三重県志摩市大王町 船越の舞台民俗調査報告

 



.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が舞台の旧所在地である三重県志摩市大王町船越で行なった民俗調査と、その補充調査の記録である。
2 当初の調査は舞台移築に合わせて行なわれたもので、昭和46年の8月8日から12日と、11月21日から25日の2回に分けて実施された。聞き取りにあたったのは小坂広志(当園学芸員 当時)である。
3 補充調査は本書の作成に合わせて行なわれたもので、平成15年7月12日から14日に実施された。聞き取りにあたったのは澁谷卓男である。
4 記録の原稿起こしは宇野田綾子が行なった。
5 本文は、原則として昭和46年の調査に基づいて記述した。なお一部、漁法について記した部分は、同じ話者(伊藤常重氏)に聞き取りを行なった山際新栄門氏の草稿を参照した。
6 補充調査によって補足した部分については、その冒頭に(H)という記号を入れた。この補足部分が1段落にわたる場合は段落の冒頭に、複数の段落にわたる場合は各段落の冒頭に、この記号を入れた。
7 いずれの調査においても、聞き取った内容には建築上の調査で必ずしも確認されていないことが含まれている。しかし、地元の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。
8 写真は、昭和46年の調査時に小坂広志が撮影したものである。
9 図面は、小坂広志の調査ノートに基づいて宇野田綾子が作成した。

.はじめに
 船越の舞台は、簗の墨書に「安政四丁巳年 村中安全之為建之」とあるように、安政4年(1857)に築造された。村落の南、志摩へ続く旧街道沿いに鎮座する船越神社の境内にあり、毎年旧6月13日から15日の天王祭に合わせ、さまざまな芝居が上演された。
また、舞台として使用されただけでなく、明治のはじめには、学校の校舎として使用されたこともあった。子供たちは囲いを壊して中に入り、回り舞台を回して遊んだりもしたようである。
 舞台があった大王町船越地区は、古くからアワビ・イセエビ・イワシ・カツオ・アジ・サンマ・ボラなど、さまざまな漁が行われていた。海女は収穫を役者に寄付し、ボラ漁の収益で幕をそろえるなど、これら盛んな漁業が、舞台を支える経済的な基盤であった。

.1 舞台
..(1)改築
 船越の舞台は、大正13年(1924)と昭和23年(1948)に大きな改築が行なわれている。その際に、回り舞台が大幅に改修された。そこで、この回り舞台の改修を中心に舞台の改築について記述する(注1)。

...ア 大正12年以前
 カグラ式(コマ回し式)といって、芯棒に取りつけた十文字のさんを若い者8人が肩で担いで盆を回した。この芯棒は太く、直径1尺ぐらいあった。舞台の下にφ1.5寸×5寸の木のコロを入れた。このコロが、たえず舞台と水平(平行)になるように、4人が舞台下でハンマー(金槌)で調整した。舞台の下は頭を打たない程度の高さで、4尺ぐらいであった。

...イ 大正13年の改修
 大正13年の銘板には、「雨漏」や「潮水の浸入」により「大正12年8月」改築に着手し、敷地を「1尺以上」埋立て、舞台を「西へ六尺、北へ九尺移転」したとある。
 芝居を見る人が増え、シワ場(場所)が狭くなったため、移築した。移転には、舞台をサバイテ(解体して)行なった。舞台裏南にシオバタ(川からひいた池)があり、この海水の入ってくるところを埋め立て、舞台の位置を後方にずらし、土盛りをして高くした。このときに、1間当りコガに10杯分の土を使用した。
この修理以降、コロに替わり体操で使用していたネンブリコ(樫製)を細工した木球を回り舞台に使用した。この木球は、使用しないときは取り外し、油につけておいた。
 瓦も前にあったものは後へ回し、前の瓦を新しく造った。この瓦は若い衆によって寄付されたもので、若い衆の「若」(カラクサ模様に)を入れた。若い衆の集まりをネンヤという。ネンヤは、未婚の25歳ぐらいまでの者で構成され(注2)、南若と呼ばれる山際家仲間と、北若と呼ばれる山崎家仲間に分かれていた。船越にある10組のうち1〜5組が南若、6〜10組が北若である。瓦を寄付したのは北若で、南若はハナザとタユウザをつくった。鬼瓦はシンメでつくらせた。シンメとは志摩郡阿仁町神明のことである。(H)ここは瓦屋や大工が多かったという。
 この改築の際に、8間の軒桁を五ヶ所の内瀬(ないぜ)から切って持ってきた。

