岩手県紫波町船久保字小屋敷 工藤家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が岩手県紫波郡紫波町船久保字小屋敷の工藤家で行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成20年(2008)7月15日と17日、2回に分けて行った。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、話者はつぎのとおりである。
  工藤ソノさん 明治41年(1908)生まれ 移築時の当主・故礒吉氏(明治39年生まれ)の妻
  工藤宗吾さん 昭和23年(1948)生まれ ソノさんの五男 岩手県八幡平市在住
  工藤栄子さん ソノさんの六男・故和美氏の妻
3 このほか、当園ではつぎのとおり工藤家に関する調査を行っている。この報告では、これらの調査記録もデータとして活かした。
 昭和44年(1969)11月8日〜13日には、移築工事に引き続く資料収集とともに調査が行われた。聞き取りにあたったのは小坂広志(当時:当園学芸員)である。また正確な日時は不明だが、同時期に新井清(当時:当園職員)が現地に入り、工藤家の墓碑・石塔について調査を行っている。
 昭和51年(1976)3月には、運搬用具調査の一環として工藤家の地元・紫波町に対しアンケート調査を行った。調査を担当したのは小坂広志、回答を寄せているのは資料収集のおり窓口となった遠山敬三氏(当時:紫波町教育次長)である。
 平成13年(2001)7月1日には、移築古民家現地調査として、敷地・付属屋・周辺環境・民俗について調査が行われた。聞き取りにあたったのは栗田一生(当時:当園学芸員、現:川崎市教育委員会文化財課)・丸石暢彦氏(財団法人文化財建造物保存技術協会、当時当園に派遣)・宇田川滋正氏(京都造形大学主任研究員、当時:日本民家園年中行事調査団副代表)である。
 平成18年(2006)8月3日には、木下あけみ(当園学芸員)が同家を訪れ、聞き取りを行った。
4 調査記録のテープ起こしには、岩手県出身で昔話の語りの活動をなさっている大平悦子氏に多大なご協力をいただいた。また、当園ボランティアグループ炉端の会会員で東北出身の芦野政弘氏と西條勝氏にもご助言をいただいた。
5 図版の出処等はつぎのとおりである。
  1、12、16    平成20年(2008)7月、渋谷撮影。
  2、6、9        野口文子作成。
  3、4、7、10、11、19、20    昭和44年(1969)、主屋の解体工事のおり撮影。
  5            『重要文化財旧工藤家住宅移築修理工事報告書』(1972)より転載。
  8            昭和43年(1968)4月、故大岡實博士(元横浜国立大学教授)撮影。
  13、17、21、23        工藤宗吾氏提供。
  14、15     昭和42年(1967)9月、故大岡實博士(元横浜国立大学教授)撮影。
               なお、博士の写真は現在、大岡實博士文庫として当園で所蔵。
  18            新井の調査に基づき野口作成。
  22            新井作成。
6 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。

.はじめに
 工藤家は東北本線の盛岡の手前、日詰駅か紫波中央駅から車で20分ほどの場所にある。周囲は山に囲まれ、そのふところに広がるリンゴ畑を背にして主屋が建っている。
 工藤ソノさんはこの工藤家に15歳で嫁ぎ、以来85年間、家を守り続けてきた。明治41年(1908)生まれ、現在100歳(調査時点)である。ここではこのソノさんとご家族からの聞き取りを中心に、工藤家の暮らしについて記述していくことにする。

.1 工藤家
 工藤家は名主も務めたという家柄である。家紋は「日の丸扇」、屋号は「カラ(河原)」である。詳しい由緒は不明ながら、先祖は高野山の「カマド(出身)」だという。九州から船で高野山に渡り、そこから金を求めて秋田に移り、さらに江戸時代中ごろに岩手に移ってきたという言い伝えがある。当時周辺には金山がたくさんあり、近くの赤沢川からも砂金がたくさん採れたといわれている。
 日本民家園に移築された旧主屋は、移ってしばらくして建てたものと伝えられている。この家に、江戸時代は30人が住んでいたという。しかしあるとき腸チフスが流行り、1人を残してあとの全員が死んでしまった。その後この1人が後片付けし、葬式を出し、消毒して落ち着いてから隣村に行って後家をもらった。こうして再出発したのが今の工藤家だという。
 工藤家はもと鈴木姓だった。しかし秋田から移ったのち、血縁の無い中で農作業を行うことに困難が生じたため、工藤家の「カマドにしてもらって」名目上本家分家関係を結び、工藤姓に改めた。移築時の当主・礒吉氏(注1)の2代前、長助氏(注2)の時代のことである。これによって工藤一族として庇護を受ける一方、さまざまな義務を負い、礒吉氏の息子の代になっても本家の手伝いなどに行っていた。一族のことを「マキ」という。工藤のマキは4軒で、本家のことは現在も「本家」と呼び習わしているが、手伝いに行くようなことはなくなった。
 礒吉氏のもとにソノさんが嫁いだとき、ソノさんを入れて家族は10人だった。ソノさんは6男1女に恵まれた。五男の宗吾さんが子どものころは、就職して家を離れた次男(注3)を除き子どもが6人、礒吉さん夫妻、礒吉さんの母のマツおばあさん(明治10年生まれ)と計9人だった。下男などが同居していたことはなかった。

.2 衣食住
..(1)住
... 屋根
 ヤドコ(屋根)はおよそ20年に1度葺き替えた。工藤家では昭和2年(1927)と20年(1945)に葺き替えている。
 葺き替えは1週間ぐらいかかった。作業は近所が総出で行い、屋根職人を呼ぶことはしなかった。屋根の上の作業は男だけでなく女も行った。ソノさんも2回の葺き替え時には屋根に上っている。みなてきぱきと働き、落ちる人などはいなかった。
 茅は裏からとっていた。ちょっとした野原なら茅だらけだったので貯めこむようなことはせず、葺き替えのとき近所の人とともに一斉に刈っていた。
 屋根に花の咲くことがあった。となりの家にはよく花菖蒲が咲いた。これは茅が土となり駄目になっている証拠であり、こうした花が咲くとそこだけ修理した。
 屋根裏にはツバメやハチが巣を作ることがあった。ツバメの方はチャノマに作ることもあった。こうしたものは縁起が良いとされ、そのままにしておいた。
 カスリーン台風(昭和22年)、アイオン台風(昭和23年)、伊勢湾台風(昭和34年)、第2室戸台風(昭和36年)など、ひどい台風がいくつか来た。しかし他の家は茅葺屋根が畑に飛んだりしたが、工藤家の屋根はびくともしなかったという。

... 柱と壁
 どの家にも山があり、家や小屋を建てるときは自分の山の木を使った。
 宗吾さんが子どものころ、主屋背面側の外の柱はところどころ礎石から浮いていた。それでも「ころばないで」もっていた。
 土壁の修理は家族で行った。葦で木舞を掻き、その上に粘土入りの赤土を塗る。葦ではなく、細い木を使うこともある。壁土には少し上流にある、崖の崩落箇所の赤土を使った。この土は粘土で、子どもたちが良く遊びに使っていた。その後、長いあいだに谷が削られて深くなってしまったが、かつてこの場所にはいつも昔の土器がごろごろ落ちていたという。

... ニワ
 土間のことを「ニワ」といい、ニワに入る正面の入口を「ゲンカン」といった。
 ニワは凹んでも修理することはなかった。修理はできたが、そのままにしていた。

... ダイドコ
 ダイドコには囲炉裏があり、ご飯を食べたり支度したりしたほか、子どもたちは勉強もこの場所でしていた。
 真っ黒い大黒柱があり、ここにダイドコの神様が祀られていた。

... 囲炉裏
 囲炉裏のことを「ヒボド」という。ヒボドはダイドコ2箇所のほか、チャノマ・ザシキ・シタザシキと全部で5箇所あった。これは5家族が住んでいたためだという。炉の内側の板は「アデギ」といい、これには梨の木などを用いた。また、炉の中の足置場を「足置板」といった。
 主人の席を「ヨコザ」、その左、主人の妻の席を「ケガザ」という。その向かいの「キニスル(木の尻)」には跡取りが座り、嫁はその左手に座った。
 ダイドコのヒボドには薪を使った。薪には雑木の柴や枝のほか、ナラ・栗・松などを使った。チャノマのヒボドは来客用で、こちらには薪のほか、ときには木炭も使った。
 夜、火を落とすことを「火留め」という。まず主婦か嫁がヒボドの周囲を掃除し、木尻(燃え残り木)に水をかけて消火する。そして炉の炭火の中に木を2、3本入れ、そのまわりを灰で固く埋める。この木を「留木」という。ナラなどの丸木を1尺ほどに切ったものである。一方、翌朝留火を熾すことを「朝火」という。焚き付けを乗せ、付け木で点火し、釜を掛けて湯を沸かす。留木には上等の木を使うため炭火として朝まで残り、消壷に入れて消火したのち木炭として用いた。宗吾さんが子どものころ、朝起きると母親のソノさんが火を焚いており、パチパチパチパチと音がして煙が出ていた。毎日なので柱も黒光りしていた。
 ヒボドの灰を始末するときは便所に保存した。肥料に使ったほか、雪をかぶった畑に撒いたり、凍った坂道に撒いたりした。灰を撒くと日の光で溶けやすくなるのに加え、滑るところではざらざらして歩きやすくなった。そのため、どこの家でも保存していた。
 ダイドコのヒボドの上には火棚があり、正月は幣束を供えた。これは火傷除けなどの意味があった。

... ムロ
 ダイドコからニワに床が張り出していた。弘化2年(1845)生まれのヤスおばあさん(礒吉氏の祖母)が昭和11年(1936)に亡くなるまで、この場所に寝ていた。ここからは馬が見えた。
 この場所の下にムロがあった。そのためこの床を歩くと、カタンカタンと、いかにも下が空洞になっているような音がした。床板を上げると階段があり、下りると四方の壁が石垣になっていた。広さは3畳以上あり、中に入るとひんやりしていて、懐中電灯で照らすとコオロギが跳ねていた。ここにはジャガイモ・ハクサイ・キャベツなどの野菜のほか、冷やしておきたいものをたくさん貯蔵していた。ただし、家の入口に当たるため酒を隠すことはなかった。
 こうしたムロのあったのは大きい家だけで、周辺では工藤家だけだった。

