長野県佐久穂町畑 佐々木家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が佐々木家で行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成19年(2007)7月と9月、2回に分けて行われた。聞き取りに当たったのは渋谷卓男である。
3 話者は、つぎのとおりである。
 佐々木嘉幸氏 大正10年生まれ 佐々木家現当主
 佐々木せつ氏 昭和3年生まれ 嘉幸氏の妹 佐久穂町在住
4 以上のほか、当園ではつぎのとおり佐々木家の調査を行っている。この報告では、これらの調査記録もデータとして活かした。
 昭和43年(1968)3月には、資料収集にともなって現地調査が行われた。聞き取りに当たったのは小坂広志(当時当園学芸員)である。
 昭和51年(1976)3月には、運搬用具調査の一環としてアンケート調査が行われた。調査を担当したのは小坂広志である。
 平成7年(1995)9月には、佐々木家の井戸について現地調査が行われた。これは「八千穂村の水利と井戸上屋」調査として行われたもので、調査に当たったのは、大野敏(当時当園建築職・現横浜国立大学助教授)、野呂瀬正男(当時当園建築職)、砂川康子(当時当園嘱託職員)、小坂広志(当時川崎市市民ミュージアム企画情報室長)である。
5 図版の出処等はつぎのとおりである。
 1       渋谷作成。
 2、3、10〜15  2007年、渋谷撮影。
 4、16     1965年、故大岡實氏(元横浜国立大学教授)撮影。
         現在、大岡實博士文庫として当園で収蔵。
 5〜7      図面は『旧佐々木家住宅移築修理工事報告書』(1969)より転載。
         5、6の部屋の名称は今回の調査に基づいた。
 8、9     1965年、主屋の解体工事前に撮影。
 17      『南佐久郡誌』(1973年復刻版)を元に渋谷作成。
6 聞き取りの内容には、建築上の調査で必ずしも確認されていないことが含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。
7 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれている。しかし、話者の語り口を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 佐々木家のある佐久穂町畑は、古くは上畑村といった(注1)。この村はかつて千曲川のすぐほとりにあったが、「寛保の川流れ」(寛保2年・1742)で多くの家が流された。流出家屋は全戸の84%にあたる140軒、流死者は人口の40%にあたる248人という壊滅的被害である(注2)。佐々木家は小高いところにあったため流されなかったが(注3)、これを機に高台へ屋敷を移した。これが、現在日本民家園に移築されている重要文化財・旧佐々木家住宅である。
 この稿では佐々木家現当主・嘉幸氏(大正10年生)からの聞き取りを中心に、佐々木家の暮らしについて記述していくことにする。

.1 佐々木家
... 歴史
 諏訪神社(佐久穂町畑大門)の近くに佐々木一族の総本家がある。ここからエンキョブンケ(隠居分家)したのが嘉幸氏の家である。総本家はホウイン(法印)という神主兼僧侶のようなことをしており、昭和の初めまで二十何代か続いていた。嘉幸氏の家も、古くはホウインをしていたという。
 江戸時代には村の名主を何代も務めた。名主は回り持ちでしばしば交代し、経済事情によっては順番を飛ばしてもらうようなこともあったという。佐々木家では明治4年(1871)まで名主を務めた。
 昔は証文を作る際、名主の家に来て書いてもらった。そのため、佐々木家には古文書がたくさん残っている。以前はもっとあったが、カラカミや屏風の裏張り、ハリッカ(紙を貼ったカゴ)などにたくさん使ってしまった。家で使うだけでなく、他の家からももらいに来たという。

... 家族
 嘉幸氏が育ったころは、家族が10人以上いた。親夫婦、姉が3人と妹が2人、長姉の夫(養子)、そのほかコウヤショクニン(紺屋職人)がいつも3、4人いた。嘉幸氏の代もそうだが、佐々木家は代々女性が多く、養子をたくさんもらった。
 嘉幸氏は昭和17年(1942)ごろ入隊した。そのころ、染物業の借財が当時の金で2万円あった。また、無尽講にいくつも入り、最後は2万円以上取れる心積もりで掛金を出していたところ、景気が悪化して掛け捨てとなり、ここでも借金だけが残った。そのため田畑と山林を売り払い、借金を整理して出征した。戦後、そのままでは生きていけないため、農村の余剰労働力を利用して農業土木の事業を起こした。現在嘉幸氏は、この畑八開発株式会社の名誉会長である。

... 家紋・屋号
 佐々木家の家紋は「ヒラヨツメ(平四ツ目)」【図版3】、裏紋は「ササリンドウ」である。なお、分家は「ヒシヨツメ(菱四ツ目)」を使用している。
 屋号は「ミヤノソリ(宮ノ反)」といった。染物屋の屋号が「龍田屋」だったため、「タツタヤ」ともいう。

.2 衣食住
..(1)住
... 敷地
 移築されたた旧住宅は、現在の住宅と同じ場所に同じ向きで建っていた。かつては敷地の入口にモンナガヤ(長屋門)があり、これを解体したあと、この材料を使って旧住宅のダイドコロを改造したという。
 主屋の北西の角に古い大きな松があった。松の木はもう1本西側にもあり、このほか柿の木も大きなものがあった。

... 屋根
 茅葺屋根のことを「クズヤヤネ」、茅葺の家のことを「クズヤ」という。古い主な家はみなクズヤだった。茅は山にたくさんあった。共有地ではなかったが、誰が刈っても良いことになっていた。佐々木家では、高くついたが人に頼んで刈ってもらっていた。
 屋根は茅だけで「固く」葺くと60年は持った。佐々木家は家が大きかったので、一度に葺き替えると「何百ダン(反)」も茅が必要となる。そのため、7間から10間ぐらいずつ区切って行った。
 葺き替えは屋根屋が3、4人、幾日もかかってやった。村内の職人は家から通ってきたが、そのほかは佐々木家に泊り込んでやっていた。ナワトリ(ヤリトリ)の作業は職人以外の者も手伝った。これは屋根の中に入り、突き通されたハリに縄を通す作業で、子どものころから手伝わされた。誰でもできたが、気を付けないと刺されてしまった。
 庇は移築前は瓦葺にしていたが、古くはイタヤネだった。昔は石をのせたイタヤネがたくさんあった。この屋根の板のことを「ササイタ(笹板)」という。ササイタに使う木はクリ、ヒノキ、サワラ、アカダのカラマツなどで、このうち一番腐らないのがクリである。
 ササイタは割って作る。割るときは上からポンとはたいて木に刃を入れる。そして、中に食い込んだ刃を手で動かすと板が剥がれた。ササイタを割る専門の職人もいた。
 ササイタ用のナタを作るのに、刀を利用した。鍛冶屋へ行き、ナカゴ(取っ手の中に差し込むところ)の部分を「へ」の字型に曲げ、先の方を切ってもらうのである(7頁参照)。昔、刀はひとつの財産だった。佐々木家には長持一杯に30本以上あったが、ナタを作るのにぜひほしいと次から次へと言ってきて、分けてしまった。切り落とした刀の先も小刀などに利用した。
 屋根屋は今でも(2007年現在)高見沢三男さんという人が残っているが、茅葺の屋根は無くなってしまった。残していた家もトタンで囲ってしまった。

... 出入口
 ドマの正面側に出入口が2箇所あり、西側はゲンカン、東側は一枚板のオオトになっていた【図版8】。このオオトは何かのとき以外開けることはなく、普段はオオトの下部にあるクグリ(くぐり戸)から出入りした。オオトはいずれも子どもの力では開かなかった。
 ドマの裏手側の出入口にもオオトがあった。こちらもクグリが設けてあり、普段はオオトを開けなくて済むようになっていた。
 ゲンカン西側の板敷き部分は後から付けたものである。なお、ゲンカンの上にお札などを貼ることはなかった。

... ドマ
 昔はドマが広かった。ヒャクショウシュウ(百姓衆)が集まるとここにムシロを敷いて座り、道普請や年貢関係など名主がオヤカタになって話し合いをした。昔は座敷にいちいち上がることはなかった。
 2階に上がる階段の脇に据付のカマドがあった。このカマドはモチを搗くときなどに用いた。カマドはこのほか、ソメモノコウバの中、コウバの外側、ダイドコロと、計4箇所あった。

... ミソベヤ
 ミソベヤにはタルが並んでおり、自家製の味噌や醤油を蓄えていた。この部屋はドマから出入りするようになっていた。

... モノオキ
 モノオキにはコメビツなどが置いてあった。昔はここで牛や馬を飼っていたが、牛舎を外に増築したため、食料品などを置くようになった。ただし、傷んだりネズミにやられたりするため、ここに置くのは「ときに食べる」ものだけで、それ以外は土蔵に保管した。

... ダイドコロ
 煮炊きなど、食事の支度はダイドコロでやった。この部屋にはカマドがあり、アカノドウコ(銅壺)があった。これでお湯を沸かしたり、おつゆや煮物を作ったりした。かつてはこの部屋にかなり大きなイロリがあった。カギ(自在鉤)が下がっていて、大きい鉄瓶がかけてあった。ガスに変わったのは昭和30年代以降のことである。
 食事はこの部屋で食べた。オゼンはゲンカン側にひらく形で「コ」の字型に並べる。カマド側にはオンナシュ(女衆)が座り、一番ゲンカン寄りの女性が飯の盛り付けなどをする。その真向かいを「ヨコザ」といい、ここが当主の席になっていた。

... オカッテノヤスミドコロ
 オカッテノヤスミドコロとダイドコロとのあいだに間仕切りがあった。この間仕切りは冬のあいだは閉めていたが、養蚕のため普段は取り払っていた。養蚕はこの部屋のほか、ダイドコロ、チャノマで行っていた。
 この部屋にはイロリではなくコタツがあり、家の者が休めるようになっていた。