...ウ 昭和5、6年〜昭和23年
 昭和5、6年ごろには、木球を廃した。木球は、盆のふちに板金で溝を設け、そこに入れて使用していた。しかし、舞台が揺れ動くたびに1ヶ所へ寄って落ち、盆が下がって動かなくなるという欠点があった。また、回すときの音も大きかった。そのため、盆のふちを抜いて4寸ぐらいの幅で鉄板をとりつけ、コマ(木製の車輪)をしこんでセンをさした。それにボウトウを入れて、沈まないようにした(注3)。
 また同じころ、演目によって、三面組の方式もとるようになった。三面組とは、早変わりのために回り舞台を3分割する方法である。そのため、以前の舞台より2寸ほど大きな盆にした。この三面組のときには、初めは舞台の裏側でトビグチを盆の栓にひっかけて回したが、その後、客から見えぬよう舞台の下で行なうようにした。

...エ 昭和24年の改修
 昭和23、4年ごろに、穀物入れとして使用していたために舞台全体の床が落ちた。そのため、昭和24年に修理を行なった。この修理にあたって、宇治山田の帝国座へ行き、指導を得た。このときに、回り舞台の構造を、カグラ式からジャッキ式にした。いわゆるコマ回し式(盆に取りつけた芯棒ごと回す)から皿回し式(固定した芯棒の上で盆だけ回す)にしたのである。
 (H)回り舞台の下には、ドラム缶にコンクリートを流し込んで作った土台が中央にあり、その上にジャッキを取りつけていた。舞台を回すときには、ジャッキで少し持ち上げて行なった。回す場面になると、上で拍子木を鳴らして合図した。舞台装置が正面をちょうど向くように、舞台は180度回すと止まるようになっていた。

..(2)設備・装置
...ア 出語り
 向かって右、上手の出語りにタユウザ(太夫座)と囃し方の控場があった。上段がタユウザ、下段が囃し方であった。タユウザの前には、御簾を吊した。左、下手の出語りにはハナザ(花座)と小道具部屋があった。小道具部屋はシテザ(シテ方)ともいった。上段のハナザは金を扱う人の控え場、下段のシテザは黒幕を落としたりする人の控え場である。

...イ コモリデン
 (H)舞台に向かって左の張り出し部分をコモリデンという。ここで下手の道具立てを行なった。これは大正12年の改築前からあり、安政の津波の際にも残ったものである。また、舞台の上手にはムシロで囲った小屋のようなものを仮設し、ここで道具立てを行なった。

...ウ 化粧部屋
 2階にあったが、衣装をつけて階段を昇り降りするのが大変であったため1階の裏側につくった。

...エ 花道
 花道の脇にムシロ囲いをした通路があり、花道をひっこんだ役者は、そこを通ってコモリデンへ戻った。
 (H)『お染久松』を上演したときには、花道を左右両方に設けた。

...オ セリアゲ
 市川右団次・実川延太郎のとき(昭和2〜3年ごろ)舞台にセリアゲ(キリコミ)を切った(作った)。花道に1つ、全部で4〜5つあった。回り舞台の盆の外側のフチにもあった。セリアゲの下には4人が入るくらいの穴をほった。

...カ 落とし幕
 (H)舞台の早変わりのために、幕を2枚吊っておき、前の幕を落とすやり方があった。木の桟に竹の串がつけてあり、前の幕はこれに引っ掛けておく。合図を受けてひもを引くと、この串が傾いて幕が落ちるようになっていた。落とし幕は他ではなかった。

...キ 照明
 明治時代は、ローソクが長押に吊ってあった。大正初期にはカーバイトランプを使用していた。電気が入ったのは大正12〜13年である。

..(3)興行
 旧6月のウオマ(漁閑期)の13日にジンサイ(神祭)があり、この日から3日間芝居が行なわれた(注4)。芝居は、氏神様を喜ばすために行なうと考えられていた。(H)天王祭の時期だけでなく、1月や2月のヒマチの時期にも芝居をやった。消防団でポンプを購入するために、4月に芝居をやったこともあった。芝居の前には、女性達が集って舞台の掃除をした。船越を半分に分け、準備と片付けに各家から1人出た。

...ア 地芝居
 舞台が出来たときの初舞台は、『おかる勘平』(仮名手本忠臣蔵)であった。地芝居の練習は宮前の善左エ門の家で行なっていた。地芝居は明治20年ごろまで行なっていたが、それ以降はほとんど請芝居(買芝居)になった。

