神奈川県川崎市多摩区生田 棟持柱の木小屋民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が神奈川県川崎市多摩区生田(いくた)の松澤家が所持していた「棟持柱の木小屋(むなもちばしらのきごや)」について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成25年(2013)年3月19日と6月25日に行った。聞き取りに当たったのは畑山拓登・小澤葉菜、お話を聞かせていただいた方は次の通りである。
  松澤節子さん (移築時当主のご長男の妻)  昭和11(1936)年生まれ
 このほか、直接お話をうかがうことはできなかったが、本文中にお名前の出てくる方を記しておく。
  松澤薫さん  (移築時の当主)       平成8(1996)年没
  松澤ミヨさん (移築時当主の妻)      昭和61(1986)年没
  松澤忠さん  (移築時当主の長男)     平成13(2001)年没
 なお、聞き取りの他、移築前に撮影された記録写真も補助資料として活用した。
3 現地の言葉・言い回しについては、片仮名表記またはかっこ書きにするなど、できる限り記録することに努めた。
 片仮名表記としたのは、次のうち聞き取り調査で聞くことのできた語句である。
  建築に関する用語(部屋・付属屋・工法・部材・材料等の名称)
  民俗に関する用語(民具・行事習慣等の名称)
4 図版の出所等は次の通りである。
  1     佐塚・畑山作成。
  2,3    平成25(2013)年3月19日、畑山撮影。
  4,6,7   平成5(1993)年、大野敏撮影。
  5,8,9   平成5(1993)年11月27日、移築工事に伴い当園撮影。
  10~12  小澤作成。
  13~16  平成25(2013)年3月19日、小澤撮影。
  17    平成25(2013)年6月25日、畑山撮影。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、そのままとした。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現も含まれていることがある。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに  
 「棟持柱の木小屋(むなもちばしらのきごや)」は、神奈川県川崎市多摩区生田より移築された。平成5(1993)年解体、平成6(1994)年に復原されている。
 今回、お話を聞かせていただいた松澤節子さんは、移築時の当主・故松澤薫(かおる)さんのご長男・故忠(ただし)さんの奥様である。節子さんが松澤家に嫁いだのは昭和35(1960)年であり、したがってこの報告は、時代的には昭和35年から木小屋を解体した平成5(1993)年までのことが中心である。

.1 棟持柱の木小屋
... 移築の経緯 
 昭和58(1983)年ごろ、裏の物置を解体し、主屋を後方に移動した上で改築した。この際、風呂をガス風呂に替えたため、燃料にしていたマキが不要になった他、木小屋自体が傾いていたこともあり、解体することにした。しかし、ちょうどそのころ関口欣也氏(※)が訪ねてきて、「この木小屋は今ちょっとないよ。今度民家園に聞いてもしよければ持っていく」と言われ、移築することになった。
※関口欣也氏 工学博士。横浜国立大学名誉教授。松澤家の親戚に当たる。

... 呼称と位置
 木小屋のことを「キゴヤ」と呼んでいた。建っていた場所は主屋の裏手で、炊事場から外へ出る裏口の正面にあった。

... 建築 
 部材に使用しているのは杉やヒノキである。松澤家の持ち山から伐採し、材木屋に頼んで製材してもらった。小屋を建てる作業は薫さんが一人で行ったのか、職人に頼んだのか、はっきりしたことは不明である。
 屋根はトタン葺きだった。一番大変だったのは雨漏り対策であり、トタンが錆びて雨漏りしはじめると、トタン板を取り替えるのではなく、上に別のトタン板を重ねることで漏水を防いでいた。トタン板の下には、トタン葺きに替える前の杉皮が少し残っていたかもしれないとのことだが、はっきりしたことは不明である。おそらく杉皮が駄目になったため、トタン板に替えたものと思われる。
 柱の根元が腐って木小屋が傾いたときはつっかえ棒で支えていた。修理は薫さんが自分たちで行い、大工を呼ぶことはなかった。

... 内部
 木小屋内部は2つの部屋に分かれていた。
 正面向かって右、広い方の部屋にはよく使用するものを置いていた。入口付近には落ち葉用の大きな背負いかごと、マキの運搬に使う「ショイタ」と呼ばれる道具が置いてあった。その奥には落葉が積んであった他、秋には麦わらと稲わらも置いていた。木の枝やマキが積んであったのは、その向こう、一番奥だった。
 向かって左、狭い方の部屋には農業で使うさまざまな道具や丸太などを置いていた。この場所には置くものがあればなんでも置いていた。なお、関口欣也氏の移築時の記録手帳に、この狭い方の部屋に一時漬物を置いていたことが記されている。節子さんによれば、松澤家に嫁いでから木小屋に漬物を置いた記憶はないが、タクアンをたくさん作っていた時代に置いた可能性があるとのことである。
 木小屋に電気は引いておらず、中は暗かった。主屋の近くであっても夜は恐ろしく、「風呂がぬるい」と言われたときや雨の日のために、主屋のオオガマの脇にはいつも予備のマキを置いていた。
 なお、木小屋の中に神棚などはなかった。

