神奈川県川崎市多摩区登戸 清宮家民俗調査報告


.凡例
1 「神奈川県川崎市登戸清宮家民俗調査報告」は日本民家園が川崎市多摩区で行った聞取り調査の記録である。旧清宮家住宅については、移築時にも移築後にも民俗調査が行われておらず、そのため本目録作成にあたり最初から調査を行った。
2 この調査は、平成17年の9月から11月に実施された。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、越川次郎、宇野田綾子である。
3 話者は、次のとおりである。
   清宮昭二氏 (昭和2年生) 現当主
   清宮やす子氏(昭和5年生) 昭二氏の妻
   清宮勝明氏         昭二氏の長男
   清宮敏男氏 (大正10年生) 昭二氏の叔父
   尾崎妙子氏 (昭和7年生) 昭二氏の妹
   古谷吉郎氏 (昭和7年生) 登戸太子講組合現講長
  なお、昭二氏の父が移築時の当主一男氏(明治35年生、昭和44年没)、祖父が仲次郎氏(明治8年生、昭和17年没)である。
4 図版等の出処は次のとおりである。
    写真1     昭和41年の移築時に撮影されたもの。
    写真2,3    清宮家より借用したもの。
    図1,2     『旧清宮家住宅移築修理工事報告書』(1967)より転載。
            ただし、今回の聞取りに基づき部屋の名称を加えた。
    図3      今回作成したもの。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で必ずしも確認されていないことが含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。

.はじめに
 清宮家は屋号をオモテという。清宮家の本家であり、明治以前は代々主に農業で暮らしを立てていた。年貢の帳付けをしていた、また薪や炭などを江戸と取引していたという話もあり、上層農家として手広くやっていたのは間違いない。
 菩提寺は宿河原にある真言宗常照寺である。この寺は数度にわたって火災に遭っているため、過去帳などは残されておらず、清宮家の由来についてはっきりしたことはわかっていない。ただ、千葉県の印旛沼方面から来たという伝承があり、同じ登戸の野村家には、清宮家を頼って千葉から移ったという話も残っているという。
 清宮家に残されている繰り出し位牌には、延宝7年(1679)の位牌が入っている。同家に関わる年号としては、これが最も古いものである。このほか、近くの浅間神社にある元禄4年(1691)の庚申塔にも「清宮」の銘が残っており、17世紀後半にはすでにこの地に定着していたようである。神奈川県重要文化財に指定された旧住宅も17世紀の中期から後期のものとされており、この点でも一致している。
 ここでは、この旧住宅で営まれていた清宮家の暮らしについて、聞き取りに基づいて記述していくことにする。

.1 衣食住
..(1)住宅
 清宮家には次のような言い伝えがある。
 「富士塚の伝左衛門さんでは石の上にうちを建てて、風が吹いたら吹っ飛びやしないかって下の方から弁当持って見に来た」(敏男氏)
この伝承は、清宮家住宅が建てられた当時、周囲の家は掘立柱ばかりで、礎石の上に建てる石場建がきわめて珍しかったことを意味している。
 この家に、多いときで13人が住んでいた。親戚も近くにおり、何かというとこの本家に集まってテツダイッコしていた。現在の住居を増築したのは、昭二さんが所帯を持ったときである。

... 屋根
 屋根はクサブキで、ヒサシの部分はスギッカワ(杉の皮)だった。しかし、スギッカワが傷んで仕方ないため、フキオロシにした。
 葺き替えは一度にやることもあったが、一度にすべては大変なので、上の棟だけとか表側だけをやることもあった。葺き替えるときは、屋根屋のほか、近所の人が縄を持って手伝いに来た。お互い手伝い合うのが慣わしだったが、ご飯を出したりするので大変だった。
 茅の締め方は次のとおりである。まず、縄を通した針を屋根の上から刺す。その隣に縄を通していない針を刺す。そして、屋根の下の者が通してない方の針に縄を入れ替え、上で引っ張る。締め方にこつがあり、下手だと古くなったとき屋根に溝ができてしまった。こうした作業のとき、要領の良い人は風上に行った。ゴミが飛んでくるため、風下にいると真っ黒になってしまった。
 茅場は向ヶ丘遊園のあたりにあった。しかし、茅だけでは葺けないため、小麦のわらや篠竹も混ぜて使った。麦わらは乾かして、天井裏に貯めておいた。
 清宮家では、常照寺の葺き替えのときも他の檀家とともに手伝いに行っていた。

... ダイドコロ
 ダイドコロに流しがあり、細い木の口を家の外に出して水を流すようになっていた。この横にカメを置いて井戸水を入れ、ヒシャクですくって炊事に使った。前の用水は野菜を洗う程度で、食器などを洗うことはなかった。
 移築前にはすでに囲炉裏はなかったが、かつては囲炉裏のまわりで夜なべをしていたという。

... イマ
 家族がいつも使っていたのがダイドコロとイマである。ここにはオクノヘヤとともに畳が敷いてあった。寝るときはイマとオクノヘヤを使っていた。そのため、人が来ると身動きできなかった。

... オクノヘヤ
 オクノヘヤは普段あまり使わなかった。行事や接待に使われた部屋で、人がたくさん集まるときはイマとのあいだのフスマをはずし、二間続きにした。病人が休むときもこの部屋を使った。

... ヘヤ
 ヘヤと呼んでいた。昭和の初めには物置のようになっており、しかも暗かったため子供たちもあまり入らなかった。ここにナガモチが置いてあった。

... ドマ
 ドマにヘッツイがあった。ヘッツイには大きいカマと小さいカマが並んでおり、大きい方は餅搗きや味噌、醤油、お茶を作るときに、小さい方は普段ご飯を炊いたり調理するのに使っていた。このヘッツイの前は四角いイロリになっていた。上にジザイ(自在鉤)があり、ここにホウロクを掛けて薄く切ったイモを焼いた。近所の人が来ると、寒いときはここで話をしたりした。なお、ヘッツイの焚き口は壁側を向いていた。不便だが、座敷の方を向いていると焼け抜けて火事になる恐れがあったため、そのように作られていた。
 ドマにはこのほか、米搗きの臼(地唐臼)とイシウスがあった。イシウスは梁から竹を下げて柄にし、回すときには子供たちも手伝った。
 大工仕事はドマですることはなく、道具を直す程度だった。

... 風呂・便所
 風呂は木製だった。ドマの右奥にあったが、それ以前には裏の下屋のところに置いてあった。入るのは男が先で女が後ということになっていたが、年長の人が入ったあとは適当だった。
 便所は外にあった。

... 井戸
 家の裏に井戸があった。井戸枠は縁に飾りのある陶器で、釣瓶桶も木ではなく金属製だった。釣瓶はハネツルベで、桶と腕木をつなぐ部分には竹が使われていた。
 井戸の内側は石垣になっていて、底にオケゴという底のない桶のようなものが入っていた。このオケゴを内側に入れ、石垣とのあいだの隙間に砂利をつめる。オケゴが古くなると、ニジュウオケゴと言い、内側にもう1つオケゴを入れる。オケゴを作るのは桶屋で、実際に作業するときは上で家の者が手伝った。
 井戸の掃除は人に頼んだ。梯子を下ろしてやっていたが、毎年頼むわけではなかったため、落ち葉の入りやすい時期にはふたをした。また、落ちた虫を食べるからと言って、井戸の中でコイを飼っていた。
 多摩川が増水すると、それに合わせて井戸の水も上がった。手ですくえるほどになったこともあった。
 「井戸にはイドガミサマがいる」と言われていたが、何も祀ってはいなかった。

... 敷地
 家の表の道沿いには、3メートルほどもある樫の木の生垣があった。風避けになったほか、樫の木は火にも強いと言われ、火除けの意味も持っていた。
 現在の下小屋のところは、昔は柿の木がたくさん生えていた。この木に材木をしばりつけて作業することもあった。

..(2)食生活
... 食事
 食事はダイドコロで、1人づつお膳を置いて食べた。入口を向いて女性、それと向き合うように男性が並び、いずれも年長者が奥に座った。
 ご飯は朝と晩をいっしょに炊き、オヒツの中にたくさん入れていた。普段は麦入りのご飯で、白米を食べるのは行事のときだけだった。精米は宿河原の水車でやっていた。この水車は個人持ちで、搗いてもらったり、自分で行って搗いたりした。その後は玉川製紙の精米機を借りるようになった。
 魚が付くのも特別のときだけだった。また、牛や豚はいなかったが鶏を飼っており、これを食べることもあった。鶏の骨には食べたあとも肉がついているため、ドマの入口近くに埋めてあった石の上でつぶし、また肉団子にして食べた。
 毎月晦日の夕食には、ミソカソバと言ってうどんを打った。

... 調味料
 醤油、味噌は自家製だった。ヘッツイの大きい方のカマで大豆を煮出し、この後ろに置いてあったモロミオケで麹を1年寝かせた。モロミオケは酒の四斗樽を利用したものだった。搾るときは人に頼んだ。近くに搾る人があり、道具を持って来てくれた。昔は俵をぶら下げその重みで搾ったが、その後ジャッキを使うようになった。
 このほか、塩や砂糖、酢は買っていた。昭和10年代にはマヨネーズも使っていた。
 ダシはカツオブシで、ニボシはあまり使わなかった。カツオブシは、カツオブシウリから買った。これはカツオブシだけを売りに来る男の人で、昭和の初めごろまで年に1回ほど歩いてまわってきた。昔は結婚式の引き出物にもカツオブシがよく使われた。タイなどを詰めた折りの他に、カツオブシが2本、背と腹と組んだものが付いたのである。カツオブシはカビが生えないよう、ザルやカゴに入れてダイドコロに吊るし、干しておいた。

... お茶
 家のまわりにお茶の生垣があり、1年分のお茶を作った。摘んだお茶はまず、ヘッツイの大きい方のカマを使いサイロ(蒸篭)で蒸した。これを近所の家に持って行き、ホイロを借りて揉んだ。揉むときは、土間の中ではなく、ホイロを外に出して行った。昔の助炭はすべて紙で、和紙の反故を薄い糊で貼り重ねてあった。その後、トタンを張りその上に紙を貼るようになったが、紙だけの方が味は良かった。

..(3)衣類
... 服装
 妙子さんの子供のころはすでに洋服だったが、敏男さんは小学校のころまで着物だった。夏はヒトエ、冬はアワセで、綿入れは着なかった。四大節には洋服を着たが、そのころはまだ珍しかった。冬服を持っていたのは2人だけで、他の子は袴だった。この四大節の日は着飾って行くので新しい服を買ってもらうことができ、子供たちの楽しみとなっていた。
 下着は、小さいうちはパンツにメリヤスのシャツだった。ズボンシタもメリヤスだったが、大人のものは裾をひもで縛るようになっており、少し大きくなるとそれをはきたがった。