...イ 請芝居(買芝居)
 請芝居の始めは「市川いろは」であり、その次は「市川市六」芝居だった(注5)。明治40年ごろには「船越にすぎたるものは、市六芝居(市川市六)に寺の庫裡」といわれていた(注6)。市六芝居が行なわれていた時分に赤痢が流行った。旅役者の市川三五郎という人がこれにかかり、無縁仏として船越に葬られている。
 準備にあたっては、まず旧5月20日に各組で集まり、やるかやらないかを相談する。そして、その結果を元に組長が集まって決定した。準備の開始日である舞台明けは、大阪芝居の場合6月1日、名古屋芝居は6月8日だった。なお、シマイにかかる(片付けを行なう)のは、6月16、17日である。
 準備の係にはサジキ係・小道具・大道具・炊事(2人)・会計などがあり、組長の中から決めた。炊事係は、寝るとき以外は家に帰らないでかかりきりで行なった。副組長はオヤジ役と一緒に芝居を買いに行った。オヤジ役は交渉になれた経験豊富な人がなった。
 交渉先は、大阪や名古屋が主で、大阪の場合は松竹と直接行なった。名古屋の場合は役者が組長の名前を知っていて、組長が変わったときには、必ず役者から売り込みにきた。宇治山田、伊勢、甲賀に興行師がおり、山田あたりでは興行主に頼んだ。
 松竹会社は、夏休み興行で営業とは切り離すということで来たが、舞台を見て、その立派さに驚いた。露天ながら角座、南座にも負けない設備があり、観客の方も夜が更けても席を立たないという熱心さであったため、役者の方も、これはうっかりしたことは出来ないと熱演した。また、海女がカヅイデとってきたものを全部寄付するとともに、売上金までも芝居の寄付にあてたので、その後、松竹からは電話一本で来るようになった。
 役者は大抵、12日(前日)に来た。市川荒太郎のときには、10日に来た。役者は村の有力者が接待し、ウメヤ(旅館)と寺に無料で泊まった。ぢがみ屋は、昭和6、7年ごろに出来たが、そちらにも泊まった。(H)下っ端の役者は寺に泊まった。役者と一緒に狂言方が2、3人来ていたが、彼らは舞台に泊まっていたようである。
 明治22、23年ごろに市川荒太郎が来た(注7)。船越に彼の妻の親類がいて、その親類を通じて興行をたのんだ(注8)。興行後、海女は1カヅキのアワビすべてを寄付した。それがもとで、以後も来るようになった(注9)。
 祭の当日は、夕方5時ごろから始め、夜中の1時、2時ごろまで行なった。3日とも初めに三番叟を行なった(注10)。13、14日には式三(式三番叟(注11))、15日は式三番叟の略式である一人舞いであった。出し物は、『義経千本桜』、『先代萩』、『太閤記』、『鎌倉三代記』に『忠臣蔵』、『一条大蔵卿』などであった(注12)。出し物は、交渉に行ったとき役者と相談して決めた。大阪の役者(松竹)だけはリハーサルを行なったが、他はブッツケであった。

...ウ 大道具・小道具
 明治10年ごろ(地芝居を行なっていたころ)に、チョロ(8メートルくらいの小舟)を使った。舞台の裏のシオバタから海水を汲んできて滝のように水を流した。『忠臣蔵』、『義経千本桜』、『寺子屋』(菅原伝授手習鑑)などに使用したようである。
 道具類は、松竹の場合は向こうからもって来た。松竹の場合はきっちりとした舞台背景を好んだ。
 (H)役者が来る前に、小道具帳、大道具帳が先に来て地元で準備したが、小道具帳が当日まで来なくて困ったことがある。
 (H)また、役者といっしょに絵師が来ることもあった。そのようなときは1ヶ月も前から来て準備していた。村で準備する場合には、中村与之助さんが背景を描いていた。看板も村で書いた。山際周蔵さんという名人がおり、字はこの人がいつも書いていた。
 京都御所の絵師である雪窓(せっそう)が、妻の転地療養のため越後にいたときに描いたと伝えられる襖もある。

...エ 客席
 (H)舞台前の広場に、中央に通路をはさんで左右にムシロを敷き、その周囲にナルという真珠の養殖に使う丸太でサジキ席を組んだ。そして、その周りをムシロで囲って外側からは見えないようにしてあった。舞台の左には木戸が設けられ、ここでお金を払って中に入るようになっていた。
 ムシロを敷いた場所は、ヒラバと呼ばれ、縦に縄を張って短冊状に場所が仕切られていた。この短冊に組(地区)ごとに座ることになっており、どの組がどこに座るかは毎年抽選で決めた。村人は家からウスベリを持って来て敷いて座った。広さは、1軒につき畳半畳で、家族で行くと狭いので、お金のある者は個人で入札し、サジキ席の権利を買った(注13)。(H)サジキは、1席が畳1枚ぐらいの広さだった。サジキの高さは頭を打たない程度で、傾斜にしてあった。
 ヒラバの上には、役者の声が逃げないよう幕を張った。ヒラバの上以外は張らなかった。(H)舞台正面の妻板に穴が開いていて、ここから正面にあったマキの大木に綱を張り、天幕を掛けた。
 サジキを組む材木は、材木屋をやっていたイワタニ家から借りた。イワタニ家は、材木問屋、カツオ、サイラ網を一手にやっており、田畑も持つ地主だった(注14)。イワタニ家は、現在ぢがみ屋旅館がある場所にあった。
 芝居の際に持っていくものは、アラレなどであった。(H)また、参道の両側に氷やアイスなどの出店が出た(注15)。業者はよそから来るのではなく、船越の者が店を出し、店を出す場所は入札で決めた。

