富山県南砺市利賀村利賀 野原家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が富山県南砺市利賀村利賀の野原家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は4回に分けて行った。
 平成21年(2009)8月23日には、つぎの3人にご来園いただき、旧住宅の中でお話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男・木下あけみ・野口文子である。
  野原禮二さん   移築時の当主・忠治さんの次男 昭和17年(1942)生まれ
           15歳まで野原家で育つ 東京都足立区在住
  野原孝子さん   禮二さんの妻 昭和25年(1950)生まれ
           利賀の隣の上百瀬で育つ
  神谷美恵子さん  忠治さんの長女 昭和22年(1947)生まれ
           15歳まで野原家で育つ 横浜市神奈川区在住
 平成22年(2010)7月19日には、南砺市の野原家を訪れ、お話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話を聞かていただいた方はつぎのとおりである。
  野原正子さん   忠治さんの長男・芳忠さんの妻 昭和19年(1944)生まれ
           昭和40年(1965)に利賀の隣の上百瀬より嫁ぐ
 平成22年(2010)8月4日には、足立区の野原禮二さん宅を訪れ、禮二さん孝子さんご夫妻に再びお話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男である。
 このほか、平成21年(2009)6月22日には、ご来園くださった地元の方にお話をうかがった。聞き取りに当たったのは木下あけみ・野口文子・安田徹也、お話を聞かていただいた方はつぎのとおりである。
  野原奨さん    南砺市利賀村出身 昭和12年(1937)生まれ
  野原志計子さん  奨さんの妻 昭和11年(1936)生まれ
 野原奨さんは野原忠治さんと親戚関係にあるわけではない。しかし、ご両親の実家が近く、移築された旧住宅にもよく出入りしていたとのことで、お話を参考にさせていただいた。
 なお、直接お話を伺ったわけではないが、この調査報告にお名前の出てくる方々についても記しておく。
  野原忠治さん  移築時の当主  大正4年(1915)生まれ    昭和51年(1976)没
  ※「ちゅうじ」と読む。過去の報告書等で「忠次」となっているものがあるが「忠治」が正しい。
  野原よりまさん 忠治さんの妻  大正5年(1916)生まれ    平成17年(2005)没
  野原芳忠さん  忠治さんの長男 昭和16年(1941)生まれ    平成11年(1999)没
  野原一恵さん  よりまさんの母 明治23年?(1890)生まれ    昭和49年(1974)没
3 図版の出処等はつぎのとおりである。
 1、6、14、18、19、20、21   野原家提供。
   2、5、17、22、23、24、25   平成22年(2010)7月19日、渋谷撮影。
 3            平成21年(2009)8月23日、渋谷撮影。
 4            遠山作成。
 7、8、9、10、11、15 昭和40年(1965)11月、主屋解体前に撮影。
 12            『旧野原家住宅移築修理工事報告書』より転載。
 13、16        今回の聞き取りに基づいて野口作成。
4 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。
5 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれている。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 野原家のある富山県南砺市利賀村利賀は、JR高山線の越中八尾駅から日に2本のバスで1時間ほどの場所にある。険しい山に囲まれた標高545mほどの土地で、家々は利賀川の深い谷筋に点在している。かつては同じ村内でも集落(「ムラ」と呼ばれていた)ごとに言葉も違い、家の使い方も異なっていたという。今も便利とは言い難い土地だが、道路やトンネルが整備されるまでは文字通り僻遠の地だった。教員採用試験に受かっても辞令に「利賀村」と書いてあるとそのまま辞める人もいた、そんな話も残っている。
 利賀の冬は長い。気温が氷点下となるうえ雪が深く、近年でも平成10年(1998)の冬は積雪が5mを超えた。以前は雪が降り出せば、翌年5月ごろまで交通が途絶えてしまった。現在は除雪設備が整備されこうしたことはなくなったが、それでも数か月間夜間は通行止めとなる。
 こうした環境に置かれているため、村を出る人は少なくない。年寄りの代が終わったら出て行くつもりで、井波(南砺市)や庄川(砺波市)、そのほか富山・金沢などに土地を買う人も多いという。
 野原禮二さん・神谷美恵子さんは、移築時の当主・忠治さんのご子息ご息女である。お二人とも15歳まで旧住宅で育ち、関東に出てこられた。この稿ではこのお二人からの聞き取りを中心に、野原家の暮らしについて記述していくことにする。時代的にはしたがって、昭和20年代から30年代初めが話の中心である。

.1 野原家
... 歴史
 屋号は「北田(きただ)」、家紋は「丸に桔梗」、家印は「(山印に「与」)」である。「与」という文字は「与四郎」から来ている。移築時の当主・忠治さんは養子だが、その先代まで代々与四郎を名乗っていた。そのため、忠治さんも息子が生まれたとき、「ヨシ」の語を残して自分の1文字を加え、「ヨシタダ(芳忠)」と名付けた。
 野原家は浮き沈みが大きかった。どこかのお殿様やお坊さんが泊ったという話が残る一方、土地も建物も失うということが数回あり、そのたびに次の代が取り戻してきたという。おそらくこうした折りのことと思われるが、足尾銅山まで出稼ぎに行ったという話も残っている。
 なお、野原家からは分家が2軒出ている。

... 家族
 利賀では父母のことを「トト」「カカ」、長男を「アンマ」、次男のことを「オッサン」と呼ぶ。禮二さんは今でもオッサンと呼ばれるという。なお、三男以下と娘はみな名前で呼んだ。
 禮二さん美恵子さんは8人兄妹だった(うち1人はすぐ亡くなる)。このほか両親と祖母がいたが、10人前後の家族は珍しくなく、他の家も同じようなものだった。

.2 衣食住
..(1)住
... 移築
 ムラでは公共施設以外は合掌造りだった。しかし時代が下るにつれ、嫁を迎えたりするのを機に建て直す家が増えていった。
 野原家で主屋を建て直したのも長男・芳忠さんの結婚がきっかけである。嫁を迎えるにあたって、野原家ではこれまでの主屋の下に新たな主屋を建てた。このとき建具は外まわりのものだけを新調し、中は旧住宅のものを転用した。建具はそのように使いまわすものだったという。結婚後は、給料が入ると少しずつ新調していった。

... 敷地
 旧住宅は道路から斜面を登った高台に位置し、石垣の上に建てられていた。
 隣には大きなスギの木が5、6本あり、裏手には池があって湧き水が流れ込んでいた。この池にはアカビラ(イモリ、「アカベラ」とも)が何百匹もいたという。

... 屋根
 ムラでは年に2、3軒、屋根の葺き替えが行われた。
 春先、雪囲いを終えたあとのカヤは修理に使った。しかし葺き替えとなるとそれではまったく足りず、ムラ中からカヤを借り集めて片面ずつ葺き替えを行った。
 野原家のカヤバは広く、分家もこの場所を使っていた。カヤは毎年刈り、乾燥させた上、人の手で下まで運び下ろす。運ぶときには、まず地面に2束置き、その上に斜めに積んでいく。これを引っ張り、山の傾斜を利用して何百メートルも「だーっと」下ろしてくる。毎年行うため道がついており、台などに載せなくても2、30束一度に運ぶことができた。このカヤバは現在は植林されている(注1)。
 葺き替えはムラの者で行う。職人は呼ばない。30〜40人がかりで、合掌造りの片面を1日ですべて終わらせた。
 葺き替えがあると、近所の家は1軒から1人、親戚の場合は数人手伝いに出る。父親の忠治さんが家を空けることが多かったため、禮二さんは手伝いによく出た。隣のムラまで出かけることもあったという。
 作業はまず、一番下の軒まわりに麻殻の太いものを敷くことからはじまる。この麻殻も家で栽培し、貯めておいたものである。つぎに、この上に寝かせるようにしてカヤを積んでいく。カヤを固定するのに使うのは縄ではなく、「ネギリ」(ネリギ)という木の枝である(注2)。この木は高さ2間ほどの細長い木で、枝は上の方に少ししかない。これを3尺ほどに切った上、足で押さえて曲げ、手で折り返すことをくりかえして柔らかくしていく。この作業のことを「枝をネギる」といい、子どもも手伝わされたという。こうしてできたネギリを使い、カヤを押さえる竿と屋根の丸太とを縛り付けていく。
 作業は、1mほどの間隔で横一列に並び、下から上へと進めていく。屋根の下にいる者がカヤを放り投げ、上の者が置いていく。作業が進むと梯子を掛け、それを使ってカヤを運び上げる。このようにして上まで葺いていくと、作業用に取り付けていた丸太を、今度は外しながら下りてくる。なお、北側の東寄りに、棟から下まで常時鎖が下げてあり、こうした修理や雪下ろしの際、上り下りするのに使っていた。
 どの家も棟の下に大きなスズメバチの巣があった。巣を作りはじめても落とすことはせず、空になってもそのままにしていた。

