福島県福島市松川町本町 鈴木家民俗調査報告


.凡例
1 この調査報告は、日本民家園が福島県福島市松川町本町の鈴木家について行った聞き取り調査の記録である。
2 調査は本書の編集に合わせ、平成21年(2009)7月14日・15日の2日に分けて行った。聞き取りに当たったのは渋谷卓男、お話を聞かせていただいた方々はつぎのとおりである。
  鈴木長太郎さん  11代目当主 昭和24年(1949)生まれ
  鈴木シゲさん   10代当主夫人 昭和3年(1928)生まれ
           福島市杉妻町より昭和22年(1947)に嫁ぐ
  鈴木和二さん   前当主長左衛門さんの弟 昭和8年(1933)生まれ
 このほか、直接お話を伺ったわけではないが、話の中に登場した方々の生没年を上げておく。
  鈴木長左衛門さん 10代当主 大正8年(1919)生まれ 平成14年(2002)没
  鈴木長吉さん   9代当主 明治31年(1898)生まれ 昭和50年(1975)没
  鈴木カネさん   9代当主夫人 明治27年生(1894)まれ 昭和53年(1978)没
3 鈴木家の聞き取り調査としては、このほか昭和46年(1971)9月24日に関口欣也博士(当時横浜国立大学助教授、現名誉教授)と関一(当時当園技術職員、故人)によって行われたものがある。この調査は移築工事に伴うもので、『旧鈴木家住宅(赤浦屋)移築修理工事報告書』(昭和47年)に収録されている。しかしながら、馬宿時代を知る方が現在残っていないこと、先の工事報告書が現在入手不可能なことから、博士の承諾を得て、聞き取りの一部を資料として転載することにした。転載にあたっては、明らかな間違いを除き、表記はすべて原文通りとした。
4 図版の出処等はつぎのとおりである。
 1、3、4、23、24、25、26、27、28、29、30、32、33、36、37、38、39、41、42
          平成21年(2009)7月14・15日、渋谷撮影。
 6、10、31    野口作成。
 2、5、8、11、12、13、14、15、19、20、22、35、40
          昭和45年(1970)、解体時撮影。
 7、16、17、18、21、34

          昭和45年(1970)7月17日、故大岡實博士(元横浜国立大学名誉教授)撮影。なお、博士の写真は現在、大岡實博士文庫として当園で所蔵。
 9         『旧鈴木家住宅(赤浦屋)移築修理工事報告書』より転載。
 43        図版提供:白河市歴史民俗資料館、原資料所蔵:石倉啓市氏。
 44        図版提供:白河市歴史民俗資料館、原資料所蔵:八田部孝平氏。
5 聞き取りの内容には、建築上の調査で確認されていないことも含まれている。しかし、住み手の伝承としての意味を重視し、あえて削ることはしなかった。
6 聞き取りの内容には、人権上不適切な表現が含まれている。しかし、地域の伝承を重視する本書の性格上、そのままとした。

.はじめに
 鈴木家は福島県福島市松川町本町にある。東北本線の松川駅より、歩いて30分ほどの場所である。ここはかつて八丁目宿と呼ばれ、いわゆる奥州街道の宿場町として栄えていた。鈴木家はこの街道沿いで、「馬宿」という馬をつれた旅人のための旅籠を営んだ家である。
 この稿では、現当主長太郎さんと前当主長左衛門さん夫人シゲさん、さらに長左衛門さんの弟和二さんからの聞き取りを元に、鈴木家の暮らしについて記述することにする。シゲさんの嫁いできたのが昭和22年(1947)、長太郎さんの生まれたのが昭和24年(1949)であるため、時代的には昭和20年代から40年代初めごろまでのことが中心である。

.1 鈴木家
... 屋号・家紋
 鈴木家は屋号を「赤浦屋」という。号の由来は不明だが、本家である隣家からインキョとして分家した際、同じ屋号をもらったと伝えている。
 家紋は「丸に三つ柏」(図版3)である。

... 先祖
 八丁目宿は福島・二本松の両城下町に挟まれ、商業的にも繁栄を見ていたため、町に文化的な気風があった。かつては、歳をとって農作業をするのをいくらか恥じる風があり、嗜みとしてさまざまなことをやったという。鈴木家でも先祖には俳人(雅号竹村、明治15年没)や、池大雅に書画を学んだ人物(雅号旭嶺、弘化4年没)が出ており、現在も蔵の中に俳句の短冊や書画・茶道具などが残されている。

... 家族
 昭和22年(1947)にシゲさんが嫁いできたとき、家族は6人だった。親夫婦(長吉さんとカネさん)、若夫婦(長左衛門さんとシゲさん)、兄弟(長左衛門さんの弟2人)の6人で、このほか嫁に行ったアネサマ(長左衛門さんの姉)がときどき来ていた。

.2 衣食住
..(1)住
... 敷地
 街道沿いの宿場町のため、どの家も間口が狭く奥行きの深い、細長い敷地だった。鈴木家は主屋裏手に蔵や納屋が並び、さらにその奥に畑があった。主屋の座敷前やインキョヤ(隠居屋)の前は庭になっており、松などの木が植えてあった(図版5)。ブンコグラ(文庫蔵)の脇は孟宗竹の竹やぶで、このほか畑のそばに柿や梅の木があった。

... 屋根
 屋根は茅葺きだった。良い茅だと100年持つと言われ、「一代に一回葺けばよい」という言い方があった。ただし、一度に葺き替えることはほとんどなく、通常は傷んだところだけを直していった。傷み方は場所によって違いがあり、表側の棟周辺のほか、「屋根の谷」(直交する2つの棟の接続部分)が特に傷みやすかった。こうした場所はそのままにしておくと腐ってしまった。
 葺き替え職人のことを「ヤネフキサン」という。昔は地域にも専業の職人がいた。実際の修理は、葺き替える場所によって異なるが、10日ほどかかり、家族も一緒に行った。また、こうしたときには「ユイ」といい、決まった家々の中でお互いに手を貸し合っていた。
 「カヤノ」は笹平(松川町水原笹平)にあった。茅は定期的に刈ると良いものが採れるが、刈らないまま放っておくと駄目になった。
 刈った茅は乾燥させた。刈り取った束の頭を縛り、裾を少し広げ、刈った場所でそのまま立たせる。刈ったままのナマは重いため、こうして乾燥させておき、必要なとき担いで運ぶのである。乾燥させないと持ちも悪かった。なお、シゲさんの時代には、運ぶときにはそばまでトラックを着けていた。
 アマヤなど、小規模な建物の屋根には小麦を使った。小麦のワラを乾燥させるときは、棒を立て、2束ずつ井桁に積んでいく。その際、一番下が地面に着かぬよう、棒の根元に横木をとめた。小麦を栽培していたため材料はあったが、茅に比べ傷むのは早かった。

... 壁
 壁は土壁だった。修理は親戚などとユイを作って自分たちで行った。
 壁土には、山を削ったところから採れる赤い土を使った。これに「ツタ」(ワラ)を混ぜ、よく練って寝かせておく。こうすると土が発酵したようになる。壁の下地は竹を組み、ワラで編んだもので、これを「カベゴマイ」といった。

... 工事
 家を作るときは、「一日ナンボ」でダイクサマを頼み、働いた日数分を支払った。これを「ジョウヨウ(常傭)でたのむ」といった。そのため、壁塗りなど、できることは自分たちでやった。
 食事は家で出した。人を頼んでも食事の準備はしなければならなかったので、大変だったという。
 タテマエ(上棟式)には餅を撒いた。今はビニール袋に入れるが、かつては「はだか」のまま撒いていた。

... トンボグチ
 正面入口のことを「トンボグチ」という。ただし、昭和24年(1949)生まれの長太郎さんの時代には、「イリグチ」としか言わなかったという。

... ニワ
 土間のことを「ニワ」という。凸凹になっても修理することはなかった。
 馬宿を営んだ時代はここに馬を繋いだため、ニワの柱には馬のかじった跡があったという。この柱は細かった。大火事のあとに建てたため、太いものは経済的に使えなかったのだろうと鈴木家では言っている。
 この場所に、近くで学校を壊したとき買い取った2教室分の古材を保管していたことがあった(図版7)。この古材は、現在の家に建て直す際に使われた。

... ミセ
 街道沿いの板の間を「ミセ」という(図版8)。馬宿時代の使い方は不明である。この場所で皿売りをしていた時代もあったが、このことを知るのも現当主長太郎さんの祖父、長吉さんの世代までで、長吉
さんの次男である和二さんも記憶していない。
 昭和22年(1947)にシゲさんが嫁に来たあとは、タマネギを収穫すると、乾燥させてこの部屋にごろごろ並べておいた。そうすると町の人が「こんにちは」と言って入ってきて、ひとりでに売れたという。
 正面は揚戸になっていた。これを「シトミ」という。シトミは3枚に分かれ、開けるときはガラガラと持ち上げて上に引っ掛ける(図版11)。ただし、開けるのは祭りのときのみで、普段は閉じていた。婚礼のおりも開けなかった。

... ジョウダン・ツギノマ
 トコノマのある街道沿いの座敷を「ジョウダン」(図版12)、手前の座敷を「ツギノマ」という。どちらも天井があり畳が入っていたが、客間として使われ、家族が寝ることはなかった。ただし、前当主長左衛門さんの弟2人がヨメサマをもらい、いずれも1年8か月ほど同居した際、この部屋を使っていた(注1)。
 カイコサマの飼育にはこれらの部屋を使っていた(注2)。その際は畳の代わりに、同じ形の板を入れていた。これを「イタタタミ」という。材質は松ではないかとのことだが、実物が残っていないため正確なところは不明である。
 2つの部屋の境には欄間があり、障子紙を貼っていた。天井は高かった。いずれの部屋も中央に開閉式の蓋があり、開けると竹のスダレがはまっていた(図版13)。カイコサマの暖房に火鉢を使ったため、換気に使ったのではないかとのことだが、現在正確な用途をご記憶の方はいない(注3)。
 なお、移築にともなう解体工事中、ミセとジョウダンのあいだの壁から半月形の窓の跡が出てきた(図版14)(注4)。馬宿として客を通していた時代の名残ではないかとのことだが、はっきりしたことは不明である。
 お祝いや行事のときは、トコノマに掛軸や花を飾った。普段は特に何も飾らなかった。

... ナンド
 寝部屋のことを「ナンド」という。中は畳敷きで天井があった。ミセとのあいだに障子と格子が入っており、出入口も設けられていたが(図版15)、光は入らず薄暗かった。また、ミセ側の天井寄りに障子とふすまがあり、ニカイからもいくらか明かりが採れるようになっていた。この部屋は寝るだけのものでテシゴトなどに使うことはなく、電気も引いていなかった。なお、仏壇はこの部屋にあった。古い位牌などは入っていなかった。

... チャノマ
 中央の畳敷きの部屋を「チャノマ」という。神棚の設けられていたのがこの部屋である。神棚の上にもう1つ棚があったが、特に何も載せていなかった。この部屋には天井はなかった。畳は夏は上げ、代わりにイタタタミを入れていた。
 チャノマからツギノマにかけて、庭沿いにロウカ(縁側)が設けられていた。ここには雨戸があり、夏も含め、夜は一年中閉めていた。

... オカッテ
 食事等に使われた部屋を「オカッテ」という。板敷きで、食事を摂るところだけはゴザが敷かれていた。天井はなかった。
 この部屋にはイロリがあった。イロリには鉄製のカゴのようなものが置かれていた(図版16)。子どもが落ちるのを防ぐ柵であると同時に、冬はフトンをのせ、コタツとして使っていた。
 イロリの席は決まっていた。チャノマを背にした席を「ヨコザ」という。ここは当主の席で、空いていても他の者は座らなかった。跡取りは当主の左、外庭を背にした場所に座る。嫁はこの左に座るか、さもなければ「キジリ」と呼ばれるカマド側の席で火焚きをした。
 イロリの灰は山菜の灰汁抜きなどに使った。消し炭も翌日の燃料として使われ、捨てることはなかった。
 イロリの上には「ヒダナ」(火棚)があった。冬、食物を「凍みないように」するためのもので、ナガイモなどを置いていた。
 このほか、この部屋にはナガシ(図版17)や食器用のトダナ・チャダンスなどがあった。西日が当たるため、トダナに野菜などを入れておくと、みな傷んでしまったという。