...オ 木戸銭・ハナ
 木戸銭は外来者(他村)のみとった。村の者はハナワリで出していた。ハナワリとは、精算の段階で調整するもので、不足した分の分の1はヘイトウ(平等)割りに、3分の2は等級(納税額)割りにして納めた。
 海女漁はこの時期が最盛期で、芝居前の11日か12日にハナカヅキを行なった。海女50人がこの日採集したものを、すべてハナとして寄付したのである。そのため毎年、花道に沿った一番良い席は海女が座ることになっていた。また、ボラ漁が終わった時期でもあるため、その収益の一部も芝居にあてた。このボラ漁が大漁のときには盛大な芝居ができたという。漁の剰余金で、幕など舞台の備品も買った。
 15日間無料で奉仕していた組長へは、ハナとは別に見舞いを送る人もいた。すべてが終わってから、この見舞金を利用して慰労会を行なった。このようなことが終戦後間もないころまで続いていた。

..(4)その他
...ア チョボ語り
 地芝居がすたれたころ、チョボ語り(浄瑠璃語り)がはやった。20〜30年間ぐらい続き、昭和の初めごろなくなった。

...イ デコ(人形)芝居
 (H)前座で人形芝居をやったことがあった。これをデコシバイといった。
 神明より専門の人を呼んで来て行なった。大正の改築時に、人形芝居が出来るよう舞台を改良した。

...ウ 相撲・サーカス
 (H) 舞台前の広場で相撲やサーカスもやった。

.2 漁業
 船越では、イワシ・カツオ・アジ・サンマ・ボラなど、さまざまな漁が行なわれていた。ここでは、海女漁とボラ漁を中心に記述する。

 船越の主な漁
  漁の種類/方法/漁期/終了時期
   ボラ/地下網/3月初め—5月下旬/昭和21年ごろ(または昭和27年ごろ)
   カツオ/一本釣/4月下旬—9月15日/昭和22・3年
   アジ・イワシ・サバ/ヨソバリ/10月—12月/(H)終戦後
   サイラ(サンマ)/オオアミ・流し網/10月1日—12月/大正末ごろ
   イセエビ/底刺網/11月—3月/現在も行なわれている
   海女漁//2月14日—9月/現在も行なわれている

..(1)海女漁(注16)
 海女のことをイソドという。イソドはオオイソドとコイソドとに分かれる。
 (H)オオイソドとは、舟で行き、夫婦組になって潜る海女のことで、フナドともいう。トマエと呼ばれる夫が舟上でタンポ、イキヅナ・ハイカラヅナを握る。夫でない者がトマエの役割をする、ヤトイドマイもいた。コイソドは、舟ではなく磯伝いに歩いていく海女のことで、カチドともいう。カチドは夫が漁師でないことが多い。
 海女は普通、日に3回ほどカヅク(潜る)。これをそれぞれアサカヅキ、ナカカヅキ、ユーカヅキという(注17)。1回の潜水を1カシラといい、1カシラで1分間ぐらい潜る。オオイソドの場合、カヅキ1回あたり50カシラぐらい行なう。1カシラの潜水時間、つまりコウカイの遅い(長い)人をヒネガシラという。

...ア 道具
○オオイソド(フナド)・トマエの使用する道具
・トトカカ舟(またはチョロ)……………漁に使用する舟。舟底が一枚板になっている。
・デンデコ(またはタイコ)(注18)……磯車。潜るときに使用するイキヅナ・ハイカラヅナ用の滑車。これを取りつけるケヤキの腕木をタツと呼ぶ。
・イキヅナ…………………命綱。オオイソドの帯縄につけて、浮上の際にトマエが引く。
・ハイカラ…………………潜水用の分銅。
・ハイカラヅナ……………分銅綱。
・タンポ……………………潜水するときに用いる引棹。(H)ハイカラ以前に使われていたもので、海中での目印になるよう竹竿の先に白い布がつけてある。海女はこれにつかまって上げてもらう。
・スカリ……………………腰に吊すサザエ用の網袋。
・クビスカリ………………タマガイ(アコヤ貝)用の網袋。
・ヒドコ(火床またはダキヒバチ)………寒中、海女が舟上で暖をとるためのもの。鉄鍋を木枠で囲んである。
・カナゲ……………………オオビ(アワビ)を組合へ渡すときに、持っていくための桶。手桶で蓋付き。8升入る。
・トリカゴ…………………オオビ(アワビ)を入れる籠。舟の中で使用する。
・ユビナシ…………………指なしのヒラだけの手袋。トマエがハイカラを引くときに使用する。
・オオビナワ………………オオイソドのためにトマエが作る腰綱。海女はこれを前で結び、カケムスビにした端を右側にハサケテ(綱にねじ込んで)おく。(H)材質はワラで、魔除けのため白い布を一緒に編み込んである。今はオオビナという。