... カッテノマ
 カッテノマにはナカナンドを背にしてホトケサン(仏壇)
があった。
 酒の醸造はこの部屋で行っていた。

... チャノマ
 チャノマのカッテノマ側に神棚があった。小正月のミズキダンゴはこのそばに飾った。
 ザシキ以外は板敷きで、冬でも何も敷かなかった。家の中は鬼ごっこができるぐらい広く、子どもたちが走るとダダダダという音がした。

... ナカナンド
 ナカナンドは主人夫婦と幼い子どもたちの寝室だった。宗吾さんは子どものころ、弟の和美さん(昭和25年生まれ)とともに両親のこの部屋で寝ていた。そのころは窓があり、朝日が射すと、外に咲く萩の花影が障子に映った。子ども心にも風流な、とても良い部屋だったという。この萩の木は伊達藩のものである。ヤスおばあさんの夫・長助氏が仙台に行ったおり、地元のものと違ったため根を掘って持ち帰った。この木が大きかったのは、持ち帰ったあと山の萩に挿し木したためである。

... シュウトダノヘヤ
 ナカナンドとなりの小部屋には、礒吉氏の母・マツさんが寝起きしていた。こうしたまわりに窓のない、どこからも外から直接侵入できない部屋に、昔は一番目上の大事な人を入れた。

... ネドコ
 シタザシキ西側の小部屋2つを「ネドコ」といった。もとはトシヨリたちが使っていたが、宗吾さんの長兄が嫁をとったときに改築し、立派な部屋になっていた。

... シタザシキ
 普段は物置のようになっていた。しかし、宴会など何かあるときは片付け、ザシキのあいだの襖を取り払って大広間にした。古くは畳が入っているのはザシキのみだったが、その後、この部屋にも何かのときは入れるようになった。2つの部屋を合わせると20畳(ザシキが12畳半、シタザシキが7畳半)あった。

... ザシキ
 ザシキを使うのは客が来たときや宴会などのときだけで、普段は使わなかった。畳は何かあるとき敷くのみで、普段は台の板の上に積んであった。畳は自家製ではなく、畳屋に作ってもらっていた。
 ザシキの外側には縁側があった。しかし、普段雨戸は閉め切っており、光が入らず真っ暗だった。この場所は雨戸の格納場所になっていた。また、年に1回しか使わない雛人形のようなものがたくさん仕舞ってあった。子どもがいたずらをすると、お仕置きとして閉じ込められるのもこの場所だった。

... マヤ
 マヤには2頭の馬が飼われていた。掘り下げた土間には傾斜がついており、馬の尿が流れて西側の壁の石垣の外側に溜まるようになっていた。
 マヤの上には中2階があり、稲ワラをはじめ冬の馬の飼料が積んであった。積み上げるときは兄弟の中で元気の良いのが2階に投げ上げ、もう1人が上で受け取って、奥の方から詰めていった。
 マヤの外側には棚があった。一番下にはニグラ(荷鞍)やバッコ(馬耕)、2段目にはクビワ(首輪)やマンガン(馬鍬)、3段目にはインブリ(エブリ。田を掻いたとき平らにする大きな板)や馬をまわす竹竿などが置いてあった。

... 便所
 主屋の西側に外便所があった。昭和12年(1937)ごろ建てられたもので、屋根は棟を杉皮で押さえた茅葺、壁は土壁だった(注4)。この便所は男女の大用および女性の小用として使われた。
 この外便所の左側、道具小屋とのあいだにもう1つ便所があった。こちらは小用で、男女ともに使用した。
 このほか小用便所としては、主屋の口を出たところに男性用のものが設けられていた。
 冬の夜中でも用を足すときには外に出た。

... 風呂
 風呂のことを「スフロ(据風呂)」といった。杉皮葺の小さな建物が主屋の裏手の川のそばに設けられており、そこまでのあいだにはすのこが敷かれてあった。冬ももちろん歩いて行き、大雨のときなども子どもたちは裸でワーッと言って走っていった。雨の日はすのこが濡れていて、すべって転ぶこともあったという。
 浴槽は「ゴエモン」ではなく、木でできた丸いものだった。燃料にはマギ(薪)を使った。水は川から汲んだが、工藤家は川に近かったので便利だった。
 水汲みをしなければならなかったため、忙しくて毎日は入れなかった。入るのは3日に1度、あとは川で体を洗うぐらいだった。
 風呂を立てると「けでけろ(入れてくれ)」といって、風呂屋でもないのに近所の人たちが入りに来た。入る順番は主人が最初で、嫁は最後だった。
 その後、昭和30年代の中ごろに、主屋の裏手に風呂場が増築された。ダイドコに出入口が設けられ、雨や雪でも濡れずにすむようになった。この場所には風呂のほか、洗濯場と洗面所が設けられていた。

... クラ
 主屋の裏にクラがあった。昭和30年代後半の建築で、コヤ(納屋)の増築に引き続き、台風による倒木を利用して建てられたものである。
 中には客用の膳や江戸時代の証文等が納められ、そのほか収穫されたリンゴの保管に現在も使用されている。

... コヤ
 主屋の南側に位置していたコヤは、昭和17年(1942)ごろの建築である。当初は平屋、茅葺屋根で、壁のない吹き通しの建物だった。収穫した麦や、後には葉煙草の乾燥に使用されたため、壁が不要だったのである。その後土壁が設けられ、ソダギゴヤとして使われていたが、昭和30年代後半、台風で山の栗の木がたくさん倒れたとき、それを使って2階と庇を増築した。屋根は同じく茅葺である。このとき、煙草などいつまでもやるものではないのに、という人もいたが、増築しておいたおかげで役に立った。
 2階には家畜の餌として、稲ワラ・大麦小麦のワラ・葛の葉などが積んであった。背丈ほどの大きさのある種籾の保管箱もこの場所にあった。その後家畜がいなくなってからは、1階は収穫されたリンゴの選別に、2階は物置として使用されている。主屋移築の際には家族の仮住まいにもなった。現在の屋根はトタン葺である。

..(2)食
... 食事
 主食はムギゴハンだった。大麦を1割ほど混ぜたものである。さらに昔は「カデメシ」といい、米少しのほかは大根と粟、稗だった。
 朝飯は8時ごろだった。ムギゴハンのほかは大根やイモの入った味噌汁と、大根の漬物ぐらいだった。
 昼飯は12時で、やはりムギゴハンだった。
 夕方は暗くなると家に入ったので、夕飯を食べる時間も季節で異なり、夏は7時、秋冬は6時ごろだった。食べるものは夜も同じだった。

... 餅
 餅は年に何回も搗いた。祭りなど行事のときのほか、誰かの誕生日にも餅を搗いて食べていた。そのため家のまわりで小豆・ゴマ・クルミなどを栽培し、収穫したものを保存していた。
 餅は兄弟の中の元気の良い者が搗いていた。工藤家では体が大きくなると、そろそろいいだろうお前搗けと言われる。それが大人として認められた印だった。

... 小麦・ソバ・豆
 小麦はまんじゅうやダンゴなどを作るために栽培していた。ただしこうしたものは副食で、出すのは宴会のときや客が来たときだけだった。
 ソバも栽培し、家で打って食べていた。行事のときだけ食べるというものではなく、好きなときに食べていた。
 大豆・小豆・ゴマは常に栽培していた。大豆は豆腐・味噌・納豆などを作るのに使った。冬に限らず、夏にも作っていた。小豆とゴマは餅に使っていた。
 穀物を搗いたり、ソバを挽いたりするときは水車を使った。川の上流にあり、何軒かの家でカワリバンコに利用していた。搗いているあいだはときどきかき混ぜる必要があるため、家の者が付いていなければならない。時間がかかるので子どもたちは、水車小屋まで弁当もってこい、などと言いつけられた。

... 魚と肉
 魚はご馳走だった。行事のときだけということではなかったが、たまにしか食べなかった。食べていた魚はサケやマスだった。
 栄子さんが工藤家に嫁いだ昭和53年(1978)ごろは、ホッケやスジコなど、塩漬けで保存の利くものをまとめて買って少しずつ食べていた。
 ソノさんは嫁に来た大正11年(1922)ごろはウサギやキジをいくらか食べていたが、好きではなかったという。
「若いときは食べたが、魚もかんねば(食べなければ)肉もかんね。やんたくて(嫌いで)。野菜と山菜しかかんねから、(長生きは)そのせいもあるんでねが。」
 ウサギやキジは野生のものを鉄砲で撃ったり、罠を仕掛けたりして獲っていた。ニワトリやブタを食べるようになったのは、そのあとである。
 免許を持った鉄砲撃ちがいて熊を獲っていた。工藤家ではやらなかったが、肉をもらうことはあった。熊は今も出ることがあるが、イノシシは見たことがないという。

... 山菜・キノコ・果樹
 山菜はフギ(蕗)・ウルギ・ミズなどたくさん採れた。ソノさんはミズが好きだったという。
 キノコもバクロウ(香茸)・シメジ・サクラシメジ・ナメコ・アミタケ・マイタケ・マツタケなど何でも採れた。
 家のまわりにはどこの家でも柿の木が何本かあった。実だけでなく、若葉もてんぷらなどにして食べた。これはとてもおいしく、滋養強壮にもなった。柿の中でマメガキという種類だけは真冬に実を付ける。幹を蹴ると雪の上にぽたぽたと落ちてきた。実は小さくてもこのころになると渋が抜けておいしく、6人もいる家の子どもたちが集まって食べていた。これが冬のオヤツだった。
 このほかクルミやヤマナシなども、食用にするために必ず家に植えてあった。
 麻の実は炒って食べるととてもおいしかった。アヘンをとるものだから駄目だといわれたが、食べて病気になった人も馬鹿になった人もいなかった。