... 履物
 子供の履物は低いコマゲタだった。材質は、子供用は桐ではなかったが、大人の贅沢なものは桐で、ナンボンマサという柾目の通ったものだった。
 雨の日はタカゲタを履いた。材質は桐で、履き込むと指の跡がへこんでしまった。歯が減ると下駄屋へ行って入れ直した。
 冬にはタビを履いた。貧しくてタビを履けない者もあり、そのような子供は雪が降ると、長靴がなくて裸足で学校に来ていたという。
 体育の時間や運動会には、布でできたウンドウタビを履いた。裸足の者もいた。
 関東大震災のあと、小学校にアメリカから靴が贈られてきた。その靴は、そのころは見たこともなかったズックの靴だった。

... 水着
 水泳のときは、男の子はフンドシ、女の子は黒い海水着だった。登戸小学校ではプールができるまで、ムギユ(麦茶)を持って多摩川まで出かけていた。準備体操をするうち暑くて気持ち悪くなってしまう者もいたが、そうすると当時川沿いにあった松林の中で休んだという。

... 雨具
 傘は、昭和10年ごろまではバンガサで、小学校にもバンガサが用意してあった。その後、コウモリになった。
 防水マント(雨合羽)とナガグツもあったが、そのころはまだ着ている子供は少なかった。

..(4)暮らし
... 寝具
 布団になる前は、袖の付いているヤグだった。ネマキは着物で、この上に同じく袖の付いているカイマキをかけ、その上にヤグをかけた。袖が付いていると暖かかったが、寒いときにはさらに布団をかけた。一方、敷布団の方は1枚で、二重布団にはしなかった。ヤグも布団もモメンワタだった。
 夏になると畳を上げてゴザを敷き、その上に布団を敷いて寝た。そのため、畳の下の床板はきれいに削ってあった。夏は蚊帳を吊った。カイブシにはモチグサを焚いた。モチグサとはヨモギのことで、これを乾かし保管してあった。このほか、ミカンの皮を乾かして使うこともあった。蚊帳に蚊が入ると、大騒ぎしてロウソクで探してまわった。ウチワであおって入らなくては駄目だと言われた。

... 暖房
 暖房には、コタツ、ヒバチ、アンカ、ユタンポなどを使った。
 コタツはヤマトゴタツという土で出来たもの使った。その方が安全だと言われ、木製のヤグラコタツは使わなかった。仲次郎さんは厳しく、「ヅツナシ(怠け者)になる」と言って正月までコタツを作らせなかった。また、布団がめくれたときに寒いと言うと、「便所行けば尻まくったって寒くない」と言われた。

... 電気・電話
 大正の終わりに電気が入った。最初はダイドコロとイマ、オクノヘヤに入り、そこから線を伸ばして他へも引いていた。その後、ランプは裏口のところにだけまだ下がっていた。
 電話は、役所の仕事を始めた関係で昭和20年代に入れた。溝口から登戸まで電話線が通っており、そこから電柱を3、4本立てて線を引いて来た。当時はまだ電話局がなく、郵便局の扱いだった。電話が入るまでは、よそから言付けに来てもらっていた。

... 運搬
 運搬にはニグルマ(大八車)を使った。リヤカーを使うようになったのは昭和の初めで、車が入ったのは戦後になってからだった。昭和5、6年ごろは、車と言うと、肥料を運んでくるトラックと生田の当麻医院の車ぐらいだった。

... 娯楽・遊び
 ラジオはイマに置いてあった。テレビが入ったのは昭和30年代で、増築した部屋の方に置いていた。
 家の中の遊びとしては、キンカンツリやミカンツリがあった。これは果物を針で釣るものである。正月はカルタをした。外ではコママワシやハネツキをしたほか、タケウマを作って乗った。
 釣りは良くやった。昔は近くの小川までアユが上がってきた。このほか、ウナギ、ハヤ、フナ、ゲバチ、カニなどを獲り、フナなどのザッコ(小魚)は甘露煮にして食べた。
 ナガシバリという獲り方があった。麻でなった縄に重石を付け、その先に糸を長く出して針を付ける。餌にはアマガエルやドジョウなどを使う。これを夜、薄暗くなってから橋に結んでおくと、翌朝、夜明けに行くとウナギが獲れていた。ウナギにはウナギドも使った。
 夕立で増水したときには、ナゼアミを使った。増水すると流れが渦巻くところがある。そこをこの網ですくうと魚が獲れた。ビクに半分近くもアユが獲れることがあった。
 毎年1回、田んぼ仕事の始まる前に、川の流れを堰き止めて掃除した。このとき、カイボシして魚を獲った。

... その他
 仲次郎さんは字が上手だったため、何にでも筆で名前を書いてくれた。硯にも名前を彫ってくれた。

.2 年中行事
... ススハライ
 12月25、26日ごろ、ススハライをした。竹を2本、家のやぶから切り出し、神棚や家のまわりをはらった。このとき神棚のトウミョウザラを真鍮磨きで磨き、夜、トウスミで油を注いでオトウミョウを上げた。上げるのは男の役目だった。
 使い終えたススハライダケのうち1本は、ダイドコロの梁と梁の上に渡した。そして、落ちないようしばり、そのまま1年間置いておいた。

... 正月準備
 清宮家では現在元日に飾っているが、以前は30日に餅を搗いてオソナエを飾っていた。一夜餅、一夜飾りは良くないと言われていた。
 餅を搗くときは、ヘッツイの大きい方のカマを使い、サイロ(蒸篭)で米を蒸した。火の前に座ってマキをくべるのは、老人の役割だった。餅搗きはドマでやった。3、4人で親戚兄弟の分まで搗き、床の上いっぱいに餅を並べた。なお餅は、暮れと4月の節句のほか、冬にカンモチ(寒餅)を搗くこともあった。
 オソナエは、床の間、ホトケサマ(仏壇)、コウジンサマ、オイナリサン、エビスダイコク、神棚、そして神棚の右脇のトシコシガミサマに供えた。このうちトシコシガミサマには、1臼全部を使った一番大きなものを供えた。ただし、トシコシガミサマと言ってもお札などはなく、榊も飾っていなかった。
 餅搗きの合間にはタカラブネを作った。材料はワラで、常照寺から届く幣束を3本、この上にさす。出来上がったものは、ヘッツイの後ろの荒神に供えた。なおこの幣束は、昔は檀家にはみな持って来ていたが、今は頼まないと来なくなった。
 神棚にはゴボウジメを付けた。これも餅搗きの合間に作った。門松は立てなかった。これは、たまたま立てた年に悪いことがあったためである。

... 大晦日
 大晦日にミソカッパライをした。常照寺から届く幣束で家族の頭の上を祓い、馬頭観音の辻に立てた。立てる場所は毎年決まっており、近所の人もそこに持ってきていた。
 この日はノシボウで伸ばしてトシコシソバを作った。自家製の小麦を使ったもので、そば粉を少し入れることもあったが、うどんに近かった。このほかオゾウニも食べた。カツオブシでダシを取った醤油仕立てのもので、ダイコン、サトイモを入れた。鶏肉などは入れなかった。
 夜、神棚にオトウミョウを上げた。鐘をつきに行ったり、川崎大師まで行ったりしたこともあったが、決まってお参りに行くところはなく、ラジオが来てからはそれで除夜の鐘を聞いたりした。

... 元日
 元日の朝は、井戸からこの日一番に汲んだ水を神棚に供えた。これをワカミズと言った。そのあと家族でオトソを飲み、オゾウニを食べた。正月の料理としては、数の子、カマボコ、煮物、ミガキニシン、ナマリ、鯨肉、豆などがあった。豆は「マメに暮らす」と言い、縁起が良いとされた。こうしたオゾウニを、三が日のあいだ食べた。
 午前中、お供え餅を持って浅間神社と常照寺にお参りに行った。このお供えは餅搗きのとき作っておいた。なお、常照寺では墓参りはせず、年始の挨拶のみだった。また、帰りにお札などをもらってくるということもなかった。
 三が日のあいだは、夜、神棚にオトウミョウを上げた。

... 2日
 2日は親戚が集まった。これをオセチと言った。

... 6日
 6日は六日年越しと言い、朝、オゾウニを食べた。
 夜は神棚にオトウミョウを上げた。

... 7日
 7日の朝は七草粥だった。醤油味のオジヤで、ダイコンとセリなどを入れたが、七草すべては入っていなかった。このほか餅も入れるが、オソナエの餅を使うわけではない。

... 11日
 11日はクラビラキと言い、朝、神棚のオソナエを下ろしてオシルコを作った。この日は火事になったとき蔵の戸が閉まるかどうかを調べる日だと、親戚の老人から聞いたことがあった。
 夜は神棚にオトウミョウを上げた。

... 12日
 12日は子供たちが朝からワラを集め、青年団や老人が手伝ってサイノカミの小屋を作った。場所は、玉川製紙のそばの川が2つに分かれているところで、ここをサイノカミドと呼んでいた。ここが使えなくなってからは、空いている田んぼなどでやった。
 小屋の中には中央に囲炉裏があった。ここで夜、サイノカミ用の共同の大鍋を使い、集めた餅で子供たちが雑煮や汁粉を作った。年寄りたちも手を貸し、出来上がるとふるまいをした。このとき、小屋のまわりでは太鼓をたたいたりしていた。小屋の中では一晩中火を焚いた。子供は途中で帰るが、青年団が泊まりこみ、朝まで雑談して楽しんだ。
 なお、こうした行事に加わるのは男の子だけで、女の子はやらなかった。

... 14日
 14日はサイノカミである。この日の朝、米の粉で赤、白、青(緑)のダンゴを作り、庭木の枝にさして家の中に飾った。飾った場所は、神棚、エビスダイコク、荒神である。子供たちはこのダンゴを、3つに分かれている枝にさしてサイノカミの小屋に持ち寄った。
 小屋に火をつけるときは、サイノカミの石を中に入れた。サイノカミの石は1つの集落に1つだけで、清宮家のある富士塚では、普段は伊藤氏の所にしまってあった。かつてはこの石を互いに盗み合ったらしく、「持ってかれちまう」という言い方を良くしていた。
 小屋に火をつけると、子供たちはこの火でダンゴを焼いた。このときは女の子も加わった。焼いたものは他の子供たちと交換し、これを食べると風邪を引かないと言われていた。
 この行事は戦後もやった。登戸の方では1年やらなかったら疫病が流行ったことがあり、それからまたやるようになったという。

