神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷 岩澤家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷の岩澤家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は2期に分けて行った。
 1期目は昭和61年(1986)12月24日・30日、翌62年(1987)1月14日・4月18日、岩澤家の正月飾りと小正月行事、及び生業についてお話をうかがった。担当したのは渡辺美彦(当時当園学芸員)、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  岩澤義家さん   現当主祖父 明治36年(1903)生まれ 平成4年(1992)没
           村内山口家より岩澤家に養子に入る
  岩澤長夫さん   現当主父 昭和7年(1932)生まれ 平成11年(1999)没
 2期目は平成23年(2011)2月2日と5月13日、本書の編集に合わせて行った。
2月2日には、清川村の岩澤家を訪れ、お話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男・畑山拓登・遠山健一朗、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  岩澤裕之さん   現当主 昭和42年(1967)生まれ
  八田百江さん   義家さん長女 昭和14年(1939)生まれ
  八田博志さん   百江さん夫 昭和8年(1933)生まれ
  田中美江子さん  義家さん三女 昭和19年(1944)生まれ
 5月13日には、埼玉県戸田市の石島家を訪れ、お話をうかがった。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話を聞かせていただいた方はつぎのとおりである。
  石島恵美子さん  義家さん次女 昭和17年(1942)生まれ
  石島昭吾さん   恵美子さん夫 昭和17年(1942)生まれ
 なお、お話を伺うことはできなかったが、本文中にお名前の出てくる方やご先祖についても記しておく。
  岩澤保江さん   長夫さん妻 昭和12年(1937)生まれ 昭和59年(1984)没
  岩澤ヒサさん   義家さん妻 明治36年(1903)生まれ 昭和40年(1965)没
  岩澤重助さん   現当主曾祖父 慶応3年(1867)生まれ 昭和8年(1933)没
  岩澤トクさん   重助さん妻 慶応元年(1865)生まれ 明治40年(1907)没
  岩澤長右エ門さん 現当主高祖父 天保元年(1830)生まれ 大正6年(1917)没
  岩澤ツネさん   長右エ門さん妻 天保9年(1838)生まれ 昭和13年(1938)没
4 図版の出処等はつぎのとおりである。
   1、22、28、47        遠山作成。
   2、5、27、43、48、50   平成23年(2011)2月2日、渋谷撮影。
 3              平成23年(2011)5月13日、渋谷撮影。
 4、11、31    昭和62年(1987)4月4日、事前調査時に撮影。
   6、9、10      平成23年(2011)2月2日、畑山撮影。
   7、8            岩澤家提供。撮影年代不明。
   12、14-18、23-25    昭和62年(1987)6月、解体工事前に撮影。
   13、19、26、29、30、32-42    昭和61年(1986)12月30日、渡辺撮影。
   20、21          旧岩澤家住宅移築修理工事報告書』より転載。
   44-46、52     昭和62年(1987)1月14日、渡辺撮影。
   49、51、53   平成23年(2011)2月2日、遠山撮影。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれている。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 愛甲郡清川村は神奈川県の北西部、東丹沢山麓に位置している。総面積71.29k㎡、うち93%は山林である。
 岩澤家のある煤ヶ谷の集落は、相模川の支流、小鮎川の作る谷沿いに広がっている。小田急線本厚木駅からバスで40分ほどの場所だが、周囲には山が迫り、山里の感が深い。岩澤家はこの土地で名主も務めた家柄である。近世期より稲作畑作のほか、炭焼きや養蚕などを生業としてきた。
 今回お話をうかがった八田百江さん・石島恵美子さん・田中美江子さんは、移築時の当主義家さんの娘である。3人とも昭和10年代に生まれ、30年代から40年代ごろまで旧住宅で生活した。もう1人、義家さんの孫に当たる現当主裕之さんは、昭和40年代に生まれ、昭和62年(1987)の移築を見届けた。この稿ではこの4人からの聞き取りを中心に、それ以前の調査記録も合わせ、岩澤家の暮らしについて記述していくことにする。したがって、時代的には昭和10年代後半から60年代初めまでの話が中心である。

.1 岩澤家
... 先祖
 岩澤家の先祖がどこから移ってきたか、言い伝えなどは残っていない。残っているのは名主を務めていたという話と、その関係で小田原に年貢を納めに行っていたという話ぐらいである。
 数代前の当主に重助さんという人がいた。この人は豪快に遊ぶ人で、日本中を遊び歩いたほか、家に旅回りの一座を招いて芝居をやらせたりした。また、藤を裂く音を聞きながら酒を飲むという贅沢もしたという。そのため財産を費やし、以後苦労をしたという話が残っている。

... 屋号・家紋・家印
 屋号は「オキ」という。「オキ」とは「奥」のことで、一番奥の家という意味である。
 家紋は「横木瓜(ヨコモッコウ)」(図版5)、家印は「ヤマジュウ」(図版6)である。ヤマジュウには、山印の下に「十」と書くものと、「重」と書くものがあった。家にはこの家印の焼印があり、何にでも押していた。

... 本家分家
 岩澤家は本家である。ただし兄弟が少なかったため、分家のようなものはあまりなかった。

... 家族
 百江さんは5人兄弟だった。子どものころはこの5人のほか、両親祖父母、計9人が岩澤家で暮らしていた。
 百江さんの曾祖母にあたるツネさんはとても長生きで、101歳まで生きた(天保9〜昭和13)。家には天皇から下賜されたお祝いの赤いチャンチャンコがあった。なお、百江さんの「百」はこの人の長寿にあやかって付けられたものである。

.2 衣食住
..(1)住
... ジョウグチ
 道に面した擁壁は、コンクリートブロックにする前は高さ1mほどの石垣だった。岩澤家を含め、周辺には石垣が多かった。石垣職人がいたわけではなく、自分たちで積んだものである。
 道から屋敷に入る正面の入口を「ジョウグチ」、裏の入口を「ウラックチ」とか「ケイド」といった。
 ジョウグチは元は神社のような石段だったが(図版7)、車を乗り入れるようになってコンクリートのスロープに改造した(図版8・9)。

... 敷地
 土地は1町歩あった。裏山も岩澤家の持ち山である。現在は手入れをしていないため竹藪のようになっているが、もともとは茶畑で、その上の植林した杉林も含め岩澤家のものである。草刈りが大変だった。
 主屋の周囲にはさまざまな木があった。入口に迎えの松のような形状で立つ木は、モチノキである。「百年経つと地に着く」という言い伝えがある。
 裏にある大木も同じくモチノキである(図版10)。この木は岩澤家のご神木のような存在で、義家さんも「これだけは切らない」と言っていたという。
 このほか、福みかんという小さな実を付ける蜜柑の木や、栗、杏、それから、梅の大木などがあった。この梅の実は梅干しにしていた。
 岩澤家の主屋はこの土地に、元は東を向き、谷を見下ろすように立っていた。これを明治期になってから、家相図により90度、家を引きずって南に向きを変えたという(注1)。

... 水利
 井戸はなかった。周辺には1軒だけ井戸のある家があったが、他の家は岩澤家も含め、川まで水を汲みに行った。山から引く家もあった。
 水汲みは子どもの仕事だった。子どもたちは交代で、毎朝一番に川に水を汲みに行く。学校から帰るとまた交代で汲みに行く。フロの水も子どもが運んだ。運搬にはテンビンを使った。川のところにまず石段があり、少し来ると岩澤家のジョウグチだが、この場所が滑りやすかった。とても大変な仕事だったという。水はオカッテのミズガメに入れ、飲むのも洗い物にもこれを使った。カメをいっぱいにするためには、何往復かしなければならなかった。雨が降ると、川の水が濁る前に飲み水を確保しなければならないため、忙しかった。
 川にはそれぞれ家ごとに洗い場があった。川岸を石で区切って少し低くしてあり、ひざがつけるようになっていた。
 昭和40年代の初めごろ、養鶏に必要だということで山の水路から水を引くようになり、川へ行くことはなくなった。水は石造りのタンクのようなものに貯めていた。

... 屋根
 屋根の葺き替えは、「今年はこの家がやったので次はあの家で」というように順番に行っていた。村には屋根屋が2人いて、この職人を中心に、近所の人が協力して葺き替えていた。このほか部分的に傷んだ場合には、ムギワラを使い、自分たちで継ぎ足したり叩いたりして修理していた。
 屋根の材料はカヤである。共有の山に共同のカヤノがあり、秋に刈り入れをして乾燥させた。葺き替えは乾燥させてから行うため、春先が多かった。カヤの運搬にはヤセンマ(背負い梯子)を使う。カヤは長いため、背負うのは慣れないと難しかった。なお、カヤノのあったこの共有の山は、茅葺屋根の家が減ったあと売ってしまい、売り上げを皆で分けた。
 屋根の棟には煙出しがあった(図版11)。雨漏りすることはなかった。

... 壁
 主屋の東側の土壁は荒れて崩れていた。土壁を自分たちで修理することはなかった。

... 出入口
 入口右手は、荒壁の上に黒い板が張ってあった(図版12)。これは関東大震災の際、手伝いに行ってもらった蔵の囲いを再利用したものである。
 入口にはとても重い大きな戸があり、「オオト」と呼んでいた。ガラス戸が入る前は、朝起きるとまずオオトを開け、日中は開け放し、暗くなると閉ざして出入りには小さなくぐり戸を使った。くぐり戸については、岩澤家では特に呼び名はなかった。
 当初復原された住宅には正面にしか出入口がないが、移築前は裏口があった(図版13)。

... デイドコロ
 主屋に入ると土間になっており、ここを「デイドコロ」といった。右手の壁際は物置き場所になっており、米俵が積まれていた(図版14)。
 ワラ打ちのための石もここにあり、タワラ作りなども行っていた。ワラ打ちはこの場所のほか、主屋裏手のモノオキでもやっていた。
 土間はある程度湿り気があった方がよい。ほこりが出るからである。乾燥したときのほか、毎朝の掃除の折りに水を撒き、そのあとホウキを使っていた。

... イロリ
 イロリはデイドコロとイタノマにあった。
デイドコロのイロリは昭和10年(1935)前後に設けられたもので、元はイタノマに接する場所にあった。この場所にあった時代は、食事にはこちらのイロリを使い、イタノマのイロリはあまり使わなかった。板敷きでまわりにゴザが敷いてあった。
その後、このイロリを東の壁際に移すと(図版15)、食事にはイタノマのイロリを使うようになった。デイドコロのイロリは、野良仕事から帰ったときに暖をとったり、よその人が来たとき話をしたりするのに使い、お湯を沸かしてお茶を飲んだりした。
 イロリには炭火が埋めてあり、必要なときに種火を取り出して使った。夜も炭火にして灰をかけて眠った。ナベで調理するときはイロリを使う。調理するときは炭ではなく、モシキ(薪)を使った。

... オカッテ
 デイドコロの奥を「オカッテ」と呼んでいた(図版16)。この場所は土間ではなく、裏口付近以外は板張りになっていた。
 オカッテにはナガシとミズガメ、カマドがあり、引き戸のついた大きな戸棚もあった。ここには塩辛やドブロクなど、さまざまなものが収納されていた。