... 油・砂糖・味噌
 食用油は菜種から搾っていた。
 砂糖はキビを植えて採っていた。甘いものなので、よその子どもたちがとったりした。
「子どもら歩くときに折ってなめて行ってしまうのに、ばあさん『また折ったじぇ』って。なーに、甘いもんだから、折ってたんないで(持って)行くんだもの。今、子どもなんぼもねぇ。そのあたりぞろぞろと、子どもあったんだもの。」
 味噌も自家製だった。冬、まず煮た大豆をつぶして大きく丸める。これを「ミソダマ」という。家の中に吊るしておくと乾燥してカチンカチンに固まった。落ちてくることはなかったが、頭にぶつけると痛かったという。吊るして干したミソダマは、今度は樽に入れて寝かせる。このとき工藤家では味噌の中に昆布を入れる。出汁になるだけでなく、この昆布もその後おかずになった。子どもたちは大人に言いつけられて味噌をとりにいった。味噌樽は子どもにとってはものすごく大きく、とるときには踏み台を使わなければならなかった。味噌を搾る専用の機械があった。子どもたちはそれで搾るのを面白がって見ていたという。工藤家では昭和30年代の初めまで、こうした味噌作りをやっていた。そのころはどの家も同じようなやり方だった。

... 水
 水は、古くは主屋のそばの川の上流から桶で汲んでいた。この川の水は非常にきれいで、近所の人も飲み水に使っていた。水を汲む場所のそばにもう1軒家があったが、流れの近くだったので何かを流したり捨てたりすることはなかった。
 昭和29年(1954)ごろ、主屋の北角、主屋と風呂のあいだに井戸を掘った。掘ったときに化石が出てきた。この水は飲み水にしたほか、家畜にもやった。
 水を引いたのは井戸よりあとである。川の上流の湧水からパイプを使ってダイドコのナガシに引き、蛇口をつけて自家水道にした。冬は水がとても冷たく、川の上にはうっすらと氷が張ったが、水道は流しっぱなしのため凍ることはなかった。なお、洗い物などはその後も川でやっていた。

... 貯蔵
 作物は獲れない年もあった。そのため、米びつに米・小麦・大麦などを混ざらないように蓄えておき、そうした年は前年までのものを少しづつ食べた。米びつに入れるときはモミのまま入れ、食べるときに籾摺りをした。虫がすぐ湧くように出てくるので、ひろげてよく乾燥させ、虫除けにサンショウの枝を入れた。
 このような習慣は昭和50年代にも残っており、普通の年でも去年の米でなく、その前の一昨年の米を食べていた。古い米なので洗うと濁り水が出たが、炊くときに砂糖を入れればおいしくなるとか、サラダ油を少したらすと出来上がりが良いといわれていた。

... 酒
 酒はどの家も作っていた。車のない時代は、客というとエンガワに座らせてまず一杯酒を出した。出すとみんな飲んだ。いやいや飲めない飲めないと言っても、それでやめてしまうとこの地域では失礼に当たるため、3回か4回は一生懸命すすめるのが習いだった。酒は家によって味が違った。客の方はここの家は美味いとか酸っぱいとか考えながら帰った。
 密造酒の摘発を「サケアラタメ」といった。有線が入ると、すぐサケアラタメの連絡に使われるようになった。まず、あらかじめサケアラタメはどの曲というように取り決めをしておく。「蛍の光」などが使われた。そして実際に来ると、有線を使ってその音楽を流す。すると家にいる年寄りたちが畑に走り、来るぞ来るぞと叫んでまわる。それを受けてみな家に戻り、山や畑に酒を隠すのである。有線が入る前はサケアラタメが来ることを隠語で伝えたりしたが、うまく伝わらないこともあった。
「マゴイチの親父、『イタヅカの牛はなれだ』って叫んだ。酒かくすと思って。□□(屋号)の人たち、『どごで牛はなれだべ、どご歩いでらべ』と出はって見でれば、(サケアラタメに)酒見つけらいでらった。」
 しかし、酒を作る部屋はどうやっても酒臭かった。甘酒だと言ってごまかしたりしたが、むこうもプロなので、道を入ってどの辺に隠したということが大体わかってしまった。
 見つかると罰金を取られた。ただし、当時は酒の入っている一升瓶を割ってしまえば罰金は免れた。ある人は見つかったため、割ってしまおうとしてビンを投げたが割れない。そのためサケアラタメにビンを取り上げられて罰金30円を取られた。またある人はサケアラタメが来たとき、畑に入ってカボチャで割ろうとした。しかしカボチャの方がへこむばかりで壊れない。そのうちサケアラタメに見つかってしまい、「往復ビンタン」をとられた。そんな話が残っている。

... サイダー
 100歳のソノさんの好物は三ツ矢サイダーである。家で作っているブドウジュースやリンゴジュースは飲まず、昔からずっと三ツ矢サイダーを飲み続けている。体調を崩してご飯を食べたくないときは三ツ矢サイダーだけである。昔はビンだったので、ビールのように箱で買っていた。

..(3)衣
... 着物
 家族の着物は自家製で、家で機織りしていた。ソノさんは移築のときまでやっていたが、もう織ることはないと礒吉氏にいわれ、機織り機を民家園に寄贈してくれたという。
 織るのは麻が多かった。麻は糸が太くて織りやすかったが、アヘンをとるものだとして栽培を止められた。そのほか木綿も織ったが、絹はマユから糸をとるのが手間だったので織らなかった。

... 履物
 昔は靴がなく、ワラジのほか冬場はツマゴ(6頁参照)を使った。ワラを使って男女とも自分で作っていた。

... 寝具
 床板の上にクズフトンを敷き、その上にフトンを敷いて寝ていた。フトンの中身は木綿の綿、クズフトンの中身はワラのやわらかいところだった。どこの家でもそうだった。ソノさんは嫁入りのときクズフトンを持ってきた。
 枕の中身はソバの殻だった。ソバの枕は頭が良くなるとか、頭の病気にならないといわれていた。木の台が付いているキマクラは、髪を結っていた時代に使われていた。
 夏は寝るときに蚊帳を吊った。ソノさんは蚊帳も嫁入りのとき持ってきた。

... 髪型
 女性は髪結いに行った。子どもの髪はソノさんがバリカンで刈り、坊主にした。

... お歯黒
 工藤家の近所に1人だけ、昭和30年代にもお歯黒をしているおばあさんがいた。お歯黒の入れ物があり、白くなってくるとときどきそれを塗っていた。

..(4)暮らし
... 夜の暗さ
 夜の暗さは半端でなかった。長岡や彦部(いずれも紫波町)など、となり村のあたりでは真夜中でも地平線近くの空はうっすらと明るかったが、工藤家周辺は山に囲まれて煙突のようになっているため、真っ暗だった。そのため星はものすごく美しかった。天の川は白い牛乳のようで、それがそのまま迫ってくるように見えた。宗吾さんは夏、よくエンガワ前の庭先にムシロを敷き、弟の和美さんといっしょに寝転がって星を見たという。

... 照明
 昭和3年(1928)に電気が入る前は、「吊るすランプ(石油ランプ)」だった。しかし、ランプのない家もあり、そうした家では石油を皿に入れてポーと燃やしていた。
 宗吾さんの育ったころは、チャノマ・ダイドコ・ザシキ・シタザシキなど5箇所ぐらいに裸電球が入っていた。
 
... 雪と寒さ
 積雪は多くなかった。屋根の雪を下ろすようなこともなく、自然に落ちてくるのを待った。しかし、夜寝ていると顔に雪が降ってきて驚くことがあった。これは屋根の煙出しから吹き込んでくるもので、寝ている場所に積もることもあった。
 宗吾さんが小学生のとき、一晩で1m60cm降ったことがあった。そのままでは子どもたちが学校に行けないため、このときは大人が馬で丸太を2本ぐらい曳き、道をつけた。
 雪は少なかったが、寒さは非常に厳しかった。軒から垂れ下がった氷柱は地面に達するほどになった。工藤家は天井を張っておらず、板敷きの床にも冬だからといって何かを敷くことはなかった。そのためものすごく冷え、泊まりに行きたいが寒いのでもう行かないと言われるほどだった。しかし、囲炉裏は真夜中以外焚いていて火の気は常にあったので、火にあたったり、ワタイレバンテンのようなものを着込んだりして、それでなんともなかったという。

... ラジオ・テレビ
 昭和23年(1948)に初めてラジオが入った。チャノマのナンド寄りの隅に子どもの教科書などを入れる引き出しがあり、その上にちょこんと置いてあった。礒吉氏は囲炉裏のところにいたが、他の家族はラジオの前に集まり、プロ野球を聴いたり相撲を聴いたりなんだかんだとやっていた。36年(1961)には大きいラジオが入った。マツおばあさんはラジオの前に座りずっと見ているので、ラジオは聴くもんだ見なくてもいいんだ、とみんなに言われていた。
 テレビは昭和37年(1962)ごろ入った。それまではプロ野球のオールスターなどがあると、子どもたちは夜道を歩き、テレビのある家まで行って見せてもらっていた。そのころはテレビを見せてくださいというと中に入れてくれたので、1時間も2時間も見ていた。

... 有線・電話
 電話が入るまで地域の連絡には有線が使われていた。これは町内だけに通ずるもので、「何番何番」と呼ばれて出ると相手と話すことができた。ただし、他で使っているあいだにとると話が聞こえてしまうので、内緒のことはしゃべれなかった。
 電話が入ったのは、昭和30年代の半ば以降だった。

... 掃除・洗濯
 ホウキノキという植物があった。根元から切ると上の方がバサーッとしているので、ニワを掃いたりするのに使えた。箒は買わなくて良かった。
 洗濯は毎日していた。洗濯板もない時代はタライを使い、手で揉んでいた。洗剤は固形石鹸で、さらにその前はサイカチの実を泡立てて使っていた。サイカチは山の川沿いに生えていた。

... 病気・火傷
 病気のときは日詰(紫波町)の木村病院まで行かなければならなかった。ソノさんが体調を崩していたとき、宗吾さんは日詰に栗を届けるのを兼ねて、いっしょに馬車に乗って病院に行ったことがあったという。診療所が近くにできたのは、昭和40年(1965)より後である。
 昔は火傷が多かった。クラスに1人、100人いれば2人は火傷をしている子どもがいた。耳から頭までというような大きな火傷をしている子もいたが、それらはみな囲炉裏によるものだった。囲炉裏に柵のようなものはない。宗吾さんと弟の和美さんは小さいころ、親が畑に行くときは囲炉裏に入らないよう、「ユデ」というおぶい紐でダイドコの柱に結ばれていたという。ただ、火に入って火傷するよりも、かけてある鍋などをひっくり返して、という方が多かった。炭火に中身が落ちて蒸気がばっと上がり、それで火傷してしまうのである。何かしようとして抱いていた赤ちゃんをほいっと渡すとき、手もとが狂って火傷させてしまうようなこともあった。それでも結局、寒いから囲炉裏端に寄っていた。