... マキと落ち葉
 フロやカマド、囲炉裏にマキを使っていた。フロを焚くときに足りなくなると困るため、残り少なくなると、節子さんは薫さんたちに取ってくるよう頼んだ。マキは多ければ多いほど安心したという。
 マキにしたのはクヌギなどの木で、木が葉を落とした時分に切って作った。こうしたマキの他、枝や落ち葉などはリヤカーやウシグルマ(牛に引かせる台車)で自分の山から運んだ。運搬は薫さんと忠さんの役目だったが、落ち葉を掃く作業は節子さんも手伝った。
 落葉や麦わらは、肥やしにする場合は雨に濡れても大丈夫だが、燃料として使う場合は乾燥させなければならなかった。そのため、集めたらすぐに木小屋へ運び込んだ。ご飯を炊くのに麦わらや稲わらを使うとふっくらおいしく出来上がった。しかし、すぐ燃え尽きるため火のそばに付いていなければならず、忙しかったという。
 木小屋の整理や清掃は女性の役目だった。子どもに手伝わせることもたまにはあったが、火は危ないため、マキの管理は基本的に大人が行っていた。

... その他
 木小屋には野良猫やタヌキなどがいることが多く、猫は中でよく子供を産んだ。こうした動物が出てくるとびっくりしたという。
 節子さんのお子さんやお孫さんたちは、友達を連れてきて裏庭でかくれんぼしたり、走り回ったりしてよく遊んだ。そんなとき木小屋に入って遊んでいると、薫さんが叱りつけた。「よくおじいちゃんに怒鳴られたなあ」と、息子さんたちは今でも言っているという。
 木小屋の周りには3本の柿の木(禅寺丸)があった。

.2 衣食住
..(1)住
... 主屋
 松澤家には明治10(1877)年の普請帳が残っている。これによれば、主屋を手掛けた大工は川崎市麻生区細山の箕輪氏である。屋根は茅葺きで、元は「タノジ」と呼ばれる四つ間取りの四角い家だった。
 その後、大きな改築を2度行った。1度目は昭和58(1983)年ごろである。前にある道路をかさ上げした結果、家の敷地の方が低くなり、雨水が流れ込むようになった。この地域では滅多に大水は発生しなかったが、それでも雨が降ると庭が水に漬かるくらいになったため、土台を全て上げ、道路に対し後ろ側に主屋を移動することにした。このとき土間を無くし、半分は玄関にして、もう半分には床板を張った。2度目の改築は平成7(1994)年か8(1995)年ごろである。このときは全面的に改築を行った。しかし、依頼した宮大工はただ壊すのを惜しみ、古い部材をそのまま使ってくれた。昔はいろりを使用していたため木の表面は煤で真っ黒だったが、磨くときれいになり、今も昔のまま残っている。なお、養蚕を行っていた家なので天井が高く、この改築のときその部分に二階を作った。

... ゲンカン
 入口の大きな引戸を開けると中は土間になっていた。この場所を「ゲンカン」といった。
 土間には地面を掘り下げて囲炉裏(地炉)が切ってあり、上から鉄瓶などをつるしていた。客が来たときにはここでお茶を出していた。

... オカッテ
 ゲンカンの奥に続く土間部分を「オカッテ」といった。ゲンカンとオカッテの間は引戸で仕切られていた。
 オカッテには小さいカマドとオオガマ、そしてナガシがあった。調理の場であるとともに食事の場でもあり、土間に直接テーブルを置いて食事をしていた。

... ナヤ
 ゲンカンの右手にあった部屋を「ナヤ」といった。中は土間で、小判型をした木製の風呂桶が置いてあった。土間のため、風呂に入るときは履物を履いていった。マキを取りに行くには、一度ナヤから出て、外をまわって木小屋まで行かなければならなかったので大変だった。
 なお、中の空いている場所には「ガラクタモノ」が置いてあった。このナヤは昭和58(1983)年ごろの主屋の改築時に解体した。

... ミソベヤ
 ナヤの奥に「ミソベヤ」があり、みそやしょうゆ、漬物を置いていた。みそは自分たちだけで作っていたが、しょうゆは搾るときにしょうゆ屋に来てもらった。
 この部屋の入口は裏庭側1カ所しかなかったため、出入りするには一度外に出なければならなかった。裏庭に面していたため、とても涼しかったという。このミソベヤは昭和58(1983)年ごろの主屋の改築時に解体した。

... エンガワ
 縁側を「エンガワ」といった。元は主屋の正面側にのみあったが、昭和58(1983)年ごろ主屋を改築した際に、家の周囲を囲むようにエンガワを付けた。こうしたエンガワを「マワリエン」といった。

... モノオキ
 主屋の裏、木小屋の右隣にあった平屋の小屋を「モノオキ」といった。木小屋の2倍以上の広さがあり、中に農具を置いていた。
 このモノオキは昭和58(1983)年ごろ主屋を移動したときに解体した。

... ブタゴヤ
 主屋の隣に別棟でブタゴヤがあった(62頁参照)。ブタの飼育に使った他、農具なども置いていた。

... 井戸
 主屋の前に井戸があった。この地域の水は赤錆が出たが、飲み水や植木の水として使っていた。くみ上げに使っていたのは手押しポンプである。このポンプが故障した後モーターポンプに取り替えたが、それも故障したため井戸水の使用をやめた。