... カマド
 カマドは家の中に2つ、外に1つあり、それぞれ使い分けていた。
 家の中はオカッテのほか、デイドコロにあった。デイドコロの壁際のイロリは、元はイタノマに接する形で設けられていたが、カマドはその脇に作られていた。外のカマドを使うようになる前は、ここで味噌の仕込み用の大豆を煮ていた。
 外のカマドは、裏口近くに立つモチノキの大木の下にあった。土でできた大きなカマドで、餅搗きや味噌の仕込み、お茶の葉を蒸すときなど、量が多いものに使っていた。

... ミソベヤ
 オカッテ右の小部屋を「ミソベヤ」といった(図版17)。昭和23年(1948)か24年(1949)に作られたものである。 ミソベヤでは味噌や醤油を仕込み、漬物を漬けていた。村の人も味噌を造りに来た。下は土間になっており、タルは直に置くと腐ってしまうため、石を置いてその上に据えていた。なお、この部屋ができる前は、漬物はデイドコロで漬けていた。
 ミソベヤは湿気がひどく、発酵物を置いていたため独特の臭いがあった。しかも常に薄暗かったため、子どもにとっては入るのがいやな場所だった。

... アガリハナ
 デイドコロから床上部分への上がり口を「アガリハナ」といった。もともと上がり段はなく、あとから作られたものである。ケヤキの分厚いもので、よくみがいていたため黒光りしていた。
その後、下を改造して物入れにし、ここに靴などを入れていた。

... イタノマ
 イロリのある部屋を「イタノマ」と呼んでいた(図版18)。中央に数センチの段差があり、イロリのある低い場所と、それのない高い場所と2つの空間に仕切られていた。呼び名のとおり板敷きで、イロリのある方にだけゴザが敷かれていた。
 イタノマには天井がなく、この部屋で寝ると布団の上にムカデが落ちてきたりした。
ドブロク造りもイタノマで行った。
 イタノマにはホトケサマ(仏壇)があった。その横には出入口があり、出入りできるようになっていた。
 イタノマとザシキの境には腰付障子が入っていた。障子は、裕之さんの育った時代は毎年暮れに張り替えていたが、百江さんの時代は破れなければ張り替えなかったという。

... ザシキ
 オオトを入ってすぐ左の部屋を「ザシキ」と呼んでいた。畳敷きで、子どもはみなこの部屋で寝ていた。おじいさんがオクで寝起きしていたころは、義家さんヒサさん夫妻もこの部屋で寝ていた。
 ザシキには神棚があった。小正月のマユダマ、オヒナサマ、盆棚を飾るのもこの部屋だった。オカイコやお産にもこの部屋が使われた。
 この部屋には天井板が張ってあった。張ったのは関東大震災のころである。

... ダイコクバシラ
 デイドコロとザシキのあいだに3本の太い柱があった。このうちザシキとイタノマの境にあるものを「ダイコクバシラ」と呼んでいた。ダイコクバシラは毎朝雑巾でみがいたため、いつも「ピカピカ」だった。

... オク
 トコノマのある部屋を「オク」と呼んでいた。百江さんが子どものころは通常はおじいさんの寝部屋になっており、入れなかった。その後、おじいさんが亡くなると、義家さんヒサさん夫妻がザシキからこの部屋に移った。タンスはこの部屋に置いてあった。結婚式や葬式に使われたのもこの場所である。ザシキとともに、この部屋にも天井板が張ってあった。
 トコノマにはいつも掛軸がかかっていた(図版19)。掛軸はいろいろあり、中には立派なものもあった。ときおり掛け替えていたが、他の家も含め、鳥の絵が多かった。美江子さんは子どものころ、掛軸に筆でいたずら書きをしてひどく叱られたという。
 トコノマの脇は押し入れになっていた。ここには着物のたくさん入った長持がしまってあった。
 なお、納戸との境はフスマだった。

... 納戸
 一般に納戸と呼ばれる西側奥の部屋は、岩澤家では特に呼び名はなかった。床は畳敷きで、天井は竹簀子だった。長夫さんが結婚するとき改築して新婚夫婦の部屋として使うようになったが、それ以前は物置として使われ、寝起きする人はいなかった。
 その後、子どもたちがこの部屋を使うようになった。裕之さんたちは兄弟男3人で2段ベットで眠っていた。
 この部屋には物入れと押入れがあった。押入れには布団などが、物入れには木箱に入った客用の膳椀がしまってあった(図版23)。

... エンガワ
 民家園の岩澤家住宅に廊下はない。これは移築にあたって建築当初の姿に復原したためである。しかし移築前には庭に面して広い廊下が設けられ、岩澤家ではこれを「エンガワ」と呼んでいた。
 このエンガワは2回に分けて増築されている。
 当初のエンガワはオクに面した部分のみだった。美しいケヤキ板で、子どもたちが朝晩みがき、顔が映るほど光っていたという。来客や行事のおりには、このエンガワからオクに直接出入りしていた。エンガワの突き当たりには物入れがあった。上下2段で、手前に開く扉がついていた。なお岩澤家ではかつて、このエンガワを舞台に、庭を客席にして芝居をやったことがあった。百江さんも実際に見てはいないが、そういう話が伝わっていたという。
 その後、このエンガワの前に、ザシキからオクまで長い廊下が作られた(図版24)。このエンガワも、作られたのは百江さんが生まれた昭和14年(1939)以前のことである。
 エンガワの外側には雨戸があり、夏のあいだも夜は閉めていた。開け閉めは子どもたちの仕事だった。

... テンブクロ
 屋根裏への上がり口はデイドコロ側にあった(図版25)。黒い棚のようなものがあり、これを「テンブクロ」といった。三畳ほどの広さのあるしっかりしたもので、ジャガイモやタマネギなど野菜の保管場所になっていた。上がるときはハシゴを掛ける。ハシゴは、オオトを入ってすぐ右手の壁にいつも立て掛けてあった。

... 屋根裏
 屋根裏は竹簀子の床になっており、とても広かった。古くは養蚕にも使ったという話が残っているが、百江さんたちにその経験はない。納屋はいくつもあったので、この場所を物置として使うこともなかった。屋根裏は真っ暗で、大きなヘビやネズミもいたため怖くて上がれなかった。また煤がひどく、毎年1回、暮れにススハライをしていた。

... 縁の下
 床が高かったため、子どもたちは縁の下に入ってよく遊んだ。追いかけっこもできたという。

... ベンジョ
 元のベンジョは主屋の裏手にあった。大小別で、屋根はトタンだった。汲み取り式で下に桶が埋めてあり、畑の肥やしにしていた。尻を拭くのに使っていたのは新聞紙である。
 その後、モノオキを作るとき、この建物の中にベンジョとフロを作った(図版26)。
 主屋の中に増築したのは、昭和39年(1964)ごろである。ヒサさんが体を悪くし、外まで行くのが大変なため、エンガワの突き当たりを改造した。

... オフロ
 オフロは主屋の裏手にあった。石垣から差し掛けるようにトタンの屋根があったが、正面に目隠しがあるだけで壁はなかった。浴槽は古い木の桶だった。この脇に洗い場として、直径50㎝ほどの石が置いてあった。風呂のお湯で洗うため、1人入るとお湯がなくなってしまう。そうすると、そのたびにバケツで水を汲み入れ、また火をつけた。燃料はマキで、焚くのも子どもの役目である。川の水を使うため、熱いときに水が足りないと大変だった。冬、雪が降ると、子どもたちは雪を入れてお湯を冷ましたりした。
 オフロは雨が降っても毎日入ったが、壁がないため冬はよほど熱くしないと寒かった。まず入るのは主人で、次が長男である。身体を洗うのに使っていたのは洗濯用と同じ洗濯石鹸で、シャンプーがなかったため、髪は半透明のもの(布海苔か)で洗った。
 その後、現在もあるモノオキを作るとき、この建物の中にベンジョとオフロを作った(図版26)。五右衛門風呂で、下で火を焚き、板を沈めて入った(図版27)。
 夜になると家の外は外灯もなく真っ暗だった。百江さんはオフロに入りに行くのも恐ろしく、走って行ったという。

... 蔵
 米がそれほどとれなかったため蔵はなかった。岩澤家周辺で蔵があるのは1軒、金持ちのオダイジンサンの家だけだった。

... オチャゴヤ
 オオトの手前右手にオチャゴヤ(お茶小屋)があった。中に焙炉があり、年に一度、お茶を作るときに使っていた。

... モノオキ
 モノオキが数か所あった。
 オオトの右手、主屋の東面に小さくて細長いモノオキがあった。出入口はオオト側にあった。ミソベヤとして使われた時代もあったようだが、詳細は不明である。その後は大したものは置いていなかった。
 主屋の前にもモノオキがあった。このモノオキの一部は、後に車庫にした。
 主屋のすぐ裏のモノオキには、オフロとベンジョが設けられている。この建物ができる前には、この場所にナヤがあった。ここには稲を掛ける竹竿や丸太、農機具などが入っていた。
 主屋裏手のモノオキには米と農機具が保管されていた(図版29)。米は穀櫃で保管していた。穀櫃は数本あったが、5本あると出荷分が残った。出荷は農協にしていた。農機具はクワや牛に挽かせるスキなど、そのほかタライなど古い道具類、屋根修理用のムギワラもこのモノオキに保管していた。

... ナヤ
 ナヤは茅葺きだった。入口の両脇にはマキが山のように積んであった(図版30)。中には漬物のタルが保管されていたほか、ムシロなどがたくさん入れてあった。
 南面には下屋が設けられ、ニワトリが飼われていた。ニワトリは昼間は放し飼いで、高い木の上に止まったりしていた。子どもたちはオスのニワトリに追いかけられるのが怖かったという。

... ウシゴヤ
 主屋の裏手にウシゴヤがあった。牛はこの中で飼い、ヒツジは小屋の脇の下屋で飼っていた。

..(2)食
... 食事・食器
 朝の食事は仕事を終えてからである。主食の中心は麦入りのご飯で、朝はご飯に味噌汁と漬物だったが、夜はうどんが多かった。自給自足で、買ったものはほとんど食べなかった。
 食事は朝、昼、夜とも家族そろってイロリのまわりでとっていた。席の呼び方は特になかったが、デイドコロのイロリがイタノマに接して設けられていた時代は、当主はデイドコロ側、主婦はオカッテ側、長男はイタノマ側、娘は入口側だった。その後、このイロリが東の壁際に移されるとイタノマのイロリを使うようになり、当主は納戸側、長男はザシキ側、女性たちはその他の場所に座るようになった。食膳には各々脚付のお膳を使い、食後はご飯茶碗でお茶を済ませてそのまま置いておいた。
 来客用の食器は納戸の物入れにしまってあった。ジョウカイ(寄り合い)などで使う蓋付きの良いお椀で、木箱に人数分入れてあった。