... 災害
 地震は少ない土地で、大きなものはなかった。
 大雨が降るとしばしば鉄砲水が出た。特に明治のころは非常に大きな鉄砲水が出たという。しかし薪などを使わなくなり、山の木の伐採をやめると、あまり発生しなくなった。
 昭和30年代までは火事が多かった。そのころ囲炉裏の灰を始末するときは、便所に保存した。それが夜中再び燃え出し、火事になることが多かったのである。茅葺は火事になると怖かった。工藤家で火事になったことはなかったが、近所には火を出した家もあった。火事になったらいち早く近所に知らせることが重要である。しかしある家は、自分の家のものを外に出すのに夢中になり、周囲に知らせることをしなかった。そのためすぐに気付かず、となりの人が「火事だじぇ早く逃げろ、支度しろ」と叫んだので窓を開けたところ、すでにポーっと火が上がっていた。近所で火事があると手伝いに出た。消防に入っているとそちらの仕事もした。和美さんは消防の班長をしていたので、火事があったときには半鐘を鳴らし、周辺の家に知らせて歩き、さらに自転車で警察まで連絡に行かなければならなかった。

.3 生業
..(1)稲作・畑作
... 田畑
 工藤家は農業を生業としてきたが、古くは畑だけで田んぼはなかったという。
 畑は2町5反歩あり、麦や野菜などを栽培していた。
 田んぼは昭和30年代に3反歩から5反歩に増やした。5反歩あれば家族で食べても十分だった。作っていた品種はトヨニシキである。その後、昭和53年(1978)ごろササニシキに変わり、のちにはアキタコマチも作るようになった。
 ソノさんは昭和14年(1939)に舅の長八氏(注5)が亡くなったあと、農作業をひとりでこなしたという。礒吉氏がサカヤカセギ(酒屋稼ぎ)に行っていたためである。
「それでオレは目に遭わせられた(苦労した)、百姓で。ただの畑(耕していない畑)さ肥つけだり、ワォッコ(農具)で掘ったり。稼いだよ。舅は亡くなったし、姑は小さい子ども見ないといけない。だから自分ひとり。姑は寝込んで亡くなるとき、オレのことをカミ(神様)みたいなものだと言った。」

... 耕運機
 耕作には馬を使っていたが、昭和34年(1959)にクボタの耕運機を買った。届いたときには主屋のエンガワ前に家族が集まり、宝物の黒い子牛もいっしょに入れて、みんなで記念写真を撮った。初めて動かしたときはものすごい音がして、子どもたちは怖くて逃げ出したという。

..(2)畜産
... 馬
 馬や牛を常時飼育していた。飼うのをやめたのは主屋の移築後である。
 馬はバクロウから買い、マヤで2頭飼育していた。特別名は付けなかったが、栗毛は「クロ」、赤毛は「アカ」と呼んで家族同様に大切にしていた。
 耕運機が入るまでは「バコウ(馬耕)」といい、畑や田んぼはすべて馬を使って耕していた。馬にマンガン(馬鍬)を引っ張らせるのだが、後ろから思いきり押してやらないと馬も途中で止まってしまうため、押す人も大変だった。山から木を下ろすのも馬でなければならなかった。
 エサは朝・昼・夜と、1日に3回やっていた。エサにしたのはワラ(稲わら)・エンバク(燕麦)・葛の葉などである。ワラには割合を決め、フスマを混ぜたり、溜めておいた米の研ぎ汁を混ぜたりしていた。宗吾さんは混ぜるのを忘れ、よく兄弟に叱られたという。エンバクはそこらじゅうに植えておいた。葛の葉はコヤの2階で乾燥させ、冬場のエサにしていた。
 水を飲ませるときは、冬場はカマで温めた。このカマは馬のお産のとき、カイバをやわらかくするのにも使った。
 マヤにはワラを敷き、馬に踏ませた。こうすると非常に良い肥料になるため、どの家でもやっていた。また、馬のシッコ(尿)も大事にし、溜めておいて畑にかけていた。
 馬が子を産むこともあった。礒吉氏はよく子馬を引っ張り出し、自分の手だけで間に合わないと「ほら軍手をしろ」といって嫁にも手伝わせていた。生まれた子馬は一緒に飼ったが、売ることもあった。
 難産のときや病気に罹ったときはハクラク(伯楽)を呼んだ。ハクラクとは馬の医者で、長岡というとなりの集落に専門にやっている人がいた。ハクラクは馬の様子を診て薬を飲ませたりした。しかし、それでも昔はずいぶん馬が死んだ。
「大事にしたども、死ぬさも死んだったな。」
 工藤家の山の高いところ、主屋南側のリンゴ畑のあるあたりにウマノハカドコ(共同墓地)があった。船久保で馬が死ぬと、みなここに運んで葬った。埋めたあとはワラで作った馬を立て、豆を煮て供えた。
 耕運機を買って耕作に馬を使わなくなっても、バシャカケウマ(馬車かけ馬)は欠かせなかった。

... 牛
 昭和34年(1959)に耕運機を買うと耕作用の馬が必要なくなり、乳牛を飼いはじめた。飼育にはマヤや、敷地内に作った小屋が使われた。飼っていたのは2頭で、餌は馬と同じようなものだった。
 牛乳は毎日出荷していた。子どもが学校に行くとき、牛乳の入ったアルミ缶を自転車の後ろに積み、収集所まで持っていった。
 牛の場合、生まれた子牛はみな売った。お産が近づくと付きっきりで、自分の布団で寝る余裕はなかった。難産のときは子牛を引っ張り出してやり、お産のあとは必ず味噌をなめさせてやった。
 「いま、馬おぐどこも牛おぐどこもなくなった(飼っている家がなくなった)。」

... その他
 犬猫を除くと、家畜として飼われていた動物としては、このほかヤギ・ブタ・ニワトリ・綿羊などがある。ソノさんの長男喜八氏(昭和3年生まれ)は動物好きでいろいろなものを飼い、自分で動物園みたいだといっていた。ヒツジにはマヤが使われたこともあったが、その他は外の小屋で飼っていた。
 ヤギは乳を搾るのに飼っていた。大きなヤギだった。ヤギの乳は脂肪が強かった。
 ブタは売るために飼っていた。
 ニワトリは卵を採るのにたくさん飼っていた。
 ヒツジは毛を採るのに飼っていた。毛は大迫(花巻市)に持って行き、毛糸にしてもらった。
 ソノさんの娘・令子さん(昭和13年生まれ)は編み物をやっており、頼まれてセーターや着物・羽織などを編んでいた。

..(3)煙草栽培
... 概況
 煙草の栽培は養蚕とともに貴重な現金収入源だった。工藤家周辺ではどこでもやっており、今も栽培している家がある。工藤家で栽培をはじめたのは少なくとも大正11年(1922)以前のことである。この年ソノさんが嫁に来たときには、すでに煙草を栽培していた。しかし戦後、葉煙草の商品価値が下がったため次第に果樹に切り替え、昭和40年代のはじめに栽培を終えた。
 煙草は春に植え、冬に吊るす。1年かかる作業だった。

... 栽培
 煙草の栽培は腐葉土を作ることから始まる。腐葉土には山の落ち葉を使い、そのための枯葉拾いを家族でワイワイ騒ぎながらやったという。
 春、まずビニールハウスの中の腐葉土に種を撒く。そして、少し大きくなってから畑に移す。1本1本数え、どこの畑に何本植えたか専売公社に洩れなく届けなければならない。煙草は専売制のため管理が非常に厳しく、届けないと酒と同じで密造ということになってしまった。
 工藤家で栽培していたのは背丈よりずっと大きくなるバレー種である。高さは2mにもなり、作業するときは上を向かなければならない。太陽が直接目に入るので目を悪くする人もいたが、昔のことなのでサングラスもかけずに作業していた。煙草は大変だったが、それでも現金になるからやっていた。
 1本の株の一番上の葉を「テンパ」という。この葉は品質が悪くて辛く、「エコー」や「新生」など安い煙草に使われた。真ん中の立派な葉は「ホンパ」という。こちらは「ハイライト」や「ピース」といった良い煙草に使われた。
 煙草は2、3年続けると、その畑には何もできないと言われるくらい土地の養分をとってしまった。荒れていた畑にある人がキュウリを植えところ、出来なかった。そこで調べてみると、原因は煙草のクスリ(成分)で、これが抜けるには40年かかると言われたという。

... 乾燥
 9月、秋の養蚕が終わると煙草の葉を乾燥のため吊るした。煙草は蚕の成育に悪く、飼育しているうち吊るすと青水を吹いてマユを作れなくなってしまう。そのため、蚕がすっかりすんでからでないと煙草を吊るすことはできなかった。
 煙草の葉を吊るすときは縄を使う。葉を縄目にはさみ込み、これを部屋に渡すのである。吊るすときはみな梁に上って作業した。工藤家ではこうした作業に支障をきたすため天井板を張っていなかった。チャノマもザシキも家中煙草を吊るし、部屋の中を歩くときはかがんで歩かねばならなかったという。ザシキ・シタザシキ・チャノマ・ダイドコと、どの部屋にも真ん中に炉が設けてあり、雨が降ったりすると乾燥させるために火も焚いた。

... 出荷
 乾燥し終えた煙草の葉は出荷するために重ねる。冬の夜、子どもも年寄りも全員でいろいろなことをしゃべりながら、手でしわを伸ばして葉を重ねていった。葉からはものすごいヤニが出た。素手で作業すると黄色く付いて何箇月も取れなかった。宗吾さんはいやだったが、子どもも冬休みのあいだ中ずっとやらされたという。
 束ねた葉は大迫(花巻市)の専売公社に出荷した。