... ナカノマ
 特別な客を泊めるときにはナカノマを使った。ここには押入れがあった。
 仏壇も古くはこの部屋にあった。この仏壇は天井に着くぐらいの高さがあり、「3階建て」で下段は戸棚になっていた。嘉幸氏はこの仏壇のおかげで、子どものころはナカノマに入るのが怖かったという。仏壇をチャノマへ移したのは昭和20年(1945)ごろで、嘉幸氏の父親が14年(1939)に亡くなったときはまだナカノマにあった。移動にあたっては、寸法も少し小さくしたという。
 なお、養蚕の忙しいときはこの部屋も使った。

... マエデノザシキ
 マエデノザシキは普段は寝起きに使っていた。コウヤショクニン(紺屋職人)が住み込みで働いていたころは、この部屋を使っていた。

... オクノザシキ
 オクノザシキは、オクザシキ、オクノマともいう。
 普段は嘉幸氏の両親が寝起きに使っていたが、結婚式のときはここで三々九度をやり、葬儀のおりはここに遺体を寝かせた。

... コザシキ
 嘉幸氏たち子ども世代は、このコザシキやネドコで寝起きした。

... エンガワ
 エンガワはいろいろな作業に使用した。祝儀不祝儀のときにも便利に使うことができた。

... 2階
 佐々木家には2階が3箇所あった。
 まず、モノオキの上に2階があった。ここは畳敷きで格子などもあり、しっかりした座敷になっていた。かつては寺子屋として使用された部屋で、寺子屋をやめたあとは物置になっていた。ここは養蚕にはあまり使わなかったが、上蔟するとき棚を組んだことはあった。「十マイダナ」を4つか5つ入れることができたという。
 つぎに、裏口の手前に2階があった。棚を架けて2階としたもので、畳でなはくネコ(厚いムシロ)が敷き込んであった。寺子屋の部屋から出入りするようになっており、サクバン(農作業の使用人)が寝起きするのに使っていた。
 もう1箇所、コザシキの上にも2階があった。ここは物置として使っていたが、ネコが敷いてあり、寝泊りすることもできた。上り下りはハシゴだった。

... フロ
 フロの水は下の用水からオケで運んだ。燃料はマキ(タキモノ・ボヤ)で、これをタキグチからくべて沸かす。マキは冬場に山から切り出し、牛舎の外に積んでいた。排水も無駄にはしなかった。ショウベンタマに排水を落とし、肥料にしていた。
 フロは毎日立てることはなかった。また、冬はマキが大量に必要になるので、回数が減った。フロを立てると、近所中の人がもらいに来た。
 かつてはマエデノザシキの南側に客用のフロバがあった。この場所をフロバとして使っていたのは、幕末か明治ぐらいまでらしい。ここはその後、ハタオリバ(機織場)となっていた。

... ベンジョ
 どの家も入口に小便をするところがあった。佐々木家ではフロバの外壁に小便器が取り付けてあり【図版8】、下がショウベンタマになっていた。ここには大きなオケが埋めてあり、小便とフロの排水が溜まるようになっている。これは何よりも最高のコヤシで、かき回してオケで運んだ。
 外便所は、元の土蔵(主屋の西側にあった)のそばにあり、大便はそこでしていた。オンナシュは小もここでしたが、誰もいないときは小便器の方を使うこともあったという。
 オクノザシキの廊下のつきあたりにはザシキノベンジョがあった。この便所は客用で、畳が敷いてあった。使っていたのは大正の末までである。
 昔はトイレットペーパーがなかったので、書付などを揉んで使っていた。新聞紙は最高の部類だった。ヤマテ(山の方)へ行くと太い縄を出口に張り、それをまたいで尻をこすっている家もあった。

... 土蔵
 現在の土蔵は新しいもので、元は裏の畑の方にあった。米、大豆、麦など穀物を保管していたほか、大事なものをしまっていた。入口の戸に盗難除けの札を貼っていたが、2回か3回「土蔵を切られ」、衣類や刀など金目のものを盗られた。古文書が残ったのは金にならなかったからである。
 土蔵は景気が良くないと作らなかった。本当の大地主の家には土蔵が幾棟もあった。

..(2)食
... 水
 主屋の裏手に大きな井戸があった【図版9】。掘ったのは200年ぐらい前といわれている。
 この井戸は大正10年(1921)ごろまで釣瓶式だった。かつては釣瓶に木製の車輪を使っていたが、その後鍛冶屋に作らせた鉄製の車輪となり、やがてポンプに切り替わった。
 井戸枠は4枚組みの切石だった。上屋の屋根は、明治になる前はクリのササイタと葺石を使用したイタヤネだった。その後、杉の皮を分厚に使った杉皮葺きとなり、笠木にクリを使用していた。大正の半ばごろになるとトタン板がでてきたため、大正の末にこれで覆ってしまった。なお、柱は腐れを防ぐため、すべてクリ丸太を使用していた。
 この井戸は井戸替えをやると清水がぶくぶく湧いてきた。水は冷たかったが、凍らなかった。水を運ぶときはオケを使う。運ぶのは大人の仕事で、毎朝汲んでダイドコロまで運び、溜めて使っていた。この井戸は周辺では唯一のもので、佐々木家だけでなく近所中が使っていた。井戸はどこの家でも掘れるものではなかった。
 佐々木家ではこの井戸とともに湧水も使っていた。自分の山にある「モコ(婿)の水」から500mほど引いたものだが、昔の土管は素焼きで草木の根が入るため使用を中止した。
 その後、昭和3年(1928)の御大典を記念して、再びモコの水から水道を引いた。このあたりでは一番早かった。このときは鉄管を使用し、蛇口から出るようにした。共同で使用していたのは4軒である。うち1軒はその後はずれたが、昭和37年(1962)に水道の敷設替えを行い、佐々木家も含めた3軒は現在もこの水を引いている。湧き水なので水は始終落とし、池にも入れている。
 水道を引いたため、井戸の方は冷蔵庫代わりに使用した。夏場、ご飯をカゴに入れて下げておくと、絶対に悪くならなかったという。この井戸はその後埋め、現在はない。

... 食事
 毎日の食事はご飯、味噌汁、漬物が基本だった。お昼のおかずは梅漬け、味噌漬け程度で、あとは汁をかけるぐらいだった。梅漬けは塩とシソッパで味付けしたもので、梅干しとは別のものである。ナラヅケにはヤワラカウリを使う。このウリはマクワウリよりやわらかく、年寄りでも食べやすかった。肉や魚を食べるのは、祭りのときぐらいだった。調味料は味噌も醤油も自家製で、タルに入れミソベヤで蓄えていた。
 家族が多かったので、食糧だけで大変だった。朝も三升釜で炊かないと足りず、味噌汁のナベもとても大きかった。何かのときはもっと大きなカマを使うこともあったという。

... ウドン・ソバ・オカユ
 米を大切にしていたので、夜はどこの家もウドンだった。自家製の小麦を石臼で挽き、手打ちにしたものである。石臼はどこの家にも2、3台あった。
 一方、ソバは祝儀不祝儀など、「イチゲンのお客さん」が来たとき食べるもので、ご馳走だった。ホシソバ(乾麺)はなく、みな手打ちだった。
 オカユは、ナナクサガユの日以外食べることはなかった。

... 魚
 秋になると、ときどき魚を売りに来た。各村に1軒か2軒魚屋があり、売り子が5匹10匹と買って自転車のうしろに載せてくる。そして川ばたに止め、ナベを持って買いにくる人々に売りさばいていた。魚はサバとサンマが主で、サンマも2、3切れに分けてみんなで食べる。他の魚はたまに入ってくれば良い方だった。
 このほか、農家は食用にタンボでコイを飼っていた。タンボで飼っていない家は「ドブガイ」といい、サトの方へ行ってコイを買い、ドブ(池のこと)に入れていた。ドブのある家は少なかったが、佐々木家は客が多かったので大きいドブで飼っていた。このドブにはよく子どもが転げ落ちた。
 特別な客が来たときは、ドブのコイをすくい上げて料理する。コイは最高のご馳走で、刺身や鯉こく、吸い物などにした。

... 肉
 普通、肉はなかなか食べられず、暮れや正月に食べるのもニワトリかウサギだった。
 ニワトリはオソバのお吸い物にした。
 ウサギは昔、どこの家でも飼っており、多いうちには何十匹もいた。佐々木家にも多いときは10〜15匹ぐらいいた。ウサギは出産近くなると、自分の毛を抜いてワラのやわらかいところと合わせ、小屋の中に巣を作る。そして7、8匹子どもを生む。こうしてどんどん増えていったので、オスのいない家が種付けに来ることもあった。
 ウサギの皮は染めたりして高級なコートなどになるため、専門に買いに来る人がいた。この人たちに皮をむいてはらわたを出してもらい、食用として土蔵の中に吊るしておいた。寒いときはこうしておくと悪くならなかったため、多いときは二重に吊るしていた。肉を食べたあとは、骨まで「ハタイテ」お団子にする。今はウサギを飼う人はいなくなり、飼っても子どものおもちゃにするぐらいである。
 このほか、佐々木家には鉄砲もあったので、昔はイノシシを撃つようなこともあった。また、山奥の方へ行くとクマもおり、これを獲る人もいた。嘉幸氏はクマの肉を食べたことがあるが、「しゃらまずくて」食べられなかったという。

... 山菜
 昔は山菜採りをした。ゼンマイ、ワラビ、ウドなど、山に行けばたくさんあった。ゼンマイはこの辺りにはなく、同じ村の中でもオクヤマ(奥山)の方へ行かないと採れない。そのため、リヤカーを引いて、近所の人と松井(佐久穂町八郡松井)まで採りに行った。
 採ったゼンマイは茹でて干す。生乾きのとき揉むとやわらかくなる。これを干しておくと1年でも2年でも食べることができた。干したのが大きい袋いっぱいあれば大したものだった。ゼンマイは煮物にして始終使ったほか、お客が来たときなどにも出した。中国産より味が良く、今でも採りに行く人がいる。
 桑の実のことを「メド」という。良いものと悪いものがあり、良いメドは農協に出荷していた。子どもはメドを採り歩いていた。