... 調理・片付け
 ご飯はカマドで炊き、おかずの煮炊きはイロリでやっていた。
 デイドコロの東の壁際に石臼があった。子どもたちは毎晩交代でこの石臼を使い、出来た小麦粉をイタノマに運んでこねた。こねるのはいやな仕事で、出来上がったうどんも当時はおいしいと思わなかったという。そば粉も挽いたが、ソバはそれほどとれなかった。この石臼ではほかに、豆を挽いて黄粉を作ったり、米を挽いてダンゴを作ったりした。なお、こうした石臼の仕事は雨の日はあまりやらなかった。できあがった粉が湿気てしまうからである。
 ナベは川まで洗いに行った。学校から帰ってくると、使ったナベがナガシにたくさん置いてある。これを持って洗いに行くのが子どもの仕事だった。
冷蔵庫が入る前は、川の水に入れて冷やしたりした。

... 主食
 山間部で田んぼが少なく、米はあまりとれなかった。精米には水車を使ったが、何時間も搗かないと白くならなかったという。
 一方、ムギは良くとれたため、夜はうどんが多かった。ニンジンをはじめ、野菜などがたくさん入ったものである。

... 副食
 おかずは野菜中心だった。夏はミョウガをよく食べた。美江子さんはそれがいやだったという。
 豆腐は自家製ではなく、お豆腐屋さんに大豆を持っていき、交換してもらった。豆腐を食べられるのも祭りなど行事のときだけだった。コンニャクイモも作っている家はなかった。
 イモガラは秋によく作った。サトイモの茎の皮を剥いて乾燥させたもので、煮て食べたり、味噌汁に入れたりした。
 ゴマも自家製だった。

... 魚
 義家さんはよく魚を捕りに行った。捕れたのはカジカ・ハヤ・ウグイなどで、カジカは石のあいだに手を入れると捕れた。ハヤは猫のエサにした。裕之さんは川でニジマスを捕り、デイドコロのイロリで焼いたりした。そのほかウナギもよく捕れた。夏の夕方罠を仕掛けておき、朝、見に行くのである。しかし魚は買うもので、川の魚はあまり食べなかった。
 海産物でよく食べたのはカズノコである。昔は肥料にしており、大きな袋で買ってあった。

... 肉
 岩澤家ではヒサさんが肉を嫌ったため、肉を食べる機会は少なかった。カレーもシーフードカレーで肉は入れなかった。
 肉を食べたのは大晦日である。伊勢原の方から来るお肉屋さんから豚コマを買い、そばつゆの中に入れた。当時、厚木の豚は有名で、脂が多くておいしかった。
 山の動物を狩って食べることもあった。ウサギやイノシシである。イノシシはあまり捕れなかったが、ウサギは冬になるとよく罠にかかった。そのほか、飼っているニワトリが卵を産まなくなるとつぶして食べた。子どもたちは河原で毛をむしったりしているのを見に行ったという。

... 卵・牛乳
 ニワトリの卵を食べていた。とてもおいしかったという。殻が丈夫になるよう、エサに貝殻をつぶしたものを混ぜていた。
 牛を飼っていたが、牛乳を飲むことはあまりなかった。

... 山菜・キノコ
 山菜はワラビ・フキ・タラの芽などをよく食べた。ワラビはカヤ場の山でたくさんとれた。タラの芽は天ぷらにして食べた。昔は今のように都会から山菜を採りに来る人がいなかったので、たくさん採れたという。
 キノコは家でシイタケを栽培していた。山に生えるキノコも採ったりもらったりしてよく食べた。

... 昆虫ほか
 イナゴの佃煮はおいしかった。ただし、捕ってきてそのまま食べるわけではなく、どこかへ持って行って佃煮にしてもらった。
蜂の子を採って食べることもあった。焼いたりせず、生で食べる。おいしいものだった。
 義家さんが弁当箱に入れて虫を持ち帰ることがあった。大きな木を割ると出てくる白くて太いイモムシ(カミキリの幼虫のテッポウムシか)で、串に刺してイロリで焼いて食べた。
 このほか、サワガニも焼いて食べた。

... おやつ
 おやつも自家製だった。
 ホシイモはよく作っていた。まず、サツマイモを蒸かして薄く切る。これを軒の上に並べて凍らせる。乾燥させると出来上がりである。
 サツマイモのダンゴも作った。冬場、薄く切って乾燥させ、石臼で挽いて粉にするのである。粉は白いが、これをダンゴにすると出来上がりは真っ黒になる。蒸すと飴のような甘いつゆが垂れるので、子どもたちはこれを棒ですくい取ってなめたりした。
 干し柿も作っていた。夜、子どもが皮をむき、これをエンガワのオク寄りの軒下に、竹で吊るしていた。
 ヤキモチは、重曹と小麦粉を溶いて砂糖を少し加え、焼いたものである。大きな鉄鍋を使い、自在鉤にかけてイロリでとろ火で焼く。焦げることがあるが、これがまたおいしかったという。
 蒸しパンを作るときは、山で朴葉を取って来いと言われた。材料は小麦粉だが、蒸すときに朴葉を敷くと下にくっつかなかった。
 砂糖があまり無いころは、甘味を付けるのにサッカリンを使っていた。冬になるとこの空き瓶に、食紅で作った赤い水に砂糖を溶かしたものを入れ、棒を差し込んで雪の中に入れておいた。するとキャンデーができた。冷蔵庫がなく、キャンデーを食べるのは祭りのときぐらいだったため、楽しみだった。
 このほか、カリントウを作ったりもした。買ったお菓子は食べることがなく、ジュースも祭りのときでないと買ってもらえなかった。そのためか虫歯にならず、百江さんは中学3年の時にも1本もなかったという。

... 行事食
 良いことでも悪いことでも、行事にはお赤飯がつきものだった。自家製のもち米とササギで作った。
 そのほか、お盆やお彼岸、祭りなど、なにかあるとよくサカマンジュウ(酒まんじゅう)を食べた。サカマンジュウは米を発酵させて作る。炊いた米を木製の容器に入れ、発酵させて麹にするため、作るのに数日かかった。中にはあんこを入れた。あんこに使うのも段々畑で栽培した自家製の小豆だった(注2)。
 餅は、暮れのほか4月に搗いた。暮れの餅は正月の雑煮に、4月の餅はオセックの草餅や菱餅にした。残った餅は細かく切って、あられを作ったりした。

... 調味料
 醤油と味噌は自家製の大豆を使って毎年1回必ず仕込んでいた。仕込みは母親の仕事だった。
 醤油は高さ2〜3mほどもある大きなタルを使い、ミソベヤで仕込んだ。仕込みには大量の大豆を使った。昔は「醤油搾り」という業者が1年に1回必ずまわって来たので、庭で搾ってもらった。搾った醤油はまた別のタルに入れて保管した。
 ミソダルはそれほど大きくなかったが、醤油と同じくミソベヤで仕込んだ。仕込むのは大豆が採れたあとの冬の仕事で、煮たマメをタルに入れたあと中に入って足で踏む。これを「マメフミ」といい、子どもの役目だった。
 塩はカマスで買っていた。味噌や醤油を作っていたので、たくさん必要だった。
 油は自家製の菜種を店に持っていき、搾ってもらった。

... 茶
 5月の節句が終わったころがお茶作りの季節だった。
 お茶作りはまず葉を摘むことからはじまる。近所の5、6軒が集まり、「今日はこの家のを摘んで、つぎはあの家で」と、順番に摘んでいった。すべて共同作業だったが、当番の家は昼食も出すためとても大変だった。
 岩澤家では山の茶畑のほか、物置や牛小屋のまわりなど、敷地内や道の周囲にもお茶の木があった。百江さんはお茶の葉をヤセンマ(背負い梯子)に積み、山から背負って降りたこともあるという。
 摘んできた葉はモチノキの下のカマドで蒸し、オオトの手前にあったオチャゴヤに運ぶ。中には土でできた焙炉があり、上に置いた鉄板(助炭)にお茶を広げる。近所の人たちとともに、この上でかき混ぜたり縒ったり、手でお茶を揉んでいくのである。焙炉の中では炭をたくさん燃やす。鉄板はとても熱く、手を休めると焦げてしまうため揉んでる最中は汗だくだった。
 お茶は牛乳を入れる缶に2本分くらい作る。これでほぼ1年分だった。近所の人や親戚に配ることはあったが、作ったものを出荷することはなかった。
 お茶は粉茶にしたりすることはなく、そのまま飲んだ。お茶作りは1日で終わらないくらい大変な作業だったが、一番茶だったのでとてもおいしかったという。
 夏になると、自家製の麦をナベで煎って麦茶を作った。

... 酒
 家でドブロクを造っていた。

..(3)衣
... 普段着
 百江さんの育った昭和10年代の後半までは、女性はモンペ姿か着物に割烹着だった。履物もゾウリやゲタだった。美江子さんの育った昭和20年代になると洋服に靴となり、和服を着ることもなくなった。

... 仕事着
 農作業のときは、女性はモンペ、男性は股の部分を重ね合わせた黒や紺の木綿のモモヒキだった。履物は地下足袋だった。炭焼きのときはシャツにズボンで、冬は袖無しのハンテンを着た。

... 晴れ着
 よそ行きにはよそ行き用の着物を着た。正月には下着と履物は新しいものを揃えた。

... 子どもの服装
 女の子はブラウスにモンペ姿だった。履物もゾウリやゲタで、学校へ行くときもワラゾウリだった。その後、昭和20年代後半ごろにゴムの靴が出てきた。タイヤで作ったような黒いものだった。

... 寝間着
 寝るときは子どもも含めて着物だった。「ネマキ」と言っていた。

... 寝具
 布団は、冬はカイマキだった。すべて自家製で、中に入れていた真綿も飼っていたカイコのマユから、自分たちで作ったものだった。

... 裁縫
 家で機織りをすることはなかったが、雨が降った日や夜はよく針仕事をしていた。
絣でモンペを縫ったり、真綿を入れて半纏やどてらを縫ったりした。着物が傷むと、ほどいてハリイタで伸ばし、縫い直した。袖口が切れると、袖口と肩口を入れ替えて縫い直す。さらに袖が駄目になると、袖なしにしたりした。
 ヒサさんはよく、売れない米と交換で銘仙の反物などを呉服の行商から手に入れていた。この行商は娘がいるところにきては商売をしていた。
 村に染物屋はなかった。染め替えるような機会はなかった。

... 洗濯
 洗濯は川でやっていた。洗剤として使っていたのは固形の洗濯石けんである。洗ったものは軒下に干したり、竹竿を使って庭に干したりしていた。五右衛門風呂の建物ができてからは、洗うのはそこで洗い、そのあと川へ行って濯ぐようになった。
 ヒサさんは炭焼きに行く義家さんを4時ごろ送り出したあと、よく洗濯をしていた。冬場真水を使うので手の荒れがひどく、アカギレを作っては指の節々を木綿糸で縛っていた。軟膏や絆創膏をしても無駄だったが、木綿糸で縛ると風が入らないので良かったという。