○コイソド(カチド)の使用する道具
・タンポン…………………(H)木の桶にフタをしたもの。スカリ(サザエ用の網袋)を吊す浮きとして使う。
・イソオケ…………………オオビ(アワビ)などの採集に使用。径1尺2寸。
・ヒラオケ…………………ワケメ(ワカメ)、テングサの採集に使用。径1〜2尺 高さ1尺5寸。
・ハンギリ…………………アラメの採集に使用。径3〜4尺 高さ1尺5寸。
・ヒキヅナ…………………桶綱。
・アシナカ…………………磯場へ行くときに使用。砂地で歩きやすく、岩場で滑りにくく、潮が入らない。
・カギノミ…………………オオビ(アワビ)・フクラメ(またはクラメ、アワビの子)の採集に使用。

○オオイソド・コイソド共通の道具
・オオノミ…………………オオビ(アワビ)の採集に使用。
・コノミ……………………オオビ(アワビ)の採集に使用。石につかえてとれないときに用いる。
・メガネ……………………水中メガネ。フタツメからヒトツメの鼻出し、そして鼻隠しへと変わった。
・メキリガマ………………ワケメ(ワカメ)、アラメ、ヒジキの採集に使用。大中小有り。
・ユビブクロ………………テングサを摘むとき、指先を保護するために使用。
・メッパ……………………弁当箱。

...イ 衣類
・イソシャツ………………海女用の作業衣。
・イソナカネ………………海女用の腰巻。ナカネとは腰巻のこと。
・イソテヌグイ……………頭を包むための手ぬぐい。(H)魔除けとして直線や星型の縫い取りを付けた。
・ハイカラ…………………筒袖の尻切れ。
・ハンコ……………………(H)袖のないチョッキの形をしたもの。海女が海から上がったときに着る。
・スッポ……………………ハイカラに裏のついた袷。寒いときに着る。
・ヨノノマエカケ…………磯で腰巻の替わりに用いる。(4枚布)
 頭部は、夏はネエサンカブリで、冬はホウカブリだった。上半身は、ハイカラなどを着る。寒いときには、ジュバン・ハンコ・スッポを着る。トマエは、カスリのナツカタビラを着る。スッポもハイカラも男性のものはワキツケで、女性のものはワキアケになっていた。下半身には、イソノマエカケやヨノノマエカケを着用した。トマエはステテコをはいた。

...ウ 潮
 旧3月の梅雨時は海女にとって悪い日である。雨が降ると風が吹く。風が吹くと波が立つ。波が立つと海が濁るためである。これをアマナキシオといった。
 (H)長良川の河口堰がなかったころは、冷たい雪解け水が流れ込んだ(注19)。
 (H)春のよく引く潮のことをセックジオと言った。1年で一番潮が引くため漁に好都合だった。
 (H)台風や大雨のときに、伊勢湾の方から木が流れてくることがあった。アマゴヤもその木で作った。

..(2)ボラ漁
 ボラ漁は、大正6、7年ごろを最盛期として昭和21、2年ごろまで行なわれていた。この網漁はジゲアミ(地下網)とも呼ばれ、村全体で行なう作業だった(注20)。
 (H)船越では、桜の咲くころ、3月から4月にボラの群れが鳥羽の方から下がってきた。暦の1つに四十五夜というものがあり、このころに一番通った。ボラの本当の旬は秋で、このころのボラはカラスミが採れる。船越では秋は捕れないので、カラスミではなく身を食べた。

...ア 準備
 正月2日に各戸主が各組の組長宅に集まり、その年の共同漁について打合せを行なう。これをアイヨリ(ハツヨリ)という。アイヨリで行なうことは以下の通りである。

○ その年の行事の打ち合わせ
○ オワケ(麻分け)
 テスキ網の時代(大正初期ごろまで)は、信州、上野より取り寄せた麻(信州青麻、上州麻、野洲麻等)を各戸に分けた。この麻を各家で紡いで糸にし、2月ごろまでに集める。山際氏の草稿には、「各自持ち帰って麻を小袖にさき(うむ)と云や単糸から複合糸とし約20号位の太さにより合して、期日2月10日頃までに組長さんにもって行く、この麻糸を網にすくのである」とある。また、「大正も中期になると綿糸網の出来合を一括購入したから、大正10年頃にはお分けと云うことはなくなった」という。
○ オオセンドウ・アイセンドウの選出
 紙に名前を書いてオオセンドウ(大船頭)とアイセンドウ(相船頭)とを選出する。オオセンドウとアイセンドウは、ボラのみならず、アジ、サバ、イワシなど、共同で行なう漁の指導者である。任期は2年。年間5円が支給される。
 なお、もとのオオセンドウは、コセンドウ(古船頭)として顧問をつとめる。
○ アミガカリの選出
 各組1人(計10人)を選出する。アミガカリは無報酬である。
 このアイヨリの際に、網の仕立、修繕も行なう。
 3月15日にノリクミ(乗組)を作る。ノリクミとは、オオセンドウ、アイセンドウをはじめ、配置部署を決定することであり、ノリクミを作りナブラ(魚群)が来るのを待つ。