... 15日
 15日は旧正月である。この日は小豆の入ったオカユを食べた。中に餅を入れ、食べるときに砂糖をかけた。この日これを食べると、「虫に刺されても大丈夫」とか「虫に刺されない」などと言われていた。
 夜は神棚にオトウミョウを上げた。

... 20日
 20日は二十日正月である。「これでおしまい」と言い、この日で正月の行事がすべて終わった。朝、オゾウニを食べ、子供たちは小遣いをもらって遊びに行った。元日は財布を出してはいけないとされ、元日にお年玉をもらうことはなかった。
 夜は神棚にオトウミョウを上げた。

... エビス講
 1月にエビス講があった。この日は朝オゾウニを食べ、エビスダイコクに魚を供えた。

... 節分
 節分には、正面と裏の入口に、イワシの頭とヒイラギの葉を串に通したものを差し、蘇民将来のお札を付けた。このお札は節分が終わったあとも、貼ったままにしておいた。
 夕方になると、家の主人が「鬼は外、福は内」と言いながら豆をまいた。まくのは家で採れた豆をホウロクで炒ったものである。これを神棚、便所、裏の稲荷にまいたほか、浅間神社まで行って豆まきをした。豆は「年だけ食べなさい」と言われた。

... 初午
 初午の日の朝は、裏の稲荷に幟を立て、油揚げやミカンを供えた。幟は布製で、普段は保管してあった。この日はオコワ(赤飯)を炊いた。
 昔は近所で一杯飲んだ。今でも稲荷社のそばで焚き火しながら飲んでいる所もあるが、清宮家では加わっていない。

... お彼岸
 お彼岸には常照寺に墓参りに行く。この日は小豆を煮て、餅米でボタモチを作った。ヨモギでクサダンゴを作ったこともあった。

... オヒナサマ
 オヒナサマは月遅れの4月3日だった。しかし、「早く飾って早くしまえ」と言われ、2月には雛人形を飾った。飾るのはオクノヘヤで、飾り付けはおばあさんがやった。雛人形は、長女が生まれたとき母方の里から贈られる。このお返しには、ヒシモチと生のハマグリを贈ることになっていた。
 3月末、オヒナサマに合わせて餅を搗き、赤、白、緑のヒシモチを作った。また、この餅を炒り、砂糖を加えて甘辛く味付け、アラレを作った。このほか、雛人形に白酒も供えた。
 オヒナサマの当日はオゾウニを食べた。入れるのは小松菜で、正月とは異なりダイコンやサトイモは入れなかった。
 雛人形の片付けもおばあさんがやった。「早く片付けないと縁遠くなる」と言われた。

... 花祭り
 4月8日は花祭りである。子供たちはこの日、長念寺や竜安寺へ行って甘茶を飲んだ。長念寺では御堂の中にお釈迦様が祭ってあり、甘茶をかけた。竜安寺でもやったことはあったが、何かの祝いで稚児行列が出たときだけだった。稚児行列が出ることを、「オチゴを立てる」と言った。

... センゲンサマの祭り
 4月はセンゲンサマ(浅間神社)の祭りである。昔は日が決まっていたが、現在は第1日曜に行われている。祭りの日はオコワに煮しめを付け、お互い親戚近所に配った。
 祭りではまず、丸山教の神官が来て祝詞を上げる。その後、白幡八幡神社の小泉神主が舞いを舞う。この舞いは「出羽の舞い」と言い、面を付け、周囲に幕を張って行った。子供たちは「出羽様ではない、デデンコデンデン」と真似して囃し立てたりした。
 この日は太鼓が出て、子供にお菓子をまいた。出店が出ることはなかったが、玉川製紙のところに芝居小屋が出て歌舞伎をやったことがあった。
 祭りのあとは直会である。集まるのは総代、世話人のほか、小泉神主と丸山教の神官である。総代は5人いる。清宮2軒、伊藤家、吉沢家、荒井家である。この総代の下に世話人がいる。かつては3、4人だったが、寄付金などは人数の多い方が集めやすいため、現在は数を増やしている。直会の宿は、総代5軒を順に回った。清宮家でやるときは、イマ、オクノヘヤをつなげて席を設けた。酒のほか、料理は煮物、ソバなどだった。しかし、次第に派手になってしまい、現在は手塚ホールで簡単に行っている。
 祭りの費用は、昔は役員が負担した。現在は町会から出すほか、地域からの奉納金でまかなっている。

... オトコノセック
 5月5日のオトコノセックには、オカシワ(柏餅)を作り、オクノヘヤに五月飾りを飾った。
 長男が生まれると、母方の里から五月幟が贈られた。幟はウチノボリという室内用のものと、外用のものがある。ウチノボリの絵柄は鍾馗や神宮皇后で、これをノボリワクという木製の枠の上に立てた。外用のものは鯉幟で、吹流しが付いた。親戚や近所からは五月人形が贈られた。これらのお返しには、オカシワとヒダラ(鱈の干物)を贈ることになっていた。

... ミョウジンサマの祭り
 5月5日はミョウジンサマ(大国魂神社)の大祭(暗闇祭り)である。登戸には六之宮の神輿講があり、役員もいた。それでこのあたりの若い人はみな夜出かけ、神輿や太鼓をやった。
 敏男さんも半纏を着て神輿を担ぎに行ったことがあった。電車はあったが、戦争に行く前、祭りの翌日1日かけて、遊びながら歩いて帰ってきたこともあった。行ってもお札をもらってくるようなことはなかった。

... ウエタ
 5月の5日か6日ごろにナエマを作った。ウエタは6月で、5日から20日ぐらいまでに行った。ウエタのときはエエシゴトといい、互いに手伝った。手伝いに来てもらったときは煮しめなどをふるまったが、田植えが終わった日も特に行事などはなかった。
 卯の日は田植えをしてはいけないと言われた。この日の米は「ウレイゴトに使う」ことになるというのである。しかし逆に、「ウレシイほどとれる」のだと言って、この日に田植えをする人もいた。

... 七夕
 7月7日は七夕であるが、清宮家では特に行事はなかった。

... 登戸稲荷神社の夏祭り
 7月は登戸稲荷神社の夏祭りである。かつては7月7日だったが、現在は第1日曜に行っている。この時期は他に祭りがないので、人出が多かった。屋台などの出店が境内から道路まで続いたほか、芝居も立った。

... オセガキ
 8月12日はオセガキである。朝、家の竹やぶから竹を切り、花立てを作った。竹は片方をノメシテ(斜めに切って)、土に刺さるようにする。清宮家の墓地には墓がいくつもあるので、縄で束にしてこれを持って行った。テングバナなど、供える花も家から持って行った。
 常照寺へは昼過ぎに出かけた。女が行くことが多く、おばあさんにつれられて子供たちも行った。境内には屋台が出ていて、玩具のほかイマサカ(今坂餅、大福のこと)、デンキアメ(綿飴)などを売っていた。
 寺にはこの日、近隣の同じ宗派の僧が大勢来ている。ここでお経を上げてもらい、線香を立て、塔婆を立てる。塔婆は先祖代々の大きいものが1本だけである。寺から何かをもらってくることはなかった。

... お盆
 13日は迎え火である。この日は朝から盆棚を作る。盆棚は組み立て式になっており、毎年オクノヘヤの仏壇の前に作った。
 組み立てた台の上に位牌をすべて移し、仏壇の扉を閉める。位牌の後ろには神仏の掛軸を何本も掛ける。そして台の前に葉の付いた竹を2本立てて縄を渡し、ホオズキやトウモロコシを吊るす。位牌の手前には小さなお膳を置く。ここに、オガラを切った箸を添え、ご飯のほかナスやカボチャの煮物などを供える。供えるのは送り火まで3度3度で、夜はお茶も供える。隣にはサトイモの葉を置き、ナスを小さく切ったものを乗せる。その右に水を入れたドンブリを置き、ミズハギを束ねて紙で巻いたものを添える。お参りする人は、このミズハギで水を取り、ナスの上にふりかけるのである。この盆棚に花も飾った。無縁仏へのお供えはしなかった。
 またこの日、キュウリとナスで馬と牛を作った。足にはオガラを使い、先祖が乗れるよう、家で打った生のソバを手綱に付けた。この馬と牛は迎え火には持って行かなかった。
 夕方、家の前の道で迎え火を焚く。燃やすのはムギガラである。おばあさんがこの火でロウソクを灯し、持ち帰って盆提灯に入れた。盆提灯は、新盆のときだけは白いものである。吊るすのはオクノヘヤの前の、ローカの軒先だった。なお、このロウソクはコウガンジ(仰願寺蝋燭)と呼ばれる小さなもので、その後電球になった。
 盆のあいだは親戚などがオタナマイリに来る。普段は親戚と隣の家ぐらいだが、新盆のときには近所の人も砂糖や素麺などを持ってお参りに来た。
 15日は送り火である。この日の夜はゴモクゴハンやボタモチ、ソバを作って食べ、盆棚にも供える。そして最後はお茶を供える。
 火を焚くのは11時か12時ごろである。いつまでも置いてやろうと、できるだけ遅い時間にやる。牛と馬には、持っていく前に土産を持たせる。土産はお茶をチリ紙に包み、糸で巾着型にしばったものである。これを2つずつふりわけにして、背中に掛けてやるのである。そして、迎え火のときと同じようにソバで手綱を付け、送り火の場所へ持って行く。焚く場所は迎え火のときと同じで、燃やすのも同じムギワラである。牛と馬は朽ちるまでそこに置き、川に流したりすることはなかった。
 16日は朝から片付けである。盆棚をたたみ、位牌を仏壇に戻し、盆の行事がすべて終わる。なお、墓参りに行くのはオセガキのときのみで、盆のあいだに寺に行くことはなかった。

... 登戸稲荷神社の秋祭り
 9月は登戸稲荷神社の秋祭りである。かつては7日だったが、現在は第1日曜に行っている。
 登戸稲荷神社には筆頭総代のほか、各地区ごとに役員がいた。神輿と太鼓は登戸の3つの地区(カミ、ナカムラ、ヒガシ)ごとに分かれている。神輿が出るようになったのは、昭和の初めごろからだった。現在、祭りの費用は各町会から集めている。

... 十五夜
 旧暦8月15日は十五夜である。イマのローカ側に机を置き、貧乏徳利にススキを飾り、ダンゴ、カキ、サトイモ、ナシ、豆腐などを供えた。ダンゴは15個を三角になるようにのせた。この日はよその家のダンゴを取っていいという話があったが、昭和の初めごろにはもう実際にやることはなかった。この日の夜は、お供えのものとは別にダンゴを食べた。