... ニカイ
 2階には畳が敷かれ天井のある座敷が2間あり、いずれも「ニカイ」と呼ばれた。馬宿時代、客間として使われた部屋だが(注5)、現在その時代を知る人はいない。
 トコノマのある奥の部屋は若夫婦が使っていた(図版18)。この部屋の北側の壁には障子とふすまが設けられており、梯子があれば1階のナンドから出入りできるようになっていた(図版19)。本来の使い方は不明だが、聞き取りでは、ここから出入りするようなことはなかったとのことである(注6)。
 手前の部屋は物置になっており、現当主の祖母の世代に使われたハタオリキやワタクリの道具などが置いてあった。この部屋は掃除することもなく埃だらけだったという。
 ニカイへ上がる狭い階段の脇に棚が設けてあった(図版20)。これは物を置く場所で、人が乗ることはなかった。

... 裏口
 ニワの突き当たりに裏口が設けられ、ガラス戸が入っていた。裏口を出たところには、雨水用の排水路が設けられていた(図版21)。

... フロ
 フロは裏口を出て右手にあり、いったん外に出て入るようになっていた(図版22)。入ると左奥に浴槽、その手前に焚き口、右側はコンクリートの洗い場になっていた。浴槽は鋳物の「ゴエモン」で、まわりはコンクリートで固めてあり、カマドのような形になっていた。浴槽に入るときには木のスノコを沈めた。引っ掛けておけばよいのだが、板が新しいあいだは浮いてくることがあり、そうしたとき足が底に付くと熱くてたまらなかった。
 入る順番は決まっていなかったが、男の年長者が先に入ることが多かった。一番最初よりアトユの方が、神経が疲れず体が楽だったという。
 フロの水は、井戸水を濾したものを運んで使っていた。明かりは豆電球のような、細くて暗いランプだった。

... ベンジョ
 ベンジョは2か所あった。ブンコグラの横とインキョヤの右手である。
 ブンコグラ横のベンジョは大小分かれていた。家族が通常使用していたのがこの場所である。このベンジョは主屋を建て替えたあと場所を移し、大きさを半分にした上で、現在も外便所として使用している(図版23)。
 インキョヤ右のベンジョは、インキョヤとともにショウユグラのゲヤ(下屋)に設けられていた。こちらは大小分かれておらず、主に大用として使われていた。
 昭和22年(1947)に嫁いできたシゲさんの時代、ベンジョで使われたのは新聞紙その他不用の紙だった。コヤシは肥料として畑に運び、ツクリモノ(作物)から1尺ほど離して撒いた。

... ブンコグラ
 ブンコグラは二階建てで、昔から瓦葺きだった。外側は土壁だが内側は板壁で、柱に溝を切り、幅20cmほどの板を上から落とし込んである。材質は不明とのことだが、きれいにカンナがかけてあり、飴色になっていた。この建物は、主屋建て替えの際は仮住まいとしても使われた。
 出入口は主屋側のほか、裏にもあった(図版24)。表の扉には古峰神社の札と羽黒山の牛の札が貼ってあった(図版25)。扉の下には猫が通るための穴があり、いたずらして閉じ込められた子どもが顔をのぞかせ、「助けてー」と叫んだりしていた。
 1階は床が土地より低く、湿気のため土台が傷んでいた。床にはスノコが敷かれていた。
 2階には糸繰り用具や掛軸など、さまざまなものがしまわれてあった。棟梁には釘がずらっと打ってあり、毎年寒い時期に掛軸を掛け、虫干しした。長吉さんは掛軸の図柄と名前をすべて頭に入れており、40下げたから、あと何と何と何がまだだと、そんな言い方をしていたという。虫干しは現在も毎年、長太郎さんが正月に何日か行なっている。

... ショウユグラ
 鈴木家は味噌の醸造業を行なっていた(39頁参照)。この蔵はその作業に使われていたもので、販売をやめた後も自家用の味噌や醤油を造っていた。屋根は古くは茅葺きで、大火事に遭った跡が残っていたという。窓があったが泥棒が入ったため土壁でふさいだ(図版26)。
 中は8畳ほどの広さがあった。入って右手にはミソダルが並び、左手はL字型に床を張ってモミ置き場としていた。保管に使われていたのは缶や袋ではなく、木製のモミオキである。積み重ね式の木箱のようなものだが、底板があるのは1つだけで、他は枠のみになっている。使うときはまず底板のある箱に入れ、これが一杯になると枠だけのものを上にのせる。また一杯になるとさらに枠をのせていき、最後にふたをする。このモミオキが3組ぐらいあり、食べるときに精米していた。

... インキョヤ
 ショウユグラの前に杉皮葺きのゲヤ(下屋)が設けられていた(図版27)。中央に蔵への通路があり、右手はベンジョ、左手はインキョヤになっていた。
 インキョヤは白漆喰の蔵のような造りだった。中も白壁の立派な部屋で、天井が張られ、床の間も設けられていた。部屋の前は庭になっていた。植木が植えてあったほか、裏から水を引いて1間ほどの池が造られ、鯉か金魚が飼われていた。
 その後、このインキョヤとベンジョを壊し、イネコキなどをする作業場にした。

... アマヤ
 アマヤ(雨屋)は、雨の日の作業場である(図版28)。土壁、ワラ葺き(小麦)で、窓はなかった。平屋だったが材木で作った棚が中に設けてあり、ワラなどいろいろなものが載せてあった。
 中にはドズルス(土摺臼)があり、モミズリに使っていた。ドズルスの中には「コバ」(木歯)が埋め込んであり、回すと米と殻がポロポロッと落ちてくる。そのため床はネンドを平らに固めてピカピカにしてあり、米が落ちても大丈夫なようになっていた。
 なお、モミズリは昭和22年(1947)ごろまでは手作業だったが、その後機械を買い、ひとりでもできるようになった。
 この場所は南向きで暖かかったため、毎年1月になると近所の人がみな集まり、ワラを打ってミノなどを作った。1月いっぱい毎日作業し、1年分を作っていた。

... ワリキゴヤ
 アマヤのとなりにワリキゴヤがあった(図版29)。「ワリキ」とは木を割ったタキギのことである。その後、耕作機械を置くように改造し、屋根も現在はワラ(小麦)からトタンに変わっている。
 この場所は小屋の裏が高いため湿気が強く、水抜きをしていた。

... キゴヤ(ワラゴヤ)
 ワリキゴヤのとなりはキゴヤだった。この小屋にはシバキが置かれてあった。「シバキ」とは山のシタガリ(下刈り)をした木や、ワリキをとった先の細い枝を束ねたもので、タキギとして1年分ほどを貯えていた。シタガリは松の木を育てるためにも必要だった。
 この小屋は昭和40年(1965)ごろ建てられたもので、屋根は最初から瓦葺き、壁は板壁だった。この板は冬、雪で折れたりした山の木をとってきて、家で製材したものである。これを横に打ち付け、風通しを良くするため隙間はそのまま残していた。
 この小屋はその後ワラを入れるようになり、ワラゴヤと呼ばれるようになった(図版30)。このワラは他の家がもらいにくることもあった。
 キゴヤにはこのほか、モミガラやハウス栽培用具・古い道具なども保管していた。

... ウマヤ
 主屋の裏口を出たところにウマヤがあった。馬宿時代、ニワ(土間)に入りきらない馬を泊めたもので、
建物は細長く、土壁で小さな窓があった。
 この建物は馬を泊めるのをやめたあと、家畜の飼育場所兼物置になっていた。入ると右の角に柵が設けられ、そこが家畜の運動場になっていた。飼われていたのはヤギやヒツジである。シゲさんはあるとき、ヒツジにイモ(ジャガイモ)の芽を食べさせた。そして、朝ごはんのあと行ってみると、ヒツジが死んでいた。ジャガイモの芽の毒が原因だったが、長吉さんはひとつも怒らなかったという。

... ウシゴヤ
 ウシゴヤははじめ東向きだったが、その後場所を移し、向きを変えた。古くは農作業用の馬を飼っていたが、その後和牛に換え、最後は乳牛を飼った。
 ウシゴヤの手前には、子牛が出来たとき育てる別の小屋があった。

... トリコヤ
 トリコヤは2か所あった。
 井戸のそばのトリコヤは長左衛門さんが作ったもので、シゲさんが嫁に来た昭和22年(1947)にはすでにあった。カネさんがブンコグラの前から行ってエサをやっていた。
 アマヤの前、アライバのそばにあったトリコヤはシゲさんが来たあとに作ったものである。

... 井戸
 ブンコグラの角に井戸があった。夏でも水の枯れることがなく、昭和22年(1947)ごろは近所の家に井戸がなかったため、5軒ぐらいがもらいに来ていた。
 鈴木家では飲み水もフロの水もこの井戸でまかなっていた。ただし、この水は「シブミズ」という「カナケ」(鉄分)の多い赤い水で、そのため濾過槽で濾してから使っていた。濾過槽は2槽になっていた。まず井戸脇のスナドオシの槽で水を濾し、そのとなりの槽にきれいな水が溜まるようになっていた。
 スナドオシには川の砂を使った。この砂は使っているとシブがつまって水が通らなくなるため、定期的に取り替える必要があった。この作業は長吉さんがやっていたほか、和二さんも砂の運搬を手伝っていた。
 むかいの人が畑でかぶる手ぬぐいは、いつも黄色かった。朝、顔を洗うときスナドオシしてない水で顔を洗い、そのあと手ぬぐいをしぼるので、カナケの色が付いていたのである。鈴木家に泊まる人も、堅い人は「通した水などもったいなくて使えない」と言い、ポンプから出した水で直接顔を洗っていた。
 この井戸は今も敷地の一角に残っているが、現在は使われていない(図版32)。
 水道が入ったのは、昭和40年代に入ってからである。

... アライバ
 敷地の一角に、水を川から引いた四角い池があった。
 この池はアライバとして洗濯に使われた。鈴木家だけでなく、近所から洗濯する人がみな集まってきた。
 米を研いだり、ゆでたウドンを洗ったりするのにも使われた。そのくらい水がきれいだった。
 このほか、種モミを漬けるのにも使われた。食塩水に入れて浮くものを除いたあと、モミをこの池に入れ、「ウルカシテ」発芽させるのである。近所の家も5、6軒、種籾を入れに来ていた。
 この池は毎年1回、彼岸過ぎに「イケハライ」を行った。底の泥を上げ、池を掃除する作業である。掃除しやすいよう、周囲には板で作った枠がはめてあった。この作業は家族だけでなく、池を利用する近所の人たちが集まり、みんなで行っていた。
 池は現在も残っているが、こうした用途には使用しなくなり、柵をして金魚が飼われているのみである(図版33)。

..(2)食
... 炊事
 鈴木家のニワ(土間)には、大小2つの土のカマドと石のカマド、そのほかヌカガマがあった(図版34)。
 オオガマは、味噌を造るとき豆を煮たり、正月用の餅を搗いたりするときに使った。餅米を蒸かすときはセイロを使った。これは、水の入る底部分が鋳物製で、そこに桶のような木製のガワを9段積み上げるようになったものである。それぞれのガワには底に目の粗い麻布が張ってあり、ここに生米を入れて蒸かした。1回に3升か4升を臼で搗いていた。
 オオガマのむかいの小さい方のカマドでは五升釜を使った。ここでは祭りなどのときオフカシ(赤飯)作ったほか、餅を搗くときでも1臼ぐらいならここで間に合った。燃料にはマキを使った。
 オオガマとオカッテとのあいだに石のカマドがあった。焚き口はニワ側にあり、3升炊きの釜とご飯用の1升炊きの釜、大小2つ乗るようになっていた。昭和22年(1947)以降に設けられたもので、3升以上は炊けなかったが、これができて便利になったという。
 ヌカガマは小さい方のカマドのとなりにあった。籾殻を燃やす仕組みになっており、ご飯がおいしく炊けた。