...イ 見張り
○アラメヤマ・モトヤマ(モト小屋)
 見張り小屋のあるところをアラメヤマとかモトヤマとかいう。ここにはアラメ(アラミ)を3名常駐させる。山際氏の草稿には、「モト山」と題して次のようにある。「アラメ山とも云ふ、即ち第一見付である。この小屋は波切に建て断崖絶壁30米の上に一間半四方のムシロ小屋で朝5時から夕方5時まで3人が交替見張に立っている。ここでナブラ(魚群)の大きさを認定する。これは最も重要な役割でナブラの大きさによって魚道が異なり、従って船頭の網を張る具合が違ってくる。ナブラの大きさで魚の通る魚道(コース)が違っていることはこの鰡魚の特長であり、この魚道を知らないことには鰡は取ることが出来ないとされている。」
○ボラ小屋(前小屋)
 山際氏の草稿によると、ボラ小屋とは次のような施設である。「鰡小屋と云って、前浜の堤防の上に建てる。松丸太で掘立小屋一間半に二間半藁縄でしばり組立て、筵(ムシロ)で囲い屋根はトマ葺である。小屋には大船頭か相船頭が必ず居て勿論、外に船頭船の艫仕等4人の係が常住して元山からの信号を待つのであり、この小屋から鰡捕りのすべての指揮命令が発せられるのである。即ち、鰡網の大本営と云ふことになる」。
 ボラ小屋には、オオセンドウ1名、アイセンドウ1名、カコ(年寄)2名の計4名が常駐する。
○シロヤマ(城山番)
 城山番については、山際氏の草稿に次のように記されている。「専門の人が一人信号旗を用いてナブラ(魚群)の道程を知らすのである。サカザキ、スギハナ、イゴトリのシマ、ヤサシマ、マルジマ等魚群の見えた所を船頭と前岡に知らす役である。城山には一般見物人も登り見物に行くことが出来るが、前岡には素人が登ることが禁じられていた。」
○マエオカ
 マエオカ(トリヤマ)には、3名の責任者がおり、マエオカバン(前岡番)と呼ばれていた。前岡番は実際に網を敷くときには、船頭の片腕となる。山際氏の草稿には、「前岡(取山)番と云ふのは大体古船頭か相船頭の経験のある陸上の指揮とも云ふべき人物であり、前岡の名も船頭船から見上げて前の岡であり、30米断崖の真下に見下ろすことの出来る状態である」とある。

...ウ 出漁
 アラメヤマでは、ボラを発見するとホラ貝を吹き、村の人に知らせる。そして同時に、ハシリマキ以上の場合にはモトヤマ1人がマエオカへ走っていき、マエオカのヤマバン(山番)に知らせる。ナブラ(魚群)の数に応じてヤマスジ(魚道)が異なるために、ヤマバンは菅笠や枝木などで船団にボラの行動を連絡する。
 群れを発見した際の信号については以下の通りである。
 ・菅(笠)1つは、500本(匹)以下ぐらいの信号で、これをヒトリという。
 ・菅(笠)2つは、1000本(匹)以下ぐらいの信号で、これをフタリという。
 ・菅(笠)3つは、3000本(匹)以下ぐらいの信号で、これをサンニンという。
 ・菅(笠)3つの下に旗(白)1つは、5000本(匹)以下ぐらいの信号で、これをハシリマキという。
 ・菅(笠)2つの下に旗1つの場合、これをフモトという。
 ・笠と笠の間に旗1つの場合、これをサカナカという。
 ・旗1つの下に笠1つの場合、これをトウゲという。
 ・旗1つの場合、これをヒトツモンという。
 魚群が重なり合っているとき、大ナブラで浮上気味のときは、水面の色が赤く見える。このときは信号に赤旗を加える。これをアカミという。また、フタリ以上の場合には、ボラ小屋でクウキボラを鳴らした。
 ホラ貝が聞こえると、網を積んでいるオオブネに責任者3名を含め10人、それに加えて10人ぐらいの者が飛び乗る。イキサ(行先)には1パイ(艘)の船が出る。そこには、相船頭ほか4名が乗り込む。カエサ(帰先)にも1パイの船が出る。こちらは大船頭ほか4名が乗り込む。さらにハリブネ(碇で固定して網を張る船、2、3人が乗る)が6パイ、マエフネとカケアミ(垣網船)各1パイが、イキサ側、カエサ側それぞれにつく。このほか、3ハイのオイフネ(石を投げて群れを追う船)が船団の後ろに続く。
 (H)子供たちも漁に参加していたようで、学校へ行く途中でも合図があるとそのまま海に出た。先生もそれをとがめず、今日はどうだった、などと聞いた。

...エ ヤマアワセ(分配)
 大正6、7年ごろ1回の出漁で30000本(匹)ほどの大漁があった。このときの配分は次のようであった。
 まずオカズ(サイワケ)といい、通常は500本で1本の割合で漁に出た人に平等に配られる。このときには25本づつ配られた。次に、クバリと称し、漁に出ていない人にも1人1本配られた。また、アガリといって、組の解散のときに使用される分もある。このときは二の膳まで出た。