... お彼岸
 お彼岸には常照寺に墓参りに行く。この日は小豆を煮て、餅米でボタモチを作った。できあがったボタモチはホトケサマ(仏壇)にも供えた。

... 宿河原八幡神社の祭り
 清宮家は宿河原に近いので、宿河原八幡神社にもお参りやお祭りに出かけて行った。祭りはかつては10月7日だったが、その後10月10日になった。

... 十三夜
 旧暦9月13日は十三夜である。この日は十五夜とは異なり、ススキ3本でよいと言われていた。

... 刈り上げ
 稲刈りがすべて終わると、行事の呼び名は特になかったが、新米を炊いてご馳走を作った。神棚や仏壇にもこのご飯を供えた。

... 冬至
 冬至にはゆず湯に入り、カボチャを甘く煮て食べた。

... その他
 家族の誕生日には、朝、アカメシ(普通の米に小豆を入れたもの)を炊いて祝った。ただし、歳を数えるときはかぞえだったという。
 こうした行事の日のことをモノビと言った。

.3 人生儀礼
..(1)婚礼
... お見合い
 結婚相手はお見合いで決めることが多かった。オナジミ(恋愛)というのもあったが、仲人が見立てて世話することが多かった。

... 結納
 結婚が決まると、婿となる人が両親、仲人とともに結納に訪れた。到着すると、仲人は風呂敷に包んで持ってきた結納品を並べる。結納品は昆布、麻などで、目録は付けるが、これに対して受書を渡すことはなかった。このほか、帯代として結納金を付けた。仲人は挨拶してこれらを差し出し、嫁側は「確かに」と言って受け取る。結納品はすぐ床の間に飾った。なお仲人は、昔は嫁側と婿側と両方に立てていた。
 このあと、オクノヘヤで祝いの席を設けた。料理はタイの尾頭付きなどだった。

... タチブルマイ
 嫁に出すときは自宅でタチブルマイを行った。この日、婿は紋付を着て、仲人と2人で来た。この席は嫁側が婿を披露する場であり、婿側の家族や親戚が来ることはなかった。
 家に入るときは、座敷からではなく、ドマの方から上がった。嫁側は親戚や近所が集まり、オクノヘヤで祝いの席を設けた。料理は柏屋からとった。タイ、カマボコ、キントン、タマゴヤキなど様々なものの入った折りで、柏屋の料理人に配膳もしてもらった。
 この席で花嫁はオフリソデを着た。髪結いさんを呼び、家ですべて仕度してもらった。
 なお、婿側はこの日土産を持って来ることになっているが、実際は嫁側で用意した。用意するものは半紙で、名前を覚えてもらうよう、一番上に婿の名を付け、招いた人に折り詰めといっしょに帰りに持たせた。
 近所の人を招待しなかった場合は、嫁の親戚が婿をつれて挨拶まわりをした。まわる範囲は町会程度で、清宮家の場合、富士塚だけで中田までは行かなかった。この挨拶まわりのときにも半紙を配った。

... 三々九度
 嫁を迎えるときは、自宅で結婚式を行った。昼間、嫁側でタチブルマイを終えたあと、夜、花嫁側がテマルノチョウチン(手丸提灯)を下げてきた。お色直しなどはなく、支度はタチブルマイのままだった。昔は歩いて行ったので、うっかり12時を過ぎ、日が違うと言われもめたという話も残っている。昭二さんのときは花嫁が遠方だったため、登戸の仲人の家をヤドにし、髪結いを呼んでここで支度を整えた。なお、テマルノチョウチンとは家紋付の提灯のことである。婚礼のほか葬式にも使い、裏に「清宮家」などと家の名が書いてあった。
 迎える婿側は表まで出て、やはりテマルノチョウチンをつけて待った。そして、オチョウメチョウ役の子供2人がジョウグチの両側で火を焚き、花嫁はそのあいだを通って中へ入った。これは、たとえ火の中水の中でも、という意味である。清宮家ではこうしたことはすでにやっていなかったが、敏男さんがオチョウメチョウを務めた家ではこのようにしていた。
 花嫁は家に着くと、オクノヘヤに設けられた控えの場に入った。ここで仲人が結納返しを箱から出し、並べて差し出した。結納返しは昆布、麻など結納と同じようなもので、やはり目録を付ける。そしてこのほか、袴代としてお金を渡した。これらはこの場ですぐに床の間に飾った。
 結納返しが終わると、引き続きこの場で三々九度を行った。盃にお酒を注ぐのは、オチョウメチョウ(雄蝶雌蝶)と呼ばれる男女2人の子供である。歳は小学生くらいで、男の子は袴、女の子は七つの祝いの晴着を身に着け、そばで仲人が世話を焼いた。戦後は、お酒を注ぐのもすべて仲人がやるようになった。

... 結婚式・披露宴
 三々九度が終わると結婚式の席になる。清宮家ではオクノヘヤとイマを2間続きにし、仲人、家族のほか親戚を招いた。この席はタチブルマイとは逆に婿方が嫁を披露する場となるため、嫁側から出るのは仲人と家族だけだった。
 宴席ではまず、全員で盃を上げた。料理は柏屋からとり、一人ひとりにお膳で出す。柏屋には料理人も頼み、持ってきた料理の配膳もしてもらった。このとき、近所の人に手伝いを頼む場合もあった。このようにモノビになどに近所で手伝うことをハタラキと言った。
 この席では「高砂」を謡ったりした。自宅でやっていると、近所の子供などが見に来た。
 宴席の最後のことをオツモリと言う。オツモリにはオトリモチが音頭を取り、大きな盃をまわした。オトリモチとは宴席の司会役である。親戚や近所の話上手がなり、一番下座に座った。盃をまわして1周すると、オトリモチが「真に申し訳ないが今のは盃を間違え、こわれもので、瀬戸物でまわしたからあらためてもう1回やらせてください」などと言い、もう1回まわす。こうしたことを何回もやってたくさん飲ませる。たくさん飲ませて帰すのが礼儀で、飲ませれば飲ませるほどオトリモチの腕が良いとされた。
 昭二さんは自宅で結婚式の席を設けたあと、披露宴は日を改めて柏屋で行った。柏屋も当時は狭かったため2回に分け、午前中は親戚、午後は近所の人を招いた。昔はこうして分けて行うことが多かったため、午後の人が行ったら前の人がまだ座っていて帰らなかったという話も残っている。
 敏男さんは披露宴も家でやった。当日と、翌日は昼間と夜の2回、計3回に分けて人を招いた。
 招かなかった家には、婿の親が嫁をつれて挨拶まわりに行った。このとき、半紙に嫁の名を付けて持って行った。またこのほか、ボタモチを作って親戚や近所に配った。
 嫁入り道具には、桐箪笥、洋服箪笥、整理箪笥、鏡台などを持って行った。車を使うようになる前は、リヤカーを使った。運ぶのは近所の人で、これをオトモと言った。本来は結婚式の折り、荷物を持って付き従う人のことである。
 結婚して家を離れるときは、女も男も、出て行く前に必ず仏壇に挨拶した。

..(2)産育
... 妊娠
 子供を身ごもると、戦後は川崎大師にお参りに行くことがあった。

... 犬の日
 犬の日に、嫁方の里から贈られたヤワタオビをしめた。妙子さんはこの日、東京の水天宮までお参りに行った。そして、持って行った腹帯を拝んでもらい、安産のお札をもらってきた。

... 出産
 出産のときは里帰りした。出産に使われたのはオクノヘヤで、家の子供たちは、どこから生まれてくるのかとのぞきに行った。
 産婆さんができたのは昭和の初めである。それまではトリアゲオバアサンに頼んでいた。清宮家で呼んでいたのは登戸駅のそばの人で、年をとっていたので迎えに行くときはリヤカーを使った。
 ウブユは井戸水をお釜で沸かして使った。タライは木製で、新しく作らせた。産婦は麻のひもで髪をうしろに束ねた。ヘソノオはとれると桐の箱に入れたが、髪の毛の方は取っておくことはなかった。このほか、産んだあと頭を洗うといけないとか、アトザンをどこかに埋めたとかいうことが、話だけ残っていた。
 末子のことをシマイッコと言った。

... お七夜
 子供の名前はお七夜までに決めた。清宮家では誰が決めるという決まりはなく、家族みんなで決めることが多かった。昭二さんの名も妙子さんの名もみんなで決めた名前である。名前が決まると、「命名〜」と紙に書いて神棚に飾った。
 お七夜にはオコワを炊いて神棚や家の稲荷社に供え、近所にも配った。

... お宮参り
 長男長女のときは、母方の里から麻の葉のウブギが贈られた。これは紋付になっており、縫い直すとお祝いに着られるようになっていた。次男三男のときは、長男のウブギを着せた。
 お宮参りには、このウブギを着せて浅間神社と登戸稲荷神社に行った。お参りする日は、男の子は30日目、女の子は1日違いで31日目である。神社では御守をもらった。

... オクイゾメ
 生まれて100日目にオクイゾメをした。この日はオコワを炊き、子供にもなめさせた。

... ブッシャリモチ
 1歳の誕生日前に歩くと、子供に餅を背負わせた。これをブッシャリモチと言う。餅は丸いもので、子供が座りこむまで餅を少しずつ重くしていった。
 なお、子守をするときはオンブだった。オブイヒモで子供を背負い、ハンテンを着た。

... ユミハマ・羽子板
 長男長女が生まれた年には、12月の末に親戚や近所から祝いの品が届けられた。祝いの品は、男の子の場合はユミハマ(破魔弓)という、細長い箱に弓と矢が入ったものである。女の子の場合は大きな羽子板で、絵で描かれているものから、その後押し絵のものに変わった。いずれも元気に育つようにということで、1つではなく、方々からいくつも届けられた。このユミハマ、羽子板にはお返しはしないのが決まりだった。
 飾り付けるのはススハライのあとだった。オクノヘヤの壁に台にのせて立てかけ、正月のあいだ飾っておいた。3歳ぐらいまでは毎年飾るが、その後の扱い方は決まっていない。神社などに納めてしまう人がいる一方、大人になっても部屋に飾る人もいる。

... 七五三
 七五三は、男の子は5歳、女の子は7歳で行った。3歳をやるようになったのは最近のことで、昔はやらなかった。
 お参りに行くのは浅間神社と登戸稲荷神社だった。着物を着て行ったが、紋付などをあらためて作ることはなかった。また、千歳飴を持たせたりすることもなかった。
 親戚から届くお祝いはお金が多かった。家では餅を搗き、お祝いをもらった家にはこの餅を返した。餅は紅白ではなく、白く丸いものだった。

