山梨県甲州市塩山上萩原 広瀬家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が甲州市塩山上萩原の広瀬家で行った聞取り調査の記録である。
2 調査は4回行われている。1回目は昭和52年(1977)3月、当時民家園で行っていた運搬用具の調査収集活動の一環として実施された。聞き取りに当たったのは小坂広志(当園学芸員 当時)である。2回目は平成8年(1996)10月、3回目は平成9年(1997)1月に実施された。聞き取りに当たったのは当園ボランティアグループ、炉端の会の有志である。4回目は平成18年(2006)2月に実施された。聞き取りに当たったのは渋谷卓男と野口文子である。この4回目はこれまでの補足調査として、本書の編集に合わせて行われた。
3 話者は、いずれの調査もつぎのお二人である。
   広瀬保氏  明治38年(1905)生まれ
   広瀬頼正氏 昭和8年(1933)生まれ
 なお、4回目の調査では頼正氏の奥様にもお話をうかがった。
4 図版の出処等はつぎのとおりである。
   写真1    昭和44年(1969)、解体工事前に撮影。
   写真2、3  今回の調査時、野口文子が撮影。
   図1、2   『旧広瀬家住宅移築修理工事報告書』(1971)より転載。
          ただし、今回の聞取りに基づき部屋の名称を追加、変更した。
   図3     図版は渋谷卓男が撮影。
   図4、5   これまでの調査に基づき、今井功一が作成。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で必ずしも確認されていないことが含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。

.1 地域の概況
 広瀬家のある土地を上萩原という。明治8年(1875)までの村名である。この年上萩原は神金村となり、その後塩山町、塩山市を経て甲州市となったが、現在も地名として生きている。また、神金という旧村名も使われている。広くは旧村全体を指すが、土地の人が神金という場合、柳沢峠から甲府盆地側、すなわち上萩原・上小田原・下小田原を指し、一之瀬高橋は除くことが多いようである。
 このあたりのことを「山つき」と呼んだ。海抜770メートル、傾斜は昔のまま変わらない。
 かつては「シバマクリ」という強い風が吹き、芝をまくった。これは冬場、南アルプスから吹く風で、いわゆる空っ風である。この風で軽い土が舞い、砂ぼこりが吹き上がり、ひどいときは風が黄色くなって向こうの山が見えないほどだった。畑も堆肥をしておかないと土が痩せ、作物が枯れてしまった。大きな家はギシギシ軋んで揺れた。剪定のため脚立に上っていると、吹き落とされるくらいの風だった。
 母屋は南向きである。風が強いため、軒は「高くなんかはできないんだよ」と言われていた。
 この風も最近はほとんど吹かない。頼正氏の子供のころは三寒四温といい、3日大人しい日が続くとそのあと3、4日は風が強かった。しかし近年、風が吹くのはひと冬に5日か7日ぐらいで、年によっては吹かないこともある。
 台風も昔の方が多かった。川の源流の方は「悪沢〈わるさわ〉」という名が付いているとおり、周囲の水を集めてしまう。そのため、台風のような大雨のときは荒れた。明治40年(1907)、43年(1910)、昭和34年(1959)に台風による水害があり、周辺でも数十人が亡くなっている。現在は沢の奥まで大きな堤防が入ったので、災害は起こらなくなった。
 このあたりはどこの家にもクーラーはない。平地より気温が低く、冬は塩山の町を出るとき雨でも、一坂上るごとに雪が深くなった。ただし、1尺以上の雪はあまり降らなかった。

.2 広瀬家
 この稿の話者、保氏は明治38年(1905)生まれである。生まれた当時の家族構成は、父母、祖父母、曾祖父母の7名であった。曾祖父は甲府の「お城」に勤めたりした人物である。祖父は牧丘町から広瀬家に入った婿で、広瀬家の婿としては最後の人である。この祖父の「ウマレウチ(生家)」は、親子二代で牧丘の村長をしていた。保氏の父は一人息子だったので、姪や甥が3人もらわれてきていた。保氏自身も一人息子だったが、妹が3人いた。そして保氏の長男が、もう1人の話者、頼正氏である。
 広瀬家の古文書に、「左衛門どの」の字と、武田信玄の「カキャン(書き判)」の残るものがあった。「(馬小屋の馬を)信玄の軍勢に持っていったんだ。それ書いたもんはこれだよ」という言い伝えがあったが、紛失してしまった。また、仏壇に位牌を納めていた古い紙があり、「宝永」という文字だけ判読できるという。
 広瀬家には刀剣が2振り伝わっていた。うち1振りには「備州祐定」の銘がある。もう1振りは、「魔が差して(悪いことが起こるから)どこも置くとこがない」という言い伝えのものだったが、棟木につけて保管しておいたところ、盗まれてしまった。この刀と一緒に武田信玄の文書が保管してあった。しかし、虫喰いで判読できず、焼却してしまった。
 広瀬家の祖先に文右衛門という人物がいた。この人は全国を廻り、国々の一之宮にお札を納めて歩いたとされ、その折りに背負った持ち物や笈仏(阿弥陀様)、その脇侍が残っている。持ち物には「行者文右衛門」と朱で銘が書かれている。この文右衛門は、木食の弟子、白道の弟子でないかといわれており、供養塔が残っている。
 保氏の父の時代に1軒分家した。それより前にも1軒分家している。分家はいずれも集落内で、すぐ下の家と隣の家がそれである。広瀬家を「オウエ(お上)」、隣の家を「オシタ(お下)」と呼んでいた。この近辺ではこうした関係の家をこのような屋号で呼ぶことが多かった。
 このほか、寺の檀家の中に広瀬姓の家が5、6軒あり、一族ではないかと考えられている。一族で同じ神を祀る風習はない。なお、家紋は「ニビキリョウ」(「丸に二つびき」)である。

.3 衣食住
..(1)衣
... 糸
 保氏のおばあさんの時代は、木綿を作り、糸を紡いだ。家でやっていたのは保氏自身も覚えがあるという。「ボウセキ(紡績)」という細い糸が入るようになってからは、それを買って黒く染め、撚りをかけなおしてしっかりした木綿糸を作るようになった。
 戦時中はなかなか衣類が手に入らなかった。そのため、配給の毛糸を横糸に、家でとった絹糸を縦糸にして生地を織り、服をあつらえた。
 昔は糸くずや、巻いた使い残しの糸まで取って置いた。

... 子供服
 頼正氏は昭和14年(1939)に小学校に入学した。そのころは、男女とも半分くらいは着物だった。

... 被り物
 暑さよけに編み笠や「ムギワラジャッポ(麦藁帽子)」を使った。年寄りは菅笠を使用した。

... 雨具
 畳表を2重にし、襟ぐり部分に紐をつけて雨具を作った。これを「ケデエ」といい、背中につけて雨よけ、暑さよけとした。

... 履き物
 戦後くらいまでは、ワラで作った草履が日常の履き物であった。草履は学校の上履きにも使った。
 「ガンジキ」は地下足袋の下に付ける。4本爪が多く、紐でX型に「結わいて」履いた。1尺以上の雪はあまり降らなかったため、マキモヤを伐りに行くときなど、凍った氷雪の上を歩くのに使用した。

..(2)食
... 朝食
 頼正氏が子供のころ、昭和15、6年から終戦ぐらいまでは、モロコシの粉でモロコシ団子や「オネリ」を作った。オネリを作るには、まずサトイモ、ダイコン、カボチャなど、野菜を前の晩から煮ておく。これを「マナバシ」という2本の棒でモロコシの粉と一緒に練り、焼いたり茹でたりして味噌などをつけて食べるのである。これが朝の主食であった。オネリには小麦が若干入れば良い方で、こうした食生活が終戦近くまで続いた。
 また、朝は前の晩の残りを食べることもあった。

... 昼食
 昼は「ハンメシ(米半分、大麦半分)」を食べた。主食はこうした雑穀が多かった。

... 夕食
 夜は「オボウトウ(ホウトウ)」を食べた。小麦で麺を作り、野菜をたくさん入れる。これが昭和23、4年ごろまで続いた。
 このほか、小麦を水車で挽いて、ウドン、ときにはソバを作った。だしはカツオブシ、つゆはオスマシで、味噌を煮て袋で濾した。ウドンを作るときは、消化と増量のため、普段はダイコンを薄く縦に切って一緒に煮た。

... 準備・片付け
 頼正氏は7人兄弟の一番上だった。母親は麦蒔きなどで忙しかったため、ホウトウでもウドンでもソバでも、何でも当番で作って家の仕事を手伝った。
 モロコシを煮た鍋は汚れが落ちにくいため、ツカイガワに浸け置きし、川の水で洗った。これを「カワバリ」といった。学校に行くときなど、どのうちのカワバタにも「マッキッキ」の鍋が冷やしてあるのが見えた。