... 食事
 食事はオカッテでとった。チャノマ寄りに1間半四方ぐらいの敷物を敷き、そこに家族が座った。敷物は最初ムシロだったが、その後ムシロの上にゴザを敷くようになった。
 長吉さんが健在だった時代は、長吉さんがニワ側のチャノマ寄り、カネさんがそれと向かい合う外庭側のチャノマ寄り、長左衛門さんはニワ側の裏口寄り、シゲさんはカマド側、長左衛門さんの兄弟は長吉さんカネさんのあいだ、チャノマのジョウダン(敷居)のところに座っていた。
 大きなチャブ台で食べるようになったのは、シゲさんが嫁に来てかなり経ってからで、それまではひとりひとりオゼンで食べていた。
 オゼンが並ぶ中央にカマダイが2つ置かれていた。裏口側はご飯のカマ、チャノマ側は味噌汁のナベ用である。このカマダイは和二さんが作ったもので、中央に釜を据える穴があり、釜の煤が落ちぬよう台の底に板が張ってあった。ワラで厚く編んだイチコにカマを入れて保温した時代もあったが、カマダイを作ってからあまり使わなくなった。
 おかずはひとりひとりオゼンにのせたが、ご飯と味噌汁は最初の1杯も含め、中央のカマダイからみな自分でよそった。ただし、長吉さんがひとり遅れて食べるときなどは、となりにカネさんが座り、1杯目を食べると「どうぞ」と言って茶碗を受け取り、2杯目をよそっていた。
 朝ごはんを食べるのは、タキギを作るなどアサシゴトをしてからで、時間は7時半から8時ごろだった。ご飯のほかは、味噌汁・自家製の野菜・漬物・納豆といったものである。味噌汁の味噌も自家製で、出汁はカツブシがほとんどだった。漬物は塩で漬けたハクサイやタクアンが多かった。納豆の材料も自家製のマメ(大豆)である。煮て温かいうちに「ナットツツコ」(わらづと)に包み、これをたくさん重ねてカマスに入れ、さらに籾殻の中に入れておく。作るのは冬である。こうして家でやるため、毎日納豆を食べることができた。
 昼ごはんは12時ちょうどだった。長吉さんは1分でも遅れると黙って自分でよそった。食べるものは朝と大体同じで、家にあるものばかりだった。
 夕食は畑から帰る時間に合わせた。秋は早く暗くなるので、ご飯の時間も早かった。フロよりも食事が先だった。

... 魚・肉
 魚を食べるのは夕食のときで、それも週に1回程度だった。畑をうなう時期や田植えの時期などは重労働なので食べたが、普段はあまり食べなかった。食べるのはサンマが多かった。秋から冬は一番安かったからである。サンマは買うと、コヌカ(米糠)に塩を混ぜたものに漬け込む。こうするとコヌカで適度に水分が取れ、保存が利くようになった。
 家でニワトリを飼っていたため、肉は鶏肉が多かった。豚肉などは、1年に数えるほどだった。

... ボタモチ
 夏は餅を搗かないので、ボタモチが一番のご馳走だった。
 ボタモチを作るときは、もち米を普通のカマで炊く。軟らかくするためスリコギで搗く家もあったが、鈴木家では搗かなかった。軟らかく炊けば搗く必要もなく、かえって団子のようにならずおいしかった。
 家によってはうるち米も入れた。鈴木家ではもち米を作っていたので入れなかったが、買っていた家ではうるち米が多く、作っていた農家でも昔は多少入れていた。これはもち米の方が高かったためで、うるち米を入れないのは贅沢だった。もち米だけのものは時間がたっても軟らかかったが、うるち米が入っていると硬くなった。

... 洗い物
 茶碗などは井戸まで持って行って洗った。スナドオシした水の溜まる槽の脇がコンクリートの流しになっており、ここで洗い物をしたり、米を研いだりしていた。この場所は庇が少し掛かっており、雨の日でも体だけは濡れなかった。
 裏口脇のデマドは、手前半分ほどがセメントで固めてあった(図版35)。雨の日に洗い物ができるようになっており、上には洗ったものを伏せられるよう2段の棚が設けてあった。いずれもシゲさんが和二さんに頼んで作ってもらったものである。和二さんは手先が器用で、こんなふうになるといいなと言うと、何でも作ってくれたという。

... 保存
 冷蔵庫がなかった時代、傷みやすいものは容れ物に入れて縄を付け、井戸の中に吊しておいた。中の温度は12℃で、ビールなどは飲み頃になった。
 井戸に吊すには量が多いというときは、ブンコグラも使った。採れた卵や自家製の醤油もここで保管していた。
 鈴木家には室のようなものはなく、床下を使うこともなかった。

... 味噌
 味噌は自家製だった。仕込みのときは長左衛門さんの手も借りたが、下準備は長吉さんとシゲさんが2人でやっていた。
 まず、ミソダルを洗う作業である。長吉さんがタルに入り、中を洗う。汚れた水を汲み出し、シゲさんが外からまたきれいな水を入れる。長吉さんが亡くなったあとは、これをシゲさん1人でやっていた。長靴を履いて中に入り、また出て靴に履き替え、自分で水を入れる。これを何度もくりかえしたという。
 つぎは仕込みである。マメ(大豆)を煮てオケ(ミソダルとは別)の中にあけ、ワラグツを履いてこれを踏む。そのあとこのオケを裏まで運び、ミソダルの中にあける。この作業を、シゲさんはおなかの大きいときもやっていた。

... 酒
 飲むのは日本酒だった。近くの造り酒屋が「金水晶」という銘柄を出しており、会合というとこの酒だった。ただ昔は日本酒が高価で、なかなか買えるものではなかった。小売の酒屋へ行き、量り売りで買うのだが、1日2日の稼ぎでは1升買えなかったという。そのため、夕食の前に晩酌などをすることはなかった。
 長左衛門さんは冬になると、ブンコグラの中でドブロクを造っていた。麹は頼んでいたが、米は自家製の良いものを使った。ときどき出来を見るために飲んだので、おいしくなるころにはなくなっていたという。

... 煙草
 昔は刻み煙草が普通で、巻き煙草は贅沢品だった。刻み煙草には「みのり」「桔梗」「萩」などの銘柄があった。「桔梗」は遅くまであったが、「みのり」は早くになくなった。

..(3)衣
... 衣類
 機織りをしたのは長左衛門さんの母親の世代までで、嫁に来たシゲさんはやったことはなかった。2階には解体された機織り機が置いてあったという。
 昭和22年(1947)ごろは、普段着は着物だった。反物で買い、家で縫っていた。タンスの中には誰のものかわからない麻の裃があった。裁断せずに縫ってあり、ほどくと1反の布になったという。
 着物から「フク」(洋服)になった時期は不明だが、シゲさんは福島にいた妹のオユズリを着たりしていた。妹は4つ下できれいな柄を好んだので、それを着て近所に行くと「いいの着てるね」と言われたという。

... 仕事着
 野良仕事をするときは、上は短い着物、下は女はモンペ、男はモモヒキだった。モモヒキは脚のところが細くなっており、腰の部分は前後で布を合わせ、紐を前に回して結ぶようになっていた。

... 子どもの服装
 シゲさんは乳児だった長太郎さんに小さい着物を着せていた。少し大きくなるとズボンにシャツだったが、いずれも自分で縫っていた。そのころは店でも子どもの服は見かけなかったという。

... かぶり物
 仕事をするときは頭に手ぬぐいをかぶった。かぶるときは前から後ろにまわし、端を「ちょちょっと」結ぶ。暑いときには前と両脇をたらし、日よけにした。女性は家の中でもかぶり、髪が邪魔なときはきちんと結んだりと、かぶり方も使い分けていた。その後次第に手ぬぐいから三角巾に替わった。三角巾も手製だった。
 暑いときは手ぬぐいの上にさらに「ヒヨケ」(菅笠)をかぶった。これはその後、ムギワラボウシに替わった。

... 履物
 普段の履き物はゴム草履や下駄で、冬は長靴だった。しかし長太郎さんが子どものころは、貧しくて長靴を買ってもらえない人がたくさんいた。そうした人は、素足に生ゴムのゴム草履で雪の中を歩いていた。

... 寝具
 冬は大きなスンクツブトンを床に敷き、その上に木綿のフトンを敷いた。上は木綿の綿のカイマキブトンである。「スンクツブトン」とは、ワラのスグリクズ、すなわちワラスグリをして出た柔らかいハカマの部分を布袋に入れたもので、とても暖かかった。スンクツはひと冬でぺったんこになってしまうため、毎年入れ替えた。
 夏はスンクツブトンをとり、木綿のフトンだけ敷いた。寝るときは蚊帳を吊った。8畳なら8畳すべてを覆う大きなもので、とても重かった。子どもは蚊帳を吊すと喜び、それでよく遊んだ。
 マクラは、和二さんが育ったころは「ソバ」(そば殻)だった。家には箱枕も残っていたが、髪を結っていたころのもので、誰が使ったものかわからないという。

... 髪型
 男の子はみな丸刈りだった。どの家にもバリカンがあり、シゲさんも子どもたちの髪をみな刈っていた。大人の男性も丸刈りが多く、そうでないのはよほど気取った人だった。そうした人は床屋に行っていた。
 女の子も親がオカッパにした。残ったところは剃っていた。
 シゲさんは結婚前は勤めに出ていたので、昭和22年(1947)に嫁いできたころはパーマをかけていた。カールが流行で、鈴木家の近所にもそうした人がいた。カールだけなら自分でもできたが、パーマをかけるときはパーマ屋へ行った。当時松川にパーマ屋はなく、中町(福島市中町)まで行っていた。

... 化粧
 戦争中は化粧品がなかった。シゲさんは肌が荒れて頬が切れてしまうので、化粧品代わりにメンソレータムを付けていた。戦後も乳液や化粧水はなく、風呂上がりにはコールドクリームを塗っていた。その後も化粧は外出するときだけで、普段はしなかった。
 洗濯
 洗濯は裏のアライバでやっていた。道具はタライと洗濯板で、洗剤には石鹸を使った。濯ぐのもアライバの池の水だった。
 干すのはブンコグラの北側や、ショウユグラの南側だった。東側の、現在ブロックになっている塀は、元は屋根のある板塀だった。ここからアマヤのあいだにも竿を渡して干していた。布団や敷布を干すときもすべて裏まで運んでいた。

..(4)暮らし
... 照明
 昭和8年(1933)生まれの和二さんが子どものころは、すでに電気が入っていた。昭和22年(1947)ごろは40Wぐらいの裸電球が、座敷2間のほか、カッテとチャノマの境についていた。ナンドには何もなかったので、とても暗かった。
 昔はよく停電になった。そのため、電気が入っている部屋にもランプが下げてあった。

... 寒さ
 家の中は寒かった。隙間も多かったため、どんどん着なければ居られなかった。寒いときにはイロリで前をはだけ、ハラアブリをして暖を取った。
 ただし、家の中と外とで温度差がなかったため、逆に風邪は引かなかったという。

... 燃料
 冬のあいだ、長左衛門さんは朝ムックリ起きると山に行った。夏のあいだは田畑があるため、冬のあいだに木を伐り、1年分のワリキを作るのである。このワリキは1坪(割ったものを6尺四方に積んだもの)単位にして、ワリキゴヤに積んでいた。
 火をつけるときはまず「コマイ」(細かい)木を燃やし、火がついたらワリキに替えていく。ワリキに火がつくまではツケギも使った。これは、大きなカンナで経木の倍ほどの厚さに松を削ぎ、乾燥させた上、溶かした油を付けたものである。これを火鉢の残り火に入れておくと火がついた。
 冬は桑の根を焚いた。養蚕をやめたあと「ネズリ」(根を掘ること)をして掘り出したもので、ポコポコポコポコと長く燃えた。
 山で集めた杉の葉も燃料に使った。

... 障子
 障子は定期的に張り替えるものではなかった。張り替えるのは破れたときで、婚礼などの行事があっても、事前に張り替えることはしなかった。

... ラジオ・テレビ
 ラジオが入ったのは昭和25年(1950)ごろである。チャノマのオカッテ寄りの隅に置いてあった。
 テレビが入ったのは昭和38年(1963)か39年(1964)である。東京オリンピックを見るために買ったもので、チャノマのナンド寄りの壁際に置いてあった。
 有線放送
 有線放送が入ったのは昭和22年(1947)より後のことである。農協が引いて普段の情報を流していたもので、交換台も農協にあった。地域には有線を引いたときの柱が現在も残っている。
 電話も有線からつながるようになっており、他の家に連絡するときは「何番さん、何番さん」と呼んだ。1回線に10数軒入っていて、1軒が使うと同回線の家は使えなくなるため、話は短時間で終わらせるようにと言われていた。代金は加入していた家が自分たちで集めて歩き、農協に持っていった。
 通常の電話回線が入ったのは、さらに後のことである。