..(4)暮らし
... 山
 かつては山に出入りする機会が多く、下草も刈られ、通り道がちゃんとついてきれいになっていた。そのため熊も鹿も猿も出たという話は聞かなかったが、今は鹿がよく出るほか、ここ数年は毎年のように熊が出ている。

... 雪
 昔はよく雪が降り、土手が埋まるくらい雪が積もった。宮ケ瀬周辺では今でもよく降るが、煤ヶ谷はほとんど降らなくなった。

... 災害
 関東大震災のとき、ヒサさんは川で洗い物をしていてひっくり返ったという。岩澤家はデイドコロの地面が落ちたほか(注3)、柱が土台からずれた。周辺でも大きな被害はなかった。
 昔は火事が多かった。百江さんは川向こうの火事を見に行ったことがある。茅葺きの屋根だったので激しく焼け、見ていて震えるほど怖かったという。このとき義家さんは水を用意して屋根に上り、飛んでくる火の粉に備えていた。
 台風のときは、戸が外れないよう内側に竹でつっかい棒をした。家がミシミシ音を立てて揺れ、テンブクロから物が落ちたりした。台風は怖かったが、ナシの実が落ちるのが楽しみだった。登って採ろうとするとまだ早いからと叱られたが、落ちれば食べられたからである。
鉄砲水の被害はなかった。

... 病気
村には医者がいなかったため、車のある家は厚木まで医者に行ったりしていた。そうでない家では、具合が悪いと誰かが呼びに行って医者に来てもらった。飯山温泉(厚木市)の先に林先生という医者がいた。
お灸を据えに本厚木までバスで行った。

... 歯みがき
 朝起きると川に行き、顔を洗い、歯をみがいた。百江さんは兄の長夫さんとよく出かけたという。
 歯みがきは袋に入った粉の磨き粉のほか、塩も使った。歯ブラシを使うようになる前は、トクサの茎でみがいていた。

... 照明
 明るいうちは仕事をし、暗くなれば夕飯を食べて寝るという生活だった。外は暗く、祭りの夜でも会場まで灯りがひとつもなかった。そのため天の川がとてもきれいだったという。
 電気が入ったのは、昭和10年代後半ぐらいである。最初はイタノマだけで、イロリの上あたりについていた。
 それ以前はランプを使っていたが、下がっていたのは電気と同じくイタノマ1か所だけだった。
 戦時中、清川村に飛行機が飛んでくることは少なかったが、空襲対策で電球を木や布で覆ったりした。

... 暖房
 今のようにサッシでなかったため、家の中はとても寒かった。
 暖房器具として、家族や来客用に小さなヒバチが10個くらいあった。ジョウカイ(トナリグミの集まり)のときはこうしたものも準備しなければならなかったため、大変だった。

... 燃料
 燃料としてイロリやフロに使っていたのは山の木である。太いものを「マキ」、木の枝など細いものを「モシキ」と呼んだ。モシキを拾うのは子どもの仕事で、よく拾いに行かされた。拾ったものは束にして、背負って運んだ。

... ラジオ
 ラジオはよく聴き、ラジオを聴く時間というものがあった。NHKしかなかったが、昼には「昼の憩い」、子どもたちは「笛吹童子」などを聴いていた。

... 電話・有線
 電話は昭和40年(1965)くらいに入った。新宿まで通勤していた美江子さんが、連絡に不便なため引いたものである。
 それまでは有線だったが、取った人全員に聞こえてしまった。有線では放送も行っており、昼はよく聴いていた。

... 映画
 村に映画が来た。毎月1回、農協で呼んでくれたもので、学校の校庭にスクリーン代わりの布を張って上映した。まず最初は独特の音楽の流れるニュース映画、それから時代劇と「君の名は」などの現代劇、計3本立てぐらいだった。客席はムシロ敷きで真冬は冷えたが、中の方の良い場所をとればそれほど寒くなかった。今のように観ながら飲んだり食べたりすることはなかった。
年に1回ぐらいは公民館でも上映した。このほか町には映画館があり、長夫さんは夜、自転車で観に行ったりしていたという。
 当時はスターというと、美空ひばり、中村錦之助、大川橋蔵などである。美江子さんは橋蔵が好きで、ブロマイドをよくお祭りで買っていた。

... その他の娯楽
 公民館などで、青年団が芝居をやったり歌をうたったりした。
 村の中にある別所温泉(清川村煤ヶ谷字別所)に行くことがあった。
 遠出する機会はあまりなく、ヒサさんが出かけたのは農協の婦人会の旅行ぐらいだった。村の外にいる兄弟や親戚のところに、お祭りを見に行くぐらいが楽しみだった。

... 子どもの遊び
 子どもの遊びは、木登りや虫採り魚捕りなど、女の子も含めて基本的に外遊びだった。
 春は草摘みをした。ネンネングサで人形を作ったり、レンゲで輪を作って頭にかぶったりした。そのほか、山から桜の花やツツジの枝を折り取ってきては、岩澤家のエンガワの前に集まり、そこを舞台にして花を持って踊った。学校に上がる前も上がってからもやっていたという。
夏は毎日のように川へ泳ぎに行った。泳ぐ場所は家から少し降りたところにあり、姉妹を含め7、8人で行くことが多かった。水着はなくパンツ1枚で、女の子は黒いパンツをはいた。深くて渦を巻いているところがあり、恵美子さんはそこに呑まれたことがあったが、百江さんが助けてくれたという。夕方になると、夕立ちが来そうだからと帰る。帰りにはよく美空ひばりの唄を歌った。このほか麦わらでカゴを作り、蛍を取りに行ったりした。
冬は雪がけっこう降った。田んぼの土手でスキーをやったりした。
 釣りもよくやった。糸は自家製である。夏になると栗の木に青いマユができる。このマユをほどき、釣り糸にすると丈夫だった。マユの口を見つけてほどいていくのだが、カイコでやっているため上手なものだった。釣竿も笹を伐ってきて作った。釣り針は買うものだったので大事にし、糸が切れて針が取れるとそのたびに探した。

... 小遣い
 小遣いは祭りのときだけで、普段はもらっていなかった。
 子どもたちは夏休みになると、竹やぶで真竹の皮を拾い集め、庭に干した。竹の皮は肉やおにぎりなどを包むのに使われるため、夏になると買い取りに来る人がいたのである。売ったお金は子どもの良いお小遣いになり、下駄を買ったりした。

... 手伝い
 小学校4年生になると、毎朝すべて掃除してから学校に行った。座敷を掃く人、庭を掃く人、廊下を磨く人に分かれて掃除した。「畳は丸く掃いてはいけない、畳の目に沿って四角く掃くんだ」と叱られた。庭は竹で作った箒で、両腕を大きく振るように、波のように掃いていく。庭は広く何往復もしなければならなかったが、掃いた跡は子供心にきれいだったという。裏のモチノキはかつてはもっとよく繁っており、葉の落ちるころは大変だった。
 石垣はコンクリートで固めていなかったため間から草が生えた。この石垣や庭の草むしりもすべて子どもの仕事だった。
 洗い物も子どもがやった。中学生ぐらいになると夕飯の支度も姉妹でやった。
山の開拓も手伝った。美江子さんはクルリ(くるり棒)も使った。ソバやマメを叩いて脱穀したが、なかなかできなかった。トオシも使った。
 百江さんが学校に行っていたころ、「ノウハンキ(農繁期)」と言って1週間くらいの休みがあった。農業を手伝うための休みで、勉強しなくてよかった。このほか、学校の課題でイナゴとりもやらされた。田んぼでイナゴをとり、ビニール袋に入れて学校へ持っていくのである。

... 里帰り
 嫁に行った娘たちが子どもを連れて、盆暮れに里帰りした。お茶摘みや田植えの手伝いに帰ることもあった。
子どもたちが集まると、長夫さんはよく流しそうめんをしてくれた。子どもたちはとても喜んだという。
夜はザシキに布団をたくさん敷き、みんなで寝た。布団はたくさんあった。

... ペット
ネズミを捕るために必ず1匹は猫を飼っていた。クロとかミケ、トラという名前だった。

... 挨拶
 人と別れるとき「おしずかに」という。「しずかに」とは「気をつけて」というような意味で、すなわち「気をつけておかえりください」という挨拶である。この言葉は今でも使う家がある。

.3 生業
..(1)概況
 岩澤家は稲作や畑作のほか、昭和40年代初めまで炭焼きと養蚕を行っていた。春は田畑中心、夏から秋にかけては養蚕中心、10月頃から炭焼き中心というサイクルである。このうち生計の基礎は炭焼きだった。
その後は養鶏やお茶の栽培を手がけ、現在は電気設備工事の仕事をしている。

..(2)稲作畑作
 かつてはどの農家も出荷するほど作物は作っておらず、基本的に自給自足だった。山間部のため田んぼが少なく、米も自家分程度だった。昔は田植えも遅かった。なお、煤ヶ谷でタバコの栽培をやっている家はなかった。
 岩澤家で作っていたのは、米と麦のほか、サツマイモ・ダイコン・キャベツ・ゴボウ・トマトなどである。このうち米と麦は出荷もしていた。
 農機具は厚木で買った。

..(3)炭焼き
... 概況
 岩澤家周辺では古くから炭焼きが盛んだった(注4)。田畑のない家は炭焼きをするしかなかった。山持ちも何軒かはあったが、その他の家は山の木を買い付け、それで炭を焼いた。
 岩澤家も炭焼きをしていた。ヒサさんが倒れたときも義家さんは炭焼きに行っていた。このときは近所の人が山まで迎えに行ってくれたが、これがきっかけとなり、岩澤家では昭和42年か43年(1967、68)に炭焼きをやめた。

... 工程
 炭焼きは一年を通して行っていた。農業、特に養蚕が忙しい時期は農業を行い、それが落ち着くと炭焼きを中心に行う。そうしたサイクルだった。
 炭焼きは義家さんと長夫さんがやっていた。女性たちも1俵ぐらいは背負えたので、近場で焼くときは炭の運搬を手伝ったが、基本的に男の仕事だった。子どもたちも近いときは遊びに行ったり、夜遅くなると迎えに行ったりしたが、手伝うことはなかった。
 焼く場所は毎年変わった。近くの山で焼いていた時期もあったが、適当な木は次第になくなっていく。そのため焼く場所もどんどん奥になり、2時間以上かけて丹沢の札掛の方まで歩いた。
 カマは自分で築いた。大きさは「足」で表し、「横何足縦何足で計何足」という測り方をする。カマには1人焼きと2人焼きがあり、2人焼きは12足と大きいものだった。
 炭焼きは通いだった。焼いているあいだは夜明けまでに炭焼き場に着かなければならない。2〜3時間は歩くので、家族も3時、4時に起き、暗い中を出かけていった。帰ってくるのは夜だったが、泊まるということはなかった。なお、「カマドメ」と言ってカマの火を止めるときは、時間に関係なく夜中でも行った。これを「フタをしに行く」と言った。
 炭焼きは雨が降るとできなかった。しかし、その時も山に行って出来上がった炭の背負い出しだけはしたため、雨が降っても休めなかった。
 炭には白炭と黒炭があり、製法も用途も異なった(注5)。白炭のカマが石で築かれるのに対し、黒炭のカマは土である。焼くのも白炭が1日で終わるのに対し、黒炭は1週間程度かかる。焼き上がったあとも、白炭がカマの外から掻き出すのに対し、黒炭はカマの中に入って作業する。白炭はカマから出したあと灰をかけて火を消すため「灰焼」とも言った(注6)。なお、白炭のカマは木の伐採場所に作った。
 炭をカマから掻き出すのに使う道具を「エベリ」という。先が鉄製のものと木製のものがあったが、木製のものは3日ぐらいしかもたない。鉄製のものは厚木の鍛冶屋に注文した。