... 密造
 栽培した葉を隠しておき、後で自分で加工して吸っている人もいた。当時は重い罪になった。あるとき宗吾さんが弟の和美さんと山で遊んでいて、穴の中でそうしたものを見つけたことがあったという。

..(4)養蚕
... 概況
 養蚕も煙草と同じく、ソノさんが嫁に来た大正11年(1922)にはすでに行っていた。煙草と並ぶ現金収入源だった。かつてはどの家のまわりにも桑の木がずらっとならんでいたが、工藤家では昭和33年(1958)ごろ蚕の飼育を終えた。
 桑
 工藤家で栽培していた桑には、丈が大きくなるものと小さいものと2種類あった。大きいものは「ロウソ(魯桑)」といい、葉も大きかった。大きくて真っ黒い実は、子どもにとっても最上等のオヤツだった。一方、小さい木の方は実も小さく、子どもも見向きもしなかった。

... 飼育
 養蚕を盛んにやっていたころは、ハルコ(春蚕)・ナツコ(夏蚕)・アキコ(秋蚕)と年に3回やった。
 養蚕のタネ(種紙)は日詰(紫波町)の「橋本善太」(注6)という個人の店から買っていた。飼育に使っていたのはザシキとシタザシキで、ここに棚を作っていた。

... 出荷
 マユは「橋本善太」に出荷していた。他の家は糸を取るマユばかりだったが、工藤家は「分譲」が上手だと橋本善太に言われ、「タネを切る」マユばかり置かせられた。「分譲」というのは蚕のタネを分けること、「タネを切る」というのは種紙にタネを産ませることで、工藤家ではつまり、種紙を作るためのマユを生産していたのである。マユは良く採れる年と採れない年があった。橋本善太の店ではときどき人を寄越し、蚕の出来を見回っていた。

..(5)その他
... 果樹栽培
 工藤家では戦後、煙草から次第にリンゴやブドウなどの果樹に切り替え、現在に至っている。石灰の豊富な土が果樹に合い、リンゴでもブドウでも秤に載せると1kgもある大きなものが採れた。昭和30年代は特にすごかった。ただし連作被害といって、同じものだけ植えていると出来が悪くなってしまうという。

... シイタケ栽培
 冬は農閑期で、屋外の作業はシイタケの準備くらいだった。栽培に使うホダギを水に漬ける作業である。川に漬けては上げ、漬けては上げを繰り返すのだが、このときの水はものすごく冷たかったという。
 シイタケの栽培には屋根にビニールを張った小さな小屋を使った。出来は良く、1本のホダギにびっしり30個ぐらいついた。工藤家ではこのシイタケも出荷していた。

... サカヤカセギ
 杜氏として出稼ぎに行くことを「サカヤカセギ(酒屋稼ぎ)」といった。礒吉氏は毎年、樺太まで行っていた。何年も帰ってこなかったり、金を送ってくるかわりに蓄音機を背負ってきたりということもあったという。太平洋戦争の終わりのころ、青森に帰る船がなくなるから早く帰ってこいと、ソノさんは手紙や電報で促した。しかし礒吉氏はツクリ(酒の仕込み)が終わってからといって帰ってこない。そのうち青森行きは本当になくなってしまい、新潟行きの貨物船にもぐりこんで本土に帰ってきたという。
 サカヤカセギは現在もやっている家がある。夏場農業で稼ぐより、冬場のこの収入の方が大きいという。行く先は茨城・兵庫・広島などである。兵庫に行っていた人は阪神大震災に遭い、あわてて裸足で逃げ帰ってきたという。

... 地域の生業
 工藤家ではやっていなかったが、炭焼きをしている家は多かった。山に煙がもくもくと出ているのが見られた。
 周辺の山にはかつて金の出るところがたくさんあり、工藤家の近くにも女牛金山があった。カネクギやスギマチには稼ぎに行った人がいたが、工藤家で直接採掘に行ったという話は残っていない。
 金山には大阪の人がたくさん来ていて、聞いたことのない名字の人がたくさんいた。そうした中にはすごく頭の良い子たちがいた。
 現在、金の採掘は行われていないが、採石場があり、発破をかける音が1日1回聞こえる。以前は石灰岩を掘っていたが、現在採っているのは砂利である。

.4.交通交易
..(1)交通・運搬
... 渡し舟
 日詰(紫波町)に出る道は途中、北上川にぶつかる。橋ができたのは昭和3年(1928)で、それまでは渡し舟だった。渡し舟には人が乗る舟と、馬専用の舟とがあった。馬は荷物を乗せたまま舟に乗せた。馬車は馬用の舟の方にそのまま乗せた。川の両岸には太い針金が渡してあり、流されぬよう舟をつないだ上で、漕ぎ手が操って行き来させていた。しかし、昭和2年(1927)に大波で舟が沈み人が流される事故があり、それがきっかけで橋が建設された。

... バス
 日詰に出るときは、荷物のあるときは馬車、ないときにはバスも使った。しかし、バスは1日3回ぐらいしかなかったので、時間が合わないとみな平気で歩いた。松林をぞろぞろ歩いて買い物に行き、途中で近所の人とすれ違って挨拶したりした。家が1軒もないところがかなり続いたが、女性も歩いていた。特に夏は良く歩いたという。

... バイク・自動車
 バイクも使った。宗吾さんは高校のときバイクで通学していた。
 自動車は昭和46年(1971)に和美さんが免許を取り、車庫を作って入れたのが最初である。

... 背負梯子
 (この項は当時紫波町教育次長だった遠山敬三氏からのアンケートの回答をまとめたものである。工藤家でも似たような使い方をしていたと考えられることから、ここに掲載する。)
 背負梯子のことを「セオイハセゴ」という。寸法は5尺4寸、材料には杉を使う。背中あては縄である。数え方は「ひとつふたつ」で、どの家にもひとつ作業場に掛けてあった。稲・麦・草・薪などを運ぶのに使い、稲ならば10束(1束は小束6把)、重さにして20貫ぐらい背負うことができた。
 荷は荷縄を使って固定した。荷を付けるときはまず、杖でツカエボウをしてセオイハセゴを斜めに立てかける。そして上の横木に2本の縄を掛け、荷物にまわし、下の横木に縛りつける。背負うときはツカエボウを外して背中で支え上げ、400mぐらいは休まずに運んだ。身支度としてはシャツにズボン、足には足袋を履き、頭にハジマキ(鉢巻き)をした。小屋などに入るときや狭い場所を通るときは苦労したという。しかしその後、耕運機が出てきて使われなくなった。

..(2)交易
... 買い物
 子どもの服や靴、正月の魚など、買い物があると日詰まで出た。現金がないので小豆や大豆を背負ったり馬に積んだりして持っていき、交換した。
 宗吾さんが昭和30年(1955)に小学校に上がるときは、学生服を買うために山に行って栗をたくさん拾った。そして馬に積み、その馬をお兄さんが引いて日詰のマチまで出かけ、自分と弟の分を買ったという。この服で小学校の6年間まにあわせた。

... 市
 大迫(花巻市)には毎月決まった日に市が立った。この町は海へ続く旧釜石街道の宿場になっており、大槌(上閉伊郡大槌町)の方から塩や魚などを売りに来ていた。そのほか、衣類なども仲買人がここで売り買いした。この町には今も市が立っている。

... 行商
 いろいろな行商が来た。日詰や盛岡からが多く、背負ってきた風呂敷を上がり口でひろげたりして商売をした。車を出せない人はこうして売りに来るのを待って買いものをした。
 紅生姜を専門に売る生姜屋というものがあった。来るとエンガワに腰を下ろし、唐草の風呂敷をといて黙っていつまでも座っている。そうすると結局、買わなければいけないようになった。生姜は弁当に入れたりした。
 魚屋は自転車で、木の箱いっぱいに詰めた氷から水をダラダラたらしながらやって来た。扱っていたのはほとんどサンマかニシンだった。冷蔵庫がなかったので、こうした生ものは行商に頼るしかなかった。
 同じ魚でも干物は別の行商が扱っていた。昭和34年(1959)に県道大槌川井線が通ったため大槌から魚売りが来るようになり、ニボシ・シオマス・シオホッケなどを持ってきた。
 せんべいを専門に売るせんべい屋もいた。この人はその収入だけで生活していた。カランカラン鳴らしてアイスキャンデーを売るアイスクリーム屋も大迫から来ていた。いずれもお祭りのときということではなく、普通の日に来ていた。
 食べ物以外では、呉服屋や富山の薬屋が来ていた。
 買ったことはなかったが、お札を売りに来る人もいた。

... モノコイ他
 モノコイ(物乞い)がよく来ていた。目や身体の不自由な人、怖い人相の人など、いろいろな人がニワ(土間)まで入ってきて、なんでもいいから恵んでくださいと言ってきたり、おねがいしまーすと叫んだりしていた。そうすると、米やそのときあるものをあげた。

... その他
 泥棒のことを「ユド(遊徒か)」といった。そのユドが来たら刺すとか切るとか言って、どの家でも槍や刀を仕舞ってあった。工藤家の槍は先に毛がぶら下がっていた。これは突き刺したあと、血が滴るのを止めるために付いているものだという。

.5.年中行事
... 正月準備
 ススハギ(煤掃き)は28日だった。
 餅搗きは29日に行った。

... トシトリ
 大晦日のことをトシトリという。この日は夜中、白山神社(紫波町赤沢字田中)にお参りに行く。紅白歌合戦が終わった時点で集まり始め、消防団なども来た。
 ご馳走はトシトリが一番だった。皿が何皿も並び、子どもにも1つずつお膳が付いたので、子どもたちも楽しみにしていた。食べたのは餅や魚などである。魚の種類は特に決まっていなかったが、アラマキのサケやサンマが多かった。家族の多い家はサンマでも1匹全部は食べられなかった。
「『うなほで(お前の家では)サンマ1匹ちゃんとつけんべ、おら半分ほって食えねじぇ』ってしえったず(言ったそうだ)。だーれ、人数いたんだもな。14ったりいだず(14人いた)。」
 トシトリには飼っていた動物たちにもご馳走をやった。ニワトリに米をやったり、牛や馬にフスマを少し多めにやったり小麦をやったりした。