... 行事食
 祭り、祝い事などに煮物やきんぴらごぼうを作った。煮物はダイコン、サトイモなど家の畑で採れるもので、家族で食べるものより少し甘くした。
 盆暮れやオヒマチ、祭りなどにはオコワを食べた。こうした折りは酒も自由に飲めたので、楽しみになっていた。
 行事の料理は、お節句などは自分で用意したが、結婚式ぐらいになると近所に手伝いを頼んだ。
 来客があると、広瀬家は田が少なかったので、ゴンバチを出してソバかウドンを作った。「ゴンバチ」はウドンやソバの粉を練り上げるのに使うものである。今は漆塗りのものが多いが、昔は木地のままだった。
 上客にはホウトウにアズキを入れた「アズキボウトウ」でもてなした。また野菜の煮物も、このあたりではどこの家庭でも出していた。
 「オヒツ」「ハンビツ」などと呼ぶ楕円形の大きな桶があった。柄の穴に紐を通して持ち運ぶようになっており、葬式、オヨロコビ、上棟式など「ヒトヨセ」のとき、赤飯を入れたり、煮たご飯を保存したりするのに使用した。

... 調味料ほか
 醤油や味噌は自家製だった。
 醤油は大豆を煮て、麦麹で作った。まず、煮た大豆とフスマ、ふかした麦に、買ってきた種麹を加え、ムシロの上にひろげて発酵させる。発酵には温度が必要であるため、ひろげるのは2階の、火の上にあたる場所である。つぎに、これを大きなタルに入れて大豆の煮汁も加え、ときどきかき回しながら半年ほど寝かせる。これをモロミという。その後、竹で編んだ3尺ほどの筒をモロミ桶の中央に沈め、笊の目で濾された中のものをすくい出す。これを沸騰(発酵)させ、布で濾すと醤油になった。搾るときは機械で圧力をかけず、自然に垂れるようにしていた。なお、頼正氏が手伝い出したころはこのやり方ではなく、モロミを五升釜で煮て舟形の木枠の中の麻袋に入れ、厚い蓋をしてネジで締め、醤油を搾った。いずれも仕込みは春、搾るのは秋だった。
 味噌は、醤油作りで残ったものにさらに煮た大豆を入れ、臼で搗き混ぜて、水や塩を加えて作った。醤油を作るときぎゅっと搾らないので、残りを味噌に転用することができたのである。
 「オスマシ」は、味噌を濾して自然に垂れたものである。味噌をまず長さ20〜30センチくらいのスリコギで摺り、オスマシオケを使って濾した。この桶の柄が長いのは、濾すとき桶の上に布を掛けるためである。頼正氏は昭和23年(1948)に味噌作りを手伝い始めたが、オスマシを作るのは見たことが無いという。オスマシはウドン、ソバ、ホウトウの汁に使った。普通の醤油よりおいしかったという。
 ダシは蒲原(静岡県)から売りに来るカツオブシだった。このカツオブシは柔らかく、穴を開けて針金を通し、干しておいた。
 漬物類の桶がドジの右奥に置いてあった。

... 水
 上萩原にはほとんど井戸がなかった。終戦近くになって多少掘られたが、それでも数は少なかった。
 井戸の代わりに使われていたのが川(文殊川から揚げた用水)である。水源は広瀬家より上の方にあった。この水は温かく、他の集落では冬になると川が凍って道路に水がはみ出したが、ここでは氷柱がつくようなことはなかった。
 この川は、かつては飲み水にも使われていた。洗い物にも使われたため、飲み水は早朝か夜遅くに汲み、甕に入れておいた。ただし、大水のときなどは、濁ってどうにもならなかった。
 湧水を利用しているところでは、終戦近くなると濾過装置を設ける家が増えた。湧水の上にシトダルと呼ばれる底を抜いた樽を沈める。この樽は、むかしは四斗樽だったが、その後四斗樽に似た釘の入っている樽を使うようになった。樽の中に詰めるのは小石である。木炭は入れていなかった。これによって水を濾し、クミノオケという小さい桶で水を汲んだ。広瀬家では清水が湧いていたため、こうした濾過装置を作ったことはなかった。
 広瀬家の敷地には、ヤシキガミサンの祠のそばに清水があった。これを大きな甕に溜めてドジに置き、飲料水に使っていた。洗い物には家の裏手の用水も使った。
 広瀬家のある上萩二区に簡易水道が出来たのは、昭和34年(1959)ごろである。旧塩山市では最も早かった。水源は山の中腹である(注1)。湯気の出ているこの水を飲みたいということで、戦後しばらくして計画が始まった。保氏は区長をしていたためまとめ役を頼まれ、発起人および役員となって水道を設置した。財源には区有林の売却益を充て、不足分は各組ごとに責任を持って利用者負担することで計画を進めた。

..(3)住
... 敷地
 宅地は一反歩(300坪)ある。
 風よけのため、西側にはヒノキ類の木を植えていた。このほか、屋敷神に樹齢250年ぐらいのヒノキ、裏には杉の大木があった。いずれも戦時中、供木で出してしまった。

... 建築年代・改築
 主屋を建てたのが誰か、言い伝えは無い。ただ、保氏の曾祖父の代よりずっと前のことであるのは確かである。
 養蚕をするために屋根をあげ、2階3階を増築していた。ナンドとイドコには戸口が設けられ、障子と雨戸が入っていた。また、土間の裏手に表と同じような大戸が設けられ、勝手口になっていた。

... 用材
 家の用材は、山奥へ行き、気に入ったものを伐って来た。お金に余裕のある家では、材木の長さ太さを指定して木挽きに伐りにやらせた。木挽きは行ってマサカリで倒し、大きなノコギリで挽いて、ドングルマ(「交通交易」の章参照)に載せて運んできた。代金は、伐ったものを庭先まで運んでいくらという勘定だった。
 移築された主屋は、材料に栗を用いていた。ウダツ柱は「ハッポウウダツ」といった。2階の柱には、50センチほどの高さに梁や桁の穴があった。この柱には刃で削った痕があり、その痕が丸かった。

... 屋根
 屋根を葺くときは、河内(西八代郡下部町古関)から茅葺職人を呼んだ。呼ぶのは冬の時期で、職人たちは宿を取り、寝泊りしてやっていた。
 昔は葺くときや茅を刈って運ぶときの「ユイ」があったらしい。ただし、保氏が生まれた時代には、すでにそのようなことはなくなっていた。
 茅は人に頼んだりして自分の家で用意した。戦時中くらいから茅を刈る場所がなくなり、麦ガラで葺いた。それが足りなくなるとワラまで使った。しかし、こうしたものはあまり長持ちしなかった。
 屋根の棟に「イワシバ(岩芝)」が少しあったが、ほとんどは普通の芝だった。頼正氏の奥さんの家にはイワシバがたくさんあったが、そうした家は村で1軒だけだった。イワシバは朝晩の湿気で繁殖する。標高が上がるほど繁殖が早かった。
 言い伝えによると、屋根の一番下に白芋の茎を挿しておき、飢饉のときは引っ張り出して食べたという。移築のとき解体したら、それが実際にあった。

... 間取り
 奥の部屋を「ナンド」、その隣を「ナカナンド」、その手前を「ザシキ」と呼んでいた。ナンドは年寄り、ナカナンドは若夫婦が使った。ザシキは来客に使ったが、ここに文机が置いてあり、普段は子供たちが勉強などに使っていた。
 食事などをする場所を「イドコ」といった。このあたりでは居間と同じ意味である。土座として復原されたところは、保氏が生まれたころにはすでに土間の柱まで床が張ってあり、畳が敷いてあった。
 炊事の場所を「ダイドコ」といった。ここにも畳が敷いてあった。このダイドコとイドコのあいだには仕切りがあったが、障子は入っていなかった。
 土間は「ドジ」と呼んでいた。

... イロリ・カマド
 解体時、イドコの床を上げたら3尺四方のイロリがあった。保氏はこのイロリを使った記憶があるという。
 カマドは、ダイドコとドジの境、それから大戸口から向かってドジの右奥にあった。
 ドジ境のカマドは瓦が使ってあり、床の上から火を焚くようになっていた。「オカギサン(自在鉤)」もあり、手前に鍋が掛けられるようになっていた。この上には「ヒダナ(火棚)」があった。ここには農具の柄などをのせていた。
 ドジ奥のカマドは、大小2つがコの字形になっていた。ただし、つながっていたわけではなく、石を立て、泥で仕切りを作っていた。大きい方は味噌や醤油作りの豆を、小さい方はご飯やおかずを煮るのに使っていた。
 イドコのナカナンド近くに、ホリゴタツがあった。

... 収納その他
 ナンドには、ナカナンド寄りの隅にトダナがあった。ここに衣類を入れ、ナカナンド側から出し入れするようになっていた。
 昔は風呂はなかった。毎日風呂に入るような時代ではなく、ドジでタライを使うだけだった。その後、ウマヤの位置に桶風呂を置くようになった。夏はこれを外へ移動した。
 便所は外便所だった。

... 付属屋
 現在のトタン葺きの納屋は、もと平屋だったのを2階にしたものである。この納屋があるところに元は土蔵があった。入口の軒に据えてある軒石は土蔵から持ってきたもので、観音開きの軸を受ける真鍮の穴が残っている。
 土蔵は主屋を移築したころまで残っていた。この土蔵の屋根には白樺の皮を使っていた。周辺に自生していた白樺に、夏、切れ目を入れると「クルクルっと」剥げる。このとき少し深く切れ目を入れると、厚みのある皮が取れる。これを葺き、押さえに石を使った。腐らないため何十年も持ち、草屋根より長持ちした。白樺を葺き替えたときは、雨が降ると澄んだきれいな水が落ちた。これを近所の人たちが手桶に集め、用水に使っていた。
 主屋の裏に4間の細長い建物があった。ここは味噌倉として味噌、醤油、漬物などが保存してあった。この建物を含め、土蔵や納屋は蚕室にも使っていた。