... 行事の食事
 お祭りにはオモチを搗いたりオコワ(赤飯)を炊いたりした。オコワは餅米で蒸かした。オモチはあんこを入れてアンコロモチにし、オジュウバコでそこらじゅう配ったので大変だった。肉は祭りといってもウサギぐらいだったが、このほかお客でもあればオソバも出した。
 正月は3日間、朝はウドンだった。お雑煮も食べたが、このあたりはウドンの家が多かった。魚は家のコイや、買い求めたサケを食べた。

..(3)衣
... 機織り
 昔はどこの家も機織りをしていた。佐々木家では客用のフロバだった場所がハタオリバになっており、家の女性たちが作業した。佐々木家では染物業を営んでいたが、販売用に織ることはなく、自家用だった。機織りは、染めてから織る場合と、白生地を織ってそれから染める場合とがあった。こうした作業が、移築の直前ごろまで行われていたという。
 織っていたのは主に絹である。オカイコを飼っていたが、良いマユは出荷したのでクズマユを使い、糸取りからすべてやっていた。マユのケバも全部ではないが、縒って使った。毛糸のない時代だったので、代用して帯などを織ったり、ツムギに利用したりした。ツムギにはタママユ(サナギが2匹入った丸いマユ)などから引っ張り出した糸も使った。
 木綿も織っていた。ノラギ、ヤマシタク(山支度)、モモシキからウワギ、娘のものからアカンボのものまで、他に生地がないので家で糸を紺に染め、機織して作っていた。絣の着物なども家で染めて織っていた。
 なお、かつては麻も織ったらしいが、せつ氏の時代にはなかったという。

... 履物
 履物は主にワラゾウリなどだった。

... 子どもの服装
 嘉幸氏が小学校1、2年のころは、みんな自家製の着物で、洋服を着ている子はひとりもいなかった。昔は鼻をかむにもハナガミがなかったので、着物の袖は鼻水でガリガリだった。
 昔の子どもは「着たっきりスズメ」で、1回買ってもらうとずっと着たまんまだった。

... 寝具
 戦後何もない時期は、嫁に行くにも布団も買えなかった。そこで、マユから糸を取って染め、機織りして布団のガワを作った。中身には木綿のワタを買って詰めたが、マユのケバも少し使った。
 ワラの外側の皮をすぐり、干して中に入れたものを「スベブトン」という。マットレスのように木綿のフトンの下に敷くもので、自家製である。昔はすべてスベブトンだったがとても暖かく、日に当てるとワラがふわふわした。
 枕はソバマクラでソバの殻が入っていた。ハコマクラは頭を結っていたころのもので、せつ氏の時代には使わなかった。

..(4)暮らし
... 照明
 電気が入ったのは大正12年(1923)ごろだが、嘉幸氏はランプのホヤ(火屋)を磨いた覚えがあるという。これは子どもの仕事だった。

... 暖房
 クズヤヤネはケムリヌケがあるので、吹雪のときは雪が吹き込み、ザシキやチャノマに雪が舞った。特にダイドコロは天井がないためたくさん吹き込み、食事をしている上にぱらぱらと落ちてきた。
 部屋の中は寒く、ヤグ(夜具)の口のまわりは凍ってガリガリになった。そのため、寝るときはホオッカムリをした。暖房器具はコタツとヒバチぐらいで、アンカはトシヨリシュウ(年寄衆)しか使わなかった。
 コタツで寝ると、足が乾燥してアカギレが切れる。昔はただでもひどかったが、フロに入らないため垢がたまり、ヒビやアカギレが余計に切れた。なお、コタツから火を出すことを「コタツッカジ」という。下掛けを踏み込んで火事になることが多く、かつては火事といえばコタツッカジだった。

... 電話・ラジオ・テレビ
 電話が入ったのは早い方ではなく、昭和20年代後半ぐらいである。分家(豊氏)の方は染物をやっていたので、集落でも早いころに入れた。
 ラジオも分家の方が先に入れた。入れたのは昭和20年(1945)より前で、終戦のおりは嘉幸氏の家の縁側にみな集まり、このラジオで玉音放送を聞いた。昔は何かあるとラジオのある家に集まることが多く、伊那の光沢投手が投げて優勝したときも近所中が聞いていた(注4)。
 テレビが入ったのは昭和30年代になってからである。

... 回虫・シラミ・ノミ・ネズミ
嘉幸「菜っ葉でも何にするにも大小便みな使ったからさ。回虫の卵がな、うんといてさ。で、体へみんなへえっちゃったわけだ、昔は。だから、どこのうち行ったってみんな回虫が、みんないるわけだ。昔はだから、ミミズみたいなこんな、こんな大きいやつがさ、体へへえってるわけだからさ、昔はな。あれがみんなあの、卵を産みつけたから、たまったもんじゃねえやさ」
せつ「だから虫下し。おなか痛めれば、痛くなればね虫下し飲めば、それがね」
嘉幸「それが下ったり、口から出たりな」
せつ「昔はそれで頭だってシラミっつうのがたかってね、今もういないけどね」
嘉幸「着てるものにもシラミがたかるだしさ。頭のシラミはまた違うだよな」
せつ「黒くてな。体にやんのは白いシラミで。学校やなんかであれすれば前の人がこういうふうにあれ、頭のシラミやなんかがこういうふうに下がってきたり。で、よくね、卵産んだりね。だから、DDTを学校で」
嘉幸「DDTが出てっから絶えたわけだ。それまではさ、学校行ってもさ、日向ぼっこ、校舎がこうなってて日向の方にいる生徒はさ、ぽかぽかしてくると着物のこういうアゲっつったか、ああいうところからシラミが這い出てくるわけだ。オイ、シラミじゃあねえかそれ」
せつ「まったくね。よく、昔それで生きていたよ」
嘉幸「子どもなんか風呂に入るっていやあ、全部、それこそ煮え湯でもぶっかけなきゃあさあ、シラミはびっしりだからな、着たまんまだもの」
せつ「そんなに昔は、お風呂もそんなになあ、入らないし」
嘉幸「それで今みたいにさあ、洋服で、絶えず着替えてっつうあれじゃねえだから。着りゃあ着たまんまだからさ。子どもなんかだってメリヤスのシャツ買ってもらえばさ、それを着たまんまだからさ。シラミのいい巣だった」
せつ「だから、こういう縫い目のところなんかみんな卵産みつけてね」
嘉幸「女の人は子どもを風呂に入れたっていやあ、こんだその着物を持ってきてさあ、シラミつぶすのがどうも、何よりも楽しみだったからなあ。こう、爪が真っ赤んなっちまうからな」
せつ「オスエちゃんなんか子どもがないからさ、近所の子どもに10円くれるから、あの、シラミとらせろってこの頭のシラミをな。オスエさん子どもなかったから、近所の子どもに10円くれるからシラミとらせろってねえ、言った話がありましたよ。もう、なくなった話だけどね」
嘉幸「それであの、夏場だってさ、コザシキだとかネドコなんか行くとさ、夜、ノミが這い上がってくるわけよ、こういうふうにな。わかるわけ。這い上がってくるからそこで手で取れるわけだな」
せつ「ほんとにあれだったよなあ、あの、昔なんか布団もそんなに干さなかったしねえ」
嘉幸「それで薬も少なかったからな。まあ後半になって蚤取粉っていうやつが出てきたけど、あれあまあその、今考えてみるとあんまり、体のためにはよくはなかったよな」
せつ「学校だって、シラミあれするのに頭へなあ、みんなあれしてくれてなあ、学校で」
嘉幸「それであの、まあ、ネズミが多くってな。いいものみんなネズミにやられちまうからさあ」
せつ「兄さんなんか鼻の頭かじられて」
嘉幸「寝てるとこへみんな、頭へとんでくるだからさ」

... 病院
 病院はシノクチ(佐久穂町穂積天神町)にトシヨリの医者が1軒あるだけだった。昔はヤブ医者しかおらず、病気になるとみな早く死んでしまった。

... 子どもの暮らし
 佐々木家は庭が広かったので、近所中の子どもが集まって相撲をとったりしていた。あるときひとりが足をくじき、接骨院などなかったので、大騒ぎして上田まで連れて行ったことがあるという。嘉幸氏はガキ大将で近所の子どもに頼りにされ、喧嘩に誘われたりしていた。
 子どもの集まりとしては少年団があり、小学校に上がるとみな入った。
 昔は盆や正月、お祭りでもなければ、何かを買ってもらったりすることはなかった。

... 女の暮らし
 農家のオンナシュはほんとうに苦労した。昼間だけでなく、夜は夜なべにランプの下で針仕事などをした。休む暇もなく働いていたので、昔の女の人は早死した。

... 娘を奉公に出す
 「昔は地震があったりさ、不幸が続くと、まあ大変だったわけだ、昔はな。うん。それで昔はそう、病人が出はじめるとさ、なかなか今のようにその、医療設備が完璧じゃねえから、いったん病気になっちゃうともうそのまま逝っちゃうとかさ。それで働き手がいなくなっちゃったとかさ。そうすっと、ほんとにどん底に落ちちまうわけだ。だから娘がたくさん生まれれば、娘が女中に行ったり、働き、奉公に出かけてな、それで稼いだらしいよ。それでこの辺でもその、娘が5人も6人も生まれた人が、機械工場って、製糸工場へな、みんなやって。そうすると12月んなると、製糸工場へ行ったうちは娘がけえってくるとき金もらってけえってくるからさ、そうで裕福になるわけだ。だから、娘のねえうちなんかてんで大変なわけだ。で、娘がたんといりゃあ、それこそ人身売買じゃねえがその、売りに出したりさ、あるいはその女郎に出したり酌婦に出したりっていうことでな、みんな稼がしたわけだ」(嘉幸氏)