... 材木
 家は山から木を伐り出すところから造る。現在の主屋もそうして建てたものである。禮二さんは兄の芳忠さんに、東京で家を建てるなら木はいくらでもあげるから、と言われたという。野原家の山には大きなスギが何100本とあった。
 建築に使うのはほとんどスギだった。しかし、ダイコクバシラには違うものを使うことがあり、現在の主屋にもスギとは異なる白みがかった木が使用されている(ヒノキか)。「家を建てるときはこの木だ」と、禮二さんが小さいころから父親の忠治さんが言っていた木である。この木は野原家のものではなかった。もともとは野原家のものだったらしいが、分家を出したときその家のものになっていたという。しかし、家を建てるときは持ち山の木だけで建てるわけではなく、逆に自分の木はほとんど伐らなかった。家を建てるというと、周りの家が1本ずつ木を持って行くのが習わしだったからである(注3)。
 木は冬に伐り倒す。雪のあるときでなければ運べないからである。テゾリ(持ち手の棒が付いたソリ)を使い、その持ち手を両手で操って雪道を下ろし、製材所まで運ぶ。ここまでが自分たちの仕事である。そうして半年から1年寝かせ、あとは大工が加工して家を建てた。

... イシカチ
 家を建てるとき、基礎の石を打ち込む行事を「イシカチ」「ガメカチ」という(注4)。打ち込むのに使用する撞木の上部には軍配が取り付けてあり、行事の最後にこれをノコギリで切り落とす(12頁参照)。これを獲ると縁起が良いとされ、集まった人々が奪い合いをした。大きさは人の背丈ほどもあり、神棚に飾れるようなものではないが、持っている家では大切にしまっている。ただし、酔った人々が奪い合いをするため、踏んだり蹴ったりされて壊れているものが多いという。

... 柱・梁
 チャノマ・デエ・ザシキ・ナンド、この四間の中心にある柱を「ダイコクバシラ」と呼んだ。禮二さんによると、現在民家園で復原されているものの2倍くらいの太さがあり、黒光りして立派なものだったという(注5)。
 利賀ではこの柱を「カミダイコク」、これに向かい合う土間境の柱を「シモダイコク」という(注6)。この2本の柱とウシ(牛梁)が合掌家屋の骨格であり、家を建てるときはこれらを最初に立て、それから周りを造りはじめるという。

... 壁
 合掌造りで土壁という家はなかった。しかし、合掌造りを壊して新築した家の中には土壁の家がある。

... 雪囲い
 12月になると家族で雪囲いの準備をした。持ち山の一番上にカヤバがあり、刈ったカヤを縛って運び下ろした。かなりの量が必要だったという。
 雪囲いをするのは正面と裏側で、縁側の雨戸の外側をカヤで囲っていく。板壁部分は囲う必要がないため、両脇はやらなかった。カヤは下と上、両方から止めていく。カヤを縛るのに元は木の蔓を使ったが、その後、ワラ縄なども使われるようになった。カヤを止めたあと、明かり採りの隙間を足で作った。こうして雪囲いをしても、冬のあいだは毎朝、出入口の雪を掻かなければならなかった。しかし、囲いをしないと建具がやられ、中にはそれで雪が部屋に入ってしまった家もあったという。

... 出入口
 主屋から突き出す形で、大戸口前に杉皮葺きの屋根が掛けてあった。冬は雪囲いをするため、トンネルのようになる。雪の深い時期は、ここから雪の階段を上がって外へ出ることになった。そばの石垣から雪を落とせば済むことだったが、落とす時間もなかったという。
 僧侶は縁側からザシキに直接出入りした。そのため、縁側の戸の下に踏み石が置いてあった。

... 土間
 入口を入ると土間になっていた。右手はウマヤ、そのむこうには漬け物や味噌桶が置いてある。この場所にはワラウチの石があり、そのほかトリゴヤもあった。
 突き当たりは水場になっていた。水場には石が敷いてあり、ミズガメがあった。まな板で野菜を刻んだり、茶碗を洗ったりという水仕事は、この場所でやっていた。

... ウマヤ
 土間の一角にウマヤがあった。ただし、昭和20年代ごろには馬はおらず、一年を通して牛を飼っていた。

... トリゴヤ
 土間の奥にトリゴヤがあった。ここでニワトリを2、3羽飼っていた。

... 水場
 主屋から2、3間離れた裏手に水の湧く場所があった。野原家では地面に溝を付けてこの湧水から流れを引き、そこから樋を使って主屋に水を引いていた。この樋は木製で、利賀では丸太を半分に割らず、丸太のままチョンナで溝を彫り込んでいた。
 主屋に引いた水は、土間の奥にある四角い石のミズガメ(8頁参照 利賀では「ミズフネ」ともいう)に溜まるようになっていた。湧水は流しっぱなしだったためミズガメにはいつも水が満ち、あふれた水は右脇の溝から流れ落ちて、脇を伝って外へ出ていくようになっていた。底の穴は溜まったゴミを洗い出すためのもので、普段は栓がしてあった。
 水は手が痛くなるほど冷たく、冷蔵庫代わりにも使われた。

... カマド
 土間のチャノマ寄りに大きなカマドがあった。直径1mほどの竈口が1つあり、味噌を造るとき大豆を煮たり、麻やコウゾを煮たりしたほか、餅搗きで米を蒸すときにも使った。焚き口は土間方向に設けられていた。
 水場の近くにはもう1つカマドがあった。こちらは小さいもので、調理に使っていた。

... チャノマ(オエ)
 民家園では建築当初の姿に戻す方法を採っているため、イロリのある部屋は大きな広間として復原されている。しかし移築前は2つの部屋に分かれ、それぞれチャノマ(オエとも)、デエと呼ばれていた。あいだには障子戸の間仕切りが設けられていたが、夏は開けっ放しだった。
 チャノマは食事をする場所であり、イロリで煮炊きする場であった。上がって右手あたりを台所として使っており、ご飯を茶碗によそったりということはここでしていた。また、木製の棚があり、茶碗などが入れてあった。
 この部屋で寝る人はいなかった。

... デエ
 デエは作業場として使われた。ワラシゴト、養蚕、そのほか餅を搗くのもこの場所だった。
 人寄せのときもデエが使われた。葬式や祝いなどには80人くらい集まり、ザシキに入りきらないためである。こうしたときは隣近所や寺から畳を借り受け、敷き込んで座敷とした。

... イロリ
 イロリはチャノマとデエに1つずつあった。チャノマのイロリは日常の煮炊きに使った。デエのイロリは冬場、人が集まるときなどに使うだけで、ほとんど使用していなかった(注7)。
 イロリの上にはヒアマ(火棚)があった。高さはどの家も170cmほどで、子どもは手が届かなかった。ヒアマは煤が上がらないようにするためのものであり、また濡れた物を乾かすためのものであった。ワラグツなどが濡れると、この上に載せて乾かした。
 イロリの各席には名前が付いていた。野原家での呼び方は聞き取ることができなかったが、利賀ではヨコザ・オトコジロ・カカジロ・ババジロ(ウラジロともいう)と言った(注6)。
 当主の席はナンドを背にした一番奥である。他の者が座っていても当主が来たら移動しなければいけない場所であり、女性は通るだけで叱られたという。この当主を挟み、向かって右が長男の席、左が次男の席である。その他の兄弟はイロリを挟んで向き合い、奥から年長順に座った。女性たちが座ったのは土間側である(注8)。
 野原家ではやっていなかったが、イロリブチを改造し、床と同じ高さにする家が多かった。板で蓋をすれば、使用しないときは普通の板の間として使えたからである。

... ザシキ
 民家園では建築当初の姿に戻し、ザシキと仏間のあいだに襖の間仕切りを設けている。しかし、昭和20年代にはこの襖はなく、1つの部屋になっていた。
 北側の押入れは、襖を開けると仏壇になっていた。左手はカミダナ(床の間)になっており、掛軸が掛けてあったほか、デク(人形)がたくさん並べてあった。このほか、床の間の左には馬の絵が額に入れて飾ってあった。
 畳があったのはこのザシキだけである。しかし、移築前の時期は人が来たとき通せるよういつも敷いてあったが、かつては冬も含め、畳は通常部屋の隅に積み、床にはムシロが敷いてあった。禮二さん兄弟はこの部屋に寝ていたが、布団は積み上げた畳の上に敷いていたという。畳は年に2回ぐらい干していた。
 行事などで人が大勢来るときは、この部屋とデエをつなげて使った。

... ナンド
 ナンドは2つに分かれていた。間仕切りとして半分は板壁になっており、半分は襖か板戸だったという。
 誰がどこに寝るかは、家族構成の変化によって変わった。おばあさんのいた時代は、奥におばあさん、手前の部屋に夫婦と小さな子どもが眠った。その後、夫婦が奥、少し大きくなった子どもたちが手前で眠るようになり、子どもたちはやがてザシキで休むようになったため、夫婦は再び手前の部屋を使うようになった。
 ナンドは板敷きで、稲ワラを敷き詰め、上にゴザ(ムシロ)が敷いてあった。布団はその上に敷いていた。
 奥の部屋は、普段寝る人がいないときは物置きのように使われ、出入りすることは少なかった。客をザシキに泊めるとき家族が使ったり、そのほか、出産のときに使ったりした。

... ロウカ
 デエからザシキまで、3尺ほどのロウカ(縁側)が付いていた。
 建具としては、それぞれの部屋とロウカの境に障子、ロウカの外側に雨戸が入っていた。網戸は無かった。現在でもほとんど網戸はしていないという。