..(4)暮らし
... 家畜
 ウマヤには馬を2頭飼っていた。当時、馬がないうちは少なく、ほとんどの家が内厩に飼っていた。ウマヤの壁は板張りになっていた。
 馬は耕作のほか、肥料や作物、燃料の薪の運搬に使っていた。
 馬の餌には、青い草がある季節は土手の草などを食べさせた。冬は収穫したモロコシの葉を自然乾燥させたもののほか、ワラも餌にした。また、山の奥に行くと笹が茂っているので、馬を引いていって刈り取り、これも冬場の餌にした。草を干す人もいたが、広瀬家では草を刈って飼葉にすることはなかった。商売で馬を使う人は、大麦を炊き、飼葉に混ぜて与えていた。
 馬は、保氏が戦争で召集されたあと売った。当時、馬は保護馬で月に何回も訓練に行かなければならなかったが、男手が無いと無理だったからである。
 その後、残飯の処理や堆肥用に豚を1、2頭飼った。豚を育てると1年に1度出荷することができた。このほか自家用にニワトリを飼っていたが、牛は飼わなかった。牛を飼っている人は、布を裂いて作った草履を履かせた。

... 燃料
 子供も日曜日や冬休みには山へ入り、「モヤ(燃料にする枯れ木)」やタキギを拾ったり、生の枝を伐ったりしていた。
 戦時中、3年生以上の子供は勤労奉仕のため、柳沢峠の下から雲峰寺のあたりまでショイコで炭俵を運んだ。1俵の重さは4貫目、これを1俵ずつ、体格の良い子は2俵運んだ。この4貫目の俵の前は、普通の米俵を使っていた。これは2俵も付けると、良い馬でもこたえるくらい重さがあった。
 白樺の皮は屋根に使うだけでなく、燃料にもなった。使うのは山で蝋燭のないときで、油分があったためよく燃えた。また、高い山へ行くとダケカンバがあったが、この皮も非常用の燃料に使われた。

... 山との関わり
 集落の近くは大部分が官有林である。昔は国有地を「御料地」と呼んだ。徳川家の領地を明治政府が没収してそのままとなっていたが、明治40年(1907)、43年(1910)の大水害の後、薪や建材用に住民が盗伐をしたため山が荒れだした。その後県有林が増え、さらに奥の民有林に戦後入植したことが官有林の拡大に拍車をかけた。
 山ではマキギ(たきぎ)や下草を自由に採ったほか、家の建材なども調達した。
 5月の末になると、オクヤマへウラジロを採りに行くのがこの辺の習慣であった。ウラジロとは団子に入れるもので、餅草と同じように干しておけば一年中使うことができた。また、さまざまな種類のキノコも採りにいった。
 蜂の子は何人かが採集する程度である。狩猟も数名の鉄砲所持者が行うだけで、獲物はウサギ、キジ、ヤマドリ、ハトなどであった。
 山に入ってはいけない日は特になかった。

... その他
 朝、おじいさんの湯たんぽの水を桶にあけ、子供みんなで顔を洗った。
 カイコが始まる前の季節、保氏のおばあさんなどは湯治に出かけていた。日川渓谷(東山梨郡大和村)、嵯峨塩温泉(塩山牛奥)、大菩薩のほか、甲府に親類がいたので要害温泉(甲府市上積翠寺町)などに行った。また、骨折したときは下部温泉(南巨摩郡身延町)にある信玄の隠し湯に入った。いずれも数日泊り込み、食事は自炊した。

.4 生業
..(1)変遷
 上萩原は農業が多く、林業はない。ただし、ここでもサラリーマンが増加している。
 かつては養蚕が盛んだった。山つき地帯は一面桑畑で、養蚕が大きな現金収入となっていた。はじまったのは江戸時代である。養蚕時代も自家用程度に田畑はやっていたが、田よりも畑の方が多かった。これは、1つには傾斜地のため土地を平らにしなければならなかったこと、もう1つには水利の問題があったためである。このため8、9割が畑で、しかも雑穀が主だった。出稼ぎはなかったが、食糧確保のため、かなりの山奥でも土地を拓いて何かを作った痕跡がある。
 養蚕の前に盛んだったのが煙草である。ニコチンの害があり煙草と養蚕は同時にやれないため、100年ほど前に煙草から養蚕へ切り替わったらしい。養蚕時代桑畑だったところは、それ以前は煙草が栽培されていた場所である。
 養蚕のあと盛んになったのが果樹栽培である。終戦直前にモモが植えられ、昭和30年(1955)ごろからはスモモの栽培も開始された。モモとスモモは以後も続き、現在の主力農産物である。このほか、標高600メートル前後の低いところにはブドウ園が若干ある。
 果樹以外で盛んだったのは、昭和30年代から始まった抑制トマト(遅出しのトマト)である。その後、昭和60年代から平成6年ごろまではコンニャクの全盛時代であった。その後廃れてしまったが、10年ほど前までは山つき地帯一面コンニャク畑だった。

..(2)養蚕
... 飼育
 養蚕は、「春は切る、秋は摘む」という作業である。毎年5月6月になると忙しくなる。
 5月20日過ぎ、オカイコをハキタテる前に大掃除を行う。下の畳を上げ、2階のムシロを干す。この地域はどこもこの時期に大掃除を行うため、暮れは大掛かりにはやらなかった。この後、蚕室を作り、酢酸で消毒した。
 稚蚕(「ちっさいカイコさん」)を飼うときは、イドコの手前の部屋を目貼りし、閉め切って暖かく保つ。障子は人のためだけでなく、稚蚕を冷やさないためのものでもあった。冬場はここに、「ヤイタ(炉)」を入れたオキゴタツも用意した。稚蚕は、部屋の両脇に設置した「カゴダン(籠段)」で飼育する。カゴダンとは、竹を吊り、そこにカゴを4段ほど置いたもので、ここに稚蚕をのせるのである。こうした飼い方を「棚飼い」と呼んだ。なお、カゴは専門の職人に注文していた。
 この部屋で2齢、3齢まで飼い、4齢になると、今度は2階、3階に移す。カイコは「タナ」で飼育する。これは、障子1枚ほどの枠に竹を幾本か通し、上にムシロを敷いたものである。これを6枚ほど、天井の高いところでは8枚から10枚重ね、ここにカイコをのせるのである。そして5齢になると、今度は軒から外に雨よけの油紙を広げて場所を作り、そこで育てた。
 このオカイコの時期は畳を上げ、食事や睡眠の場だけ最小限残して、他は家中にカイコを広げた。
 こうした作業は家族で行っていた。広瀬家では子供たち全員が手伝った。ただし、上蔟の際は近所、知人などで構成されたユイ単位で作業を助け合ってきたという。また、忙しい時期は手伝いを頼んだ。頼むのは毎年北都留郡の方の人で、同じ人が何年も来ていた。

... 出荷
 工場で絹糸にするような良いマユは、すべてマユのまま出荷した。広瀬家の収繭量は、春蚕で100貫、夏秋蚕・晩秋蚕で100貫と、年間200貫くらいの規模だった。出荷先は塩山で、ここには2つ市場があった。塩山はマユの集産地としては全国指折りで、群馬と並び称されていた。
 「クズマユ」や2頭入ったマユ、薄い皮のマユは、家で糸をとり、絹織物にした。織ってから染める場合と、糸の状態で先に染める場合があった。保氏の奥さんは嫁に来てからもそうした仕事をしていた。

... その他
 ネズミが蚕を食べないよう、家では猫を1匹飼っていた。
 また、保氏の母方のおばあさんは現在の甲州市勝沼町菱山の出身で、同地にあった大瀧不動に養蚕のため護摩を焚きに行ったことがあった。

..(3)農業
... 煙草
 この地域の煙草は「萩原煙草」の名称で出荷され、ことに辛いので知られていた。安政2年(1855)の上萩原村の明細帳にも記録が残っている。かつては盛んに栽培され、下の集落には「問屋」という屋号の家がある。この家は煙草をまとめていたうちで、商標も残っている。
 しかし、保氏の時代にはもう栽培されていなかった。煙草の葉を干す場所を「ウシバ」といったが、ここがそうだったという話だけで、保氏も実際に干しているのを見てはいない。雛人形の箱の中に虫除けに煙草の葉が入れてあったこと、ひいおばあさんの時代、物置のカマスに残っていた古い葉を刻んで煙管で吸っていたこと、保氏が記憶しているのはその程度だという。
 煙草の葉を刻む四角い包丁は、短い柄がある。このため、短いことを「煙草包丁の柄のようだ」という言い方をした。広瀬家にはまだこの包丁が残っているという。

