちの掌にのせて与えた。そのため子供たちは、墓参りに行く人を見つけると「ハァ、イゴ、イゴ」と誘い合ってくっついていった。アンコロは塩味で、少し砂糖を入れる家もあった。
 夜になると、家の前でご先祖様を迎えるための火を焚いた。燃やすのはオガラを束ねたもので、火を焚くと主婦が唱えごとをして迎えに行く。そして盆棚まで来て、そこでまた唱えごとをした。
 盆には行商から魚を買って食べた。ご飯は盆の期間中、三度三度供えた。期間中は親戚がお参りにきたが、寺から僧侶を招くことはしなかった。
 16日の朝、送るための火を焚いた。ショーレーウマ、花、供え物を持って行き、ウマは川へ流した。

... 祭り
 松沢の山神社の祭礼は8月16日である。この周辺では各集落が祭りの日をずらし、互いに参加できるようになっていた。8月14日ごろから続けざまに行われたという。
 祭りのときは、上田沢の河内神社からタユウサン(神主)を呼んで「供養」する。これが終わったあと、各家から持ち寄ったドブロクを神社の中で飲んだ。
 この日は奉納相撲があり、ムラ内外の子供たちがお宮の前に作った土俵で相撲を取った。かつては優勝した子供に、賞品としてボンデン【図10】を出した。
 夜は6時ごろから境内に設けた舞台で太鼓をたたき、盆踊りをやった。歌もあったがレコードも使っていた。また、三味線を弾いて唄う芸人が来て芝居をしたこともあった。アイスクリームやアメ、ジュースなどを売る屋台も出た。
 お盆には都会に出ている人もみな帰ってきた。そのため、祭りの会場で男女が求婚するようなこともあった。

... ヒャクマンベン(アミダサマ)
 毎年8月、菅原家にムラの人が集まり、ヒャクマンベンを行う。現在は8月21日、時間は午後1時からである。数珠や太鼓は菅原家で保管している【写真8】。帳面や掛軸などは伝わっていない。
 ヒャクマンベンはシモデで行われ、太鼓と鉦を叩きながら大きな数珠を回す。回すのは女性も子供も来た人全員で、回しながらつぎの言葉を3回くりかえす。
   十三佛
  じんぞうぼさつさ なむあみだ
  ゑんま大王
  しようづかのうば
  あみだ如来
  おしやか如来
  六大地蔵
  きじん大王
  十王十体
  もろヽヽ常佛
  みだのじやうど
  ごくらくじやうど
  うへんむへん
  一心常佛
 回しているとき、大きな玉が回ってくると拝む。鉦も太鼓も今は毎年叩く人が違い、子供に太鼓を叩かせることもある。数珠は絶対またいではいけない。太鼓や鉦を叩くため輪の中に入るときは、必ず下をくぐる。
 終わったあとは飲み食いした。菅原家ではクルミと小豆のオハギなどを作り、来る人は豆など家のものを重箱につめて持ち寄った。ドブロクも持ち寄った。現在はムラの積み立てで、お酒とお菓子を買っている。

... 山神社の秋の行事
 昔はマキや山菜など山のもので生活していたため、山での作業時期が始まる前に山神社に集まり、酒や食べ物を持ち寄って飲み食いする行事があった。行われたのは9月のはじめごろである。

... 十五夜
 十五夜には、栗、枝豆、サツマイモなど、その時期に採れたものを供えた。ススキと団子も供えた。

... フルマイ(フリマイ)
 秋の取り入れが終わったあと、フルマイがあった。家に働きに来ていた人をムラの中から全員呼び、飲ませる行事である。この日はカミデに畳を敷き、晴れ着を着た。

... 収穫祝い
 シマイ(米を収穫したあと)に、2日間にわたって収穫祝いがあった。日にちは決まっており、11月、雪囲いなど冬の準備が終わって暇になる時期であった。
 この日は餅搗きが行われた。搗いた後は皆でご馳走を食べた。2日間行われるため、寝るときだけ家に帰り、起きるとまたお祝いの会場へ行った。会場はヨリアイをする家とは異なるが、やはり毎年回り持ちだった。当番の家は大変で、家中の戸を開けて客を入れた。
 祝いの席にはムラのほぼ全員が集まった。当主だけでなく、女性も子供も集まった。搗いた餅はオスマシやアンコロモチにした。普段は質素だったが、この日だけはみな腹いっぱい食べた。ご馳走が食べ放題なので、子供たちもこの集まりに出るのを楽しみにした。
 こうした収穫祝いは、野菜の祝いと米の祝いと2回あったという。