... 正月
 正月というのは三が日のことを言う。正月と小正月とは別のものだった。
 正月はトシトリの残り物を少しずつ食べた。毎日食べていくため次第に減り、3日ともなると何も無くなった。
 正月はカグラ(獅子)がまわってきた。3日に来ることが多かった。昔は歩いて各家に来たが、今は公民館ごとに回っている。やっているのは赤沢(紫波町)の3区の人で、獅子の中に入る人・持つ人・笛・太鼓・タイコショイ(太鼓背負い)など6、7人である。赤沢は8区あるが、この人たちが1区から8区までを回っている。カグラはドンドドン、カンカカン、ドンドドン、カンカカンという太鼓の音に合わせ、首を振りながら踊った。生きているようで子どもたちは怖がったという。しかもカグラが口でガチッと噛むと病気にならないといわれ、飼っている馬の鼻や子どもたち自身にも噛み付いてきたので、みんな逃げまわっていた。カグラの人たちは終わるとエンガワに座り、その家の酒を飲み、漬物など手作りのものを食べた。そして、ここのは酸っぱいとかもう少し濃いのがいいとか、そんなことを言いながら帰っていった。

... 七草粥
 七草粥にはそのときある野菜を入れた。7種類といっても実と葉とは別々に数える。たとえば大根と大根の葉を入れれば2種類入れたことになった。

... シゴトハジメ
 1月8日はシゴトハジメである。この日は鉈を持って山に行き、木を伐った。何本も伐らないのでどんな木でもよかった。この木は家に持ち帰る人と、生の木なので持ち帰らない人とがいた。

... コエダシ
 1月11日はコエダシである。馬や牛のコエをマヤから外に出し、そのあとオソナエの餅をあぶって食べた。

... ヤマノカミサマ
 1月12日はヤマノカミサマである。この日は餅を搗き、ヤマノカミサマの石塔のある家ではそこに供えた。工藤家には石塔はなかったので、カミダナにオソナエをあげた。餅は家族も食べた。

... 小正月
 1月14日にはミズキダンゴを飾る。現在、やる家とやらない家とは半々である。
 工藤家の土地にミズキが1本あった。色の赤い、肌ざわりがつるつるしたきれいな木である。この木を切りに行くのは、毎年宗吾さんと弟の和美さんの役目だった。「根スコ」からとるが、切ってもすぐに伸びてくるという。
 ミズキに付けるダンゴは米の粉から作る。近所には小判型のものを作る家もあったが、工藤家のものはまん丸で、白一色である。
 ミズキはチャノマの神棚のそばに飾った。そのまましばらくするとダンゴがカチンカチンになり、そばを通ると頭にあたったりして痛かった。このダンゴは19日に取り、水で少し「ウルカシテ」おいて食べた。砂糖醤油で味付けしたほか、お汁粉にもした。
 ソノさんの話によると、古くはこのほか笹や栗の木を串にしてみんなでダンゴを刺し、クズヤ(茅葺)の屋根に挿したという。これは「鬼のヨケハレ(除け祓い)」だということである。この日は「年とる」日だった。
 なお、本家では14日にカボチャやヒョウタンの作り物(14頁参照)をしていたが、工藤家ではやらなかった。

... 節分
 エンガワから「福は内、鬼は外」と言って豆を撒いた。ただし、撒くのは大豆ではなく、殻付きの南京豆だった。宗吾さんは都会では大豆を撒いていると聞いて驚き、友だちに聞いてみたが、どこの家でも南京豆だったという。

... 三月節句
 雛壇はザシキの床の間を背にして飾った。いっぱい並べた人形の中には、真っ黒い土人形のお雛様(花巻人形)もあった。
 この日は子どもたちがおまんじゅうを作った。材料は米の粉で、木の型を使って丸い形を作り、上に食紅や色粉で椿の花を描いた。このほか菱餅も作った。

... お彼岸
 お彼岸には墓参りに行った。はじめの日はオコワ、チュウニチにはシガダンゴ(彼岸団子)を供えた。このダンゴは大きな米のダンゴで、中には小豆のつぶあんが入っている。シマイの日はまた別のものを作って供えた。
 かつてお彼岸には、女性たちがダンゴを持って親戚のホトケサマを拝んで歩いた。これは、女たちだけの付き合いだった。今は個人個人でやるようになり、そうしたことはなくなった。

... 大般若祭
 4月20日は菩提寺の正音寺(紫波町遠山)の大般若祭である。住職のほか7、8人の僧侶が関係寺院から集まり、大般若経の転読を行った。この行事には檀家のほとんどが集まった。

... 白山神社の祭り
 4月29日は白山神社の祭りである。かつては5月8日で、そのほか秋にも毎年9月29日にやっていた。
 祭りの前の日は神社の草刈りをした。これは大変だった。
 祭りは賑やかだった。学校は授業が打ち切りになり、子どもたちはみんな出かけて行った。神社の前の急な階段は非常に混み合い、前の人のかかとを踏んで喧嘩になるほどだった。
 境内には駄菓子・綿飴・水鉄砲・ピーっと音のする笛など、屋台がたくさん出た。また毎年相撲が行われ、日詰(紫波町)・大迫(花巻市)・盛岡あたりから力自慢が集まってきた。宗吾さんが子どものころはナガシの相撲取りがいた。賞金稼ぎの人たちで、別の祭りに行くとそっくりそのまま同じ人たちが出ていた。中でも一番強かったのはセンベイヤである。この人はセンベイの行商で食べている人で、オツボワカという四股名も持ち、その名を染め抜いた浴衣を着ていた。他に三本指に入る人として「チャヤコのハツ(茶屋のハツオ)」という人もいた。
 宗吾さんの3番目の兄・敏夫さん(昭和10年生まれ)も十指に入る強豪だった。また、4番目の兄・拓司さん(昭和16年生まれ)も軽量級では紫波町で一番になった人だった。宗吾さんはお兄さんたちの相撲になるとどきどきして見ていられず、目をふさいでいたという。
 現在は近くから人を呼んで、民謡や踊りなどをやっている。

... 五月節句
 五月節句の飾り付けはあまりやらなかった。烏帽子をかぶった侍のような人形はあったが、武者絵の掛軸を掛けたりすることはなかった。大きなこいのぼりを立てる家もあったが、工藤家ではやらなかった。子どもたちは店から紙のこいのぼりを買ってきて、木の枝などに引っ掛けて喜んでいたという。
 この日、茅葺の屋根に菖蒲と蓬を挿し、菖蒲湯に入った。鬼にさらわれていったとき、菖蒲だの蓬だのがあるところに隠れて助かった、という話に由来するもので、鬼が来ないようにということでやっていた。菖蒲は近くに1箇所生えるところがあり、そこのものを使った。
 この日はチマキを食べた。笹の葉や朴の木の若葉に餅を包み、焼いて食べるのである。餅の中には何も入っていないので、食べるときに味をつけた。朴の葉は食べ物が悪くなるのを防ぐといい、よくいろいろなものを包んだという。チマキが出来上がると子どもたちは親に言われ、3時のオヤツのときなどに、田んぼや畑に出ている人のところへ配りに行った。

... 七夕
 8月7日は七夕だった。この日はエンガワの戸のあたりに笹を立て、短冊を飾った。工藤家にはトチノキの大木の横に大きなササバタケがあり、年長の子どもたちが立派な笹を切ってきた。このササバタケではタケノコを掘ったりもした。飾った笹は何日か立てておき、そのあと川に流した。
 七夕の日にはオコワ、煮しめを食べた。

... お盆
 13日は朝ごはんを食べる前に寺に行き、お布施を納めてお墓に行く。かつては下が土だったので竹を立てて脚にし、お墓の前にお膳のようなもの(棚)を作った。これは毎年新しく作るもので、現在は下がコンクリートのためコモを敷くだけになっている。上にはハスの葉を敷き、フカシ(赤飯)・てんぷら・煮しめ・果物・野菜を並べて供える。こうした豪華な供え物は13日だけで、あとの日に供えるのはお菓子など軽いものだけである。近頃はカラスなどが多いので、より簡素化した。
 かつてはヒナダ(畑の名称)の墓碑(56頁参照)の前にも同じような棚を組み、お盆のあいだ供え物をした。また、家のホトケサン(仏壇)のところにも棚を作った。この棚は組み立て式で毎年使っていたが、今はやらなくなった。
 ナスやキュウリの牛馬は工藤家ではやっていない。やっている家では生のナスに木の棒の脚をつけ、昆布を持たせている。
 14日から16日までは毎夕お墓に行き、その帰りに小麦のカラ1把を焚く。場所はジョウグチを通り越して道に出るところである。今は小麦のカラが多いが、白樺の皮や松の根を焚く人もいた。白樺の皮を焚いたことから、これを「カバ火焚き」といった。
 16日は親戚の家の仏壇を拝みに歩く。拝みに歩くのはこのほか小正月とお彼岸だけで、正月には歩かない。
 16日、現在はお盆が終わると、供え物などはお墓の一角で焼けるものは焼き、捨てるものは捨ててくる。かつては17日にフナッコナガシといって川に流していたが、川の水が少なくなり、やめてしまった。この行事を覚えているのは現在の60代より上の人である。なお、17日に送り火を焚いた時代もあった。その当時は14日に迎え火を焚いたあと、途中15日・16日は焚かなかったという。
 工藤家では入っていないが、村には御詠歌をやっている人たちがいる。この人たちは冬のあいだ練習し、お盆になるとお墓に敷物を敷いて並び、数曲唄っている。

... 十五夜
 オツキサンの見えるザシキの縁側あたりにススキを飾った。ダンゴのほか、家で採れたブドウやトウモロコシなどを供えた。宗吾さんはこのダンゴがとてもおいしかったという。
 礒吉氏の父・長八氏の時代はオニワ(外の庭)でやっていた。ムシロを敷いた上にススキや萩を甕に挿して飾り、ダンゴを供え、線香を焚いて拝んだ。供えた団子はダンナサン(当主)が食べ、家族が食べるものは別に作った。