... 畑作
 広瀬家より標高の高い土地は、土が悪く、しかも火山灰土のため軽かった。畑にはモロコシのあと麦を蒔くが、モロコシの収穫が終わっても刈るだけでこぐことはしない。こいでしまうと風が土を巻き上げ、麦の根がむき出しになって枯れてしまうからである。そのためモロコシをこぎ、土を払うのは、春になってからであった。
 季節としては、冬から春夏までが大麦小麦、夏先がモロコシである。麦を作って畝のあいだにモロコシを蒔き、途中で麦を刈って、秋にモロコシを収穫する。そしてまた10月いっぱいぐらいに麦を蒔く。そうした流れだった。
 モロコシは家のまわりに吊るし、乾燥させた。食べるときは大きなウスに「ホッタ(穂)」だけ入れ、餅搗きのキネでつぶすと粒がとれた。家のまわりにモロコシをたくさん干し、薪をたくさん積み、堆肥の入る囲いを付けると、「いい経営ですね」ということになった。
 30年ほど前は、コンニャク栽培の全盛期だった。栽培は涼しいところがよく、北の傾斜地がむいていた。乾燥を防ぎ、雑草が生えるのを防ぐため、コンニャク畑には木の葉を敷いた。
 「マキモン(蒔き物)」はこのほか、小豆などの豆類と粟だった。

... 稲作
 田を作るのは、石垣の整備など、金も労力もかかる仕事だった。
 田にしたのは川の近辺である。傾斜地だから石垣を積む。土地も痩せているから良い土はとっておき、平らにしてから表面にその良い土をかぶせる。下はいったん田んぼのような状態にし、水が浸透しないよう固める。その水も上流から用水として引いてこなければならない。このようにして作っても、一家を賄うほど米は出来なかった。
 石垣の石は、他から運んできたものではなく、屋敷や田畑を作る際、地中から出てくるものを使った。石割りは「割り石工(イシヤ)」、石積みは「積み石工(イシヤ)」が行った。出来上がった石垣を管理するための取り決めなどは、特になかった。
 田は少ないが、陸稲は作った。ただし、味は悪かった。この陸稲のワラは細工に向かなかったため、冬場の馬の餌にした。

... 果樹
 上萩原は標高が高い。そのため県内で最も桃の収穫が遅く、福島県の早場とかち合うほどである。広瀬家では早生種から遅い品種まで栽培している。遅い方が良い時代もあったが、遅いと台風などの危険が高まるため、早い方が間違いない。

... 水と肥料
 甲府盆地では掘ると丸い石が出てくるのに対し、この山つき地帯は土の層が深い。そのため、旱魃には平地より強いと言われている。
 上萩原は、夕立が非常に多い土地である。降らない地域の人は、「萩原の乞食雨」と言うほどだった。作物のためには恵みの雨であり、このため「田用水」に関わる血なまぐさい水騒動はなかった。しかし地域によっては、保氏が記憶する限りでも、水の取り合いで相当騒ぎがあった。
 肥料には、山で落ち葉を集め、堆肥を作った。拾ってくる先は、ほとんど県有林だった。昔は家のまわりに木の塀が作ってあった。この塀と家の壁のあいだに落ち葉を入れ、下肥をかけて腐らせ、堆肥にした。また、ウマヤの中にも落ち葉を入れ、馬に踏ませて堆肥にした。

... その他
 外で仕事ができないときは、ワラで縄をなう作業をした。縄は作業のほか、草履づくりにも使った。縄のほか菰など、ワラのものは家で作っていた。一方、竹のものは職人から買い、自分たちで加工することはなかった。なお、米俵は小作の人たちが作る程度だった。ワラ細工にはもち米のワラが良いといわれた。
 昔のクワは金物は先だけで、木の台に柄を差し込むようになっていた。柄は金物屋から買い、これを削って自分で差し込んでいた。柄に使うのはミズナラが多かった。ミズナラは堅く、目が通っていたためである。軍隊で使った銃剣術の銃も、カシもあったがミズナラが多かった。
 イノシシやクマなど、獣の被害はほとんど無かった。ただ、鶏小屋のニワトリがキツネに襲われたことはあったという。

..(4)農閑期の仕事
... 木材の伐採
 頼正氏の子供のころは、農閑期の仕事として山の木を伐る作業、車で出す作業、マキやモヤを伐る作業などがあった。地域の人の多くが、副収入にこうした作業をしていた時代もあった。これらの作業は定期的に行うもので、材木を出す仕事は中でも一番金になった。
 また、「チッパ」といって、松のパルプ用材を搬出する仕事もあった。

... スズタケ
 「スズタケ(煤竹)」という竹製品に使う竹があった(注2)。この竹に関わる仕事は、伐る人、買う人、運ぶ人、また次の問屋まで運ぶ人と分かれていた。
 柳沢峠のむこう(一之瀬高橋)には、この竹を売って暮らしている人がたくさんいた。そして、その人たちが伐ったものを集めて買う人がいた。さらに、これをあるところまで馬で「ツケて(運んで)」くる人がいた。こうして運ばれてきた竹を、今度は神金の人が馬で行ってツケてくるのである。このとき、往きにはこちらから食料を運んでいった。
 スズタケは、農閑期には神金の人も「金取り」に売った。これも木と同様、山で勝手に伐っていた。
 伐るときには朝3時に起き、メンパにご飯を詰める。そして、背丈くらいあるスズタケを束にし、これを2つくらい背負った。着る物はずいぶん痛んだが、金は取れた。
 刈った人は神金地区内の下方まで運び、同じ神金の別の人に売る。すると今度は、この人が荷馬車に積んでさらに下方の塩山まで持っていった。塩山までは道が良かったので、荷馬車を使うことができたのである。塩山まで持っていくとここには「ヨセ(集める)」の人がいて、これをまた向こうに送った。

... その他
 「駄賃とり」のため、馬を使って炭や生活用品を運ぶ人が終戦後までいた。こうした仕事を「コニダ」と呼んでいた。
 このほか、農閑期には田畑の石垣を組む仕事などがあった。

.5 交通交易
..(1)行商・旅芸人
... 行商
 山梨県内でも身延山の方を指して河内領と呼ぶ。河内領とは、穴山梅雪の旧領地のことである。河内領は耕地が少ない。そのため、大工や屋根葺き、「桶のタガカケ」などの職人、ザルや障子紙、コンニャクを扱う行商が、道具や商品を担いで河内領から来ていた。河内から来るカゴヤサンは、頼まれると庭先でカゴを編んだ。しかし、のちには完成品を直接売りに来るようになった。このほか、南都留郡内の人もカゴを売りに来ていた。
 こうした人の中には、大工、屋根屋、石屋など、こちらに来ていて住み着いた人がいた。大工も他の職人も、地元にもとからいたという話はあまり聞くことがない。ここは広瀬姓が多いため、このように移ってきた人は苗字を聞けば大体わかる。「あれはカワウチの人だ」などと、その人たちのことを指して言っていた。その家のかつての家業も、苗字をみればわかった。
 行商は頼正氏の子供のころにも来ていたが、次第に姿を消した。障子紙の行商は比較的終わりごろまできていた。最後まで来ていたのはコンニャクを売る人であった。

... 鍛治屋
 鍛冶屋は、塩山の学校に通う途中に2軒あった。大藤村(現・中萩原)に1軒、千野というところにもう1軒あった。保氏は、「今日はこのクワの先だけを持って行ってサキガケを鍛冶屋さんに頼んでこい」と言われ、学校に行く途中で頼んだことがあるという。他にノコギリの目立て屋も塩山にあった。
 カジヤという集落は黒川金山からの移住者が作ったといわれており、金山権現が祀られている。そこには、鉄の塊が出る場所があったともいわれている。

... 旅芸人・芝居
 正月には神社に、河内からよく漫才が来ていた。2人組の掛け合い漫才で、ツツミ(鼓)を叩いて演技した。獅子舞も真似事のようであったが来ていた。このほか、芝居や浪花節などがあった。
 こうした芝居は、集落の人が誘致する場合と、興行主が営業しに来る場合があった。集落の人が誘致する場合は金が儲かったときなどが多く、祭りの日などに限ったものではなかった。会場にはその人の家や、他の大きな家を借りた。このようなときは、ムラの人は皆ただで見に行った。
 なお芝居については、土地の人がやった時期もあった。そのときは神社の拝殿に、組み立て式の舞台を置いてやった。ただし、保氏も大きな家を借りてやったものは見たことがあるが、この組み立て式の舞台は記憶に無いという。衣装も特別準備してあったわけではなかった。

..(2)消費生活
 中央線開通後、塩山に商業関係者が集まり、便利になった。それ以前は、上萩原あたりの店で用が足りなかったり大量に必要だったりするときは、甲州街道の勝沼宿へ買い物に行った。
 ムラの近くに市はなかった。三日市場、七日市場という地名はあるが、そこに市が立ったという話は聞かない。若草(中巨摩郡若草町)の十日市は臼なども売っており、安くて有名だった。
 荷を受け渡しする場所が、大菩薩峠から嶺の方へ寄った鞍部にあった。ここを「ニワタシ」と呼んでいた。こちらから運んだものはここに置いていったが、盗まれたことはなかったという。ここはもとの青梅街道であった。現在の柳沢峠のルートは、こちらの方が「ナルイ」ということで変更したもので、明治のころ囚人も使って作った道である。
 戦後のある時期、瀬戸物を大安売りする「ナゲウリ」があった。会場は暗いので、帰ってきて買った物を見るといびつだったということもあった。

..(3)交通
 頼正氏の時代には、甲府へ行くには鉄道を使っていた。鉄道の開通は明治36年(1903)であった。
 道路の幅は以前はもっと狭かった。それでも、集落の大通りは大八車が通る程度はあった。道路を使う運搬方法としては、「ショウ(背負う)」ほかに、馬、「バリキ(馬力)」というリヤカーより大きい車などがあった。