 なお、神奈川県立歴史博物館では昭和41年(1966)4月21日付で清川村の民俗資料を受け入れている。この中には義家さんご寄贈の炭焼道具が含まれており、ご本人への聞き取りも行われている。以下は同館の資料カードに記されたその記録である(調査者は和田正洲氏)。
     *    *
 シロ炭の焼き方
 1) 木を4尺位に切りそろえる(ノコギリ)
 2) 木をショイバシゴでカマのある所まで運ぶ
 3) カマをつくる
   深さ4尺位に土をほり、掘った壁に石を積み上げ、石の間に土をつめる。
   すきが出来ないようノロシボウで土をよくつめる。
   上にも石を積んで屋根をつくる。この時石の間によく土を入れこまないと良い炭はできない。
 4) 木を束ねて、カマに入れ、立てておく。 ……マタを使用
 5) 最初カマ口の外で火をたくと、中の木がかわいて燃え出す。
 6) 1昼夜おき、カマの外へ炭を出す。
   カマに立てておいたマキの束をハライボウで倒す。
   エブリで外へ出す。
 7) 灰をかぶす。1時間位で消えるので灰から炭をひき出す。 ……カギを使用
 8) ミで炭と灰をふるいわける。
 9) ショイバシゴで家にはこび炭俵につめる。

 白炭 ……カマの中で真赤になった炭を外へ出して、灰をかけて消す。
 黒炭 ……カマの中で消してから出す。
 白炭から黒炭へは約30年前位に変わった。白炭はカマの外へ出すので、毎日山へいかなくてはならず、手数がかかるので。
     *    *
 神奈川県立歴史博物館で所蔵している義家さん寄贈のノロシボウは、片方の尖った長さ111㎝の鉄の棒である。
 同じく義家さん寄贈のカギは、173㎝の棒の先に35㎝のフックが「レ」の字型に付いた道具である。本品は木製で、カギ部分も枝を利用したものだが、のち金属製になったという。

... 運搬・出荷
 良い炭はカンカン良い音がするという。
 焼き上がった炭は炭俵に入れた。炭俵には四貫目俵と十貫目俵(大俵)がある。黒炭は四貫目俵に入れ、1人で4俵、計16貫を運んだ。十貫目俵の場合には、一度に2俵20貫を運んだ。
 炭俵を作ることを「タワラコシライ(俵拵え)」という。タワラコシライは女性の仕事で、縄を綯うところから家で行った。手の荒れる大変な作業だった。
 炭は厚木や伊勢原の業者に出荷した。厚木駅前にあった「かるべさん」という店は、オート三輪車で岩澤家まで買い付けに来ていた。これが現金収入になった。日清戦争翌年の明治29年(1896)ごろは、4貫40銭で神奈中バスに出荷していた。

..(4)養蚕
... 概況
 昭和42年(1972)ぐらいまでオカイコをやっていた。岩澤家では夏と秋、年に2回である。秋は9月ごろで「ニバン」という。ニバンの時期は農作業も忙しかったため、夏より少なかった。オカイコの作業は男だけでなく、女性たちもやった。
 岩澤家でオカイコに使っていたのはザシキである。この期間は畳をすべて上げ、家族はその間、女性はイタノマで、男性はオクで寝た。
 カイコが葉を食べる音はザワザワという雨音に似ている。しかもものすごかった。百江さんも美江子さんも子どものころ気持ちが悪かったという。なお、古くは屋根裏でオカイコをしたという話が残っているが、2人とも実際に見た記憶はないという。

... 飼育
 カイコの卵は農協から買っていた。真っ黒くて小さいもので、紙に付いている。紙は2枚ぐらいだが、育てるとザシキいっぱいになった。
 飼育用の棚は竹ですべて組み立てていた。孵ったばかりのカイコはほんとうに小さく、糸のようである。小さいうちはやわらかいところを摘んで食べさせ、大きくなると丈夫になるため、枝ごと刈って与えた。
 桑畑は家の下の方や山、それから土手など、周辺に何か所かあった。栽培していたのは、背の高いまっすぐの木だった。桑の葉は雨に濡らしてはいけない。濡れた葉を食べさせると病気になってしまうからである。そのため、雨が降りそうになると家族中で桑の葉をとりに行き、濡れてしまった葉は家中に広げて乾かした。病気になったオカイコは燃やした。臭くて嫌なにおいがした。

... 出荷
 出荷の日が先に決まっているため、マユトリは忙しかった。手で1つ1つ掻いていく作業で、子どもも含め、家族みんなでやった。
 マユはお湯や熱で殺すことはせず、そのまま出荷していた。出荷場所は村の農協のようなところで、大きな袋にマユを詰め、ヤセンマで背負って運んだ。この仕事は女性もやった。

... くずまゆ
 マユには等級があり、等級が悪いと安くなる。黒くなったりして出荷できないものは茹でて真綿にした。
 このほか、糸を紡ぐこともあった。この糸をセーターなどに加工してくれる所があった。
 なお、岩澤家も含め、カイコのサナギを食べることはなかった。茹でると嫌なにおいがした。

..(5)養鶏・畜産
... ニワトリ
 炭焼をやめたあと、昭和42、43年(1967、68)ごろから養鶏をはじめた。主屋から少し離れた場所に鶏舎を建てて飼育していたが(図版31)、エサの値段が上がったのを機に手を引いた。鶏舎はその後、家を建て替えるときの仮住まいに使用したりしたが、現在は人に貸している。

... 牛
 牛を2頭くらい飼っていた。飼っていたのは仔牛で、大きくなるまで育てて何年かに一度出荷していた。現金収入だった。出荷用だったため牛やヒツジには名前を付けなかったが、飼っていた牛がいなくなると寂しかったという。
 獣医は村の農協にいた。

... ヒツジ
 ヒツジを2、3頭、何年かのあいだ飼っていたことがある。刈り取った毛は、ヒツジがいくらだから毛糸がいくら、という計算で毛糸と交換していた。その毛糸でセーターを編んでもらったりした。

... ウサギ
 毛を取るために、アンゴラウサギを2匹ぐらい飼っていた。毛は農協に売った。

..(6)お茶作り
 清川村では炭焼きなど山の仕事がなくなると、収入を確保するためお茶作りが盛んになった。始めたのは村長で、その後村中に広まった。しかし最初は良かったが、次第に栽培農家は減り、現在やっている家はわずかだという(図版32)。
 岩澤家では炭焼きをやめたあと養鶏を手がけ、その後出荷用にお茶の栽培をはじめた(それ以前は自家分のみ)。栽培していたのは、山の土地3反分のうち2反である(残りは山林)。
 刈り入れは機械で行う。2人刈りで1日作業だった。毎年生葉1000㎏を生産し、農協に出荷していた。

..(7)花卉栽培
 長夫さんは青年団に入っていたので、青年団の人と菊やガーベラなどを作って出荷していたことがあった。やっていたのは茶畑を作る前で、山の上の方で栽培していた。

..(8)林業
 岩澤家では林業もやっていた。スギやヒノキなどを扱い、植林から行っていた。

.4 地域社会
... トナリグミ
 近所数軒のまとまりを「トナリグミ(隣組)」という。この言葉は今も使われている。
 岩澤家の入っているトナリグミは6軒、いずれも本家である。現在は周囲に家が増えたが、もともとはこの6軒だけだったという。トナリグミの中にはさらにいくつかの班があった。
 トナリグミの代表を「クミチョウ(組長)」という。クミチョウは各家で順番に務めた。このほか何をやるにもまわりもちで、順番を決めて行っていた。仲が良かった。

... ジョウカイ
 トナリグミで毎月行う寄り合いを「ジョウカイ(常会)」といった。昼間は忙しいため開かれるのは夜で、男に限らず女も出た。会場は各家まわりもちである。当番の家ではお茶のほか、サカマンジュウやお菓子を出してもてなした。岩澤家はヒサさんが料理上手だったため、「あそこの家に行けばおいしいものが食べられる」と言われていたという。
 こうしたジョウカイの連絡には回覧板が使われた。小さな板のもので、これが各家をまわっていた。

... 共有財産
 トナリグミで水車小屋を持っていた。川のちょうど角のところにあり、精米に使っていた。昭和20年代にはまだ使われていた。

... 中元・歳暮
 オナコウドさんのほか、岩澤家では義家さんが養子だったため、その実家にも中元や歳暮を届けていた。
こうしたときに使われたのは日本酒で、そのほか米も喜ばれた。

.5 交通交易
... 交通
 岩澤家前の道は、現在バスが通っている新道ができるまでは村の表通りだった。
 岩澤家に車が入ったのは昭和45年(1970)である。車の無い時代は出かけることは少なかった。

... 買い物
 周辺には店があまりなかった。普段の買い物は農協の小さな店で済ませていたが、品数は少なかったため、まとまった買い物には本厚木や伊勢原まで出た。

... 行商
 魚はよく行商から買っていた。来るのは週に1回くらいで、2段か3段の竹かごを背負い、魚のほか駄菓子などいろいろなものを持ってきた。この人は電車とバスを乗り継いで沼津から来ていたため「沼津のおばさん」と呼ばれていた。背の高い、きれいな人だった。
 魚の行商は平塚の須賀からも来ていた。こちらはおじいさんで、自転車の後ろに荷をたくさん積み上げて来ていた。この人はのち、煤ケ谷に店を出した。
 富山の薬売りも年に1回ぐらい来ていた。来るたびに紙風船を置いていってくれるので、子どもたちは楽しみにしていた。家には抽斗式の赤い薬箱が置いてあり、中に頭痛薬や胃腸薬、風邪薬などが入っていた。医者には行かず、それらの薬でだいたい間に合わせていた。

... 物々交換
 お金がなかった時代は米で物々交換していた。

.6 年中行事
... ススハライ
 毎年12月30日か、または日が良いときにススハライをした。
 ススハライをするときは、まず部屋のものをすべて外に出す。そして、義家さんが屋根裏に上がり、竹ぼうきを使って真っ黒になってススを落とした。この竹ぼうきはベンテンサマの竹やぶから細い竹を切って作ったもので、使い終えたものは1月14日のダンゴヤキで燃やした。
 この日は裏庭にムシロを敷いて、外で食事をした。オニギリなどではなく、普通のご飯だった。