.7 人生儀礼
..(1)婚礼
... 仲人
 幼馴染や近い親戚の者同士結婚するときにも、仲人は必ずたてた。「タノマレナコウド」といい、近い親戚で信用できる人に頼むことが多かった。

... 嫁方のフルマイ
 娘が嫁に行く前、実家で親戚を招き、2日間ほどフルマイ、サカモリをした。この席には花婿や婿側の親戚は来なかった。

... 花嫁行列
 式当日、花嫁は実家から花婿の家まで歩いた。時間はまちまちだったが、午過ぎぐらいのことが多かった。
 道中は邪魔をされないよう、飴玉などのお菓子や小銭をまき、それを拾っているあいだに通る。箪笥や布団など、荷物は「ニショイ」(「タンスモチ」ともいう)が担いで行く。ニショイは近所の人が順番につとめた。金持ちの場合はたくさんの荷物を担いだが、そうでない家のときは少なかった。婿の家に着くと、嫁、仲人、ニショイの順に、座敷へ直接入った。
 なお、遠い集落のときは花嫁もトラックで行き、荷物も車で運んだ。そうした場合、家のそばで車を下り、少し歩くこともあった。

... 結婚式
 結婚式は夫の実家で挙げるのが普通だった。昔は長男以外の者、つまり家を出る人の結婚式は簡単に済ました。
 菅原家では、結婚式のときはカミデとシモデのあいだの戸を外して人を招いた。人数が多いときにはこの戸はいつも外した。
 結婚式は2日間ほど行われた。1日目は近い親戚を招き、三々九度を行う。三々九度を行うのは夕方以降で、男の子と女の子が盃に酒を注ぐ。この役を務めるのは親戚の子供で、こちらから頼んでやってもらった。2日目は薄い親戚や、ムラの若い嫁たちと顔合わせをする。ムラの大半は親戚なので、ほとんどの人が集まることになった。
 結婚式のとき、ハタラキデに親戚の女性を5、6人頼んだ。ゴチソウは、野菜料理などは手伝ってもらって用意するが、鯛などの魚や、鯛の形をしたカマボコなどは業者からとりよせた。

... 衣装・髪型
 結婚式といっても特に良いものは着なかった。花婿は羽織袴、花嫁は黒地の裾に柄のある留袖だった。頭はかんざしをつける程度、化粧も自分でした。
 みつせ氏は結婚式の際、母親の持っていた紫の紋付を借りた。めったに着ないものだったので真新しく、大変うれしかったという。帯は夫の兄嫁が貸してくれた花柄のものを締めた。締めるのは叔母がやってくれた。履物も同じ兄嫁から桐下駄を借りた。鼻緒は普通の外出のときと同じで、足には白足袋を履いた。髪は結わず、鶴岡までバスで行ってパーマをかけてきた。ちょうどパーマが流行しはじめたころであった。

..(2)産育
... 妊娠
 かつては19歳から40過ぎまで子供を生んだ。昔はおなかが大きいからといって大事にせず、産むまで働いた。産気づいているのに、家から1里近くも離れたタンボにおなかを抱えながら稲刈りに行った。タンボで産気づき、家まで長い距離をもどってきてそのまま産んだ人もいた。安産祈願も腹帯をしめる祝いもなかった。
 妊婦は「柿の木の下七十五日通るな」と言われていた。これは、柿が体を冷やすからであり、食べるだけでなく、木の下を通ることも戒められていた。そのほかにも食べてはいけないものはいろいろあったが、シシトウ、唐辛子など、特に辛い物を止められていた。