... 中二階
 ナンドの上に中二階があり、階段を4、5段のぼって上がるようになっていた。しかし、物が置いてあるだけで、普段、遊び以外で上がることはなかった。危ないときに隠れる場所といわれ、他の家も似た造りになっていた。

... 二階三階
 2階を「アマ」といった。モノオキとして養蚕などの道具を置いたほか、冬場はムシロを織ったり縄を綯ったりするのに使っていた。この場所で寝る人はいなかった。
 2階の上に3階もあったが、ほとんど使っていなかった。利賀では3階を「ソラアマ」と呼び、ワラを保管したり、クラのない家ではクラ代わりに使ったりしていた(注6)。

... フロ
 野原家では週に1、2回フロを沸かした。
 浴槽は台所のミズガメの隣にあった。熱くなると桶で水を入れるため、浴槽はミズガメ近くに置くことが多かった。焚き口はチャノマ側に、洗い場は浴槽の脇にあった。板で1段高くしたもので、広さは人が1、2人立てる程度だった。フロはいわゆる五右衛門風呂だった。浮いている板を沈めるのが難しく、端に乗ってしまうと反対側がせり上がったりした。
 なお、フロの無い家は隣や親戚の家に入りに行った。どこかの家で「今日オフロ沸かしたから」と言うと、オフロのある家も含め、近くの人がみな入りに行った。

... 便所
 便所は大用と小用に分かれていた。
 大用は主屋の西側にあった。忠治さんと、禮二さん兄弟とで建てたもので、屋根はトタン葺きだった。中には便所が2つあったが、男女別にしていたわけではなかった。外側にはコヤシを出すための場所もあった。
 小用の便所は大戸を入ってすぐ右手にあった。戸や囲いはなかった。下には便壺があり、小便が溜まるようになっていた。

... クラ
 主屋から少し下っていくと、田のそばに2階建てのクラがあった。主屋が火災に遭っても類焼しないよう、クラはある程度離して建てるものだったという。間口は2間半ほど、奥行きは4〜5間ぐらい。周囲は板壁で、古くは主屋と同じ合掌型の茅葺き屋根だったが、その後トタン葺きに変えた。建築年代は不明だが、禮二さんが生まれる前の建物だったという。このクラは主屋移築後もしばらく残っていた。
 入ったところに味噌樽が3つほどあった。奥は棚になっており、木箱に入れた膳椀類が保管されていた。2階には屏風や道具類のほか、過去帳など文書類がすべて保管されていた。大事なものの収納場所として、このクラは野原家で唯一カギをかけていた場所である。なお、穀物類は別の場所に保管していた。
 クラはどの家にもほとんどあった。この他に、家によっては肥料を入れるナヤ、裕福な家ではさらに土蔵を持っていることもあった。

..(2)食
... 炊事
 普段の食事は米のご飯におかずだった。おかずは漬け物だけという日もあったが、カボチャやサトイモをはじめ、野菜の煮物もよく出た。
 ご飯はナベをカギに吊るしてイロリで炊いた。朝食の分は母親のよりまさんが炊いたが、夕食の分を焚くのは小学校3年生ぐらいから美恵子さんの仕事だった。そのころは毎回1升炊いていた。

... 食事・食器
 昭和20年代の初めまではハコオゼン(箱膳)で食事をしていた。その後、兄妹の人数が多かったこともあり、子どもたちはチャブ台を使うようになった。
 ハコオゼンのころは食べ終えると食器はそのまま中にしまっていた。食器を洗うようになってからは、皿にはワラを丸めたものとクレンザーを使った。
 人寄せ用の食器はクラにしまってあった。クラの奥には棚があり、木箱入りの膳椀が祝儀用と不祝儀用50揃いぐらいずつ保管されていた。祝儀用は朱塗り、不祝儀用は黒塗りだった。
 膳椀類はどの家でもある程度の数は揃えていたが、足りない場合には他の家から借りた。こうして貸し借りしたものは、1つ欠けても皆で探した。そのため、1つ1つに家の印が付けてあった。

... 米
 昭和20年代は主食は白米だった。
 昭和30年(1955)ごろ精米機が入ったが、それまではカラウスで精白していた。カラウスを使うには体重が必要で、本来大人の仕事である。しかし親は炭焼きで家を空けることが多かったため、野原家では子どももカラウスを使った。
 利賀では米を搗くことを「カツ」といい、カラウスのある場所を「カチバ」と呼んだ(注6)。カラウスのある家は野原家のほか数軒しかなく、周囲の家は「米カチッてこようかな」とか、「米シロして来いや」(米を白くして来い)などと言って、カラウスを借りに行った。米は小さな袋に5升くらい入れ、それをカマスで運んだ。

... ソバ
 ソバを食べる機会は多かった。出汁はニボシで取っていた。

... 野菜
 野菜は漬け物のほか、乾燥させたものも保存食として使った。
 ダイコンは秋、畑に穴を掘って埋めておく。キャベツやハクサイは新聞紙にくるみ、イロリのヒアマ(火棚)にのせておく。こうしておくと多少カラカラになるが、冬中食べることができた。

... 漬け物
 漬け物は保存食のひとつである。ダイコン・ダイコンの葉・ハクサイ・ミズナなど、秋になると大きなタルに半年分を漬けた。冬は雪が深く、畑があっても掘り返すことができないからである。
 漬け物は小出しにして、味噌汁の具などに使った。

... 山菜
 山菜も保存食である。ゼンマイ・ワラビ・コゴミ・ウド・イラ(イラクサ)・タケノコ(スス竹)・ヨシナ(ミズナ)など、さまざまなものを食べていた。ゼンマイは雪解けのころに採り、干したり塩漬けにしたりする。乾燥させたものは1年くらいは日持ちする。冬場のおかずはこうした山菜が多かった。

... キノコ
 山の倒木にナメタケやヒラタケがたくさん出た。こうしたものは保存食として塩漬けにした。

... 魚
 魚を食べる機会は多くなかった。秋になるとサンマを売りに来たが、こうした鮮魚を買うのは年に1度ぐらいである。その他は町へ買い出しに行くことになったが、買うのは粕漬けや干物など、日持ちするものだけだった。新巻鮭はイロリの上で干しておき、少しずつ切って食べた。
 夏になると産卵のためイワナが谷に上ってくる。雨がたくさん降ると水が濁るため、迷った魚がたくさん捕れた。イワナは焼いて干しておくと日持ちした。

... 肉・卵
 肉を食べる機会はあまりなく、ニワトリをつぶしたときくらいのものだった。
 正月に豚肉を食べたことがあった。近所で飼われていたブタが雪で出荷できなくなり、分けてもらったのである。ブタがキイキイ言うのが恐ろしく、美恵子さんは耳を塞いでいたという。
 このほか、ウサギを食べることもあった。忠治さんはウサギ捕りが上手く、木の枝とスコップだけで2、3匹は捕って帰ってきたという。
 動物性たんぱく質としてはこの他、飼っていたニワトリの卵もごくたまに食べることがあった。

... 餅
 餅をまとめて搗くのは年2回、正月前と2月前である。2月前に搗くのはコオリモチ用で、搗く量は正月用の倍近かった。なお、ウスは普段土間に置いてあったが、搗くときはデエに移した。
 このほか、客が来ると餅を搗いてもてなすことがあった。

... ボタモチほか
 彼岸や来客時にボタモチを作った。特にそうしたことがなくても、小豆も米も作っていたため、食べたいときは作ることができた。
 お汁粉は年に数回食べる機会があった。

... 果物
 昭和20年代は、果物といえばリンゴだった。しかし、栽培していたわけではなく、行商から買っていた。
 ムラや山で手に入るものとしては、クワの実やヤマモモ・ヤマブドウ・アケビ・ナシなどがあった。ヤマブドウやアケビは弁当箱を持って山へ採りに行った。ナシは近所に木があったのでムラで採ることができた。

... おやつ
 仕事に出ているときは、10時と3時におやつを食べた。普段のおやつは漬け物やカキモチだった。カキモチは焼いたり油で揚げたりしたもので、固いときはお茶に漬けて食べた。
 子どもたちのおやつはサツマイモが多かった。学校から帰ってきて食べるものないかと言うと、それしか出てこなかった。
 禮二さんが子どものころ、忠治さんがアメを作ってくれたことがあったという。材料はザラメだった。

... 調味料
 主な調味料は自家製の味噌とタマリだった。煮物など普段の味付けにはタマリを使い、醤油は雑煮の汁ぐらいにしか使用しなかった。
 味噌を仕込むのは冬である。まず、土間からデエにウスを運び、マメを搗く。そして買ってきた塩を使い、仕込みの作業を行う。それが終わるとクラに運び、大きいタルに入れて保存した。家によってはアマ(2階)で保存することもあったという。
 このほか砂糖も使った。袋に入った赤いザラメがたくさん保管されていたという。

... 茶
 お茶はほとんど飲まなかった。普段飲むのはお湯で、そのためいつも自在鉤に鉄瓶がかけてあった。

... 酒
 冬になるとドブロクを造ったが、酒は基本的に買うものだった。忠治さんが飲んでいたのは日本酒だったが、合成酒が多かった。ビールは当時まだ無く、禮二さんも最初に飲んだのは利賀を出てからだという。一緒に炭焼きをしていた人は、行くたびにマムシを捕り、マムシ酒にしていた。
 冷え込む土地のため、酒は身体を温めるためにも飲まれた。忠治さん家族は、寒いと湯飲み茶碗で酒を廻し飲みしていたという。
 酒の飲みはじめは早かった。子どもでも小学生ぐらいから飲んでいた。父親の代理で隣町の会合に出たりすると、飲まないわけにいかなかったという。家でも廻し酒には子どもも手を付けて良いことになっていた。また、発酵途中のドブロクを飲んだりもしたという。