... 十三夜
 十五夜と同じ場所に供え物をして、線香を焚いておまつりした。供えるものはダンゴ・ススキ・萩など、十五夜と同じものだった。

... 収穫祝い
 収穫が終わると本家から餅が配られた。この餅を「アキモチ(秋餅)」といった。
 収穫の祝いにさんさ踊りを踊る人もいた。

... ゴエンニチ
 12月は神様たちのゴエンニチがあった。
 1日はコウシンサマのゴエンニチである。この日はダンゴを作り、コウシンサマの石塔に供えた。
 2日はヒノカミサマのゴエンニチである。
 3日はオフドウサマのゴエンニチである。
 このほかクマノサマのゴエンニチもあった。工藤家はクマノサマがアルジサン(主様)で、熊野権現の石塔を祀っていた。場所はトチノキの大木の下である(59頁参照)。この日は掃除して、鳥居のところにテントを立て、サイト(柴灯)を焚いた。人々はお札などを持って集まり、この火で焼いた。工藤家では餅を搗いて、集まった人にお神酒とともに振舞った。子どもたちはまわりの雪の上を飛び跳ねて遊んだ。
「昔の人たちは何もね。そいつ楽しみだったべ。」

... 冬至
 冬至にはカボチャを食べたが、ゆず湯はしなかった。

... 虫追い
 イナゴなどの害虫や悪病が発生して被害が出ると、村人たちは村境に集まり、ホラノカイ(13頁参照)という木製の笛をとなり村に向け吹き鳴らした。となり村でも同じような被害が出ていると、そちらの住人も同じように吹き鳴らした。

.6 人生儀礼
..(1)婚礼
... 縁談
 縁談は親同士の相談で決まった。ソノさんの場合、店でソノさんの父と礒吉氏の父ともう1人で呑んでいて決まってしまった。
「娘あるず、けろ。オナゴワラスいつまでも家さ置がえねから、けろ。おれ仲人するって、手打ったんだと。バガみでだな、どこに酔ったぐれで手打ったはんで。今そんたなごどねんだもの。」
「やんたやんたと思っても」親の言うことに逆らえなかったという。ソノさんはそのとき15歳で、大正11年(1922)当時でもその歳で嫁に行くのは早かった。嫁ぐのは18か20歳くらいが多かった。

... 嫁入り
 ソノさんの実家は同じ村の中の、歩いて15分ほどのところである。ソノさんはこの家から2月の雪の中を歩いて嫁に来た。仲人2人のほか、本家の人やオジ・オバなどタイセイ(大勢)が付き添い、工藤家の方からもオジ・オバや担ぐ人たちが迎えに来て、総勢20人ぐらいだった。嫁入道具はナガモチ・タンス・クズフトンなど、馬につけたり担いだりして運んだ。

... 結婚式
 花嫁はゲンカンからニワに入り、ニワノオク、チャノマ、シタザシキを通って一番奥のザシキに入った。ここで花嫁花婿は床の間を背にして座り、三々九度を行う。花嫁は向かって右、花婿は左である。三々九度の酒はオジサンオバサンが注ぐ。これが終わると今でいう披露宴となる。引き続きザシキで行い、集まった親戚たちとともに白いご飯を食べた。これが当時は最高のご馳走だった。
 ソノさん夫婦は結婚してすぐにナカナンドを使うようになった。

..(2)産育
... 安産祈願
 腹帯は締めたが、戌の日のお祝いなどはなかった。安産を祈願しにいくような神社もなかった。

... 出産
 お産のときも里帰りはせず、前の日まで働いた。夜まで働いてその夜産むということもあった。
 お産に使うのはナカナンドだった。産婆はいなかったので最初の子どもは姑が取り上げ、へその緒も切ってくれた。どこでもそうだった。その後、村の「手どご(腕前)」のいい人に頼むようになった。この人は「アマイケ(天池・屋号)のオバサン」といい、器用で手馴れていたのであちこちの家に呼ばれていた。工藤家でも手伝いに来てもらった。
 後産は適当にどこかに埋めていた。
 お産のあと1週間ぐらいで働き始めた。
「1週間もえば、枕下げって言ったんだ。稼がされた、なんでかんで稼げ稼げって。猫や犬みたいに。」
昔は今のように、体を大事にして休ませるということはなかった。
 ソノさんは40歳を過ぎてから、さらに2人の子どもに恵まれた。病み上がりだったので心配だったが、体が丈夫になったしるしだからと医者に言われた。
「なーに、とっても立派に育った。センコロ来たやつ(先日来た宗吾さんは)40になるとき生まれたものだもの。」
 戦時中は産めよ増やせよで子どもがたくさん生まれた。
「ここのさがりの家で今は別のひと入っているが、おばさん1ダースなした。表彰されるず。天皇陛下から表彰されるず。何くるべ、見でなって言ってらったが見ないでしまった。」
 今は地域に子どもがいなくなってしまった。
「このあいだ、どごの人だったが、ここら子どもねがって(いないかと調べに)来たっけ。ここら子どもね、って言ったらびっくりした。ぜんてぇ産む気なんねんだもの。たまげた世の中になってしまった。」

... 名付け・宮参りほか
 名前を付けるのは子どもの父親の役目だった。
 お宮参りなど祝い事は何もなく、初節句もやらなかった。七五三もやらなかった。

..(3)葬儀
... 葬式
 誰かが亡くなると親戚みんなに口で伝えて回った。
 葬式はザシキで行った。

... 位牌・墓
 位牌は大小あるが、形は普通である。古い位牌も寺に納めることはなく、仏壇に入れたままである。
 墓地は2回移転した。最も古い墓地(図版18の①)には文字の無い自然石が数個ある。ここに墓参りに行くことはない。2番目の墓地はヒナダ(畑の名称)にあり(図版18の②)、銘文の彫られた自然石の墓碑が3基ある(図版19)。うち1基は工藤家の祖先・惣八氏のものである(注7)。礒吉氏が子どものころは墓参りをしていた。しかしその後共同墓地(図版18の③)が定まり、現在の墓碑が建てられたのを機にこの古い墓碑は倒され、墓参りもしなくなった。

... 法事
 毎年正月に寺からその年の年回忌を知らせてくる。
 法事は寺に行って、お墓に行き、家にもどって少し休むという形である。現在は法事も家族だけで済ますことが多い。なお、こうしたおりの塔婆はお墓の管理者が中心になって焼いている。
 この地域では五十回忌までやることが多いが、これが終わっても特別なことはしない。

.7 信仰
..(1)寺
 工藤家の菩提寺は曹洞宗永平寺末の正音寺(紫波町遠山)である。秋田にいた時代は永平寺を菩提寺としていたが、この地に移って正音寺の檀家になったという。
 この地域は7、8割が曹洞宗である。藤原姓の人たちが花巻市にある桂林寺(大迫町内川目)を菩提寺としているように、家によって寺は異なるが、毎年お盆にはお墓参りに行っている。このほか、門徒(浄土真宗)の家が1軒だけある。

..(2)神社
 工藤家は白山神社(紫波町赤沢字田中)の氏子である。
 大迫(花巻市)の岳神社(注8)にもお参りに行った。この町は旧釜石街道の途中にあり、神社は海の神様を祀っていた。そのため海岸地域からの参拝客が多く、行っても駐車場がないので、地元の人は遠慮したりした。

..(3)講
... オコウシンサマ
 1月おきに回り持ちで各家に集まった。昭和53年(1978)ごろは17軒あったが、現在は10軒足らずである。工藤家で集まるときにはザシキを使った。
 当番に当たった家では一生懸命料理を作った。料理は7品と決まっていた。刺身はつけず、てんぷら・煮しめなどの精進料理である。干しシイタケとこんにゃく、豆腐の吸い物は必ず出た。冬は食材がないので、この時期に当たった家では夏にキノコを乾燥させたり、秋には庭の菊の花を乾燥させたりして準備した。菊の花は水で戻し、酢の物にした。こうした料理の味は各家で全然違っていた。
 料理が出来上がるとオコウシンサマの石碑(図版22参照)に供えた。飲み食いするのはそのあとで、午後1時くらいから集まり、夕方まで飲み続けた。座敷には金剛尊(青面金剛)の掛軸を祀った。この掛軸も当番の家で持ち回っていたものである。そして、折り本を見ながらみんなでウタッコみたいに唄った。
 なお、このオコウシンサマはかつては夕方からの行事だった。手を洗い、うがいをして夕日を拝み、それから掛軸を掛けて食事をした。

... コンボウサマ(弘法様)
 日は決まっていなかったが、毎月1回、女性の集まりがあった。10軒から15軒でコウジュウをむすび、回り持ちで宿を務めた。掛軸などをかけることはなかったが、お経を上げ、食事をし、コンボウサマの唄を唄った。
 昭和53年(1978)ごろまでには、この行事はなくなっていた。

..(4)祈願その他
... 高野山
 工藤家は曹洞宗だが、高野山の方から移ってきたという言い伝えもあり、高野山を信仰していた。先祖には3箇月かけて歩いてお参りに行った人もいる。惣八氏と娘婿の長助氏である。当時の日記が残っているほか、もらってきた掛軸が家宝になっている(図版20 当時は鈴木姓)。

... トチノキ
 工藤家の土地に直径2mのトチノキの大木があった。下には鳥居があり、祠のほか、オコウシンサマ2つ・クマノサン・馬頭観音の石塔が祀ってあった。
 工藤家にはほかにも、クルミ・ハチヤノ柿・ヤマナシなど大木が何本もあった。こうした木はちょうど扇型に並んでおり、その要に当たるところにトチノキが立っていた。このトチノキはそれ自体霊験あらたかで、病気などに効能があるといわれた。また、そばに川が流れているのだが、なぜか魚がいるのはこの木の端から上だけで、そこから下には1匹もいなかったという。魚はたくさんおり、子どもたちは手づかみしてきてエンガワの金魚鉢に入れた。
 この木は下で遊んだり、雨が降ると雨宿りをしたり、子どもたちにとっても親しい木だった。しかしその後、幹に穴が開き、倒れると危険なので切り倒した。