.3.生業
..(1)概況
 佐々木家は稲作と養蚕を行っていたほか、染物業を営んでいた。5月下旬から6月に田植え、それが終わると養蚕に入り、7月8月と「オカイコ」に追われた。養蚕は年に4回行っていたので、休む暇がなかったという。
 佐々木家ではやらなかったが、村では炭焼きやマキの切り出しをする家が多かった。
 炭焼きは、冬場仕事のない人が村の入札で場所をとってやっていた。山の奥の方で、親子して炭焼きをやっている家もあった。「親子してあの人は炭焼きだなんて人がえれえいた」という。しかし、木炭を使わなくなったため炭焼きをやる人はいなくなった。
 マキをやる家では東京まで出荷していた。軽油や灯油がなく、フロを焚くのもマキだったため、どこでもマキが不足していた。小海線は当時、マキの出荷に使われていた。
 このほか、馬でドビキをやる家も多かった。

..(2)問屋
 佐々木家では江戸時代のわずかな期間、問屋をやっていた。扱っていたものは、衣類や食料が多かったという。
 問屋をやるには資本が必要だった。佐々木家の前にある須田家も、幕末に問屋をやっていた家である。

..(3)寺子屋
 ドマの2階で寺子屋をやっていた。江戸時代から続き、やめたのは大正に入ってからである。佐々木家の先祖が師匠を務め、弟子たちの建てた筆塚も残っている(注5)【図版10】。

..(4)稲作・畑作
... 概況
 佐々木家は昔はデンチデンパタ(田地田畑)がたくさんあり、「人の土地を踏まなくても良かった」。これらの田畑を人に貸していたため、年貢がうんとあった。年貢は収穫の半分、あるいは4割だった。しかし、貸した先が悪くなれば、金に困ることもあった。
 米は倉に保管した。倉の中には「ツブシ」という、モミを保管する場所も設けてあった。米だけでなくモミで年貢をもらう人もいた。
 米は「何ぼでも」売れた。金よりも米の方が貴重で、米さえあればなんでも買うことができた。そのため、畑よりタンボの方が信用できた。畑はカイコや麦に使ったが、金額的にはたかが知れていた。

... 作番
 農業の手伝いとして、サクバン(作番)が2人ほど住み込んでいた。特別忙しいときは増員し、5、6人になった。ほとんどが男で、忙しいときはオンナシュも頼んだが、日ごろオンナシュの役目は家の者でまかなっていた。
 サクバンは裏口の手前に設けた2階で寝起きしていた(70頁参照)。休みはコウヤショクニン(紺屋職人)と同じく盆と正月ぐらいで、それ以外はほとんど働いていた。

... 作物
 米のイネコキにはアシブミ(足踏み脱穀機)を使った。そのあとフルイでふるって、落ちないモミはボウウチッポではたいた。
 サツマイモは自家用に作った。保管するときには、共同で掘った横穴のムロを使った。戦争中は小学校の庭までサツマイモを作らされた。
 ソバも栽培していた。石臼で粉にして食べたが、ソバもうんとうまい年とあまりうまくない年があった。

... 肥料
 通常は糞尿を肥料に使った。糞尿はコヤシとしては最高のもので、これに米のモミガラを混ぜて肥料にする。豆や麦を播くときはこれを使った。
 「マメイタ」という大豆の搾りかすも使った。元は中国から来たもので、丸い形をしており、肥料にするときはこれを割って使う。ただし、購入しなければならないものなので、普通は使わなかった。

... 馬
 昔はどの家も中にウマヤがあり、耕作用に馬を飼っていた。その後、このウマヤがどこもミソベヤなどになった。
 佐々木家では、嘉幸氏が物心つくころには馬はいなかった。

..(5)酪農
... 概況
 牛乳の出荷用にチチウシ(乳牛)を飼っていた。主屋の中で飼っていた時代もあるが、その後ギュウシャ(牛舎)を外に増築した。始めたのは昭和になってからで、20年ぐらい飼っていた。
 飼っていたのは1頭だけである。このあたりでは農業をやりながらどの家も1頭ぐらい飼い、牛乳を出荷していた。近くの集乳所で集めて明治乳業に卸していたほか、2合とか3合ずつほしいというような個人の家に毎日配って売った。配達は働きに出る前に家の者がみんなやっていた。

... 搾乳
 搾乳機がなかったので、牛乳はすべて手搾りだった。そのため、飼えるのはせいぜい2頭だった。搾るのは男だけでなく、オンナシュもやった。
 最初は乳が固く、よく揉まなければならない。手で揉むのだが途中で疲れてしまい、しまいには頭で揉んだりした。そのくらい柔らかくしないと乳が出てこなかった。
 質の良い乳牛は1日に1斗から1斗2升出た。乳缶1本分ぐらいである。うっかり搾っていると、一杯になったところで牛が缶を倒したり、足を突っ込んだりすることもあった。

..(6)養蚕
... 概況
 佐々木家では古くからオカイコをやっていた。やめたのは染物をやめる少し前の昭和35年(1960)ごろである。このあたりは農家はどの家もカイコを飼っており、昭和40年(1965)過ぎまでやっていた家もあった。
 オカイコはハルゴ(春蚕)、ナツゴ(夏蚕)、アキゴ(シュウサン、秋蚕)、バンシュウサン(晩秋蚕)と、桑が余っているときは年に4回やった。このうち、一番金になったのがハルゴである。大量に飼ってマユを出し、これでコヤシ代などの借金を「切る」。ナツゴである程度金が余れば良い方で、通常は秋のカイコでいくらか「手にくっつく」ぐらいだった。あとはみな借金のカタにとられた。

... タネガミ
 稚蚕飼育場ができて稚蚕を配布するようになる前は、タネガミを買って自分で孵化させていた。
 タネヤはたくさんあった。上田から丸子(現・上田市)のあたりに多く、佐々木家にはそこから来ていたが、このあたりにもタネヤサンという家があった。
 タネヤにはいついつということで注文する。これを受けてタネヤでは、それまでに孵化しないよう風穴(洞穴)に入れておき、孵化の時期に合わせてそこから出してきた。

... 桑の木
 佐々木家の桑畑には、一抱えもある大きな木がびっしりあった。桑の木には丈の高い「キックワ」と、丈の低い「ネックワ」とがあった。
 キックワはコヤシをやるとうんと「起きてくる(高くなる)」。この枝を落としてカイコにやった。このキックワで「一番働いた」のが、「オオシュウ(奥州)」という品種だった。
 ネックワは、盛りにはカブの上に伸びた部分をカマで切ってカイコに与えた。
 このほか、桑の品種としては「ロソー(魯桑)」「ネゴヤタカスケ(根小屋高助)」といったものがあった。

... 飼育
 棚の上で飼うことを「ボウガイ(棒飼)」といった。まず、丸太で2段の棚を組む。ほんとうにたくさんやるときは、これを3段にする。そして、この上にスダレとムシロを敷く。カイコが少し大きくなってからは、この棚の上で飼育した。
 佐々木家ではオカッテノヤスミドコロ、ダイドコロ、チャノマを養蚕に使った。さらにナカノマまで使うこともあった。カイコを飼いだすと、特に上蔟前などは寝る床もなく、カイコの棚の下で寝る人もあるくらいだった。

... 出荷
 できあがったマユは、乾燥せずナマのまま出荷した。
 出荷場所は各町村にあった。大きな家のチャノマやザシキ、イタノマを借り、そこに集める。これを製糸家が袋につめて持っていった。

... ケバ・タママユ・ビショ
 製糸家は「ケバ」も買っていった。家ではその残りを利用した。
 「タママユ」は真ん丸い形をしたものである。中にオカイコが2匹おり、男と女が入っているといった。これも売り物になったが、普通の糸にはならなかった。そのため、家で茹でて四角い枠で伸ばし、乾燥させてマワタにしたりした。
 「ビショ(ビショマユ)」とはオカイコが途中で死んだためマユが薄いもので、一番質が悪い。これも自家用として糸を引き出して使った。
 なお、糸を取ったあとのサナギはコイのえさにした。おいしいといって食べる人もいたが、せつ氏は気持ちが悪くて食べられなかったという。

... 製糸家
 「だから、マユ買うやつにみんな儲けられちゃったわけだ。だから、てんであの、『コウカビョウ(硬化病)』ってその、昔は『ホシイ、ホシイ』って、カイコが白くなっちゃうんだよな、死んでさ。そんなのはその、マユそのものは糸全部吐いて、マユ作って、中でコウカビョウになっちゃうだよな。そうすっと、目方が半分以下んなっちまうわけ。だからむかし、1貫目のものがその、300匁かなんぼぐらいになっちゃったじゃねえかな。そういうのは二束三文で叩かれちまうわけ。それで持ってってやると、なにその、普通のマユと同じに糸が取れるわけ。そうでやるから、みんな儲けられちゃったわけだ。昔は製糸家ボロ儲けだ、んだから毎日のように芸者買いやってさ。女買って騒いでたわけだ。それで農家の人は知らねえから、それでみんなやられちゃったわけだ。そういうことがみんなあとんなってわかってな。それでやる方自体が、みんなそう、あんときは儲かったな、こうだああだ、つってみんなしゃべっちゃったからさ、みんなばれちゃったわけだ」(嘉幸氏)