..(4)運搬
... テンビンボウ
 買い物にはテンビンボウを担いでいった。ふつうテンビンボウというと長いものだが、短いものもあった。この短いものを担ぎ、勝沼まで行った。テンビンボウは使っているうちに、縄を掛けるところが擦り減ってしまった。

... ショイコ
 ショイコは、一輪車・テーラー・自動車にかわられるまで使用されていた。
 大きさは使用者の体格に合わせる。体の大きい人は幅の広いものを使う。数え方は「ひとつ、ふたつ」である。働く人は皆所有しており、次男三男などもいるため1軒の家で5つから7つ持っていた。使わないときは、物置または農具置場など、湿気がワラに影響しないように高いところへ掛けておいた。
 縦の棒2本を「オヤギ(親木)」(1)、横の棒3本を「コ(子)」(2)という(図3)。オヤギには普通ヒノキを使うが、より強いネズミサシも用いられた。コにはクワの柄と同じミズナラを使う。オヤギの上部を「ツノ」(3)という。中央と下のコの間には、「カラミナワ」(4)が巻かれる。カラミナワの下部は、ナタ・ノコギリ・カマ・砥石・弁当箱など、物を入れるために袋状に編んである。背負うための「カタ(肩)」(5)は、各オヤギの下端と中央のコに結ぶ。材料に使用するのは、ワラ、ヤマブドウの蔓の皮を繊維にしたもの、布である。両端をツノに結びつけた短い木を「ツク」(6)という。「ガサ(かさ張る)」の荷のときに使うものである。縄は麻縄で、木は特に樹種にこだわらなかった。ショイコの古いものは、木の部分以外はすべてワラでできていた。
 ショイコにはコが2本のものと3本のものがあった。コが2本のものはガサ(容積)が少なくて重量のあるもの、米俵・炭俵・薪・桑(枝ごと)などを運ぶのに使う。コが3本のものはガサの多いもの、ガサがあって軽いものや長いもの、すなわち茅・落ち葉・ワラ・麦ワラといったものの運搬に使用する。力のある人は200キロ(53貫)、普通の人で60キロ(16貫 米俵1俵)から75キロ程度背負う。薪は、6尺くらいの丸太のものを横につけると米俵以上の重さになる。広瀬家では炭は作らなかったが、炭俵は1俵4貫である。こうしたものを、人によっては2里以上も背負った。
 ショイコを作るには、まずオヤギを選ぶ。オヤギには、10年以上年数が経っていてフシのないもの、手ごろな堅さで丸いもの、根元の曲がったものを選ぶ。これをノコギリで挽き割り、割肌と角をカンナで削る。そしてコを差し込む穴を彫る。一方、コにはオヤギに差し込む「ホソ(細)」を作り、角を削り取る。組み立てるときには、まず片方のオヤギに3本のコを入れ、起こしてもう片方のオヤギを入れる。入れたら抜けぬよう、ホソの中央に「ワリクサビ」を入れ、さらにキリで揉んで穴を開け、竹の釘を入れる。組み立てたら、カラミナワをきつく巻く。カラミナワがずれないよう両端に縦縄を入れる。さらに、カタ、ツクを取り付ける。
 荷を固定するときは「ニナワ(荷縄)」を使う。オヤギのツノから渡し、下のコの部分に縛り付ける。縛るときは縄の先に「ヘビグチ」と呼ぶ輪を作り、ここに縄を通して締める。これを「カミムスビ」という。ニナワには「ミツヨリ」の縄を用いた。
 ショイコの上の方に荷を載せるときには、ショイコを立ててから重ねていく。背負うときは、立てたショイコにシリを添え、足を伸ばしてすわり、手をついて立ち上がる。杖や背中あては普通使わない。休憩時やショイコを離れるとき、先が又になった木で支えるくらいである。
 背負うときの服装は、上衣が冬はハンテン、夏はシャツ1枚で、下衣はモモヒキやズボンだった。

... ドングルマ
 ドングルマは、丸太を運搬するための道具である。(図4)
 丸太を載せるときは、上に細い木を置き、一緒にロープで締める。柱にするような太いもののときは、3箇所くらいで締め付ける。こうしてロープをかけたあと、丸太と細い木の隙間にヤを打ち込み、動かないようにする。
 丸太の後ろには、3尺くらいの細い棒をがっちり止める。運ぶときはこのカジボウを持ち、後ろから舵を取りながら押していく。これで、道がなくても「ゴンゴン」運ぶことができる。下り坂で速度が出たときは、カジボウを上にあげる。こうすると丸太の頭が下がって地面につき、ブレーキがかかった。
 ドングルマはすべて木製で、車輪はトチノキ製、車軸はコナラ製であった。

... ゴロカン
 ゴロカンは、薪などを運搬する道具である。(図5)
 2つの円形の枠、ゴロカン(「ワカン」「ワッコ」「ワッパ」ともいう)に、薪をびっしり詰めて円筒形の束を作る。そしてこの円筒の両底面の中心に、カジボウの金具を打ち付ける。こうして薪の束自体を車輪とし、2本のカジボウで舵を取りながら転がしていく。一般的には押して運ぶが、引くこともあった。下り坂では、カジボウを内側に寄せる。こうすると薪の束が締め付けられ、ブレーキがかかった。
 ゴロカンで運ぶと、背負うときの何倍もの量を運搬できた。

... カン
 カンは、山から木を曳いてくるのに使用した。丸太の木口にクサビ部分を打ち込んで、馬に引っ張らせる。丸太が太ければ一本、細ければ何本も曳かせた。終戦後は牛にも曳かせた。

... カルコ
 カルコは堆肥を運搬する道具である。
 これを馬の背中に乗せて、その上に堆肥を入れる。入れるときはバランスが取れるよう、片方に支柱をする。袋部分は底を紐で絞ってあり、この紐を外すと堆肥がストンと落ちる仕組みになっていた。
 麦を撒くときに使ったが、ミ(箕)に入れてバラバラと手で撒くことも多かった。

... マユカゴ
 マユを運ぶときは、マユカゴの中にユタンと呼ばれる木綿の布袋を入れ、ここにマユを納めた。カゴに入れるのは、布袋だけだと「運ぶのにエライ」からである。このマユカゴを馬のクラの両側に2つずつ、横向きに取り付けた。

... キノハカゴ
 キノハカゴは落ち葉を運ぶ粗く編んだカゴで、ショイコに縛り付けて使う。
 落ち葉を運ぶには、まず人の背丈ぐらいの長さの丸い束を作る。縄を3本、多い人は6本ほど敷いて細いソダ(棒)を入れ、熊手で落ち葉をかき寄せながら丸くしていく。そして上にもソダをのせ、縄で締めて丸い束にする。これを3つ重ね、カゴに積む。笹を運ぶこともあった。
 こうするとたくさん運ぶことができたため、広瀬家ではコンニャク畑の肥料として使うのについ最近までやっていた。

.6 社会生活
... 姓と一族
 広瀬家のある集落は、宮原姓が数軒あるほかはすべて広瀬姓である。頼正氏の子供のころは集落ごとに苗字が大体分かれており、こうしたところでは一族という色合いが残っていた。なお、ムラには「中村」という武田信玄から姓をもらったという家がある。この中村姓の人たちが、黒川金山(国道411号線を上った峠の向こう側)の金堀衆といわれていた。

... 五人組
 広瀬家の加入している五人組は同じ寺の檀家であった。1軒が税金を納められなかったりすると、五人組が責任を持って納めたという。

... 無尽
 昔の無尽は現在と異なり、楽しみのためにやるものではなかった。家を建てたとか、ある家が困った事態に陥ったという際に行うことが多かった。たとえば、馬を売って渡世をする人や、馬で荷を運ぶ人が馬を買いたいといった場合である。そうしたことがあると、「そりゃ無尽だ」ということになる。借りた人は、毎年幾らかずつ返済していく。無尽を行うには保証人が必要で、保氏の父親は保証人をしたことがあったという。
 無尽は現在でも、参加者の親睦を図るために行われている。毎月、あるいは年に何回かの例会を行い、お金を積み立てて旅行に行ったりする。何か一緒に役をやった後にも親睦会を行った。

... 水車
 広瀬家から10メートルほど坂を上ったところに水車があった。精米と製粉を行うため、近隣20数軒で共有し、使用していた。水車は「レン」と呼ばれる組織によって、入り組んだ共有形態をもっていた。しかし、最後はそれぞれの集落で1つを共有するようになった。
 水車は大きく、精米に使用する大きな臼が5つほどあった。さらに、小麦を粉にするために使用する大きな石臼と、大きな篩を使うための箱があったという。この臼の材料となる石はこのあたりから採石されるものではなく、牧丘町の旧西尾村山中から出る石を使った。手で廻す小さい臼は、このあたりの「御影」で出来ていた(注3)。水車の水受け部分を「フクロ(カゴ)」という。ここに木の桶から水を落とし、その勢いで回していた。臼は減ってくると、目を「ちょんちょんと」刻んだ。保氏は子供のころ、この臼がどんどん減って薄くなったため、別のを持ってきて取り替えたのを見たことがあるという。
 水車の奥にあった二重の石垣には、水路の痕跡が現在も残っている。ここの水は深かった。