..(3)その他の漁
...ア サイラアミ(サンマ漁)
 (H)サイラ漁に使う網はジゲアミ(地下網)といい、村中で出資して共同で持っていた。
 網は1枚20間で21枚あり、毎年取り替えた。1船団は、15人乗りのマアミブネ(真網船)とサカアミブネ(逆網船)が1パイ(艘)づつ、テブネ(オイフネ)はいずれも11人乗りでマアミ小舟が2ハイ、サカアミ小舟が1パイの計3ハイとなる。したがって、計5ハイ、63人である。(H)アミブネはヤキダマ(焼玉エンジンより)と呼ばれる発動機船だった。
 (H)このアミブネがサイラ(サンマ)の通り道に網を仕掛け、テブネが石を投げ込んだりして群れを追い込む。サイラは東に向かって追った。

...イ タタキアミ(コノシロ漁)
 (H)10月、11月にコノシロを捕った。コノシロが湾内に入ると、湾の口に網を張った。張り終わると石を投げ込んだり、船の舷をたたいたり、オタを投げ込んだりして魚を網に追い込んだ。オタとは、重いウバメガシの丸太に綱をつけたもので、これを振り回して海面に打ち込むのである。この網はジゲアミ(地下網)で、共同のものだった。
 イモガラをしばって水につけ、これに魚を逃げ込ませて引き上げるやり方もあった。

...ウ ヨソバリ
 アジ・イワシ・サバなどを捕るのに使用する。
 (H)ヨソとは4艘のことで、四角い網の角ごとに船がつき、この網を海に入れる。そして、カブセマワシで魚をすりつぶしたものを撒いて魚を集める。集ったところでいっせいに網を引き上げ、魚を捕った。

...エ タテマワシアミ
 アジやムツ、イワシを捕るのに使用する。
 (H)イカリでなく竿を立てて網を固定し、魚を追い込んだ。

...オ コゲタアミ
 ナマコ、ホタテ貝、シャクシ貝などを捕るのに使用した。(H)戦後は発動機船も使ったが、手漕ぎ舟でやることが多かった。舟は櫓で漕いだ。櫂は浜につけるようなときに少し使うだけだった。

...カ エビアミ
 (H)水に浮く目印の板に、家ごとに印をつけた。網の上の木製の浮きをアバ、下の錘をチンイシ(沈石)という。チンイシは素焼きのものにコールタールを塗って黒くした。

...キ タイナワ・ブリナワ
 タイナワもブリナワもムシナワの一種である。ムシとは、餌のことである。(H)長い縄に針がぶら下げてあり、大きい魚のものほど針と針の間隔が広くなっている。針の間にぶら下げる10cmほどの石をコマイシという。タイワナとブリナワでは石の付け方が異なる。タイナワの場合はサンボンアイ(三本間)といい、3本間隔で石をつけた。
 (H)タイナワの餌に使うセエムシ(ゴカイの太いもの)はセブネに入れておく。そして入れたまま海に浮かべておき、漁に出るとき持っていった。ブリナワの餌にはアジやイカを使用した。
 (H)ガワとは、タイナワなどノベナワ(延縄)を入れておくもの。縄は綿だったので、乾きやすいよう下は網になっている。縁のワラのところに釣針を刺しておいた。

...ク その他
 (H)タコを使ったイセエビ漁があった。竿の先に生きたタコをくくりつけ、これをイセエビのいそうなところに近づける。そして、逃げ出したイセエビを、もう片方の手に持ったタモですくう。このタコを入れておくのにタコブネを使った。セブネと形は同じだが、水抜きの穴が大きい。
 (H)ハラアミは、餌で集めたイワシ(エイワシという)を船の上からすくう網で、麻糸を自分で縒って作った。
 (H)フクロ網とは地引網のことである。オオゴなどを捕るのに使った。

.3 その他
..(1)船越について
 船越について次のような話が伝えられている。
 (H)安政の津波でやられ、700件のうち17件しか残らなかった。遺体をすべて掘りだすこともできず、千人塚を立てた。今でも地面を掘ると、この津波のときの骨が出てくる。残った17件で17軒講というものを作った。(講を作ることを「講を立てる」という。)
 (H)17件しかなくなってしまったので、伊勢から人を連れてきてまた村を作った。このため船越のことばは伊勢に似ている。隣の波切は九鬼水軍が作った村なのでことばが違う。

..(2)ムナゲノダイ
 (H)ムナゲとはムネアゲがなまったものである。棟上げ(新築祝い)のとき、大工の棟梁が作り、棟梁が棟に飾る。三本の木には、半分まで溝を入れ、ここに御幣をはさむようになっている。この御幣も棟梁が作る。飾ったあとは自然に落ちるまでそのままにしておく。現在も行なわれている。