..(7)染物
... 概況
 佐々木家は江戸時代末に染物をはじめ、移築の直前まで家業としていた。染物屋の屋号を「龍田屋(たつたや)」という。住み込みの職人がおり、ひととおりの作業をやっていた。したがって、嘉幸氏の父はやっていたが、嘉幸氏もせつ氏も含め家の者はあまり手を出さなかった。嘉幸氏の姉、あやの氏(故人)が養子を迎えてからは、その豊氏(故人)が染物を任されていた。その後、昭和40年(1965)過ぎに佐々木家の西側に豊氏がシンタク(新宅・分家)を出し、これとともに染物もそちらへ移して本家の染物工場は使わなくなった。ただし、シンタクではアイガメを使った染めはやらず、注文に応じて外注するのが主だった。
 紺屋はかつてはどこの村にもあった。佐久には他にもう1軒あったが、うまくいかず店を閉めたという。また、200mほど離れたところに「紺屋村」と呼ばれるところがあり、紺屋が2軒あったが廃業してしまった。長野県には県の「織染(きせん)組合」があり、長く勤めた職人を表彰したりしていた。
 年末やお盆前は忙しかった。それでも、オカイコよりは金になったが、良いときは良くても悪いときは悪かった。なお、紺屋に関する言葉として、かつて「コウヤのあさって」という言いまわしがあった。これは、決まった日になかなかできないことから来たもので、当てにならないことのたとえだった。

... 職人と番頭
 佐々木家には染めの職人と番頭が住み込んでいた。何かあるときは別の部屋に移ったが、普段はマエデノザシキを使い、家族同様に暮らしていた。人が多く、にぎやかだったという。
 染めの職人のことを「コウヤショクニン(紺屋職人)」といった。1年中住み込んでおり、常時3人、夏場ハッピを大量に染めるようなときは増員し、多いときは5、6人いた(注6)。いずれも男性である。藍染専門で、みな手や爪が青く染まっていた。
 コウヤショクニンになる人はなかなかなく、なり手を探すのは難しかった。子どもの多い家から次男三男を小僧として雇ったり、他の染物屋で修行してきた人を雇ったりした。いずれも佐久周辺の人が多かった。昔の職人は帰る家もなく、妻子もないという人が多かった。
 森山幸蔵氏(小諸市・故人)は、佐々木家で一番長く勤めた人である。明治から昭和にかけて働いていた。伝田忠治氏(小諸市・故人)は、佐々木家で勤めた最後の人である。この人も20年から30年働いていた。このほか上原長吉氏(佐久市・故人)や、村内の職人たちがいた(注7)。
 一方番頭の方は、商店の払いなど会計をやったり、注文を受けたりということを専門にやっていた。
 職人たちの給料は、人によって月ごとに払ったり、貯めて2箇月分支払ったりとばらばらだった。職人は「金の忙しい」人だから「先借り」することが多く、まとめて1箇月分もらう人などはいなかった。家族がたくさんいる人は前借りしないとやっていけなかったという。
 職人たちの休みは盆と正月ぐらいだった。祝儀不祝儀や祭りのときには休みを取らせたが、それ以外はほとんど働いていた。

... 受注
 染物は客から注文を受けて染める。佐々木家には見本帳がたくさんあり(7頁参照)、これを見せて柄が決まると、その通りに染めた。友禅の見本は最高の生地で作ってあった。
 頼みに来る人もいたが、商店関係のハッピなど、大口のものについては注文をとって歩いた。まわるのは佐々木家の主人や「一番番頭」で、南北佐久が営業範囲だった。なお、注文を取りにまわるだけで、染め上げたものの行商に出ることはなかった。
 そのほか、農家が家で織ったものを染めるだけ染める場合もあった(注8)。絹で織った白い布を持ち込み、友禅にするか、海老茶にするかというような相談をした。麻も農家で織ったものを染めることがあった。

... 染物工場
 仕事場を「ソメモノコウバ(染物工場)」「ソメバ(染め場)」と言っていた。藍染めの大ガメが地面に何本も埋めてあり、ここで紺を染めていた。休んでいるカメもあったが、半分くらいは始終使っていた。
 地面に埋められたアイガメは、4つが1組である。4つは田の字型に配置され、それらの中心部分は「フクロ」と呼ばれる袋状の空間になっている。冬はここにコビキヌカ(おがくず)を入れ、これを燃やすことでカメを温めた。こうすると寒い時期でも藍が発酵して沸いてきた。火を入れるときは、火のついた縄で点火して歩く。そうすると、フクロから煙がポコポコ出た。コビキヌカは製材所と特約を結んでもらっていた。
 佐々木家には染物用のカマドが2箇所あった。1箇所はコウバの中央で、ここでは友禅など特別なものや高級なものを扱っていた。もう1箇所はコウバの外側にあり、こちらでは洋服や外套など、普通のものを扱っていた。

... 藍玉
 藍で染めるのは木綿が多く、糸染めが多かった。そのほか消防のハッピや、商売をしている家が従業員に着せるハッピなどを染めた。周辺で一番大きい吉本林業という会社のハッピを、盆、暮れ各1000枚以上受注していた。
 藍玉は四国から取り寄せていた(注9)。渋沢栄一とも取り引きがあり、領収書などの書類のほか、掛軸も残っている。藍玉は質の良いものと悪いものがあり、良いものは高価だった。藍玉は俵で送られて来る。アイガメの中に入れるときは、これを細かく欠いて(割って)使った。

... 染め方
 布や糸は東京や名古屋、大阪などから仕入れていた。
 布を染めるときは、白い生地にゴジル(豆汁)を引く。ゴジルというのは大豆を石臼で挽き、水に溶いたものである。これに黒いエン(ショウエンなど)を混ぜ、刷毛でおおよそ塗る。さらに、特殊なエンを袋に入れてゴジルのツボに入れ、ここに布を漬ける。ムラができないよう、何回も何回も漬ける。こうすると布が染まりやすくなった。
 つぎに、今度は布をカマドの蒸気で蒸す。これを「カラス(枯らす)」という。カマドの上には棒が取り付けてあり、ここへサオで布を掛けてカラシた。その後これをはずし、アイガメの中に漬ける。そうするとようやく紺染めになった。
 一方、糸を染める場合は丸く束ねた糸に棒を挿し、カメの中に浸けたり上げたりする。これを何回もやり、最後上げたあともう1本棒を挿して絞る。すると良い色がついた。
 染料の調整のため、酸性の薬品とアルカリ性の薬品とを使い分けた。塩酸、酢酸のほか、高級なものには青酸カリも使っていた。絹、毛は酸性のため、酸性染料で染めた。
 模様は糊でつけた。糊の材料は餅米で、これを石臼で挽いて作る。染めたあとは川に流して糊を溶かし、残った糊をさらに刷毛で落とす。この作業がたいへんだった。
 布の乾燥にはニワ(主屋の前庭)を使っていた。横に棒を出し、ハリテ(張り手)とシンシ(伸子)を掛けた布を縄で引っかけるようにして、長い反物を干した。夏場、ハッピの盛りのときは千曲川の河原を使った。ハッピにはシンシは必要なく、広々したところに枠を組み、そこで干した。
 染物はなかなか手間がかかった。

... 友禅
 友禅は型染めと手描きと両方やっていた。型染めを始めたときは、京都などから職人を呼び、指導を受けたという。友禅には、良いマユで織ったシラギヌの反物などを使った。
 染めの型紙は専門の職人が作った。このあたりではできず、型紙屋がいる京都や東京から仕入れていた。店に行くといろいろあるので注文してきたり、なければ柄を注文して作ってもらうこともあった。型紙は楮のしっかりした紙でできており、シブがひいてある。手入れが良ければ何回でも使うことができるため、柿をつぶしてシブを作り、この汁の中に入れたり、あるいは刷毛で塗ったりした。佐々木家には本シブ(渋柿)が何本もあり、実は小粒だったがよく使っていた。
 型染めの場合は、布の上に型紙を置き、色糊をつける。そして最後はカマドの蒸気で蒸す。手描きの場合は色と色の境目に糊を入れ、布に直接絵の具を置いていく。そしてこれをくりかえす。いずれも染め上がったら川で流し、糊を溶かして落とす。友禅は技術的に難しく、高級な技能を持つ職人でなければできなかった。

... 染料
 佐々木家では草木染めも行っていた。
 茶色はクルミで染めた。使うのは皮の部分で、これを細かくして器に入れておくと腐ってすぐにぐちゃぐちゃになる。これを杵で搗き、水に入れると「胡桃茶」という色ができた。この色はとても強く、糸を染めると2、3回入れただけでも絶対に落ちない。そのため手に付くとなかなか落ちなかった。クルミで染める場合にはカメは使わなかった。
 土を使う泥染めも行っていた。泥染めに使うのは青い土である。ナメの腐ったような、やわらかい岩が腐食してつるつるになったものを集め、これを水に溶いた中に布をつけておいた。
 こうしたクルミや泥は、いずれもこのあたりのものをコウヤショクニンが集めてきた。しかし、染料を作るのは手間が掛かるため、ほとんどの色は買っていた。京都の染料問屋を通して、ドイツから取り寄せたこともあった。この染料の入っていたビヤダルのような樽が、現在も佐々木家の土蔵に残っている。
 黒は「エン」という煙の煤で染めた。これも染料問屋からとっていたものである。染料問屋はこうしたものを製造販売していた。