..(3)成人・厄年
... 成人式
 満20歳で徴兵検査を受けた。これが終わると一人前で、酒を飲んでも良いと言われた。

... 厄年
 厄年は、男は42歳、女は19歳と33歳である。女は「ヤクの年に子供を生むといい、厄落しになる」と言われた。また、「今年はヤクだから初参りに行く」などと言ったが、お参りに行くようになったのは戦後になってからである。

..(4)葬儀
... マツゴノミズ
 もうだめだというときに、脱脂綿に水を含ませて口に付けた。これをマツゴノミズと言った。

... ヒキャク
 亡くなると親戚に知らせに行った。知らせに行くのは必ず2人で、これをヒキャクと言った。ヒキャクは主に隣家の者が務めるが、人手がないと他の近所の人がやることもあった。
 出かけるのは翌日の昼間である。先方がすでに亡くなったことを知っていても行くことになっていた。自転車になる前は歩きで行った。行くときには少しきれいな格好をした。しかも、昔は決まった人しか通らなかったため、ヒキャクが通るとすぐに何かあったとわかった。通りかかったヒキャクに「今日は何よ」と問うと、ヒキャクの方では「米の飯よ」などと答えた。これはヒキャクをやっているという意味である。ヒキャクを頼んだ家ではご飯を出し、普段は麦飯でもこうしたときは米の飯を出した。また、知らせに行った先でも昔は出したりした。

... ブッショウブクロ
 経済的に困っている家で不幸があると、近所でブッショウブクロ(仏餉袋)がまわった。これは端切れをつぎあわせた袋で二重になっており、上に紐が付いている。これがまわってくると、見舞いとして米を入れた。このブッショウブクロは火事や病気のときにもまわった。

... 納棺
 納棺するまでは、北枕にして布団に寝かせた。寝かせたのはオクノヘヤで、納棺、通夜もここで行った。遺体のおなかの上や枕元には刃物を置いた。この刃物には刀を使うことが多かったが、鉈を使う家もあった。魔物が来ないようにするためと言っていた。
 納棺は、身内や親戚が集まって行った。まず、立ち会う人全員で豆腐を食べる。分けるときは箸でちぎる。醤油をかけてはならず、残してもいけない。これを食べ終わると、冷やのオミキを茶碗で飲む。そして小さな布で、亡くなった人の顔や手を全員で拭く。拭き終わると白い帷子を着せる。この帷子を、自分で作っておく人もいたという。足には草鞋を履かせる。手甲、脚半を付け、ひたいに三角の布を付ける。首にはズダブクロをかけ、中にお金を入れた。
 お棺は、昭和の初めまでは坐棺が多かった。大きさは2尺角である。寝棺は贅沢品で、これ使うのは余程良い家だけだった。棺桶や塔婆に使われたのはモミノキである。そのため何かにこの木を使うと、「棺桶とおんなじだ」と言われた。
 お棺の中には他に、一番良い着物など故人の思い出の品を入れた。今のように花を入れることはなかった。枕元に置いていた刃物は、納棺したあとはお棺の上に置き、通夜が終わると家族が引き上げた。

... 通夜
 北枕に寝かせたお棺の頭の方に小机を置く。これを祭壇として、線香のほか、マクラダンゴとマクラメシを供えた。マクラダンゴは亡くなるとすぐに作った。材料は米粉である。6つと決まっており、供えるときは皿に盛った。マクラメシは茶碗にご飯を山盛りにしたものである。別の茶碗に盛ったものをかぶせて丸く作り、この上に本人の箸をさした。いずれも作るのは家族ではなく、近所の手伝いの人である。埋葬のときはこの2つを墓まで持って行った。
 通夜には常照寺の住職が来てお経を上げる。近所の人もお悔やみにくる。今のお棺は顔の部分が開くようになっているが、昔は顔を拝むときはふたを開けた。香典に使われたのは醤油や砂糖などで、お金ではなかった。香典返しもあらたまってすることはなかった。

... オソウシキ
 オソウシキは友引を嫌う。日が悪いと身内だけで番をして、通夜を2日間やることもあった。
 オソウシキは早くて11時ごろからで、昼からのことが多かった。住職は来てお経を上げると、先に寺に戻った。家のまわりには花輪が出た。ただし、盛んになったのは戦時中、戦死者が出てからで、たくさん並ぶようになったのは戦後になってからである。

... 葬式行列
 葬式行列の出る前、近所の人が1人先に行ってツジロウを立て、火をつけた。これは竹の先にロウソクをつけたもので、地面に刺さるよう竹の先はノメシテ(とがらせて)あった。六道の辻で迷わないように、という意味があり、寺までの角ごとに立てるのが本当だが、適当にやることもあった。
 お棺を担ぐ役をアナホリと言う。アナホリは近所の人で、順番に務めた。出棺のとき、アナホリは新しい草履を履き、座敷から「ハキオロシタ」。そのため普段、履物を中で履いて外に出ると叱られた。
 坐棺はレンダイに乗せ、上にケンガイ(懸蓋)をかぶせた。いずれも普段は寺に置いてあり、廊下などにぶら下げてあった。葬式のときはこれを借りていたが、その後、葬儀屋のコシを使うようになった。コシも担いで運ぶ道具で、霊柩車ができる前に使われたものである。
 家から寺まで、お棺を4人で担いだ。家族や親戚、近所の人々がこれに従い、近所の人の1人が旗を持った。これは住職に作ってもらうもので、白い紙に梵字が書かれていた。
 この行列とともに、葬式に出た花輪を寺に運んだ。運ぶのは近所の人で、この役をハナカツギと言った。花輪の形や大きさは現在と同じである。3本の足の1本を片方に寄せて畳み、6尺のサラシをまわして肩に担いだが、歩いて持っていくのは大変だった。寺に行くと、こうして納めた花輪がいつまでも残っていた。なお、花輪にはカシバナとウリバナがあった。寺に納めるのはウリバナで、カシバナの方は葬式が終わり次第、葬儀屋が持ち帰った。

... 埋葬
 お棺が寺に着くと、庭の燈籠のまわりを左に数回まわり、それから墓地に入った。清宮家の墓地は、元は本家分家同じ場所にあり、境もなかった。その後、墓地を整理したため、現在は別々になっている。
 昭和20年代ぐらいまでは土葬だった。埋葬する場所が別にあるわけではなく、埋めるのは墓石のある所である。昔の墓地は広かったが、新たに埋めるときには前の人が案内し、埋まっている場所を教えた。狭い墓地だと、掘ったときに前の棺桶が出てしまうこともあった。
 墓穴は、アナホリ4人のうち2人があらかじめ先に掘っておいた。この四角い穴に、四隅に長い縄をかけて棺桶を下ろした。埋めるときはまず、一番身近な人が土をかける。そして、立ち会った人全員が土をかける。棺桶を下ろした縄も共に埋める。その後、アナホリがすべて埋め、ドマンジュウにする。この間、住職はそばに立ってお経を上げた。御詠歌の人たちを呼び、唄ってもらうこともあった。御詠歌の人たちは寺に着くと、お棺と同じように寺の庭を左に数回まわった。御詠歌は講のような形で寺ごとにあり、常照寺ではもうないが、光明院には現在も残っているという。
 埋め終えたあと、葬式行列の白い旗から柄を取り、ドマンジュウにかぶせるように、その竹を十字にさした。白木の位牌もドマンジュウの土の上に置いた。位牌は住職に2つ書いてもらい、ひとつは家に祀る。塗りの位牌に替えるのは四十九日である。位牌の隣にはナナホントウバを立てた。幅5センチ、縦30センチほどの板の塔婆で、縦に線が引かれて7行に分かれている。この1行ごとに、七日、十四日など四十九日までの仏事の日にちと戒名が書かれていた。これら位牌と塔婆の前に、小さな机を据える。茶碗に入れた水のほか、家から持って来たマクラダンゴとマクラメシをここに供えた。

... ナノカ
 埋葬した後、いったん門を出てまた墓に戻り、線香を上げた。それから本堂に上がってお経を上げてもらい、そのあと家に戻った。入口にはオキヨメと言い、塩と水、手ぬぐいを置いておき、身を浄めた。そして、オクノヘヤでナノカの席を設けた。この席には住職も招き、ナノカのお経も上げてもらった。料理は煮物やてんぷら、ソバなど、引き物には広島屋に頼んだ鯛の打ち菓子の折りや、もみじの焼印のついた葬式まんじゅうを出した。またアナホリやハナカツギには、「志」と書いてお金を渡した。これをオキヨメと言った。
 この日の夜にオネンブツをやってもらった。これをやると供養になると言われた。

... 四十九日まで
 四十九日までのあいだは7日目ごとに墓参りに行った。そして行くたびに、ナナホントウバの文字を土で消した。なお、三十五日は身内だけで行った。

... 四十九日
 四十九日にはお墓参りに行き、本堂でお経を上げてもらった。このあと家に戻り、親戚や近所の人、住職を招いてオクノヘヤで席を設けた。料理は煮物や刺身などで、刺身は魚屋に仕出しを頼んだ。引き物にはまんじゅうを出した。また、この日は手伝いに近所の人を頼んだ。

... ハカナラシ
 埋葬してしばらくすると、埋めた場所の土が落ちる。子供たちが、「墓に行くと落ちるから危ない」と親に言われたのはこの穴のことである。そのため家族は、ハカナラシといって土をならしに行った。ドマンジュウに十字にさした竹もこのときに片付けた。

... 法事
 法事は一応三十三回忌までだが、なかなかそこまではできない。法事のときは墓参りに行き、本堂でお経を上げたあと、親戚、近所を招いて家で席を設けた。料理は煮物などで、作るときには近所に手伝いを頼んだ。

.4 生業
..(1)大工
... 大工仕事
 清宮家は現在工務店を営んでいるが、大工を始めたのは明治20年代、現当主昭二さんの祖父、仲次郎さんの代からである。修行に入ったのは雪が坂(多摩区長尾)の城所家である。仲次郎さんは最後の弟子で、城所家の得意先を引き受ける形になった。