... 煙草
 忠治さんはキザミ(刻み煙草)を袋で買い、キセルで吸っていた。キセル入れに付けるインロウを毎年のように作っていたという。

..(3)衣
... 普段着
 仕事のときは、鳶職がはくようなズボンに、地下足袋だった。忠治さんは炭焼きをしていたため帰るのは週1回くらいだったが、家では寝巻着(甚兵衛や丹前のようなもの)を着ていた。
 女性は普段モンペをはいていた。

... 子どもの服装
 昭和20年代は、和服を着るのはすでに祭りのときくらいになっていた。男の子はズボンにシャツ、女の子は下はモンペ、上はスモッグのようなエプロンだった。一年中ほとんどこうした服装で通したが、冬になると綿入れ(長袖の半纏)を着る子もいた。

... 履き物
 普段はワラゾウリ、雪のときはワラグツやユキグツである(注9)。こうしたものは冬場にたくさん作っておいた。子どもたちも自分のものは自分で編んだ。

... 寝間着
 寝るとき寝巻着に着替える習慣はなく、昼間のまま眠った。フロに入ったあとも、汗でベタベタであっても同じものを着た。
 こうした習慣が変わったのは、ある水害がきっかけである。このとき寝ていて流された人がいた。しかし、寝間着でなく普段着だったため、「水が出ることを予見していた」と、災害後の検証で警察に判断されてしまった。このことがあってから、夜は寝巻着に着替えるようになったという。

... 洗濯
 基本的に着替えなかったため、洗濯はあまりしなかった。子どもも着替えるのは身体検査のときぐらいで、そうした日は「新しい着物に替えなきゃ」と言って着替えに帰った。
 洗濯はドマで行った。道具は洗濯板、洗剤は固形石鹸だった。洗った物は、冬場はフロバに竹竿を渡したり、アマ(2階)に吊したりして干した。アマに干すとイロリの温かい空気でよく乾いた。
 美恵子さんが昭和37年(1962)にムラを離れるとき、洗濯機を買った。テレビでは見ていたが、実物を見るのは初めてだったという。

... 寝具
 昔は夏でも夜になると涼しく、冬の布団を掛けて寝ていた。布団は薄手で、中は木綿のワタと真綿だった。真綿はクズマユを伸ばして作ったもので、こうした作業はおばあさんがやっていた。
 ザシキの布団は毎日畳んでいたが、ナンドは敷きっぱなしだった。

... 機織り
 機織り機はあったが、昭和20年代には、実際に織っている姿はあまり見かけなかったという。

..(4)暮らし
... 雪
 雪が降りはじめるのは11月ごろ、積もるのは12月の終わりごろである。子どもたちも降りはじめは喜ぶが、じきに飽きたという。降るときには窓から見ていてどんどん積もるくらい早く降る。雪靴でつけた踏みあとにもすぐ雪が溜まってしまう。積雪量は多い年には5〜6mほどになった。通常は大戸の外に雪で階段を作り、そこから出入りしたが、こうした年は屋根まで積もるため、2階から出入りするしかなかった。
 周囲の雪かきは毎日、屋根の雪下ろしは積もってくると行った。
 雪下ろしは家族だけで行う。子どもたちも小学校4、5年になると手伝った。下ろすときはまず屋根に上らなければならない。屋根には鎖が下げてあり、上るときはこれを使った(8頁参照)。昔は鎖ではなく、ワラ製の綱だったという。屋根に上ると、柄の長い木製の道具で一番上の雪を割る。これを落とすと、あとは下まで割れて落ちた。
 降ろしたあとは雪が周囲に溜まっているため、家の中が真っ暗になる。そこで、その雪を裏の池に落としたり、トタンで作ったソリで下まで運んだりした。女性は屋根の上には上がらなかったが、こうした運び出しの作業は手伝った。一日仕事だった。
 オミヤサン(神明宮)の「雪消し」は子どもたちが行っていた。オミヤサンは興真寺脇の「ヒロバ」から石段を登ったところにあり、5月4日の祭りまでに雪のない状態にしなければならない。しかし、木が生い茂っていてそのままでは雪が消えないため、4月から除雪作業をするのである。雪が固まっているため、子どもたちは家から大鋸を持ち出し、雪を切り出した。この作業には通常でも1か月かかったが、雪の多い年は小学生だけでは間に合わず、中学生まで駆り出された。

... 暖房
 暖房具としてはまずイロリがあり、そのほかにホリゴタツがあった。寝るときは寒いので、子どもたちはザシキのホリゴタツのまわりに布団を放射状に敷き、足を中に入れて眠った。
 就寝時の暖房用具としては、ほかにアンカやユタンポがあった。アンカにはイロリのオキを使ったが、これで火事を出した家もあったという。

... 燃料
 燃料にはマキとホエが使われた。「ホエ」とは柴(細い枝)を切ったものである。春に刈り集め、カヤと同じように縛り、テゾリ(手橇)に30把ほど積んで山から下ろした。イロリで燃やすのはホエのみで、マキはカマドにしか使わなかった。
 ホエはドマに、マキは軒下に積んでおいた。このほか敷地内にも積み上げ、上にワラの屋根を付けて蓄えていた。

... 照明
 雪が積もったり雪囲いをしたりすると、昼でも真っ暗になり、灯りが必要になる。
 昭和20年代にはすでに、ナンドの奥の部屋以外は各部屋に電気が入っていた。笠の付いた裸電球である。近くの谷に変電所があったため、導入時期としては富山県内で1、2位を争うほど早かったという。
 しかし、冬は停電が多かった。雪の重みで電線が切れるためである。業者が入るにも時間がかかり、竹スキーで道を付け、住民総出でその道を踏んだり、雪を除けたりしてはじめて電柱にたどりつける状態だった。
 停電のあいだはガラスのロッカク(六角アンドン 8頁参照)でロウソクを灯した。行灯やランプ、カンテラも炭焼き小屋で使用していた。

... 家電製品・電話
 禮二さんの弟が松下電器に勤めていたため、テレビや冷蔵庫を買うときは自社製品を送ってもらった。
 電話が入ったのは昭和38年(1963)以降のことである。それまでは農協や学校、商店などにしかなかった。

... 子どもの暮らし
 小学校が夏休みになると、子どもたちは寺で勉強した。2、3日で宿題を済まし、あとは家の手伝いをしなければならなかった。ゆっくり宿題をやる余裕はなかった。
 炭焼きで忙しいときは、学校を早退して直接山に行った。当時は他の家も皆そうで、農繁期には2、3人しか教室に残らなかった。
 運動会では俵を運ぶ競技があった。禮二さんは小学校5、6年のときには米俵(60kg)を担ぐことができた。当時はそれが当たり前だったという。
 子どもたちはそうして親の仕事を手伝う一方で、自分たちの遊びに興じた。手先が器用だった忠治さんも、仕事の合間に人形やスキーを子どもたちに作ってくれたりした。
 夏は興真寺周辺の墓地で度胸試しをした。冬は雪の上、仲間を担いで峠まで上がり、そこで放り出すという手荒なこともした。放り出された方はスキーを履いて帰るのである。スキーが上手ならいいが、下手だと大変だったという。禮二さんは小さいころから炭焼きの手伝いで山に入っていたため、どこに何があるか皆わかっていた。
 なお、禮二さんや美恵子さんのころは小遣いはなく、祭りのときなどにいくらかもらうだけだった。

... 女性の暮らし
 男女の別は厳格だった。男は絶対に台所に入らず、醤油ひとつでも女が取りに行った。
 美恵子さんは兄妹の中ただひとりの女性である。しかし、女手として重宝されることはあっても特別大事にされることはなく、男の子と同じように育てられたという。

... 娯楽
 新聞社がフィルムを持って来て映画を上映することがあった。会場は学校や寺で、20〜30円で観ることができた。美空ひばりの映画などは古くても面白く、美恵子さんは観に行くのが楽しみだったという。

... 害獣・害虫
 ヘビ(アオダイショウ)が多かった。野原家は下に石垣があるためか家の中にも多く、部屋の中やアマ(二階)にもいた。蚊帳の中にも入ってきて、寝ようと思って布団をめくると中から出てくることがあった。そのため、ヘビ捕り専用の器具もあった。
 アオダイショウのほかにマムシもいた。マムシは飛びかかってくるため、捕るときは二股の枝で頭を押さえた。
 アブの小型のものを「ウーロ」(「ウルロ」「ウッロ」とも)という。上百瀬にある、川が少し澱んでいる場所が一番の繁殖地である。利賀にはもともといなかったが、この虫は排気ガスの臭いを好むため、上百瀬から来る車に付いて流入してしまったという。噛まれるとひどく痛み、しかも大きく腫れあがる。山の方へ行ったときは車のドアも開けることができない。少しでも開けると「ウワーっと」入ってきてしまうからである。もし1匹でも入ったら、車を止めて殺さない限りどうにもならなかった。
 蚊取り線香は無かった。よりまさんは代わりに、草を乾燥させたものを使っていた。ヨモギなど数種の草をカラカラに乾燥させ、ワラで巻いたものである。畑仕事のときはこれに火を点けて腰に付けていた。