... 委託と展示会
 染物業をシンタクに移してから、注文だけをとって染めるのは委託に出すようになった。委託先は主に京都の友禅の卸問屋である。
 宣伝用に大きなカレンダーなどを毎年作り、春と秋には展示会をやった。展示会はシンタクでやったほか、公民館を会場に借りてやったこともある。招待券を事前に配ると、結婚式や成人式を控えた人がみんな来て、反物の見本を見て注文していった。オカイコで忙しい時期だったが、展示会のときは親類中が手伝いに行った。オコワ(赤飯)を蒸かして大きい入れ物に入れて持って行き、注文に来た客にふるまったりした。
 京都で染めた布は反物で届き、これを仕立てて客に渡した。仕立て屋もこのあたりに何軒もあり、仕立て専門で生活している人もあった。シンタクで仕立てることはなかった。
 その後、京都の卸問屋は倒産した家が多かった。貸し売りになってしまうので、どうしてもそうなってしまう。どんどん送ってよこして、最後は回収できなくなってしまった。

.4 交通交易
..(1)運搬
 背負梯子のことを「ショイコ」と呼んだ。通常自家製である。
 両脇に来る縦の部材を「オヤ」「オヤギ」という。ナラ、サワラ、カラマツ、ヒノキ、スギなどを使う。このオヤをつなぐ横の部材を、上から「カミコ(上子)」「チカラゴ(力子)」「シモコ(下子)」という。ナラなどの堅木を使う。どの部材も若木だと折れやすいので、年数の経ったものを使用する。
 背負い縄は、ボロ布で編んだものを「レンジャク(連尺)」、数本の縄で簡単に編んだものを「肩縄」という。肩から背中に当たる部分に巻く縄は、「レンナワ(連縄)」「カタアテナワ」という。この部分にミゴナワを使う人もあった。このほか荷を縛り付けるのにも、昔は縄を使用した。
 大きさは、子ども用が50〜70cm、大人用は80〜130cmである。
 数え方は通常「1丁、2丁」だが、「1竿」とか「1箇」という言い方もある。1軒で2〜6丁くらい持っており、風雨にさらされない納屋などに場所を設けて、使わないときは掛けておいた。3〜5丁重ねて掛ける場合と、壁に並べて「平掛け」する場合があった。1軒の家でもよく使うショイコは決まっていることが多かった。
 ショイコではさまざまなものを運んだ。米俵、イネやムギなどの農産物、薪、ボヤ、堆肥、ワラ、草など燃料や肥料、そのほか建具、風呂桶、タンス、布団、行李なども運んだ。坂畠(山の上の畑)に小便ダル(尿ダル)を上げたり、婚礼道具を運んだりすることもあった。そのほか、悪路や急坂、河川などで人を載せたり、急坂の墓地に埋葬する場合に棺桶を運んだりするのにも使ったという。
 運べる分量としては、一人前の男なら16〜25〆くらい、もっとも力のある人で40〆(140〜150㎏)ぐらいである。米俵なら2〜3俵である。ワラや干し草は軽いので、1駄(6束、1束は3〜4〆)載せると荷は山のようになった。このような場合には長いショイコを使った。
 運搬を生業としていた者は、15〜16〆(60㎏)担いで、3〜4里(12〜15km)運んだ。休みは2〜4kmごとに取った。上り坂のときは当然休みは多くなり、かなり重いものを運搬する場合は300〜500mごとに休みを取った。
 平らな場所で荷を付けて立ち上がれる程度なら、運ぶのも楽で長距離でも大丈夫だった。少し高い場所で荷を付けると、立ち上がるのが楽なので、さらに重くても運ぶことができた。運ぶとき杖を使うことはほとんどない。運搬時の道具としては、連縄に背当ての布を付ける程度であった。
 田畑が山の上にある場合、上り下りはかなりの重労働である。ことに雨の日は滑りやすく、ショイコを背負ったまま落ちて怪我をする者も多かった。そんなときはショイコのオヤが折れ、使用不可能になることもあった。
 ショイコについて、やってはいけないことがいくつかあった。腰掛けてはいけない。担架のようにものを載せてはいけない。荷物を積んだとき、石の上など硬い所に倒してはいけない。雨に濡らしてはいけない。それから、連縄を大切にしろとも言われていた。
 ショイコは一輪車や自動車が普及して使われなくなった。

..(2)交易
... 富山の薬売り
 富山の薬売りが毎年来ていた。佐々木家に泊り込み、周囲を売り歩いていた。

... 瞽女
 嘉幸氏が子どものころ、越後の瞽女がたくさん来ていた。3人ぐらいが1組となり、来るときにはそれが何組も来た。
 物好きな人が家に瞽女を泊め、三味線を弾かせたりした。そうしたときには近所の人が見に行った。

... 芸人
 義太夫、琵琶、特別な踊りなど、芸人は各町村にいた。これらの芸人は回ってくる場合もあったが、行事などで特別に頼む場合もあった。
 佐々木家は広かったので、祭りのときは芸人を呼び、マエデノザシキで踊りなどの芸をさせた。こうした日は村の人たちが集まって、手前の部屋からみんな見ていた。みんなを楽しませるために、座敷でもなんでも使っていた。

... 芝居
 祭りのときは河原やタンボにハゼッポを持ち出し、小屋掛けをして芝居をやった。やるのはほとんど秋の刈り入れ後で、10日も20日もやった。時間は夜だった。
 本職の芸人を呼ぶようになったのは劇場ができてからで、それまでは村の人が役者もやった。演目や配役を決めて練習し、衣装などは家から持ち寄った。芝居をやっていたので、村には義太夫をやる人がたくさんいた。
 芝居が始まると、村の人は弁当を持っていって楽しんだ。小屋掛けしたモノウリも出て、なかなかにぎやかだった。モノウリは、群馬など遠くから来る人もいた。

.5 年中行事
... 正月準備
 正月のモチは暮れの26日から28日ごろ、あるいは29日は避けて30日に搗いた。この日は朝からドマで搗き、1日で13臼搗いた。15臼から16臼搗いた時代もあったという。

... トシトリ
 大晦日のことを「トシトリ」という。この日はソバを食べた。

... 正月
 正月は三が日を中心として、おおよそ1月7日までを指す。この間、ゴボウジメと二段のオソナエを神棚や仏壇、床の間、物置に供えた。
 昔、正月三が日は、朝起きて火を焚くのは男の仕事だった。お湯を沸かしたり、いろいろやったという。
 なお正月に限らず、山に入っていけない日などはなかった。

... 四日
 正月三が日は朝昼晩、神棚と外の松飾りにご馳走を供える。松飾りは、松をマキの束につきさしたものである。1月4日はこれを下ろし、集めて煮て食べた。これを「オタナサガシ(オタナオロシ)」といった。

... 七日
 1月7日は神棚や仏壇に上げていたオソナエを下ろし、ナナクサガユを食べる。
 この日はまた「カガリ」の日である。家の両側の松飾り、神棚に飾っていた古いダルマなどを河原に集め、夜、火をムシテ(燃して)モチを焼いた。燃やすのは男の子の役目だったが、女の子や、子どもの親たちも集まった。この火で焼いたモチを食べると、風邪を引かないといわれた。なお、カガリで燃やした松などの燃え残りを「ムシャッポリ」という。これを屋根の上に投げておくと火事にならないといわれた。

... 十四日
 14日は「マルメドシ」である。この日は米の粉でマユダマを作った。色は白、形はマユや小判のかたちで、これを柳の小枝にいっぱいつけた。飾るのは土蔵なども含め家中で、チャノマの神棚には特に大きい枝を飾った。マユダマは今でも作る人がいる。
 この日はまたドウロクジン(ドウソジン)祭りである。子どもたちの行事で、男の子が荷車を引いて寄付を集めて歩いた。なかなかにぎやかだったが、やったりやらなかったりだった。7日のカガリとは別の行事である。

... 節分
 節分は豆まきをするぐらいだった。

... 初午
 2月は初午があったが、上田の方が盛んだった。

... 節句
 3月のセックには、ナカノマに棚を作ってオヒナサンやオシビナ(押雛)を飾った。この棚は鴨居につくぐらい高かった。オンナシュが多かったのでオヒナサンは長持ひとつ分ぐらいあり、座敷がいっぱいになった。またほかに、オヒナサンのカケジ(掛軸)もあった。

... お彼岸
 お彼岸には墓参りに行った。

... ジュウクヤサン
 お彼岸の3月19日は「ジュウクヤサン」だった。女性の行事で、若い嫁も年寄りも、小さな子どももみんな連れて集まった。
 会場は、会館を使うようになる前は、30軒ぐらいの家で回り持ちだった。オジュウバコでご馳走を持ち寄ったほか、午前中から集まってオダンゴを作り、買ったお菓子などを袋に分けた。
 集まるとまず、オネンブツを唱えながら大きい数珠をみんなで回す。このとき年寄りが鉦を叩く。これが終わると、お産した人やこれからお産をする若い嫁さんは、清水町(佐久穂町畑清水町)のオジゾウサンにお参りする。そのあと会場でお祝いし、ご馳走を食べた。この行事は産んだ人のお祝いと産む人の安産祈願の意味があり、これから生まれる人は寄付としてお祝いを包んだ。
 準備は大変だったが、昔は楽しみな行事だった。子どもたちも楽しみにしており、団子食べたさに早く学校から帰ってきた。そしてみんなで歌ったり踊ったりした。
 この行事は今でもあるが、年寄りは出なくなって若い人の集まりになっている。最近は昼間ではなく、簡単なご馳走を頼んで夜にやっている。
 なお、男性の集まりは特になかった。