 敏男さんが修行を始めたのは17歳ぐらいからである。通常は15歳ぐらいから始めて20歳の徴兵検査までやる。そうするとネンアケ(年明け)と言って修行に区切りがつくことになった。また、敏男さんは家で仕事を覚えたが、普通は住み込みである。食べさせてもらうかわり、給料はネンが明けるまでは小遣い程度で、その他、盆暮れに着るものなどをもらうぐらいだった。また、休みも盆暮れと祭りのときだけだった。その後1日と15日が職人の休みになったが、その他はほとんど休まなかった。
 「雨戸一人(いちにん)」「流しは一人」と言われた。雨戸なら3尺×6尺のものを、板をすべて削り、桟を細く挽き割り、1日で仕上げて一人前という意味である。しかし、よほど一生懸命やらなければなかなかできなかった。
 給料は、昭和15年ごろで1日2円70銭くらいだった。近くの大工は1日60銭の仕事を2ヶ月やったという。昔は人件費が安く、弁当持って行って60銭しかもらえなかったのである。このころの建築費は、坪単価で貸家が30円ぐらい、住宅は50円ぐらいだった。
 なお、清宮家で弟子を取るようになったのは戦後になってからである。

 戦前、仕事は年に1軒程度で、家の仕事だけではやっていけなかった。そのため、よその仕事にも多少行っていた。
 仕事は地元が多かった。枡形山のところにあった昭和加工、遊園のところにあった日本資源、昭和15年ごろからは登戸周辺にも貸家が建つようになり、そうした仕事もした。また、喜多見や和泉多摩川まで仕事に行ったこともあった。戦前は砂利道をリヤカーを引いて行った。当時はまだ橋がなく、渡船だった。

 昔の大工は頼まれれば何でも作った。登戸には建具屋がなく、今なら建具屋がやるような仕事も大工がやったほか、いろいろな道具まで作った。
 材木は建て主がそろえた。近くの山から伐り出したものを木挽が挽き、1年ぐらい乾燥させる。これを大工がチョウナではつり、丸太を四角にしていく。昔は板はあまり使わず、床ぐらいだった。
 大工の仕事は、こうして材木を刻んでいくことで、刻んだ柱などを立て、組み立てていくのは鳶の仕事だった。昔の鳶はどこから建てるかを聞き、大工も建てやすいようにしておくのが常識だった。それが、あっちへ行きこっちへ行き登ったり降りたりしなければならないようになっていると、大工は鳶から技術がないと文句を言われた。

... 道具・仕事着
 大工道具は一人ひとり自前だった。まとまったものは、登戸の人が始めた道玄坂の吉沢という店で買っていた。特殊な道具は自作することもあった。
 昔の刃物には銘があった。古い世代の人たちは、これは誰々のだとか越後の銘だという言い方をしていた。現在は使い捨てのようになり、安いのを買って駄目になったら替えたりしているが、良いものは目立てに出している。

 カネジャクの裏をウラガネ、ノビガネと言う。屋根の直角三角形の長さを測るときなどに使うように出来ている。また、これを使って吉凶の方位を見るという話は聞いたことがあったが、使ったことはなかった。

 登戸周辺ではマサカリよりチョウナを使うことが多かった。かつては、チョウナがなければ仕事にならなかったという。
 マサカリが使われたのは合掌仕事のときである。普通の建物ではないが、工場や学校の合掌尻やリクバリを加工するのに使われた。その後、製材所で製材するようになると、チョウナもマサカリも使われなくなった。

 ノコギリは、8寸、9寸、尺、尺3など、5丁くらい持っていた。コビキノコほどではないが、柄を斜めに付けた大きなノコギリもあった。昔のものは両刃ではなく、主に片刃である。良いものはタマハガネという2種類の鋼材を合わせたものでできており、目立てをするときヤスリの下りがやわらかかった。
 ノコギリは調布の二見屋で買っていた。ここは鋸鍛冶で、目立てもやっていた。鋸鍛冶は向丘にもいた。目立ては自分でもやる。下手な人は片方に曲げてしまうが、上手な人は左右の刃のあさりのあいだに、絹糸が上からすうっと通ったという。

 カンナにもいろいろ種類があり、台の反っているものなども使った。寺の丸柱などを削るときは、角度を合わせて自分で刃を作った。刃は2種類の鋼材を合わせて出来ており、研ぐと波線が出た。
 昔はカンナの台も自分で彫った。そのころの刃は2枚ではなく1枚で、台の口を細く狭く彫り、それで逆目を止めるようになっていた。台がすり減っても口が大きくならぬよう斜めに角度を付けてあったが、さらに減ってしまうと、そこだけ埋めて使った。

 ノミには大きく分けてタタキノミとオイレノミがある。タタキノミは、柱や土台などをたたいて彫るのに使う。オイレノミは造作に使う。ノミにはこの両方を含め、4分、5分、6分、8分、1寸、1寸2分、シラナミ、コテノミ、ムコウマチ、ツキノミなどがあった。シラナミは少し幅があるもの、コテノミはスイツキを加工するものである。ムコウマチは叩くもので、幅が狭くても厚く出来ている。また叩かずに使うツキノミも、好んで使う人は1分、2分、3分といろいろな幅のものを揃えていた。
 特殊なノミは特注か自作である。自作する場合は柄も自分で付けたりしたが、昔はグラインダーもなかったので、特殊なものは直しも大変だった。

 大小のゲンノウを使うようになる前は、カナヅチを使った。カナヅチは先が四角く後ろがノメッテ(とがって)いるもので、屋根で仕事するときも引っかけておくことができた。また、屋根で滑ったときノメッタところを引っかけて助かったという話もあり、だから先はノメシテおくものだという人もいた。

 砥石にはいくつか種類があった。アラトというのは天然の大きなもの、アワセドというのは仕上げ用である。アワセドをかけると非常に良く切れたため、怪我をすると筋まで切ってしまうと言われた。
 天然の砥石には、よく下りるものとそうでないものがあった。通の人は見ただけでこれがわかったという。また1つの石にも筋や目があり、シケルと言って良く研げない所があった。冬は、研いだあと放っておくと石が凍ってしまった。砥石は金物屋で買っていた。

 昭和23年ごろ、学校の仕事をした。学校は初めてだったが、穴をあける作業が多かったため、ドリルを使うことにした。クリッコという手回しのものでは、厚いものは大変だったためである。しかし、金属用のドリルは現在の木工用と異なり、先端の錐の部分がない。機械専門の人と相談し、加工してもらったが、すぐ駄目になってしまう。先端がネジになっている普通のドリルのネジ山をつぶしてやってみたが、回転が速すぎてやはり駄目である。そこで神田まで行き、1馬力のモーターを買い、ようやく使えるようになった。電動ドリルを使ったのは、登戸周辺では一番早かった。
 その後、製材機や自動カンナ機も作ったが、大工道具は進歩がなく、動力化が遅かった。

 仕事着は、かつては上は半纏、下は股引に腹掛だった。半纏は背中に「大」、腰のところに「工」の文字がデザインしてあり、胸には「大仲」という屋号が染めてあった。
 現在はこの「大仲」にかえて、家紋の「下がり藤」を染めている。

... 建築儀礼
 建築に先立ち、ジマツリを行う。土地の四隅に竹を立て、神官を呼んでお祓いしてもらう。地面に何かを埋めるということはない。
 どこの神官を呼ぶかは、家の建て主が決めた。きちんとやるときは丸山教に頼むことが多かったが、簡単にやるときは御岳などの行者を頼んだ。御岳の行者と言っても地元の人で、2人ぐらいいたが、どちらも祭りのときはイマサカ(ボタモチ)を売ったりしていた。船島の神主を呼ぶこともあった。この家は2代続く神主で、現在もやっている。このほか宿河原不動や下作延の身代り不動、神主でなく旦那寺の僧侶を呼ぶこともあった。僧侶もこうしたときは行者のような格好をしていた。

 地固めには本職の鳶のほか、昔は近所の人も加わった。
 ヤグラを組み、重い鉄のオモリ使って突き固めることもあった。オモリには心棒を通し、これを引き上げるときはカグラサン(ウインチ)で巻いた。

 戦後、農家では上棟式をすることが多かった。1月に2回ぐらいやったこともあり、屋根が間に合わなかったこともあった。
 大きな上棟式のときは、鶴と亀、2本の矢を作る。鶴は雁又型の矢に、亀は鏑矢型の矢に描く。取り付けるのは鳶の仕事である。木遣りを唄いながら棟木を引き上げ、この中心にヘイグシを立てる。ヘイグシには鏡、櫛、笄、白粉、紅など、女のものを付ける。いろいろな謂れがあるが、仲次郎さんは「一生懸命仕事をするため浮気をしてはいけないという戒めなんだろう」と言っていた。矢の方は鬼門の方角に向けて取り付ける。柱を立てて矢を縛り付け、矢を引き絞った形になるよう、弦の代わりにサラシを掛ける。そして正式には、米、麦、豆、粟、稗の五穀を俵で供えるという。支度はシルシモノのハッピである。ハッピの下は、昔は股引に腹掛だった。
 式では祝詞を上げる。清宮家でやったことはないが、昔は神主でなく棟梁が上げるものだった。これが終わると、ナゲモチと言い、紅白の餅や果物、お金などを上からまいた。
 このあと、その場所で建て主が祝いの席を設ける。
 それが終わるとトウリョウオクリである。ヘイグシと矢を下げ、鳶がこれを持って棟梁を家まで送った。簡単にやるときにはここで一杯飲ませて終わりだが、座敷に上げもてなしをするのが本来の形である。このとき、建て主も煮しめなどの料理を持って行った。帰りには、送ってきた鳶たちに棟梁からご祝儀を出した。

 仕事がある程度進んだころ、職人の慰労会としてナカチョウバツ(ナカチョウナの意か?)という行事を行うことがあった。

 屋根が葺き上がると、屋根屋がフキゴモリという行事を行った。葺き上がった屋根の下でご馳走になり、祝儀をもらうと、竹と紙でできた幣束を3本、棟に立てた。
 草屋根の屋根屋は、戦前まで5、6人で組んでやっていた。登戸に斉藤氏、宿河原に池田氏、このほか栗谷にも屋根屋がいた。屋根屋は刃物に刀を使っていた。

... 慣習・迷信
 上得意へは歳暮を持って行った。そうすると、昭和10年ごろまでは先方では印半纏の反物を出した。印半纏が出たのは、登戸の池田屋呉服店、小倉という宿河原の質屋などである。反物には先方の家印が染めてあった。得意先の売り出しなどには若い者が手伝いに行くことがあり、こうしたときにこの反物を仕立てたものを着て行った。
 三隣亡というのは、自分の家はいいが、三軒両隣を亡ぼすという迷信である。上棟式などはなるべくこの日を避けた。
 清宮家では、「どっちの方角がいけないとか、そんなこと言ったら職人なんか仕事に行けなくなっちまう」と言い、迷信はあまり信用しなかった。