... 出産
 お産は通常、嫁に行った先でした。菅原家では、シモデ隣のネドコがお産に使われた。
 お産をする部屋には、布団または薄い布団状のものを敷いた。布団の下には床が汚れるのを防ぐため、ムシロのほかコモズを敷いていた。「コモズ」とは、ワラをスグッたカスのことで、普通のワラよりも柔らかかった。
 最初のお産には産婆を呼んだ。お産が重いか軽いか、初めてだとわからないからである。産婆を呼ぶときは、若い者がリヤカーを曳いて迎えに行った。産気づいたとき、産婆を迎えに行くのは大変だった。距離は4kmほどだったが、それ以上に起きない産婆を叩き起こすのが大変だった。しかし、産婆を呼ぶのはどの家も最初の子のときだけで、あとは呼ばなかった。代わりに、親戚の女性などが手伝いに来てへその緒も切った。「子供はあっちへ行ってろ」と追い払われたが、手伝いでお湯を沸かしたりすることはあった。
 後産は取りに来る人がいた。そうした仕事をしている人だった。
 「お産の後だけは大事にしないと、年取ってからひびく」と言い、産後は身体を非常に大事にした。出産から20日間ほどは横になり、家の中のことだけした。その後10日間は子供を連れて実家に帰り、ゆっくり休んだ。どんなに忙しい時期でも、どこの家でも嫁を実家へ帰した。畑仕事を始めるのは、実家から帰ってきてからだった。
 鯉を食べるとオッパイが出るといわれた。そのため、他の者が食べないときでも母親だけは食べていた。鯉は家のホリからとった。

... 名づけ
 名前は親が付けた。子供の多い家ではあまり深く考えず、適当な名前を付けていた。役場の戸籍係に付けてもらうこともあった。
 子供のことは「アカゴ」と言った。自分の家や近所のアカゴのことは、名前で呼んでいた。

... お宮参り・食い初め
 お宮参りはなかった。
 生まれてから130日目にはクイゾメを行った。赤子のために初めてお膳をつくる日で、おかゆか重湯を膳に載せ、食べさせるまねをした。
 離乳食は特別作らず、すり鉢でおかずなどを摺って与えていた。

... ニショイ
 1年を待たずに子供が立ってしまうと、「ニショイ」といい、子供に餅を背負わせた。餅の重さは1kgほどで、歩こうとするとわざと転ばせた。

... 初節句
 初節句の飾りは親が買った。

... 七五三
 七五三はやらなかった。ただ7歳になると、紅白のお餅を持って1人で親戚に配って歩く行事があった。

... 入学・卒業
 学校の入学、卒業に関する祝い事などはなかった。

..(3)成人・厄年
... 成人式
 淳一氏の時代には成人式があった。8月12日に役場で式典があり、湯殿山にバスでお参りに行った。夜はドンチャン騒ぎだった。

... 厄年
 現在は上田沢の河内神社に厄除けに行き、お祓いしてもらう。このときもらったお札は神棚に祀っておく。しかし、かつては厄年を気にはしても、厄除けなどには行かなかった。

... 還暦
 以前は還暦の祝いをやっていたが、現在はやっていない。

..(4)葬儀
... 葬式
 病気で亡くなった場合には、あまり隣近所に知らせに行ったりはしない。知らせに行かなくても、事情は伝わっていたからである。
 亡くなるとホトケサマをお棺に入れる。お棺は四角い座棺である。そしてその両脇に、花を飾った。神棚には白い紙を張った。これは、亡くなった人をカミサマが見ないようにするためである。
 お通夜にはヒャクマンベンをやった。ムラで葬式があるときは、菅原家に太鼓と鉦、それから数珠を借りにきた。回すときはムラの人のほか、その家の親戚など集まった人全員で行った。唱えごとは8月に行うものと同じで、紙を見ながらやった。こうしたことは現在も行われている。松沢周辺では葬式を家でやることが多いが、セレモニーホールなどを使う場合にも、菅原家から道具を運んでやることがある。
 寺からは僧が3、4人来た。葬式はカミデで行った。ミノウチ(親戚)は一番近い人から順に集まってきた。葬式のときには「ヨソグ」と言い、普段と同じ出入口は使わなかった。

... 埋葬
 葬式が終わっても寺には行かない。供養したあと、お棺を載せた台を男4人で墓まで担ぎ、またお経を上げて埋葬した。墓までは行きたい人だけが行った。
 昭和30年(1955)過ぎまで土葬であった。穴を掘るのはお棺を運ぶ者と同じで、親戚に頼んだ。掘るときの着物は自分たちで調達した。
 納棺の翌日はゴチソウを作ってふるまった。

... 法事
 法事は三十三回忌まである。

... 子供の弔い
 松沢周辺では、子供が死んでも葬式はしなかった。寺も呼ばず、近くの濃い親戚だけで弔いをした。棺桶も自分たちで小さなものを作り、親戚の男が穴を掘って先祖代々の墓地に埋めた。