... 健康・病気
 ムラの診療所を含め、病院は2軒ほどあった(注10)。しかし、医者に掛かることは少なかった。
 禮二さんは1歳ぐらいのときイロリに落ち、全身火傷を負った。このときはおばあさんに連れられ、1か月半から2か月ほど下呂温泉に湯治に行って治した。
 薬としてしばしば使われたのが熊の胆である。熊から採った胆嚢を台所の棚にぶら下げておき、腹痛などのときはこれを飲んだ。酒を飲んだときにも非常に効き目があり、二日酔いなどすぐ治る上、先に飲めば悪酔いしなかった。

... 災害
 台風の被害はなかった。地盤が強いためか、地震でもあまり揺れなかった。
 災害として多かったのは雪崩である。積雪のあるあいだは日常的に起こるもので、冬になるとムラの外へ出られなかったのもこのためである。ある年、禮二さんが同窓会の帰りに歩いていると、何度も雪崩があった。通り過ぎると落ちてくる。すると今度は前からも落ちてくる。そういう状態だったという。

.3 生業
..(1)概況
 利賀にはこれといった産業はなかった。そのため野原家には、足尾銅山に行ったり(注11)、外国に行ったりした人もいる。家の生業としては農業と炭焼きが基本だったが、高度成長期に入ると公共事業が増えたため、土木関係の仕事もするようになった。
 禮二さん兄妹も長男以外は上から順に、先に出た同郷の人や知り合いのつてを頼ってムラを出た。同年代でも残った人は少なかった。禮二さんと美恵子さんは関東に出たが、京都に出る人が8割以上で、なかでも西陣が多かった。そのため西陣では、利賀村の会館の方が富山県人会のものより立派だった。獅子舞なども豪華なものを持っているという。

..(2)稲作畑作
... 概況
 野原家では米と野菜を作っていた。米は自家分だったが、開拓して田を増やすまではそれでも不足した。
 野菜は自給自足で、春はジャガイモを植え、夏、それが済んだあとソバを植える。そうすると秋にソバが実った。そのほか小豆・大豆・インゲン・ハクサイ・キャベツ・ホウレンソウ・ダイコンなどを栽培していた。
 田んぼをやっている期間は、朝5時前には田んぼの水まわりをしていた。そのため夜はとても早く、9時に寝れば遅いぐらいだった。秋は脱穀などがあるため多少遅かったが、雪が降るともっと早く横になった。

... 田畑
 野原家の田畑は数か所に分散しており、家との往復が半日がかりの場所もあった。
 現在の主屋が建っている場所は元は田んぼだった。遠いところでは、道を下って利賀川へ降りた場所と、川を渡った向こう岸にもあった。
 畑は主屋の上のほか、新楢尾トンネルの手前と、中学校(現在は教育複合施設アーバス)周辺の傾斜地にあった。中学校のそばの畑は昭和33年ごろ(1958)開拓し、田んぼにした。それまでは自家用の米も不足していたが、この田が出来てから収穫量が増え、子どもが少なくなったこともあって供出できるようになったという。

... 田起こし
 雪が遅くまで残るため、苗代を作る場所には灰を撒き、雪を溶かした。他は自然に溶けるまで放っておいた。
 野原家ではすべて人の手で田起こしをした。家によっては農繁期に馬を借り、耕作に使っていたが、野原家の田畑は何か所にも分散していたため、人の手でやる方が早かった。芳忠さんが鋤を押さえ、禮二さんと忠治さん・よりまさんがそれを引き、そうしてすべての田を起こしたという。

... 肥料
 肥料は下肥や堆肥が中心で、化学肥料はあまり使わなかった。
 春になると便所から下肥を汲み取って畑に運ぶ。これは女性の仕事だった。コエオケは丈が高く、テンビンボウで担ぐにはコツが必要だった。小便も畑などに撒いていた。ウマヤの床にはワラを敷き、牛に踏ませる。これも外に積んでおき、春先に田畑へ運んで肥料にした。

... 刈り入れ
 刈り取ったばかりの稲は、乾燥させたものと異なり、かなり重い。川のそばの田で稲刈りをすると、これを背負って悪い道を上がらねばならないため大変だった。こうした仕事も、男手がなければ女がやった。

... 脱穀
 イネコキは夜の仕事だった。デエの外のロウカ(縁側)にイネコキ(足踏み脱穀機)を据え、ひと束ずつ扱いでいく。忠治さんが家にいなかったため、イネコキを踏むのは禮二さんかよりまさんの仕事だった。
 大豆の脱穀にもイネコキを使った。しかし、大豆をイネコキにかけると「バシバシ」飛んでしまったという。

..(3)養蚕
 野原家では昭和31年(1956)ごろまで養蚕を行っていた。
 野原家で作業に使っていたのはデエだが、周囲の家ではアマ(2階)でやることが多かった(注6)。

..(4)畜産
 主屋のウマヤで出荷用の肉牛を飼っていた。荷物の運搬に使うことはなかったが、美恵子さんは田んぼの手伝いをさせたことを覚えているという。
 禮二さんが子どものころ、飼っていた牛が針か何かを飲んでしまったことがあった。危篤状態になり、親戚の人に言われて、8〜10kmほども離れた山奥の炭焼き場まで父親を呼びに行くことになった。すでに夕方で、しかも土砂降りの雨だった。しかし、雨だから嫌だとも言えず、兄の芳忠さんと二人泣きながら迎えに走った。しかし、忠治さんが家に着いたときはすでに間に合わず、死んだ牛を鍋にして皆で囲んでいる最中だった。禮二さんはさすがに食べることが出来なかったという。

..(5)炭焼き
... 概況
 野原家では昭和37年(1962)ごろまで出荷用に炭焼きを行っていた。地面に着いた部分を「アシ」と呼ぶが、自家用にはこうした商品にならないものだけを使った。
 ムラには炭焼きの親方がいた。年によって入れ替わることはあったが、力のある家がなるため、代々親方を務めることが多かった。
 炭を焼く場所を決めるのは親方の役目だった。場所が決まるとそこに2、3軒、時によっては10軒くらいが一緒に入ることもあった。焼き上がった炭も親方に納めた。

... 炭焼き
 昭和35年(1960)ごろは毎年場所を変えながら、ほとんど近場で済ますようになっていた。それでも、スミゴヤまでは近いところで4里ほどの距離があり、近所の山の上で焼いていたときも泊り込みだった。
 炭焼きの季節は春先から秋までである。5月の連休ごろは炭窯作りで忙しかった。炭窯を作るときはまず、下地に木を並べる。その上に粘土を盛り、これを「ひっぱたいて」固めていく。焼く場所が毎年変わるため、毎年作ることになった。
 炭の原木を運ぶときは水を利用した。沢に水を溜め、いっぱいになったところで原木を一緒に落とすのである。そうすると下まで運ぶことができた。
 炭焼きをはじめると、スミヤマに数日泊り込むことになった。4、5日、長いときは1週間以上になり、下りるのは焼き上がった炭を下ろすときぐらいだった。忠治さんは泊りきりでほとんど帰ってこなかった。母親のよりまさんも付いて行ったため、炭焼きのあいだは家にいるのはおばあさんだけということが多かった。

... 手伝い
 子どもたちも小学校に上がる前から手伝いに行った。山を2つ3つ越えてかなり遠くまで行くこともあり、美恵子さんはヘビが出るのではないかととても怖かったという。
 小学校4、5年ごろ、禮二さんと兄の芳忠さんが炭焼き小屋に行くと、忠治さんが飯の用意をしろと言った。そこで米を1升炊いたが、2人で全部食べてしまい、置いてあった焼酎も1升全部飲んでしまった。その後、急に怒られるのが怖くなり逃げ帰ったところ、夜中になって忠治さんが山から帰ってきた。食べ物も酒も無かったからである。しかし、いつも炭焼きの手伝いをしていたためか、このときを含め忠治さんが息子たちを叱ることはあまりなかった。ただ、炭窯の火の点き具合が悪かったりすると、イロリばたに座って飲みながら文句を言うことがあったという。そういうときは皆、奥へ引いてしまった。

... 運搬
 焼き上がった炭は炭俵に入れた。炭俵の材料はカヤだが、このカヤは太くて丈が高く、屋根に用いるものとは種類が異なっていた。そのため、屋根用のカヤバとは別に、炭俵用のカヤを採るための山があった。毎年、刈り入れたカヤを家に運び、炭俵を編んだ。冬はこうした作業が多かった。
 炭俵の運び出しは子どもたちも手伝った。重さは1俵約15kgで、これを禮二さんは3、4俵一度に担いだ。担ぐときは縄を掛けて直接背負い、背負子は使わなかった。女性の美恵子さんも手伝ったが、背負うときにはテコ(手籠)を使ったという。