... 春祭り
 4月に諏訪神社の春祭りがあった。今でも各町会が出て幟立てをやっている。
 お祭りのときは結婚した親戚などをみんな呼んだりしたので、大変だった。

... 節句
 5月にはセックがあった。

... 大受講
 5月に「ダイズウコウ(大受講)」があった。これは寺の行事で、壇徒の代表がみんな行った。

... 田植え祝い
 田植えが終わるとオイワイをした。

... 七夕
 七夕は、竹を切ってきて短冊を吊るすぐらいだった。

... 先祖供養の日
 旧暦8月1日に「寛保の川流れ」があって何人も死んだ(66頁参照)。そのためこの村では、8月1日がお墓参りの日、先祖供養の日になっている。

... 盆
 お盆は8月である。
 オボンダナはナカノマに飾った。台の上に戸板や机を置き、ホトケサマを祀って果物、モロコシ、ナス、花などを供えた。キュウリの馬も作った。
 迎え火は13日の夜である。千曲川のふちで火を燃やし、お盆を迎えた。
 お盆には身内の人をみんな寄せて、ご馳走したり小遣いを渡したりする。子どもたちには下駄や洋服を買ってやったりする。8月1日が墓参りの日だが、お盆にお墓参りに行く人もいる。また、昔は盆踊りもやったが、最近はやらなくなった。
 送り火は16日の朝である。丁寧な人はお墓まで線香を立てに行く。ごみの関係でやらなくなったが、昔は千曲川へ行き、オボンダナに供えていたものを橋の上から投げおろした。そうすると善光寺に行くといわれていた。子どもたちはこの日、川に集まり、投げ落とされるものを食べたという。
 「ほんで子どものうちはもう、特に悪くなってねえような桃だとかさ、お饅頭だとかそんなものは、子どもたち河原にいて水浴びやっててさ、そんでその、コリャ美味いやなんつうて食べらりゃ食べたわけだ。昔はもう千曲川も水が多かったからな。魚もうんといたしさ。今は発電所で水を取っちゃうからな。」(嘉幸氏)

... 秋祭り
 9月に諏訪神社のお祭りがあった。この神社は山の上にあるので、出店は下の平らなところに出ていた。
 春、秋の祭りは何よりも楽しみだった。

... 養蚕祝い
 養蚕が終わると、マユが良い値になった年はお祝いをやった。そういうときは子どもも何か買ってもらえた。

... トウカンヤ
 11月20日はトウカンヤで、子どもたちがワラデッポウで地面を叩いた。
 ワラデッポウはワラで作る。子どもが作っても音が出ないので、大人に作ってもらった。シントウ(シントウダケ)の中に、ミョウガの木を入れると良い音がした。

... エビスコウ
 12月20日はエビスコウだった。このあたりの農家はエビスさんにサンマを供えるくらいだった。
 この日は商店街の大売出しの日だった。

.6 人生儀礼
..(1)婚礼
... 通婚圏
 昔は村の中で結婚する人が多かった。道ひとつ隔てた隣家に嫁ぎ、トイレも実家のを使っている人もあった。ただし、愛知など遠くへ行った人もいる。

... サケイレ
 結納のことを「サケイレ」という。婿と父親とオチュウニンサン(チュウニン・仲人)がスルメなどの結納品と酒、そして結納金を持ってきた。佐々木家でサケイレをやる場合には、マエデノザシキを使った。なお、オチュウニンサンは嫁の世話をした人が務めた。

... 嫁入道具
 せつ氏のときは戦後の物のない時期だったため、嫁入道具として持っていったのは、タンス、下駄箱、タライぐらいだった。

... 花嫁行列
 式の当日、花嫁はいったんコヤドに入り、そこから婚家に入る。コヤドはあらかじめ別の家に頼んでおく。
 コヤドから来るときには、チョウチン代わりにタイマツを持った。これは、カンソウ(麻をとった殻)を束にしたものである。かがり火のように、鉄の皿でタキモノを燃やす場合もあった。
 婚家に着くと花嫁はオカッテから入り、ダイドコロで水を飲んだ。なお、実家を出るときは特に決まりはなかった。

... フウフサカズキ
 結婚式は夜である。
 フウフサカズキ(夫婦盃・三々九度)はチュウニンが親方となって、オクノザシキで行った。

... 披露宴
 フウフサカズキが終わると披露宴である。佐々木家では同じくオクノザシキで行う。嘉幸氏もこの座敷で行った。
 花嫁花婿は床を背にしたヨコザに座る。むかって左が花嫁である。
 席は、花嫁花婿をはさんで2列にならべる。チュウニンは列の一番前である。オトリモチは婿側も少し出るが、列の両側とも嫁側のロウドウ(郎党)が並ぶ。ロウドウは花嫁と同じく、コヤドでいったん休憩してから来ることになっており、家に上がるときはチャノマのエンガワから入った。
 この宴席は、嫁入りの場合も婿入りの場合もチュウニンがすべて取り仕切る。翌日はチュウニンの案内で、嫁の実家へ2人でサトガエリをした。

... 準備
 祝儀不祝儀のときは、一族が集まって準備した。
 結婚式の料理は、クルワ(親戚)の寄っている中にリョウリバンをやる人があり、そういう人が取り仕切った。手作りで、コイの煮たものやオソバを出した。
 こうした席で使うお膳は、普通の家では準備できなかった。そのため、一族の一番豊かな家でみな揃え、何かのときは貸し賃も礼も無しにみな貸し出した。佐々木家でも50人分ほどの膳椀がある。
 結婚式は幾日もやった。せつ氏のときは3日間やったという。かつては祝儀不祝儀というと1週間もやったので、準備から鍋釜の洗い物までやらねばならないオンナシュはたまったものではなかった。

... 戦時中の様子
 戦時中はタンスなど持って歩いてはいけないといわれ、夜に運んだ。新婚旅行などもやってはいけなかったという。
 食料が貴重な時代で、花嫁は食べる米を持ってきた。

..(2)産育
... 安産祈願
 戌の日にハラオビ(さらし)を巻いた。これはサンバサンがやってくれた。ほかには安産祈願といっても、ホトケサンに行って拝むぐらいだった。

... 出産
 初めての子は実家に帰って産んだ。お産にはネドコのほか、コザシキやオクノザキシ、マエデノザシキを使う。産湯に使うのは井戸の水である。
 かつてはお産といっても医者に診てもらうこともなく、直前まで働いてサンバサンに取り上げてもらった。サンバサンは近くにいたが、嘉幸氏の叔母もサンバサンをやっていた。何百人も取り上げた人だった。
 子どもを産んだあとは、そのまま一箇月実家にいる。しかし婚家に戻るとすぐに働き、せつ氏も帰ってすぐに水運びをしたという。

... お礼参り
 生まれると子どもを連れてお礼参りに行った。行く先は、権現山のゴンゲンサン(諏訪神社)のオオスギである(注10)【図版11】。この杉は根元に大きな洞があり、祠のようになっていた。

..(3)厄除け
 嘉幸氏のころは42歳の厄除けはあまりやらなかった。
 昔は男も女も熱心な人がいて、川崎大師に厄除けに行った人もいる。
 「今年は厄除けやっとかないと危ないよなんていってさ。あんなものはひとつの迷信だからさ」(嘉幸氏)

..(4)葬儀
... ツゲビト
 誰かが亡くなるとツゲビト(ツゲ)が2人1組で知らせにまわる。この役は別の組の一族以外の人が務め、葬式の日時を告げてまわる。ツゲビトを何組出すかは、その家の交際範囲によって異なった。
 まわるときには近くの親戚にあらかじめ頼み、そこでツゲビトにお昼を出してもらった。

... 通夜
 ニッカン(入棺)のときはオテラが来て拝んでくれた。
 通夜には花やものを供え、お焼香をした。

... 葬式
 通夜の翌日が葬式である。ただし、友引でない日を選んだ。昔は葬式を何日もやった。
 葬式には他の家にコヤド(小宿)を頼んだ。葬式に来た人はここで羽織袴に着替えて香典を渡し、出されたお昼を食べてから佐々木家に向かった。
 見舞客は履物を脱いでチャノマから上がる。チャノマにはミマイウケ(受付)が並んでいるほか、家族と親戚一同が控えている。
 ホトケサンはオクノザシキの一番奥、床の間の前に「飾る」。マエデノザシキにはザケン(座見)が見張っている。昔はヒキモノカセギがいて、香典を出さずヒキモノだけもらおうとする者がいたため、ザケンが客の顔を確かめた。
 焼香を終えると、客はマエデノザシキから出る。そのため、下足番があらかじめチャノマから履き物を運んでおく。ヒキモノはエンガワや、ザシキから出たところに設けた場所で渡した。箱入りの砂糖やお茶などが多かった。
 なお、ミマイウケやザケンなどの役は、村の人が務めた。

... 葬式行列
 ホトケサンはマエデノザシキから出した。そのため、普段は座敷から出てはいけなかった。
 墓地へ運ぶにあたっては「行列順序」があった。灯籠、花かご、旗、供物、杖(一番小さい子どもが持つ)、香炉(線香立て)、膳(オンナシュが持つ)、位牌、棺の順である。いまはカロウトができたので、出棺順序は形式的に読み上げるだけになった。火葬してしまうのでカロウトに入れるのはいつでもよく、1箇月ぐらい家に置く人もいる。
 棺桶を担ぐ人を「カンヅキ」という。子どもや従兄弟など、近い人が担ぐことになっていた。担ぐには神輿のような大きなレンダイを使うが、これが大変で、途中で交代することもあった。

... 埋葬
 昭和14年(1939)ごろまで土葬だった。嘉幸氏の父は土葬、母は火葬だった。
 穴は、葬式のヨリッコトに寄らなくてもいい人、すなわちナカマの中で別の組の、縁者でない人が掘った。
 掘っていると、昔の棺が出てきて、中からススのようななものが出たりすることがあった。また、亡くなった人がお酒好きだと、棺の中に一升瓶を入れることがあった。掘っていてこうしたお酒が出ると、酒好きな人は飲んだという。
 「たまにはその棺の中にお酒が好きだなんつう人はさ、棺の中に一升徳利、一升瓶がへえってるだよな。大将こんなもの飲めるだか、おい。それみんな口切ってさ、なんだコリャ美味いやってわけだ。地下で温度が変わらねえからな、飲めたよ。温度がかわらねえからな、地下へえってるから。なかなかせいこう(最高)なお酒んなっててな。好きな人はそれ、こーりゃ美味いやおい、つってさ、飲んでさ。昔は穴掘りっちゃあまあ大変だったけどな、酒好きな人は、穴掘りんとこに必ずお酒が行くわけ。そうすっとそのお酒を飲んでりゃいいってんで、酔っ払っちゃってな。ホトケサンがちょうど野送りで来るころんなって、よーく酒がまわっちゃってさ、ゴロンゴロンして。おい、こんなとこにいりゃあおい、しゃらみっともねえから、みんなでひっかつんでってどっか藪ん中に入れとけってえなもんでな」(嘉幸氏)
 埋め終わると、棺の上には土が盛り上がる。ここにタヌキやムジナが来ないよう、棒(竹でなく)を折ってさした。