..(2)農業
... 米・野菜
 大工は現金収入があった。しかし、農家が相手のため農繁期には仕事がなく、清宮家では農業も兼業していた。家によっては、蛇籠づくりなど多摩川の治水の仕事にも行っていた。
 清宮家では米を作っていたほか、田を小作人に貸し、年貢で米を納めさせていた。貸していた土地が梨畑や桃畑になると、米ではなくお金で納めさせるようになった。
 苗代を作る5月には、博労から共同で馬を借りた。そのために家の裏手に馬小屋が設けてあり、自分の家で馬を使うときはこの小屋につないだ。博労は御岳の方から馬をつれてきていた。清宮家では宿之島の博労から借りていたが、登戸にもスミヤ(伊藤炭屋)という博労がいた。
 野菜は自分のところで食べる程度だった。作っていたのは、ナス、キュウリ、ダイコン、葉物、豆などで、豆はインゲン、エンドウ、小豆のほか、タノクラ(田の畔)に大豆も作っていた。
 田の手伝いや麦の手入れなどには近所の人を頼んだ。これをヒヨトリと言い、1日いくらという計算だった。
 肥料に使う人糞は、東京まで買いに行ってもらった。昭和7、8年ごろになると、宿河原の池田組がトラックで積んで来るようになった。
 タネ(種籾)は口の小さいカメに入れて保管した。野菜の種は購入していた。

... 果樹栽培
 清宮家ではナシとモモも栽培していた。ナシは、昔はカゴに入れて出荷していた。
 登戸で共同出荷を始めたのは、中田富士塚が一番早かった。これが成功したため登戸全体でやることになり、中田富士塚は出荷組合第1支部になった。共同の出荷場はダイエーのところにあった。収穫したものはここへ運び、まとめて神田市場まで牛か馬で引いて行った。近くに馬力を持っている人があり、運搬はこの人に頼んでいた。その後、次第に道路も良くなり、中にはリヤカーを引いて個人で持って行く人も出てくるようになった。
 7月はモモの出荷で忙しかった。これは、東京ではお盆が7月で、モモが使いものにされたためである。熟してから出荷したので、多摩川のモモというと良く売れ、たくさん作っている家は徹夜で準備した。

.5 社会生活
..(1)社会組織
... 組・モヨリ
 清宮家のある地域を富士塚という。この富士塚で1つの組を作っており、かつてはこの中で組長を決め、ノボリトジュウ(登戸中)の集まりなどに出ていた。登戸は、カミ、ナカムラ、ヒガシの3つの地区に分かれ、富士塚はヒガシに入っていた。
 富士塚の隣を中田という。2つの組を合わせ、中田富士塚と言うことが多い。現在はこれに新町を合わせ、登戸南町会を作っている。
 こうした地域分けとは別に、近所のことをモヨリと言った。モヨリでは、さまざまな行事の折りに、手伝い合うことが多かった。

... 青年団
 青年団は登戸全体の組織で、女子部もあった。
 青年団で楽隊をやったことがあった。ドラム、トランペット、クラリネット、バリトンなど、日露戦争のとき揃えてものにならなかった楽器がそのままになっており、それを手入れして使った。練習は夜、登戸の青年倶楽部で先生を呼んでやった。菅で戦死者が出たとき、葬送曲は難しいので前の晩に君が代を習い、演奏した。出征兵士を送るときなどにも、楽隊が付いた。

... 用水組合
 二ヶ領用水には用水組合(稲毛川崎二ヶ領用水普通水利組合)があり、登戸には委員が2人いた。そのころは田の面積によって用水費を取られていた。

... その他
 地域の集まりとしては他に、消防団、在郷軍人会があった。このほかナシやモモ、肥料など、農業の組合関係がいくつかあり、農家は集まることが多かった。

..(2)共同共有
... 共同作業
 田の作業が始まる前、灌漑用の小川の堀浚いをモヨリでやった。また、カワラブシンと言って水害後などの補修もモヨリでやっていた。
 道路普請は青年団がやっていた。

... 共有財産
 浅間神社の倉庫に、共同で使う道具がしまってあった。膳、大皿、蕎麦道具、座布団、火鉢などで、葬式や結婚式のとき借り出して使った。何かの行事で借り出すときには、まず手伝いの1人が鍵を保管している家に行って鍵を借りる。そして、倉庫を管理する人のところへ行って品物を借り、返すときは数をかぞえて返した。
 他の地域では共有地を持っているところもあったが、中田富士塚にはなかった。遊園のところにあった茅場も、中田富士塚の共有地だったわけではない。

.6 交通交易
... 市
 暮れに榎戸の市へ行った。榎戸は明治のころに銀行が出来てからこのあたりの中心地のようになり、溝口まで初めて馬車が通ったときもここが起点になった。ここに暮れの28日に市が立ち、清宮家ではオミキノクチを買っていた。この市では他に、お神酒の徳利など神棚の道具も売っていた。
 このほか昭和になってから、毎月25日に登戸で共栄会という市をやっていた。

... 行商
 昭和40年ころまで、イワシやマルタ、シジミを売りに来た。売りに来るのは女性で、「イワシコーイ、イワシコーイ」と呼ばわりながら、大師の方からカゴを背負って来ていた。昭和になってこのあたりにも魚屋ができたが、値段はそれより安かった。マルタは春先、海から多摩川に上がって来たものを売りに来る。やす子さんは埼玉から嫁に来たので、「マルタを売りに来た」と言われびっくりしたという。
 富山の薬売りも10年ほど前まで毎年来ていた。薬売りはカゴを背負い、風船を持ってきた。
 大国魂神社の祭りのあとなど、金魚売が金魚を担いで売りに来た。金魚売は用水で魚の水をとりかえ、ついでに飲んだりしていた。
 そのほか行商としては、カツオブシウリ(21頁参照)、風鈴売り、煙管を直すラオ屋、箒などの竹細工売り、チャルメラを吹いて来る支那そば屋などがあった。

... 芸人ほか
 毎年正月の終わりごろ、三河万歳が来ていた。三河万歳は2人で、頭には烏帽子をかぶっており、座敷に上がると1人が舞い1人は鼓を打った。「アラ、ニーチャンバ、アラ、ニーチャンバ」という囃子ことばを、子供たちは真似した。三河万歳はどこの家にも来たわけではなく、来る家は決まっていて、来ると子供が付いて歩いた。
 獅子舞が来たこともあった。獅子舞は決まったところに来るわけではなく、家々を流しながら来るので、清宮家では「ああいうもんが来たら断ってしまえ」と言っていた。
 昔はモノコイ(物乞い)もいて、1軒1軒まわってきた。

.7 信仰
..(1)家の神
... 神棚ほか
 神棚はイマにあった。ダイドコロには棚(押板)があり、エビスダイコク、ダルマが祀ってあった。ドマにはヘッツイの後ろに荒神の棚があった。仏壇はオクノヘヤにあった。

... お札
 このあたりの農家は、大山や御岳山、榛名山を信仰してお札をもらったりしていた。
 清宮家では入口と裏口に、御岳の狼の札と蘇民将来の札が貼ってあった。蘇民将来は節分から貼りっぱなしにしていた。このほかお札は、荒神の下の柱や、神棚の脇、それから壁に掛けた板額にも貼ってあった。なお、便所にお札はなかった。
 床の間に小さな机が置いてあり、その上にタイシサマの札入があった。中には太子講で毎年もらう聖徳太子のお札が入っていた。
 ドマの梁の上に、古いお札の束が縄で巻かれて縛り付けてあった。ここへお札を上げる習慣は昭和の初めにはすでになく、昔の話としても残っていなかった。

... オイナリ
 稲荷は五穀の神だと言った。神棚に何か供えるときは、裏のオイナリにもいっしょに供えた。オミヤ(屋敷神)があるのは富士塚で3軒だけで、清宮一族がみな稲荷社を祀っているわけではない。

..(2)講
... 念仏講
 中田富士塚では、清宮家を含め8軒が念仏講に入っていた。出るのは1軒から1人で、その家のおばあさんが出ることが多く、年寄りの楽しみとなっていた。
 念仏には、月並念仏と祈祷念仏、たのまれ念仏があった。
 月並念仏は、毎月行われるもので順番に宿が回った。このとき出すのはお茶菓子程度だった。宿に集まると、音頭を取る人が小さな鉦を撞木で叩きながら唄う。それに合わせて大きな数珠をみんなで回す。子供もいっしょになって回す。このとき、結び目のところが回ってくると頭を下げる。そして最後は「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」でおしまいになった。
 祈祷念仏は、月並念仏とは別に宿が回った。このときは多少もてなした。1年に1回行われたが、何月とは決まっていなかった。お念仏をいつやるかは、月並念仏も祈祷念仏も宿の都合で決めた。そして決めると、お願いしますと言って宿の人が日にちを知らせて歩いた。
 たのまれ念仏は、葬式(ナノカの日)や法事の夜に開かれた。これはその家からお願いするもので、念仏講に入っていない近所の人も加わった。このときも多少もてなしをした。ただし、いずれも女性だけなので酒を出すことはなかった。
 念仏講は戦後も少しやっていた。

... 御岳講
 毎年正月、白い袴をはいた御岳の御師がお供をつれてお札を配りに来た。お供は地元の人で袴などははいておらず、集めたブッショウ(仏餉)を風呂敷で背負っていた。ブッショウとは寄付のことで、昔は米や小豆などを袋に入れて渡したが、その後お金になった。御師は今も来ているが、現在は1人である。
 清宮家は御岳講に入っていた。地元に講の役員がおり、まわってくる御師はそこに泊まったらしい。昔は定期的な集まりがあり、1年に1度代参に行って、もらってきたお札を配った。また、数年に1度、御岳神社の本殿で太々神楽を奉納した。
 敏男さんも昭和30年代ぐらいに行ったことがある。御師のところは宿坊になっており、酒を飲んだりして1つの娯楽になっていた。

... 大山講
 大山は雨乞の神である。
 清宮家は大山講に入っていた。昔は定期的な集まりがあり、毎年ではなかったが、大山へも行ったらしい。池田屋という御師の宿坊があり、行くとそこへ泊まることになっていた。

... 榛名山
 榛名山は雹除けの神である。講はなかった。

... 富士講
 浅間神社に、「世話人 伝左衛門」と記した文化3年(1806)の石祠(浅間社の本殿に当たる)と、願主として「清宮伝左衛門」の名を記した同年の手水石が残されている。現在、清宮家に富士講についての伝承はないが、代々伝左衛門を名乗った祖先は富士講の先達を務めていた。ちなみに、丸山教の教祖、伊藤六郎兵衛の生家である清宮家(屋号ニイヤ)は分家に当たっている。

... 神輿講
 大国魂神社の六之宮の神輿講が登戸にあった。(27頁参照)