.8 信仰
... 仏壇・神棚
 オブツダンには先祖の位牌が祀られている。当主は毎朝、仏壇にオトウミョウとご飯を上げた。それをしないうちは朝ごはんも食べず、弁当にご飯を詰めることもしないのがきまりで、ホトケサンより先にご飯を食べることは当主でもしなかった。仏壇のお香は、最近は線香だが以前は粉のものを使い、お焼香をするように上げていた。
 神棚には皇太神宮を祀っていた。

... 寺
 菩提寺は下田沢にある曹洞宗の寂光院である。墓の方はムラの下のところにある。
 古い位牌は寺へ納めたが、寺が火災に遭っているため焼失して残っていない。

... 十二山神社
 松沢の十二山神社は山の神様である【写真9】。御神体は男の神像だが、あまり大きくない。
 氏子総代は淳一氏である。初代の総代は別の家で務めたが、その後菅原家で行うようになった。
 お宮に神主はいない。管理はムラで行っており、何かあるときには上田沢の河内神社の神主に来てもらう。行事の日は神主がお昼前に菅原家に来て、ご飯を食べたあと、1時からお宮さんで行った。
 お宮の前の灯籠は、淳一氏夫妻が奉納したものである。お宮を維持するために、ムラの人はいろいろなものを寄付してきた。

... 釜屋神社
 釜屋神社は火の神様である。御神体は女性で、像高30cmほどの立派なものである。
 この神社は、元は個人が「当主」になってやっていた。しかし維持するのが大変になり、松沢で持ってもらえないかということになった。
 信仰していたのは、主に炭焼きをしていた家である。淳一氏より前の世代には、年に1回一晩お籠もりをして酒を飲んだりしたが、現在はやっていない。今は秋にカコイ(雪囲い)をやって、春に外しに行くだけである。

... 出羽三山
 雪解けのころ、毎年羽黒山の山伏が廻ってきた。山伏は白い衣装を着け、足には履物の上にワラジをはき、法螺貝を吹きながら家々を廻ってくる。いろいろなお札を持ってくるので、かわりに以前は米を1升、その後は米代として500円から気持ちのある人で1000円ぐらいを渡すようになった。
 菅原家に貼ってある牛の札は、山伏が持って来たものである。この札はどの家でも逆さに貼っていた【写真10】〈注5〉。山伏は廻ってくると、ムラのどの家かに泊まった。菅原家にも泊まったことがある。そうした際にはカミデを使った。
 羽黒山の山伏は平成になったころから来なくなった。またある時期は、贋物の山伏が来たこともあった。姿はほとんど同じで、同じように法螺貝を吹いていた。
 羽黒山や湯殿山の講はないが、個人でお参りに行くことはある。1年に1回ぐらい行く人は多い。

... 講
 金峯山(鶴岡市金峯)【写真11】の講があり、松沢全戸が入っている。松沢の代表は、代々隣の斉藤家が務めている。
 7月に金峯山の祭りがあり、毎年講で出かける。定員が決められているため全員では行けないので、代表者のほか3名ずつ行く。この3名は何かの集まりのときにくじ引きで決める。前に行った人はくじ引きに入らないので、順番に行くことになる。
 出かけるときは日帰りである。現在は車だが、昔は歩いていった。服装は普通の格好で、白装束を着るようなことはない。金峯山に着くとお布施とゴジンシュ(お神酒)を納め、お札をもらってくる。金峯山は信者が多く、祭りのときはたくさんの人が集まった。
 菅原家は現在入っていないが、古峰神社(栃木県鹿沼市)の講がある。松沢、上田沢、平沢などに信者がいて、毎年1月か2月に古峰神社まで行っている。
 庚申様はあるが庚申講はない。以前は石碑をきれいにしている人はいたが、今は何もしていない。

... カミサマ
 このあたりの人は願掛けはあまりしないが、家族が具合悪いなどというと、何かあるんだろうかと「カミサマ」にききにいくことはあった。これを「ミゴノクチキキ」という。
 菅原家でもかつては毎年行っていた。本当は1年に1回行くものだという。行くと祈願してもらったり、いついつごろこういうことがあるから気をつけろなどと占ってもらったりした。
 聞きに行く先は人によって違うが、鶴岡や櫛引などに出かけていくことが多い。「どこどこのミゴさんがいいよ」などという言い方をする。カミサマは神社にいるわけではなく、個人でやっている。そのため突然行っても駄目で、出かける前には電話で予約しておく。