... ハイヨセ・ゴクロウヨビ
 精進落としのことを「ハイヨセ」という。埋葬したあと、これも家で行った。
 正式なハイヨセに対し、お手伝いの人を呼んでやるのを「ゴクロウヨビ」という。ハイヨセのあと同じ日にやる。煮炊きから何からみなやってもらうので、どこでやっても良かったが、必ずやっていた。

... 法事
 法事は初七日、初命日(1箇月)とやり、あとは適当である。一番最後は三十三年忌だが、今は十三年忌で終わりにすることが多い。

.7 信仰
..(1)菩提寺・氏神
... 菩提寺と墓
 菩提寺は曹洞宗桂霄寺(けいしょうじ・佐久穂町高野町)である【図版12】。
 墓地は菩提寺と別のところにあり(佐久穂町畑大門)、昔の石塔(「クサモチ」という)が「びっしり」立っている【図版13】。現在はそばにカロウト式の供養塔【図版14】を建て、遺骨を納めているが、かつては墓地に土葬していた。

... 氏神
 かつては佐々木家のすぐそばにお宮があり、そのため屋号を「宮ノ反(ミヤノソリ)」といった。
 氏神はこのお宮とは異なり、諏訪神社(佐久穂町畑大門)である【図版15】。
 「あそこ、諏訪神社には昔からオオスギっちゅうやつがあってな、おそろしくでかいもんだでよ。神代杉でな。で、昔あの、昔はまあ『ゾウシント、ゾウシント(雑仕徒か)』って言ってたけどさ、うちも住むとこもねえし、夜は夜でぶらぶら歩っててな、そういう連中がそのオオスギの下に行って、寝てて、結局火事起こして、オオスギ燃やしちゃったでな。そのオオスギ、穴あいちゃってるわけ。洞穴みたいにな。そんでそのあとこんだ、またそこにこんだ住むようになっちゃってな、その連中がさ。浮浪児みたいな野郎がな。そこで芯を切ったりいろいろして、オオスギ自体はものすごくでかいんだけども、肝心なとこにあの、洞穴できちゃったからな、いま、裏方っから枯れはじめてきたな」(嘉幸氏)
 この杉はお産のお礼参りに行く場所にもなっていた(89頁参照)。

..(2)家の神
... 仏壇
 仏壇は木の「でっかいやつ」で、中央にオシャカサンを祀っていた【図版16左】。
 この地域では、嫁入りのとき実家のホトケサマ(位牌)をもらってくる。これを「ソトボトケ」という。そのため位牌の数が増え、佐々木家でも100いくつかあった。位牌はみな大きく、クリダシ(繰り出し位牌)がたくさんあったため、小さい仏壇では入らなかった。
 主屋の解体のとき、コザシキの2階から、真っ黒な箱に入った古いホトケサンがたくさん出てきた。それじゃまずいよということで、あとでお寺に納め、処分してもらった。

... 神棚
 神棚は、移築前は仏壇の真上に祀ってあったが、古くはチャノマにあった。
 大黒天、天照皇大神宮など、神棚にすべて祀っていた【図版16上】。

... 屋敷神
 ヤシキガミサンは主屋の裏にあったが、西側に移した。
 ヤシキガミサンにはどの家もオイナリサン(オコンコンサンとも)がいた。佐々木家ではいろいろな神様が入っていたが、オカイコをやっていたのでオイナリサンが主だった。

..(3)生業の神
... カイコガミサン
 カイコガミサンはそれぞれの村にあった。この村ではゴンゲンサン(諏訪神社)の下の方にあり、オカイコがはじまる前に行ってみんなでお祭りした。ただし、お祭りらしいお祭りではなかった。
 このほか、どこの家でもヤシキガミサンと合わせ、カイコガミサンを祀っていた。

... アイジンサン
 ソメモノコウバ中央の高いところに神棚があり、アイジンサン(藍神様・愛染明王)を祀っていた。このあたりにはないもので、京都の方からお札をもらった。
 アイジンサンのお祭りは特になく、正月やお祭りのとき、オトウミョウやお酒を上げるぐらいだった。

..(4)その他
... 講
 三峰山(埼玉県秩父市)のコウチュウ(講中)があって、三峰まで行く人もいた。ほかに、山梨のニチレンサン(身延山)に行く人もいた。
 今はコウチュウはやらなくなった。

... お札
 主屋を解体したとき、天井裏にお札が山のようにあった。建物のミネの方に、四角いお札がびっしり並んでいた。成田山、鳥羽伏見など、日本全国のありとあらゆる大きなお宮のお札があった。
 古いお札は保管しておく人と、燃やしてしまう人がいる。

... 石造物
 セッカントウ(石敢当)が村に2、3箇所ある。病気や悪者が入ってこないようにという魔除けの意味があった。
 佐々木家から民家園に寄贈された五輪塔は、1つは庭先に元からあったもの、もう1つは上田原から持ってきたものである。上田原(上田の戦場ヶ原)というのは戦国時代の古戦場で、徳川と真田が戦をしてたくさんの人が亡くなった。ここから五輪塔が山ほど出るという。
 石堂日向は戦国時代の武将が住んでいたところで、砦跡が残っている。ここも五輪塔が出るところで、佐々木家でも1つ保管していた。

... 願掛け
 願掛けはあまりやらない。「何か祟ってるんじゃないか」という言い方が昔はあったが、今はそんなことを言う人はいない。
 昔に比べると、すべてが略式になった。

.注
1 上畑村は合併をくりかえし、明治9年(1876)に畑村、明治22年(1889)に畑八村、昭和31年(1956)に八千穂村となり、平成18年(2006)に佐久穂町となっている。
2 『南佐久郡誌』民俗編 278頁。なお、佐々木家のそばに宮前橋という橋がある。この橋の架け替え工事のおり、家族4人の遺骨が埋もれたままの姿で出てきたという。寛保の川流れで一家全滅した家も多く、これもこのとき行方不明になった家族だろうといわれた。(嘉幸氏の話)
3 河原のそばには、現在も佐々木家の跡地が残っているという。
4 光沢投手の飯田長姫高校は、昭和29年(1954)春の選抜高校野球大会で優勝した。
5 文政2年(1819)に建立されたもので、現在は宮前橋のたもとに移されている。藤吉孫之丞の弟子は200人以上おり、当時県下一だったと伝えている。
6 『南佐久郡誌』(1919)には同郡各町村の染物業の統計が載っている【17表】。このうち畑八村の1軒というのが佐々木家のことである。これによると、大正6年(1917)の段階では職人が2人いたことがわかる。
7 佐々木家で実際に染物に携わっていた方は、残念ながらみな他界されている。以下、染めの工程についてもすべて嘉幸氏からの聞き取りによるが、嘉幸氏ご自身は染物にはあまり関わっていなかったとのことである。
8 『長野県南佐久郡八千穂村 佐口民俗誌稿』(1980)には「八千穂村上畑佐々木染物店から藍玉を買って染めた。」という記事が見える。
9 徳島との取り引きに関する資料としては、佐々木家に大正年間の『藍玉通』が残されている(94頁資料2)。そのほか、榛沢郡藤田村(現・埼玉県本庄市)との取り引きを示す資料が同家に残されている(94頁資料1)。この資料には年代は記されていないが、榛沢郡は明治29年(1896)に他郡に吸収されているため、藤田村の成立した明治22年から29年(1889〜1896)までのものと考えられる。
10 「神代杉(かみよすぎ)」ともいい、町の天然記念物に指定されている。

.参考文献
伊勢型紙技術保存会     1999『伊勢型紙』伊勢型紙技術保存会
川崎市           1969『重要文化財旧佐々木家移築工事報告書』川崎市
長野県史刊行会       1980『長野県南佐久郡八千穂村 佐口民俗誌稿』長野県史刊行会
南佐久郡誌編纂委員会    1991『南佐久郡誌』民俗編 南佐久郡誌刊行会
南佐久郡誌編纂委員会    2002『南佐久郡誌』近世編 南佐久郡誌刊行会
明治文献          1973『日本郡誌史料集成 南佐久郡誌』明治文献
八千穂村誌民俗編編纂委員会 2002『八千穂村誌』第三巻民俗編 八千穂村誌刊行会
八千穂村誌歴史編編纂委員会 2003『八千穂村誌』第四巻歴史編 八千穂村誌刊行会

.図版キャプション
1 佐々木嘉幸氏
2 佐々木家所在地
3 佐々木家家紋
4 移築前の佐々木家住宅(撮影・昭和40年)
5 復原された建築当初の間取り
6 移築前の間取り
7 屋敷内の配置
8 出入口と小便器(撮影・昭和40年)
9 井戸(撮影・昭和40年)
10 筆塚
11 オオスギ
12 桂霄寺
13 佐々木家墓地
14 カロウトウ(供養塔)
15 諏訪神社
16 神棚と仏壇(撮影・昭和40年)
17 染業町村別表(大正6年)


(『日本民家園収蔵品目録9 旧佐々木家住宅』2008 所収)