... 娯楽
 松川には映画館が2館あり、鈴木家ではしばしば足を運んだという。
 福島周辺には温泉が少なくない。しかし、湯治で利用することはあったが、家族そろって温泉に入りに行くようなことはなかった。

... 子どもの遊び
 近所に駄菓子屋があり、いろいろなものを売っていた。子どもたちは「パッタ(パッチ)」(メンコのこと)や「タマコロ(パチンコ)」(ビー玉のこと)を買って遊んだ。
 夏は近くの水原川で泳いだ。堰のところで深くなっており、そこで遊んだ。
 冬は雪で遊んだ。今は10cmほどしか積もらず20cm降れば大雪だが、昔は40cmぐらいは積もり、雪だまりになると50cmほどの深さがあった。長太郎さんのころは雪でダルマを作ったり、山でソリをやったりした。鈴木家の裏手は高くなっているので、雪ですべり台を作ると近所の人がたくさんすべりに来たという。

... ペット
 鈴木家では犬を飼っていた。死んだりするともらうということをくりかえし、家にはいつも犬がいた。
 犬はイロリのキジリのところまで上がってよいことになっていた。犬の方もそれ以上は上がらず、イロリのカゴ(25頁参照)に口を当てて温まっていた。

... 病気
 松川は宿場のため医者はあり、近いところでも3軒あった。
 周囲には温泉が多いので、病気によっては湯治にも行った。クサ(できもの)や傷には天王寺温泉(福島市飯坂町)が効いた。摺上川を隔てて向かいは穴原温泉だったが、効き目が異なり、こちらの方はクサや傷には効かなかった。
 シゲさんは嫁に来るとき母親に、1日1回明るいところに子どもを連れて行き、よく見てやれと言われた。そう聞きながらやらないでいたところ、子どもの頭にクサができ、しかも見つけたときはすでに大きくなっていた。このとき通ったのが天王寺温泉だった。和二さんもクサができたとき、バイクで通ったという。

... 害虫
 ノミもシラミもたくさんいた。
 男性の場合、頭は丸坊主だから良かったが、モモヒキの内側の縫い目にシラミの卵が付いた。
 ノミは板の間や畳の隙間から上がってきた。こうしたものは掃除機で吸い取り、敷布団の下にDDTを撒いたりした。このほか、集落全体でDDTを縁の下に撒いたこともあった。これは一斉にやらないと効果がないが、何回かやって駆除することができた。鈴木家は大きかったため、このとき2軒分の代金をとられたという。

... 火事
 松川町本町は安永元年(1772)、天保2年(1832)、嘉永3年(1850)と3回大火事に遭っている(注7)。鈴木家には火災のあと再建されたという言い伝えがあり、このいずれかにより燃えたと思われるが、各火災の焼失区域が不明のため、どの火災のときかは判明していない。また、ショウユグラの屋根替えをしたとき、屋根部分の土に焼けた跡があったという話もあるが、こちらもどの火災のときのものか不明である。
 火事のときは大変だった。長吉さんは近所で火事があったとき、長い笹をとってきて屋根に上がり、風で飛んでくる火の粉を払っていた。消防ポンプは水が細いため、火がつくと消すのは簡単ではなかった。

... 地震
 福島は「岩代」の国で、下が岩盤だと言われていた。そのためか地震は少なく、昭和39年(1964)の新潟地震のときも被害はなかった。
 昭和53年(1978)の宮城県沖地震のとき、シゲさんは家の外にいた。ゴウゴウゴウゴウという山鳴りが聞こえ、「大風のような音がするなあ」と言っていたら地震だった。物置の柱が揺れていたが、家の中では一輪挿しも倒れなかった。

.3 生業
..(1)概況
 鈴木家は旅籠や醸造などいくつかの仕事を営んだが、基本的には農家である。
 長吉さんも長左衛門さんも「時計がカチカチカチカチ鳴るように」体をよく動かした。「キュウトリ」(給与取り)の人は帰れば自由時間だったが、農家はそれがなく、動かなければやっていけなかった。昼間働いた分は生活費、アサシゴトと「ヨワリ」(夜仕事)でやっと蓄えができるのだと、長吉さんは言っていたという。
 女性も朝4時に起きて働いていた。
 松川では冬場出稼ぎに行く人はほとんど無かった。冬場はわら細工などの仕事をしていた。

..(2)馬宿
 鈴木家は馬喰と馬を泊める馬宿を営んでいた。廃業した正確な時期は不明だが、馬と人両方を泊めていたのは明治20年代ぐらいまで、その後は人は泊めず馬だけを預かるようになったが、これも昭和初年ごろにはやめたようである。
 馬は土間につないでいた。裏口を出たところにはウマヤがあり、土間につなぎきれないときはこちらも使ったという(注8)。
 ※現在ご存命の方々の中に馬宿時代を知る人はいない。そこで、『旧鈴木家住宅(赤浦屋)移築修理工事報告書』(昭和47年)に掲載された鈴木長吉さん(明治31年生まれ)からの聞き取りを、資料として巻末に再掲する(57頁参照)。

..(3)醸造業
 鈴木家では味噌の醸造業も営んでいた。営んだのが馬宿時代と重なるかどうか、はっきりしたことは不明である。廃業時期もわかっていない。醸造そのものは自家用に近年まで続けていたが、販売していたのは昭和22年(1947)以前のことである。
 ショウユグラには直径180㎝ぐらい、高さ150㎝ぐらいの大きなミソダルが4つか5つ、ショウユダルが1つあり、蔵の脇にコウジムロもあった。職人がいたわけでなく家族でやっていたようだが、近所に販売したほか、関西の方まで出荷していたという話が残っている。長左衛門さんは、味噌を売って小遣いをもらっていたという。

..(4)養蚕
 鈴木家では養蚕もやっていた。正確なところは不明だが、やめたのは昭和20年(1945)前後と思われる。シゲさんが嫁いできた昭和22年(1947)当時、周囲にはまだやっている家があったが、鈴木家では「カイコサマ」の桑はすべて掘り出してあった。
 シゲさんが姑のカネさんから聞いた話によると、春のカイコサマの収入は、タウエサマ(田植えのときの手伝い)を雇うだけでなくなったという。
 なお、養蚕農家では、休みの日のことを「クワヤスミ」といった。

..(5)稲作
... 概況
 鈴木家の主な作物は米だった。タンボは主屋と別のところに1町歩(1ha)あり、長吉さんが兵隊に行っているあいだ3反分貸したことはあったが、現在まで守り続けている。
 栽培した品種としては、順に「平井1号」「日の丸」「フジミノリ」「農林21号」「セキミノリ(北陸51号)」「ササニシキ」「コシヒカリ」「ひとめぼれ」がある。平井はおいしい米ではなかった。今もある農林21号はおいしかったが、病気になりやすく、背が高いので倒伏しやすいという欠点があった。セキミノリはおいしくないため、酒米にも転用していた。このほか、鈴木家では作っていないが地域で栽培されている品種として、「ふくみらい」と「五百万石」がある。ふくみらいは福島の「福」から名前をとったもので、1番新しい品種である。五百万石は甘みが少なく酒米専用である。食べておいしい米は甘口になってしまうため、酒には向かなかった。
 昭和15年(1940)ごろまで住み込みの作代が1人いた。耕耘機が入ったのは昭和40年(1965)ごろである。

... 田植え
 田植えのときは「ユイ」といい、何軒かの家で手を貸し合った。ユイをする家は大体決まっていた。
 長太郎さんが小学生だった昭和30年代は、学校で援農休暇があった。これは田植えなど農繁期に3、4日設けられていたものだが、長太郎さんは手伝わず、遊びに行っていたという。

... 刈り取り
 鈴木家では刈り入れ時期の違う品種を2種か3種選んでいた。刈り取りも昔は手作業で、しかも手が足りなかったため、そうしないと刈り遅れてしまうからである。

... イネコキ
 「アシブミ」(足踏脱穀機)のころはタンボでイネコキをしていた。どの家もやるため、秋になると「アゴンーアゴンー」と賑やかだったという。イネコキのときは親戚に手伝いを頼むこともあった。
 シゲさんが嫁に来た昭和22年(1947)には、アシブミではなく「モーター」(機械)を使っていた。イネはタンボから運んで主屋のニワに積んでおき、イネコキするときはショウユグラの前(インキョヤを壊したあとに作った作業場)に運んで作業した。
 イネコキが済んだあとのワラは、ワラゴヤができるまでは裏の畑に積んでいた。少し高くなっている場所があり、そこはワラなどを積んでも水がたまらなかった。

... 税金
 モミができると、税金の分はそのままモミでしまっておいた。お金に換えると使ってしまうからである。そして納税の時期になると、「税金払わなきゃならんからモミスリするかー」といって、もみすり機械で玄米にし、現金に換えた。

... 冷害ほか
 平成5年(1993)の冷害のときは米が出来なかった。このとき、当時の細川護煕首相が視察に来た。
 冷害ではないが、米を出荷した翌日に農協が倒産したことがあった。農協からお金をもらうことができなかったが、そのときは乳牛でなんとか生活したという。

..(6)畑作
... 概況
 畑は主屋の裏手に7畝(約694㎡)あった(図版36)。後ろの道沿いに川が流れていたが、畑の土地はこの川より低くなっていた。そのため畑の周囲に溝を掘り、湿気を防いでいた。
 現在はシゲさんひとりでやっているが、かつては長吉さん・長左衛門さん・和二さんと4人でクワを担ぎ、畑まで行っていた。

... 作物
 畑の主屋寄り半分ではタマネギなど、もう半分では自家用の野菜を作っていた。
 マメ(大豆)はかつて10俵とっていた。
 小麦も栽培していた。刈り入れたあと濡らしてしまった小麦は、そのままだとカビてしまう。天日で干せればよいが、それも雨でできないときがある。そうしたときは、「ワラダ」と呼ばれる養蚕用の丸い竹カゴに新聞紙を敷き、そこに小麦を広げてイロリで乾かしたりした。
 サトイモは湿気のある場所を好むので、それもこの畑で育てていた。

... 肥料
 裏の畑で堆肥を作っていた。ワラを積み、そこに牛の糞を混ぜて寝かせて置く。この作業は長吉さんがやっていた。
 堆肥は人の手で運んだ。担ぐときはまずミノを着る。ミノには雨用と運搬用があるが、いずれも手製である。このミノの上に「タンガラ」(8頁参照)と呼ばれる運搬用具を背負う。タンガラとは、縄で編んだカゴ状の物入れと、木製の背負子が一体となったものである。大きさは、下は腰掛けたとき地面に付くよう尻の下まで、上は頭の上に出る程度である。
 使用人を頼んでいた時代は、タンガラにフォークで堆肥を入れ、5人なら5人一斉にタンボに行き、帰るときも一緒に帰ってきた。長吉さんは、ひとりひとり歩くと時間に無駄が出る、1人が5分遅れると5人いれば5人分無駄が出る、だから昼のご飯も遅れてはならない、そう言っていたという。
 山の落ち葉も集めて肥料に使った。

..(7)畜産
 ウシゴヤで乳牛を飼い、牛乳を出荷していた。1日3回搾るには朝早く搾らなければならない。そこで、4時ごろ起きてシゲさんがお湯を沸かし、長左衛門さんがチチシボリをしていた。搾った牛乳は集乳所に持っていき、そこでまとめて森永乳業に運んでもらっていた。
 乳牛の前には肉牛(和牛)を飼っていたこともあった。
 ウマヤをウマに使わなくなってからは、ヒツジやヤギを飼っていた。
 ヒツジは毛を取るために飼っていた。5月ごろ、毛を刈る業者が回ってきて、大きなハサミで刈っていった。
 ヒツジの前には乳を搾るためヤギを飼っていた。
 トリコヤではニワトリを飼っていた。ヒヨコを生まれたときから育て、卵を売るのである。ただし、買いに来れば売るという程度で、売りに行くことはしなかった。