... 学校
 保氏は大正元年(1912)に小学校へ上がった。当時は校舎がなく、岩昌寺(上萩原岩波)の本堂から庫裏までを仮校舎として授業を行っていた。4月になると、寺で甘茶を飲んだり仏像にかけたりしたのを覚えているという。
 寺での授業は2年続き、保氏が3年生のとき、現在の位置に建設された校舎へ移った。

.7 年中行事
... 正月の用意
 広瀬家は家業が忙しく、正月の用意を何日もかけて行うことはしなかった。毎年30日を中心に用意するが、「気持ちくらい」のものであったという。正月棚の設置、餅、松飾、注連縄作りはすべて30日に行う。30日の都合が悪ければ28日に行う。31日には手をつけず、29日にも行わない。ただ、飾りや御幣を切る日は決まっていなかった。
 ススハライは30日に行ったが、掃きだし程度の掃除で、畳まで上げる大々的なものではなかった。これは養蚕を始める5月に大掃除をしたためである。
 オショウガツサンを迎えるための吊るし棚を毎年新たに作った。この棚には特別な名称は付いていない(以下、正月棚と記す)。幅1尺前後、長さは6尺前後である。以前はザライタの天井だったので、この隙間に縄を掛け、神棚の前に吊るした。オショウガツサンは3つあって、うち1つがミツミネサン(三峰)であった。棚には祭礼の日に配られる氏神のお札、松飾り、注連縄、お供え、子供の書初めを飾る。書初めは頼正氏とその兄弟のもののほか、近所の友達が書いたものも飾っていたという。保氏が子供のころも、同じように書初めを書いて正月棚に吊るしていた。この正月棚は、養蚕のために家を改築してから吊るすのをやめた。
 30日に餅搗きが行えるよう、もち米は前日から「ヒヤカシ」ておく。この周辺ではオオマス(大枡)1升が京枡3ジョウ(升)に当たるが、そのオオマス1升を1臼と呼び、全部でトウス(10臼)前後搗いた。広瀬家に夫婦2組、子供7人いたころのことである。搗いた餅の一部は神仏に供える。現在もホトケサン(仏壇)、カワノカミサン(川の神)、ヤシキガミサン、オコウジンサン(勝手)、ドウソジン(石の男根)に供えている。神社や寺に持って行くことはしない。オショウガツサンに供える餅は他よりも少し大きく、20センチ四方くらいである。ミツミネサンには丸い餅を3段重ねたものを供えた。お供え以外の餅は、サツマイモやうるち米を入れたコメモチ、青のり入りの餅、炒った大豆などを入れたコブモチなどにした。
 正月飾りや御幣も、正月棚同様、毎年新たに作った。また、生柿の付いた枝を天井から吊るして飾った。

... 大晦日
 大晦日は昔は夜遅くまで起きていた。かつては除夜の鐘を撞きに行ったり、お宮へ行ったりはしなかったが、20年ほど前からお参りに行くようになった。また、この日は神棚へお灯明を上げる。
 この日は地方に就職している者も帰ってくる。食事はソバで、頼正氏のおばあさんが手で打ち、全員で食べた。

... 元旦
 元旦に特別行うことはなく、若水を汲むことなどもない。
 終戦のころまでは、正月にウドンを食べた。ウドンの汁はカツオブシでダシを取ったオスマシで、味噌を煮て袋で濾して作る。他に具は入れない。ただしこれは、集落の家すべての習慣ではなかった。ウドンを毎年作っていたのは頼正氏のおばあさんで、大根の皮を剥く皮剥き器でカツオブシを削っていた。
 終戦後は雑煮を作って餅とともに食べるようになった。おせち料理には決まったものがあったわけではなく、頼正氏の奥さんが嫁に来てから工夫し、重箱につめるようになったという。

... 七草
 現在も1月7日には七草粥を作っている。粥には、その時にある野菜を入れる。本来は「七色(7種)」のものを入れるという。

... カガミビラキ
 1月11日はカガミビラキである。お供えや正月飾りを下ろし、オショウガツサンを送って正月棚も取り外す。正月棚や正月飾りは恵方に生えている木に吊るし、朽ちるまで放っておく。その年の恵方はオコヨミで調べる。ただし、これは毎年必ず行っていたわけではない。現在は、松飾りもお札もドンドヤキで焼く。

... オタウエ
 1月11日にオタウエを行う。広瀬家では田をやらなくなってからやめた。
 オタウエは、一升枡に大きなお供え餅を入れたものを神棚に供えた後行う。まず、あらかじめクワで作ったウネに米粒と餅を撒く。次に、クワで地面をサクり、田を返す真似をする。そこに稲の苗に見立てた青い松の枝を、恵方を向いて3通りほど植え、寝かすような真似をし、水に見立てたお神酒を撒く。そしてなった後、最後に植えたところをならす。ウネは恵方へ向けて作る。苗に見立てる枝は、前年に伸びた部分を伐ってきて使用した。

... 道祖神祭り
 道祖神祭りは一時途絶えていたが、近年、祭りのうちドンドヤキ(オコヤ)が復活した。
 道祖神の小屋は、以前は1月11日に作っていたが、生業の変化により、11日に近い土日を選んで行うようになった。ちなみに2006年は1月8日に行われ、広瀬家がオベットウヤの当番に当たっていた。
 道祖神祭りはドウソジンバを中心として行われる。ここにヒノキとスギで「オコヤ」を作り、竹竿にオコンブクロ(お金袋)と、紙を切り刻んだ飾りを下げた(写真2)。「オコンブクロ」は四角い銭入れ、あるいは三角形の巾着で、紙や布を切って作る。これにはお金が貯まるようにという願いがある。しかし、現在はオコンブクロを作る作業は省略されている。紙を刻む御幣は、手先の器用な人が毎年作る。いくつかの種類があり、御神体としてコヤの中に設置されるもの、同じくコヤの中に飾られる赤いもの(写真3)、小屋の棟に挿す赤い三角形のものの他、オベットウヤの若い当主がお祓いをする際に使用するひときわ大きなものもある。
 「オベットウヤ」に当たると、若い当主がドウソジンサンの前でお祓いをした後、各家をお祓いして廻る。その後ろを子供たちが「カゴウマ(籠馬)」を持ちながら廻る。その後、宴会を行う。以前はオベットウヤの家で行っていたが、現在は集会所を使っている。
 1月13日、米の粉でマユダンゴを作る。昔のマユは国産で、真ん中がくぼんだ形であったので、マユダンゴもヒョウタンのような形であった。お飾りなので通常は着色しないが、赤い色をつけた時期もあった。マユの他、豊作を願ってカボチャ、ナス、キュウリなどの農作物、俵を3つ重ねたもの、札束などを作り、「オカイコをたくさん採れるように」「オダイジンになれるように」願った。マユダンゴはミカンやコロガキ(干し柿)などとともに、肌のきれいなリョウブの枝にさす。枝の長さは障子1間(6尺)ほどで、イドコに設置してあるカイコの「カゴダン(籠段)」に、美しく見えるよう横向きに挿して飾った。また、ほんの一握り(7つほど)のダンゴを小ぶりの枝にさし、神棚とオコウジンサンへ上げた。
 1月14日の夕方、ドンドヤキを行う。この日オコヤを焼き、その火で各自が持ち寄ったマユダンゴを焼いて食べる。ダンゴが黒くなれば虫歯にならないといわれていた。現在は書き初めやお札なども一緒に燃やす。翌朝、できた灰を皆がもらう。
 マユダンゴの飾りは現在ではやらなくなり、ドンドヤキへ持っていって食べる分だけ作っている。

... オヤマコロバシ
 1月20日に道祖神のオヤマ(オコンブクロ)を「コロバス」。コロバシた後、オコンブクロをくじ引きで分けた。
 マユダンゴもこの日、棚とともに取り外した。外したものは煮たり焼いたりして食べたが、量がたくさんあるので1日では食べきれなかったという。

... 節分
 節分は現在も行っている。イワシの頭と尻尾を焼いてヒイラギの枝に付けたものを、入口(玄関)の軒先へ挿す。イワシの頭と尻尾を焼く際には、「あぶらむしの退治だ」と言う。また、庭先の木にザル(イモなどを洗うときに使用する目籠)を掛ける。これはザルを鬼の目にたとえたものだという。
 夕方になると豆撒きを行う。以前は自宅で採れた豆をホウロクを使って茶色くなるまで炒ったが、現在は市販の豆を使用する。豆を撒くときは「鬼は外、福は内」と言い、外のザルをめがけて撒いたり、ナンドやナヤに撒いたりした。豆は年の数だけ食べる。

... 初午
 ヤシキガミサンの祭りを旧暦の初午の日に行う。現在は、保氏が作った5間ほどの幟を1本立てている。昔は、赤や白の晒に「大明神」などと書いた6尺の幟を10本ほど立て、コワメシ(赤飯)を炊いて供えた。この幟は100年ほど前のものなので、「切れちもうからあげん」と言って、しまってある。この日には子供に色紙を渡して書かせたりした。
 初午の日は広瀬家に限らず、方々の家で、幟を立てたり色織の旗を奉納したりして祝った。

... オヒガンサン
 春のオヒガンサンにはボタモチを作る。ボタモチに使用する小豆は、以前は自家製であった。春のオヒガンサンはボタモチであるが、秋のオヒガンサンはオハギと呼ぶ。彼岸中に墓参りに行く。やることは春も秋も同じだった。