..(3)願掛け他
... センゲンサマ
 清宮家では浅間神社を信仰していた。センゲンサマと呼び、何かあるとよくお参りに行った。

... 沓稲荷
 子供が百日咳にかかると、親が宿河原の沓稲荷にお参りに行った。このとき社に上がっているウマノクツを借り、治ると登戸の小泉で新しいウマノクツを買って納めた。

... 帝釈天
 一男さんは商売の関係で、60日に1度、カノエサル(庚申)の日に柴又の帝釈天にお参りに行っていた。

... とげぬき地蔵
 おばあさんは信心深く、巣鴨のとげぬき地蔵に行っていた。とげが刺さると、とげぬき地蔵のゴフウ(護符)を飲んでいた。

... 稲毛三十三箇所
 稲毛三十三箇所巡拝は12年に1回あるもので、常照寺は七番札所になっている。このため開帳の年には手伝いに行き、まわってくる人に朱印を押したり、お札を売ったり、お茶を出して接待したりした。
 清宮家でまわることはなかった。善光寺へ行った人に不幸があったため、巡礼のようなことはやらなかった。

... オシャチマイリ
 敏男さんは昭和の初めに、おばさんにつれられてオシャチマイリ(お七社参りか?)に行ったことがあった。これはお宮をいくつか歩いてまわるもので、最後は宿河原八幡神社だった。当時は南武線ができたばかりで、これに乗りたくていっしょに行ったもう1人の子とぐずり、宿河原から登戸まで乗せてもらった。

... カミサマ
 マリコ(丸子)の綱島街道のそばにカミサマがいて、病人が出たときおばさんが信心していた。このカミサマは富士講の行者だった。

.8 口承文芸
... カラスの鳴き声
 「カラスの鳴き声が悪いから誰か死ぬんじゃないかとか、こっちの方むいて鳴いたとか、よくそんなこと言って。」
「死んでくうちの人には聞こえないなんて言ったじゃない、カラスの鳴くのがね。」
「鳴いてる声が違ってたもんな。」
「カラスが変な鳴き声するとかね。」(敏男氏・昭二氏・妙子氏)

... 予兆
 「天災地異があると何か変わったことがあるとかって、そういうことはよく、迷信だろうけど言ったらしいけどね。おれたち小学校行ってるときに、月と星がどうしたってことがあったんだよ。そしたら、うちには年寄りがいたんで、これは変わったことがあるって言うんで。そしたら今の天皇陛下だ。皇太子が生まれたんだって、ちょうど正月だかに言ったことがあるけど。よく昔の人っていうのは、変わったことがあると、何か変わったことがあるんじゃないかと、そんなこと言ったらしいんですよね。」
「流れ星が流れるとどうのこうのと言う人もいるよね。」
「ほうき星が出たら日露戦争があったとか。」(敏男氏・妙子氏)

... 村雨
 「(エビスダイコクの上の刀掛けに)刀があったらしいんです。その刀がね、昔のもので、鞘が割れてたらしいんですけどね。それがあの村雨で、抜くと血を見なくちゃ収まらないとか言って。気味が悪いって言うんで、どこか四谷へ行ってね、古道具屋でナマクラ刀かなにかと取り替えて来たって話なんですけどね。」(敏男氏)

... 狐に化かされる
 「私の親父(仲次郎氏)がね、狐に化かされたっていうのはこれがそうなんだろうって、言ったことがあるんです。
 溝口の方へ行ってね。雨の降る日なんだって。それで傘をさしてね、用足したらしいんですよ。で、グルグルっと回った。そしたら道がわからなくなったんだって。なんでも後になってね、反対に回ったらしいんだって言うんだよね、その回るときに。
 それで、どこを歩いてもわからなかったんだって。で、グルグルグルグル回ってきてね。そしたら、すぐこの先のとこまで来たらしいんだよね、どこ回って来たかわからないけど。そしたら井戸があって、そこにしだれ柳があったんだって、気味の悪いね。で、そこのとこを通り抜けたら、向こうに提灯が見えるんだって、明かりがね。ナシジブン(梨時分)、秋らしいんですよ。で、そばへ行って『まことにすいませんが』って言ったんだって、『道を聞きたいんですけど』って。そしたら、むこうの人がこうやって見て、『なに、仲さんじゃねえか?』って言うんだって。『ああ、そうなんだよ』って言ったらね、『道がわかんなくなっちゃったんだ』って言ったら、『じゃあ、オメエどっちを向いてる?』『こっち』『じゃあそのまままっすぐ来い』って言うんで来て、そこで話を聞いたらわかったんだって。
 どうも用足したときにね、反対に回ったらしいんだって言ってましたね。それが狐に化かされるってことだって言ってましたよね、親父が。」(敏男氏)

... 化物の声
 「あそこで昔、鳴き声がするとか、うなり声がするとかって言って。そしたら、食用蛙だったらしいんだよな。あそこらの柳の木の胴の中に食用蛙がいてさ、それが鳴くのが聞こえたらしいんだって。そんな話あとで聞いたことあったけどさ。」(敏男氏)

... 朝日差す夕日輝く
 「あそこ(枡形山)は稲毛三郎の城跡、城跡って言っても館跡らしいんですけどね。おれたち子供時分だよ。『朝日差す夕日輝く左(不明)の正面に黄金千杯(不明)が埋めた』っていう唄があって、それで金がどこかに埋めてあるって言って、登戸の善立寺っていうお寺で一生懸命信仰してた人が、白装束で掘りに行ったって話、聞いたことあるんですがね。そしたらね、『朝日差す夕日輝くなんとか、小鳥さえずるどうのこうの』っていうのは、そういう良いところだってことを唄ったものらしいんだね。朝日が差して夕日が輝いて(不明)なんて、そんな場所なんかありっこないって。」(敏男氏)

.9 その他
... 地域の様子
 家の前の道はオオドテと呼ばれていた。稲田登戸病院の方から多摩川へつづく流れがあり、その堤防だったのである。道路改修で堤防は低くなり、水路も現在は側溝になってしまった。
 戦前は毎朝、長念寺の鐘が鳴っていた。
 戦後、登戸駅のところに芝居小屋があった。戦前にも仮設の小屋でやったことがあり、役者にのぼせて毎日見に行った女性もいた。
 勝明さんが子供のころ、家のまわりはまだナシ畑が多く、ナシもぎに行ったこともあった。そのころは稲田登戸病院はまだ結核病棟で、まわりの道も暗く、近くを歩くのは怖かった。また、飛行機が来てチラシをまくことがあり、友だちと拾いに行ったという。東京側へ遊びに行くことはあまりなかった。電車で行ったことはあったが、とても遠く感じた。

... 災害
 未年の大水(1907)のときは、押入れの中棚まで水が来た。明治43年の大水(1910)のときは、裏の物置きのところまで水が来た。このときは中野島の堤防が切れ、柏屋の中へどこかの稲むらが流れ込んだという。また、登戸稲荷神社の裏には、このあとも何週間も水が残っていたらしい。
 ダイドコロの土間境にドべッツイ(置きかまど)があった。これは、大水のときでも床の上でご飯が炊けるよう、用意されていたものである。このドベッツイにカマが2つ置いてあったが、普段は使われなかった。
 関東大震災でも家はつぶれなった。しかし、縁の下が割れてひびが入り、傾いでしまった。そのため幾日か、夜は竹やぶに蚊帳を吊って寝た。昔の家の地震対策としては、外から丸太を差し掛けるぐらいだった。この震災のとき、朝鮮人騒ぎがあり、「朝鮮人がどこまで来た」などと言っていた。地震の後は大工の賃金が上がった。しかし、仕事はたくさんあってもお得意先が優先になったため、あまり良い仕事は取れなかった。

... 戦争
 登戸は機銃掃射を受けた。宿河原の船島などには焼夷弾も落ちた。
 戦時中、仕事はなかったが、建物疎開で壊したりするのはやった。また、緊急工作隊という組織が作られ、職人が動員され清宮家も入っていた。しかも、川崎の方にあった本部の役員になってしまい、そちらにかかりきりになっていた。
 兵隊が泊めてくれと言って来たことがたびたびあった。戦争に行っている家族がいたので、可哀想だからと泊めた。
 敏男さんは戦争に4年行った。入営の年(昭和17年)の1月8日、登戸稲荷神社で合同祈願があった。社殿に上がって祝詞を上げ、代表が挨拶し、最後は神社の出口まで楽隊に送られた。出征の日の朝も、近くの人が駅まで送ってきた。
 持ち物の中に千人針と寄せ書きがあった。千人針は布製の腹巻で、「千里行って千里帰る」という言葉にちなんで虎の絵が描いてあり、方々で縫ってもらった。中には街頭募金のように駅で縫ってもらう人もいた。寄せ書きは日の丸に文字を書いてもらうもので、出征のときはこれをタスキにして肩にかけた。こうしたものは軍隊では私物として持っていたが、どこかへやってしまうことが多かった。
 入営の前年には同期の人とカシマカトリ(鹿島神宮、香取神宮)に行った。カシマカトリは軍人の神だと言っていた。入営の年にはダイジョウサマ(大雄山最乗寺)に行った。戦勝祈願はこの時代のはやりで、どこのお宮でもやっていた。日本が負けたので、お礼参りには行かなかった。

.参考文献
 伊藤葦天          1970『稲毛郷土史』稲毛郷土史刊行会
 角田益信          2004『登戸稲荷社誌』角田益信
 川崎市           1991『川崎市史 別編民俗』川崎市
 川崎市           1967『旧清宮家住宅移築修理工事報告書』川崎市
 川崎市博物館資料調査団   1987『川崎の職人(その1)』川崎市市民ミュージアム準備事務室
 川崎市博物館資料調査団   1988『川崎の水車』川崎市市民ミュージアム準備事務室
 川崎市博物館資料調査団   1989『川崎の職人(その2)』川崎市市民ミュージアム
 川崎市民俗文化財緊急調査団 1985『稲田の民俗』川崎市教育委員会
 多摩区地域史編集委員会   1993『多摩区OLD&TODAY』川崎市多摩区役所
 日本地名研究所       1991『川崎の町名』川崎市
 府中市企画調整部      1976『続府中の風土誌』府中市
 府中市史編さん委員会    1974『府中市史 下巻』府中市

.図版キャプション
 写真1 移築前の清宮家住宅(昭和41年)
 図1  移築前の間取り
 図2  民家園に復原された建築当初の間取り
 図3  屋敷内の配置
 写真2 上棟式(昭和40年)
 写真3 上棟式のヘイグシ(昭和41年)


(『日本民家園収蔵品目録5 旧清宮家住宅』2006 所収)