..(6)建築業
 忠治さんは炭焼きの作業を11月か12月ごろ終えると、翌春再び炭焼きが始まるまで建築の仕事をしていた。本職の大工ではなかったが、図面を引くところから行った。現在野原家周辺に建っている新築の家の多くは忠治さんの設計によるものだという。
 禮二さん兄弟も小学生か中学生ぐらいから手伝いに行った。芳忠さんは柱に穴を開けたりするのが上手だったという。

..(7)林業
 野原家には山林があり、植林から行っていた。当時の国の政策で、炭焼きで伐採したあともすべて杉を植えた。手入れも自分たちで行い、年に何回かは下刈りを行っていた。

..(8)運搬業
 禮二さんの祖父か曾祖父ぐらいの代に、馬を使って運搬業をやっていた。馬で井波(南砺市)まで往き来していたという。

..(9)手細工
 冬場はワラシゴトを行った。縄綯いから始め、子どもでもワラグツまで作る。最初に稲ワラを打つのが大変な作業だった。
 竹が少なかったため、竹細工はあまりやらなかった。
 木の蔓を使ったカゴなどはよく作った。

..(10)周辺の生業
... 煙硝作り
 野原家で煙硝を作っていたという話は残っていない。隣の平では作っていたが、野原家の集落では明治のころ数軒が作っていただけで、昭和に入ってからはやる家が無かったという(注6)(注12)。

... 紙漉き
 野原家ではやっていなかったが、家によっては紙漉きをしていた。

... 熊捕り
 野原家にはライフルがなかったためやらなかったが、家によっては熊捕りをしていた。
 禮二さんの妻・孝子さん(上百瀬出身)の父は熊捕りの名人で、年に何頭も仕留めていた。猟期は3月終わりから4月いっぱい、すなわち雪解けの時期である。
 熊の胆は薬として珍重された。取り出した胆嚢を乾燥させたもので、囲炉裏のそばにぶら下げながら途中でつぶし、形を整えていく。ごくわずかで効き目があるため(39頁参照)、1つあれば一生もの以上といわれ、1頭分70〜100万円で取り引きされた。このほか、肉は食べ、皮も敷物にしたため、熊は捨てるところがなかったという。

.4 地域社会
... 概況
 野原家のある利賀集落はウエムラとシタムラに分かれ、それぞれがまた5、6軒ほどからなるクミ(組)に分かれていた。野原家の入っているのはウエムラである。クミは近所の家同士代々続いているもので、何かあると互いに駆けつけることになっていた。多いときには1軒から何人も呼び出されることがあったという。クミ長は1年交代のマワリ(回り持ち)だった。

... ヨリアイ
 ヨリアイは寺で行われた。開かれるのは正月・彼岸・10月の中ごろなどで、正月の3日や7日に行うものを「ハツヨリアイ」(新年会)と言った。
 野原家でヨリアイがあるときは、デエとザシキをつなげ、お膳を出して振舞った。

... ソウゴト
 クミで行う作業のことを「ソウゴト」(総事)という。家の普請や葬式の手伝い、草刈りなどである。コンクリートで水路を造るような土木作業も行った。こうした仕事を、禮二さんは中学生くらいから手伝ったという。

... 青年団
 人口が多かった昭和30年代は青年団活動も盛んだった。喫茶店などはなかったため、農協や役場を拠点に集まり、一年を通して活動した。夏は旅行やキャンプ・ダンス・盆踊りなど、冬はスキー大会や演芸会を行った。演芸会は1月に地区ごとに開かれ、隠し芸や歌劇、踊りなどをやった。冬が長く娯楽が少なかったため、若者は楽しみにしていたという。

.5 交通交易
..(1)交通
... 道
 利賀に至る道は急坂で、車で登る場合もトップでは上がれなかった。トップでは負担がかかり過ぎ、エンジンが故障してしまうのである。街灯もない真っ暗な道で、夜走っていると必ずタヌキが出てきた。
 徒歩で登らなければならなかった時代はもっと大変だった。

... 自転車
 昭和30年(1955)ごろ、中学校に自転車が入った。就職で村を出たとき必要だということで、学校が1台練習用に購入したのである。そのころは、自転車に乗っているのは郵便屋くらいのものだった。郵便屋も自転車で通りづらいところは歩いて配達していた。

... 運搬
 物を運ぶときは縄で背負うことが多かった。背負子も使った。工事の人たちは今でも背負子を使う。

..(2)交易
... 行商
 店がなかったため日用品は行商から買っていた。いろいろな行商が車で来ていて、中には洋服屋などもいた。値段が割高だったが、買わなければ仕方なかった。
 富山の薬売りは3か月から半年に1回まわってきた。野原家には7、8軒の店が来ていたが、現在は1軒だけになっている。
 行商はムラの知り合いの家に泊まっていた。

... 物々交換
 秋にリンゴの行商が来ると、家で打ったソバと交換することがあった。
 戦後はマチの人が着物などを持ってきて、食べ物と交換していった。

... ボッカ
 マチまで買出しに出て荷を担いでくることを「ボッカ」と言った。冬になると何も無くなるため、数軒の家から代表が出て、マチの店まで行き、品物を担いでくるのである。魚も粕漬けや干物など日持ちするものではあったが、これでやっと食べることができた。道のりは往復7〜10時間ほどだった。美恵子さんも中学生のころ行ったことがあったが、このときは吹雪になり大変だったという。
 その後、利賀にも店が出来たが、冬場、物が無いのは同じだった。八尾から栃折峠までバスが通ると、そこまで車で青物・魚などの食料品を上げ、そこから利賀までを店の人たちが担いでくるようになった。こうしたことが冬はずっと続いていた。

.6 年中行事
... 概況
 冬のあいだは行事が多かった。禮二さんはあまり記憶してないというが、かつては暦でさまざまなことが決まっていた。今日は何の日だから何してこいと、子どもたちも皆やらされていたという。

... 正月準備
 日取りは決まっていなかったが大掃除をした。障子も暮れに張り替えた。
 正月飾りは無かった。門松も作らず、用意するのは神棚に飾るオシキミ(樒)ぐらいだった。オシキミは正月のほか毎月17日にも取り替えることになっており、そのたびに山から採ってきた。
 なお、餅搗きの日は決まっていた。

... 大晦日
 大晦日には興真寺にお詣りに行った。厄年の人は鐘を撞いた。

... 正月
 正月には何かひとつ、新しいものを身に着けるものだといわれた。また、元旦は買い物をしてはいけないともいわれた。元旦に金を使うと、一年中金を使うことになるからだという。2日からは買い物をしてよかった。
 雑煮は醤油仕立てで、具はネギだけだった。餅のほか、正月必ず食べたのが煮物とブリである(注13)。美恵子さんは横浜へ出てきたときも、実家へ何を送ろうかと考え、ブリにしたことがあったという。かつては暮れに一尾ブリを買い、雪の中へ放り込んでおいて食べるときに焼いた。なお、屠蘇を飲むのは家の当主ぐらいだった。
 新年の挨拶として、昔は親戚同士家をまわっていた。

... 小正月
 柿の枝の股に汁粉と餅を付け、唱えごとをして拝む豊作祈願の行事があった(注14)。
 そのほか、ワラを打つ木槌に紐を付け、ゴロゴロ引っ張る行事があった。モグラ除けではないかという。

... 初午
 初午は火の用心とマユ(養蚕)の豊作を祈願する行事で、現在も行われている。ただし、この行事を行ってきたのは野原家のあるウエムラとその下のシタムラだけである。
 子どもの行事だが、禮二さんの時代は子どもが多かったため、参加できるのは小学2年生から6年生までだった。

... 節句
 五月の節句には神棚にデク(人形)や鯛の置き物などを飾り、お祝いをした。デクは日ごろから飾ってあったもののほか、クラにしまってあるものも出した。初節句にも新しく買うということはなく、昔からあるものを飾るだけだった。鎧兜や鯉幟などは無かった。菖蒲湯に入ることはあったが、それも数年に一度くらいだった。
 女の節句はなかった。雛人形なども飾らなかった。

... 彼岸
 3月の彼岸にヒマツリがあった。これはオヒサマ(火)の祭りで、オミヤサン(神明宮)にお詣りに行った。

... 祭り
 オミヤサン(神明宮)の祭りは、春祭りが5月、ギオン(祗園)が7月、秋祭りが9月である。日程は遠くに行っている人も参加しやすいよう変更された。たとえば春祭りは、5月1日から14日まで、各集落ごとに順に行っていたが、現在は3日から5日までに統一されている。
 5月の春祭りにはオシシ(獅子舞)が1匹出る。中に10人が入る大きなものである。住民が多かったころはこのオシシに参加できるのは長男のみで、次男以下はせいぜい道具持ちだった。かつては1軒ずつまわったが、現在訪れるのはヤドの家のみである。ヤドは、全戸が参加する「御宿順番表」に従い、2戸が決められる。当日、ヤドではオシシをもてなし、クミの人や観光客も立ち混じって飲み食いをする。
 美恵子さんは子どものころ、100円もらって縁日で買い物するのが楽しみだった。食べ物を買おうと思っていたのに財布を買ってしまい、小遣いがなくなってしまったこともあったという。

... 盆
 お盆は8月である。先祖の霊を迎えられるよう、13日に仏壇の掃除をする。しかし盆棚や特別な供え物は無く、迎え火も焚かなかった。
 浄土真宗の家ではお盆に法事をする家が多い。オテラサンを呼んでお経を上げてもらうほか、寺の方でも昼と夜にお経を上げてもらう。
 15日の朝、子どもも含め、全員で仏壇にお参りする。また、裏の共同墓地の墓にもお参りに行く。この日の夜は盆踊りが行われた。

