神奈川県川崎市麻生区岡上 蚕影山祠堂調査ノート



.凡例
1 「蚕影山祠堂調査ノート」は、祠堂の旧所在地である川崎市麻生区岡上周辺で、日本民家園が中心となって行なった民俗調査と、その追加調査の記録である。
 当初の調査は、昭和46年と47年、さらに55年に実施された。調査にあたったのは、新井清氏(元当園職員)、小坂広志氏(元当園学芸員)、角田益信氏(郷土史家)である。
 このときの調査はすでに、新井氏の著書『かながわの養蚕信仰−調査資料集成−』(平成10年 私家版)に、各人の調査ノートを活字化するという形式でまとめられている。ここでは三氏の承諾を得て、同書より蚕影山祠堂と直接関係する事例のみを抽出し、項目別に配置した。すでに活字化されている調査記録をあらためて提示するのは、祠堂の信仰についての具体的な記録は意外なほど少なく、過去のデータを吟味し直すことに充分意味があると考えたためである。この同書から引いた部分、および、角田氏の草稿より引いた部分については、すべて「 」に入れた。
 追加調査は、本書の作成に合わせて行なわれたもので、平成16年の10月と11月に実施された。聞き取りにあたったのは、渋谷卓男である。
 いずれの調査データにも、その文末に〈 〉で調査者と話者番号を示した。たとえば〈渋谷1〉は、渋谷が調査した1番の話者からの聞き取りであることを意味している。話者のデータと調査年は、末尾の注に一括して示した。
2 聞き取りの内容には、人権擁護上不適切な表現が含まれている。しかしながら、話者の語り口を重視する本書の立場から、そのままとした。

.はじめに
 蚕影山祠堂は、川崎市麻生区岡上の東光院境内より移築された。蚕の神として養蚕農家の信仰を集めていたが、養蚕の衰退とともにその信仰も次第に忘れ去られていった。現在、その信仰実態について記憶している人はほとんどいない。昭和40年代の調査時点でもすでに伝承の風化は進んでいたようで、たとえば祠堂で配布していたはずの安産の護符については、聞き取りは全く得られていないのである。
 ここではそのため、祠堂に関わるこれまでの調査記録を整理し、今後の研究の手がかりとして提示することにする。

.1 蚕影山祠堂
.. 祠堂
 蚕影山祠堂は、信仰の対象であると同時に、子どもたちにとっては格好の遊び場であった。
 かつてお堂の中には太鼓が置かれてあり、子どもたちはたたいて遊んだという。〈渋谷1〉
 また、空気銃で小鳥を撃つときには、まわりに籾殻をまいてお堂のなかにひそみ、銃身を格子戸から出して狙いをつけたという。現在、正面左の柱には小さな穴がたくさん残されているが、これは虫喰いではなく、空気銃の弾の痕である。子どもたちはこの柱に的をぶら下げ、銃で撃って遊んだのだという。〈渋谷3〉

.. 御神木
 移築された祠堂のそばに、元治2年銘の手洗石が置かれている。しかし、現在はむかって右にあるが、かつては左の、桑の大木の下にあった。この桑の木が蚕影山の御神木である。〈渋谷3〉
 「岡上の蚕影山祠堂のところに御神木の桑があった。この木は高さ3、400cm、直径30cmぐらいあったが、道路拡張のため数年前に伐採されてしまった。
 昔、山田孝次氏の先祖の三太郎という人が伊勢詣りに行き、帰りに伊勢の方からこの桑を持ってきたというので別名『三太郎桑』と称した。この桑は早生種で葉が大きくてよく茂り、花が咲いてもドドメ(実)を付けなかったという。また、掃き立てのときに、この桑の葉を2、3枚取ってきて稚蚕に食べさせると、蚕がよく出来るとかいわれるので、近所の人たちは朝早く起きて、この桑の葉を取りに行ったものである。そして、蚕が当たると御礼に大きなマユを5個から10個ぐらい糸でつづって蚕影山に奉納したものである。」〈角田〉
 この御神木については、「蚕が病気になったとき、この桑の葉を食べさせると治った」〈新井2〉とも伝えられている。