... 弘法さんの祭り
 3月23日、春の彼岸の中日は弘法さん(上小田原横手)の祭りである。遊びに行ったことはあるが、祭りに関わったことはない。中新居の集落が熱心で、終戦後あたりが一番にぎやかだった。昔はこのお堂にお坊さんのような人がいた。

... 神部神社の祭り
 現在は3月30日に行っているが、昔は別の日だった。役員は集落内の家が持ち回りで行い、一生に一度くらい当番になった。

... ひな祭り
 ひな祭りは4月3日に行う。白酒、コワメシを家で作った。

... 5月節句
 お節句の日はみんなに来てもらい、一杯出す。オカシワ(柏餅)を作り、神棚と仏壇に供える。チマキは昔から作る習慣がなかった。また、菖蒲を軒に挿した。これは夏の息災を祈るものである。菖蒲は風呂にも入れ、菖蒲湯とした。

... 農作業の休み
 昭和10から20年ころ、農協が音頭を取って、大麦小麦の刈り入れ作業が終わった後に2日ほど休みを設けていた。久しぶりに雨が降った後などに休みを設けるということは、広瀬家の周辺地域では行っていなかったという。

... タナバタ
 祖父などを中心に、願い事を書いた色紙を青竹に吊るした。この笹飾りを「タナバタ」といった。この日の食事は特別なものはなかったという。タナバタは後日倒し、田へ立てた。

... 盆
 上萩原は7月に盆行事を行う。盆のあいだは、就職などでよそに出ている人たちも皆帰ってきた。
 13日は迎え盆である。盆棚は特に作らない。ナスとキュウリで牛と馬を作って仏壇に置く。背中には蕎麦を乗せる。新盆の年には盆提灯も飾る。この日、夕方に迎え盆の火を焚く。
 16日は送り盆である。夕方線香を上げ、火を焚いてナスとキュウリの牛馬を川へ流す。迎え盆と送り盆の火は、ツカイガワのそばで焚くのがこの地域の通例である。
 盆期間中には墓掃除を行い、線香を上げる。このほか、餅を1升(京枡3升分)ほど搗き、伸し餅にして人にあげたり、自分たちで食べたりする。食べるときには蜜をつけたりする。広瀬家では現在でも餅を搗いている。
 親戚や近所で不幸のあった家があれば、14日に線香を上げに行く。これには特別通知が来るわけではなく、思い思いに訪問する。

... オハッサク
 8月1日はオハッサクであった。現在はやっていないが、昔は雲峰寺(上萩原)の祭りがあり、皆で赤飯を炊いて祝った。頼正氏も若いころはこの日を楽しみにし、馬にきらびやかな飾りを付けて祭りに連れて行った。寺では毎年この日、武田勝頼の遺した旗類を見せていた。

... 冬至
 冬至には、「元気にいるようにカボチャ食べんきゃ」といって、カボチャを食べる。

.8 人生儀礼
..(1)婚礼
 狭い範囲での縁組が多かったが、相手もよく分かっているという利点もあった。今の時代では近親は良くないというが、昔はあまりそういったことは考えなかった。2代続けて嫁に行ったという話もある。
 仲人の世話による見合いや両家の親が決めるもののほか、昔でも恋愛による結婚もあった。
 式を挙げる場所は、嫁をもらうときは婿の家、婿をもらうときは嫁の家であった。保氏も家でとりおこなった。しかし昭和40年ころから、マチにある結婚式場、あるいは旅館などの施設で行うようになった。
 花嫁は留袖と角隠しを、花婿は紋付袴を着用した。式自体は一昼夜で済んだ。

..(2)産育
... 出産まで
 子供ができるよう、あるいは安産になるよう、オコヤスサン(勝沼町休息 立正寺子安地蔵)へ願掛けに行った。また最近では、昇仙峡の金櫻神社(甲府市御岳町)へ行く。
 腹帯は実家から贈られ、実家で締めた。

... 出産
 頼正氏のころは、農家は仕事が忙しいので、実家に行って出産するということは聞かなかった。
 お産はナカナンドで行った。しかし、ナカナンドに年寄りがいる場合もあったので、どの部屋で産むか決まりがあるわけではなかった。部屋には蚊帳を吊り、ムラに1人いたオサンバサンに来てもらった。頼正氏は急いでオサンバサンを呼びに行かされ、連れてきたなりゆきで蚊帳の中に入ってオサンバサンに怒られた記憶があるという。
 井戸がなく、生活には湧き水を使っていた。そのためか、産湯には特にどの水を使うといったしきたりはなかった。

... 初節句
 初節句の前に、女子の場合は「オデクサン(雛人形)」や掛軸のオヒナサンなどを親戚が贈ってくる。お内裏さま、お雛さまを贈ってくるのは嫁の実家である。お返しには5色の色をつけた菱餅を配った。なお、女子の場合は初節句にお宮参りに行った。そのときの着物が残っている。
 男子の初節句には幟などを贈ってくる。保氏は紙製の鯉幟をもらった。この鯉幟は大きく、外に飾ったという。頼正氏のときは武者人形と、武田信玄の川中島合戦を描いた武者幟をもらった。5月節句のときは特別決まったお返しはなかった。
 節句の日には実家、叔父、叔母あたりまでの親戚が来てお祝いをした。

..(3)成人・厄年
... 成人
 頼正氏の世代に最初の成人式が行われた。保氏のころには、20歳になって改めて集まるといった儀式的なことはなかった。20歳で徴兵検査があり、それに合わせて羽織袴をつくることが大人になる節目であり、お祝いといえるものであった。
 組の青年に仲間入りする行事も特になかった。

... 厄年
 42歳の前厄の年には、男女ともヤクジゾウサン(甲府市湯村 塩澤寺厄除地蔵尊)へ行った。出かけるのは2月13日の17時からが通例で、14日の午前中まで「耳ひらく」、すなわち願いを聞き入れてくれるという言い伝えがある。参拝するときはお供えとして米の団子を持って行く。保氏のころは俵につめて外に出すほどたくさん供えられたというが、頼正氏の時代には実際に持ってゆく人は少なかったという。以前は賑やかで、石段が人でいっぱいになり警官まで出たが、最近は参拝客が減ってきている。
 本厄の年にはお参りなどは行かなかった。
 厄が明けると、ヤクジゾウサンへお供えとして団子を持ってお参りに行った。

... 百歳
 保氏は100歳になった際、氏神に幟を寄進した。

..(4)葬儀
... 葬儀
 葬儀は自宅で祭壇を作って行う。寺や集会所で行うことは少ない。
 葬儀には3日間かかった。3日目は後片付けと初七日で、手伝いにも3日間行った。近ごろは初七日を当日に繰り上げ、2日で終わらせるようになっている。
 かつては「ハナカゴ(花籠)」というお金をまく習慣があった。塔婆を組んで回るということをするが、最近は行われない。
 「ノガエリ(野帰り)」といって、無尽の人たちも葬儀の座敷についた。葬儀の見舞いに来る人の3分の2ぐらい、200人から300人くらいには座敷に上がってもらい、ふるまいをした。男性は「葬式に大勢寄ってもらうのが勲章」のようなところがある。

... 埋葬
 明治20年(1887)までは屋敷内に墓地があった。それ以後は屋敷内に墓を置かなくなり、この地域に寺院がなかったため、共同墓地をつくった。共同墓地以前の墓は、ほとんどそのまま屋敷に残っている。
 土葬が約2割残っている(96年時点)。「カロウトウ(骨を納めるところ)」式になっていない家は土葬である。
 土葬で埋葬するときには、4人で天井の高さくらいの穴を掘る。ここの墓地は石のない赤土なのでそのくらい深く掘ることが可能だった。この穴を掘る人は、亡くなった人と別の班から出した。

... 法事
 法事は30回忌までやったら立派な方で、そこまで行われることはなかなかない。

.9 信仰
..(1)家の神
... 神棚
 神棚は、元はイドコにあった。養蚕のため改築した際、天井が低くなったため、これをダイドコへ移した。
 お宮の中央には天照皇太神宮、右には氏神の松田山神社(上萩原)、左には瀧本院(中萩原)の護符を納めた。このほか、さまざまな代参でもらってきた護符を納めていた。
 供え物は常時おこなっていた。

... オコウジンサン
 お勝手の大黒柱に板を打ち付けて、オコウジンサンの棚が設けてあった。この棚に台を置き、オコウジンサンの御幣をさして立てておく。台はワラを3箇所で束ねたもので、細い枝を2本ほど刺し、ひっくり返らないようにしてある。御幣は1本の家と3本の家があるが、広瀬家では1本だった。
 棚の前には「火の用心」の「マエダレ(マエカケ)」を貼り付けた。マエダレは瀧本院に行って作ってもらい、お札とともにもらってきた。他にもマエダレを切ってもらえる所はあったが、ここだけになってしまった。

... ヤシキガミサン
 庭の奥のヒノキのところに、ヤシキガミサンと呼んでいる赤い祠がある。かつては2つ並んでいたが、1つは腐ってしまい、今は1つだけが残っている。祠には札が入っており、1つは正ノ木稲荷(甲府市太田町 稲積神社)からわけてもらったもの、もう1つは普通の稲荷のものである。
 初午にコワメシを炊いて供える以外、ヤシキガミサンに供え物などはしない。