.注
1 (H)船越の回り舞台は伊勢のものを真似たと地元では伝えている。
2 『大王町史』によると、「船越地区には、漁村特有の若者が共同宿泊するネンヤと呼ぶ寝屋制度があり、数名の若者が共同生活をしながら親から漁民のマナーや漁法を学ぶ慣行であったが、太平洋戦争期に若者の減少からこの制度も消滅してしまった」という〔大王町史編さん委員会編 1994 1037〕。
3 ボウトウについては不明。なお、改築年代、改築内容に関しては話者によって若干相違が見られる。
4 (H)天王祭は平成15年現在も行なわれている。舞台移築後、別の場所に建てられた公民館には、建物内部のほか外側にも舞台が設けられており、幕の上部には「船越座」と記されている。この舞台で7月13日に前夜祭の演芸会を行なっている。14日は午前中に鼓笛隊が出て、午後は神社の行事と神輿を行なう。戦後は、15日は行なっていない。また、平成12年にはこどもの芝居(「地域と子どもたちのふれあい演芸会」)も復活させた。これは冬に公民館の中で行っている。
5 市川市六とは、船越から大阪(名古屋という説もある)へ出て、プロになった役者だという。(景山正隆1990『愛すべき小屋』冬樹社 p.377より)市六は雁次郎の弟子だったようである。
6 山際新栄門氏発行の『ふるさと』14号(昭和56年4月)によると、「船越村に過ぎたるものは宮の舞台に寺のくり」とある。ここでいう寺の庫裏とは、船越にある曹洞宗祥雲寺の庫裏のことである。(景山正隆1990『愛すべき小屋』冬樹社 p.377より)
7 市川荒太郎は、明治25年生まれの大阪出身の役者で、明治40年に父親の前名を襲名し、三代目荒太郎となった。主な映画の出演作としては、『黒法師』『鶴吉と其兄』『鳥羽の恋塚』などがある。
8 (H)市川荒太郎の妻東愛子が船越出身の人で、その関係で荒太郎が船越に遊びに来ていた。それで、公演を頼もうということになり、荒太郎ほか関西歌舞伎の俳優が船越に来るようになった。上方から初めて船越に来たのが市川荒太郎である。東愛子は、明治35年生まれで大正4年に松竹女優養成所に入所した。映画の代表作に『千鳥鳴く夜』『黒法師』『鶴吉と其兄』などがある。
9 (H)海女組合では、役者が来ると浜に連れて行き、採って来たものを食べさせた。
10 (H)三番叟は一番良い役者がやったという。三番叟は、一人舞い、二人舞いなどさまざまであった。
11 寿三番叟ともいう。
12 (H)『義経千本桜』や『壷坂』(壷坂霊験記)が人気だったようである。
13 (H)現在の演芸会でも、舞台前の広場に桝目に縄を張ってサジキを作る。左の前2列を海女組合が占めるほかは、寄付金の多い者から前の席に座ることになっている。サジキ席の後ろは短冊状に縦に仕切られており、他の人たちが地区ごとに座る。船越は10地区に分かれており、座る場所は毎年抽選で決めている。
14 (H)イワタニ家(岩の谷)は船越の有力者で、船越の者は大人になるとみなここで働くほど大規模に事業をやっていた。
 イワタニ家の紋は「扇」であるが、紀州の人から良く働くということで「ヨコオオギ」を貰ったという。
15 (H)現在、演芸会のときには、青年団で屋台を出し婦人会が接待などを行なう。
16 (H)海女漁は現在も行なわれている。土日は休みで、月曜日から金曜日には、漁協で「海女の市」を行なっている。現在採集するのはアワビのほか、サザエ、フクラメ(アワビの子)などである。海女漁は波がなければ、雨でも行なっている。
17 (H)現在は、アサカヅキとユーカヅキの2回のみである。
18 (H)現在はハイカラまたはタイコといい、デンデコとは言わないようである。
19 (H)これをアマナキシオというのではないかという人もいる。アマナキシオの詳細については不明。
20 ボラ漁の記述に関しては、伊藤常重氏への聞き取りと伊藤氏から聞き取りを行なったという山際新栄門氏の手書きの草稿を参考にした。山際氏の草稿によると、伊藤氏は大船頭としてボラ漁を指揮していたという。

.参考文献
景山正隆 1974「船越の舞台・沿革と芸能」『旧船越の舞台移築修理工事報告書』川崎市
1990『愛すべき小屋』冬樹社
角田一郎 1971『農村舞台の総合的研究』桜楓社
松崎茂  1967『日本農村舞台の研究』松崎茂博士論文刊行会

[図版1]
カグラ式(コマ回し式)1 コロの使用

[図版2]
カグラ式(コマ回し式)2 木球の使用

[写真1]
皿回し式 土台に取り付けられたジャッキ

[図版3]
花道

[写真2]
オオイソド

[写真3]
ハイカラを引き上げるトマエ

[図版4]
ヤマスジ ナブラ(魚群)のコース

[図版5]
船の配置

[写真4]
ムナゲノダイ


(『日本民家園収蔵品目録1 旧船越の舞台』2003 所収)