.7 人生儀礼
..(1)婚礼
... 結納
 芳忠さんと正子さんは昭和40年(1965)に結婚した。当時、結納のおり婿側から来るのは仲人だけで、親は来なかった。結納金と昆布などの結納品のほか、正子さんの両親や兄弟への土産を持参していたが、今に比べて質素なものだった。

... 結婚式
 式当日は知り合いに花嫁衣装の着付けをしてもらい、まず実家で席を設けた。この席につくのは、嫁側の親戚と、婿側から迎えに来た人々である。
 家を出るときは親に挨拶する。親戚も含め、村の人たちがみな見送りに来る。それから嫁入り道具を車に積み、婚家に向かった。車といっても、当時乗用車は少なかったため、建設現場のトラックである。その助手席に花嫁は衣装を着たまま乗った。式は11月だった。すでに初雪が降り、山の上はかなり積もっていたが、新楢尾トンネルはまだなく、仲人・親戚・兄弟など12、3人とともに峠を越えた。
 到着して嫁入り道具を納めると、昼ぐらいから三三九度を行う(注15)。それから両家で挨拶を交わし、記念写真を撮る。このときは現在の主屋がすでに完成しており、一連の行事はすべてその中で行われた。
 披露宴は三三九度とは別の部屋の仏壇の前で行う。本膳・二膳・三膳と出るが、花嫁花婿はこの席には座らない。花婿は酒の燗をする「お燗番」である。この披露宴は夜まで行われ、出席した人はそのまま泊まった。ただし、宴席が数日にわたることはなかった。なお、披露宴は長男のときは盛大に行うが、次男以下の場合は近い親戚だけで行う。その差は今でもあり、出席すればすぐわかるという。

... 式のあと
 披露宴の翌日新婚旅行に行った。帰ってくると、披露宴に出た人たちがまだ泊まっていた。宴席の片付けなども、帰ってから自分たちでやった。
 正子さんが嫁いだ当時は挨拶回りをすることはなかったが、その後やるようになったという。

..(2)産育
... 出産
 利賀ではマチでお産する人はいなかった(注16)。難産で亡くなる人もいたが、安産祈願などをすることはなかった。
 妊婦はお産の前日まで働く。おかしいなと思うと、夜中でもムラのおばあさん(注17)を呼んで取り上げてもらった。一時、岩越ワカさんという産婆がいたが、それ以外は経験のあるおばあさんたちが頼りだった。
 野原家では出産にナンドの奥の部屋を使った。床に上に古いゴザを敷き、梁から紐をたらす。妊婦はこの紐につかまり、座って産んだ(注18)。お産のとき、子どもはこの部屋には入らせなかった。

... 産後の行事
 子どもが生まれるとすぐ、隣近所や親戚からお祝いに米の団子が届く。「丸く元気に育つように」という意味がある。こうしたお祝いは長男のときだけで、次男以下と女子のときは何もやらなかった。長男の嫁は必ず男の子を産まなくてはならなかったという。
 お七夜・初節句・七五三などはなかった。

..(3)厄年・還暦
 33歳のヤクは、オミヤサン(神明宮)に酒を1本奉納するぐらいだった。
 42歳のヤクはイワイとして扱い、周囲の人々を集めてドンちゃん騒ぎする。還暦も同じである。なお、こうしたことは、ムラを出た禮二さんは何もやらなかったという。

..(4)葬儀
... 連絡
 人が亡くなると、「誰々が死んだから参って下さい」とムラ全体に知らせに出る。この役を「ヨビショ」という。

... 手伝い
 葬式の準備は、ソウゴトとしてクミで行う。誰が何をするか決まっており、お通夜の前に集まって始まるまでに片付けなどもすべて済ます。
 葬式のとき祭壇に飾る花はクミの男たちのみで作る。材料は色付きの和紙である(注19)。

... 通夜
 亡くなった人はデエに寝かせる。そしてお通夜をするとき棺桶に入れ、ザシキへ移した。棺桶は丸い座棺で、両手は合掌させた。
 お通夜には本当の身内だけが集まった。

... 葬式
 翌日の葬式にはオテラサンを呼んでお経をあげてもらう。
 ザシキの祭壇には、クミの男たちが作った紙の花を竹に刺して飾る。その下に団子を盛り、菓子を供える。この団子や菓子はお参りに来てくれた人たちに配る。

... 戒名・位牌
 戒名は「釈○○」と付ける。生前、京都の龍谷山本願寺(西本願寺・浄土真宗本願寺派)へ行き、もらっておくことが多い。この儀式を「オカミソリ」という。これをしないうちに亡くなった場合は、葬式をするときオテラサンに来てもらい、自宅でオカミソリをする。
 位牌は作らない。仏壇の中にも無い。代わりに過去帳に記入する。

... 火葬
 2時か3時に葬式を終え、それから焼き場に運ぶ。野原家の向かいにかつて小学校があり、その裏手、杉林に囲まれた窪地に焼き場があった。
 火葬するときはマキをやぐらのように組み、火をつける。専門の人がいたわけではなく、親戚などがその都度準備し、代表が火を付けた。祭壇に飾った和紙の花もこのとき一緒に焼いた。
 夜、6時か7時ごろに必ず身内が見に行く。行くのは子どもか男性である。このとき遺体の手足が飛び出していたら、それをまた火に入れてこなければならない。これを「クズシ」といった。
 翌朝、骨拾いに行く。骨だけ骨壺に入れ、残った灰はクワで崖の下に落としてしまう。そのため、ここは近寄るのが嫌な場所だった。子どもたちは始終肝試しのようなことをやったが、この場所には誰も行かなかった。
 なお上百瀬では河原で焼き、骨を拾ったあとの灰は川へ流したという。

... 土葬
 土葬から火葬へ移行した時期は不明である。しかし、火葬になってからもある時代までは、5、6月の養蚕時期に亡くなると必ず土葬にしていた。その後こうした習慣はなくなり、昭和20年代には養蚕時期でも火葬にしていた。

... 納骨
 お骨は骨壺に入れて仏壇の前に祀り、四十九日に墓に入れる。

... 墓
 新楢尾トンネルの少し手前に野原家の墓地があった。100坪以上もある広大な場所である。この墓地には先祖代々の墓があった。しかし、この墓に入れるのは火葬にした人(骨壺)だけで、土葬の人は敷地に点々と埋葬していた。土葬の場合は墓石を建てず、河原や山にあるような普通の石を重ねておく。文字が刻んであるわけではないため、どこに誰が埋まっているか、言い伝えが残るだけだった。なお、牛なども死ぬとこの場所へ埋めていた。
 その後昭和47年(1972)に共同墓地ができ、墓を1箇所にまとめた。広い敷地に点々としていたため、さまざまなものが出てきて大変だったという。

... 法事
 法事はお盆に行う。四十二のイワイや還暦のイワイとともに行ってしまうことも多く、300年以上前に亡くなった先祖の法要まで一緒に行うことがある。

.8 信仰
..(1)仏壇・神棚
... 仏壇
 ザシキの襖を開けると仏壇になっていた。禮二さんの母親のよりまさんは水とご飯を朝晩供えていたほか、夜は灯明とお経を上げていた。父親の忠治さんも毎朝お経を上げ、禮二さんはうるさくて寝ていられなかったという。
 移築前には取り払われていたが、元は仏間とザシキのあいだに間仕切りがあった。法事などでオテラサンがまわってきたときはこの襖を閉めて着替えてもらい、その後、仏壇にお経を上げてもらった。こうしたときはお参りの人も集まった。

... 神棚
 仏壇のとなりが神棚である。神棚といっても棚が掛けてあるわけではなく、通常の床の間である。野原家では神棚の存在は薄かったといい、掛軸が掛けてあるほか、デク(人形)がいくつか置いてあるだけだった(注20)。

..(2)寺・神社
... 菩提寺
 野原家の菩提寺は浄土真宗本願寺派(西本願寺)の興真寺である。野原家のある地区はほとんど西本願寺だが、利賀には東本願寺の家もあるという。
 利賀では寺を大切にした。行事に参加することも多く、1か月に1回くらいは必ず寺に行っていた。皆でお経を唱えることを「オキョウサマ」という。このあたりの人は何も見ずに唱えることができた。また、寺で食事することを「オトキ」という。こうしたことも次第に変わり、現在は料理もなくなり、オセッキョウ以外にも仏教に関するDVDを見るだけになった。
 なお、興真寺では毎年、西本願寺に砺波のチューリップを奉納している。このときは行楽も兼ね、数人まとまって2泊ほどで植えに行く。

... 氏神
 オミヤサンは興真寺の上にある。神明宮という名前はあるが、ただ「オミヤサン」と呼んでいた。
 葬式などがあるときは、1年間神社へ行ってはいけないと言われていた。