... オスイジンサン
 ヤシキガミサンとは別にオスイジンサンを祀っていた。お宮やご神体は特に無いが、正月にはいつも水を使う場所に餅を供えた。具体的には、ヤシキガミサンの傍にある湧き水のところと、家を出て石橋を渡ったところのツカイガワのほとりである。

... 仏壇
 仏壇はザシキに置いていた。ナカナンドのザシキ寄りに置き、襖を開けるとザシキ側から拝めるようにしていた時代もあった。真宗では床の間の近くに置くことが多かった。
 仏壇の本尊は阿弥陀如来である。家が木造ということもあり、普段の日はお灯明を上げたりしなかった。

... 護符
 主屋を解体したとき、3階の隅の棟木に、ムシロを丸めて結わえ付けたものが見つかった。その中に、古いお札が「ぶったまげるくらい」たくさん入っていた。その多くは同じ札で、代参講でもらったもののようだった。
 かつては御師がよく泊まっていた。お札を配るよりも、連絡やつながりを保つのが主な目的だったようである。
 お札は、現在はドンドヤキで燃やしてしまう。ヤクジゾウサン(塩澤寺厄除地蔵尊)に持っていって預かってもらうこともある。

... 御幣
 道祖神祭りのほか、ヤシキガミサンなどにも御幣を使用する。他に供える御幣も色が違うだけである。正月の前にこれを付け替えて新しい年を迎える。
 保氏の祖父は若いころ、御幣を切ってムラの人びとにあげていた。御幣の模様は切る人によって異なる。大藤にも切る人がいたが、現在では瀧本院に頼んで切ってもらっている。

..(2)寺と神社
... 旦那寺
 広瀬家は浄土真宗(西)で、檀那寺は瀧見山法正寺である。この寺は信長に焼き払われた後、昭和になり保氏の父が総代をしていたときにも焼けてしまったので、古い過去帳は残っていない。

... 氏神
 上萩原・中萩原・下萩原・上小田原の氏神が神部〈かんべ〉神社(上萩原)である。延喜式内社であり、県内20社のうちの1社である。広瀬家では七五三やお宮参りなどの際、この神社に参拝する。
 金井加里神社(下小田原金剛銭)は、明治8年(1875)に上萩原村、上小田原村と合併した旧下小田原村の氏神である。合併した際、互いの氏神の頭文字を取って村の名前を「神金」村とした。
 また、広い地域で祀られる神部神社に対し、上萩原の氏神として松田山神社(上萩原)がある。総代は輪番制で、現在、頼正氏が氏子総代を務めている。

..(3)講
... 伊勢講
 「伊勢のダイジンサン」の代参があった。お金を集めて順番に伊勢に行くもので、経済的に余裕がないと参加できず、このムラでは広瀬家だけが参加していた。ただし、保氏が覚えている限りでは、すでに伊勢に行くことはしていなかった。
 行事としてやっていたのは、大きなオヒマチである。当番の家に集まり、いろいろ買ってきてご馳走を食べた。当番は順番にまわしていた。
 オイセサン(天照皇太神宮)の札は、12月になると近所の総代さんが持ってきた。

... 富士講
 保氏の祖父は信仰の篤い人で、富士講で何度も富士山に行っていた。今もそのときの金剛杖が残っている。
 富士講では登拝の際に富士山登山口の御師の家に泊まる。逆に、その御師が広瀬家に泊まりにくることもあった。保氏は御師が来たのを1回だけ覚えているという。なお、時期は正月ではなかった。

... 榛名講
 かつて榛名山神社の収穫感謝祭が行われていた。榛名講の行事である。最後に行われたのは昭和20年代で、場所はドウソジンバだった。注連飾りをし、榛名山神社の掛軸を掛け、組境に青竹で作った注連縄を張る。神前には神酒を上げ、秋の野菜で作った煮物で祝ったという。

... その他の代参講
 このほか塩山の秋葉さん(上於曽 向嶽寺)、オスイジンサン(神奈川県伊勢原市 大山阿夫利神社)、三峰山(埼玉県秩父市)、御嶽山などの代参講があった。神社に行くとお札をもらってきた。
 保氏は代参で成田山(千葉県成田市)にも行ったことがあった。その際は、成田山近くの親戚の家に泊まった。

... 百万遍(念仏講)
 毎月16日にお堂で鉦〈しょう〉を鳴らし、念仏を唱えた。この百万遍は、保氏の祖父がはじめにお経を上げないと始まらなかった。百万遍では団子をもらった。
 百万遍に使用した鉦は、文字が書かれていないものは戦時中に供出してしまった。残った鉦には、この地域出身の木喰白道の名が刻んである。

..(4)その他
... 石造物
 庭の松の木の下に男根型の石がある。これを「ドウソジン」と呼んでいる。
 ムラの道祖神に向き合う屋敷の一角には、六十六部の廻国供養塔がある。文久3年(1863)のもので、これには「広瀬文右衛門」の名が刻まれている。なお、民家園に寄贈された六地蔵はこの供養塔のそばにあったものである。

... オマジナイ
 保氏が子供のころ、何かあると「おじいさんとこ行ってオマジナイしてもらいなさい」と言われた。そうすると祖父がオマジナイのようなことを言って、「これでよくなるぞ」と言った。祖父はオマジナイの文句を自分で書き記したようなものを持っていた。
 この祖父はうちでもお経を読んでいたほか、オテラサン(法正寺)と一緒に、同じ寺の檀家5軒に行ってお経を読んでいた。特別な祭壇などはなく、仏壇の前でやるだけだった。また正月になると、近所に頼まれてお勝手のオコウジンサンに祈っていた。

.10 その他
... 出征
 保氏は大正14年(1925)徴兵検査で甲種合格、同年12月から2年間、朝鮮で軍隊生活を送った。大正天皇の大喪もあり、1年を過ぎると最古参の上等兵として下士官と同様に勤務した。営兵司令として勤務した夜に事件があり、これに対応した功績により連隊長から褒賞された。上等兵が褒賞された例は、当時なかったという。このとき規定により1週間の休暇があったが、帰ることはできず、初年兵の教育助手、つづいて上等兵候補者の教育助手等を務めた。
 除隊後は青年学校の軍事教練主任指導員を12年務めた。その間、軍人分会長も3期務め、天皇の御親閲も受けた。昭和5年(1930)には特別大演習で仕官した。このときの紀念品は、現在も大切に保管しているという。
 昭和16年(1941)に再度召集され、会津若松の連隊に入った。2個連隊編成で現在の北朝鮮の部隊に入り、人事係として事務室に勤務した。この後、病のため内地送還となり、陸軍病院浜松分院に入院、退院と同時に召集解除となった。

... 銃後
 太平洋戦争が始まると会合が非常に多くなり、農作業を行う時間が少なくなった。そのため、畑には草が生えるという状況になってしまった。金属の供出には広瀬家も協力した。保氏の父は、仏壇にあった蝋燭立てなどの真鍮の仏具をすべて供出したという。
 保氏が召集されたとき、残された家族は「女子供だけで養蚕は大変だ」と大騒ぎになった。保氏が昭和16年(1941)に出征した際には、旗に寄せ書きを書いてもらった。そのとき、当時90歳の保氏の祖母に「書くか」と聞いたら、「硯と墨を持ってこい」と言われたのを覚えている。
 大きな働き手である保氏を取られたことは生業にも影響を与えた。養蚕は重労働であり、残された年寄りだけでは続行が不可能であった。保氏の妻はそのことを嘆いていたという。
 空襲のときは、近くの集落にも焼夷弾が10か20ほど投下され、頼正氏は近隣の人たちとあわてて逃げた。集落の共同墓地あたりからは甲府盆地が一望できるのだが、このときは盆地が真っ赤に見え、灰がたくさん飛んできたという。

.注
 1 萩原山の猪子沢の妙見菩薩の祠付近に水源があり、飲むと万病が治るといわれていた。(『塩山市史民俗調査報告書 神金の民俗』p.12)
 2 スズタケは行李の材料となった。塩山市街の行李製造所に卸されたほか、名古屋方面の行李業者にも送られた。塩山には昭和36、7年ごろまで行李製造所が20軒ほどあったという。(『塩山市史民俗調査報告書 神金の民俗』p.7、62)
 3 御影石(花崗岩)は神金の特産品であった。(『塩山市史民俗調査報告書 神金の民俗』p.2)

.参考文献
 塩山市史編さん委員会    1993『塩山市史民俗調査報告書 神金の民俗』塩山市
 塩山市史編さん委員会    1995『塩山市史 史料編』第2巻 塩山市
 川崎市           1971『旧広瀬家住宅移築修理工事報告書』川崎市
 山梨県           2003『山梨県史 民俗編』山梨県
 山梨県教育委員会学術文化課 1995『村明細帳 山梨郡編』山梨県

.図版キャプション
 写真1 移築前の広瀬家住宅(昭和44年)
 写真2、3 道祖神祭りの御幣
 図1 移築前の間取り
 図2 民家園に復原された建築当初の間取り
 図3 ショイコ
 図4 ドングルマ
 図5 ゴロカン

 

(『日本民家園収蔵品目録6 旧広瀬家住宅』2006 所収)