... 正月飾り
 正月飾りは12月28日か30日に飾った。
 まず、山から松と榊と笹を伐って来る(図版33)。松は60㎝ほど、榊は60〜70㎝、笹は1枝分である。この他ワラを用意する。ワラは近所からもち米のものをもらって使っていた。うるち米のワラよりも柔らかいため作りやすく、見た目もきれいだった。このワラで長さ50〜60㎝、すなわちワラ1本分を綯う(図版34・35)。これに、先ほどの松と榊と笹(図版36)、それから半紙で作った幅約3㎝長さ20㎝のギョヘイ(御幣)を合わせ、「イチモンカザリ」を作った。
 このイチモンカザリを、家の中では大神宮(神棚)・歳神・ホトケサマ(仏壇)・荒神(図版38)・トコノマ(図版19参照)、家の外では入口・オキツネサマ・ヤマノカミサマ・ベンテンサマ・田んぼ(図版39)・用水・井戸のほか、納屋などの建物には必ず1つ飾った。飾る場所は元23か所あったが、その後11か所になった。
 歳神の棚はザシキのオク寄りに吊る(図版40)。この歳神の棚と大神宮(神棚)には両脇にイチモンカザリを付けるほか、中央に稲穂で作った飾りを天井から付ける(図版41・42)。これは、稲穂の束を屋根状に交差させ、交点にダイダイ・ユズリハ・ウラジロを付けたものである。稲穂の束は籾の付いたまま使う。
 イチモンカザリは今もやっている。松は山から伐ってくるが、それ以外は作る人がいないため買ってきたものを飾っている。

... 餅搗き
 12月28日か30日に餅搗きをした。餅搗きはデイドコロの真ん中に木のウスを据えて行っていた。

... 大晦日
 菩提寺の正住寺(清川村煤ヶ谷)に除夜の鐘を撞きに行くことがあった。

... 正月
 正月はゆっくり休める唯一のときであり、あまり出歩かなかった。
 元旦の朝はハチマンサマ(八幡神社・清川村煤ヶ谷)にお参りに行った。お金がなかったため賽銭代わりに米を持って行き、並んでいるホトケサンに供えた。
 岩澤家の雑煮は醤油のすまし汁である。具はサトイモやダイコン、菜っ葉などの野菜で、肉は入れなかった。料理としては、ダイコンのナマス、白豆のキントン、それから自家製のヨウカンなどがあった。作るのは暮れ、食べるのは正月明けてからで、大皿ではなく一人ずつ盛り付けをした。このほか、正月はお酒を呑んだ。
正月、子どもたちは近所の家同士、遊びに行ったり来たりした。女の子は羽根つき、男の子はコマ廻し、そのほかカルタや百人一首もやった。岩澤家周辺では凧揚げはしなかった。
 親戚が挨拶まわりに来るのは2日以降である。元日には来なかった。

... 七草がゆ
 1月7日は七草がゆである。セリは山に行けばたくさんあったのでそれを使い、そのほかハクサイなどを入れていた。

... ダンゴヤキ
 マユダマの飾り付けは1月13日に行った。
 飾り付けに使うのはカシの木である。山から大きなものを伐って来て、これをザシキのオク寄りに専用の石の台(図版43)を使って立てる。この枝に、マユやカメなど、いろいろな形のダンゴを付けていった。ダンゴには米の粉にソメコを混ぜて赤や緑など色を付けることもあったが、ヒサさんが色付きを嫌ったため、基本的には白だった。ダンゴは他に、仏壇などにも飾った。
 1月14日はダンゴヤキである(図版44-46)。美江子さんの時代は河原で、裕之さんの時代は公民館のそばでやっていたが、現在は昔の小学校の裏を使っている。子どもたちはこの日、家でカシの木に飾り付けていたダンゴを取って集まる。時間が経つとダンゴが固まり、取るのに苦労したという。これを焼いて食べると風邪を引かないと言われていた(注7)。

... ロクヤサン
 1月26日、浅間山七沢神社(厚木市七沢)のロクヤサン(六夜祭)に行くことがあった。この神社は養蚕農家の信仰を集めていた。

... 節分
 豆をまいた。また、家の門口にイワシの頭をつけた。

... 初午
 敷地内のオキツネサマに、ご飯に油揚げをのせたものを供え、お参りしていた。
 このほか、このオキツネサマの本家(勧請元)にもワラヅトに入れた赤飯やご飯に油揚げをのせたものを供えた。(59頁参照)

... 彼岸
 お彼岸は墓参りに行くくらいだった。サカマンジュウを作って供えた。

... オセック(ひな祭り)
 岩澤家では4月3日にオセック(ひな祭り)をした。
 オヒナサマを飾ったのはザシキのオク寄りである。段飾りで、十数段にもなる大きなものだった。このオヒナサマは、婿として岩澤家に入った義家さんの実家から贈られたものである。オヒナサマは婿や嫁の実家から届けられるもので、家で買うことはなかった。女の子が生まれるたびに買い足すこともなかった。
 オセックにはチラシを作って食べた。チラシは赤飯とともにお祝いによく作るものだった。また、餅を搗き、ヨモギなどの草を入れて草餅を作ったほか、赤や緑の菱餅を作ってオヒナサマに供えていた。赤い餅は染め粉、緑の餅は摘んだ草で色を付けた。こうした祝い事は家族で行うだけで、他の子どもを招いたり、女の子が着飾ったりということはなかった。
 オヒナサマは少し早めに飾り、オセックが終わるとすぐにしまった。早くしまった方が良いと言われた。

... 桜まつり
 飯山観音(厚木市飯山・長谷寺)に花見に行くことがあった。子どもたちは小遣いを50円か100円もらった。100円もらうとすごくいろいろなものが買えたという。
 この祭りでは、昭和30年代まで草競馬が開かれていた(注8)。義家さんは賭け事が好きで、競馬をやっていた。

... 五月節句
 長夫さん以前のことは不明だが、裕之さんのときは大きなコイノボリを飾っていた。
 コイノボリを立てるのは大変だった。まず家の山から木を伐り出し、トラックで運ぶ。立てる場所はエンガワの前、庭の中央である。竿は電柱と同じくらいの高さがあり、1人2人では立てられないため、近所の人に手伝いにきてもらった。このほか、家の中には兜を飾った。
 五月の節句には赤飯や、庭でとってきたカシワの葉を使って柏餅を作った。岩澤家周辺にはショウブがなかったため、菖蒲湯はしなかった。

... 田植え
 田植えのときは、嫁いでいる娘たちも手伝いに帰ったりした。この日のお昼はオニギリだった。

... オテンノウサン
 オテンノウサンという祭りがあった。開かれるのは6月か7月の田植えが終わった時期で、ノウアガリの行事と一緒に行うことが多かった。会場は神社ではなく、庭の広い家で行っていた。カミのオテンノウサン、シモのオテンノウサンがあった。
 オテンノウサンではオカグラがあった。岩澤家でもこのオカグラをやったことがある。

... 七夕
 岩澤家では、七夕やクリスマスはやらなかった。

... 雨乞い
 8月ごろ、雨乞いをすることがあった。持ち寄ったワラで直径20㎝以上もある大蛇を作り、皆で河原まで運び、水に漬けるのである。場所は決まっており、毎回八幡神社の下の河原で行った(注9)。
 この行事は長夫さんの世代までやっていた。

... 盆
 岩澤家は八月盆である。13日が迎え火、15日が送り火で、この間、嫁いだ人や親戚が線香をあげにくる。昔はお坊さんに来てもらい、拝んでもらっていたが、今はやらなくなった。なお、岩澤家の墓は敷地内にあるため、お盆の前後に寺に行くことはない。
 お盆の準備は13日である。
 岩澤家では盆棚のことを「オボンサマ」という。オボンサマを作るのは、ザシキのオク寄りの隅である。かつては戸板を利用したが、その後、同じくらいの大きさの専用の板を使って台を作るようになった。この上にホトケサマ(仏壇)の中のものをすべて出し、野菜で作った馬を1頭置く。岩澤家では馬に使うのはナスだけで、キュウリは使わない。背後には十三仏の掛軸をかける。この掛軸は2本あり、毎年交互に飾っている。
 ご先祖様を迎えるための壇を「スナモリ」という。岩澤家を含め、どの家もジョウグチに作る。形は台形状で、河原からとってきた砂を固めたものである。正面には同じく砂で階段をつける。これが出来上がると、上にサトイモの葉をのせ、そこにナスを賽の目に切ったものと米を供える。手前には両側に竹を立て、線香立てにする(図版47)。
 準備が終わると一番初めに墓に行く。ご先祖様を迎えるためである。墓に特別なものを供えることはなく、花を供えて線香をあげるだけである。
 迎え火のことを「オタキビ」という。オタキビはなるべく早く、夕方4〜5時くらいに焚くようにする。燃やすのはムギカラで、場所はジョウグチのスナモリの前である。そして、スナモリに線香をあげる。
 自分の家のオタキビが終わると、今度はトナリグミ6軒のスナモリに線香を上げてまわる。岩澤家にもこの6軒から線香を上げに来るため、スナモリの線香はどんどん増えていく。線香は各家で用意したものである。まわる時間に特に決まりはなく、早い家もあれば遅い家もある。こうしたことは現在も行われており、トナリグミ6軒全部でご先祖様をお迎えするような感覚だという。
 お盆にはサカマンジュウを作り、お赤飯を炊いた。オハギを作ることもあった。これを家族で食べるとともに、オボンサマにも供えた。
 ご先祖様を送るときは、オボンサマの上に置いていたナスの馬をスナモリの上に移す。このとき向きを反対にし、帰る方向に向けてやる。
 オタキビを焚く場所は、迎えるときと同じくスナモリの前である。送るときはなるべく遅く、夜の10時くらいに焚く。ゆっくり帰ってくださいという意味である。

... 祭り
 ハチマンサマ(八幡神社・清川村煤ヶ谷)の祭りは4月と9月で、9月の方が大きかった。周辺地域でも神社の祭りは4月と9月だった。
 祭りはどこからこれだけ出てきたのだろうと思うぐらい人で賑わった。夜店がたくさん出て、カーバイトランプのにおいがただよっていた。女の子に一番の人気は塗り絵である。蔦谷喜一の塗り絵で、買ってきて塗り上げては雨戸に貼っていた。このほか指輪を作ったりするのに使うビーズや、食べ物では水飴などを買った。
 神社の境内に芝居も立った。厚木の北村芝居のほか、座間の方からも来た。
 祭りにはご馳走を作った。里帰りしてくる人が多いので、同級生に会うのもお祭りのときだった。恵美子さんは、中学を出て最初の祭りで友だちに会うのがとても楽しみだったという。