... 山
 松澤家ではいくつかの山を所有していた。杉やクヌギ、ヒノキ、松などの木の他、竹がたくさん生えていた。太くて良いものが多かったため、昭和40(1965)年ごろ、節子さんの実家(川崎市多摩区東百合丘)で家を建て直すときこれらの木を使うことになり、向ヶ丘遊園にある材木屋に頼んで伐採し、柱に加工してもらった。

..(2)食
 この地域では畑の隅にチャノキを植えており、松澤家でも昭和36(1961)年ごろまでお茶作りをしていた。家族全員で茶葉を摘んだあと、モノオキの庇の下に置いてあったホイロを使い、薫さんとミヨさんがお茶を作っていた。

.3 生業
..(1)稲作・畑作  
 松澤家は農業を生業としてきた。昭和36(1961)年ごろは田も畑もあり、米の他、麦、野菜、ナシなどを作っていた。当時は稲作と畑作だけで生活していたため大変だった。昭和40年代後半になると、次第に田を埋め、畑やビニールハウスにしていった。あるとき、田に竹を立てて刈り入れた稲を干しておいたところ、いたずらで火をつけられ、燃やされてしまった。その後、こんなところに田んぼを作っても仕方がないということになり、畑にしたということもあった。
 木小屋の裏の山には4段に分かれた田んぼがあり、昭和41(1966)年ごろまで稲作を行っていた。田を埋めた後、一番上の段にはビニールハウスを建て、トマトやキュウリを育てていた。一番下の段は沼のようになっており、ハス田にしていた。
 田に引いていたのは山の湧き水である。木小屋の前とオイナリサンの前にこの水の通る水路があったが、昭和58(1983)年ごろ主屋を移動した際に水路も「いけた(埋けた)」。裏山にマンションが建ってから湧き水の水量が目に見えて減ったが、現在も少しだけ湧いており、昔と変わらずクレソンやセリが生えている。

..(2)畜産
 昭和46(1971)年ぐらいまでブタを飼育し、子ブタを出荷していた。

..(3)養蚕
 松澤家では養蚕を行っていた。そのため、主屋の天井も高くなっていた。養蚕をやめたのは、昭和36(1961)年より前の話である。

.4 交通交易
 昭和36(1961)年ごろは、家の前の道はまだ舗装されておらず、砂利の「がたがた道」だった。それでも交通量は多かったため、車が巻き上げたほこりで夕方になると縁側は真っ白になっていた。

.5 年中行事
... 節分
 節分の日は、出入口の柱にヒイラギとイワシの頭を必ずくくりつける。木小屋の入口も同様である。この飾りは1年間そのままにしておき、翌年の節分に取り替える。飾ったままにするため、イワシの頭は野良猫が食べてしまった。

... 盆
 お盆は現在も8月の旧盆である。松澤家では、現在は盆棚専用の四角い台座を作って使用しているが、かつてはタルの上に板を置き、ゴザを敷いて盆棚とした。棚の四隅には刈ってきた細いシノ(篠竹)を立て、この4本のシノの上の方にわら縄を張った。この縄には、家にあった小さな掛け軸をたくさん掛けていたが、現在はボロボロになっているため状態の良いものだけを吊るしている。

.6 信仰
..(1)寺
 松澤家の菩提寺は観音寺(川崎市多摩区生田、真言宗豊山派)である。

..(2)神社
 松澤家の氏神は五反田神社(川崎市多摩区三田)である。

..(3)講
... オイナリサン
 主屋の裏にオイナリサン(小さな石祠とキツネの石像1対)がある。毎年、初午の日には果物と米を供え、観音寺の住職を呼んでお経をあげてもらう。その後、住職も招いて食事をし、供えた果物を全員で分ける。米の方はお布施として全て住職に渡した。もともとは近所の4軒で毎年「シュク(宿)」を交代して行っていたが、その後2軒が抜け、現在は松澤家ともう1軒とで行っている。

... 武蔵御嶽神社
 毎年、講の代表が武蔵御嶽神社(東京都青梅市)から大口真神(おおぐちまがみ)の御札をもらってきて各家に配布している。節子さんが嫁いできた昭和35(1960)年にはすでに行われており、薫さんの父親の代以前から行っていたようである。
 御札は主屋の裏にあったモノオキの入口に貼っていた。古い御札の上に新しい御札を重ねて貼っていくが、剥がれてしまうともったいないため、何年ごとという決まりはないが、ある程度の厚さになると御焚き上げを行った。
 関口欣也氏宅(川崎市多摩区生田)の山の上に、元は武蔵御嶽神社の分社があった。欣也氏の祖父が亡くなったとき土地を市に寄付したため、参拝者が減ることを案じて五反田神社(川崎市多摩区三田)の隣に遷座した。その後、参拝者が増え、最近は若い人も講に加入している。

 

 (『日本民家園収蔵品目録21 旧佐地家門・供待、水車小屋、沖永良部の高倉、棟持柱の木小屋』2016 所収)