..(3)講行事
... オコウサマ
 冬になると、クミで毎週興真寺に集まり、オコウサマ(御講様)を行った。当番は1週ごとに交代するため、ひと冬に2、3回まわってきた。準備は朝から行った。米を1合ずつ持ち寄り、当番がご飯を炊いて仏壇に供える。このほか山菜のお煮染めや、豆をすりつぶして作る豆汁などを用意する。このあと皆でオキョウサマを唱え、お昼を食べておひらきとした。冬場の楽しみでもあったが、当番はすべて準備しなければいけないため大変だった。

... オオオコウ
 毎年1月にオオオコウ(大御講)を行った。2つのクミが一緒にやるもので、料理も通常のオコウサマより豪華だった。この当番も順にまわるため、オオコウの当番とオコウサマの当番が両方ぶつかるときもあった。

... ホンコサマ
 毎年9月にホンコサマ(報恩講様)があった(注21)。このときは興真寺の本寺である真光寺(砺波市本町)からお坊さんが来て、各家をまわって歩いた。この日は皆で集まり、酒を飲んだりご馳走を食べたりした。

... ソウギサマ
 毎年9月にソウギサマ(御正忌様)があった。この行事もオオオコウと同じく、2つのクミで一緒に行った。この日は夕方から興真寺に集まり、皆でオキョウサマを唱え、オセッキョウを聞く。これが終わると興真寺のお坊さんと本寺のお坊さんが各家をまわり、その家の仏壇にお参りした。

... ムエン
 ムエン(無縁)は毎年9月だが、その年の寺の都合で10月になることもあった。この日は地域の人全員で興真寺へ行き、オキョウサマを唱え、オセッキョウを聞いた。

..(4)その他
... 宗教者
 城端別院善徳寺(南砺市城端西上、真宗大谷派)や勝興寺(高岡市伏木、浄土真宗本願寺派)などからお坊さんがまわってきた。まわってくると、区長の家や役付きの家をヤドとして丁重に迎える。野原家でヤドを務めたこともある。こうした日は夕方の仕事も早々に引き上げ、ヤドの家に行ってお参りし、お布施をした。その年亡くなった人のいる家にはお経を上げに来てくれた。

... オタイシサマ
 井波別院瑞泉寺(南砺市井波、真宗大谷派)から、毎年オタイシサマが来た。聖徳太子二歳の肖像を写した像で、井波と利賀を往復する農協のトラックに載せ、区長の家に運んでいた。

... 御札
 毎年5月、出雲大社からカミサマの御札を配る人が来ていた。この人は来ると区長の家に泊まり、一軒一軒まわって御札を配って歩いた。こうしたときお腹が大きかったりすると、あなたは今度男の子が生まれるからこんな名前にするといいよ、というようなことも言った。この人はその後来なくなったため、現在は毎年集金して御札を注文し、区長単位で配っている。
 伊勢神宮から御札を配りに来ることはなかった。

... まじない
 禮二さんは小学校に上がる前、ザラメを煮溶かしたナベに手を入れ、火傷したことがあった。このとき、おじいさんに連れられてオテラサンへ行き、「馬」の字を筆で左右反対に書いてもらった。そうすると治るといわれた。

.注
1 「茅場は、なだれが起きやすく、杉の植林に変えられていった。」(『利賀村民俗調査レポート』第1集62頁)
2 「まんさく、おおもみの木の枝を細い方からねじって作る」(『利賀村民俗調査レポート』第1集58頁)
3 「家、建てるにしてでもね、あの、材料を、自分のうちで沢山あれば、そりゃ、沢山あってでも、部落の人からね、木を寄付してもらって」(『利賀村民俗調査レポート』第3集23頁)
4 「『石場』土台石据をして、大安吉日を選び、その石を搗ち据えつける。(中略)最後に搗くのは大黒柱のすわる石で」(『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』140頁)、「下大黒からかち始めて、ぐるっと回って最後に上大黒かちする。この上大黒をかちすることを千秋楽と言う。千秋楽が終った後、利賀村では供え物をして大工が祈とうする。」(『利賀村民俗調査レポート』第1集56頁)
5 解体調査では柱を交換した痕跡はなく、詳細は不明。
6野原奨さんのお話より。
7 デエのイロリはその後取り払われた。
8 「広間にある囲炉裏については、誰がどこに座ってもよかった。」(『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』143頁)
9 ワラグツとユキグツとでは、丈の長さが異なる。
10 「利賀の下村の下に昔、(中略)病人が出ると人の脈見てから判断するだけのお医者さんがおりやった。」(『利賀村民俗調査レポート』第3集69頁)
11 「別の仕事は、鉱山の金掘り、あしゅう(足尾)銅山じゃとか、ひらがね鉱山じゃとか、飛騨のだとか……。三井鉱山じゃとか、そこ行って稼がないと仕事さしてくれるものおらん。」(『利賀村民俗調査レポート』第3集35頁)
12 「昔は床下に穴を掘って草と土とお小水をかけて火薬を作っていた。」(『利賀村民俗調査レポート』第1集57頁)、「土間に穴を掘って、アンモニアをためる、その上に雑草をかけて、土に埋めておくと、煙硝の結晶が草にでき、これを集めたという」(同63頁)
13 「おおみそかの夜ね、その夜になったら、どこの家でもぶり焼いてね、ぶり買わん家はよっぽど貧乏やった。」(『利賀村民俗調査レポート』第3集15頁)
14 「明るくなったら二人以上の子供で成り木の梨、柿、桃などの木に小豆ガイを食べさせに行く。ナタ、ノコギリ、ハサミを持って木へ行き、一人が『どうだ今年は成るか成らぬか。成らなきゃハサミでチョン切るぞ』と言ってハサミの音をさせる。一人が『成ります。成ります』と言う。『そうかそれならお粥をやる』と言って木の枝にすえるといったことをした。」(『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』109頁)
15 「自分たちの寝室で行われた。」(『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』128頁)
16 「嫁に行ったうちで産したもんじゃ。」(『利賀村民俗調査レポート』第3集37頁)とあるように、利賀では実家に帰ることはせず、婚家でお産をしたようである。
17 「生ませばば」(『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』122頁)という言い方をしたという。
18 「部屋の梁からは縄が下がっていた。その縄は普段は枕の位置に持ってきて角灯掛けとして使用し、お産の時には産婦の力綱として使った。」(『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』122頁)
19 「花でもな、色紙で全部作ったものや。自分で花つくるんや。金紙から銀紙やらいろんな色でね、五輪花とかね。小さい子供が死ぬと三輪花いうてね三つの花。中ぐらいが死ぬと五輪花って五つの花、長老とか村長とか偉い人が死ぬと七輪花いうのをそなえた。(中略)男の人だけが花をつくるんや。」(『利賀村民俗調査レポート』第3集19頁)
20 このデクがどのようなものか不明だが、地元の報告には次のようにある。「オオトシ(三十一日)になると(中略)後は神棚や仏壇の掃除をし、毎年買初めでもらってきていた「デク」(土で作った天神様やひな様の人形)を飾り、お供え物をした。」(『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』105頁)
21 「九月はまだ作物の取り入れもなく、家の中は空いている。その間に、年に一度のいろいろな年忌を合わせて報恩講を勤めた。」(『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』118頁)

.参考文献
有馬宏明『利賀村民俗調査レポート』第1集 宝仙学園短期大学 1976年
有馬宏明『利賀村民俗調査レポート』第3集 宝仙学園短期大学 1980年
小坂広志「紀年民具紹介 −川崎市立日本民家園の例−」『物質文化』29号 1978年2月
川崎市『旧野原家住宅修理工事報告書』川崎市 1968年
川島宙次「砺波の民家」『民芸手帖』通巻89号 1965年10月
京井喜代次『私が見た聞いた利賀村の七十年の暦』私家版 1999年
関口欣也『神奈川県指定重要文化財 旧野原家住宅のしおり』日本民家園 1968年
古江亮仁『日本民家園物語』多摩川新聞社 1996年

.図版キャプション
1 移築前の野原家住宅(昭和37年5月撮影)
2 現在の主屋
3 禮二さんと美恵子さん(後ろは移築された野原家住宅)
4 野原家所在地
5 旧住宅跡地(右の屋根は現在の主屋)
6 イシカチ(撮影年不詳、柱の先端に軍配が見える)
7 西側正面入口(昭和40年11月撮影、右端は小便所)
8 南側入口(昭和40年11月撮影、左はウマヤの出入口)
9 ウマヤ(昭和40年11月撮影)
10 水場(昭和40年11月撮影、左下に四角いミズガメ、右手はフロ場)
11 主屋裏側(昭和40年11月撮影、左手に湧水を引く樋が見える)
12 民家園に復原された建築当初の間取り
13 移築前の間取り
14 縁側(撮影年不詳、右から、よりまさん、芳忠さん、一恵さん、禮二さん、よりまさんの妹・しず子さん)
15 主屋南側(昭和40年11月撮影、左は大便所、手前に池が見える)
16 敷地配置図
17 利賀の山なみ
18 脱穀風景(撮影年撮影地不詳、ソバの脱穀か)
19 炭焼小屋(撮影地不詳、昭和37年10月撮影)
20 オシシ(昭和37年5月撮影)
21 宴席風景(撮影年撮影地不詳、披露宴かどうかも不明)
22 共同墓地
23 野原家の仏壇(旧住宅から現在の主屋に移されたもの)
24 興真寺
25 神明宮

 

(『日本民家園収蔵品目録14 旧野原家住宅』2011 所収)