.4 地域社会
... 隣組
 鈴木家の属する隣組は7軒である。組長は1年交替のモチマワリになっており、花見の相談など、寄り合いは組長の家で行われた。
 「堀上げ」などは共同で行った。隣組や地域の共有財産は特になかった。

... ワカレン
 「ワカレン」(若連)という若者組織がある。入れるのは35歳までの男子である。昔は中学を出れば入れたが、高校・大学に行く人は卒業してから入った。
 かつては入団できるのは跡取りのみだった。入団するのも初午の日と決まっており、入る者はこの日、酒1升持って挨拶に行った。長太郎さんのころは人数が多く、本町だけでも40人ぐらいいた。しかし、現在は人が減ってしまったため、跡取りに限らず、また義務教育終了後いつからでも入れるようになった。
 ワカレンは先輩後輩のけじめに厳しかった。歳ではなく在籍年数が基準になり、年上でも年数が短ければあれこれと指示された。
 ワカレンはいわば自警団である。別組織である消防団が出動したとき、戻ってくるまで地域を守るのが主な役目だった。そのため、ワカレンでは引っ張って歩くエンジン付きの小型ポンプを持っており、消防訓練もしていた。このポンプは小さかったため、消防車が入れないところまで入ることができた。
 このほか、ワカレンは神社の組織としての一面もあり、地域の代表として祭りを仕切っていた。そのため、社務所は集会場所として自由に使うことができた。
 長太郎さんが入っていたころは、よくナベを作って飲んだ。当時「包丁を使わない運動」というものがあり、そのためコンニャクなどもちぎって入れていた。かつては祭りというと有志から寄付が集まったが、その後は会費制となった。日帰りのバス旅行なども会費制で、年に1、2回行っている。

... 女性の集まり
 現在は町内会に女性部があるが、昔は特に女性だけの集まりはなかった。

... 女郎様
 八丁目宿には官許の遊郭があり、最盛期には600名以上の遊女がいたと伝えられている(注9)。宿を営んでいた鈴木家には、こうした遊女が客の求めで泊まりに来たという(58頁参照)。そのためか、長太郎さんの祖母に当たるカネさん(明治27年生まれ)が嫁いできたときの記録には、お祝いを持ってきた人の中に「女郎様」の名が残っている。
 遊女となる女性は米沢などから12歳ぐらいで売られてきた。口減らしのためである。そして何年間はちゃんと学校に通わされ、16か17ぐらいで初めて客を取らされたという。そうした話が残っている。

.5 交通交易
..(1)交通
... 奥州街道
 鈴木家の前の通りは旧奥州街道である。しかし、昭和24年(1949)生まれの長太郎さんが子どものころは、通る車と言えばバスか郵便車ぐらいで、平気で道で遊んでいた。バスは1日に何台も通らなかった。
 赤い郵便車はポストに来る時間が決まっていた。そこで長太郎さんは、新聞紙をちぎって止まっている車の上にのせ、走り出したときばあーっと飛び散るのを見て喜んでいたという。そのくらい車が少なかった。

... 自動車
 鈴木家に車が入ったのは昭和46年(1971)ごろである。日産ブルーバードだった。

... 自転車
 鈴木家には、昭和45年(1970)ごろには自転車があった。当時はまだ高級品だった。

..(2)交易
... 買い物
 宿場町だったため、魚屋や八百屋をはじめ、薬屋・菓子屋・呉服屋から、床屋や郵便局まで近くにあり、普段の買い物に不便はなかった。
 大きな買い物は福島や二本松まで行った。福島までは12㎞、二本松までは8㎞あり、徒歩の時代は弁当を持って1日がかりだったという。二本松よりも福島の方が大きいので、車の時代になってからは二本松にはほとんど行かなくなった。
 市が立つところはなかった。

... 行商
 昭和22年(1947)ごろ、二本松から「イチエンミセ」(一円店)が来ていた。さまざまなものをリヤカーに積んでくる物売りで、何でも1円だった。
 このほか、昔は歩いて回ってくる物売りが少なくなかったという。

... 芸人
 かつては諏訪神社の秋祭りに芝居が立ち、旅役者がまわってきた(注10)(49頁参照)。鈴木家は長吉さんがワカレンの役員をやっていた関係で、こうした役者を泊めることがあった。その中に妻子を連れた盲目の役者がいた。オゼンを出すと黙っていても、手探りなどまったくせずにちゃんと食べたという。子どもはまだオムツが取れていなかった。シゲさんは「この人いつオムツ洗うんだろう」と思っていたが、鈴木家では洗わないで行った。
 カグラ(獅子舞)が正月や祭りのときにまわって来た。シゲさんが実家(福島市杉妻)に帰ったら、同じカグラがまわって来たという。シシに頭を噛んでもらうと良いと言われていた。
 西光寺(松川町字町裏)の近所にサーカスが来たことがあった。手に金の棒を突き通してみせるような、そんな芸をやっていた。

... ホイド
 ホイド(乞食)がたくさんまわってきた。お椀を出し、「ゴハンを入れてミソッチルかけてください」と言う。かわいそうだと思って出してやると、チャノマのエンに腰かけて食べていった。暑いのに、真夏に長い合羽を着てくるホイドもいた。昔はほんとうにみすぼらしかったが、次第に格好が良くなっていった。
 景気が良くなると、ホイドは来なくなった。

.6 年中行事
... 正月準備
 暮れの都合の良い日に神棚を掃除した。長吉さんは伐ってきた竹で、くもの巣をはらったり、神棚の裏を掃いたりしていた。
 モチツキは28日ごろが多かった。「クモチ」といって、29日には搗いてはいけないことになっていた。鈴木家では頼まれるものも含め、4斗(約60㎏)ぐらい搗いた。オオガマを使って米を蒸し、ニワで搗き、木の枠に入れて固めた。

... トシトリ
 12月31日を「トシトリ」という。正月飾りはこの日に付けた。シメナワは神棚のほか、チャノマの四方にぐるりと張る。2本モジリで左に綯い、縄目を広げてあちこちにゴヘイ(ヘイソク)を差し込む。「ワドオシ」(輪飾り)は輪からワラを3本出し、ゴヘイと松の枝を付ける。こちらは神棚の両脇のほか、トンボグチ・裏口・井戸の水神様・ブンコグラやキゴヤなどの入口に取り付けた。
 ワドオシを付ける場所には、紙を敷いて2段重ねの小さいモチも供える。このほか、ジョウダンのトコノマには三方にのせた2段のカサネモチを供える。モチの上にはオガンマツを斜めにのせる。「オガンマツ」(拝む松)とは、松のシン(枝先)を取ってきたものである。
 この夜は12時に間に合うよう家族で諏訪神社(松川町字諏訪山)にお参りに行き、そのあと盛林寺(松川町本町西裡)に除夜の鐘を撞きに行った。菩提寺の西光寺(松川町字町裏)は戦争で供出して鐘がなかったからである。こうしたとき、シゲさんは留守番だった。

... 元日
 元日の朝、神棚の下にゴザを敷き、中央にミを置く。ミは割った篠竹を藤の皮で編んで作ったものである。この上に、トシトリの日、トコノマに供えたカサネモチを下ろしてきて置く。上に置いていたオガンマツもそのままのせる。カサネモチの両脇には寛永通宝を1束ずつ置く。いつもはブンコグラにしまってあるもので、100枚ずつ区切って1000枚を紐に通したものである。このほか、ご神体もブンコグラら出してきてミの上に置く。ご神体の中身は見てはいけないと言われており、見た人はそのとたんリューマチになったという。さらにミの横には供え物として、オニガシ(煮物)とミカンを置く。
 用意ができるとミの手前に座布団を置き、若い者から順に拝んだ。当主は一番最後で、年寄りがいても代を譲っていれば息子の方があとになる。こうして全員拝み終わると、お酒(冷酒)を飲み、オニガシとミカン1個を食べる。
 ただし、このようにきちんとやっていたのは昭和50年代ぐらいまでで、近年はミも寛永通宝も出さず、カサネモチとオガンマツだけになっているという。
 三が日のあいだ、朝はゾウニモチと決まっていた。醤油仕立てで鶏肉で出汁を取り、鶏肉のほか、ゴボウ・スズシロ(大根)・ネギ・ニンジン・しみ豆腐を入れた。昼と夜に食べるものは特に決まっていなかった。
 正月の魚としては、もらえば「シオビキ」(新巻鮭)を食べたが、買って食べることはなかった。

... 1月3日
 3日はトロロイモをご飯にかけたりして食べた。地域では「フツカトロロ」と言い2日に食べるが、鈴木家では3日である。

... 1月4日
 4日には西光寺のオショウサンが挨拶に訪れる。そのため、カサネモチやワドオシはこの日までに下げなければいけないといわれていた。

... ナナクサ
 7日はナナクサで、朝、オカユを作って食べる。鈴木家ではご飯とオソナエを割ったモチを含め、何でもいいから7種類入れることになっていた。

... ノノソメ
 1月11日は「ノノソメ」(農初め)である。早朝まだ暗いうち、当主は起きるとすぐタンボに行く。このとき、「ホーイ、ホイホイホイホイ」と言いながら行く。どの家もやっていたので、そういう声があちこちから聞こえてきた。タンボに着くと、堆肥を少し盛り上げ、その上に家から持って行ったオガンマツを挿す。そして、枡に入れた米を供えて拝んだ。なお、今はタンボではなく裏の畑でやっている。このときは、離れない程度に包丁を入れたモチと、出来の悪いダイコンを供えている。
 この日は神棚にオゼンを上げた。
 蔵開きの行事はなかった。

... 小正月
 1月14日はダンゴサシである。ダンゴの木に使ったのはミズキで、家の山や裏から伐ってきた。
 今は男は準備に関わらないが、昔は長吉さんも加わっていた。粉を作るところからはじめるため手がかかり、男の手が必要だったのである。
 まず、米を1回洗う。濡れたものを重ね、その下にザルを置く。こうすると水気が早く切れ、濡らした米がさらさらになる。乾いたら石臼で挽き、粉にする。このあと使うフルイには「モメン」と「キヌ」とがあったが、ダンゴには細かいキヌドオシを使う。そして出来た粉を練り、丸めてダンゴにするのである。形は丸で、色は着けず白いままだった。現在は小判形やエビスの形、色も赤や黄色のものもあるが、これは市販のものである。
 長吉さんはダンゴを煮たあと、このダンゴジルをヒシャクですくい、「ナガムシ来んな、ナガムシ来んな」と言いながら、家の門口などに撒いていた。
 ダンゴは神棚の両脇に飾った。このほか泥棒除けに、出入口やベンジョ・物置の入口などに付けた。
 この日はまた、「カセドリ」とか「ダンゴコッコ」といわれる行事があった。子どもたちが朝から各家をまわり、「ダンゴ、コッ、コッ、コッ」と言いながらダンゴをもらい集めるのである。子どもたちはもらうまで「コッ、コッ、コッ」と騒ぐので、どの家もダンゴやモチ・お菓子などを出した。モチは家に持って帰り、カユに入れて15日に食べた。食べると病気にならないといわれたが、ある時期、不潔だからということでやめにした。
 なおこの日、厄年の人がいる家では、モチに「厄払い」という文字を赤で書き、来た子どもに1個ずつ受け取ってもらった。このモチは普通より少し小さい丸いもので、正月用とは別に14日に作った。
 この日の夜、ご飯を食べてからアズキガユを煮た。このとき煮すぎると翌朝ご飯が固まってしまうので、沸騰したら火を消し、蓋をしておいた。
 翌15日はマツオクリである。当主はこの日、朝早く起きると前の晩に作ったアズキガユを火にかける。チチチといったら火からおろし、このカユを神棚のほか、ワドオシなどの松に供えた。このあとアズキガユを食べ、それから、この日かたづけた松やシメナワなどの正月飾り、前の年の正月にもらったお札などを神社に全部持って行き、境内で燃やした。このとき、長い棒にモチを挿して焼いた。