... クマノサン
 工藤家のクマノサンの石碑(図版22参照)には、昔から近所の人たちが来て拝んでいた(54頁参照)。

... 馬頭観音
 白龍山(紫波町船久保)という高くてとんがった山があった。この山の頂上に白龍神社(しらりゅうじんじゃ)があり、馬頭観音が祀られていた。昭和40年代の初め頃、採石のため山が崩されて神社も移転したが、それまではたくさんの馬のエフダ(絵馬)が奉納されていた。家によっては、こうしたエフダを家の中に飾っていた。

... 養蚕の神
 養蚕のオカケジ(掛軸)がザシキの床の間のカミサマのところにいつも掛けてあった。ソノさんの姑は養蚕を一生懸命やっていたので、養蚕の神様だといって毎日拝んでいた。

... 願掛け
 願掛けのため特にどこかへ参拝に行くようなことはなかった。行くようなところもなかった。

... オシラサマ
 工藤家にはないが、本家ではオシラサマを祀っている。昔は12月16日にオシラサマを拝みに行った。供え物を持って祀っている家に出かけ、お供えのモチコ(餅)を2つもらって帰ってきた。今はオシラサマの話もなくなり、お参りに行くこともなくなった。

... 隠し念仏
 昔は隠し念仏をやっている家があった。交代で回っていたらしいが入ってない家には分からず、カクシネンブツって何やるもんだろう、と言っていた。

.8 口承文芸
... マツおばあさん
 明治10年(1877)生まれのマツおばあさんは昔話が上手で、いろいろな話をして聞かせたという。たとえばこんな話である。
 ある日、上流の山の奥から狼の群れが下りてきた。何十頭という数である。しかもその狼たちが家のまわりをうろつき、なかなか去ろうとしない。そのあいだ、村人たちはみな雨戸を閉め、息をひそめていたという。
 またある日、大水が出てそこらじゅう水につかり、湖のようになった。このとき上流から見たこともないような大蛇が流れ着き、桑の木に引っかかって「ギャー、ギャー」悲鳴をあげた。そのとき以来、主屋の200mほど下流からむこうは、地形が変わってしまったという。
 ここではマツおばあさんの孫にあたり、よく話を聞いたという宗吾さん自身の話をいくつか紹介することにする。

... ザシキワラシ
 「いましたよ。いました。ここに、ここにね、このへんにあの、子ども走ってる音がするんですよ。あの、3歳か4歳ぐらいの子どもが。で、和美と二人で、怖い怖いって、あの言ったもんだけどね。じっと耳を澄ましていると、昔の蓄音機があったんだけど、ひとりでに蓄音機が動いたりさあ。で、タンタンタンタンと走って歩く子どもの音が聞こえたりして、あれは絶対ザシキワラシだね。格納庫(座敷横の縁側)のあたりに入ってるんじゃないかなと思ったけど、雨戸の。そんなにしょっちゅうじゃないけども。和美として、あの、ま、いたずらしたりするとザシキに閉じ込めるぞなんて脅かされたこともあるんだけど、そういうときに何回か確かに聞いたね。いやもっと下だ。小学校のころだ。ただザシキワラシって、悪いもんじゃないって聞いてたからさ。そう怖いとは思わなかったけどな。」(宗吾さん)
 「おら、見だごどない。」(ソノさん)

... 狐
 「フクロウとか、狐とか。狐にだまされた人もいっぱいいた。だまされるよ、実際。あの、狐がその人の、買い物の帰りにその人の持っている魚をねらって、いたずらするわけですよ。魚がほしいために、油揚げとか魚がほしいために。別にその人をどうのこうのするんじゃなくて、ただその餌がほしいときにだます。と、夢を見ているようにその人がね、買ってるものみんな家に着いたぞーってひろげて、ほら買ってきた、見ろ見ろってみんなに言って、家にいた錯覚を起こしてそこで、田んぼの真ん中とか道端で広げてしまって夜中に、で、朝になったらみんな狐が持ってった。あら、家に着いたつもりが家じゃねえなんていう。うん、そういうこと。だから、ラジオしかなかった時代だからそういうことがあるんじゃないすかね。」(宗吾さん)
「今の狐、人をだます狐ねえがらな。」(ソノさん)
「うん。おれも1回狐にだまされかかってさ。あの、これが狐にだまされるってことかっていうのがわかったっけ。車で運転してね。父の家に行くときに狐の巣があるとこは知ってんだけども、霧が深くてさあ。そこの家まで行くのに霧が深くてほんとに長いなあ長いなと、どこまで走っても家に着かないんですよ。これ、どう考えてもおかしいと思って、また家まで、近くまで戻ってもう1回出発しても絶対着かないんですよ。で、止まって黙って考えて、他の車が行ったあと付いていったら、なあにその家まで全然行ってないんだ。このくらいしか走ってないのに永遠に走ったように錯覚起こしてね。だからちょっとこう記憶を錯乱させるということですね。」(宗吾さん)
「今、人だます狐、いんねも。デイサービスの車さ乗ってて笑われだ。『狐コンコンて、誰つけだコンコンだべ(狐はコンコン鳴くというが誰がそう言ったんだろう)』って。『なして?』ってしゅわれで(聞かれたので)、『じゃ、そんだって、おらコンコンて叫ぶの聞いたことね』ってしぇたじぇ(言った)、『誰つけたコンコンだべ』って」(ソノさん)

... 穴
 「五龍下(地名)は田んぼだったけどやめた。あそこ、なんか、馬が沈んでしまったってんだに。あの、ゴリョウヌシの畑のとこさな。馬と、その機械がいっしょに、あの田んぼの泥に入ったまんまもう、地下に沈んでしまったんだ。ここがね、石灰岩の地質でできているので鍾乳洞が結構いっぱいあるとこなんですよ。で、その穴、今もあるんだけど、あののぞいてみるとずうっと地下の方で水が流れる音がして、だからその巨大な地下坑かなんかがあって、その上にあの辺のあの土地があるんじゃないですか。穴が開くもんな、うん。川の水が一時すっかり枯れてしまったり。怖いけー、あれ。懐中電灯で子どものころ照らして見たけど、全然もちろん見えないし。水の、こうずうっと下の方で谷の底の方で音するような音がして。毎年下がってくの、そのとこがこういうふうに。石とかなんか入れてこういうふうにするんだけど、またそこがこう下がってくんの。なんか猫が生まれたときに、あんまりいっぱい生まれるといいのだけとってあとはそこに捨ててこい、なんて言われて。まずゴミ捨て場みたいになってるとこだったんですよね。もうおれたちはブラックホールって呼んでらったけど、むかし何ていったんだがな。」(宗吾さん)
「なんにも言わねな。『穴』だってらもの」(ソノさん)
「すごい怖いですよ。あそこから出た水が、カズラの方さ流れてっちゃうんだ。とにかく穴だらけ、この辺の山は。石灰岩でできてるので。であの、むかし狸が入ったからって火を燃やしてタヌキイブシなんかやると、とんでもない方から煙が来る。うん。迷路になってるもんな。」(宗吾さん)

.注
1 礒吉氏は村会議員や教育長を務めた。
2 長助氏は今の国道4号線の補修や赤沢小学校設立にきよ。
3 隆雄氏(昭和7年生まれ)は北海道羽幌の炭坑に就職していた。
4 この便所は主屋移築後トタン葺に改められ、曳き屋をして位置を移し、物置として使用された。
5 長八氏はマツおばあさんの夫。
6 橋本善太(1892-1956)の家はもともと養蚕をやっていたが、養鶏を始め、超多産鶏を産出して世界的に名を成した。その子・八百二(やおじ 1903-1979)は画家として盛岡橋本美術館を創設(2001年閉館)するとともに、政治家としても活躍し、岩手県の県議会議長を務めた。
7 惣八氏は文化10年(1813)3月3日生まれ。兄弟とも優秀で、弟は赤沢村の初代村長を務めた。
8 早池峰神社のことを地元では岳神社と呼んでいた。

.参考文献
青木志郎・佐々木嘉彦    1958「農村住宅の煙草作業による使われ方について」
                             『日本建築学会論文報告集』第60号
川崎市            1972『重要文化財旧工藤家住宅移築修理報告書』川崎市
紫波町史編纂委員会    1972『紫波町史』第1巻 紫波町
紫波町史編纂委員会    1984『紫波町史』第2巻 紫波町
紫波町史編纂委員会    1988『紫波町史』第3巻 紫波町
長澤聖浩            2007『百歳。作山リエさん聞書き集』私家版
文化財保護委員会            『岩手県の民家』文化財保護委員会
  ※刊行年記載なし。調査は昭和38年と39年に行われている。

.図版キャプション
1 工藤ソノさんと宗吾さん(平成20年撮影)
2 工藤家所在地
3 戸袋に付けられた家紋(昭和44年撮影)
4 移築前の主屋(昭和44年撮影)
5 復原された建築当初の間取り
6 移築前の間取り
7 ムロ(昭和44年撮影 右上は工藤礒吉氏)
8 仏壇(昭和43年撮影)
9 屋敷内の配置
10 外便所(昭和44年撮影 手前は物置)
11 風呂場(昭和44年解体時撮影)
12 クラ(平成20年撮影)
13 耕運機購入時の記念写真(右からソノさん、マツさん、四男・拓司さん、長男の妻・延子さん、長男・喜八さん。この写真には子牛は写っていない)
14 マヤのヒツジ(昭和42年撮影)
15 葉煙草の乾燥(昭和42年撮影)
16 リンゴ畑(平成20年撮影)
17 シイタケ(昭和30年代後半 喜八さんと延子さん)
18 墓地の変遷
19 工藤家墓碑(天保9年〜明治19年)
20 高野山遍照光院茶牌供養掛軸(文政3年・工藤家蔵)
21 トチノキ(昭和40年頃 手前は和美さん)
22 トチノキの下の石塔
23 この写真は昭和41年(1966)、礒吉さんの還暦祝いのおりに、民家園に移築された主屋の縁側で撮影されたものである。中央に腰掛けているのが、礒吉さんソノさんご夫妻である。調査の際、ソノさんに一番楽しかったことは何ですかとたずねたところ、つぎのように答えてくださった。「なんても(どんなふうであれ)楽しいのす。ほんだがら、こうして生きている。何もごしゃげる(腹の立つ)ようなこともねぇ。」

(『日本民家園収蔵品目録11 旧工藤家住宅』2009 所収)