... 施餓鬼
 毎年9月の彼岸のころ施餓鬼があった。寺の行事で、各家から1人、檀家がみな正住寺に集まり、精進料理を食べたあと、家ごとに塔婆を受け取って帰った。塔婆は先祖の墓に供えた。

... お月見
 十五夜や十三夜には、ザシキの前のエンガワに、大きなトックリに挿してススキを飾った。供えものは、柿や栗・サツマイモ・サトイモなどその時期の作物、買ってきた豆腐、それから自家製のサカマンジュウだった。
 この夜は、供えてあるものを取っても泥棒にならないといい、子どもたちは5、6人で近所の家をめぐってお供えを取った。周辺でも大体サカマンジュウだったが、家によって味が違った。子どもたちはいつもおいしいものを供える家をおぼえていて、あそこのうちに行こうか、などと話したという。

... エビスサン
 日にちは不明だが、エビスサン(エビスコウ)をやっていた(注10)。この日はお膳に魚を供えた。

.7 人生儀礼
..(1)婚礼
... 結納
 結納品は伊勢原に出て買った。
 結納品と一緒に鰹節を付けた。

... 結婚式
 長夫さんのときは自宅で行った。
 花嫁は到着するとジョウグチで傘をさす。蛇の目傘のような和傘である。花婿は迎えに出て、この傘に一緒に入って敷地を通り、玄関(オオト)から家に入る。
三三九度はオクで行う。トコノマを背にして、向かって右に花嫁、左に花婿が座る。酌をするのは子どもの役目で、親戚や隣近所から、小学校に上がるくらいの子を選んでお願いする。百江さんも美江子さんも近所でやったことがあるという。
この席でのご馳走にはオゼンを使う。家にはこの席で使うくらいの数のオゼンがあった。

... 披露宴
 結婚式が終わると、引き続き披露宴となる。披露宴は2回に分かれ、午後は親戚、夜は7時くらいから隣組や青年団など、地元の人を招いて行う。このように夜もあるため、親戚たちは披露宴が終わると、泊まらずに帰った。
 会場はオクとザシキである。あいだのフスマを取り払い、大きな部屋にする。この席ではオゼンでなく、長いテーブルを使った。
 料理は仕出し屋などなかったため、魚屋に刺身や鯛の焼いたものを頼むほかは、すべて家で準備した。家族のほか、親戚の女性たちが集まり、前の日から煮物などを作った。手伝いに来てくれた人たちにはご馳走もしなければならないので、本当に大変だったという。

... 引き出物
 魚の折りとお赤飯、スルメ5枚を付けた。結婚式に使う魚は鯛の塩焼きで、魚屋に頼んだ。

... 記念写真
 従兄弟が伊勢原から写真屋さんを呼び、庭で記念写真を撮った。
 そのころは親戚でカメラを持っている人はいなかった。
 
... 新婚旅行
 妹たち3人で箱根に1泊の新婚旅行をプレゼントした。新婚旅行は比較的めずらしかった。

..(2)産育
... 出産まで
 安産祈願のようなことは特にしなかった。戌の日に帯を締めるということも聞いたことがないという。
 昔は子どもを生む直前まで働いていた。

... 出産
 百江さんたちの母親の世代までは、お産は病院ではなく、家で行った。
 岩澤家でお産に使われたのはザシキである。こうしたとき、他の子どもたちは「どっかに遊びに行ってきな」と言われてザシキから出され、手伝わされることはなかった。
 村にオサンバサンがいた。村の子どもたちを取り上げたのは、みなこの人である。岩澤家でもお産のときはこの人を頼んでいた。
 産湯には通常の飲み水と同じく、川から汲んできた水を使った。これを沸かし、木のタライに入れて使っていた。

... 出産後
 お産のときとそのあと、女性が休めるのはそれだけだったと、美江子さんは母親のヒサさんから聞かされたことがある。朝寝ていられるのはお産のときだけだったという。
 名前はお七夜までに子どもの父や母が相談してつけていた。適当だったという。

... お七夜・宮参り
 お七夜のときは敷地内にあるベンテンサン(59頁参照)に連れて行った(注11)。宮参りは八幡神社に行った。

... 七五三
 七五三の七歳のお祝いで、百江さんは父親の義家さんとふたりで大山へお詣りに行った。

..(3)厄年・還暦
 厄年に厄払いとして何かをすることはなかった。
 還暦の祝いも特になく、赤いチャンチャンコを着ることもなかった。

..(4)葬儀
... 手伝い
 葬式はすべて、親戚ではなくトナリグミで仕切った。亡くなったことをまず知らせるのもトナリグミであり、親戚や身内は二の次だった。
 亡くなったことを親戚に知らせにまわる人、役所へ死亡届を出しに行く人、寺にお願いに行ってお坊さんを送り迎えする人、土葬の穴を掘る人、飾りやワラジを作る人、鉦を鳴らす人など、葬式にはさまざまな役目があった。これらをすべてトナリグミで分担し、準備するものは前の日までにすべて作った。誰が何をやるかはジョウカイで決めた。なお、現在はトナリグミではなく、トナリグミの中の班で決めている。

... 知らせ
 人が亡くなると、兄弟や親戚のところにトナリグミの人が知らせにまわった。このとき必ず2人で行った。そのため、どこかの家に親戚の人が2人で来ているのを見かけると、何かあったのかと話し合った。
 その後、遠方の人には電報で知らせるようになった。

... 葬式
 長夫さんのときまで葬式は家でやっていた。岩澤家ではオクとザシキをつなげて場所を作り、オクのトコノマの前に祭壇を設けた。お悔やみに来た人々は玄関から入らず、ザシキの前のエンガワから直接出入した。
 祭壇のある部屋の前には飾りを立てた。長い竹で作ったもので、オクの前の庭に5本、直接地面に突きさして立てる。竹には先端の方だけ笹が残してあり、白い御幣のようなものや墨で経文を書いたもの、五色の吹き流しのようなものなど、5本それぞれに飾りが下げてある。このうち1本には紙で作った大蛇が付けてある。白くて目玉だけが赤く、口を開けて牙を剥いている。長さは1mほどである。
 戒名はお寺につけてもらう。お坊さんはお通夜と告別式両方に来てもらい、現在は初七日まで一緒にやってしまう。
 なお、恵美子さんはおじいさんの葬式のとき、百江さんと2人で赤い着物を着せてもらったのを覚えているという。

... 出棺
 棺桶はエンガワから出した。そして、太鼓とタンバリンなど3種類ほどの楽器を鳴らしながら庭を左回りに3回まわり、敷地内にある墓へ行った。現在、葬式は会館でやっているが、楽器を鳴らしたり回ったりするのは同じようにやっている。

... 墓
 墓は寺ではなく、どの家もみな家の敷地にあった。
 岩澤家の墓地も敷地内にある。中央の墓は火葬になってからのもので、下にお骨を入れる場所がある。周囲に集めた小さな墓が昔のものである(図版48)。
 なお、裏山にある墓地は岩澤家のものではなく、トナリグミの墓を集めたものである。

... 土葬
 昭和40年(1965)に亡くなったヒサさんのときまでは土葬だった。座棺ではなく、普通の寝棺で、墓の前に穴を掘って埋めた。この穴はとても深く、娘の百江さんはすごく可哀想に思った記憶があるという。
 埋葬したあと、酒と餅米を足のついた枡に入れて供える。そして、お坊さんにお経をあげてもらう。
 オクの前に立てた飾りは出棺のとき一緒に運び、墓地に立てる。そして四十九日が終わると墓地で燃やした。

... アナホリ
 土葬の穴を掘る役を「アナホリ」という。アナホリはいやな仕事だったが、葬式のたびにジョウカイで決め、体力のある若い人や有志がやった。
 穴を掘り終わると、その家でアナホリを風呂に入れ、着ているものを全部置いていってもらい、洗濯した。精進落としの席でも上座に座らせた。
 現在は土葬ではないが、お骨を入れるとき石をはずしたりする役をアナホリといっている。風呂に入れたり、洗濯したりするのは現在も同じである。

... 精進落とし
 寿司屋などはなかったため、精進落としの料理も家で作った。葬式に必ず付けたのはマグロの切り身の煮付けである。マグロは沼津の行商から買った。そのほか赤飯も炊いた。

... 引き物
 引き物はイツツマンジュウだった。楕円形で焼印を押したいわゆる葬式饅頭で、必ず5つだった。このほか砂糖がつくこともあったが、お茶は使わなかった。その後、毛布やタオル、タオルケットのようなものになっていった。

... 初七日まで
 土葬のころは初七日まで毎晩お参りに行った。埋葬場所の前に立てた2つの提灯に火を入れ、さらにロウソクに火を付ける。火をともしに行くのは家族で、基本的に父親や連れ合いが行った。昔は家も灯りもなかったためとても気持ち悪く、子どもは怖くて行けるものではなかった。
 百江さんは墓地でリンの火を見たことがある。雨が降ったようなうすい青で、とても怖かったという。

... 四十九日まで
 埋葬のとき酒と餅米を供えた枡にはロウソクを立てるための釘が出ている。この釘に初七日から四十九日まで、7日ごとにロウソクを灯していく。

... 百日参り
 百日目に、大山の茶湯寺(浄土宗)へ百日参りに行った。亡くなった人に会えるといわれ、途中で似た人に会うとオヒネリをあげた。帰りにはお札を買ってきた。

... 新盆
 新盆には新しい提灯を買い、親戚や葬式の手伝いをしてくれた近所の人などを招く。酒のほか、刺身・煮魚・煮物・赤飯など、内々で支度するため大変だった。

... 法事
 法事は三十三回忌までである。今は人を呼んでやるようなことはほとんどしていない。一番最後の年忌のときも、寺に行くぐらいで特別なことはしなかった。

.8 信仰
..(1)社寺
 岩澤家のウジガミサマはハチマンサマ(八幡神社・清川村煤ヶ谷)、菩提寺は臨済宗建長寺派の正住寺(清川村煤ヶ谷)である(注12)。ただし、寺の宗派などはあまり気にしたことがないという。

..(2)家の神
... コウジンサン
 デイドコロのイロリ奥の柱に、コウジンサンの棚があった(図版38参照)。火の神様で「奉齋祭 火産靈大神 澳津比古神 澳津比女神 御璽」の御札が祀ってあった(図版37参照)。
 神棚とコウジンサン以外に御札の貼ってある場所はなかった。

... オキツネサマ
 敷地内にオキツネサマの祠がある(図版49)。中には御札の入った小さな社と陶製の狐、そのほか宝珠型の石が置かれてある。この石もオキツネサマの一部とされており、触れたり動かしたりしてはいけないと言われていた。行事に使うということはなかった。
 長夫さんの時代は、正月と二月の初午にはご飯の上に油揚げをのせたものを供え、お参りをしていた。現在、こうした供え物はしていないが、正月飾りはときどき付けている。
 このオキツネサマの本家(勧請元)は小学校の近くにある(図版50)。この祠は岩澤家を含め、土地の地主数軒で管理しており、まわりもちで手入れをしている。正月と初午にはワラヅトに入れたご飯やご飯に油揚げをのせたものを供える。百江さんや美江子さんは子どものころ、こうしたものを供えに行かされた。このとき他の家で供えたご飯があると、自分たちが持って行ったものを置いて、それをもらってきたという。この本家の祠については今でも決まりがうるさく、若い人も参加しなければならない。小さいころから見ているため、裕之さんもそれを当たり前と思ってきた。なお、ダンゴヤキもこのそばで行っている。