... 1月30日
 1月30日は、正月の一番終わりの行事として神棚にオゼンを上げた。

... 節分
 2月3日は節分である。この日の夕方、マメ(大豆)の枝に魚の頭を刺し、脇にヒイラギの葉を付けたものを家のあちこちに付けて歩いた。鬼が来ないようにするためである。鬼は魚の臭いやヒイラギのトゲを嫌うといわれていた。付けたのは表と裏の門口で、このほかブンコグラの入口など、正月のワドオシと同じ場所にすべて付けた。
 豆まきは夜に行う。今は皮付きのピーナッツを使うが、昔はマメ(大豆)をホウロクで炒った。そして、これを一升枡に入れて神棚に上げ、拝んでから撒いた。撒くのは当主で、家の中から外へ、通りの方にも裏の方にも大きな声で撒いていた。
 マメは自分の歳の数だけ食べろといわれた。

... ハツウマ
 初午の日に出初め式が行われる。地域のワカレンが腕用ポンプを出して、田んぼのところで放水した。この行事は今も続いているが、現在はカラーの水を出したり、水で風船落としなどをやったりしている。
 なお、ワカレンはこの日が年度の切り替わりのため、入団式も行われていた(42頁参照)。

... ヒナマツリ
 3月3日はヒナマツリである。
 人形は初節句のときお祝いにもらう。鈴木家ではこれを、チャノマのナンド寄り奥の角(天袋の下)に飾っていた。飾るのは1か月前で、しまうのは3日当日である。そうしないと嫁に行けないと言われていた。
 節句にはお祝いをした。白酒は作らなかったが、ひし餅は家で作った。青・赤・白と3色作ってひし形に切り、オヒナサマに供えるとともにみんなで食べた。それが楽しみの1つだった。

... オヒガン
 オヒガンには親戚が線香を上げに来る。そのため、ボタモチ(秋はオハギという)や煮物を作っておき、ご馳走したり、土産に持たせたりした。煮物はキリコブとアブラゲを煮たもので、もとは葬式にも作っていた。
 この日はお墓参りに行った。他の家も鈴木家の墓に来るので、鈴木家でもよその家にお参りする。こうしたとき、一方を斜めに切った竹筒に名前を書き、墓の前に立てて花を飾った(図版37)。この花立ては現在はプラスチックになっている。
 春のオヒガンのころは花が少ないため、「ヒガンバナ」を飾った(図版38)。これは木を薄く削いで作ったもので、花の多い秋のオヒガンには使わなかった。

... オシャカサマノヒ
 4月8日は「オシャカサマノヒ」で、寺で甘茶を配っていた。子どもたちはご馳走になりにいった。

... 端午の節句
 5月5日は節句である。節句には五月人形をチャノマのナンド寄り奥に飾り、ブンコグラのベンジョの脇にコイノボリを立てた。こうした飾りは、5月5日当日片付けなければならなかった。
 この日はオフカシ(赤飯)を作り、菖蒲湯に入った。菖蒲湯にはショウブとヨモギを束ねて入れた。

... サナブリ
 田植えが終わるとサナブリを行った。神棚に布袋に似たノウシンサマが祀ってあり、ここにきれいに洗った苗を供え、お酒を上げて拝む。そのあと酒を飲んで終わりだった。
 サナブリは作業が終わったらやるもので、日が決まっているわけではなかった。

... エビスサマ
 エビスサマの日があった(月日は不明)。エビスサマは商売をやっている家の神様だが、農家も一緒に休んだ。
 この日はボタモチを作った。長吉さんは、休みを取りたいときやご馳走を食べたいとき、「今日はエビスサマだなー」と言った。農家でも理由を付けてたまに休みを取ったが、鈴木家では長吉さんがそう言わないと休みにならなかった。

... 七夕
 七夕は8月7日だった。商店街ではどの店も太い竹に大きな飾りを付けるので、にぎやかだった。農家は鈴木家を含め、細い竹にちょっとした飾りを付けてやっていた。鈴木家では前日あたりにジョウダン前の通り沿いに竹を立て、短冊に願いごとを書いて下げていた。
 七夕が終わると裏に竹を運び、葉は腐らせて畑に入れ、竿の部分は使えるためしまっておいた。流すことはなかった。

... オセガキ
 オセガキは寺の行事で、8月14日ごろだった。家族の何回忌というようなときは塔婆を立て、寺で拝んでもらった。

... 盆
 8月13日の夜、ボンダナを作った。場所はチャノマの、ナンドの板戸を背にしたところである。仏壇の位牌・過去帳を移し、うしろに十三仏の掛軸を吊る。両脇には切花を花瓶に入れて飾る。正面両側にはササを立て、色紙の飾りを2本ずつ飾る。これは紙に交互にハサミを入れ、菱形が連なるような形にしたものである。
 アラボン(新盆)のときはボンダナの両脇に、ホトケサマの戒名を書いたチョウチンを下げる。家で用意したものと、亡くなったとき親戚からもらったものとを対にする。このほか、チャノマの両端に紐を渡し、古いチョウチンをみな下げる。床には脚のあるチョウチンも置く。部屋はチョウチンでいっぱいになり、夜はこのすべてにロウソクで火を入れるため、子どもの目にはとてもきれいだったという。現在は1つしか出していないが、昔はアラボンに限らず、箱にしまってある古い提灯をすべて出していた。
 ボンダナにはナスの牛とキュウリの馬も供えた。現在は脚に割り箸を使っているが、かつては柳の枝を使用した。この柳も13日、仕事のあと取ってきたもので、皮をむいて白くし、牛馬の脚のほか、オボンサマ(ご先祖様)のオゼンの箸にも使った。
 オボンサマをお墓に迎えに行くのは、現在は他家と同じく13日の夜である。しかし以前は、鈴木家では親戚も含め、13日まで働き、14日の朝に花と線香を持って迎えに行った。この際に火を焚くのはアラボンのときだけで、あとは焚かなかった。
 ボンダナに供えるのは家族の食事と同じものである。オゼンにオヒラ・ツボ・カシザラ・オワン・オシルワンをのせ、麩の入ったオニガシ(煮物)などの料理を入れた。このほか、位牌の左右には供物台にのせてお菓子を供え、これに加え、14日の朝は墓から帰るとショウユダンゴを供えた。家で挽いた米の粉を使い、しょうゆと砂糖で味付けしたもので、オゼンにハスの葉を敷いて供えた。無縁仏に供え物をすることはなかった。
 昔は盆正月というとトマリオキャクサマ(親戚)がたくさんあったが、今は線香を上げ、食事して帰るだけになった。このときスイカなどをもらえば、これも供えた。
 15日は朝早く出て必ずハクサイの種を蒔いた。13日にオボンサマを迎えず、1日働くのは、この準備のためである。しかし近年温暖化が進み、15日に種蒔きすると、早すぎるようになったという。この日はボタモチを作って供えた。
 16日の午前中、オボンサマを送った。西光寺近くの水原川に行き、牛馬のほか、ボンダナに供えてあったものを流した。このとき、お墓に着く途中お腹がすかないよう、オボンサマのご馳走を一緒に流した。流すものは米と味噌、それからソウメンである。元は店で売っていたハスの葉に包んだが、店頭になくなったためその後は家にあるクワの葉を使うようになったという。現在、供え物は役所で回収するようになり、新聞紙に包んで出している。福島で行っている精霊流しも松川では行われていない。

... 夏祭り・盆踊り
 諏訪神社の夏祭りは、現在、8月最後の日曜に行われている。諏訪神社のほか、天神様(7月18日)・八坂神社(7月19日)・稲荷様(7月26日)・子安観音・ころり地蔵(8月9日 福島市松川町 常円寺)など、この時期に夏祭りが集中していた。昔は祭りというとスイカを売ったり、余興をやったりだったが、今はカラオケ大会をやるほか、寄付を集めて花火も上げている。
 盆踊りは昔は諏訪神社の夏祭りと一緒だったが、今は8月14日、小学校を会場に8町会連合で行っている。上手な人には「何番、何番」と商店街の人が首に紙を付ける。それを帰りに出すと、景品がもらえた。

... お月見
 チャノマの前のロウカに机を出し、ススキとダンゴ・採ってきたマメ・根のあるダイコンとニンジンを供えた。家族全員で拝むわけではなかったが、子どもたちも拝んでこいといわれて拝んだ。供えたダンゴはあとで家族で食べた。よその家のダンゴを盗りに行くようなことはなかった。
 十三夜はやらなかった。

... 秋祭り
 諏訪神社の秋祭りは、元は10月9〜11日だったが、現在はその近辺の日曜を中心に行われている。本祭りは3日のうちの真ん中の日である。
 かつては舞台を作り、旅役者を呼んで芝居を上演していた。また、「提灯山車」というねぶたのようなものも出た。露天商も植木屋・瀬戸物屋など、宵祭りから2晩ずらっと出てにぎわった。今も何軒かは出るが、香具師もいなくなった。
 お神輿も現在とは様子が異なっていた。担ぎ手は地域の人ではなく、毎年金を払い、佐久間という集落(松川町下川崎字佐久間)から人を呼んでいた。この人たちがみな、ひざ下がぴったりした白装束に身を包み、神輿を揺らさないようそっと運ぶのである。これを見ていてシゲさんは、「ほんとに神様だな」という感じがしたという。この衣装だけは今でも諏訪神社に残っている。
 その後、地元のワカレンが担ぐようになった。酒を飲んでいることもあり、ひっくり返して壊したこともあったという。昭和24年(1949)生まれの長太郎さんは、白装束で運んだ時代も記憶しているが、自分たちで担いだ世代でもある。担ぐときは8人で担ぐ。ある年、妙に重いと思ってふりかえると、うしろについていた背の低い人が、担がずにぶら下がっていたという。
 この祭りのとき、かつては茶碗1杯ほどのオフカシ(赤飯)を各家ごとに集めていた。集めるのは子どもではなく大人で、祭りに集まった人たちで食べたが、その後、不潔だからといってやめた。

... カッキリ
 稲の刈り取りが終わるとカッキリを行った。これはノウシンサマに報告する行事で、神棚に稲穂を供え、お酒を上げて拝む。そのあと酒を飲んで終わりだった。
 サナブリと同じく日が決まっているわけではなく、作業が終わったら行った。

... 冬至
 「トウジカボチャ」は食べたが、ユズ湯に入ることはなかった。

.7 人生儀礼
..(1)婚礼
... 縁談
 シゲさんは姑のカネさんの姪に当たる。鈴木家では正月やお盆にはシゲさんの実家に挨拶に行っており、長左衛門さんも父親に代わり、シオビキ(新巻鮭)を背負って出かけていくことがあった。そのためお互い顔は知っており、結婚のときも長吉さんが行って「もらいたい」と言っただけだった。他の人はお見合いをやっていたが、お見合いというほどのことはやらなかった。

... 結納
 結納のときは、長吉さんが目録を書いて渡した。目録の帳面は紙の折り方が決まっており、二つ折りにした折り目が下に来て口が上に開くようにする。葬式用はこれを逆にした。

... ゴシュウギ
 結婚式をゴシュウギ(御祝儀)という。
 式当日、まず婿とゲンザン(見参)がヨメサマを家に迎えに行く。「ゲンザン」とは、近しい親戚を指す言葉である(注11)。嫁側では祝いの席を設け、嫁婿ともに衣裳を着て並び、迎えに来たゲンザンのほか、客も招く。この席も婿側で行う式と同じくゴシュウギという。花嫁衣装は着物も角隠しもカミユイサマに持っていき、そこで着せてもらった。
 その後、一緒に家を出る。ヨメサマは人力車に乗り、付き添いの人は歩いていく。
 ヨメサマの一行が着くと、トンボグチの前で婿側の親戚や手伝いの人たちが唄を歌う(注12)。家に入ることができるのは、この唄が終わってからである。このことを知らないヨメサマが入ろうとすると、まわりの人がさっと止めてやった。
 ゴシュウギのときも正面のシトミは開けなかった。鈴木家は両脇に窓がないため中は真っ暗で、シゲさんはその暗さに驚いたことを覚えているという。
 中に入ると、花嫁はまずチャノマで休み、それから座敷に入る。他の人も同じである。
 ゴシュウギにはジョウダンとツギノマを二間続きにして使った。三々九度はジョウダンで行い、嫁はトコノマを背に、婿はそれと向き合って座る。そこで横からお酒を注いでもらい、いただく。注ぐ役は子どもが務めることもあったが、シゲさんのときは子どもではなく親戚がやった。
 これが終わると引き続き宴席となる。東西の壁に沿って席を設け、花嫁花婿はトコノマのある西側の席に座った。
 嫁の実家側の親戚のことも、婿側と同じく「ゲンザン」という。婚家に到着するのは午後なので、ゴシュウギが終わるのは夜である。その暗い中を、ゲンザンの人たちは歩いて帰っていった。