.2 行事
.. 初午
 初午の日にはつぎのような習慣があった。
 「この日にはツトッコに団子を3個(白の丸形のみ)入れて、この蚕影山に供えた。」〈新井1〉

.. 祭礼
 蚕影山の祭は旧暦2月23日、新暦の3月23日であった。蚕影山のご命日という言い方をする人もいる。〈渋谷2〉日本民家園では現在、この祭を再現する展示を行なっているが、実際の様子はつぎのようであった。
 「3月23日の祭礼の朝、お堂(蚕影堂)に当番(順番で2人ずつ)が『ノボリ』を立て、そこに『トウロウ』を取付けた。またお堂は正月に張ったシメ縄(四タレ、八丁ジメ)を新しいものに張りかえるとともに、講中の各家からは糸で5〜7個縛ったマユを持ってきてお堂の格子戸へ吊した。」〈小坂1〉
 「新暦3月23日に養蚕講中(67〜8軒)が、蚕影山に集り祝った。
 蚕影山には各家からもってきた団子を供える。団子は葉のついたカシの木の枝にさされ、その数は5つか7つである。団子の色は白と赤で赤は1つか2つ位である。形はマユの形と丸形のものである。」〈新井1〉
 なお、これらのマユダンゴは、「そのままなくなるまで置いておくが、これを収集していくコジキのような人がよその村からくる」〈新井1〉こともあったという。
 祭の日に芝居が立ったことがあった。祠堂のそばにムシロがけの小屋を建て、旅芸人を呼んで行なった。夕方からはじめ、夜の10時ぐらいまでやっていたという。見物人は岡上だけでなく、近在からも来ていた。このときは露店なども出て、子供たちが飴玉などを買った。〈渋谷2〉
 芝居のほか、剣舞をやったこともあった。〈渋谷1〉
 岡上の女性たちは、祭の当日、東光院に集まってお念仏を行なった。集まるのは40人ほどで、普段は寺で保管している掛軸を本堂にかけ、行なった。このとき、住職が加わることはなかったが、住職の奥さんは一緒にお念仏を上げた。昔は蚕影山のお念仏(蚕影山和讃)があったが覚えていない。なお、集まるのは昼間で、食事をすることはなく、お茶とお茶菓子程度だったという。〈渋谷2〉
 これとは別に、祭の日は夜にも集まりがあった。こちらに参加したのは男性だったようである。昭和40年代の調査では、つぎのとおり東光院に集まったという事例と、当番の宿に集まったという事例が収集されている。
 「夜、オヒマチをする。講中の各家から一人ずつ集ったが、大部分は男の人であった。お堂は狭いので本堂で酒・煮もの・赤飯等を会食した。」〈小坂1〉
 「トーミョーコー
 3月23日に養蚕農家約50軒が集り行われる。
 宿は当番の家がする。
 その年に繭が豊作であった人は 5ケ〜10ケ位を上げた。」〈新井2〉
 トーミョーコーの方は何時ごろやったかという聞き取りはないが、「トーミョー(灯明)」という行事名称から考えて、おそらく夜に行なわれたものと思われる。これら2つが同じ行事であったかどうか、詳細は不明である。なお、「オヒマチは70年程前に行われなくなった。」〈小坂1〉と言い、この調査が昭和47年ごろのものであるのを考えると、実際に行なわれていたのは明治30年代ぐらいまでのようである。なお、祭の日の「ノボリやトウロウは、昭和15年頃まで続いていた」〈小坂1〉という。
 こうした行事のほか、祭の日には各家庭でもつぎのような飾り付けを行なっていた。
 「各家では23日の朝に団子をつくり、ミカンとともにカシの木につけ、大神宮神棚の下に飾る。団子の色は白のみ、各神様にも団子を供える。」〈新井1〉

.. 出開帳
 蚕影山では出開帳も行なわれていた。
 「輿に本尊を遷座させ、養蚕農家を巡回した。講中の人が付き、岡上以外の地域もまわった。この行事も70年程前に消滅した。」〈小坂1〉
 調査時点から考えると、この行事が行なわれたのも明治30年代ぐらいまでのようである。現在、蚕影山の本尊として馬鳴菩薩像と蚕影山権現像が伝わっているが、蚕影山権現の方は大正11年の箱銘があることから、出開帳が行なわれたのは馬鳴菩薩像だったと考えてよいだろう。

.. 女人講中
 祠堂の前に置かれた元治2年銘の手洗石に、「女人講中」の文字が残されている。しかし、この講がどのようなものであったのか、はっきりしたことはわかっていない。「大正の初め頃までやっていた。」〈新井2〉という証言はあるものの、具体的な信仰内容は不明である。
 ただ、蚕影山詣りという女性たちの行事が、戦前まで残っていた。この行事が「大正の初め頃までやっていた」女人講中と重なるかどうか不明であるが、以下聞き取りに基づいて記しておきたい。
 この行事は、4月の養蚕が忙しくなる前の一日、養蚕農家の女性が遊興をかねて寺や神社を参拝するものである。岡上は四つの地区(上・下・川井田・谷戸)に分かれているが、地区に関係なく、気の合うもの同士12人ぐらいで「もやって」出かけていた。
 泊まりではなく、日帰りであった。相模方面に出かけることが多く、鉄道を使って、秦野の白笹稲荷や、藤沢片瀬の竜口寺などへ出かけた。竜口寺へ行った際には、ついでに江ノ島弁天にもお参りしたという。なお、白笹稲荷などからもらってきたお札は蚕室に貼った。
 出かけるとき、女性たちは「蚕影山詣り」という襷をかけた。そして道々、お念仏を唱えながら歩いたという。〈渋谷2〉
 この「お念仏」というのが実際に念仏であったのか、それとも蚕影山和讃のことであったのか、はっきりしたことは不明である。ただ、現在、岡上に蚕影山和讃は伝わっていないが、かつて伝承されていたのは間違いない。
 「天保13年(1842)生れの祖母が、蚕影山の和讃を唱えていた。
 和讃の文句を書いた本があったが、今は見当たらない。
 この本は東光院の方丈さまが書いたものといわれていた。
 お婆さんは字が読めなかったので、そばで読んでやって覚えたものという。
 内容は、母の神様、お姫様が蚕の神様で、その由来をうたったものらしい。
 蚕影山の和讃は、あったことは覚えているが、文句や節は覚えていない。」〈新井3〉