... 石祠
 エンガワ前の土手の下に、かつては小さな祠があった。現在は灯籠状の石の祠だけが残り、周囲に石がいくつかあるだけである(図版51)。特に祀る機会もなく、また何の神様かもわからないという。

... ヤマノカミサマ
 前項の祠の横は「カミサマの通り道」と呼ばれていた。ここを山に向かって進むと尾根にヤマノカミサマの祠がある(図版52)。このヤマノカミサマがこの道を通るというのである。ただし、ここを通るのはカミサマだけで、自分たちがお参りに行くときは別の道を使った。
 このヤマノカミサマは岩澤家だけで祀っていたものである。周囲には榊がたくさん生えていた。かつては年末に供え物をして祀る日があったが、現在は山の手入れをする程度である。

... ベンテンサマ
 岩澤家の敷地のはずれに小川があり、その手前は竹藪になっている。この中に2体の石造物が祀られている(図版53)。1つは石の祠で、中に人頭蛇身の宇賀神の石像が祀られている。頭部は女性である。もう1つは直径約80cmのとぐろを巻いた大蛇で、ヒサさんの母親が岩澤家に嫁ぐとき、八幡神社近くの実家から持ってきたものと伝えられている。いずれも岩澤家だけで祀っているもので、家族は2体ともベンテンサマと呼んでいる。こうした大きなベンテンサマを祀っているのは、煤ヶ谷でも岩澤家だけだという。銘文等は無く年代は不明だが、かつては小川のほかすぐ横に井戸もあり、その関係で祀られたものと思われる。
 ベンテンサマの祭りは特になく、正月に飾りを付けるぐらいだった。

... 牛馬の墓
 鶏舎のあたりに昔は柿の木があり、そこに質素な石碑があった。牛馬の墓といわれていた。

..(3)その他
... 御札
 御札は神社や寺から来た。売りにまわってくる人はいなかった。
 古い御札はダンゴヤキで燃やした。

... 大山
 大山(伊勢原市)は身近な山だった。百江さんは七歳のお祝いで、父親とふたり大山へお詣りに行った。また、家族が亡くなると百日目に、大山の茶湯寺(浄土宗)へ百日参りに行った(58頁参照)。

... オネンブツ
 オネンブツ(「ネンブツマワリ」とも)をやっていた。会場は各家まわりもちで、岩澤家でやるときにはザシキを使った。毎月やっていたが、まわってくるのは年に1度ぐらいだった。
行われるのは夜7時ごろからである。集まるのは女性だったが、女のいない家では男が出てくることもあった。集まった席には掛軸を掛けた。掛軸は箱に2、3本あり、会場とともにこの掛軸もまわした。
 なお、この行事は寺とは関係なかった。

.注
1 資料として掲げた岩澤家所蔵の日記帳に曳き家の記録が綴じ込んである。これには「家ヒキ 人夫名 明治三拾八年一月廿九日ヨリ二月三日迄ノ人夫」とあり、明治38年(1905)に行われたことがわかる。
2 「祭礼には煤ヶ谷まんじゅうという酒まんじゅうを作る。(中略)飯は水1升に米4合で炊き、木の桶にあけて、その中に茶碗1合くらいのコージを入れると、ブツブツと発酵してくる。これをまんじゅ酒といい、真夏だと二日でできる。よい匂いがしてくると、モロミとなっている。それを目の細かいアミザルでとり、小麦粉に混ぜてこね、しばらく置いておくと発酵する。それをまたこね返してまんじゅうとし、ノシバンに並べ加減を見てからふかす。これには砂糖を入れて小豆をすりつぶした、あんが入れてある。津久井、愛甲では祭りの酒まんじゅうはつきものである。」(『県北部の民俗Ⅱ』49頁)
3 岩澤家の日記に「ダイドコロノムコウガ四尺サガリ」「タイドコロノ柱三尺五寸モサガリ」という記述がある(63頁参照)。
4 「清川村はかつては『炭焼きの村』といわれるほどであり、村内のほとんど全戸が炭焼きをし、炭焼きのあいまに養蚕なども行われた。」(『県北部の民俗Ⅱ』3頁)
5 白炭はカマから出すとき、「竈の口からケブリダシに風が通り、炭の表面が白くなる(炭の表面に灰ができて白くなる)」(『県北部の民俗Ⅱ』18頁)
6 「竈の外に出してもまだ火がついているので、ゴベイをかけて火を消した。ゴベイというのは灰に砂を混ぜたものである。」(『県北部の民俗Ⅱ』18頁)
7 地区で所蔵する「根岸道祖神祭記 昭和五十二年起」にはつぎのように記されている。「道祖神は大いてい村の入口に祀られ道路の悪霊を防いで村人を守護する神といい、塞(サイ)の神、セエの神等という この地方では正月十四日この神を祀る行事が行なわれる。すなわち部落の家家では樫枝にさした米だんごをこの神に献げ、神前で〆飾、門松、古いお札、書初等をたきあげ供えたダンゴを竹の先にさして焼いて食べる 子供等には菓子等分け与えてにぎやかに過ごす 昔は五色の色紙に奉納道祖神と書いた旗や書初等を火中に投じ高く上るのを喜んだり青年は新婚家庭に道祖神の陽物をかついでお祝に上ったりしたものである この行事をセイトバレーともダンゴ焼き、ドンド焼きとも言っている 他の地方でサギチヨウと呼ぶ所もある 根岸の道祖神はもと県道沿いの根岸村道入口にあったが煤ヶ谷公民館建設により現在地に移動した 江戸時代より奉祭され根岸、中里、片倉の大久保氏が参加してセイトバレーの行事を毎年行い今日に及んでいる」
8 「庶民の娯楽としてにぎわったのが、飯山観音で行われていた草競馬。桜まつりで知られる飯山観音の桜の広場は、中央が塚のように盛り上がり、その周りがトラックのようになっており、競馬場の面影を今でも感じることができる。江戸時代から昭和30年代ごろまで、地元の行事として開催されていた。賭け競馬ではなかったが、自慢の馬を競わせ、勝者には優勝旗や賞金が手渡された。」(『広報あつぎ』1089号 平成22年6月15日)
9 「煤ケ谷村では明治より昭和初期にかけて、夏の日照りが続いて稲作に大被害が予想された場合に雨乞いの龍を作り、雨を呼ぶ行事が行われたのであります。蛇籠で雄龍と雌龍の骨組みを作って、萱や藁で龍の形を整え、作った龍を大勢で担いで村中を練り歩き、最後に雌龍を寺鐘の堰堤の辺りに安置し、雄龍は湯出川の天王めいの所に安置してこの行事は終りますが、この雄龍が寺鐘の雌龍に会いに行くために、大雨を降らせて川の水を増水させ、その水に乗って雌龍の処に降ったと云うことであります。」(『清川の伝承抄』45頁)
10 『県北部の民俗Ⅱ』78頁には、1月20日と11月20日の行事として恵比須講の記載がある。
11 「お七夜に、ジルイのおばさんがアカを抱き、男の子には鎌女の子には包丁とオサンマイを持って水神様にまいる。水神様は弁天さま(弁財天社)で、片原部落の中ほどの、大久保博司宅北側の岩間から、こんこんと湧き出している清水の上に、とぐろをまいた蛇状の弁天様が祀ってある。」「生後11日めの川マイリは、各部落でも必ず行われているが、別所では、イドマイリともいい、アカに一寸したよそいきのきものを着せ、その上にカケギモノをして、仲人の妻が抱き、オサンゴと女の子には包丁、男の子には鎌をもって、井戸や川へまいる。」(『県北部の民俗Ⅱ』90頁)
12 「正住寺は、後小松天皇(1382)の時に建てられ、インキヨ寺であり祈祷寺であった。(中略)祈祷寺であるため、死ビトを入れず、トブレーは行わないし墓へも行かない。ただ四十九日や1周忌の法事、盆の施餓鬼や棚終は行う。お施餓鬼には、檀家のものは、寺の草をむしりにいく。」(『県北部の民俗Ⅱ』102頁)

.参考文献
神奈川県立博物館   『県北部の民俗Ⅱ』神奈川県立博物館 1988年
川崎市        『旧岩澤家住宅移築修理工事報告書』川崎市 1990年
清川村教育委員会   『社寺めぐり』清川村教育委員会 1972年
清川村教育委員会   『清川村祠めぐり』清川村教育委員会 1975年
清川村教育委員会   『清川村の野立ちの石像群』清川村教育委員会 1976年
清川村教育委員会   『清川の郷土史』清川村教育委員会 1978年
清川村教育委員会   『清川村地名抄』清川村教育委員会 1983年
清川村教育委員会   『宮ヶ瀬の民具』清川村 1985年
清川村教育委員会   『清川の伝承抄』清川村教育委員会 1988年
清川村老人クラブ連合会『山彦古語』清川村役場住民福祉課 1981年

.図版キャプション
1 岩澤家所在地
2 左から裕之さん百江さん美江子さん博志さん
3 昭吾さんと恵美子さん
4 義家さんと長夫さん
5 岩澤家家紋
6 家印
7 石段時代のジョウグチ
8 改良されたジョウグチ
9 現在のジョウグチ
10 主屋裏のモチノキ
11 主屋裏手 左下の屋根はフロとベンジョの建物
12 入口
13 主屋裏口
14 入口内側 左は俵置き場、右はアガリハナ
15 デイドコロのイロリ 左は戸棚の背面
16 オカッテ
17 ミソベヤ
18 イタノマ
19 オクのトコノマ
20 復原された建築当初の間取り
21 昭和30年代頃の間取り
22 移築直前の間取り
23 納戸 左が押入れ、右が物入れ
24 エンガワ
25 テンブクロ
26 オフロとベンジョの建物
27 五右衛門風呂
28 敷地配置図
29 モノオキ
30 ナヤ
31 鶏舎
32 茶畑
33 材料を集める
34 正月飾りを作る1
35 正月飾りを作る2
36 正月飾りの材料
37 岩澤家で祀る御札
38 荒神棚
39 田んぼ
40 歳神棚を吊る
41 歳神棚の飾り
42 大神宮(神棚)
43 マユダマの台
44 サイノカミに供えられたダンゴ
45 ダンゴヤキ
46 ダンゴヤキの小屋
47 岩澤家のスナモリ
48 岩澤家墓地
49 オキツネサマ
50 オキツネサマの本家
51 石の祠
52 ヤマノカミサマ
53 ベンテンサマ

 

(『日本民家園収蔵品目録15 旧岩澤家住宅』2011 所収)