... 料理
 シゲさんのころは料理は家で準備し、親戚同士休みを取って手伝いに行った。
 オゼンにオヒラ・ツボ・オニガシ・サラを並べ、このほかご飯と味噌汁を付ける。真ん中がツボである。オヒラとオニガシには煮物を入れる。入れるのは、ニンジン・ゴボウ・さつま揚げ・コンニャク・シイタケなど、5品か7品である。ただし、オニガシに入れるものは上を斜めに切るのに対し、オヒラの方はまっすぐにするというように、野菜の切り方が異なった。こうしたことは他の家に手伝いに行ったとき、人から教わった。
 このほかオジュウヅメを用意した。中にシンコ・タイ・キントンの入った立派なもので、客に持ち帰ってもらうためオゼンの脇に置く。シンコ(シンコモチ)は菓子屋に注文した。餅米でなくうるち米を材料に使い、鯛や梅の型に入れたものである。タイは魚屋に注文した。この魚屋は親戚だったので、そこの人に来てもらい、つまむようなものも作ってもらって小皿に入れた。昔はそのほかの料理もすべてオジュウヅメに入れた。シゲさんの実家(福島市杉妻)の方ではすぐ食べられるように煮たが、鈴木家周辺では持って帰ることを考え、堅めに煮た。

... 嫁入道具
 嫁入道具や衣装はゴシュウギの当日持っていった。シゲさんのころは、そんなにたくさんのものは持てなかった。

... カオダシ
 ゴシュウギの翌朝は、婚家近くのカミユイサンにまた衣装を着せてもらい、「カオダシ」に歩いた。まわるのは鈴木家の属する隣組と、となりの組、それから歩ける範囲の親戚である。1軒1軒歩いてまわり、「よろしくお願いします」と挨拶をした。

... 里帰り
 嫁はお盆と正月・三月の節句などに実家に帰った。そのときは土産として、ボタモチを作ってもらって持っていったり、オフカシ(赤飯)したときにはオフカシをもらって持っていったりした。

..(2)産育
... 安産祈願
 安産の祈願には篠葉沢稲荷神社(福島市立子山字目細内)に行った。ここでは安産のお守りをもらうほか、枕を借りてくる。この枕は白や赤の生地でできた玉入れの玉ほどのもので、生まれたらもう1つ作り、お礼に2個にして返すことになっている。
 戌の日の腹帯はやっている時間がなかった。

... 妊娠中の禁忌
 火事のところを通るときは、腹に鏡を入れろといわれた。そうしないと顔に赤い痣ができるといわれていた。
 葬式にも行かない方がよいといわれた。
 おなかに子どもがいるあいだは、梅干しは良いが、酸っぱいミカンは良くないといわれた。

... お産
 つわりのことを「クセ」という。シゲさんはクセもなかった。一度上げたが(もどしたが)、「ああもったいない牛乳でも飲むか」といって牛乳を飲み、それで終わりだった。
 昔は「腹に入ったから」休まなければ、ということはなく、直前まで働いた。昭和29年(1954)のお産のときは、腹が痛いから生まれるのではないかと言いながら働き、夕方、疲れてフロにも入れないでいたところ翌朝生まれたという。
 シゲさんは実家に帰らず鈴木家でお産をした。お産に使われたのはツギノマで、産湯は井戸の水をカマドで沸かし、オカッテにタライを置いて使った。サンバサンは松川にいた。
 へその緒は桐箱に入れてしまっておいた。後産はサンバサンが片付けたのではないかという。

... 名付け
 名前を誰が付けるか、鈴木家では特に決まっていなかった。
 シゲさんの最初の子のとき(昭和24年)は、長吉さんが「太郎と付けろ、俺の『長』を付けろ」といい、それで「長太郎」となった。2番目の子はシゲさんがつけた。「誠」という字が好きだったが、長吉さんが「1字名は好きじゃない」といい、それで「誠二」となった。
 長太郎さんに子どもができたときは、長左衛門さんが福島稲荷神社(福島市宮町)に行き、5000円で名前をもらってきた。
 このほか和二さんのときは、オテラ(西光寺)のオッシャマに付けてもらったという。

... お七夜・宮参り
 長太郎さんのときはまだ戦後の復興途上のころで、お七夜も宮参りもやらなかった。

... 初節句
 初節句のときは親戚全部から五月人形をもらった。家では赤飯を炊き、人形をくれた人をみな招いてお祝いをした。
 長太郎さんのコイノボリは和紙だった。長吉さんが障子紙を貼り、墨で描き、色を塗って修理したものである。5mほどもある大きなもので、ブンコグラの脇に上げていた。

... 七五三
 長太郎さんのときは七五三はやらなかった。当時周辺でやる人はいなかった。

..(3)成人・厄年
... 成人式
 長太郎さんのときは今と変わらなかった。福島市の体育館で式典があったので、車でなくバスで行き、そのあと何人かで酒を飲んだという。

... 厄年
 現在は神社へ行ったりするほか、人を集めて飲み食いをする。このとき、台所用洗剤やシャンプー、風船や凧などを出す。これは、洗剤は厄を洗い流すように、風船や凧は厄を飛ばすようにということで、「もらっていってください、厄ながしてください」といって配る。宴会はやらなくても、配るだけは配る。ただし、やるのは古い家の人だけで、そうでない家ではあまりやっていない。
 昔は余裕がなく、そうしたことはやらなかった。

..(4)葬儀
... 葬儀
 人が亡くなると、隣組長や同じ集落の人が知らせに歩いた。
 松川本町上は7組に分かれている。鈴木家は1組だが、葬式のときは2つの組が手伝うことになっており、集まって役割を決める。このとき、男性は男性で集まり、女性は女性で集まる。女性たちは食事などを主に手伝う。

... 埋葬
 鈴木家では長吉さん(昭和50年没)までが土葬で、火葬になったのはカネさん(昭和53年没)のときからである。
 長吉さんは「ネガン」(寝棺)だったが、まれに「タテカン」というものもあった。これは四角い箱形で、ひざを抱えて座るように入れた。
 鈴木家の墓地は西光寺(松川町字町裏)にある(図版39)。近いので今も歩いていくが、かつては棺桶をリヤカーかニグルマに載せ、幟を立て、銅鑼をジャーンと鳴らしながら行った。このとき、並ぶ順番も決まっていた。
 墓穴を掘る役を「ロクシャク」(陸尺)という(注13)。6尺×3尺程度の穴を掘り、棺桶に綱を掛けて入れる役で、人数は4人ほどである。葬式ごとに1組2組が交代で務め、それぞれの組の中でも順番が決まっていた。
 墓といっても石塔などはなく、埋めた場所に土を少し盛り上げるだけである。周囲には竹を四角く立て、90㎝四方ほどの囲いを作る。正面は開けてあるため、上から見ると「コ」の字型をしている。さらに、土盛りの中央に竹を立てる。笹の葉は上の方だけ残し、あとは取り除く。丈は出ている部分だけで人の背丈ほど、竿の先は棺桶に届くよう深く埋める。そして、墓参りに行くたび、「お参りに来たよ」という意味でドーンドーンと竹竿で棺桶を鳴らした。土盛りの前にはオゼンも供えた。

... 四十九日
 四十九日までは「ヒトナノカ、ヒトナノカ」ごとにお参りに行った。そして四十九日に竹竿を抜き、周囲の囲いも外した。

... 法事
 法事は五十回忌までである。新築の予定があると普通はそれを終えてから出すが、長吉さんは母親の五十回忌を旧住宅で出し、それから新築した。亡くなったとき親戚からもらった盆提灯はボロボロになり、色も真っ黒になっていたが、それでも長吉さんは五十回忌まで捨てないでいたという。

.8 信仰
..(1)家の神
... 家の神
 神棚があったほか(図版40)、カマドのそばには火の神などが祀られていた(注14)。敷地の中に屋敷神を祀ることはしていなかった。また、井戸には神様がいると言われていたが、神棚やお札のようなものはなかった。
 ブンコグラ2階の奥に神棚がある(図版41)。中に湯殿山のお札があり、うしろには金刀比羅宮の札箱が置いてある。こうしたお札がいつごろのものか不明だが、かつてはお札を売りに来る人がまわってきたという。現在も毎年正月にはカサネモチを、ダンゴサシの日にはダンゴを供えている(注15)。

... 氏神
 鈴木家の氏神は諏訪神社(松川町字諏訪山)である(図版42)。

..(2)講
... コブガラコウ
 古峰神社(栃木県鹿沼市)は火伏せの神である。この講を「コブガラコウ(コブカラコウチュウ)」といい、鈴木家で世話人を務めてきた。入っているのは9軒(元は10軒)で、毎月200円ずつ積み立て、順番に毎年2人ずつバスで代参に行く。そして全員分のお札を買ってくるのである。鈴木家では、このお札を毎年ブンコグラの戸に貼っている。
 昔は代参のほか、回り持ちで集まりがあった。1年に1回ほどだったが、現在はやっていない。
 20年以上前、講中で旅行したことがあった。1万円の会費で、朝4時に立ち、江の島や日本民家園などあちこち見て日帰りで戻ってきた。このほか、男性だけが集まって旅行に行ったこともあった。

... 念仏講
 昔は念仏講があり、鈴木家で世話人を務めていた。入っていたのは10数軒で、1年に1度回り持ちで集まった。集まったのはほとんど女性である。
 集まるとまずネンブツをやった。ひとりがカンカンカンカンと鉦を鳴らし、他の者は念仏を唱えながら大数珠を回す。回していて房が自分の前に来ると拝むことになっている。回数を数えるには箱に長い板の付いた計数盤を使う。そのあと煮炊きして全員で食事をした。このネンブツは人が亡くなったときにも行われた。
 現在念仏講はなくなったが、箱に入った大きな数珠など、道具は安藤富一郎氏(松川町本町)の家に残っている。

..(3)その他
... 願掛け
 常円寺(松川町水晶沢)に「ころり地蔵」があった。ここにお参りすると、苦しまないでころっと逝けると言われていた。
 シゲさんの時代には、病気で願掛けに行くようなことはなかった。

... 拝んでくれる人
 水原(松川町水原)の奥に拝んでくれる人(女性)がいた。財布がなくなったとか、判子がないとか、どこか悪いが何のせいなのかとか、そうしたことを聞きに行った。
 シゲさんの実家の人が拝んでもらいに来たことがある。なくなった判子の在処を聞くと、家にあるという。その後探すと、掛布団のカバーの隅に判子が入っていた。