.3 護符
 日本民家園には現在、東光院から寄贈された蚕影山の版木が4点保管されている。
 1点は掛軸用のもので、宮野薫氏宅にはこれで刷られた掛軸が伝わっている。
 2点は護符用のものである。1点は養蚕守護のもの、1点は表は養蚕守護のものであるが、裏は安産祈願のものとなっている。蚕影山で安産祈願の護符を出していたのは、本地仏馬鳴菩薩が7ヵ年のあいだ子供を守るという信仰による。
 もう1点の版木は、護符とともに出していた安産の薬粒の使用法、効能を記したものである。安産祈願については、現在90歳になる婦人も全く記憶しておらず〈渋谷2〉、当初の調査でも聞き取りは得られていない。その意味で貴重な資料である。
 つぎに、養蚕の護符の配布方法について記しておく。
 東光院によれば「養蚕に関するお札は、祭日・年の始め、法要に来た人達に配った。」〈小坂1〉というが、このほか年のはじめには、東光院が養蚕農家をまわって配ることもしたようである。
 「年の始めは、門松のとれる日(4〜5日頃)に東光院がお札をもってきてくれた」〈小坂2〉
 「蚕影山のお札は1月4日か5日に『つけ木』といっしょに、『東光院年頭』と言って配られた。」〈新井2〉
 こうした護符を、各家々では蚕室に貼った〈渋谷2〉ほか、「大神宮様へ上げておき、3月頃になって『札張り』にはった」〈新井2〉家もあった。
 護符は1年間家を守ったのち、新しいものと取り替えられる。では、交換されたあとの古い護符はその後どうしたのであろうか。その処理について、最後に興味深い事例をあげておくことにしたい。
 荻野種子氏は大正4年生まれで、養子を迎えたため、生まれ育った地に今もお住まいである。荻野氏宅では現在も、護符を御焚き上げに出すことはしていない。種子氏は、「一年家を守ってくれたお札を、新しいのが来たからといって粗末にできない」と言い、毎年古い護符を紙に包んでしばり、正月明けに屋根裏に吊るしている。こうしておくと火災除けになると言われているそうである。
 種子氏がこれを熱心に守っているのは、小学校のとき校長から、お札を天井裏に吊るしていた家だけが火事にならなかった、という話を聞いたからである。それ以来ずっと続けているが、それ以前から家の天井裏には煤だらけのお札のかたまりがあったという。〈渋谷2〉
 日本民家園に移築された旧作田家住宅(国指定重要文化財 千葉県九十九里町)の解体作業時、天井裏から俵に詰められた大量の護符が発見された。すでに伝承は失われていたものの、2000点以上におよぶこの護符は、家難除け、火災除けとして保管されていたものと考えられている。荻野家の事例は、こうした信仰が実際に生きつづけている例として貴重である。

.注
新井1 話者/薙沢好雄氏(明治42年生)調査/昭和46年2月 『かながわの養蚕信仰』p.33,34
  2 話者/山田孝次氏(明治39年生)調査/昭和47年9月 『かながわの養蚕信仰』p.32
  3 話者/山田孝次氏(明治39年生)調査/昭和55年1月 『かながわの養蚕信仰』p.33
小坂1 話者/福井一道氏(大正9年生・東光院住職) 『かながわの養蚕信仰』p.29
  2 話者/山田庄之助氏(明治15年生)山田孝次氏(明治39年生) 『かながわの養蚕信仰』p.31
角田  話者/山田孝次氏(明治39年生)
渋谷1 話者/宮野薫氏(昭和 年生) 調査/平成16年10月
  2 話者/荻野種子氏(大正4年生) 調査/平成16年10月
  3 話者/星野昇氏(昭和 年生) 調査/平成16年11月

 

(『日本民家園収蔵品目録3 船頭小屋・蚕影山祠堂』2005 所収)