... その他
 山に入ってはいけない日や、山で話してはいけない言葉などはなかった。松沢自体が山なので、「そんなものがあったら生活できない」という。
 山伏などが持ってきたお札は、古くなってもやたら捨てずにとっておいて、ドンドヤキなどで焼いた。また、河内神社に持っていくこともあった。河内神社では1年に1度、祈祷して焼却している。

.9 その他
..(1)民間知識
 カメムシが大量に発生すると大雪になるという。カメムシは臭いがするため、家の中に入ってきて大変である。
 また、ハチが高いところに巣を作ったときは、台風や雨風が少ないという。逆に低いところにあるときは、風や雨が多いという。
 トシヨリは空を見て翌日の天気を当てた。「あそこの山がああいうふうになっているのでどうのこうの」、そんなふうに言っていた。

..(2)世間話
... 狐1
 「なんかね、あのー、酔っ払ったかどうか、どっか親戚のウチからね、よそのムラから、夜、帰り、冬に歩いてたんだって、自分のムラへ。自分のマヅザワというムラへ入ったら、ヒョイッと道が変わったんですって。
 ふつうのミヂ歩いてたよ、その人は。だけども、ヒョイッとミヂ変わったんですって。「なーによワダシこんなトゴ歩いて」と思ったんだって。そしてその、ヒョイッと変わったミヂを出たら、崖だったんだってよ。それでキヅネに化かされたってわかったんだって。
 ミヂを変えたんだって。変えでみせだんだって。自分は普通のミヂを歩いてるつもりなのに、ミヂが変わったから、足をついたら、それでひどい目にあったという話をきいた。
 だからキヅネよ。人間じゃない。だけど今はないよ。ムガシの話。」(みつせ氏)

... 狐2
 「あります、あるある。本当にそうかどうか知らないけど、そういう話はあります。あのー、足をとられて動けなくなったとかさ、そういう話はあります。
 狐に化かされたという話はよくしてましたよね。山で……、なんていうの、死んだとか、川に行っておぼれたとかいうと、よくそういう話をしますよね。あれは狐に化かされてあんなトコ行って死んだんだ、とか。昔は。」(七郎氏)

.注
1 菅原家文書の中に、羽黒山より出された嘉永3年(1850)の院号補任状が遺されている(p.14参照)。
2 菅原家寄贈資料の中に、大正3年(1914)の遊漁票が遺されている。(p.13参照)
3 「下田沢村藤治郎日記」文化14年(1817)の記録には、米子村(温海町)の漆掻きが滞在して漆を掻く様子が記されている(『鶴岡市史資料編 生活文化史料』p.109)。
4 菅原家寄贈資料の中には、漆掻き鎌のほか寛政8年(1796)の漆掻札が遺されている。(p.13参照)
5 出羽三山神社の社務所によると、牛が背中で火を消したという伝えがあり、そのために逆さに貼るという。また『朝日村史』下巻には、「天井に火がつかないか見てくれる」ため逆さに貼るとある(p.562)。

.参考文献
 朝日村村史編さん委員会 1980『朝日村史』上巻          朝日村
 朝日村村史編さん委員会 1985『朝日村史』下巻          朝日村
 温海町史編さん委員会  1978『温海町史』上巻          温海町
 川崎市         1987『旧菅原家住宅移築修理工事報告書』 川崎市
 庄内民俗学会      1953『八久和の民俗』          庄内民俗学会
 鶴岡市史編纂会     1996『鶴岡市史資料編 生活文化史料』  鶴岡市
 豊浦の歴史刊行会    2003『豊浦の歴史』           豊浦の歴史刊行会
 渡部留治        1969『朝日村史』(四)神社誌       朝日村

.図版キャプション
 写真1 移築前の菅原家(1967)
 写真2 現在の菅原家(2006)
 図1 菅原家住宅旧所在地
 写真3 家の脇に設けられたホリ
 写真4 菅原家の屋根
 図2 復原された建築当初の間取り
 図3 移築前の間取り
 写真5 移築前のイロリ(1967)
 図4 ソラカギ(上)とカギノハナ
 図5 敷地内の配置
 写真6 ズキン(1970)
 図6 山の神のノサ
 図7 雪の壇と松の飾り
 図8 マイダマ(左)と小正月の飾り
 写真7 春祈祷の札
 図9 盆の飾りとショーレーウマ
 図10 ボンデン
 写真8 ヒャクマンベンの太鼓
 写真9 十二山神社
 写真10 さかさにはられた札
 写真11 金峯神社

 

(『日本民家園収蔵品目録7 旧菅原家住宅』2007 所収)