.注
1 早く家を建てるため、同居することで節約していたという。
2 移築時の聞き取り(57頁参照)には「二階で養蚕をした」とある。
3 福島県士族川勝隆犠の著した『養蚕扱方』(明治13年刊・横浜市立図書館蔵)にはつぎのようにある。「蚕室は其大小に拘らず、天井板は皆閉切らぬ様すべし、先づ天井板の中央を六尺又は八尺四方板を張らず、葦簀又は篠簀の如きものを用ゐて時候の寒き暖なるに拘らず、不及的烟気の鬱積ざる様用心べし、」
4 『旧鈴木家住宅(赤浦屋)移築修理工事報告書』16頁につぎのようにある。「また壁をおとすと、この両間には竹木舞でつくった半月形の下地窓があり、もと「ミセ」西面の二間には半月形下地窓が設けられて、「ジョウダン」側では片引の建具(障子か)があったことが判明した。」
5 古江亮仁はつぎに引用するように、一階の座敷には馬喰・馬主・武士を泊め、二階には馬方を泊めたとしている。「馬喰は(中略)主人の案内でミセを通って床の間の付いた上等の座敷に通されました。(中略)馬方たちは馬の手入れなどをした後は二階、といっても屋根裏のような粗末な部屋で休みました。」(『みんなのみんかえん』12頁)。「馬方には表側の中二階が宿泊の場にあてがわれた。(中略)上段の間と次の間の二室は裕福な馬主や騎馬旅行の武士の宿泊にあてられたものだろう。」(『日本民家園物語』64頁)。こうした使い分けについての記述は、移築時の聞き取り(57頁参照)にはみられない。
6 馬宿時代、営業上の必要から、2階各部屋に直接出入りできるようにしていたのではないかと思われる。
7 『旧鈴木家住宅(赤浦屋)移築修理工事報告書』4頁に、安永八年盛林寺鐘銘、『天霊山記並霊簿之序』『二本松藩史』の記述が引用されている。
8 馬宿の暮らしが実際どのようなものであったか、記録はあまり残されていない。同じ福島県内に、国の重要有形民俗文化財に指定されている旧大竹家住宅(南会津郡田島町)という馬宿があり、詳細な報告書(『馬宿(旧大竹家)母屋解体直前民俗調査報告書』)が出ているが、馬宿経営のことはほとんど記されていない。馬宿は馬車輸送時代に入ると、一部は馬車宿として引き継がれていった。『中付駑者の習俗』には、会津若松市の大豆田(会津若松市大戸町上三寄大豆田)で大正11、2年〜昭和初年にかけて馬車宿を営んだ家の聞き書きが記されている。鈴木家で馬を預かっていた時代と一部重なるため、ここでは参考としてこの馬車屋の様子を引用しておくことにする。「馬車宿の主人は馬車屋の持っている馬がどのくらいかいばを食うか、馬車屋の弁当にどのぐらい飯をつめたらいいかなど、ひとりひとりの注文全部をおぼえていなければならなかったし、夜は夜でときどき馬屋をみては馬が病気をしてはいないかなど注意していなければならなかった。(中略)馬には大麦をたく。それを小切ったわらとふすまといっしょに混ぜてかいば桶に入れる。馬車馬によって、かいばの量が違うので、馬車宿では人数分のかいば桶を用意し、土間一面に並べて馬車屋の来るのを待った。強い馬で大麦五升、普通三〜四升の大麦をたべた。人間の方は一人平均二合たいておけば間にあった。(中略)馬車が着くとまず馬を馬車からはずして馬屋につれて行き、ふすまを混ぜた湯をのませる。(中略)馬が湯をのんでいるあいだ、馬車屋は茶菓子をつまみながら一ぷくつける。それから馬には用意しておいたかいばを与え、人は夕飯になるが、それまでに一時間ぐらいかかった。馬のかいばはそのまま馬屋に下げておいて、残った分は翌朝馬車屋の持ち歩いているかいば桶にあけて持たせた。」
9 『松川のあゆみ』27頁。
10 『松川のあゆみ』30頁につぎのようにある。「常磐津には八佐太夫(中略)、義太夫語りには鶴沢市次(中略)、お花太夫(中略)という娘義太夫もあり、赤浦屋を会場にしたり、菅原神社や諏訪神社の祭礼には地芝居を興行して人気があった。」ただし、この赤浦屋が今回取り上げた鈴木家か、同じ屋号の隣家(本家)か不明である。
11 『広辞苑』には、「関東・東北で、婿・嫁またはその近親が、婚礼の後はじめて相手方を正式に訪問すること。」とある。
12 「高砂」の一節ではないかとのことだが、詳細は不明である。
13 『広辞苑』には、「力仕事や雑役に従う人夫。かごかき人足や掃除夫・賄方などにいう。」とある。
14 鈴木家から収集された資料の中に荒神棚がある(14頁参照)。
15 この神棚には煤が真っ黒に付着している。したがってもともとブンコグラ2階に祀られていたわけではなく、元はいずれかイロリのある部屋に祀られてあったようである。

.参考文献
川勝隆犠 1880『養蚕扱方』(横浜市立図書館蔵)
川崎市 1972『旧鈴木家住宅(赤浦屋)移築修理工事報告書』川崎市
都筑方治 2004『馬宿』南信州新聞社出版局
古江亮仁 1982『みんなのみんかえん』くらしの窓新聞社
古江亮仁 1999『日本民家園物語』多摩川新聞社
文化庁文化財保護部 1978『中付駑者の習俗』無形の民俗文化財記録第25集 文化庁文化財保護部
松川小学校創立百周年記念誌発行部 1973『松川のあゆみ』松川小学校創立百周年祭体育館新築実行委員会
武蔵野美術大学生活文化研究会・相沢韶男 1988『馬宿(旧大竹家)母屋解体直前民俗調査報告書〈抜刷〉』田島町教育委員会

.資料 鈴木家の聞取

 鈴木家住宅の移築修理工事に際し、復原の参考とするためと古い使われ方などを知るため当主鈴木長左衛門氏(大正八年九月生)の父、鈴木長吉氏(明治三一年一一月生)より聞取をおこなった(昭和四六年九月二四日)。

..(イ)先祖
 隣の赤浦屋が本家で、同じ屋号であったが隠居として分家したと聞いている。明和三年に死んだ人が三代目というが、それ以前は位牌や過去帳がなくてわからない。
 郷土誌『八丁目物語』(茂木松次著、昭和二七)に載る俳人赤浦屋竹村は先祖で忠左衛門といい、明治一五年に六六才で歿した。この人の書いた歌が二箱あるが文書はない。また弘化四年に歿した赤浦屋旭嶺も忠左衛門といい、書を当時八丁目にいた池大雅に習って、この人の描いた畫がいまでもある(歿年は位牌で確認した)

..(ロ)農業
 昔から農家をやる。先祖より売買したことがない土地は田一町、畑七反、山林一町二反であった。昔の田の収穫は一〇束刈(ジツソクガリ)で四畝、一反五俵くらいであった。畑は桑を植え、二階で養蚕をしたが、当時の養蚕は春こ一回だけであった。農業の使用人は作代が一人いて、通いの作代もいた。作代は二階に寝、子守ワラシは茶の間でねた。

..(ハ)馬宿
 牛馬宿であったから、普通の旅人はとめなかった。馬と馬喰をとめる宿を馬宿(ウマヤド)といった。馬宿をしていたのは昭和五年七一才で亡くなった父の若い時までで、自分が若い時には馬だけとめて、人は宿屋(塩屋)に泊った。泊めたのは馬喰だけでなく、馬を連れた人もとめた。
 馬宿は松川では隣の赤浦屋と自分の家の二軒だけで、他に近くでは二本柳分にも一軒あった。馬宿は馬の世話一切をした。
 馬はフタハンナ(一四頭)とめることができた。昔は一人でヒトハンナ(七頭)以上の馬をつれて往来するのは禁じられていた。
 馬をつれた馬喰は南部からやってきて、白河と本宮で年二回行なわれた馬市にいった。松川は白河にゆく最後の泊り場で、ここまできて宿賃がつき前借することもあり、前借の時は翌日の白河の馬市までついていって宿賃をもらった。明治二〇年ころの人と馬の宿賃は一泊一円五〇銭だったという。泊るとき、馬は馬屋に、馬喰は座敷に泊ったが、夜など馬が鳴いたりすると馬喰が寝ながら咳払しただけでおとなしくなったという。

..(ニ)家の年代
 大正六年に八三才で亡くなった祖父より火事にあってその年にたてたと聞いている。この時の火元は寺(盛林寺)とも伝え、おばあさんが小さい時、松の木の皮をむいている時に火がついたという。このおばあさんは働き者だったといわれ、多分祖父の母か祖母に当る人と思うがどのおばあさんかはっきりしない。

..(ホ)家の使われ方
 家族は上段と座敷を使わず、馬喰がとまった。「みせ」は大正六年に亡くなった祖父が自分でも好きだったので瀬戸物をうっていた。このころ「みせ」と「なんど」の境には瀬戸物の棚があって、そのため「なんど」はたいへん暗かった。
 「なんど」には年寄が寝て、「ちゃのま」には家族と子供や子守のワラシが寝た。
 「二階」は昔納戸からも上れたが、使用人のねる所であった。宿場のころは「あげじょろう」がねた。女郎は客の求めにより遊郭からきて泊り、供に布団をもたせ、供のない女郎は自分で布団を背負ってきた。祖父が迎えに行って布団を背負ってくるとき、女郎は家についてから「御苦労様」とあいさつして、祖父が女郎の供のような形をして客への体裁をつくったという。

..(ヘ)家の旧状
 今度の修理で復原された店の間口三間のこと、「なんど」と「つぎのま」境の中廊下、および中二階の天井改造、後部西側と背面の張出がなかったことについては自分の代の改造でなく、親からも聞いていない。
 座敷部分西側にはもと便所があり、北側の縁から入って小便所、その奥に大便所があったが、四・五年前に取毀した。
 もとの馬屋の改築は昭和九年か一〇年ごろで、その前は馬屋の下屋は本屋と独立した構造であった。一頭当りの幅は四尺で、二間を三つ割にした位置に掘立の柱をたて、この柱の頂部は上部の繋にほぞ差にしてとめ、馬は両側の柱からゆわえた。また上の梁から飼葉桶をつるした。馬屋の地盤は自然に凹くなってそこに敷藁をしいた。
 前面の庇にはもと格子がついていたが、東二間は板で、そのほかにも板をはめた所があったと思う。格子はいまの障子の桟より細く横格子は中央で二本だった。この格子は一間ごとに庇から束を釣り、下は三寸に二寸五分くらいの框を入れていた。この格子は庇の垂れを防ぐため方杖を入れた時にこわした。松川の宿場では庇に格子の欄間をつけた家は自分の家くらいだったと思う。

..(ト)建築用語
 揚戸をシトミといい、出桁造をセガイという。

..(チ)付属屋等について
 文庫倉は住いにも使え、宿場女郎の盛んだったころに建てたという。この土蔵には棟木に建前の時の矢(破魔矢)があるが、当主がはずした所、年号や墨書銘はなかった。
 「ショーユグラ」は穀倉に用い、その前に庇をだして西側を隠居屋、中央を通路、東側に便所があった。
 「アキアゲグラ」は稲を仕上げる所であり木小屋はもと掘立柱で、先が股になった栗の柱を用い、茅葺であった。
 「つぎのま」裏の庭の石の下には杭がうってあり、本職の庭師が作ったと思う(当主)。

..(リ)松川町の旧宿場
 本町辺の昔の家はみな茅葺で寄棟屋根だった。大きい家も小さい家も表側だけ二階をつくり、大きい家は棟を街道と同じ方向とし、小さい家は妻側を街道にむけていた。家の前面には庇をつけ、二階には格子窓があり、軒はセガイにするのが普通だった。
 自分の家は先祖からこの敷地に代々つづいているが、本町の街道沿の家で代々つづいている家は少ない。家の浮き沈みによって、所有者がかわったものが多い。つづいている家は農業をやっている家がある。また現在の各家の敷地間口も買い足して拡がっているものがある。昔の敷地は小さい場合で間口三間半、大きい場合で間口七間くらいだった。この家は大きい方だった。
 自分の家がある通の北側では、自分の家と西隣の赤浦屋、東の角にあった白木屋(呉服屋)が大きく、道路の向側では現在国道になっている旧曲角の塩屋(宿屋)、その隣の叶屋(現丹野武氏宅)(注)、西の角の丁子屋、その中間の鈴木屋が大きい方だった。
 本陣の建物は四四年か四五年前に取毀された。本陣は街道から二間くらい入ってたち、平屋で木羽葺であった。間取は表側に土間の入口と床の間のある座敷が二つあり、その奥に客間と茶の間があり、北に折れて勝手になっていたと思う。表の座敷は殿様が泊った所で、殿様が泊るとき祖父たちが御用をしにうかがったという。後にこの座敷で手習を教えたりした。脇本陣があったということは聞いていない。
(中略)
 松川町の家は土蔵が多いが、これは火事に備えたものといわれ、日常用具のお櫃まで夜になると土蔵にしまったという(旅館での聞取)。

..民家園注
 鈴木家によれば、現在は丹野喜美男氏に代替わりしているという。


(『日本民家園収蔵品目録13 旧鈴木家住宅』2010 所収)